二〇二三年大晦日記念短編

扶桑国西土豊葦邦が美坂郡。其処の一角に区分される赤穂郷は豊葦邦において最も有望な霊脈の上にある、肥沃の地であった。


 内海とも近いこの郷の歴史は非常に古く、少なくとも千二百年前の資料には既にその地名が記載されていた。人口は本村を中心周辺に分村が八つで計二千人。長い歴史から郷外に大規模に移民した事例も多く、豊葦邦内だけでも赤穂郷から移住して建てた郷村が五つもの存在しており、未だに続く交流もあってそれらは事実上赤穂郷の飛地として扱われていた。


 そんな豊かな郷村を治める一族……それが郷名と同様の名を名字とする退魔士の旧家、赤穂家である。


「古いばかりで、そう大それたものでもないのだけどね」


 郷に続く街道を進む一団。その先頭を歩む青年は苦笑した。甘い美貌を湛える優男。上物の武者装束。烏帽子。腰元には鞘に納めた刀……赤穂家の有する十本刀が一本。


 赤穂家次期当主たる者に与えられる霊刀……刀名を『悪意地御護夜叉王丸』。携える所有者の名は赤穂誠一郎幸成と呼ぶ。間違いなく赤穂家当主の息子、その長兄であった。


「しかしながら、赤穂家と言えば西土の退魔士の名門。刀聖の血筋として歴代の退魔七士を数多く輩出した家でありましょう?謙遜は良くありますまい」


 背後から誠一郎の言に応じたのは朝廷の若い官吏であった。年の瀬、一族の伝統の儀式のために一時的に都から下る彼の目付役……というのは名目上のものに過ぎない。赤穂家がどのような家なのか、ある意味朝廷は理解し切っていたから、目付などと言っても完全に形式的なものに過ぎなかった。そうでなければこのような若造には任せまい。


「いやいや、そんな事はありませんよ。都で他家の方々と手合わせしていれば分かります。私はまだまだ未熟です。学ぶべき事は数多い。自惚れてはいけませんよ」


 寧ろ過小評価では?ほんの数日前の大名の隊列を思い出して官吏は思った。あの圧倒的な戦闘、否、駆除を見てからでは嫌味でしかない。尤も、本人の立ち振る舞いと口調故にその側面ではかなり緩和されてはいるのだが……それでも悪意ある者が聞けば反発されるかも知れなかった。実際、史書を遡れば前例がある。


 そして官吏はそれこそを危惧していた。監視が仕事なのに寧ろ心配してしまっているのは仕事として正しくないのだが……幸か不幸かそれを指摘する者はいない。同行する赤穂家の雑人二人は主君の言葉を有難く聞き入るのみであった。


「しかし、誠一郎殿は……」

「お待ち下さい。……気配がします」


 次期当主の謙虚過ぎる姿勢を注意せんとして、しかし直後にその発言は止められる。潜伏する何かの気配に感づいての誠一郎の警告に皆が足を止めて沈黙する……。


「よもや、妖ですか……!?」


 慌てる官吏。彼は都生まれの都育ち。生粋の都会っ子である。それこそ幼妖すら目撃した事がなかった。故にその怯えは一層酷い。逆に従う赤穂の家の従者、雑人二人は少しの恐怖もなかった。己が付き従う青年の元にいる事が何を意味するのか彼らは良く理解していたし、そも赤穂家のお膝元に野生の妖は無論、盗賊すらあり得ない事を知っていた。


