第一二一話
暗闇の中で、無数の喘ぎ声が鳴り響いていた。
淫靡な水音が、情けない複数の男女の悲鳴が、激しい息遣いがして、粘りつくような摩擦音が漏れ聞こえる。
一体、何れ程続いたのだろうか?執拗なまでの交わり。果てて、果てて、果て続けて。漸く事は終わりを告げる……。
「はぁ……」
男も女も、年代も人数も、組み合わせだって滅茶苦茶に交えた乱交の、その企画者は何刻にも渡って身体を酷使した後のように深く嘆息する。企画者自身もまた参加者で、しかも人一倍この爛れた宴に入れ込んでいたのだから当然だった。全身が自分の物と言わず幾人もの汗で汚れきっていた。何なら肌を汚すのは汗だけでもなかった。
「あー、ダル」
誰も彼もが布団の上で死んだように沈黙する中、企画者だけがそんな事をぼやいて抜け出した。倦怠感がのし掛かる身体で部屋の障子を開く。
障子を開くとともに部屋に吹き抜けるのは冷たい冬の寒気。情事の噎せ返るような熱気を吹き飛ばして、企画者の晒し出された肌もまた突き刺すように撫でる。それも気にせずに件の者は鼻唄を唄いながら更に進む。
殆ど裸体に近い出で立ちで、朱に塗られた露台の手摺に乗り掛かる。視界に、眼下に街が広がる。
色街、遊郭……扶桑国が都の一角に設けられた其処は国から統制と認可を受けた半ば国営の街である。大小合わせて三百近い女郎小屋にその他物売りに飯屋が百余り。高い壁と深い堀で外界と隔たれたある種の異界。
絢爛豪華に装った、背徳と冒涜の苦界が紫水晶色の瞳に映る。夢幻のように妖しく輝く街並みを……。
「まぁ。其処を利用している立場で言えた義理じゃあないんだけどねぇ」
嘲るように、ふざけるように企画者は嗤う。この遊郭でも五本の指に入るような名店で、更に最上階を丸々借りきっての乱痴気騒ぎ。己と、誘いをかけた参加者の権力を使って集めた男女は質と量両面で見境ない。多分後々まで悪評として世間で噂されるだろう。宜しい、それも一興だった。
何処までも見通せてしまう、恐ろしいまでに単純で単調で予定調和なこの世を少しでも愉快に出来るのならば、寧ろ自分から噂を広げても良いくらいだ……そんな事さえ思って、そして呟いた。
「誰?」
口にした言葉に、応じるように足音がした。企画者が面倒臭そうに振り向くと、暗い室内の奥からにこにこと人当たりの良さそうな男が現れる。
「やぁ、漸く終わったのかい?……少し時間を貰っても良いかな?」
「……あぁ、あんた。そう言えば今は民部省のお役人だったっけ?」
闖入者の顔形に一瞬困惑していた企画者は、しかし直ぐに眼前の存在が身体を乗り替えていた事を思い出す。
「確か、民部省主税寮助職だっけ?それなりに立場がある身でこんな所に来て良いわけ?其処の連中に顔バレしちゃうけど?」
くい、と疲れ果てて寝込む男女共を指し示すが対する闖入者は焦る事はない。
「香を焚いておいたよ。疲労もあるだろうし暫くは起きないさ。付け加えるならば今は寮頭だ」
「あー、そう。それはおめでとう様。勝手に変な薬を焚かないでくれる?……それで?誉れ高き朝廷の高官様がどんな御用件で?何?あんたを『視』れば良いわけ?」
部屋の借り主は訂正を口にした民部省主税寮の長に、それを装う亡霊に向けて企画者は紫水晶色に輝く瞳を細めながら慇懃且つ無礼に応じて話の先を問い質す。情事の疲れもあって詰まらぬ言葉遊びをするのは面倒臭かったらしい。
「いや。それは結構。……北土から上洛する一行で君に接触して欲しい人物がいる。いや、正確には取り込んで欲しい人物と言うべきかな?手段は問わないよ」
「……それはまた、急なお話な事で」
亡霊の要望に借り主は、怪訝な表情を浮かべる。当然だ、この固くもない友宜で結ばれている『同志』に協力を求められる事は幾度かあった。しかし、これは……。
「訳有りって事?……考えて見ればアンタが直接来るって事は一筋縄じゃあ行かない感じ?」
近頃は謀大臣こと、右大臣が内々に省庁内部の監査と粛清をしているという噂が囁かれている。そんな中で式や使者ではなく、依代とは言え直接要請にやって来るという事実はただ事ではないように思われた。この亡霊の場合は、特に。
「そうだね。確かに一筋縄では行かない。何せ既に私が数度介入して失敗しているのだからね」
「それはそれは……また厄介な」
