第九章 第九章 純朴な田舎から都会に出るとみんな怖く見えるよねって件

第一二〇話

人は感情を持つ生き物だ。


 正確に言えば虫や動物もある程度の思考と感情は有しているだろうが、その構造は人間程に複雑でなければ細分化もされていない。良くも悪くもそれは単純な本能に基づいている。思想や信仰、芸術……文化。それらを生み出したのは、人が万物の霊長と自称出来るだけの豊かな感情を、感性を有していたために他ならない。


 そして、当然ながらそれは決して正の側面だけではない。豊かな感情を持つからこそ、負の側面もまた一層禍々しく、穢らわしく、醜いのだ。


 正に、今目の前の森を突き進み続ける呪式のように。


『■■■■■■!!!!』


 表現し難い奇声に似た咆哮が鳴り響く。正体は鬼月谷に向けて深い森の中を突き進む全身に目玉を浮かび上がらせる赤黒い肉塊。その身に染み出させ、纏うのは呪毒の瘴気。呪い。呪毒。


 呪式……人を、血筋を、土地を呪う恨み辛みを意図的に濃縮させて式神の形として具現化させた存在。式神術と呪術の混成というべきものだ。本来ならば精々人一人分の大きさで収まる筈なのだが……今暴れている個体のその体躯は軽く民家数棟分はあろう、かなりの大物だった。


「あれですね?駆除依頼が来ていた呪式というのは」


 数里程離れた山地から数名の部下達と観測を続けているとふと背後から甘い声音。振り向けば其処にいるのは場にそぐわぬ単を着こんだ紫紺の髪を称えた夫人の姿。視線が合う。にこり、と微笑んで来る。


「……中々の怨みを抱え込んでいる様子です。何の対策もなく始末すれば手を出した者が呪いを浴びかねません。そうでなくとも土地を汚します」


 俺は無反応無感情を装い淡々と事実報告を行う。


 北土の地を走り回る呪式は、その出で立ちからして原作『闇夜の蛍』においてはサブイベントの一つとして存在していたものだった。


 モグリの呪術士が多種多様な怨念を重ねて生み出したそれは間違いなく禁術の類いに当たる。産み出した本人は自分では手に負えなくなってかなり雑な封印をした上で無責任にも逃げ出した。五十年程前の話である。


 封印において五十年という月日はかなり短い。縁を伝って呪いは襲いかかってくる。封印の歳月が長ければその分縁が風化し、あるいは呪いの対象となる頭数が増える事で個々人のそれが希釈されるのだが……五十年程度では子や孫、下手すれば自分自身すら生きている可能性がある。余りにも短過ぎる。それだけ出来の悪い封印だったという証明であろう。お陰様で駆除を申し付けられた俺達が迷惑していた。


「私でしたら構いませんが……あの程度の呪いならば一撃で対消滅させられるでしょうし」

「それは……」


 さらりと夫人が口にした言葉に俺は呆れるしかない。名刀妖刀、霊刀の類いならばいざ知らず、ただの牛蒡(阿澄邦産)で授肉している呪式は無論、それを駆動させている呪いの概念そのものを消滅させる等と……いや、赤穂一族のぶっ飛び具合から考えると別に不思議な話ではないのだがね?救妖衆でもアイツら可笑しくね扱いされて直接戦闘回避の指示が徹底されていただけある。


「ふふふ。冗談ですよ。私としても折角のあの人の活躍の場、お邪魔はしたくはありませんもの」

「はぁ」


 小鳥が唄うような笑い声とともに夫人は本気ではないと口にする。本気ではない、というだけで出来ないとは言わなかったのはつまりそう言う事なのだろう。欠片も笑えんね。


 ……俺にあんな取引とも言えぬ提案をした女が、そんな事を言った所で笑える訳がない。


「さて。始まるようですね?」

「……」


 そして、菫の指摘に俺は視線を怪物へと戻した。呪いの塊と、それに相対する一族の当主に向けて。


 鬼月幽牲為時に向けて。


「ふむ。確かに話通りに大物だな」


 まだまだ肉が薄く、骨の浮き出る体で杖を突いて、鬼月家の当主は数尺先から迫る呪式に視線を向けていた。傍らには護衛を兼ねた数人の一族の退魔士に下人。彼らは向かって来る化物の存在に明らかに怖じ気づいていた。当然の話だ。呪式は唯の妖なぞよりもずっと厄介な存在だ。少し関わるだけで己の人生にどのような悪縁を呼び寄せて来るか知れたものではなかった。関わらずに済むのならばそれに越した事はない。