 となると、その正体は……。


「ふぅ。やれやれ……困ったものだ」

「誠一郎殿!?……ひぃ!?」


 誠一郎が刀を納める。その姿に驚愕する官吏。そして街道横の茂みが揺れて官吏は怖気づく。揺れは次第に大きくなって、それは近付いて来て、そして……。


「うわーでったぞおー!!」

「うわぁぁぁ!?ぐへっ!!?」


 童女の叫びに動揺仕切っていた官吏は尻餅して転げた。そして……そのまま気絶した。


「……官吏殿?」


 誠一郎は斜め上の反応をした朝廷の役人に困惑するが、すぐに頭から飛び込んできた幼子を優しく受け止める。そして向き合った。


「久しぶりだね?元気一杯みたいで嬉しいよ」

「えへへへ……おかえりなさいませ、せいいちろうにぃさま!!」


 赤穂家当主の七人の子の、末の童女は屈託なき天真爛漫な笑顔で以て、困り顔の兄の帰りを出迎えるのだった。








ーーーーーーーーーーーー

「よぉ、兄貴。小役人様なら客間で唸ってるぞ?……意外と遅い帰りだったなぁ?道中で厄介事だって?」

「あぁ。燻嘴藩の一行が妖に襲われていてね、節介かとも思ったのだけれど助太刀をさせて貰ったんだ」


 それが赤穂家本家屋敷の広間における、本家長兄と次兄の再開しての最初の会話であった。因みに誠一郎は湯浴み後の部屋着姿で、胡坐を掻く次兄は手元に御猪口に摘まみ付きである。昼間から軽く一杯しているようであった。


「そんで藩主に姫様、家老一同に気に入られて城までご同行かい?随分と歓待されたんだろ?」


 次兄、赤穂悪次郎鋼成の揶揄うような物言い。漬物をぼりぼりと噛み砕く兄より背丈が高い筋肉質な男は幾筋もの顔面に刻まれる傷もあって、見る者を酷く威圧する。尤も、長兄に限らず身内は少なくとも今のこの男が欠片も悪意敵意のない素である事を理解していた。勿論、今の台詞にも少しも次兄には含む所は全くない。


「うん。働きに分不相応な持て成しに正直恐縮してしまったよ。粗相をしていなければ良いのだけれど……」


 城での三日三晩の歓待の記憶を思い起こして、心から次期当主筆頭候補は心配した。己の立場のためではない、折角持て成してくれた藩主一同に不快な思いをさせなかったのかを真剣に思っての事である。


「寝屋に忍び込んで来たのか?」

「夜遅かったから寝惚けていたのだろうね。どうにか誰にも見られずにお帰ししてあげられたよ。彼女の名誉を守れて良かった」


 それはもう何処までも紳士的に、美しい調べを奏でる声音での弁舌で彼は熱病に受かれる姫君をある意味で落ち着かせた。そしてその尋常ならざる技能によって全ての警備を掻い潜って、欠片も足跡も残さず目撃すらされず、姫を自室まで帰して見せたのだ。


 ……残念ながらその実力と人柄で一層姫君が恋病に魘されている事に彼は気付いていない。何なら彼は本当に相手が寝惚けて迷いこんだと思っていた。


「かっかっかっかっ!!そりゃあまた可哀想に。また兄貴の犠牲者が一人増えたわけか!」

「……?どういう事だい?藩主様からは襲撃による犠牲者は一人もいないとの話だったのだけれど、負傷した者の中に後日亡くなった者がいたのかい?」


 兄の何時もの結果に大笑いする次兄。長兄はその意味が分からず困惑して、挙句には彼にとって最悪の想定を険しい表情で尋ねる。それを見て一層大笑いする。


「なぁに。問題はねぇさ。あぁ、なぁんにもな?」


 次兄は敢えて何も教える事はなかった。この兄の事である。正直言っても信用しないだろうし、何よりも言わぬ方が面白かった。


「全く、何が何なんだか……そうだ。年始の文の方はどうだい?間に合いそうかな?」


 釈然としない表情で弟を見て、しかし直ぐに年末の大切な仕事について思い出す。年始挨拶の書状。所謂年賀状についてである。


「今、最後の追い込みを爺さんと薄三郎の奴がやってんよ。一両日中に送れそうな面子向けだな。……歳暮に続いてだからなぁ。やってられんよって爺さんが呻いてたよ」


 書斎での無間地獄を思い起こして次兄は肩を竦めた。


 礼は大事であるし、歳暮にしても年賀の書状にしても赤穂程の家となれば送る相手は百や二百では済まない。しかも赤穂家では右筆を出来るだけ使わぬ家訓があった。直筆でなければ誠意がない、という訳である。その癖汚い字では非礼という事でこの年末は大体一族の達筆な者達にとっては修羅場であった。


