第一六一話

 刻は半日程遡る事になる。


 暗摩の豊潤な霊脈の、その一等地は常に霧がかっている事で山の存在達には知られていた。


 霊脈の恩恵により温められた豊富な地下水が煮え滾っては彼方此方より染み出でて、大気は熱を持ち、その湿度の高い空気には濃厚な霊気を含んでいる。それは呼吸するだけでその者の傷を癒し、その者の身体を活性化させ、その者の生命力をも高める効果を有していた。正しく、恩恵の大地である。


 そんな地にて、その大地そのものを玉座として、彼の存在は客人を出迎えた。天狗共より簒奪した、そして元より己が鎮座していたその地にて打ち従えた有象無象を列べて、尊大に謁見する。


 翻れば客人は実に矮小だった。矮小で、卑屈で、小心だった。己から訪れた分際で、彼の存在を一目見るだけで地面にめり込まんばかりに土下座して、つらつらと此方をかしづくような口上をひたすらに述べて見せる。その額には滝のように汗が流れているが、決してこの地の湿度だけが理由ではあるまい。見れば装束も同様に、べったりと水気を含んで濡れそぼってしまっている事が見て取れる。


 肢体の丸みを浮かび上がらせる艶かしいその姿に屈伏させた者共が獣欲を滾らせて次々と唸り鳴く。数多の咆哮が重なり反響して、場を震わせる。


 ただ一柱、頂点たるその存在は静かに冷たく客人を見つめていた。冷たく、冷たく、己の熱に乏しい血肉よりも尚冷たく、眼を細めて凝視する。遥か頭上よりて、見下す。


 元よりも媚びへつらい恭しく述べられる言葉には何の意味もなかった。この者達の性については良く知っている。嘘泣きの嘘吐き共である。心にもない甘い虚偽を悪びれもせずに囁いて見せるような軽薄な連中だ。虚飾塗れの前置きには一銭の価値もなかった。


 故に唸り黙らせる。不興を買った事を理解して、べらべらとしておもねる無駄話を即座に止める客人。それは周囲の者共も同様に。


 彼の存在は寛大を自負していた。機微敏く最善策の行動を取った事で非礼を赦す。そして問い掛ける。この地に訪れた意味を。どうせ、予想はついていたが。


 その存在にも矜持がある。確かに彼の柱は強大だ。あの者は天上が同族共の中でも特に古く、そして新しく、その権能は正しく奇跡……しかしながらそれは自身もまた同じ事だ。


 かつてに比べれば見る影もなくとも、それでも心は対等の階位の存在であると自負していた。故にその風上に立つ事を認める事はなかった。出来なかった。許せなかった。その最終的な目的に微妙な差異があった事も理由であろう。あの者程己は潔くはない。


 だからこそ、曾ての勧めも断ったのだ。その意志は幾度かの代替わり擬きを経た後も変わらない。彼の存在はただ客人を追い出して、己の立場と在り方を証明するつもりでいた。


 そのように考えていた故に、次に客人が口にした言葉に彼の存在は思わず絶句した。


「何もない」そう、何もない。何も要望も、嘆願も、要求の一言すらもなかった。唯不干渉、それのみの求め……それはまさに晴天の霹靂であった。


 何故?長くも短くもない会話において初めて唖然として、満ち溢れる感情は困惑であった。

 

 この雑多な集いが昔から企てている謀は理解している。同時にそれを成すためには力が必要である事も……そして扶桑の地に散らばる玉石混淆の柱共の内で未だ己が特級の玉である事は間違いなかった。


 それを……何もない?一言すらも?馬鹿な。


 己の存在を、よもや其処らの取るに足らぬ死に損ないと同じだとでも思っているのか……!!?


 表情にも声音にも出さず、しかし思わず漏れた低い低い怒りの吐息。鳴き声。誤魔化し切れぬそれに、それだけで客人は失禁する事を堪えきれぬようであった。参列していた周囲の有象無象共……暗摩の地にて屈伏させた魑魅魍魎からの下卑た笑い声。怯えを含んだ忍び笑いだ。それらを冷たく無視して、彼の存在は更に問い質す。己を差し置いてこの地に赴いた目的を。


 そして知る。その存在を。百貌の人擬きの御気に入りを。狗共の手元にあるという厄災を。


 彼の地母神の因子に侵食されても尚人を続け、彼の蜘蛛神の祟りを受けて尚生を繋ぎ、彼の悪神の分体を打ちて尚心が折れぬという御気に入り……客人にとっての邪魔者にして己に向けた刺客の存在、それを知りて彼の存在は考え込む。そして思いを馳せる。


 同胞ではなくとも同族故に、伝え聞いた所業が何を意味するのか知らぬ訳でもない。だからこそ興味を惹かれる。そのような偉業を、あるいは悪行を成した者を。


 ……眼前の卑屈な客人の眼に一瞬嘲りの光が覗いた事に敢えて触れる事はなかった。この者共にとっては狡知卑謀は本能である。寧ろ前任者に比べれば可愛げがあるというものだろう。全く以て骨の髄まで度し難く救い難き獣共だ。


 間違いない。己はけしかけられている……さて、何処までが百貌の計略で、何処までが眼前の雌獣の一夜漬けの悪巧みか。構わぬ、些事である。そのような事はよもや詮なき事だった。