「ご、御当主……!!?」

「落ち着けお前達。……下手に離れるな。獣は群れからはぐれた獲物を狙うという。自ら標的となりたいか?」


 側の退魔士の一人が自分自身半ば逃げ出しそうになりながら退避を進言しようとするのを幽牲は制止する。そのまま更に残る者達にも含めて誰一人として逃げ出す事のなきように釘を刺した。そして、当主は改めて正面を見据える。


 化物は最早目と鼻の先にまで肉薄していた。全身に浮き出た無数の目玉が幽牲を凝視する。その身に内包する霊力に反応して突き進む。そんな呪いの塊に向けて……当主は手を翳した。そして、それだけで全ての事は済んでしまった。


「おお……!?」

「これは!!?」


 当主の側にいた者達は思わず吐息を漏らす。当然であろう。後数瞬もすれば自分達を轢き殺していただろう肉塊が目の前で急停止していたのだから。まるで、突き出された幽牲の腕に進路を阻まれたかのように、化物は停まる。止まる。


「……去ね。化物めが」

『……!!』


 幽牲の言葉に従うかのように化物は数歩退き、そして其処で身体を崩し去り始める。まるで、砂糖が溶けるように。まるで、内側から食い潰されていくかのように。


 まるで、呪いが己で己を呪い殺しているかのように……。


「おぉ……!?」

「凄い。あれは一体……?」


 山の上で事態を観察していた俺達の内、部下の下人達が思わず感嘆の言葉を呟いた。其ほどまでに眼前の光景は驚きに満ちていたのだ。


 鬼月葵や宇右衛門のように圧倒的な身体強化による一撃。あるいは雛や綾華、刀弥のような大群すら瞬時に滅する火力。思水のような理不尽なまでの魔眼の力。そういったものならば彼らも見慣れていた。


 だからこそ当主の、鬼月幽牲の力に驚いていたのだ。何が起きているのか、何をしたのかも判然としない。しかしあれ程の化物を苦もなく、静かに、呪いの残滓すらも残さず滅した事実……普段圧倒的な殺戮と殲滅を見ているからこそ、当主の底知れぬ実力、その力に部下達は瞠目したのだ。


「さて。では帰りましょうか?」


 朽ちていく化物を一瞥して踵を返す夫人は、そんな部下達と違って欠片の驚きもないように思えた。それが当然とでも言うように彼女は背後に駐めていた牛車に向かう……。


「……」


 俺は沈黙して当主を見つめ続ける。部下達とは違い、何なら鬼月一族の大半にすら秘匿されているそれを俺は知っていた。あの男の異能を。その凶悪で邪悪な使い道を。


 俺自身が、それを散々に思い知らされていたから。


「どうしました、伴部さん?早く行きますよ。あの人を余り待たせる訳には行きませんわよ?」


 何時までもあの男を見つめていると、ふと名を呼び掛けられる。振り向く。牛車に乗り込もうとしていた夫人が此方に同乗を要請する。己の夫を共に出迎えるようと傍仕えに誘う。


 誘いという形で、命令する。


「……はっ」


 そして、御傍仕という俺の立場から口に出来る言葉は、ただ肯定の返事のみであった……。






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「お疲れ様です。貴方。随分と冷えましたでしょう?お茶を用意致しましたわ」

「うむ。済まぬな、菫」


 温かい緑茶を注いだ湯呑みを夫人が差し出せば、礼とともにそれを受け取る鬼月幽牲為時。湯呑みの水面を感情の窺い知れぬ眼差しで暫し見つめ、それに一口二口と口をつける。妻はそんな夫の横顔をただただ張り付けたような微笑みを湛えて見つめ続けていた。


「伴部さん。貴方も冷えたでしょう?お茶、お淹れしましょう。さぁ、どうぞ此方にいらして下さいな?」

「……分かりました」


『迷い家』の牛車の内、囲炉裏を囲む夫妻の片方が数畳程背後に控える俺に茶を勧める。


 急須から予備の湯呑みに茶が注がれる。白い湯気を放つそれを向けられて、俺は恭しく受け取る。


「さぁ、遠慮なく」

「はっ!」


 応答を口にするのは簡単で、しかし実際に口に含むのには相当な葛藤があった。好みの問題ではない。論点は単純な程に純粋だった。この茶を飲んで生きていられるか、それが最重要の問題であった。