「厚四郎は使えないのかい?」

「アイツなら除夜の儀式の準備に駆り出されてるぜ。どうやら分相応の玉が足りないらしくてな。確保するために少し遠くに出てる。流石に儀式前には帰って来るだろうがな」

「そうなのかい?だったら文を送ってくれれば良かったのに」


 困り顔で長兄は語る。その話を知っていればもっと早く帰って来た。


「親父の命令だよ。遠方から戻って来たんだ。疲れてるだろってな」

「そういう父上が一番疲れてそうなんだけどね」

「もう会ったのか?」

「母上の仏壇に帰宅の挨拶をする時にね。一緒に帰郷を知らせたよ」


 そして父の顔を思い出す。寡黙で物静かな父であるが流石に年末の忙しい中で当主の仕事をこなすのは尋常ではないのだろう。目元には薄く隈が見えたし、疲労が見て取れた。


「次男はガサツで字は汚いしね……」

「俺はぁ……郷を守る役目があるからな?」

「だったら酒は呑まない方がいいと思うよ?」


 横の数本の使い切った徳利を見ての指摘。しかも昼間からこれである。夜にはもっと呑むだろう事も分かっていたので呆れるしかない。妖は神出鬼没かつ油断大敵である。郷の防衛の責任者として常在戦場の心持を持って欲しいものだった。


「六郎の奴は都残留……まぁ、アイツの事だからぁ、俺らがいなくても問題はねぇさな。吾兵衛の奴はぁ……まぁ、蕎麦喰う時くらいには帰って来るか」


 世渡りの上手い六男と放浪癖で飄々と生きている五男についても問題ない。一族の親族に師弟連中も同様に心配なかった。年末年始の騒々しさを今回も乗り越えられるだろう。……多分。


「せいいちろうにいさまー!」

「行けません、姫様!はしたないですよ!?折角御着替えしましたのに!」


 長男と次男が会話している所に愛らしい呼び声が響いた。兄弟揃って振り向けばとてとてと駆け足でやって来る血を分けた一番下のちびっ子の姿。着替えの途中みたいではだけた装束、しかも裸足だった。背後では数名の女中らが慌てて追いかけて、自分達の姿を見て恐縮して一礼する。その間に据えの妹は誠一郎の膝に滑り込んで潜り込んだ。


「これで、あんぜん!だれもおってこれない!」


 鼻を鳴らして誇らしげに、舌足らずの子供らしい勝利宣言。尤も、それを聞く女中達からすれば冗談ではなかったが。


「やれやれ、女中達を困らせるものじゃないよ?……何用かな?」

「みやこのおはなし!これおだい!」


 そう言ってせがみながら見せつけるのは餅であった。明日の節会の祝宴のため、大広間に置いてあった鏡餅を勝手に焼いたものである。因みにこれを発見した雑人達は今慌てて代わりの物を拵えている最中であった。栄えある赤穂の家の節会でそんな無様は許されない。


「あ、それ焼いちゃったんだね……」


 流石にこんがり美味しそうに焼けた餅を供えるわけにはいかなかった。最早引き返せない。


「だめですか?かたかったんですよ?」

「いや……うん。そうだね。有難う」


 意外と喜んでくれない兄を見て寂しそうな顔をする紫。誠一郎は女中達に謝罪の目配せをして餅を頂く。


「……そういや、明日の飯はどうだ?もう用意は出来てるか?」


 次兄は餅を食べる兄を見て、思い出したように女中達に尋ねた。


「は、はい!万事恙なく!鋼成様の好物の昆布巻は特に多めに!」


 慌てて、しかし自信満々の女中らの宣言であった。


「わたし、くりきんとん!まきたまご!こうはくかまぼこも!!」

「何時も世話をかけるね。楽しみにしているよ」


 紫が己の好物御節を元気に叫び、好き嫌いのない誠一郎は日々尽くしてくれる女中達に労いの言葉をかける。甘い美貌での微笑みに、若い女中はうっとりとして、年配の先輩方に肘鉄を密かに食らって正気に戻る。