 元よりこの山狗共との間には浅からぬ因縁がある。最初に山程食ってやったのでそれで一応満足してやった。そして寛大にも服属を選択する猶予を与えたつもりだが……宜しい。ならばその希望を摘んでやるのもまた務めであろう。御礼参りである。

  

 ……それは正しく、己が己たる根幹の一側面であった。合理非合理関係ない。我は絶望の象徴。理不尽の体現者。そのようにあれとして世界より望まれ生まれ出でたのだから。


 故に宣告。客人の目論見に反する神託。再び反響する僕共の叫び。それを絶望顔で聞き入れる客人は、しかしその瞳の奥は嗤っている。


 ……全く以て、度し難い。


 だからこその余興の宣言であり、同時に彼の存在は客人を叩き潰していた。岩盤ごと抉りて磨り潰して、掻き消した。


 ……己の前で姿を見せず、「幻」なぞを遣わしたのだから当然の報いであろう。丁寧に警告してやる。次は礼を弁え真の肉の身で己が前に参じる事を。霧の内で震え上がる客人に向けて。


 ……神を試す事は許されぬ。神は常に試す側であり、試練を与える側であり、罰する側であるのだから。


 宣告に怯えきった牝獣に満足して、彼の柱は這いずり向かう。大地を震わせて、森を磨り潰して。悠々として赴く。


 ……さて。では件の刺客殿に挨拶しにいくとしようか?






ーーーーーーーーーーー

 事態は一方的で、絶対的で、絶望的であった。何よりも深刻なのは俺には何一つとして出来る事がなかった事だ。


「糞があぁぁぁぁぁぁっ!!?」


 回る。回る。回る。風景が高速で回転して、そして過ぎ去る。女の怒声が甲高く鳴り響く。轟音と共に土砂が、瓦礫が、草木が噴き上がる。視界の風景が激しく変わっていく。


 低空にて岩を、木々を、複雑な地形を縫うようにして突き抜ける赤坊長。時として翼を広げて己から失速して、物陰を利用して欺瞞して、旋回して軌道を変えて、必死に魔の手から逃れんと抗い悶える。


 背後から迫る巨大な「死」はそれに完全に追い縋って見せた。逃さぬとばかりに全てを打ち砕き追い回す。背筋の凍るような唸り声と共に。


 胴体の後ろ半分からが妙に膨らんでいる漆黒の大蛇は、風のように突き進む天狗をその巨躯からは考えられぬ速度で何処までも追い掛ける。あるいは追い立てる。


「糞、このままだと追い付かれるぞ……!?」

「分かってるわよ!!くっ……!?」


 俺の呼び掛けに赤坊長はこれ迄になく荒々しい声で応じる。応じながら高度を上げて行く。眼前には一際高い岩山がそそり立っていた。


「このっ……!?」


 岩山の表面を沿うように、旋回して回るようにして高度を上げる。大蛇はそれを追い掛けて、しかし追いかけっこに付き合うつもりはなかった。岩山に突撃するとそのまま打ち砕く。粉塵が舞う。岩壁が崩壊する。無数の瓦礫が散乱した。直ぐ背後に大蛇の顎門が目前まで迫っていた。


「甘いってんのよ!!」


 必死に高度を上げる女天狗の、まさに呑み込まれんとする直前に放った叫びは悪足掻きの断末魔ではなかった。


 直後に熱を持った無数の閃光が大蛇の眼前に広がる。切れ込みを入れていた袴の下より次々と投下されるのは天狗里お手製の閃光玉であった。霊鉄霊炭等を原料として、袴の内に無数に隠していた仕込み閃光玉が、チャフかフレアのように大蛇の視界一杯に光て満たす。怯んだ僅かな時間差が、天狗を顎による丸呑みから俺達を救った。そして……。


「これを使う!」


 直後、放り捨てた背中の荷が爆音と共に黒煙を撒き散らした。


 パンッ、と手を叩く音が鳴り響いて……。







「っ!?何が……」 

「しぃっ!静かにしてろ!」


 次の瞬間には何処かの大木の物陰に。困惑していると耳元に警告の囁き。直前までの事態を思い出して俺は息すらも止めんばかりに沈黙する。女天狗が隠行している事に気付いたのも理由だ。


 こいつは、もしや雛に仕掛けたのと同じ妖術か?


「……」


 此方が推測をしていると、俺を胸に抱き支える女天狗はゆっくりと物陰から観察するように顔を出す。出して、直ぐに頭を引っ込める。


 一瞬俺にも見えた光景。荒れ果てた山森。巨大な黒蛇の後ろ姿は遠方に。空には黒煙。辺りをちらほらと探索する……恐らくは黒煙は荷によるものだろう。どうやらアレは特大の煙幕らしかった。


