第一二二話

「ふざけよってからにっ!!」


 男は、隠行衆頭たる鬼月宇右衛門は怒声とともに手の内の茶器を握り潰した。


 世に知れ渡る名物とは言わぬ迄も、舶来の名品であるそれは軽く百姓一家が数ヶ月は食べるのに困らぬだけの価値があった。そんな高級な茶器が無残な音とともに畳の上に散乱する。中身の茶もまた同様。熱湯と茶器の破片で彼自身の腕も決して無傷な筈がないのだが……怒りに満ちたこの大男にとってそれは何らの意味も持たぬように見えた。


「全く……全くふざけておる!!未だに納得が出来るんわ!!」

「然り」

「いや、全くその通り」


 怒声に近い叫びが室内を反響する。遮音の結界と式解きの結界を室内に貼っているからこその暴言であった。盗聴の心配があればここまで堂々と言い放つ事は出来なかっただろう。宇右衛門の周囲を取り巻く客人達もまた、部屋の安全を確約されているが故にそれに同意して続く。


「上洛の人員に何故あの下人がおる?よもや他家に紹介でもするつもりか?『此なるは当家の家人扱たる下人である』とでも?ふざけよって!!恥を晒すつもりか!!ましてや何故儂の名が無いのだ!?都に顔の広い儂が!旅費の計算を全てこなした儂がっ!!?」


 一体、何度繰り返したやりとりであろうか?集いと共に始まる宇右衛門の罵詈雑言とそれを肯定する派閥の者達の会話。特に宇右衛門の憤怒は最早癇癪に近かったが、その理由自体は決して不当でなければ八つ当たりの類いでもなかった。正当ですらあっただろう。


 鬼月家による都守護のための上洛行。末端を含めれば総勢百名に上る大所帯……数月前に公布された同行者の一覧、それは宇右衛門のこれまでの全てを踏みにじる行いに等しかったのだから。


「全くです。よもや例年参加する宇右衛門殿が今回に限って……」

「一同、驚愕しておりましたな。いや、あれは寧ろ唖然というべきか……」


 そのように宇右衛門に同意の意を示すのは此度の茶会に呼ばれた同じく鬼月一族の、あるいは仕える家人や富農、誼の深い豪商の類いである。


 鬼月雛を次の当主に担ぐ、いや、鬼月雛を担ぐ宇右衛門に与する者共……。


 鬼月の次期当主たるを期待される姉妹、其々に味方する者達が一枚岩である筈もない。雛派の中でも宇右衛門を筆頭とした一派は単純な戦闘要員こそ少なくとも資金と世俗との人脈という意味では葵派やそれ以外の弱小派閥を遥かに凌駕していた。血筋で劣る雛にとって彼らの存在は大きな後ろ盾である。


「それを理解出来ぬ訳でもあるまいでしょうに……当主は何をお考えか?」

「長らく眠っておいでであったからの。呆けたのではないか?」

「有り得ん。御当主の知謀がかつてと遜色ない事はこれ迄の策略から明らかだ」


 茶会の出席者達は次々に上洛組を選んだ当主、鬼月幽牲の狙いについて冗談を交えて推察していく。しかし、謎は深まるばかりだ。


 眠りにつく前の当主が雛を当主にせんと画策していたのは良く知られている。それこそ手段も選ばずに……ならば何故雛派の一角たる宇右衛門にこのような仕打ちを?


「当主が我らを外しにかかっているとでも?」


 出席者の一人が囁くようにしてその疑念を口にした。客人達の間に漂う空気が凍る。粛清、いやまさか。しかし……。


「馬鹿な。それこそ有り得ん……そんな無茶が通るものか」

「事実一度ならず粛清があったではないですか?例えばあの羽山鬼月家等……それどころか噂ではあの二の姫をも直接手に掛けようとした等という話も……」

「分家の話は知っている。それだけでも容赦ないと思ったが……まさか二の姫を直接ですと?」

「その話は私も聞いた事があるな。しかしそんな事……」


 憶測が憶測を呼び、不安と未知が恐怖に結び付く。醸造された恐れが場の空気を支配していき、彼らは視線を向ける。恰幅の良い自分達の代表に向けて。


「……ふぅー。案ずるな。そんな事は有り得ん。いや、儂がさせぬわ」


 参列者達の懸念を払うように宇右衛門は答える。先程までの怒りを深い溜め息と共に吐き出して、頭を冷やしてから宣言する。


「兄者が……御当主がそのような事を出来ぬように根回しはしておる。その程度の事は想定の範囲内じゃ。何の不安もありはせん」


 それは虚勢ではなく事実であった。元より隠行衆を統率する身である。築かれた人脈と隠し持つ秘伝の情報は鬼月家内の他派閥、他家をも動かすのに足りる。仮に当主に梯子を外されようとも、仮に粛清されようとも、それを巻き返すだけの実力があったのだ。何よりも、宇右衛門はその事を常日頃より周囲に暗示していた。故に周囲が軽挙に走る事を抑止していた。己を排除せんとする跳ねっ返り共を牽制してきた。


 ……尤も、だとしても参列者達の不安を完全に拭い去る事は出来なかったが。


「……喉が渇いたな。そろそろ頃合いだろうて。最後にとっておきの茶を振舞おう」


 人形の式を使役して己の茶器の残骸を掃除して腕を手当てさせた宇右衛門は場の空気を変えるためにそう提案した。式が温かい茶を皆に振る舞う。己もまた受け取る。八代銘茶が一つ、「龍湖玉林」である。


「おぉ……これは八代銘茶ですな?」

「大陸の銘茶の筈。如何にしてお手に?」


 茶の香りと色合いで正体を言い当てたのは商人連中だった。残る参列者もそれを知ると先程までの不安も何処へやら。目の色を変える。具体的には瞳孔に大判が見えた。宇右衛門の一派は皆利に、金に敏い。ある意味でここで宇右衛門が秘蔵のこの茶葉を使ったのは英断であっただろう。利益が透けて見える限り彼らは宇右衛門を見捨てる事はないし、空中分解もしない筈だ。


「ふふふ。ある伝手からでしてな。まぁ、その話は今度の機会にでも……」


 勿体ぶってから宇右衛門は湯呑を手に取る。そして茶を一口口にして……顔をしかめる


「……甘味が足りぬな」


 そう呟いて、彼は傍らに置いていた茶壺に詰め込んでいた砂糖を匙で何杯も注ぎ込んだ。その回数が普段よりも多い事を、彼自身自覚してはいなかった……。




 



「では、此にて御開きを」


 お代わりの茶を味わい、今暫く謀議を交え、そんな閉会の言葉と共に集いは解散した。丁寧に参加者達に土産を渡して賑やかに笑いかけて見送った後、宇右衛門は一人茶室に残る。


 残って、一人黙って砂糖茶を嗜む……。


「皆様は、退席なされたのですか……?」


 ふと、鈴の音色のような幼い声音が響き渡った。宇右衛門がその声の方向に憮然として視線を向ければ、小さく引かれた障子の隙間からちょこんと膝立ちする姫君の顔が覗きこむ。


 己の後妻が、覗きこんでいた。


「……見送りに向かうとの事だ。ご機嫌伺いにいざという時の顔繋ぎといった所かの?強かな事だ」


 くくく、と冷笑する宇右衛門。あの手この手で利益を見せびらかして裏切りを防いではいるがやはり宇右衛門は自身に人望がない事を自覚させられる。所詮金だけの関係……まぁ、良かろう。その方が割り切りも出来るし納得も出来る。