 毒は……観察する限りでは怪しげな物を仕込まれたようには見えなかった。同じ急須から注がれた事を思えば茶そのものの中には何も混ぜられてはいない筈だ。恐ろしく早い手捌きで混入させてなければ。


 となれば湯呑み自体に事前に塗っている可能性……面をズラして匂いを嗅ぐ。妙な香りはしない。尤もそれだけでは何の保証にもならない。政治的に考える。この場にいるのは俺と夫妻以外には世話役の雑人共。部屋の四隅には護衛の下人、隠行衆……これだけの目がある場所で、今この時節に、態態手を下す事はない、か?

 

「どうしましたか?湯加減が気に入りませんでしたか?でしたらもう一度注ぎますが……」

「いえ、そのような事は……」


 俺の思考は決して長々としたものではなかったが、夫人が尋ねればそれ以上口にせずにいる訳にもいかなかった。覚悟を決める。ゆっくりと、口に含んでいく……。


「……見事な御手前です」

「それは結構」


 一口口にして、俺は形ばかりの感謝の言葉を口にした。実際の所、緊張で味なんて全く分からなかったが。


「甘味もありますよ?『花水木邸』は知っていますか?」

「谷の村の茶屋だな。私も若い頃は良く足を運んでいたものだ」

「はい。対面に橘商会が経営する茶屋が出来て一時期不振だったそうですが……近頃は面白い菓子を売るようになったとか。屋敷の女衆がお話ししてましたので私もつい買って来てしまいました」


 夫の言葉に応じて、菫は雑人共を呼び寄せる。傍らに参上した雑人から重箱を受け取るとそれを夫の前で広げる。


 苺大福、抹茶布顛、柑橘最中、餡砂糖天麩羅……差し出した雑人や警備していた下人、隠行衆らすら思わず興味深そうに遠目に覗きこむ。其ほどまでに物珍しかったのだ。


 そして、同時に俺は沈黙する。


「ほぅ。本当に物珍しいな。彼処は確か上方から伝授された老舗であろう?」

「南京の千歳屋からの暖簾分けだったと記憶しておりますわ。以前食べた団子が千歳屋で食べた物と瓜二つでしたもの」

「そうだ。彼処の流派はかなり保守的だったと聞いているのだがな。良くもまぁこの短い間にこれだけの新しい物を仕上げたものだ。見立ては良いな。どれ……」


 其処まで口にして大福を摘まみ上げ咥える当主。味わうように目蓋を閉じる。噛み締める。そして、呑み込む。


「うむ。旨いな。元より彼処の大福餅は中々の味だったが……苺か。酸味が効いて色合いも良い。あの堅苦しい店主にしては中々趣がある事だ。風邪でも拗らせたのか?」

「娘の方かも知れませんよ?私が買いに来た時には中々年頃の御嬢さんが出迎えてくれましたもの」

「女子はこの手の流行りに敏感だからな。鈍感なのは刀狂いのお前くらいのものだ」

「あら。酷い」


 朗らかに、夫婦らしい会話をする二人。しかしながら俺はそれを額面通りに受け取る事は不可能だった。受け取れる訳がなかった。特に、この夫妻の場合は。


 茶番劇だ。何処までも滑稽な御芝居だった。


「……」


 視線を湯呑みの水面からチラリと夫妻に向ける。ほぼ同時の事であった。鬼月菫と視線が交差したのは。にこりと微笑みを向けられる。俺は思わず息を呑んだ。


 その美貌に対してではなく、背筋も凍る恐怖から。


(こいつ、俺が観察する事を読んでやがった……!!)


 己の思考を読まれている……それはまさしく恐怖そのものだった。一体何処まで読まれている?どうやって読まれている?その狙いは?この思考すら誘導されてはいないか?様々な疑念が頭の中に溢れて来る。


(糞、落ち着け……)


 だから一旦、俺は恐慌状態に陥りそうになる精神を落ち着かせる。静かに深呼吸する。警戒しつつも手持ちの湯呑みを啜る。可笑しな味はしない、か?