 ここまでどうやって隠れたのかは謎だが……兎も角も危機は去りつつあると言えるだろう。


「尻尾巻いて逃げる……のも手だが、少し長居するぞ?奴がここまで来た理由も知りたいしね。猿、お前さんだって刺し違える相手くらい一目見たいでしょ?」

「……絶対、生き残ってやるからな」


 俺の強がりに額に汗を噴き出した赤坊長はそれでも不敵に微笑んだ。嘲りと感心が半分くらいずつの笑み。馬鹿にされてる気分だったが……今はいい。今は。


「ふん。なら精々この機会を上手く使いなさい。奴の観察をして少しでも攻略の糸口を探す事よ」


 そして女天狗は今一度、顔を物陰から覗かせて化物の様子を見る。


 視界を満たす、真っ赤で巨大な大蛇の眼球がそこにあった。


「っ……!?ばか、なっ!!?」


 直後にはけたたましい轟音。視界が再び忙しく回転する。気付いた時には急上昇中で、漸く直前まで俺達が隠れていた大樹が抉り潰されていた事を知る。


 大地を食い千切った黒蛇が此方を睨み付ける。


「糞ぉ!!?あの距離で察知してくれるなんてねぇ!!」


 辛うじて蛇の一撃を逃れての女天狗の叫び。空中で姿勢を立て直しての悪態。高く、高く、兎に角高く天狗は舞い上がる。距離を取らんとする。


「雲に隠れて、姿を眩ますわよ……!!」


 女天狗は俺に向けて策を口にする。ひたすら高く上昇して、雲の中を徘徊して蛇の追っ手を逃れんというのだろう。


 ……感情の読み取れぬ蛇の瞳に、嘲りが見えた。


「何か出すぞ!!?」

「っ!!?」


 予感。悪寒。警告。俺とほぼ同様にそれを察した女天狗が踵を返す。敢えて失速して降下する。直後に光の柱が天を、雲を、貫いた。


「ビームとか冗談だろ!?」


 顎を開いた蛇の喉奥から放たれたのは熱線であった。というかビームだった。ブレスなんて可愛いものではない。内閣総辞職しそうな破壊光線である。キィンという金属音のような音色を奏でて、光は周囲を薙ぎ払うように振るわれる。此方の急降下に反応して、光は一気に下方に向けられて俺と女天狗を消し炭にせんとする。


「ざけんなぁぁ!!!!」


 直撃直前、擦れ違うようにして熱線を回避する女天狗。それは正しく神業であった。しかし、無傷とは行かぬ。


「っ!?当たってないのにさぁ……!!?」


 堂々として御立派な鳥翼の、その片翼が明らかに焼け焦げていた。一部が炭化してその周囲が爛れている。


 全体で見れば軽微な火傷。問題は熱線に触れてもいないのにそのような有り様な事だ。放出される熱量だけで、羽毛として珍重される天狗の羽根は妖気もあって多機能で高性能、それででもこの有り様。直撃すれば天狗でもローストチキンでは済むまい。人間ならばいうまでもない。


「っ……!?来るぞ!?」

「分かってるてのぉ!!」


 警告の叫びを口にする。光の柱は未だ止まぬ。一度避けられてもそれだけだ。蛇は光を吐き出し続けながらグルリと首を回す。避けられた光の奔流は今一度獲物を呑み込まんとして迫り来る。


「人様の自慢の美翼を傷物にしてくれやがってぇ、蛇公がぁ!!」


 口では無謀な程に罵って、しかし天狗は狡知故に感情には流されない。思考は冷静に光線を見定めて、翻って避ける。避けて、今度は脚部が焼ける。


「あ゙あ゙っ゙……!!?」

「赤坊長!!」

 

 肌襦袢が焼けて、白い肌は剥き出しに、その剥き出しの肌が肌襦袢と同じ色に焦げ爛れて火傷していた。痛々しい傷口。残念ながらそれを労る時間も手当てする余裕もなかった。


「来る!!……斜め下に避けろ!!」

「っ……!!」


 太股を押さえて呻く女天狗に向けての指示。目元に涙を浮かべて苦悶の表情を浮かべる天狗は上下左右前後の空間認識を確認する必要もなく、俺の指示を完全に遂行して見せた。あるいは俺の指示以上の事をやって見せた。


 翼を狭めて、空気抵抗を抑えての急降下であった。猛禽類の狩りのための落下速度は時速百キロに達するそうだが恐らくはそれ以上の速度が出ていた事だろう。華麗に光線の射線を逃れて見せて、地表スレスレの所で一気に翼を広げた。急浮上。急上昇!!


「猿ぅ!!」 

「あぁっ!!」


 赤坊長の呼び掛けの意味を俺は冷静に察していた。引き抜く短刀は呪いの業物。眼前には既にその太ましい体躯が広がっていた。粘液の染み出した鱗に覆われた滑り気のある蛇の胴体。肉薄。俺は短刀に力を込める。


 忌々しい地母神から授かった力を込める。


「「死ねやこらぁ!!」」


 叫びは偶然同時に一言一句同文で、その胴体に刃は綺麗に突き刺さる。天狗がその胴体に沿うように高速飛行すれば引き摺られるようにして肉を裂いていく。鱗が相当に硬いのだろう、金切音が鳴り響き、激しい振動に短刀を両手で掴む。傷は浅い。しかし、確かに突き刺さっている……!!