「旦那様は……?」

「出ぬ。儂が先日の件で怒り心頭である事は知っておろうが!」

「ひっ!?」


 幼妻の問い掛けに湯呑みを乱暴な音と共に畳に振るい落としながら宇右衛門は答えた。思わず悲鳴をあげる小鼓姫。


 しかしながら、その迫力とは打って変わって行動自体は実の所単なるポーズであった。派閥の長として宇右衛門は粛清される危険を背負ってでも当主の上洛人員表に納得していないという姿勢を貫く必要があった。故に妻に向けた怒声もまた、別に本心からの怒りではない。それどこか、先程まで室内で吐き出していた怒りも半分位は演技が混ざってもいたのだ。


 ……半分は本音であるが。


「も、申し訳御座いません……!!」

「ふん。一々謝るくらいならば口にするでないわ。面倒な」


 夫の道化を理解出来ずに、思わず妻は、小鼓姫は肩を震わせて怯えながら謝罪する。それに対する宇右衛門の言葉は冷たかった。尤も、それは口調程の怒りはなかった。実の所困惑の方が遥かに比率は高かったのだが……小鼓姫がそれを知る由もない。宇右衛門もそれで良いと考えていた。険悪で、嫌われている方がある意味良かろう。


 ……いざとなれば離縁してこの家から逃がす事も出来るだろうから。


「……ふん。そんな事を聞くために此処に来たのか?んん?」


 己の脳裏に浮かぶ思惑を振り払って、宇右衛門は問いかける。嫌味を滲ませた言い方になっていたのは敢えてであるのか、それとも無意識によるものなのかは本人にしか分からない。あるいは本人すらも確信を持てていなかったかもしれない。


「い、いえ……別に、大した用ではないのですが……、その、御様子を見にと……」


 慌てて取り繕うように小鼓姫は言葉を紡いでいく。夫からは見えぬが、彼女は慌てて手にしていた蹴鞠を着物の袖に隠していた。己の呑気な考えを内心で叱咤する。彼女は自分が恥ずかしかった。夫は自分と下らぬ遊びに興じられる程暇でなければ御気楽な立場ではないのだから……。


「はっ。儂が早うくたばらんかの確認か?ご苦労な事だな」

「え?ち、違います!!?」


 冷笑しながら砂糖茶を呷る夫に向けて妻は殆ど条件反射的に悲鳴に近い否定の言葉を口にする。小鼓にとって、それだけは勘違いされたくなかった。彼女は夫の事を一度も疎ましく考えた事はなくて、ましてやその死を望んだ事すらなかったから。


 ……尤も、宇右衛門にとってはその金切音は逆効果だったが。


「取り繕わんでも良いわ。財布と思われようが儂は一向に構わん。元より借金の形としての婚姻であったからな。主の心情なぞ容易に想像がつくわ」

「旦那様、そのような事は……!!誤解です!私は旦那様をそのように考えた事なんて一度も、一度も、そんな事なんて……!!」

「静かにせんか、騒がしいだろう!!」

「ひっ……!!?」


 必死に夫の言を否定しようとする妻、しかし余りにも必死に過ぎて寧ろその叫びは宇右衛門の耳には不愉快だった。小鼓の声に被せるようにして叫べば、気の弱い妻はそれ以上何も言えなくなる。ただただ、怯えた瞳を向けるのみだ。


 ……宇右衛門にはそれが、自身の醜い姿を恐れているように見えた。


「……妻として、先程の動揺は落第点であるな。精進する事だ」

「……はい。申し訳御座いません」


 暫しの気まずい沈黙の後、宇右衛門が先ず口を開いた。腕を組んで指摘すれば、小鼓姫は俯き顔で頷いて応じる。その態度が己の顔をこれ以上見たくない故のものに宇右衛門には思えた。涙目を見せないためだと思いつかなかったのは彼女の声音が努めて平静であったためであろう。


 せめて、妻としてこれ以上夫にみっともない姿を見せたくなかった。小鼓はその一心で平静を装ったのだ。


「うむ。素直で良い。……そうだった。此度の上洛で儂は同行出来ん事になったが、その点は案ずるな。買い付けのための人員程度ならば用意しておるわ。文でも送れば買い込んでくれるであろうさな」


 宇右衛門の言は、土産物についての事であった。


 小鼓姫が嫁いで以来、過去二回宇右衛門は上洛に参加してその二回共莫大な調度品や化粧品、その他装飾品を買い漁って持ち帰って来た。単純に商人として、近隣の仕事相手に贈呈する袖の下としての意味もあったが、最大の理由は違う。


 己が美男子ではない事を理解していた宇右衛門は、かつてこの金のために家族に売られたような幼過ぎる妻を慰めようとして買い物に誘った事があった。其処で何の気無しに買い与えた装飾品に対する少女の無邪気なはしゃぎ様と言ったら……!!


 それ以来である。彼は何か用事があればその序でとばかりに大量の土産物を買い占めては与えてやるのが日課となっていた。他にどうやって少女の傷心を慰めてやったら良いのか、機嫌を取ってやれば良いのか、彼には全く以て分からなかったのだ。それ故にこんな解決法となっていた。


 ……尤も、どれだけの珍品や名品であろうと、どれだけの金銭を払って仕入れた品物であろうと、最初の買い物の時程にこの幼い妻が喜ぶ事はなかったが。


「し、承知……致しました」

「……宜しい。儂は茶会で疲れた。下がれ。休ませろ」

「はい。申し訳御座いません。……旦那様」


 宇右衛門の言葉に、何処までも恭しく小鼓は応じた。礼をしてから下がる。障子を戻して廊下を引き返す。嗚咽も漏らさずに泣き腫らす小鼓の事を、宇右衛門は想像も出来なかっただろう。それでも、妻が心底矜持を傷つけられただろう事は察しはついた。


「それがどうした……」


 愛情としては誤った手段である事は分かっている。しかし……どの道宇右衛門は眼前の妻から愛情を向けられるなぞ想像もしていなかったし、今は亡き前妻を思えば、仮に向けられてもそれを受け入れる勇気があるか分からなかった。


 だから、きっとこれで良い。此方がぞんざいに扱っているのだ。向こうも精々、己の財だけを見て好きにしてくれれば良い。あの幼妻には多くは望みはしない。前妻の後釜として彼方此方から金目当ての後妻を紹介されて来たのだ。その執拗な要望への言い訳が出来るだけで十分だった。


 何だったら、あからさまにしないのならば間男でも拵えたって構わなかった。どうせ歳も容貌も、釣り合わないのだから。


「くははは。いっそ、はっきりと言ってくれればやり易いのだがな」


 半ば空虚な空笑い。苦笑、冷笑、嘲笑……後妻の性格を思えば到底それは叶わぬ話であった。あの娘は、何時まで経っても割り切る事は出来ぬだろう。人を見る目、という訳ではないが幾つもの陰謀を企てる身である。人の表裏程度は分かる。あの娘は裏が少な過ぎる。然りとて、はっきりと表で主張出来る手合いでも無さそうだ。


「本当に、困ったものだ。……やりにくくて仕方ない」


 彼女なら……かつての妻ならばこんな気苦労をせずに済んだのだが。あれは良くも悪くも本音をズケズケと言ってくれる相手だった。当時は世辞すら言わぬ直球発言ばかりで随分と困ったものであるが、今はそれが酷く懐かしかった。


 今の、嘘と真実が混濁するこの一族の謀略の闇を思えばそれはまるで太陽のように輝いていて……。


「……無意味な事を考えたの」


 何れだけ懐かしんだ所で死んだ人間が甦る筈もなし。ましてや己が楯として利用している娘の事を思えば、そのような考えは余りにも非礼であろう……。


「まさしく、詮無き事か。さて……」


 そうして、宇右衛門は雑念を払い退けて腕を組む。真剣に、事態を熟考する。脳裏に思い浮かべるのは己を取り巻く状況。複雑怪奇な一族の派閥状況だ。


「さてさて。笑えん状況よな」


 冷静に冷徹に、こうして俯瞰して考えこめば宇右衛門は即座に己の立場がまだ恵まれている方である事を嫌でも知れてしまうのが悲しい話であった。あの小賢しい下人の悲惨な状況は今更言うまでもあるまい。