 

 ……平静を取り戻した俺は夫妻の行動の意味を咀嚼して、漸く結論を出す。


(これは脅迫。いや違う。はは、警告かな……?)


 この茶の席が単なる休息ではない事は自明の理であった。これを単なる善意の持て成しと考えられるのは能天気に過ぎる。少しでも考えれば茶を勧める行為、俺が伝えた花水木邸の菓子を勧める行為……それらは間違いなく俺に向けた警告であった。


 何時でも俺に自然に毒を飲ませる事が出来る事。常に俺の行動を監視している事。それを伝えていたのだろう。そして下手な行動を慎むように暗に命じる……。


 考え過ぎ?被害妄想?自意識過剰?何とでも言うが良い。俺は知っていた。この夫妻の気狂いぶりを。メディアとしても現実としても……。


「あら?そちらは手が動いていないようですね?甘い物は嫌いかしら?」

「いえ。決してそのような事は……」

「遠慮なさらなくても良いですからね?物は沢山ありますもの」


 にこり、と微笑んで小皿に幾らか菓子を見繕う夫人。そっと差し出される。視界の外から貫くような視線を感じた。非好意的な視線。雑人や隠行衆の視線と思われた。


(元からと言えば元からだが……何ともまぁ針の筵だな) 


 己の過去のヤラカシの数々から雑人衆や隠行衆からの好意なんて元より一寸も期待出来なかった。しかし上がる事は無くても下げる事は出来る。俺の栄達は確実にマイナスの領域に達している事だろう。鬼月の一族の主流も同様。家人共の大半は俺に憎しみを抱いている事に間違いなかった。


 特に痛いのは御傍仕となった事で他の下人衆との繋がりが希薄となってしまった事だ。形式上は尚も俺は允職を兼務しているがそれは形ばかり。当主の傍らに控える立場で仕事が出来る筈もなく、それどころか部下との交流も難しくなっていた。仕方無く部署を外れる前に事務を教えていた部下達数人に仕事を割り振って務めさせたが……これは分断されたな。


(それと、ゴリラ様か)


 彼方については怖くて考えたくもない。風の便りによれば大量の壊れた調度品の類いが廃品回収業者に卸されたらしい。あの姫様は自分の屋敷の敷地に人を滅多に入れたがらないが、その話だけで荒れようは想像出来てしまった。彼女は自分の物を奪われるのを許さないし、自分の思い通りにならない事も許さないし、何よりも自分を裏切る者を許さない。流石ヤンデレサイコファザーだった。容易く俺とゴリラ様を分断したな。


(何なら環も、か……)


 先日の『迷い家』の一件。それにて功第一等とされた蛍夜環に対して、当主は実に上手く飴を与えた。金子や調度品は当然として、重要なのは朝廷に働きかけて官位を与え、入鹿を返した事だ。


 官位を受け取る事は例えそれが下級の位であろうとも一族にとって名誉な事だ。事実、実家は環に向けてそれに関連して文を出したという。其処にこれ迄罪人の疑惑有りとして引き剥がされていた入鹿を俺の元から正式に環の元へと返還した。


 官位を受け取った以上はそれに相応しく世話人を増やさなければならない……実に尤もな物言いだ。環はもう『恩義』ある幽牲に面として逆らえない。家族に恥は晒せない。そして、俺は孫六と毬を守るための味方を失った。近頃は白若丸とも疎遠だ。どうやら御意見番が隠れ葵派ではないかという流言が広がっていて、その火消しの意味合いがあるらしい。あの少年は御意見番の子飼い、俺は元葵直属の下僕だ。


 着実に、確実に、位を上げた筈の俺は権限を失い、手足を失い、伝を失い、そして孤立しつつあった。外部協力者である松重の二人とは吸血されて以来式神越しにすら接触はない。接触を避けているのか、あるいは式が捕捉され次第滅されているのか……。


(後者とすれば徹底しているな)


 位打ち……允職就任の時も似たような話は聞いていた。しかしあの時よりも今回はずっと効果的に思える。実権なんてない。御飾りの名誉職だ。それでいて屋敷における俺の立場を瞬時に切り崩して監視の容易な立場に突き落とした。流石としか言い様がない。