本当に厄介だった。目の前の存在は、その内で身体を操る亡霊は借り主からしても中々の知恵者だ。性格の悪さを差し引いたとしてもその魔の手から何度も逃れる等と……『視る』迄もなく特大の厄介事である事は確実だった。
「流石に、荷が重いように思えるけど?」
「相性の問題さ。嵌めるには私よりも君に適性があると判断した。詳細な資料ならば後程送付しようか?」
「嵌める、ねぇ」
先程は取り込むと言いつつ嵌めるとはどういう意味だと追及したくなったのを我慢する。どうせ碌な事はない。それこそ『視る』必要もない程に明確だろう。
「駄目かな?」
「そもそも此方は下手に都から動けないんだけど?立場分かってる?勝手に動き過ぎると爺共に制約掛けられるんだけど?」
そうなれば、今後の行動にも支障が出よう。
「その点は安心してくれて良い。丁度良い余興が計画されているみたいでね。君が出向く理由として丁度使えそうだ。接触する言い訳にも使えるだろうね」
「余興……」
亡霊の他人事染みた物言いに、企画者は思わず顔をしかめた。お前達で仕掛けている謀略であろうに、まるで当事者意識が感じられない。無責任極まる発言であった。
……引き返しようもない馬鹿騒ぎに、自ら首を突っ込んでいる己が他人の事を言える道理でもないのだけれど。
「……それって今後の企てに必要な訳?」
亡霊の要請に向けて確認を取る。経歴からしてこいつの事は信頼も信用もしていない。しかし、その企みについては賛同していた。その先にある退屈凌ぎの愉快な一時。運命荒れ狂う一寸先も見透せない刹那にして最高の演目を。
だから確認する。それが待ち焦がれる祭りに不可欠な鍵なのかを。もし違うのだとすれば手を貸すつもりはなかった。捨て駒にされて演目の序盤で脱落はご免だ。そんな詰まらない結末は望んでいない。
「確かに、当初の計画とは外れるね」
「そう。じゃあ……」
「だけど」
断りの返事を遮る亡霊。非難がましい視線を受け流し、そして不敵に嗤う。
「乗ってくれたら、もっと面白い物が見られると思うよ?」
文字通りに『視』通せないくらいの演目を……亡霊は嘯く。煽るようにして誘惑する。
「……」
亡霊の甘言に対して、放蕩者は無言で以て応じた。沈黙の後に、眼を閉じる。まるでうたた寝でもするようにして……そして、次に紫水晶を思わせる瞳を見開くと、同時にニヤリと口元を歪めた。それは亡霊の望む表情そのものだった。
「誰をたぶらかせば良い訳?さっさと名前を教えてよ?」
扶桑国北土の三大名門退魔士家『宮鷹』。その直系の血を引く『一族の放蕩者』は、亡霊に向けて己が獲物の名を問うて、そして………。
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「はっくしゅん!!?……風邪でも引いたか?」
『(*´ω`*)ダイジョーブカシラー?』
突如のくしゃみに、俺は思わずそんな事を口にしていた。馬鹿蜘蛛の返答はスルーするとして……噂をしているのかと言わなかったのは最早今更の話だったからだ。
今この瞬間だって俺の陰口なんて当然のように囁かれているだろう。一々反応していたら俺は永遠にくしゃみし続ける事になりかねなかった。笑えるね。
「いや、この世界だと笑えない話か」
何事も迷信なんて切って捨てられないのがこの世界の酷い所だ。そんなのだから因習やら悪習やらが根強く残るし年長者の権威も無駄に高い側面があった。
因みにくしゃみが噂話に関連付けされるのはくしゃみで魂が飛び出すと思われていたからだとか。つまりは呪殺されるという恐れが元々の起源だという説があるらしい。また一誹り二笑い三惚れ四風邪、というようにくしゃみの回数で噂の内容が分かるという……おう、やっぱり悪口が原因かよ。
『( ≧∀≦)ノパパニハワタシガツイテイルワ!』
「それは心強い事で。それにしても……」
馬鹿蜘蛛の頼りにならない激励に適当に応じた後、俺は現実を見つめる。現実を直視する。
眼前の、一覧を見据える。
「ははは、これはまた思い切った面子を揃えたものだな」
主殿の奥、庭園の奥に宛てがわれた小屋。その内で胡座を掻く俺は眼前に広げた上洛隊の人員表を一瞥して乾いた笑いを浮かべる。苦笑い。笑って、嘆息する。何故か?当然だろう、この人員表を見ればな?