 それにもう一人……。


「あやつの方は、上手くやれるものかな?」


 宇右衛門は、同じく一族の縁者の青年の事を、大切な甥子の事を思って嘆息を吐いた。彼の苦労を思って、特にその心労の原因たる血気盛ん過ぎる忠臣の事を思って……。

 


 



ーーーーーーーーーーーーー

 宇右衛門の一派が不満を燻ぶらせて毒を吐いていたのはまだ紳士的であっただろう。あくまでもそれは身内の間での瓦斯抜きに等しい。別の一派に属する者達の中には、その怒りを堪え切れずに爆発させてすらいた。


 そう、まさに彼女のように……。


「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな…………!!」


 女は明らかに怒り狂っていた。その気品と貞淑さを思わせる美貌を般若の如く歪めて、淑女にあるまじき程に音を立てて渡殿を突き進む。呪詛を吐きながら猛進する。思わず擦れ違う女中や雑人らは、それどころか鬼月の一族の者すらも思わず竦みあがる程。


「おお、これは下人衆助職殿ではありませんか?」

「此度は実に残念でした……ひっ!?」


 中には無謀にも顔繋ぎのために声を掛けようとする者もいて、彼らは例外なく鋭過ぎる眼光で黙らされる。というか、主に宇右衛門の一派に属する者達であった。


「ふんっ」


 一睨みで腰を抜かした地主商人共を一瞥して鼻を鳴らして娘はさっさと彼らの間を抜けていく。碌に戦う事も出来ぬ守銭奴共と内心で蔑みながら。


 そんな事を二度三度と続けて漸く、彼女は其処に辿り着く。鬼月の広大な屋敷の一角。下人衆を取り纏める執務室へと。


「助職殿、今衆頭は……」

「煩い!どけ!!」


 入口に控えていた警備の下人を、払い除ける下人衆助職宮水静。彼女の頭の中は沸騰寸前だった。当然だった。これが怒らずに居られるものか……!!


「思水様!!やはり静は納得出来ません!!このような人事は……」


 殆ど叫ぶように直訴しながら、彼女は執務室に足を踏み入れた。同時に向けられる幾人かの視線に僅かに動揺して口に出しかけていた言葉を詰まらせる。


 視界に入るのは己の敬愛する主君、鬼月思水に幾人かの鬼月の一族の者達の姿……鬼月矢島に鬼月煙明。鬼月の分家の当主にして、所謂御意見番、年長組、家老。


「こ、これは矢島様に煙明院様……、と、突然失礼をば……!!」 

 

 彼女の動揺は、主君と共にいた者達の面子も含まれてのものであった。衣笠鬼月家と垣田鬼月家。共に思水の後ろ盾になった事がない分家だった。


 より正確に言えば一族の中でも相応に有力ながらも中立、長い物に巻かれて主流派に流れていく風見鶏とでも言うべきか。現当主が倒れるまでは消極的雛派。その後は長らく雛派でなければ葵派にもつかず、黙々と領地経営と退魔の職責を果たし続けていたかの家の当主が二人して、特に垣田鬼月家の当主なぞ長らく自領に籠っていたのをどうして……?


「……あぁ。貴女、宮水の家の所の娘さんですね?最後に会ったのは随分と小さい頃でしたので一瞬思い出せませんでしたよ?」

「え、あ、はぃ……?」


 静が困惑していた所に声をかけたのは垣田鬼月家の当主だった。鬼月煙明。煙明院。前々代鬼月家当主の従妹の子に当たる女当主。尼装束を着こんだ妙齢な分家の女主人……静個人は殆ど記憶に無い故にその発言は限りなく不意討ちだった。


 会話の主導権を、奪われる。


「あらあら。本当に善き淑女に育ちました事。武功も耳に聴いておりますよ?思水さんも御自慢でしょう?」

「……はい。退魔の職責を良く果たしております」

「あ、有り難き御言葉です……!!」


 煙明院の賛辞、それを肯定する師の言葉に、先程までの怒りと困惑は何処へやら。しおらしくなって恭しく礼を述べる。彼女にとって師に誉められる事は何よりも変えがたい福音であったから。


 彼女にとって師は、思水の存在は今の己を形作る全てであったから。


「ふふふ。それに素直な娘ですね。安心しましたわ。此度の上洛は例年よりも随員が多いとの話。本家の防備に不安があって足を運びましたが……静さんのような方が残るのであれば何の心配もありませんね。ねぇ、衣笠当主様?」

「全くですな。ですから態態老骨に鞭を打ってまで来る必要はないと申したのです。それとも、御孫殿の顔を見に来たのが本音ですかな?」

「あら、酷い。私がそんな不真面目とお思い?」

「煙明院様は、御孫殿相手にはまるで別人のように甘いと御評判でしたね」

「……そんなに私、態度に出ているかしら?」

「えっと……思水、様?」


 煙明院が心から安心した、と告げれば矢島や主君を巻き込み冗談を口にし合う。場の和やかな雰囲気に、静は話を戻す事が出来なくなっていた。彼女に出来る事はただただ所在無さげに視線を彷徨かせるのみであった。


 本来ならば雛派の一派たる隠行衆頭、その他一部の不満分子に便乗する形で彼女は欠席を主君に提案しようと考えていた。可能ならばそれらを寝返らせて弱体化空洞化して久しい主君を擁立する派閥を再建させようかとすら構想していた。しかし、この雰囲気でそれを言おうというのは……。


「……そろそろ出立の予定時刻だね。静、悪いが先に出向いてくれないか?私達はもう少し話をしてから出向くつもりだ。遅れるつもりはないが一応言付けを頼むよ?」

「は、ははっ……!!」


 思水の言葉を、静は否定する事は出来なかった。元より大恩ある主君の意見に対立するなぞ有り得なかったし、思水が職責名ではなく名で己を呼んだ事が彼女から最後の反抗意欲を削いだ。親しげに呼ばれたその名に静は感動すらしていた。


 こうなっては逆らえない。期待を裏切る事は出来ない。内心に思う所はあれどそれを圧し殺して静は恭しく一礼する。頭を深々と下げて退席し、主君の期待に応える。それしか考えられなくなる……。


「……あらあら。酷い変わり様。思水さん、もしや瞳術でも使いましたか?」

「まさか。そんな彼女は大事な部下です。浅慮に瞳術なんて使いませんよ?」


 静が退席して暫しして、先程までの温かみは何処へやら。冷たい空気を纏う煙明院のその訝るような言葉に対して、思水は普段と変わる事のない態度で答える。何処までも、誠実に応じる。


「部下ですか。彼女を預かると申し出たと聞いた時には私は相当驚いたものなのですよ?」

「親殺しの件ですか」


 鬼月家出仕、家人退魔士家宮水家。その三代目当主の娘に当たるのが宮水静だ。「毒手腐触の静」、あるいは「親殺しの宮水娘」……。


「あれは事故によるものですよ。確かに虐げられてはいたようですが、鬼子という訳ではありませんよ」


 宮水の一族は水遁を利用した探知の呪術を得手とする家系である。その繊細な術式は鬼月の一族の者を幾度も卑怯な奇襲不意討ちから救い出して来たものだ。


 幼少期の宮水静は、霊力こそあったがそれだけであった。宮水の血筋の受け継ぐ探知探査探索の術式を殆ど使いこなせなかった。余りにも大味過ぎるその術使いに叱責は無論、平手打ち、次第にはそれ以上の「躾」すらも……。