「こいつ、殺れる、殺れるぞ……!!」

「面に向かうわよぉ!!」


 刃渡りが知れている短刀による傷は蛇にとっては薄皮を切られた程度でしかなく、確実に殺すならばそれは必須だった。脳天を砕いて中身を磨り潰すつもりでなければ化物殺しは安心出来ない。互いにそれは分かっていた。


 故の頭部への突貫であった。短刀で、あるいは手車で以て、仕留める。それは定石であった。当然の帰結だった。


 ……だから天狗の華麗な飛行技術によって蛇の横顔を間近に目視した瞬間俺は口元を綻ばせて、しかし赤い眼光は此方を認識しているのに全くの余裕であった事が不自然だった。


 どういう事だ?油断?傲慢?侮りか?いや違う。違うこれは……!!


「罠かぁ!!?」

「くっ!?」


 天狗が振り返る。眼前にいたのは筋肉の塊。振り下ろされるのは不恰好な野太刀。俺は短刀を構える。防ぐ。火花と金切音。受け止める。しかしっ……空中では衝撃は殺しきれない。天狗と共に背後に向けて一気に吹き飛ばされる!!


「今の、鬼だとぉっ!?」

「不味い!」


 闖入者の正体に驚愕する俺に続けて天狗の悲鳴。翼と手足で以て必死に姿勢制御しようとするが十分過ぎる隙であった。大蛇の振るう巨大な尾が急激に迫る。視界一杯を満たす。


「こん、のぉ!!」


 回避行動と激突は同時に。間に合わない。間に合い切れなかった。


 俺達は二人揃って弾丸と化した。風を切り裂き、轟音と粉塵と共に大木に叩きつけられる。


「かはっ!!?」

「がっ!!?」


 果たしてどちらがマシだったろうか?大木に背中からめり込んだ女天狗か、あるいは正面から大蛇の尾を食らった俺か。どちらにしても軽傷とは行かなかった。


「ぐ、ぁ……」

「不味い……来る、ぞ……!!」


 大木の幹にのめり込んで二人して呻いて、しかし蛇はそれを待ってやる義理も道理もない。顎をえげつない程に開いた。喉奥が黄金色に輝き始める。先程と同じ焼鳥光線だ。背後の天狗女の動きは悪い。昏倒寸前だった。逃れる術は最早なかった。


(妖化は!?間に合う、か……!!?)


 御約束の最後の切り札。しかし直感で確信する。俺が妖化し切る前に奴の光線は放たれる。何よりも俺は兎も角、背後の天狗女は……!!


「っ!!?」


 一瞬の迷い。光が正面一杯に照りつける。考える時間は無くて、手遅れで、俺は悪足掻きせんとして内なる呪いを解放せんとして……直後、光と俺達の間を一つの影が横槍を入れた。隻腕の烏の姿が映りこむ。


 黒鳥の少女が、光に向けて手を翳す。


「『仔護羽躱』」


 翳した華奢な掌が、極太の光線を防いだ。不可視の壁によって四散した光線が周囲の森の彼方此方を薙ぎ払う。


「何、者!?いや……!!」


 闖入者の行為、その出で立ちからして敵でないと仮定する。そして己の為すべき事を為さんとする。内なる怪物の力で以て、この蛇と刺し違えて……!!


「『止めなさい』!!」

「うおっ!?」


 放たれる言霊が俺の行動の自由を縛る。視線を向ければ光線を凌ぎきった隻腕の少女天狗が此方を見ていた。疲労困憊そのものの有り様で、汗だくになりつつも凄まじい速度で俺達に迫る。


「その力は、良くない。使わない事。分かった?」

「お前は、一体……!?」

「何やってんだよ……!!?大事な時に来ないで、何でこういう時に来るんだ……!!」


 闖入者の命令、困惑する俺の言葉に被せての赤坊長の発言。忌々しげに、腹立たしげに、苛立ちげに、彼女は吐き捨てる。


「……駄目?」

「ぐっ、くう……!!出張るなら、もっと早く出て来いよ……!!そうすれば、こんな!!っ!?」

「『仔護羽躱』……!!」


 赤坊長が悪態つく所に再びの光線。先程と同じ術が防ぐ。防ぐが……。


「くっ……!?」


 激しい熱の奔流に、少女天狗は苦悶の声を漏らす。伸ばした掌が押し返されそうになるのを必死に支えていた。


 其処に横合いから迫る、獣のような蛮鬼……!


「横から、来てるぞ……!!」

「っ!?『墜ちろ』!!」


 必死に上げた俺の警告に振り向いての言霊。ドンという音と共に落下していく怪物。恐らくは凶妖級を一言で言霊にかけたのはこの闖入者の格の高さを示していた。


 ……同時に直接的な殺害に類する言霊でなかった事は、闖入者の限界を示していた。


「っ!?防ぎ、切れない……!!」


 そして言霊によって隙が生じたのだろう。闖入者は一気に押される。伸ばしていた腕は少しずつ曲がっていく。震えていく。息が荒くなる。咳き込む。


「おい……!?」

「っ……!!『跳べ』!!」


 放たれた言霊は女天狗に向けられたものだった。強制的に身体が動く赤坊長。意志ある縄を振り投げる。縄が何かを捕らえればそのまま一気に俺と天狗をめり込んだ大木の穴から纏めて引き抜く。まるで跳ねるように。