「情けも容赦もねぇな」
肩を落として、天を仰いで俺はぼやく。この面子で揃えた当主の度胸と面の皮の厚さに一周回って敬意すらも覚えていた。
「復帰報告を兼ねて当主夫妻が向かうのは、まぁ順当だよなぁ」
長らく寝たきりだった北土の退魔士家の三大名門が鬼月家の当主。それが目覚めたとなれば朝廷も、他の退魔士家も、何なら公家も武家も商家も関心を寄せるのは必然だ。上洛を機会に顔見せするのは寧ろ当主としての義務ですらあった。
「……」
俺の視点は夫妻の下方に向かう。並ぶのは当主夫妻に同行する一行の名である。
真っ先に注目するのは蛍夜環の名。正式に退魔士として任命し、官位を授与するのに彼女が含まれるのもまた当主同様に想定し得る範囲の内容だ。彼女に同行する形で雪音達の名前があるのもまた当然。雛に至っては言うまでもない。あの男が今の政情で最愛の娘を手放す筈もなかった。
問題は雛の下に記されている名であった。鬼月の二の姫の名。ゴリラ様、鬼月葵その人の名……。
(悪辣だな……)
人員表に記された名を見つめながら俺はそう評する。葵が上洛の面子にいたのは何も不思議な事ではない。ある意味で言えば、寧ろ想定の範囲内であった。当然とすら言えたかも知れない。
雛を連れて行くのならば葵を連れて行く必要はない?甘い。原作では確かに片方としか上洛出来ないだろう。しかし、前提条件が違う。
ゴリラ様の大妖輪姦宴会が不発となり、しかも幽牲自身長らく廃人と化していた事、それが原作と違い葵を推す派閥の伸長に繋がっていた。ここで露骨に葵を冷遇するのは寧ろ暴発の危険を伴う。それは雛の命を危険に晒す事に繋がった。ヤンデレサイコファーザーからすれば容認出来る事ではない。同伴は、少なくともそれを容認しているように見えるため不可避だった。
当主の狡猾な点は葵を連れて行くがそれだけであった事だろう。葵自身は連れて行くが葵派はほぼ排除されていた。名簿に連なる葵派の者は白のような無力な世話役くらいのものだ。あるいは派閥の中でも若輩者、無能者、殆どお情け、騙りに近い碌でもない連中……数字の見掛け上は派閥の均衡に配慮しているように見せて、実態は骨抜きに等しかった。これで上洛に参加するなぞ葵にとっては殆ど自殺行為に等しい。
(原作で葵と行けるのは……まぁ、そういう事なんだろうな)
原作のルートでは葵と都に上洛すると雛と上洛する場合に比べてミニイベント、トラブルが多めに発生するように設定されている。
実態は当主の嫌がらせだったに違いない。人も物も金も、態と不足させていたし質も落としていたのだろう。そうでなければ予算不足からの下町アルバイトや山菜採取なんて命じられる筈もなかった。命じる態度は尊大でも内心は恥辱に震えていたかも知れない。世間に恥を晒させようとする父の悪意に懸命にゴリラ様のために様々な課題を健気に攻略していく主人公。成る程、ヤンデレる程に好感度も上がろうものだ。
……いや、残したら残したでヤンデレるんだけどね?
「問題は、今回はどうなるかだな」
『( ^ω^)カクシイベントアルカシラァ?』
「知らんがな」
馬鹿蜘蛛は気軽にそんな事言ってくれるが……仮に二人共同行するとなるとそれは原作のゲームでも、メディアミックスしたノベルやコミカライズでも知らぬ展開だ。拵えられた状況的にゴリラ様がこの罠に乗るとも思えんが……仮にそうなったとしたらお先は全く読めなくなりそうだった。
……蛇足であるが、白は我妻雲雀の孤児院に訪れる必要があるので何があろうとも上洛組入りだ。この人事、下手すれば我妻との関係にまで楔を打ち込む狙いがあるかも知れない。上洛の途上で都行きの橘商会の一団と合流する予定だという話もある。それを思えば……一石二鳥と言うがヤンデレサイコファーザーは一石投じるだけで三鳥四鳥も狙いに来てくれ『(*゚∀゚)マサニ,ヒレツ!』おう、せやな。
「だとしても……」
だとしても、個人的には可能な限り原作に乗せるためゴリラ様には居残りして欲しかった。加えるならば俺自身が会うのが怖いのと紫の生存のためでもある。
赤穂紫……人事表にその名が記載されている彼女は、白同様に上洛の面子がどう変わろうとも確実に同行する事になる筈だった。都で同じく上洛した赤穂の家族と合流する予定らしい。噂話レベルであるが彼女自身はゴリラ様と共に都に行きたいと要望しているとか……。
(呑気な話だよなぁ)
正直、今の気が立っているゴリラ様では紫が少しでも気に食わない事を口にしただけで腹に風穴を開けかねない。唯でさえ各ルートでもトップクラスの紫キル数を誇るのだ。最早次の瞬間に彼女の訃報が届いても驚かないだろう。というか良くまだ死んでないな?