「確かに、逆上した直後に目覚めた力が殺傷力を追究したような代物だったのは不運でしょうね。あの時は相当荒れました」


 件の娘が眼前で己の父が腐り崩れて熔けていく様を凝視する羽目になった事は大した事ではない。少なくとも煙明院にとっては。


 それよりも遥かに問題だったのは熟練の退魔士であり、探知の道に関しては鬼月のその道の専門家にも引けを取らぬ手練れを突如として失った事であろう。それによる混乱は相当であった。宮水家は明らかに傾いていた。危機的状況だった。


「収拾には苦労しましたなぁ」


 当時を思い出して矢島が嘆息する。唯でさえ騒動が重なった慌ただしい時節であった。皆気が立っていた。


「一族からは罪状と危険性から随分と冷たい仕打ちを受けて……其処で思水さんが拾ったのでしたね?」

「折角の異能です。腐らせるのは勿体無い話でした」


『腐触』は数ある異能の中でも相手を殺すという意味では傑出した特徴を有する異能であった。触れただけで発動するそれは、しかも正確には触れた際に相手に纏わせた霊気が対象の構成因子に作用して自発的に腐敗させる代物だ。理論上はあらゆる存在、それこそ神格にすら通用し得る。これを放置するのは鬼月家にとって大きな損失であった。


「水遁と土遁の混合能力。強力なのは事実ですが本人が扱えなければ……実際、修行の最中にお怪我されたとか?」

「掠り傷ですよ。それにその甲斐あって今の彼女の功績があります。納得して頂けると考えておりますが?」


 思水の言う通りだ。宮水静はその異能を物にして以来、打ち立てた功績は父殺しの罪を補って余りある。今では面前として彼女の過失を詰る者はいない。

 

「ですが、無理に政治に口を挟むのは宜しくはなくてよ?」

「……」


 しかしながら、即座に切り返される尼からの指摘に思水は反論はしない。これだけは正論で擁護のしようがなかった。


「荒れる気持ちは分かるのだがなぁ。しかしだからといって事を荒立てるのも宜しくない」


 矢島は静の画策しようとしていた行動に同情しつつも否定する。確かに此度の上洛の人別表、どの派閥にも不満の残る内容だ。怒り狂う理由は分かる。しかし……御家の中で泥沼の権力闘争だけはご免被りたい。


「ただでさえ嘗ての騒動で分家の御家取り潰しまであったのだ。漸く安寧を取り戻そうという時に当主が目覚めたのは仕方ない。たがそれに乗せられて火に油を注いでも誰も得はしまいて」

「隠行衆頭殿が乗るとは思えませんが……」


 矢島の懸念に思水が意見する。不肖の弟子の目論見を看破するのは易く、この場に集う穏健派と裏で通ずる雛派の大幹部がそれに気付かぬ筈も、ましてや自派の者達を統制出来ぬとも思えないが……。


「隠行衆頭の一派はそれで良いとしても、一の姫の取り巻きはそれだけでもありませんわ。寧ろ、無謀な野心家も多いのです。目論見を利用せんとする者はおりましょう」


 尼の指摘は厳しい。本質が直情的な静の行動を狡猾に操ろうとしない者がいないと考えるのは楽観的だ。


「ましてや、二の姫を支持する有力者は居残りばかりと来ています。お陰様で屋敷内の勢力は不均衡……本当、要らぬ事をしてくれる当主ですこと」

「私も幾人かと接触しましたが……中々葵様の重臣は焦燥していましたな」


 毒づく煙明院の言葉に矢島が続く。上洛隊の同行者に雛派有力者を加える一方で葵派のそれは何とも質の低いものであった。逆説的にそれは屋敷に居残る連中の均衡も崩していた。担ぎ上げる神輿を敵地に置いているような葵派の有力者達からすれば焦りから何かやらかさぬ保証はない。


「御意見番様が残って下されば……とは言え、近頃は葵様に近過ぎるし、精彩も欠きますか」


 鬼月家御意見番鬼月胡蝶、長らく鬼月家の安定のために協同していた彼女との連携は、しかし近頃は齟齬が目立つ嫌いがあった。特に葵派に中立を謳うには近付き過ぎている所があった。それどころか彼らが居残りを求めたにもかかわらずに上洛の随員として……信憑性は不明であるが当主の独断ではなくて、寧ろ己から捩じ込んで来たという話もある。


「もしやとは思いますが……痴呆ですかな?もう良いお年ですし」


 顎に手をやって考え込み、ふと矢島は意見を口にした。近頃の御意見番の何の狙いがあるかも分からぬ動きの、その理由を予想する。尤も、煙明院からはジト目で返されたが。

 

「……それは私に対する嫌味でしょうか?」

「え?あ……ははは、まさかそのような事は……」


 件の御意見番より更に高齢の尼の慇懃な声に矢島は乾いた笑いで誤魔化す。直接己の事でなくとも女性に年齢の話は御法度であった。


「全く……思水さんは分かりますか?」

「残念ながら。……さて、話の続きは後程に。そろそろ我々も行きましょうか?」


 苦笑と共にやんわりと話を逸らしてから、日の高さを見定めて思水は意見した。


「ん?……あぁ、確かにな」

「はぁ……まぁ、今更何を言おうと仕方ありませんか」


 矢島も、煙明院もまた続くように空を見て、一方は納得したように、今一方は渋々とした態度でそして頷いた。


 鬼月幽牲を長とする、上洛団の見送りへと向かった……。







ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「では、いざ出立!!」


 先導する先触れの宣言。そして鬼月家の屋敷の門前に集う人と車は見送りを受けながら隊伍を成して進み始めた。


 刻は清麗帝の御世の一四年、皐月の一日の明朝頃の事である。北土の空は晴天そのものであった。

 

 皐月という時節は、その呼称から言うように田園においては米作の田植えが始まる頃合いを指し示す。春、凍てつく雪が溶けて田園の土もまた柔らかくなる。


 そうして扶桑の国の各所で百姓達は、それこそ普段ならば無数の下僕を顎で使っている地主や富農、一国一城の主という面をした中農、貧しい小農から銭雇いされている雇農まで、誰もが真摯な態度で稲の苗を田に植え込んでいく。自分達の糧とするために、そして年貢を納めるために。それが先祖代々続く、彼ら彼女らの日常であるが故に。


(俺も、本来ならば彼処に交ざっているんだろうな)


 牛車の窓を覗き見れば鬼月谷の山道、斜面に広がる棚田で農作業を中断して頭を下げながら隊列を見送る百姓らの疎らな姿。延々と続くそれらを見つめながら、俺はそんな事を思った。


 鬼月の屋敷に売られるまでは、それこそ毎年この時期は膝まで泥に浸かって必死に田植えに精を出していた。子供ながらに腰を痛めたのを覚えている。何百と植えた苗の大半が代官連中に持っていかれるのだと思うと正直うんざりしそうになったものだ。家に帰ると弟妹らに腰を踏んで貰ったか。おっさん臭いが幼い彼ら彼女らの重さは丁度良かった。


 今も家族は田植えをしているのだろうか……?


(親父は無理としても……まぁ、借りた土地じゃあないのだから母さんと上の弟だけでも出来そうだけど)

『(*´・ω・)ワタシノシラナイカゾク……』

(知らなくて良かったよ。というかちょくちょく怪しんでいたけど、お前人の心まで読めんの?)