 直後である。限界を迎えた少女天狗が光の射線から抜けるようにして逃れたのは。


 幾つもの大木を突き抜けて、岩山を吹き飛ばして、焼き払う。薙ぎ払う。それは殲滅の風景そのものだった。


『シュー……』


 口元から蒸気機関車のように白い吐息を吐き出した大蛇は、次の光線は吐かなかった。流石にそう何度も連続で吐き出せるものではないらしい。


 それだけが手札とは到底思えなかったが。


「……無事?」

「あ、あぁ……!?」

「扱いが、荒いな!糞……!!」


 跳ばされて、森の一角に荒々しく不時着して倒れ込んでいた俺と赤坊長に対する呼び掛けと返答だった。困惑する俺の返事に赤坊長の苦々しげな発言が続く。


「そう。良かった」

「良くないんだよ……!!はぁ、はぁ、畜生!!もう一度だ。もう一度仕掛けるぞ、猿!山を荒らしてくれた御礼参りだ!……アンタだって、手伝ってくれるでしょうねぇ!!?」


 火傷の痛みに震える足を立たせての、女天狗の宣言。俺に向けて、そして少女天狗に向けて、強引に同意を求める。同時に、微かな期待を込めて。


「駄目」


 ……それは少女天狗の、実に無慈悲な返答だった。


「っ……!!?どうしてよ!?ふざけんのもいい加減にしたらどうなの!?折角の機会を、あんたは……!!」

「自殺に、余所様を巻き込まない。……集まって来てる」

「っ!?虎の威を借りやがって!!雑魚共が!!」


 少女天狗の指摘に気がついて舌打ちする女天狗。俺もまた周囲を見る。大蛇の圧倒的な存在感で隠れていたが周囲に蔓延る無数の玉石混交、魑魅魍魎共の気配。


「こ、いつは……」

「山の糞共だ!散々媚びて貢いでいた癖に……あの糞蛇が出てきた途端これだ!!薄情連中め!!」


 森の彼方此方から忍び寄るようにして姿を現す異形の群れ。俺達を遠目に囲って嘲笑う。嗜虐的に、不躾に見下す。特に、天狗二人に向けては人一倍の悪意を。


「仕方、無いわね」


 少女天狗は俺達に背を向ける。そして一歩、二歩と進む。


「何を、する、つもりなんだ……?」

「客人の方には、心から謝罪を。楓花、貴女も坊長になったなら責任を持って元の所に御返しするように。……分かった?」

「逃げろっていうの!!?」

  

 息絶え絶えでの心外とばかりの叫び。そして恐れ、怯えの感情が滲み出ていた。それは俺が初めて見るこの天狗の感情だった。

 

「そう。早く、取り替えて。貴女は用意周到。備えはしている、でしょ?」

「っ!!?母様はっ!!?どうするつもりなの!!」


 女天狗は目を見開いて叫ぶ。悲鳴に、近い焦燥感に満ちた訴えであった。


 いや、待て。それ以上に……母様だと?


「私は貴女だけの面倒を見ている暇は、ない。分かる?手間取らせないで」


 苛立ちというより呆れ、諦念を感じさせる物言い。嘆息。俺はそこで思い出す。俺を監視していたであろう目付の天狗共の存在を。


 恐らくはこの絶体絶命の状況で息を殺し続けているであろう天狗共。俺達が死ねば次の標的になるだろう獲物……俺は眼前の黒く白い天狗の意図を理解する。その覚悟に息を呑む。


 妖の分際で、実に妖らしくない有り様であった。


「そんな、どうして……」


 弱々しげに、動揺し切った坊長の呟き。しかしそれを待ってくれる程周囲は優しくはない。そんな義理はない。


 鬼が躍り出る。それを先頭にして、包囲網が少しずつ狭まっていく。蛇は尊大にその様を見下ろしていた。


「早く」


「母様」の言葉に応じたのは雑多な化物で、ざっと一歩前に出る。迫り来る。


「早く!」


 先程よりも荒く今一度の叫び。また前に一歩。化物共の妖気が急速に強まる。一部が権能を使わんとしていた。


「早く!!」


 三度目は殆ど悲鳴に近かった。妖共が一斉に前に出る。前に出て多種多様な術を使おうとして、殴り殺された。蹴り殺された。翼で切裂かれた。瞬時に肉薄した「母様」による先制攻撃であった。嵐のように、突風のように、幼い外観の天狗は特大の暴風のように荒れ狂う。腕を振るえば袖口から刃を結んだ無数の縄が飛び出す。まるで有線式ミサイルのように怪物共の急所に突っ込み、あるいは複数を撫で切りし、あるいは縄に締め潰される。