「後は……御意見番様まで同行か」
表の人名を読み進めて行くとその名を発見する。正確には御意見番とその弟子としての白若丸のセットであった。これも知らぬパターンだ。デブ……宇右衛門の代役とでも言うのだろうか?しかし、あの当主の事だ。幾らでも穿った見方をしてしまう。
「本当に油断ならねぇ……って。んん?毬?どうした?」
『( ^ω^)ワレヲオガムガヨイ!』
表を何時までも眺めていると、ふと今更のように気配に気付いて視線を向ける。何時からの事だろうか?純朴そうな少女が俺をじっと見つめていた。
いや、それは正確な表現ではなかった。確かに顔は此方に向けてはいたが彼女の瞼は閉じられたままであったし、仮にそれが開いていたとしても焦点も定まらない濁った瞳が虚無を見つめていただけであっただろう。
「申し訳御座いません。何事か呟いていましたので、つい……」
光を見る事は出来なくても、俺の視線を本能的に察する事は出来るのだろう。俺が見つめた途端に恐縮して頭を下げる毬。俺はそんな彼女に構わない、と弁護する。
「悪い悪い。ついつい独り言を溢してしまってな。……煩かっただろう?」
「いえ。そのような事は……上洛についてのお話、ですよね?御側に来ても?」
「あぁ。構わないぞ」
『(;^o^)ヨイヨイ,チコウヨレィ!』
「何故悪役っぽい台詞……?」
「はい?」
「あー、いや。良い。早く来なさい」
蜘蛛の戯れ言の突っ込みに反応する毬を誤魔化すために急かすように発言して、しかし俺はそれを直ぐに後悔した。病弱故に足腰の弱い彼女は、移動するためには四つん這いになるしかなかった。当然ながら装束は重力に従い垂れ下がる事になる。即ち……見えるのだ。ここ数年で程よく育った谷間が。
「ふぅ、ふぅ……も、もう少し。はぁ、お待ち下さい」
「……あぁ」
『(゚∀゚;)クククッ!ユラスガヨイ!!』
本人は至って真面目に、必死なのだろう。しかしながらその息切れする吐息は唯でさえ甘味のある彼女の独特の声音に極めて妖しい色を与えるものだった。……何か前も似たような事があった気がするな。どうやら人は同じ過ちを繰返すものらしい。後、蜘蛛お前は黙れ。
「ふぅ。ふぅ。ふぅ。……はぁ。伴部様、お待たせ致しました」
無言で目を逸らしている内に、漸く毬は傍らにまで到着する。額に薄っすら汗を浮かべて、女座りに近い正座でぺたんと座り込む。寄り添い、此方を見上げる。
それは庇護欲と同時に嗜虐心を擽る無防備で、ある意味で無節操な姿だった。
「……ふぅ」
『(*´ω`*)フゥッ!!』
取り敢えず俺は目の間を押さえて瞑想した。精神を落ち着かせて、疚しい心を吐き出すように嘆息。……よし、これで良い。俺は平常だ。賢者タイムする前から賢者だ。何の問題もありやしない。あったら孫六に顔向け出来ない。馬鹿蜘蛛が何かスッキリしてるのはスルーである。突っ込み切れん。
「確か、私や御兄様も指名されているのでしたか?」
盲目の少女は此方の動揺と葛藤も知らずに疑問を口にする。俺は努めて、平常心を保ちそれに応じた。
「あぁ。俺の世話役。雑用らしいな。……傍仕えの傍仕えって、一体何の冗談なんだろうな?」
其処まで口にして、改めて事態を理解した俺は胸の内の雑念が一気に吹き飛ぶ。冗談ではない。くしゃみ以上に笑えない話だった。完全に人質だった。唯でさえ妹が随行するのに……本当に、徹底的だな。
「御兄様は兎も角、私も……御迷惑なのは理解していますが正直有難いお話です。入鹿様もいらっしゃらないと一人ここに残るのは寂しいですし……」
『( ^ω^)ゴハンハミンナデタベルノガタノシイワ!!』
俺の不安と不満を知ってか知らずか、毬は安堵したように己の心情を口にする。尤も、彼女の立場からすれば当然だろう。盲目で歩く事もままならない病身の身の上なのだ。十全の家事なんて夢のまた夢だ。孫六や俺がいなければ自分の腹を満たせるかも怪しいのだから。