 実の家族を家族宣言されなかった事に安堵しつつ、俺は改めて故郷の家の事を想う。機械化されていない農業は重労働だ。人手は必須であろう。以前雪音から聴いた話では農作業は母と次男が中心にしているのだとか。親父は内職と一部家事、三男の奴は郡司の所で働いているのだったか。自分の土地であるから昔程に年貢を取られる事は無かろうが……耕せる土地の広さを思うと雪音らの出稼ぎの仕送りは必要不可欠だろう。


「はぁ。詮無き事か……」


 手伝いに行きたいとは思っても、そも自分が売られた事で家族が窮地を脱した以上、それは有り得ぬ想定だった。そも、原作を知る身としても家人扱下人という立場からしても実家に帰って苗植えなんてやっていられる筈もなかった。


「どうしましたか?そのように疲れたような溜め息を吐いて」


 背後から響く甘い声音。振り向けば視界に映るのは艶やかな紫紺の長髪。鬼月菫、鬼月当主夫人が此方の背後に佇んでいた。


「夫人、これは……」

「貴方が唯の下人であった頃はいざ知らず。今や家人扱の傍仕えの身の上。そのように有象無象の下っぱの頃と同様の立ち振舞いはお止しになって下さいな。周囲に要らぬ心配をかけますよ?それは貴方を取り立てたあの人の評判にも……分かりますね?」

「はっ。申し訳御座いません」

『(´・ω・`)チュウカンカンリショクノヒアイ……』


 菫の叱責に、俺は深々と頭を下げて謝罪する。馬鹿蜘蛛にしては微妙に良い線の戯れ言であった。尤も、俺にあるのは悲しみよりも怒りであったが。


(全く、いけしゃあしゃあと言ってくれる……!!)


 内心で罵詈雑言の嵐を吐き出す。取り立てる?名誉職に押し込んで人の手足も発言力も奪っておいて良く言う……!!


「……あら、意外と元気はあるようですね?それは結構」

「っ……!!ははっ」

『((((;゜Д゜)))ナ、ナンノコトカシラッ!?』


 俺の内心を見透かしたのか、あるいは面から覗く視線から読み取ったのか、唯の鎌かけか、菫の指摘に内心動揺しつつも俺は唯そのように返答した。互いに化かし合いだな、これは……!!


「……」

「……それにしても、娘達もつれない事。折角なのだから同じ車に乗れば良いでしょうに。思春期というものでしょうか?」

『( ・`ω・´)ワタシノイモウトタチハハンコウキミタイヨッ!!』


 俺と夫人、双方の間に暫しの沈黙が流れた後、物見窓をちらりと見つめながらそんな事を嘯く菫であった。悪びれる訳でもなく、他人事のように、宣う。続いての蜘蛛の言葉?知らんがな。


(笑える事態ではないしな……)


 此度の鬼月の上洛隊は、末端の人夫まで含めればその総数は軽く百人を超える大所帯だ。故に用意された馬車牛車の数もまた十数台を数える。内六台が『迷い家』と化した物であり、それは鬼月家の所有する『迷い家』化している車の半数にも及ぶ。


 当主夫妻と姉妹が其々に、御意見番が白若丸と環達を相乗りさせて一台、紫の一行にも一台。そしてそれ以外の一族衆と家人らに一台……当初は姉妹も当主夫妻共々同じ車に、という意見もあったのだが……姉妹双方が反対したためにその案は敢えなく破棄された。


 葵からすれば己の死刑執行書に判子を押すようなものなので抵抗の理由は分かる。雛の方は何とも理由は窺い知れない。あるいは此方に関しては本当に思春期かも知れない……思わずそんな下らない思考が脳裏に過った。


「……そろそろ、合流地点となりますね」

『(´・ω・`)?ナンノ?』


 流れ行く鬼月谷の光景を見つめながら俺は端的に事実を伝える。丁度その直後の事であった。谷を抜けたその先に数多くの車と人の影を見出だしたのは。


 その中心に、橘の家紋が刻まれた一際大きな牛車が護衛に守られながら鎮座していた……。




ーーーーーーーーーーーーーーー

 扶桑国朝廷が要請した上洛とそれに付随する朝廷守護の役の延長と人員増。唯でさえ負担の重い上洛に更に費用を上乗せさせんとする朝廷のその態度に不満を抱かぬ退魔士家なぞ存在しない筈もなかったが、同時に朝廷の持つ力と近年度重なる異常事態からそれに公然と反発する事もまた、有り得ぬ事であった。


 とは言え無い袖は振れぬものであり、多くの退魔士家が金策に奔走し、中には悪徳な高利貸から借財する羽目に陥った家もあると聞く。そうでなくても伝を頼って様々な者から人物金を掻き集める事となった。


 まぁ、金の切れ目が縁の切れ目ともいうが……お金のトラブルで騒動となった家もあるらしい。


 そんな中、元々北土名門三家の一角として直轄の領地や荘園からの収入が膨大であった鬼月家は、しかも宇右衛門の手腕で更に多くの財を成していた。それ故に国からの突然の要望に応える事は出来たが……故にこそ追い詰められて悲壮感漂わせて頼る他家の数は多く、しかしながら鬼月といえども流石にその全ての費用を用立てするのは不可能だった。


『迷い家』討伐で得た褒賞はオマケのようなもの。上洛に必要となる大部分の費用は鬼月家が支払った。そしてその現金を拵えたのは橘商会である。橘商会北土支店。橘佳世の判子によって契約された無利子二十年分割支払い決裁である。


 宇右衛門とゴリラ様の口添えによって為されたとされるそれは、同時に橘商会にとっては投資であった。鬼月を筆頭とする各家に対する顔合わせ、伝作り。必要とする品の多くもまた商会から優先して入手する手筈となっている抱き合わせ契約であり、上洛に合わせて都の倉庫に向かう大規模な輸送隊も同行させていた。近頃は妖や盗賊の被害が多い。護衛費の節約だ。


 こうして鬼月谷の外に広がる街道を待ち合わせ場所として揃った上洛組の一群は退魔士家が計一二家、車が合わせて七十台を超えていて、人員もまた七百人に達していた。これに守られるように商会の車が百台余り。卸者や護衛が三百名余り。これ等を合わせた長蛇の列は一里の長さでは済まない。


 まさに大所帯。盗賊共は先ず近寄ろうとはせず、妖共とて無数の退魔士の前には襲いかかる前に殲滅される。というか実際数回襲撃しようとしてきた妖の群れが即座に壊滅していた。まさに安全安心の旅である。


 ……問題があるとすれば余りに大所帯過ぎるために上洛までの日数が掛かる事、そして道中の受け入れ先の旅籠や街に苦労する点であろうか?いや、宿泊予定の旅館からすれば予想外の大仕事に金儲けの機会と喜んでいるかも知れないが……。


 そして上洛隊の一団は初日の宿泊先へと辿り着く。北土が土都たる白奥から都に続く北陸大街道、その道中に設けられた浅衣の街にである。


「荷車は全部北の留場に回せ!そうだ、全部だ!!」

「事前に伝えたが全員分の部屋なんてないぞ!!籤を外した奴は屋根裏と廊下だ。文句は聞かんぞ!?」

「牛馬に食わせる干し草が足りない?馬鹿言え。事前に発注しておいただろうが?妖の被害で遅れた?ふざけるんじゃない!!此方は金払ってんだぞ!?何とかしろ!!」

「人夫共が街の警羅と騒ぎだと?冗談止してくれよ……何処の家が雇った連中だ?早く雇い主を呼んでこい!!」


 牛車から降り立った俺の耳に矢継ぎ早に響き渡るのは正しく喧騒そのものであった。『( ^Д^)マルデオマツリミタイネ!!』気楽にいってくれるな、おい。


 ……それ事態は異常な事ではない。人口五千人余りの街に千人以上の人間が転がりこんでくれば混乱が生じるのは当然のように想定されていた事態であった。想定していたが……。


「……」

『(* >ω<)コラー!ミツハダメナノヨッ!!』


 蜘蛛は兎も角、俺すらも卒倒しそうな程の混乱の嵐。本来ならば俺は下人衆允職として……頭と助職はこの上洛に参列していない……この混乱の収拾のために動いていた筈だった。尤も、当主の御傍付きとなった立場上最早それは出来ない。下人衆の連中には自分達でどうにかして貰う他なかった。


(一応、事前にある程度マニュアルは作ってはおいたが……)