「こほん。……雑煮については毎年の如く、醤油仕立てで宜しかったでしょうか?」


 年配の女中の確認。雑煮は地域によって大きく内容物に違いがある。都を中心に央土では白味噌仕立てで多めの里芋に鰹節を振りかける物が主流であり、それが風流で都会派としていた。赤穂家でも予算的に出来ない事はないが、敢えてこの家では田舎風味のある醤油澄まし汁に青菜に魚、肉も入れる形式である。全て赤穂の地の山海、そして農地の幸だ。それらの食材は赤穂家が領民から普段の数倍の値で仕入れていた。代々続く伝統である。


「構わないよ。去年は都で食べたけど……そうだね。彼方も悪くないけど、やはり地元の味が一番かな?」


 誠一郎の言葉に女中一同は深く頭を下げて礼を述べる。それに頷いて、そして視線を下ろして餅のように頬を膨らませた紫を目にした。


「どうしたんだい?」

「もちあげたのわたしですよ!にぃさま、ほかのひととばっかりはなす!」


 ブンブンと阿保毛を揺らしながらの糾弾。どうやら焼餅を焼いてしまったらしい。その姿に苦笑して謝罪する。


「ふぃ~。さてさて……俺はぁ、先に山に行くわ。兄貴は休憩しながら紫の相手しときな」


 最後の徳利を飲み干して、女中らに片付けを頼んで次男は立ち上がった。その意図を察して互いに頷く。


「にぃさま!」

「ははは、御免ね?そうだね、都でのお話だけど……」


 己を見ていない事に目敏く気付いての糾弾に、誠一郎は今一度精一杯謝罪して、洛中の出来事について物語始めるのだった……。








ーーーーーーーーーーーーーーーー

 除夜の鐘という慣習がある。


 人の百八の煩悩を祓うために、年越しに際して寺院の鐘を鳴らす習わしである。多くの寺社仏閣において欲望の権化たる妖を祓う意味合いもあって行われるそれは、この赤穂郷でも当然のように実施されていた。


 ……違いがあるとすれば鐘を鳴らす手段であったが。


『シャアアアア!!』


 山の頂。赤穂郷で信仰厚い清錬宗悪打寺。華美を廃した質実剛健な佇まいの寺院……そこで端整な青年が手を合わせる。眼前にはおぞましい妖。中妖。霊力濃厚な青年を睨みつけて、涎を垂らして襲いかかる。


「はぁ!」


 木刀で粉砕された。そして肉達磨になって回転する体は寺の鐘に吸い込まれて……。


 ボォォォォォォン!!


「……」


 三八回目の鐘の音であった。薄三郎は淡々と今一度合掌して頭を下げた。鐘の周囲では僧侶達が念仏を唱える。観客席では黄色い歓声が鳴る。赤穂郷における薄三郎派の娘達である。因みに政治的な意味での派閥ではない。


「良い音だな。……よぉし、次持ってこい!」


 悪次郎の宣言で赤穂家の分家退魔士に下人、雑人、赤穂流の弟子達が次の拘束済みの妖を連行していく。連れ出される妖は若干涙目に見えるが気にしてはいけない。


 赤穂家初代当主悪九郎の考案したこの伝統儀式は単純明快である。煩悩祓う百八の鐘の音色をぶっ飛ばした妖で以て鳴らすというものだ。


 彼女曰く、妖で行う事で人の欲望を確実に祓い、尚且つ赤穂家の退魔の努めを果たしている事を領民に近く明確に証明するためであるという。態々観客席を用意して見学自由な理由でもあった。