「……」


 俺は自然体を装って、面の裏から幽牲を覗き見る。当主は何処吹く風とばかりに淡々と茶を啜り、菓子を咥える。何も気付いていないかのように。原作と同じだな。良くもまぁここまで堂々と知らぬ振りをしていられるものだ。


(……そろそろ限界か)


 直ぐ傍らからの静かで密かで、しかし剣呑な視線に気付いて俺は当主から視線を逸らす。どのように歪んだ形であれ、鬼月菫の夫への情愛は本物で、夫に仇なす存在を、彼女は許さない。少しでも下手な動きをすれば……俺一人を始末するだけでは終わらない。


 だから俺は重箱に手を伸ばす。恭順の意思を示すために、勇気を振り絞って、何を仕込まれたかも分からぬ大福餅を摘まむ。覚悟を決めてそれを食らった。


 味なんて、最早欠片も感じ取れなかった。





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 文字通りに牛歩の歩みで車が鬼月谷に辿り着いたのは夕刻前の事だった。元より呪式が暴れていた場所と其ほど距離は離れていなかった……というよりも寧ろ待ち伏せのために餌で以て誘因していたのだから当然の話ではあった。


 谷に入ってから更に一刻。一行は侵入者を拒むための渓谷を、隘路を、谷道を進んだ。番犬代わりの式神共の、妖共の、怨霊共の住処を見守られるようにして抜ける。多重に重ねられた結界を潜る。幾重にも張り巡らされた狡猾な罠を避けて、漸く牛車は半ば要塞化している谷の最奥へと辿り着く。


 壮麗な鬼月家の屋敷の前に、辿り着く。


「貴方、到着しましたよ?」

「うむ。御苦労だ」


 囲炉裏の前で半ば眠りこけていた夫に向けて夫人が傍らに寄り添い囁く。二、三度呼び掛ければ漸く反応した当主が瞼を開いて立ち上がる。夫人が続き、俺が続く。


 牛車から降り立つ。前門では鬼月家の家中に仕える者共が彼方此方へと討伐隊の応対を始めていた。そんな彼らは幽牲を視認すると一様に頭を下げる。


「うむ。構わぬ。作業を続けよ」


 そんな彼らに向けて幽牲は仕事に戻るように命じて、彼らは今一度深々と頭を下げると直ぐ様仰せに従う。


「さて、と。……では、行くとしようか?」

「はい」


 出迎えの雑人下人共に牛車や荷の始末を任せて、幽牲は屋敷の奥へと歩みを始めた。菫が朗らかにそれに応じて付き従い、俺は影のように無言でそれに続く。


 ……尤も、影に徹しようとも隠行する訳にはいかなかったので、周囲の視線に晒される事は避けられなかったのだが。


「見たかよあれ。同じ車に乗って、呼び掛けに応じて続きやがった。当然って素振りでだ」

「見せつけているのだろうさ。本当に上手くやるよ。本当に乗り換えが上手いこった」 

「……」


 聞こえるか聞こえぬか、誰が言ったのかも定かではない屋敷の物陰から囁かれる断続的な陰口。影に向けての陰口。それに対して俺のとった選択は完全なる無反応であった。無視であった。それ以外に選択のしようがなかった。


 どうせこういう場合は何をしようと詰られるのはこれ迄の経験で散々教えられていた。何だったらそういう空気を当主自身が促進させているのだろうからどうにもならない。今こうして陰口に一切反応しないのがその証左であった。菫も眉一つ顰めない。事実上の黙認であった。晒し者だな。


(まぁ、それこそが目的だから当然か)


 鬼月幽牲の目的はただ一つ。己の愛娘の、鬼月雛の安全と安泰と栄達である。そのためならばあらゆる事象は犠牲の対象とされる。そして、その手段に見境はなかった。


(そう、見境もなく、な……)


 内心での反芻。同時に脳裏に過るのは、正に俺に背中を見せる夫人との会話……。



 