 いつ食い殺されるかも知れぬ身の上。元々允職に伝わっていた引き継ぎ用の手引き書に、自分が加筆修正した物を年長組の幾人かに写本して手渡していた。ざっくりとある程度の説明もしておいたが……所詮マニュアルはマニュアルだ。全ての状況を網羅している訳でもない。後は彼ら彼女らの応用力に期待するしかなかった。


「さて、と。宿の方は彼方か……」

『(*>∇<)ノパパトノリョコウ!』

「いや、違うけど?」


 街の混乱。酷い交通渋滞の中で荷車だけでなく鬼月家貴人用の牛車もまた本来の目的地から随分と離れた道で止まってしまった。俺は当主の代理としてこの喧騒の中で旅館宿に来泊の遅れを伝える役目があった。料理を作るタイミングがズレたら旅館の沽券に関わる。先方に恥をかかせる訳にもいかないので、人垣を掻き分けて俺は街の宿場にまで……って。


「……佳世様。御一人で何故此方に?というかどうして背後から御近づきに?」

「あはは。バレちゃいましたか?」

『( ・`ω・´)ケモノハカクレテイテモニオイデワカルゾ!!』


 振り向いて問い掛ければ、いつぞやの都遊覧の時の事を彷彿させる、白い垂衣を縫い付けた市女笠を被った少女が其処にいた。垂れ衣の隙間から覗く美貌は、誤魔化すように幼く笑っていた。十人いれば九人までは嘆息する砂糖菓子のように甘い笑顔。


 ……いや、バレちゃいましたかじゃねぇよ。何処ぞの世界的殺し屋なら今頃死んでたよ?というか貴人が一人こんな所で何してんの?立場考えて?


「というよりも……よくも此処に来る事が出来ましたね?御傍付きの者達が許可したとは思えませんが?」

「先程まで葵様の車に居りました」

「それは……成る程。そういう事ですか」

『( ・`д・´)ナヌッ!?ドウイウコトダッ!?』


 理解力の低い蜘蛛に教える訳ではないが……何処かの段階でガワだけ似せた式神とでも入れ替わったという事である。いやはや、其ほど長くは誤魔化せないだろうに、危険もあるのに良くやる。


「一応此方の外套も頂いておりますし、それに護衛もいますよ?」

『(*´∀`)ノワタシニハバルムンクフェザリオンガイルワッ!!』


 そういって手に持って見せつけるのは俺にも馴染み深い認識阻害用の外套。恐らく直前まで着込んでいたのだろう。となると護衛というのは避役、澄影の事か……バルムンクフェザリオン?あの馬鹿蜘蛛、釘の名前また変えたのかよ?


 ……鬼月葵の使役する三体の本道式が一つであり避役という種族の妖である澄影は、作中でも上位に食い込む隠行に長けた存在である。しかも勾玉同様に、澄影に触れた存在もまた、澄影が認めた場合その権能の恩恵を受ける事になる。下手すれば此処に来るまで誰も彼女の存在を知覚出来なかったかも知れない。


「……成る程。最低限の安全確保をしているのは理解しました。ですが危険な事は変わりありません。どうぞお帰りを。お見送りは必要でしょうか?」

「もう、つれない方ですね!折角私が来たのですからもう少し御相手して下さっても良いでしょうに!」

「そういいましても……っ!?取り敢えず此方に……」

『(;^o^)グフフフ、オジョウサンチョットコチラニイラッシャイ!!』


 荷車や人夫共が行き交う中で何時までも彼女を通りに晒すのは宜しくない。俺は彼女の手を掴んで路地裏に引っ張りこむ。ちょっと馬鹿蜘蛛は変な事言うの止めてくれない?


「あっ……!?」

「少し乱暴だったのはお許しを。……痛かったでしょうか?」

「いえ。大丈夫です。……強引なのは嫌いじゃありませんし?」

「何を言っているのですかね……」

『(*´ω`*)パパハワイルドスピード!』


 俺の質問に、掴まれた手首を撫でながらからかうように佳世が答えるので俺は思わず呆れ果てる。商談には弁舌が不可欠で、ユーモアは弁舌の大切な一要素であるが……残念ながら俺には彼女の冗句が分からなかったし馬鹿蜘蛛の戯れ言に至っては理解したくもなかった。


「それは当然です。冗句ではありませんし。伴部さんは駄目ですね。そんなのでは上手く女性をたぶらかせませんよ?」

「たぶらかす予定が無いので結構です」


 俺はお高い酒を飲ませる水商売はしていない。


「それは残念です。伴部さんが御相手して頂けたら私、どんどん高い瓶開けちゃいますのに」

「喜ぶ事ではありませんね」

「……本当にそう思いますか?」

「ぁ……!?」

『(*ノ▽ノ)キャーダイタンッ!!』


 そういった刹那の事だった。俺の手を引っ張ったかと思えばそのまま身体を引き寄せてさらりと俺の直ぐ目と鼻の先にまで顔を近づける南蛮娘。余りに自然な所作故に俺は咄嗟に反応する事が出来ずに肉薄される。佳世の翡翠色の瞳に俺の面が映し出される……。


「……佳世様?」


 取り敢えず取り繕うように俺は彼女の名を呼んだ。彼女自身の美貌と妖艶な幼さに心臓が高鳴っても可笑しくはなかったが……馬鹿蜘蛛のお陰で一周回って頭が冷静になれるのが救いだな。


「御傍仕えに任じられてから、葵様に対する態度が冷たい御様子ですね?一体如何なる理由によるものなのですか?」

『(*゚∀゚)ソウヨッ!オシエナサイ!!』

「……」


 佳世の質問に、その『行動』に、俺は沈黙した。そして脳内ではその意味を考察し、答えを導き出す。あぁ、成る程そういう事か。


「大商会の一人娘を御使いにするとは、中々豪胆な御方ですね、姫様は」

「話を逸らすのは失礼ではありませんか、伴部さん?」

『(*´ω`*)パパハカタヤブリナオトコ!!』


 俺の返答とは言えぬ返答に商人は目元を細めて囁いた。口元を吊り上げて、妖艶な眼差しで俺を見つめる。見透かす。観察する。


「今の私は御当主様の直轄の家臣です。葵様の部下ではありません」

「乗り換える、という事ですか?」

「……姫様と御当主様。どちらを優先するべきか、言うまでもありません。そうでしょう?」

『(*>∇<)ノワタシネッ!』

(違うからな?)


 橘佳世の……いや鬼月葵の追及に向けて俺は淡々と答える。無機質に、義務的に、無感情に。内心では突っ込み入れたけど。


「……成る程、そういう訳ですか」


 俺の返答をどのように解釈したのか、兎も角も佳世は一人で納得したように顔を離す。


「伴部さんのお考えは大体分かりました」

「大体ですか……勘違いしている可能性もありますよ?」

「細かい所は流石に……心を読める訳ではありませんから。ですけど伴部さんがどういう御方かくらいは分かっていますし、それが変わらない事は分かりましたから!」

『( -∀・)ケドイチバンノリカイシャハワタシヨ!!』


 そんな事を嘯いて、にこりと天真爛漫に笑みを浮かべる南蛮娘であった。残念ながら、彼女の認識は過大評価だ。買い被りだった。色眼鏡だった。


 彼女の知る俺は、少なくとも人殺しなんて計画はしていないだろうから……。


「あ、そうそう!!伴部さん。都に到着したら何時でも良いので別荘にいらっしゃいませんか?」

「ん?はい?……別荘?」

『( ^Д^)バカンストナ?』


 陰鬱な気持ちに沈んでいた所での佳世の突然の提案に、蜘蛛の謎解釈は置いておいて、俺は反芻の言葉を口にしていた。佳世はにこりと微笑んで説明を始めた。


「はい。都の外れにあるのですが……」


 都からも見える周辺の山々は官軍の砦やら寺社仏閣やら退魔士家の屋敷やらが点在している。当然の事ながらこれ等は都と帝、そして霊脈を守護するためのものなのだが……。


「随分と前に没落した退魔士家が放棄しちゃった御屋敷があるんですよ。本来ならば相続人がいるのですが引き取り手もいないもので……」

『(;^o^)ホゥ?』


 屋敷の維持管理も金がかかるし、場所が都に近いとは言え山の上である。都が魑魅魍魎共の脅威に晒されていたのも遥か昔の事であり、近縁の退魔士家は名義上屋敷を相続したがそれきりで何十年も放置。朝廷もまたそれを咎める事はなかった。橘佳世は其処に目をつけた。