(いっそ、孫六諸ともここに残ってくれた方が良いんだけどな)
何処まで原作をなぞるか知れないが、程度の差あれ向こうで待っているのは地獄だ。その渦中に彼女達を連れて行きたくないのが俺の本音だった。
「そうか。……孫六は、兄貴の奴は何か言っていたか?」
「それは、不満……でしょうか?」
「あ、いや。別に探りを入れているとかそういう訳じゃないんだがな。……兄妹揃って振り回されっぱなしだろう?実際色々困っているかと思ってな」
それはワンチャン孫六の愚痴を出汁にして二人を屋敷に留めようかという下心がない訳ではなかったがそれ以上に純粋な質問だった。『(*´・ω・)ソーナノ?』ポケットの中の怪物みたいな言い方するの止めてくれない?
「そんな事は……御兄様は常々、鬼月の家にも、伴部様にも感謝申し上げております。特に伴部様には兄の命を救って頂き、私達卑しい兄妹を掬い上げて下さりました。双方には返しきれぬ程の御恩を頂いております。何を文句を言える筋がありましょうか?」
盲目のままに、しかし確かに毬は俺を見つめて答えたのだ。若干卑屈気味な物言い。
「恩義かは……まぁ、それは置いておいて。それとこれとは別の話だろう?
仮に恩がある相手といっても、それを盾に好き勝手されても仕方無いなんて道理はないさ」
「そういうもの、なのでしょうか……?」
『( ^ω^)パパノコトバヲシンジナサイ!!』
俺の指摘に毬は何とも言えない表情を浮かべて首を捻った。蜘蛛のいい加減な軽口は無視するとしても、立場や身分から元々一番下で生きている事に慣れてしまっている彼女には一つ一つの物事に是々非々と主張して生きるという在り方を良く理解出来ていないように見えた。
彼女にとって、生きるという事は強いられる事であり、従う事であり、受け入れる事にだろう。まさに奴隷根性……いや、それよりもずっと健気で従順で哀れかも知れない。『(^ω^U)ソシテワタシハカワイイノヨ!』さいですか。
「申し訳御座いません。私、無学で馬鹿なもので……世間知らずなので的外れな考えをしちゃっているかも知れません」
「別に其処までは言ってないさ。……あー、悪い。先程の話は忘れてくれ。俺の言い方が悪かった。これは命令だ」
俯いて恐縮して、心から己を卑下する毬に向けて俺は命じる。命令なのはその方が言う事を聞いてくれるという経験則だった。……駄目だな。こんなのだから余計彼女を引っ込み思案にしてしまう。
「話題を……変えようか?」
暗く、気まずくなる空気を拭い去るように俺は切り出す。とは言え、どんな話題があるか……いや、待て?
「そうだな。先ずは俺からだ。花水木亭は知ってるか?」
「はい。噂程度ならば。最近はとても繁盛しているとか……?」
『( ^ω^)パパノオカゲネ!!』
どうやら、店の挽回は彼女にも伝わっているらしい。蜘蛛の言葉を肯定するつもりはないが、看板娘からすれば感涙物の話だろう。下手したら遊廓堕ちだったもんな?
「あぁ。この前、当主に付き従って外に出ていた時の事さ。帰りに車の中で其処の菓子を食わせて貰ってな。中々の味だったよ」
『( ^Д^)パパモオイシイワ!!』
半分嘘だ。緊張で味は分からなかった。まぁ、前世のお陰で何となく想像は出来たがね。それと馬鹿蜘蛛は地味に怖い事言わないでくれない?俺はご飯じゃ……ご飯じゃねぇかよ。
「今は前よりも給金が良い。上洛前に一度買って来てやるよ。孫六の奴も合わせて皆でお茶でもしようか。……ガツガツ食いそうな奴もいないしな」
「ふふっ、入鹿さんの事ですか?」
「他にいるかよ」
お互いに思わず噴き出す。無駄飯食い、という訳ではなかったが以前の小屋ではあいつは誰よりも先に食って、誰よりも早く食って、しかも誰よりもお代わりしてくれやがったものだ。自分が客の立場な事なんて欠片も気にしてなかったものだ。『(´・ω・`)マッタクコマッタイモウトネ!!』……だから何でお前にとってあいつは妹扱いなの?