『貴方の命を屠る事自体は実に容易な事です』


『ですが貴方の立場は余りにも多くの利害が複雑に絡まっていて、此処で安易に始末するのは下策』


『故に、あの人は貴方に機会を与えました』


『貴方の為すべき事は単純明快。あの人の傍らに従順に仕える事、それだけです』


『それだけであの娘も、それ以外の者共も、皆等しく何も出来なくなる事でしょう』


『誰もあの人に逆らえない。誰もあの人を害せない』


『そして、貴方は全てを肩代わりする』


『断りますか?それも良いでしょう。貴方に無理強いはしたくはありませんもの。確かに、やる気のない者に人柱の役目は果たせませんわ。ただ……』


『ふふふ。実に可愛い妹さんですわね?』







「……」


 それは『迷い家』から抜け出した後の事。牡丹と別れて、意識を手放して眠りこけた後の事。


 揺れる馬上の感触に意識を取り戻した直後に交えたその言葉、告げられたその言葉だった。それは脅迫であり、呪い。俺を従わせる事の出来る唯一無二の殺し文句だった。


(本当に、見境もない。孫六達も含めて徹底しているな。いっそ感心するよ……)


 環の下で必死に仕えるあいつの事を思い浮かべて、俺は人知れずに奥歯を噛み締める。


 荒れ狂う胸の内を抑えつけて、俺は平静を偽り続ける。無表情で、無反応で、無貌を装い続ける。


 感情に流されてしまったら何をしてしまうのか俺にも分からなかったから。


 屋敷の最奥に向かう道筋はあまりにも、あまりにも長く感じられた……。



 


 



ーーーーーーーーーーーーー

「……此処までで良い。手間を取らせたな。もう下がって良いぞ」


 主殿の廊下、当主の書斎に向かう襖の前で幽牲が宣う。つまりここから先には入って来るなという事だ。


「今日は外に出て疲れましたでしょう?自分の寝屋でゆっくりとお休みなさい」

「はっ」


 菫の外面は兎も角心が欠片も籠って無さそうな労りの言葉に一礼し、俺は踵を返す。廊下を戻りながら俺が願う事はただ一つ。次の瞬間に気が変わった二人によって俺の頭蓋が粉砕されない事だった。


 永遠に近い短かな時間……廊下を横に曲がり二人の視界から消えても尚、俺の不安は消える事はない。俺が漸く安心したのは主殿から出て庭先に抜けた後の事だった。


 菫の刃は……ぶっちゃけると一族が一族である。谷から出ても普通に斬撃が届きそうだが流石に此処まで離れてから気が変わるという事は無かろう。俺は僅かに安堵の息を吐く。


「……気が可笑しくなりそうだ」


 空間を捩じ曲げた結果として軽くドーム会場複数個分はあるだろう広がりを見せる庭先を進み続ける俺は、思わず呟いていた。


 正直な所、御傍仕に任命されて一週間余り。俺の精神は疲弊しきっていた。今の立場を拝命して以来俺の心は気が休まる事はなく、安眠も熟睡も程遠く、心身共に摩耗していた。


 死への恐怖。だがそれだけが理由ではない。仲間を、味方が離れていく事実を突きつけられて、周囲に憎まれていく事実を示されて、大切な人達の命すらも先方の掌の上で……何よりも、何時までもこの煮え滾る怒りを抑えつける事が耐え難い苦痛だった。


「つ……!!」


 それに自覚した瞬間に、俺は傍にあった木々の幹を感情の赴くままに殴り付けていた。素手による一撃は、しかし霊力を込めず、妖化もせず、籠手だって嵌めて無かったからその幹をへし折る事はなかった。へし折る訳にはいかなかった。だから代わりに傷つくのは己の拳であり、それは想定内の事であり、同時に幸いだった。


 未だに掌に残る、人の首を締め上げる生々しい感触を誤魔化す事が出来るのだから。


「ぐっ……!!?はぁー……」


 そして骨に響く鈍痛が、皮が捲れて染み出る赤い滴りが、俺を現実に引き戻してくれた。深く、深く溜め息。怒りを、吐き出す。吐き捨てる。頭に上った血が引いていく……。


 そうだ、駄目だ。逸るな。蛮勇は身を滅ぼす。機会を待て。待ち続けろ。此処で暴走しちゃあ意味がない。返り討ちに遭うだけで済むならマシだ。最悪全てがバッドエンドになったら何も残らない。何も残せない。何も守れない。だから……!!