 ……尤も、所詮一人の奮戦では、この妖魔の海を止めきれるものではない。


「坊長……!!」


 眼前の「母様」の姿に動きが止まる赤坊長。俺は「母様」の妨害を突き抜けて迫る妖共を見て叫ぶ。叫びながら短刀を構える。


「赤坊長!!ぐがっ……!?」

「っ!?『禽還羽』!!」


 俺の呼び掛けに女天狗は我に返る。同時に俺は目前の存在から受けた衝撃に呻く。そして、拍手の音が鳴り響いた。


 喧騒と咆哮と轟音は、まるで世界がひっくり返ったかのように消え失せていた。ぱたりと消える騒音。風景が一気に通り抜ける。そして瞬間的に其処に辿り着く。


「かはっ!」


 転移と共に俺は床に向けて豪快に吐血していた。転移の直前に食らった鬼の一撃によるものだった。完全に拳がめり込む前の、しかし確かに衝撃自体は容赦なく受けていて……。


「っ!?大丈夫か……!?」


 縄を解除して、膝を突いた俺を後ろから支える赤坊長。残念ながらどう考えても大丈夫ではなかった。


「肋骨、逝ったよな。何本か……それと、打撲も酷いな。はぁ、はぁ。そっちもだろ?お互い、早く手当てをしない、と……、な?」


 そして静かな部屋の中で、俺は項垂れていた顔を上げて偶然同室にいた稲葉姫と対面する。


 着替え中でほぼ全裸の稲葉姫と、御対面する。


「……」

「……二度目だけど?」

「は、はっ。……勘弁してくれ、なぁ?」


 淡々とした糾弾の言葉に、俺は嘆願の言葉と共に倒れ伏していた……。










ーーーーーーーーーーーーーー

 次に目覚めた時には布団の中で、傍らにいたのは割烹着姿の稲葉姫であった。


「……起きた?」

「……そう、でしたか。戻って来たんでしたか」


 一瞬唖然として、しかし直ぐに直前の光景を思い出す。


「着替え、見られた」

「気を失う前にも言いましたが勘弁して下さいよ」


 記憶の振り返りの瞬間を狙ったような稲葉姫の質問と糾弾に、俺は自身の頭を抱えてぼやく。ぼやいて、状況を整理する。


 糞蛇の襲撃が幻術の類いでないのは間違いない。この胸の痛みが何よりの証拠だった。此処に戻ったのは……恐らく天狗の力によるものなのだろう。直前に耳に聞こえた術名からしてその効果は大体予測はつく。


「あの、天狗女は……あぎっゃ!!?」


 立ち上がって、激痛に俺はひっくり返る。慌てて俺を布団に戻す稲葉姫。


「怪我、酷い。安静が先決。……アイツなら無事」


 俺を淡々と宥めて、最後は忌まわしげに答える姫。同時に部屋の障子が開いて件の人物が現れる。


「お?はは、起きたのか?……その分じゃあ、暫くは駄目そうだな?」


 所々に包帯をして即席の手当てをした女天狗の入室であった。嘲るような表情も、しかし今は何処か歪になっていた。


 明らかに、無理をしていた。


「……何れだけ経った?」

「半日くらい?」


 答えたのは稲葉姫である。糞蛇が襲って来た時刻から見て……今は夜中、か?


「有り難う御座います。姫」

「んっ」


 俺は先ず礼をして、女天狗に向き直る。そして問う。


「時間に、余裕はあるのか?あの糞蛇はあれから何か?」

「……おいおい。お前さん、まだヤるつもりか?」


 俺の発言に陰のある表情から珍妙な物を見るような顔つきに変わる女天狗であった。唖然と口を開く。尤も、それは俺もまた同様だ。


「お前さんこそ、驚くのは筋違いだろうが。……お前が始めた物語だろう?」


 人柱として巻き込んでおいて今更謙虚になるのは止めて欲しいものだった。誓約もある。やるならば最後までやりきるべきだろう。宿題を残せる程俺は呑気ではない。


「まさかと思うが……死にかけて怖じ気付いたのかよ?」

「何を馬鹿な」

「だったら教えろ。どうなんだ?」


 俺の畳み掛ける発言に、天狗は暫し押し黙る。そして答える。


「……私も今すぐに此処から離れられるような状態じゃなくてね。少し前まで手当てして貰ってた立場さ。だけど里の方が襲撃されたって事はないね。多分、使節団も。何もない。あの巨体なら暴れたら分かるわよ」

「それはそれで妙な話ではあるな。……あの襲撃受けた場所は連中の縄張りじゃないんだよな?」

「えぇ。つまり態々向こうから御出座しになったって事ね」

「偶然とは考えにくいな……」


 天狗の中に裏切り者が?いや、普通に従えてた化物連中に里に潜入してたのがいたのか?兎も角もヒットマンたる俺を始末しに来たって所か。今は放置という事は脅威として扱われていない?


「あるいは手負い?……いや、無いな」


 闖入者のあの隻腕の天狗は手練れだったがそれだけだ。到底単独であの状況を打開出来たとは思えない。糞蛇が弱っていると考えるのは甘過ぎる想定だ。


「取り巻き連中は幾分か始末しただろうね。けどそれだけだろうさ。引退して随分経つもの。もう昔みたいにブイブイとは言わせられないよ」


 女天狗が不愉快げに呟く。その歯切れの悪い態度に俺は意識を失う前の疑問をぶつける。


「確か『母様』……といったか?身内、なのか?」

「……人様の家庭事情に首突っ込むつもり?趣味悪いね?」

「私的な理由じゃないから勘弁してくれよ。お前さんの動揺具合を思えば知っておかないといざという時に困る」


 転移の術までに手間取った事を擦ってやれば舌打ちが返る。そして不機嫌な態度で答える。


「『母様』は『母様』よ。この暗摩の山の女王。里の長。私達の母様。……義理じゃなくて本当に血を継いだね。この里の天狗は私含めて皆『母様』の餓鬼よ」

「餓鬼」

「そう、餓鬼」


 そりゃあまた大家族な事だ。……いや、鳥が一度に産む卵の数と化物の寿命的には妥当なのか?