「ふふふ。楽しみにしておきます。そうですね、私の方でお話出来る事と言えば……実は近頃三味線を学んでいるんです」
『(´・ω・`)?ニャ?』
俺の申し出に心から嬉しげに応じ、序で暫し考えこんでから毬はそれを口にした。蜘蛛が、そして俺が首を傾げて反応する。
「三味線?三味線って、あの三味線か?猫の皮を使う?」
「はい」
俺の確認に毬は頷く。そして説明を始める。
「実は此方の家に移った時の事でして。幾つか家の中に物が忘れられていたようなのです。その中に木箱がありまして……」
「中に三味線があったと?」
「相当古い物のようですけど、弾く事は出来るみたいでした」
「ふむ。……見せて貰って良いか?」
『( ^Д^)ヨイカ?』
俺の頼みに毬は快諾する。断じて蜘蛛の要請に従った訳ではない。
「こいつか」
『( ^ω^)ホゥ,ミヤビナシャミセンダナァ』
小屋の物置から古めかしい木箱を引き出せば、その中から出てくるのは……蜘蛛の言葉通りなのは悔しいが、正しく古く雅やかな三味線であった。
かなり古い、上質な三味線だった。
(……呪いの掛けられた曰く付きの代物ではない、か?)
あの夫妻の事である。態と怪しげな呪具をおいておく等という事もありそうなものだが、見た限りは取り越し苦労のように思われた。
「知らなかった。孫六からも聞いてないぞ?」
『( ・`ω・´)ソウヨ!ワタシモシラナイワ!!ワルイコネッ!』
俺が驚いたように尋ねれば、少し恐縮したように毬は説明をする。
「その、兄にも秘密にしていたものでして……あ、鬼月家の方からは許可は頂きました。此方に移される際に家に残されている物は好きにして良いと」
『(*゚∀゚)マッタクシカタナイワネ!!』
「……そうか。具合はどうなんだ?」
無駄に偉そうな蜘蛛の戯れ言はスルーするとして……毬の主張に一応納得して、俺は尋ねる。具合というのは当然三味線の腕前の事だった。
「独学ですので自信は無いのですが……屋敷で聴く琴の音を真似して見ました。一度お聴き下さいませんか?」
「それは……無論、喜んで」
『( ^ω^)ヨロシイ,ヤリタマエ!』
俺の返答に毬は笑みを浮かべる。そして三味線を受け取るとそれを心底大切そうに抱き締めて音色を奏で始めた。
「これは……」
『(*´ω`*)コモリウタァ……』
琵琶法師の話ではないが、盲人はそれ故に視覚以外の五感が鋭敏とならざるを得ない。特に聴覚は顕著だ。僅かの物音、微細な音の差異を聴き分ける。毬もその例外ではなく、寧ろ一層突出しているように思われた。
三味線と琴、同じ弦楽器であるがそれだけである。大きさが違えば鳴り響く音の質も高さまた違う。
その点を加味すれば、毬の奏でる演奏は注目に値した。良くも三味線でここまで琴の音を再現したと。再現しつつも三味線の音質の長所と特質も活かしていると分かる。それは感嘆に値した。軽やかで、品位があって、甘味のある弦奏……。
『(*´ω`*)スヤァ……』
煩い蜘蛛がうとうととする。音楽は神に捧げる儀式として発展した歴史がある。神族に属する故だろうか?唯でさえ麗しい演奏は、この蜘蛛には一層効果があるらしい。これから騒がしくなったら毬に弾かせようか、等と考えが思い浮かぶ。
同時に思うのは琴や他の楽器も使わせてみたい、その道の師に本格的に学ばせてみたいという興味関心である。
「はぁ……」
『(*´ω`*)スヤスヤァ……』
毬自身の醸し出す雰囲気もあわさって、思わず俺は嘆息した。見とれていた。
それはまさに音の悦楽。極楽の一時。出来るならば酒と摘まみを手にして延々と聴いていたかった。友人と共であればきっと最高だろうに……。
「痛っ!?」
『( ゚д゚)ハッ!アサゴハンノジカンッ!?』
至上の刻は突然に終わった。毬が悲鳴を上げて、弦の鈍く醜い音が響いた。一瞬感じた不快感は、しかし直ぐに彼女が怪我をしたという事実に押し退けられる。蜘蛛の発言は無視して急いで彼女に駆け寄る。