 ……本当は年末年始も刀で色々斬りたい彼女の言い訳からの始まりであるなぞという事はない。少なくとも今の赤穂家では初代当主の言を素直に信じていた。知らぬが仏である。


「おりゃぁぁ!」

『グォォォォ!?』


 暫くして咆哮と絶叫。そして鐘の音。赤茄子染みて潰れた獣妖の骸を念仏唱えて清掃する明鏡止水の極地に達した坊主達。但し鐘にべっとりついた体液だけはそのままにしておく。千年かけて無数の妖を叩きつけられた鐘は最早特級の呪具であり、唯人は無論、高僧に凶妖すら触れるのを憚る代物であった。赤穂郷に来る妖避けの意味合いもあって大抵の妖は鐘の気配を感じると全力に逃げ出したりする。


「中々良い音ですな。兄上」

「だろう?お前さんこそさっきのは良かったぜ?」

「肩が凝りましてね。憂さ晴らしを兼ねているのですよ。罰当たりだとは思いますが……」


 色白で学者肌にも公家の令息にも見える線の細い三男であり四男でもある青年の言であった。実際、流石に丸三日ずっと書斎で筆を握り続ける日々は堪えていた。


「けけけ。ご愁傷さんだな。お、今のはすげぇな!」


 鐘の音色と共に次男は驚いた。厚四郎の鐘打ちは中妖を使ったのだが勢い余って打撃と共に妖が爆発四散してしまったのだ。首だけが鐘に激突して散らばった。あちゃー、と頭を抱える弟。坊主達は特に驚く事なく掃除を続ける。


「全く、元気過ぎるな。あのような柔らかい手合いにはもっと手加減をせねばならぬだろうに……」

「足りない分捕らえるのが大変だったらしいからなぁ。アイツも憂さ晴らしだろうな」


 因みそれは生け捕りのために滅茶苦茶慎重に戦う必要があったという意味である。実際手加減に失敗して何十という妖が捕まえる前に肉片になっていたりする。妖からすれば良い迷惑だった。


「そういや、紫の奴は何時になったらこれに参加するんだ?来年か?」


 実際悪次郎がこの儀式に参加し始めたのは今の紫より一つ上になった時である。因みに誠一郎は三歳からであった。名門の退魔の一族では幼い内から戦いの術を学ぶ事が多い。妖を呼び寄せる自分達をせめて自衛せねばならぬからだ。


「その事だが……父上はアイツを普通の姫として育てるべきかと思案しているらしい」

「そりゃあ……まぁ、アイツが伯母上みたいになっても困るしなぁ」


 悪い意味で伝説である彼らの伯母、当主の妹にして鬼月家に嫁ぐ赤穂菫の悪名を思えばそれは相応に納得出来てしまう。


「そうでなくても紫を危険に晒すのは私としても余り喜べないよ。退魔の道は修羅だ。死後地獄に落ちても文句は言えん。紫自身が望まぬならば敢えて我らと同じ道を歩む必要はあるまい?」

「むぅ……」


 弟の言い分に悪次郎はぐぅの音も出ない。実際、妹は兄弟の中では最も荒事に向いていないように見えた。そして可愛い。唯一の妹という事もあって確かに言われてしまえば大事にしまっておきたくもなる。


「……その辺り、誠一郎の兄貴とも話さなきゃなぁ」


 今回薄三郎と交えた話、都にいた兄は知らぬであろう。なるべく早く、兄とも意見を交換するべきだと悪次郎は思った。


 夜の空に幾度目かの鐘が鳴った……。






ーーーーーーーーーーーーーーーー

「……ここは?」


 その部屋に足を踏み入れて、紫は困惑して呟いた。


 どうしてこのような所に来たのか。それは幼い末娘の怒りによるものだった。


 誠一郎の兄との夢中のお喋りの途中でうっかりと寝てしまい、いつの間にか部屋まで運ばれていた紫は涎を垂らしたままに憤慨したものだった。約束したのに、昼寝をしたからといは言え勝手に何処かに消えてしまうのだから当然だった。