「……前、里の運営は坊長連中がしているって言ったな?天狗の嘘か?」

「言ったでしょ?『母様』は大分前に引退、隠居してるのよ。それ以来政には基本的に無干渉よ。……あの糞蛇が襲撃してきた時もね」


 其処で女天狗の態度に嫌悪感が溢れる。頭を掻いて、恨めしげに顔を顰める。顰めて、更に説明する。


 大蛇の襲撃……それに呼応するようにこれまで従えていた有象無象の化物共は離反して、長年暗摩の山の覇権を握り支配していた天狗の里は自分達の利権と立場を守るためにこれの殲滅を決断した。そして天狗の里でも有数の実力者たる『母様』に従軍を頼んだという。


 しかし子らの期待は裏切られる。母様から従軍は拒絶され、ましてや共存か扶桑国への支援要請のどちらかを選ぶようにと助言されたという。当然のように天狗の里はこれを拒絶して討伐隊は飛び立って……そして大敗した。貴重な神具と荒事に秀でた無数の手練れすら失って。


「自分の餓鬼共が山程食われても動きやしなかったんだ。それを……糞、何で今更出てくるのさ?今更出てきて、あんな事をさ」 


 その場で胡座に頬杖して、愚痴る口調には憎悪があって、同時に焦燥も見て取れた。これまでの何処か作り込んだような飄々とした態度とは違う、剥き出しの感情の吐露であった。少なくとも俺にはそのように見えた。


 これが演技ならば、もうどうしようもあるまい。


「……教えて。相手の戦法は?」

「稲葉姫?」


 殻継の姫の切り出した言葉に俺は一瞬唖然とする。そしてその意味を理解して拒絶する。


「姫様、いけません。私が行きます。ここで待機を」

「約束した筈。貴方が駄目なら次は私」

「自分はまだ死んでませんよ?」

「けど、戦えない。違う?」


 稲葉姫の指摘は鋭かった。俺の手傷は見掛け以上に内側が酷かった。稲葉姫から見て数日以内に復帰出来る状態ではない。己にお鉢が回って来ると判断するのは当然だった。


 彼女が知らぬだろう妖母因子は……しかし治癒能力は底上げされていても妖化していない以上は瞬間的なものではない。精神的疲労を思えば連発出来るものでもない。痛み止めの麻酔薬で無理矢理動くにも限度があった。戦闘の最中ならばいざ知らず始まる前から麻酔していては身体が持たない。


「……失礼ながら、稲葉姫の力量では不可能です。死にに逝くのが落ちですよ」

「契約は結んだ。守らないと。……駄目でも、時間稼ぎにはなる。違う?」


 己が死んでも、その時間で俺が傷を少しでも回復してリトライすればいいという意味であった。淡々とした物言いもあって、実に退魔士らしい発言である。しかし……。


「額に汗が流れてますよ。無理はいけませんね」

「……」


 緊張から噴き出た汗の粒は、彼女が無理して発言している証明で、沈黙はそれを肯定するものだった。


「死に急ぐ必要はありませんよ。それとも危険に身を置きたい何か理由でも?」


 脳裏に過る余り宜しく無さそうな家庭環境を思っての指摘は卑怯であったかも知れない。しかしむざむざ年下の女子を死なせるのはもっと始末が悪かった。ヘイトを向けられるのは諦める。


 どの道、ここで俺が折れたら糞鬼の失望制裁肉片コースだろうしな。


「……身体は?動くの?」

「手は、ない事はないですよ。……時間さえあれば」


 以前、鬼蜘蛛の巣穴での出来事を思い出す。今回の場合丁度よい呪具もあった。上手くいけば幾らかは身体に無理させられる。誤魔化せる……といいなぁ。


「……」


 稲葉姫は黙りこむ。それは承諾を意味していた。素直な事は良い事である。


「非礼を詫びます。ですが姫様では荷が重い。一鞘当てて分かりました。貴女では無理だ」


 それに、あの戦いを通じて策は思い付いていた。まだ具体的に詰める必要がある。賭けに近い。だが、上手くやれば…………!!


「……勤勉な事だね。成功しても破滅するのにやる気が有り過ぎない?」


 俺の態度に天狗は疑念を口にする。怪訝な眼差しは警戒心すら含んでいるように見えた。此方の情熱を訝しむ。


「契約解約して中納言様含めて無事帰してくれるならそれでもいいんだぜ?」

「少なくともそっちの牝より先に死にに行くのは理解出来ないわね。猿なんて、一瞬でも長く生きたいものじゃないの?そっちの腹に餓鬼でもいるわけ?」

「だから番扱い止めろ」


 稲葉姫の代わりに全力で否定する。そして深く嘆息。嘆息して……答える。


「姫様より俺は身分は低いし、年上だ。先に死ぬのが道理ってもんだ。それにお前さんと組むなら俺の方がマシだろ。違うか?」


 稲葉姫と女天狗がツーマンセルなんてしても愉快な事にはなるまい。確実に連携は崩壊する。お先真っ暗である。少なくとも稲葉姫には他の天狗と組んで貰うべきだった。この女天狗は俺が道連れ役であるべきだろう。死せば諸共である。……どの道あの化物相手ならば片方だけ生き残れるなんて幸運を超えた幸運だ。