「毬!?大丈夫か!?」
『(*´・ω・)ダイジョーブ?』
三味線を受け取り傍らに置く。弦が一本千切れて、情けなく垂れ下がっていた。視線を毬に戻す。
「す、すみません。折角お聴きして貰っていたのにこんな……」
「気にするな。それよりも怪我をっ……!?」
彼女の身を案じて其処まで口にして、しかし直後に俺はその言葉を呑み込んでいた。唾を、呑み込んでいた。
彼女の指の傷を、流れる深紅の一筋を見た途端、思わず俺の胸の内に広がる不穏なざわめき。殆ど無意識の内に怪しい眼差しをその白くか細い手に向ける……。
それは食欲と性欲の混合だった。己の妖としての剥き出しの欲望だった。不味いと理解しつつも俺の視線はじっと彼女の指を射抜き続ける。
「……伴部、様?」
『(´・ω・)パーパ?』
俺から向けられる妙な気配を感じ取ったのか、毬が俺を呼び掛けた。首を傾げて不思議げに尋ねた。しかしそれは明らかに逆効果だった。お陰様で俺の視線が彼女本人に向かってしまったのだから。
「………」
「あっ……?」
『(´・ω・)?』
それはまるで闇夜の中で火に誘われる羽虫のようだった。怪我をした毬の手首をそっと捉える。その反対側の肩に手を触れる。そして……ゆっくりと押し倒す。
彼女の上から、覆い被さる。
「伴部様?一体これは……?」
『(*´・ω・)……』
尚も危険を自覚せず、ただただ不可思議そうに困惑するだけの毬。彼女が性に疎く盲目なのは本当に救いであった。そうでなければとっくに悲鳴を上げていた筈だ。
俺の獣のような眼光に怯えきっていた筈だ。
「……!!」
「うっ……!?」
『( ・`д・´)ムムムッ!』
思わず掴んでいた腕を握る力が増す。僅かに苦悶の表情を浮かべる毬の光景は、寧ろ嗜虐欲を掻き立てるのみだった。身も心も、それはもう文字通りに食べてしまいたいくらいで……。
『( ^ω^)ゴハンガワタシヲヨンデイル!!』
「っ!?」
腕に走った鈍い痛みが俺を正気に引き戻した。腕を見れば『(*´ω`*)チュウチュウ……ウンマァ』……おう、阿呆面下げた白蜘蛛がいるな。
取り敢えず言える事はこいつは別に状況とか考えて此方を手助けした訳ではないだろうという事だ。
「伴部様……?」
「……手当て、しないとな」
此方の纏う雰囲気が変わった事に気付いたのか。此方を混乱したように顔を向ける毬。俺は手短に一言呟くと深く、深く、溜め息。激しい衝動を発散させて頭を冷やす。彼女の上から下りて、棚から塗り薬と包帯を用意する。
「演奏は此くらいで終えておこう。休みなさい」
何事もなかったかのように取り繕い俺は彼女の指先を治療していく。『(ノ´Д`)ノウワーンゴハーン!!』因みに白蜘蛛は普通に腕から引き剥がす。計画的に餌をやらんとそろそろこいつの成長を誤魔化すのも大変なのだ。どうせ脱獄されるのを承知で淡た『(* >ω<)ウキャン!?』……淡々と虫籠に放り込み黙らせてやる。全く困った奴である。
……まぁ、そんな風に平静を装ってみたものの、俺の内心は動揺しっぱなしなのだがね?
(あぁ。危なかった。本当に、危なかった……!!)
己が相当妖に寄っている事の証左だった。瞬間的に完全に呑まれていた。精神的に妖になっていた。糞っ、丸薬と吸血では限界があるか……!?
(部分的ならば兎も角、次全体を妖化させたらかなり不味いな……!!)
原作的にはまだ峠にも達していない、まだまだここからが地獄だと言いたい状況で俺の最大の切り札が半ば封じられているという事態となっていた。笑えない。本当に、笑えない。
あるいは、あの夫妻の事だ。俺の身体の異変にも気が付いている可能性が高い。毬の存在は単純な人質なだけでなく、俺が妖化して命を狙いに行く事を抑止する意味合いもあるのだろうか?もしくは俺が毬を……白蜘蛛が馬鹿しなければ、ははは。畜生が!!