「都に近いにしては結構安く買えまして。上物を修繕して私個人の別荘にしちゃいました。……まぁ、少し商会のお金も使いましたけど」


 腐っても元退魔士家の屋敷である。幾つかの防衛機構は生きているようで、交通の利便性の悪さも、寧ろ佳世にとっては好都合のようだった。何せ、彼女は人妖によって合わせて二度も命を奪われかけた身の上だ。秘密の商談や接待をするためにも商会の金も一部流用して屋敷をビフォーアフターしたらしかった。


「はあ、それで何故私を……?」


 佳世の別荘建設計画までの流れは分かる。問題はどうして此処までの話の流れで俺を其処に誘うかであった。


「本格的に利用する前に伴部さんの視点から見て色々具合を確認して貰おうかなぁ、と考えまして」


 霊力持ちの妖退治専門家から見て屋敷のセキュリティ等はどうか、という調査をして貰おうという話らしい。


「……成る程。それで本音は?」

「折角の新居ですので、使う前に伴部さんと一緒に回りたいなぁ、と思いまして」

『( ^ω^)ワタシモイッショヨ!!』


 てへぺろ、と舌を出して不真面目な下心を自白する佳世であった。考えれば分かる事だ。彼女の立場ならばその道の専門家ならば幾らでも用意出来る筈なのだから。


「けど、一応建前も嘘じゃあないんですよ?伴部さんって目敏いというか、狡猾というか、粘っこいじゃないですか?」

「それってもしかして貶してます?」

「いえいえまさか!」


 彼女の評に俺が率直に指摘すれば、南蛮娘は誤魔化すように視線を泳がせる。いえいえじゃあないんですけど?


「まさか佳世様がそのように私の事を思っていたとは……実に残念です」

「ちょっと、伴部さん!?そんな切実な声で嘆かないで下さい!?え、冗談ですよね?この会話、唯の悪ふざけですよね!?」

「……」

「伴部さん!?」

『( ´;゚;∀;゚;)パパッ!?』


 佳世の声が殆ど悲鳴に近くなった所で、漸く俺は演技を終わらせる。くくくく、と悪戯に成功した子供のような声を面の下から漏らせば、からかわれた少女はムスッと頬を膨らませる。実に可愛らしい拗ね顔だった。


 それはもう、自然に笑い声を漏らしてしまう程に……。


「むー、伴部さん?」

「くくく……いや、すみません。予想以上に反応が良かったものでして。いや、これは本当に失礼をば」

『(*´ω`*)パパハワルイオトコ!』


 若干痛くなった腹部を押さえて、息を整えて俺は謝罪の言葉を口にする。脳内で響く幻聴は蜘蛛にしては正論であった。しかし……実際問題、彼女とのこのふざけた会話は俺にとって貴重な活力の源だった。


 鬼月の家の関係者とは、内心の葛藤と同時に危険に晒す可能性もあって最早こんな会話出来なかった。橘佳世という鬼月の一族の外の有力者だからこそ、こんな事が出来た側面があったのだ。


「むむむー!!」

「申し訳御座いません。……どうぞ機嫌を直して下さいませ。御要望、どうにかして許可を頂きますので」


 頭の中で計算して、俺は答えた。佳世の要請ともなればあのヤンデレサイコファザーも即断で却下は出来ないだろう。寧ろ、下手に要請を断って心証を害する方を懸念する筈だ。雛が後継に収まった後を思えば橘商会を不必要に敵に回したくはあるまい。今回くらいはどうにか許可は出るだろう。


 決して、多用出来る手段では無かろうが……。


「はい。楽しみにしていますね。あっ!そうそう。別荘の御屋敷って多田羅山なんですが……実は改修中に温泉が出たんですよ!なので露天風呂も用意しちゃってます!なので期待して下さいね!」

「ほぅ。それはまた……」

『(*゚∀゚)オフロ!』


 都の周辺は霊脈の力で結構温水が溢れ出ている事自体は珍しくはないが、それでも温泉として整備されているとなると中々……って、んん?


「……少しお待ち下さい。多田羅山ですか?」


 聞き覚えのある地名に思わず俺は先程までの笑顔を消して問い掛けていた。……嫌な予感を感じて。


「?はい。多田羅山です」

「失礼。……確認させて下さい。買い取った御屋敷とは何処の家の物なのですか?」

「何処の家、ですか?買い取ったの自体は須屋卦家ですけど、元の屋敷の所有者は……確か薬師寺家、でしたか?中に色々厄介なのが住んでいたそうで色々と苦労したようですね」

「……おい、マジか」

『(´・ω・`)?ドシタノー?』


 佳世の口にした家名に俺は思わず愕然としていた。それは俺の切実な悪足掻き計画が初っぱなから出鼻を挫かれた事を意味していたからだ。いや、馬鹿蜘蛛お前はどうして分かんねぇの?どんだけ普段人の話聴いてないの?


 ……俺自身の立場やら主人公様がTSしてたりそもそも原作からドンドン逸脱している事を考えて、俺は必死に事態の打開を考えた。その一つの手段がシナリオとは関係の薄いサブイベントを通じた装備強化であった。


 名前の通りに元を薬師の一族を源流とする退魔士家である薬師寺家は、設定上では直接戦闘の技能で劣るものの多くの秘薬霊薬禁薬の製法を編み出し伝承してきた家である。作中で手に入るアイテムの一部はこの家由来だったりする。……二百年くらい前に断絶したけど。


 断絶の理由は最早言うまでもなく初代陰陽寮頭含む救妖衆によるものであり、お陰様で製法が失伝された薬も多い。百年単位の時間掛けてジワジワ目標の商売法的に締め上げるとか卑劣過ぎない?


 サブイベントたる薬師寺家の廃屋敷掃除は文字通りの内容であり、同時に二百年に渡ってそのまま放置されていた魔窟の駆除作業である。亡霊やら番犬代わりの妖やらその他良く分からない存在・物体を殲滅していき、その先に貴重な秘薬霊薬という御褒美がある。あった筈である。


「……薬師寺家と言えばかつての薬作りの名門。屋敷の内部に色々と残っていたと思われますが?」

「はい。掃除に雇った退魔士の皆さんも報酬に求めていたようですが……何か甘い見通しで入ったので予想以上に苦戦したようでして、しかも報酬の奪い合いもしたみたいで最終的に薬庫が爆発したようです」

「アッハイ」

『( ^ω^)キレイナハナビ!』


 さらりと爆弾発言をしてくれた佳世によって、俺の淡い期待は硝子のように粉々に打ち砕かれる。馬鹿蜘蛛の発言も合わせて俺は当時の状況が嫌なくらい容易に脳裏へ思い描けた。レアアイテムが!貴重な双子分裂薬がぁ!!