「それに……」

「それに?」


 そしてその事を口にするべきか迷う。迷って、迷って、結局、素直に口にする。


「仲間や家族の事を思う気持ちは……理解出来るつもりだからな」


 雪音、故郷の家族。あるいは孫六達に御影達の事を思う。俺にとって糞蛇退治の数少ないモチベーションは皆に危害が及ぶ事を防ぎたいからだ。


 そして眼前のこの女天狗にとっても恐らくは……話が事実ならばこいつは眼前で何百という兄弟姉妹を食い殺された筈だ。そして今回は親までも。悪態は口にしても、節々に心配する感情は見て取れた。内心の焦りは相当のものだろう。気持ちは分かる。酷く分かる。


 同情と共感、化物相手に抱くべきではない感情。そしてこいつもそれを知った所で喜ぶまい。それでも……一度抱いてしまった感情は誤魔化せない。偽れない。


 ……あぁ、糞。絆されるなんてらしくない。


「……何だそりゃ」


 そしてそれは眼前の天狗も同意見のようで、俺の言葉に肩を竦めて苦笑した。そして観念する。


「自分で切り出した言葉だよ?お互い、地獄まで二人三脚と行くとするかねぇ?」

「……仲間外れ?」

「こんな碌でもない案件、ハブられた方がいいと思いますよ?」


 稲葉姫は此方に来るべきではない。良い子は悪影響受けずに育つべきだろう。


「酷い言い様だね。……まぁいいさ。其方がその気なら発案者としては最期まで介添えしてやるさな。自信満々に言ってくれるんだから、作戦やら対策やら、是非とも聞かせて貰おうかしら?まぁその前に……」


 憑き物が落ちたように緊張感を緩めた女天狗は稲葉姫を見る。そして要求する。


「炊事場で作ってる粥飯。早く持って来なさいな。こいつ朝飯吐き出してくれたからね。改めて腹ごなしさせてやらないと、ね?」


 序でに「私の分も持って来てくれていいよ?」とウインクして言ってくれる女天狗だった。ジト目で糞天狗を睨み付ける稲葉姫。睨みつけて、心底心底呆れ果てたように長く深い嘆息を漏らす。


「……ご飯、いる?」

「……温かい内に頂きたいものです」


 俺に顔を向けての問い掛けに、俺は一礼で以て応じた事に観念して再度嘆息した姫は「持って来る」と言って立ち上がった。内心で今一度謝罪して、俺はこれから先のスケジュールを脳裏で思い描いていく……。


 外に無数の妖気を感じ取った。


「っ!?」


 激痛に耐えて身構える。崩れかける姿勢を女天狗が支える。互いに顔を見合わせる。同意する。窓際に寄って、窓を覗いた。


 火の玉のように燃え盛る篝火が暗闇の中に無数に灯る……。


「こいつは……」


 目を凝らす。いつの間にか百を超える天狗共がツリーハウスを囲んでいた。その全員が刀を、薙刀を、錫杖を、弓を構える。式のように使役しているのだろう巨大な妖鳥の姿も幾つも見えた。文字通りに完全包囲されている。


「……一応聞くが、あれはお前さんの出迎えか何かか?」

「悪いが私らには軍勢でお迎えする文化はないよ」

「だろうな」


 俺の問い掛けに予想内の返答。其処は想像を超えて欲しかったな。


『赤坊組坊組長、真朱坊楓花!!其処にいるな?気配で分かっているぞ!!返事をしろ!!』


 軍勢の中より一人が前に出ての呼び掛け。それは実に厳しい糾弾するような態度だった。


「……呼んでるな。誰か分かるか?」

「青坊組の次席さ。……はは、嫌な予感がして来たね」


 二人で顔を見合せる。フラグの香りがした。とてもとても悪質な、最悪のフラグの香り。


『命令だ。直ちに其処に共にいる猿の刺客を差し出せ!!これは要請ではない。命令だ!!一刻も早く、連れ出して投降しろ!!母様と里のために、坊長としての最期の奉公、覚悟を決めて貰うぞ!!』


 青坊組の次席らしい天狗は宣言した。実に実に悲壮に満ちた声音で以て、契約に反する筈の要求を叫ぶのだった。









『天狗ノ里ノ者共ニ!我等ノ王ノ要求ヲ伝エル!!貴様ラノ愚カナ目論見ハ露見シテイル!無駄ナ抵抗ハヤメヨ!!』


『王ハ寛大ナリ!!貴様ラノ暴挙ヲ赦ソウ!五日後、王ノ下ニ皆揃ッテ恭順セヨ!!頭ヲ垂レテ約定ヲ結ビタマエ!!刺客共ヲ差シ出セ!!』


『容レラレヌ場合、捕エシ貴様ラノ頭目ヲ恥辱ノ果テニ処断スル!ソシテ貴様ラノ里ヲ徹底的ニ蹂躙シヨウ!根切リニシヨウ!』


『愚カナ半端鳥ノ諸君、ヨクヨク考エテ判断ヲ下ス事ダ!!』


 同時刻、天狗の里の議場では使者として遣わされた妖鳥が、まるで壊れた機械のように幾度も幾度も同じ文面を啼き続けていた……。

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