 兄を探して屋敷を見て回る紫であるが……見つからない。忙しく仕事する女中や雑人達はちゃんと話に取り合ってくれない。再び憤慨して、其処に偶然に遠くの鐘の音を耳にして、紫はそれを思い出す。


 毎年行われる年越しの儀式。兄弟で自分だけはのけ者の、山奥での催し……そういえば悪次郎兄の兄ともそれらしき話をしていた。


 紫は兄の行方に当たりをつけるとこっそり山へと出向いた。山を登る。登る。登る。そして気付いた時には迷っていて、ふとその山奥に隠れるようにして作られた大きな地下道を見つけたのだ。


 興味関心を主力として、若干恐怖も抱きながら足を踏み入れて、しかし広い空間には何もなかった。いや待て、一つだけ……部屋の最奥にあった。檻があった。


 檻の中で同い年くらいの童女がいた。


「……」


 其処に駆け寄った理由は幾つかあった。純粋な好奇心。あるいは友達が少ない事もあっての同年代への関心。しかし何よりも……彼女は既に術中に嵌まっていた。


「貴女は……?」


 目の前まで来た所で檻の中の子供が囁くのは澄み切った冷たい声音。甘い美声。


「えっと……むらさき。あなたは?」

「わたし?椿よ。椿姫」

「おひめさま?」

「くすくすくす、それはあなたもでしょう?随分映えたお召し物ではありませんか?」


 小鳥の囀りのような笑い声は心地よかった。紫は次々と問うて、椿と称する娘は答えていく。趣味は?生まれは?好きな食べ物は?好きな色?どうしてここにいるのか?


 趣味はお手玉らしい。生まれは西土・揚秋邦。好きな食べ物は背開きの蒲焼で、好きな色は鮮やかな柘榴色。そして……。


「これは何かの間違いなのです。謂れなき罪で私は囚われてしまったのです」


 先程までの美しい顔を歪めて、袖で顔を隠して悲嘆する椿姫。話によれば地元で暮らしていた所を刀を扱う退魔の者達に酷く打たれて檻に閉じ込められて連行されたのだという。同じく家にいた者達は皆切り伏せられたとも。