「……」

「あの、伴部さん?どう為されました?」

「いえ……問題ありません。はい。別荘の訪問、楽しみにしておりにゃす」

「にゃす?」

『(^ω^U)ワンッ!』


 困惑する佳世に向けて答える俺の、面の下の表情は多分宇宙猫だった……。





ーーーーーーーーーーーーーー

「……随分動揺しておりましたけど、どうしたのでしょう?」


 再三の見送りを丁重に断り、不可視の式の背に乗って二の姫の車に向けた帰路に就く橘佳世は、愛する人の反応を思い返して首を傾げる。会話の流れからして恐らくは別荘の件についての事なのだろうが……どうにも判断がつかぬ。


「まぁ、良いですか。一応の目的を達成出来ただけでも良しとしましょう」


 橘佳世が己が最愛の人と、態々この機会に接触した目的は合わせて三件である。一件は言うまでもない。二の姫から要請された質問をするためである。


 あの常時媚び顔の白狐の餓鬼はどうでも良いとして……しかし、久方ぶりに顔を合わせた姫君は随分と荒れていて、憔悴していて、そして痩せこけていた。周囲の者は政争によるものと認識していたが佳世にはその真の原因が直ぐに分かった。


 そして佳世は動揺と心配と共に、僅かにこの姫君に失望した。


 二の姫には二の姫なりに過去に色々な経験があるのだろう。しかしそうだとしても、彼に欠片でも疑念を抱くのは余り愉快とは思えなかった。己が涙して彼の傍らの座を譲ったのだ、しっかりして欲しいものである。佳世の質問は、二の姫のその僅かの懸念、恐れを拭い去るためのものだった。


「ふふっ。そしてやっぱり想定の範囲内」


 片方の頬に掌を触れて、その内の感触に表情を綻ばせた後、佳世はしたり顔で嘯いた。少なくとも、彼が二の姫に対して距離を取るようになったのは疎んでのものではない。それが分かるだけでも十分過ぎる収穫だ。……最初から分かりきっていた話だけれど。


「それよりも……」


 呟いて、少女はすっと目元を細めた。そして脳裏で思い返す今一つの目的、彼に問い質す瞬間にその掴んだ掌に忍ばせた手紙……返事が来るかは知れぬ。其処まで責任は持てない。佳世は己の役目は十分に果たした。


「まぁ、投資を無駄にするのは勿体ないですし?出来れば御関係を拗らせて欲しくはありませんが……」


 囁いて、頬に触れていた掌はすっと口元まで撫でる。ちろりと赤い舌が指の先を舐めた。険しく冷たい表情を浮かべる佳世。


 いっそ、優勢になりつつある一の姫に鞍替えしようか……そんな事も佳世は想定もしていたが、その案は直ぐに棄却した。遠目に一目見るだけで分かったのだ。あの脂肪のない干物女は他人に分け前をやるような度量なんてない事を。


 母方の卑しい血が濃いのだろうか?実に狭量だ。排他的だ。仲良くするのは困難だろう。強いて言えば一緒に支配されるのならばやれるだろうか……?賭けに近い。確信も持てないのにやるべきではないだろう。裏切りは何度も出来る事ではない。


「独占欲が強いと困りますよね。私ならおこぼれと引き換えに靴底を舐めるくらいはしますのに」


 そう呟いて深く嘆息。一の姫の頑なな心にうんざりする。


 ……まぁ、良い。嘆いても事態は変わらないのだ。今ある状況を最大限利用するべきである。実際、憔悴し切っていた二の姫にその言質を、許可を得る事が出来た事、それこそが己が危険を賭して動いた一番の理由であり、代価なのだ。


「うふふふふ…………」


 三番目の目的、その第一段階を果たした事を思い出して、佳世は思わず笑みを漏らす。正直若干気持ち悪かった。少なくとも彼女を背負う式は内心でそう思った。無論、佳世にとっては何処までもどうでも良い話である。


(楽しみです……。あぁ、本当にっ!!凄く楽しみですね!!)


 橘佳世は己が敗北者である事を知っている。決して一番になれない惨めな存在である事も、物語の姫君の役目を果たせないだろう事を、重々理解していた。最早、そんな立場は諦めている。そして、だからこそ得られる悦びがある。楽しみがある。興奮がある事を、佳世は学んでいた。


「気に入ってくれると嬉しいですねぇ!」


 佳世が購入し、建て替えた屋敷は確かに接待用だ。しかしながら、招待する客人なぞ実の所一人しか想定なんかしていなかった。


 仕事に、接待に託つけた逢い引き用、不倫用の御屋敷。建材から調度品、食器の一つまで己が見定めた物を選び抜いた。無数の部屋の趣は多種多様。侘び寂びを意識したさっぱりとした部屋から成金趣味な下品な物まで。扶桑風に大陸風、南蛮風の様式を拵えた。酒蔵の酒はあの人の気分に合わせて高級品から安物まで手当たり次第に取り揃えている。そして、其処で働く連中もまた……。


「流石に、選り好みすると結構お金がかかっちゃいますよねぇ」


 扶桑の国の内外より、可能な限りの手段で、可能な限りの身分から、可能な限りの趣向を掻き集めて見せた。先に此方が見つけた場合ならば良い。既に仲介人や卸売りの元に渡ってしまっていた場合は面倒だった。何度遊廓の旦那共や公家豪商連中と競り合いになった事か。どうにかレア物含めて纏まった数は用意したものの、当初予定していた予算を超過してしまった。 


「どの道、どうせ追加購入は必要でしょうけど」


 心置き無く使い潰せるように、食い潰せるように。代わりは幾らでも用意出来ると安心して貰わなければ。彼に遠慮させる訳にはいかない。屋敷を拵えた意味もない。商館もそうだが不動産というものは上物だけでなく維持費も馬鹿にならないものだ。


 ……まぁ、仕方無い。昔の人も言っている。『貢ぐのは借金をしてからが本番だ』と。その言葉に従うならばこの程度ならばまだまだだろう。目玉が飛び出るような額面だがまだ借金にはなっていなかった。


「……あ、そういう趣向も良いですね」


 其処まで考えて、ふと先程の彼との会話を思い出した佳世は空想する。新しい妄想を、思い浮かべる。


 ……接待役とお客を装って、口車に乗せられて硝子杯の塔に南蛮発泡酒を馬鹿みたいに注ぎ込む。支払えないような代金を要求されて泣きじゃくり、其処を罵倒されて衣装も装飾品もひん剥いて貰うのだ。首輪をされて、専属の娼妓として散々に物みたいに使い倒されて……危ない危ない。思わず興奮の余りぼんやりとしてしまっていた。

 

「あはは。我ながら駄目ですねぇ。堪え性がありません。はしたない。実にはしたない」


 それを意識した時には既に手遅れで、佳世は思わず笑ってしまった。下着はまるで井戸の中に沈めた後のような状態だった。文字通りのずぶ濡れ。これは後でこっそり取り替えねば。やはり口内で彼を感じながら想像すると身体の反応は段違いだ。身体は実に正直な事である。


 ぶっちゃけ、背負っている式からすれば気持ち悪いので今すぐ降りてずぶ濡れのそれを取り替えて欲しいのだが、現実は無情だった。


 ……何にせよ、佳世はこの状況を最大限に楽しんでいたのである。商人は狡猾だ。どんな状況でも順応して最大限利益を追求する。ある意味では彼女は己の競争相手達よりも、協力者達よりも、ずっと逞しくて図太いのかも知れなかった。


 尤も、それだけの事であるが。


「きゃっ!?」

「おっと。御嬢さん、失礼をば。……急ぎでしたもので」


 ふと、擦れ違い様に肩をぶつけて、相手が急ぎ謝罪する。同時に本当に急ぎだったのだろう。そのまま軽い謝罪のみでさっさとその場から去ってしまう。


「むぅ。全く、困りますね。この喧騒の中ですから彼方此方人の波が……」


 向こうの非礼に思わず当たった肩袖を叩きながら佳世は文句を呟いて……ふと、それを止める。


「……えっ?」


 その自然でいて、しかし異様な事実に思わず佳世は振り返る。相手の姿を見据えようと背後を見渡す。


 余りに多い人の波の前に、その存在は最早何処にも見る事は出来なかった……。


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