「伴部、様……?」
「前にも、こんな事していたな……?」
此方の動揺し切った心中を感じ取ってか、今更のように不安そうに名を呼ぶ毬に向けて、誤魔化すように俺は以前の出来事を宣った。あれは、確か彼女が裁縫で怪我した時の事か?至近から良く目を凝らせば、彼女の指には幾つか古い怪我の痕が見えた。
「あはは……どんくさくてすみません」
毬は此方の視線に気付いたのか気まずそうに苦笑いする。
「構わんさ」
俺は応じて、そして暫し迷い……毬を抱き締めた。
「え……?」
「済まない。少しだけ……少しの間だけ、こうさせてくれ」
困ったように狼狽える毬を抱き締めて、俺は懇願する。哀願する。それは盲目で、自己主張の少ない彼女に向けてだからこそ言えた言葉だった。
ふと溢れ出した、自分の弱さを情けなく晒し出す。
「……はい。お好きなだけ」
返答は何処までも裏のない、親愛と慈愛に満ちた微笑みだった。
「済まない……」
俺の呟いた声音は絞り出すようで、彼女が抱き締め返してくれる感触が何処までも愛しかった。愛惜しかった。
静かに、俺は盲目の少女に甘え続けた。これから先に待ち構える苦難を想って。
そして決意するのだ。其処に巻き込まれるだろう兄妹を、絶対に守り抜いてやろう、と……。
ーーーーーーーーーーーーーー
「っ……!!?」
洞窟の中で、娘ははっと意識を取り戻した。意識を取り戻すと共に混乱する。己のおかれている状況に、動揺する。
これは果たしてどういう事だ?ここは何処なのだ?娘は自身が薄暗い空間にいる事に怯える。
記憶を手繰る。そうだ、自分の故郷は最早ない。一月も前に妖共によって失われた。今更に到着した退魔士と軍団兵によって家族の仇共は討たれたが……それだけの事だった。
家も、家財も、家族も友人も、全てを失った娘は他の村人同様に故郷を棄てる他なかった。以前の四分の一にも満たぬ人数で荒れ果てた村の再建は不可能だった。
瓦礫の山からかき集めた食料と金銭を切り売りしながらの街道の歩き旅……幸運は既に雪解けしていた事、そして運良く商隊の後ろを追うような形で進めた事。人が寄り集まればその分盗賊も妖も警戒して遠ざかるものだ。
そして漸く辿り着いたのは関の街。既に自分以外にも彼方此方の村から同じようにさ迷い行き着いた流民で溢れていた。
仕事を見つけるのは難しかった。それでも彼女は幸運だったのだろう。どうにか街の店の一つに奉公出来る事になった。給金は雀の涙であったが寝床に三食の食事があるだけでも十分だった。以来一月、漸く仕事にも慣れて来た彼女は仏に感謝した。
そう、彼女は幸運だった。幸運な筈であった。……このような顛末を辿るまでは。
「えっ……?」
彼女は気付く。何処からか響く読経の声音を。真言の呟きを。いやこれは……読経と呼ぶには何かが違う。言葉が違う?異国の、言葉?
「彼方、から……?」
洞窟の奥が明るくて、まるで篝火に惹かれる羽虫のように、彼女はゆらりゆらりと歩を進めていた。そして物影から彼女はそれを目撃する。
大きな篝火、その周囲で呪詛を唱えるのは異形の祈祷師共。生け贄の獣は皮を剥がされて臓物が晒されていた。生臭い臭いが鼻を刺激する。余りにも背徳的な光景……!!
「ひっ!!?」
悲鳴を漏らして直ぐ様口を塞ぐ。儀式の参列者は誰も此方を見ない。誤魔化せたのか……一瞬だけ、彼女は安堵する。
『ア゙ア゙ア゙ァ゙ァ゙……』
背後から漏れる不気味な唸り声に彼女は背筋を凍らせる。そして、ゆっくりと振り向いた。そして理解する。
奴らが反応しなかったのは気付かなかったからではない。見たくなかったからなのだろう。獲物が補食される光景を。
……眼前の双頭の蝙蝠の化物が、人間を食い散らかす様を、見たくなかったのだろう。
「あ……」
悲鳴を上げようとした少女が最後に見たのは、己よりもずっと大きな口を二つも開いて迫り来る、人外の邪神の姿であった……。
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