「そんな……」


 それを聞いた紫は愕然とする。話が事実とすればそれはまさしく赤穂の家の者達によるものだったからだ。もしや兄達も……?いや、馬鹿な。


「そんなのしんじられません!うそをいってはいけませんよ!」

「分かっております。ですが事実なのです。きっと何かの間違いなのです。きっと、弁明すれば分かって頂けます。でなければ私はもしかしたら……!!」


 そして嘆き悲し姫。その悲しみ様は嘘に思えなかった。紫は心を揺すられる。


「で、でもどうすれば……」

「お願いします。どうか私を助けて下さいませ。どうかこの檻からお出し下さいませ……」


 それは必死の嘆願で、そしてそれを無視出来る程に紫は酷薄ではなかった。


「……うん。わかった。しんじますね!」


 故に、彼女は檻を内側から開いてしまう。相手の涙を信頼する。


 ……他の赤穂家の者達であれば、どれ程泣いて懇願した所で欠片も耳を貸す事はなかったろう。


「うううう……ウヒャハッハッ!!』


 姫君の皮を被った化物が、牙を剥いた。






ーーーーーーーーーーーーーー

 人の行きつく業の先。悪逆の末路。それが鬼である。


 生前、揚秋邦にて己の欲のままに悪政を敷いた公家の娘がいたという。己の贅沢のために、美の秘薬のために、美しさを保つために、何百何千という領民の命を奪った姫君。


 最後はその行いが目に余り、討伐軍が組織された。三百名の武者が都での裁判のために姫を連行せんとして……食い殺された。


 亡霊の賢者より手に入れた禁書によって、姫は怪物となり果てた。領民も武者も食い尽くし、鬼と化した姫は山奥へと隠れた。三百年余り前の事である。


 元白藤宮家、白藤宮の椿姫。揚秋の悪椿姫。椿の鬼姫……鬼椿。それが檻の内の正体であった。


「全く、鬼というのはこれだから困るね。性根がどこまでも腐っている。こんな子供を騙して食らおうだなんて……畜生そのものだ」


 腕の内に恐怖のあまり気絶した紫を抱いての誠一郎の言であった。山頂の寺に向かう途上に気配に気づいた。間一髪だった。間一髪で、間に合った。


「……父上。どうですか?最期の言葉は?」


 そして轟音と土煙と共にやって来る父を見た。刀の先にこびりついた脂と血を拭う剣士。赤穂家当主、赤穂長次郎重厳である。


「駄目だな。最後の最後まで呪詛ばかり。重ねた罪への懺悔は一つもなかった。やはり鬼は鬼だな」


 嘆息しながらの淡々とした物言い。凶妖を仕留めた直後の言葉であった。因みに戦闘開始から六秒での決着である。


「……紫はどうか?」

「怪我はありません。しかし……まさかあの檻を開けるとは」


 除夜の鐘を最後のトリを飾るために捕らえた特上の獲物、安全のために檻は内から絶対開かぬ特注品で、地下の出入り口には赤穂に仕える実力者の家人を配置していた。しかし、よもや厠に行っていた一瞬の間に紫が入り込んでいたとは……。


「常在戦場の気持ちで務めるように命じていたのだがな。後で叱りつけねばならぬな」


 一歩間違えていれば紫は喰われ、それだけなく被害が拡大していたであろう。切腹ではなく口頭での叱責であるだけかなりの温情であった。


「紫と、僕達の責任でもあります。紫は軽率でした。僕達も良く注意していれば……」

「それならば私もだな。もう少し娘に妖の性根というものを教えるべきだった」


 そして互いに深く反省。


「……どのような道を歩むとしても、自衛くらいは出来るようにするべきかも知れんな」


 ぐっすりと眠る娘の頭を撫でての父の呟きであった。無表情のままに、撫で続ける。寝込んだまま紫はそんな父の愛撫にむずがる。


「……そうだ。父上。問題があります」

「ん?」


 暫く父が妹の頭を撫でる姿を黙って見ていた誠一郎は、しかしその重大な事実に気付いてしまった。


「あの鬼は除夜のトリです。しかし……既に退治してしまいました。代わり、どうしましょう?」

「……」


 重厳は黙って背後の鬼の骸を見つめる。伝統的に最後の仕上げの鐘の音は凶妖を使う事になっていた。伝統は守らねばならぬ。静粛。瞠目。そして……息子の方に視線を戻すと重厳は口を開いた。


「紫を屋敷に。それとお爺様や倅達にも連絡を。……どうにか間に合わせるとな」

「はっ、僕も指示を果たした後にすぐに」

「うむ」


 その会話の直後に文字通り疾風となって消える二人であった。


 ……最後の鐘の音は無事赤穂の郷に響き渡った。哀れな何処ぞの凶妖については僧達が手厚く念仏を唱えて供養した事をここに記しておく。








「おぞうに!!ふー、ふー、はふはふ……んんんんっ!!?」

「姫様ぁ!!?喉ぉ!!?」

「誰か水を、早くくくくっ!!」

「駄目だ。吐き出せない!」

「……仕方無い。紫、許しておくれよ?」

「んん?……っ!!?お、うぇぇぇっ!!?」


 非常に蛇足であるが、末娘が節会にて窒息死しなかったのは前日に旗を折って幸不幸の釣り合いを取ったためであるのだが、その事を知る者は誰一人としていなかった……。

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