(原作のハッピーエンドに仇討ち、どちらもしなきゃならないのが辛い所だな)


 どちらも欠かせない。どちらも見過ごせない。どちらも……俺も随分と強欲になったものだな。かなり頭が侵されてるように思える。


「……流石に、そろそろ帰るか」


 どれ程その場に留まっていたのだろうか?漸く精神を落ち着かせた俺は帰宅の途に戻る。孫六は兎も角毬は人の心の機微に聡い。怖がらせたくなかった。唯でさえ他人の都合でコロコロ住居を変えられている上入鹿もいないのだ。年もあって情緒に宜しい筈はなかった。


 何時しか空は暗く、月が照りつける時刻に移り変わっていた。鈴虫の鳴く夜道を進んでいく。遠目に帰るべき場所を、この屋敷で一番安心出来る場所に辿り着く。


「ん……?」


 そして、俺は彼女の存在に気がついた。


「………おや、意外と遅かったなぁ?もう少し早く帰って来ると当たりをつけていたのだが。もしや、何処かで道草でも食っていたのか?」


 俺の帰るべき小屋の前で、烏の濡れ羽色の長髪をはためかせて、朗らかに笑って、彼女は振り向いた。


 鬼月家の一の姫。鬼月雛が其処にいた。華奢な身体を月の光に照らして、その輪郭を幻想的に浮かび上がらせて、佇む。


 見返り美人、思わずそんな言葉が脳裏を過った。


「……雛様?」

「はは、悪いな。急に訪ねて来てしまって……少しの間で良い、私と付き合ってはくれないか?」


 何処までも凛々しく慈愛に満ちた表情を浮かべて、彼女は困惑する俺を夜の散歩に誘った……。







ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 広大な屋敷の奥に広がる調和の取れた詫び寂びの箱庭。それは元々は屋敷を攻められた際に陣を敷くために設けられた空き地であり、大乱の後に園芸趣味であった五代前の鬼月家当主が其処に拵えたものだった。


 態態高い金で以て都から高名な庭師共を呼び寄せて、南蛮の錬金術師から仕入れた草人形を式とする事で半永久的かつ自動で庭の造園は維持されている……。


「なぁ、覚えているか?昔、探検等と称してこのだだっ広い庭の中を良く回っていただろう?」

「…………」


 雛の問いに俺が黙っていると雛は一度首を傾げ、そしてふと気付いたように表情を変化させると微笑みながら口を開く。


「安心しろ。見た限り誰も見ても聴いてもいないさ。仮に上手く隠れていても告げ口するのなら私が庇ってやるしな。……私の我が儘さ。前に言っただろう?こんな時迄堅苦しく話したくない」


 俺の心配事に対して、雛がそれを打ち消す。その陽気を含んだ尊大な態度に、俺もまた乗っかるように答える。


「はい。覚えておりますとも。……姫様が迷子になってしまってお泣きになられていた事も、勿論覚えております」

「ほぅ。言ってくれるものだな?」


 一度話し始めれば堰を切ったように、庭園の一角に広がる竹林を当てもなく歩みながら俺と雛は語り合い始めていた。


 それは二人で屋敷のあちこちを探検した話だった。それは雛の悪戯に纏めて叱られた話だった。それはおやつの取り合いになった話であり、それは雷を怖がった雛が泣きながら布団に潜り込んで来た話だった。


 それは全くの散文的で、纏まりもなく、ただただ思い付くままに、ひたすらかつての幼くも楽しい日々の思い出を語り合う……。


「そうでした。屋敷の隠れんぼで漸く押入の中から見つけて貰った時も泣いておりましたね?しかも見つけた途端に腹の虫を鳴らされて、私の用意していた金平糖を一人で平らげてしまっていた筈です」

「ははは。懐かしいな。良く覚えていたな?」

「姫様との大切な思い出です。一つだって忘れませんよ」


 俺の口にした言葉は誇張こそあれ御世辞ではなかった。下心が無かった訳ではないが、同時に当時の俺にとっても彼女との日々は確かに楽しかったのも事実なのだから。寧ろ、彼女もここまで覚えてくれていた事こそ驚きだった。


「当然だろう?お前と私の仲だろうが」


 雛は当然とばかりに即答した。爽やかに微笑んで、俺に答える。其処には一切の蟠りも窺えなかった。純粋な好意が、友愛に溢れていた。


「……有難い話です」


 彼女のその幼い頃より大人びた、しかし確かにあの頃と変わらぬ純朴で純粋な在り方に思わず口元が緩む。そんな俺の姿に彼女もまた優しげな眼差しを向ける。


「良かったよ、お前が笑ってくれて」

「え?」

「お前が傍仕えになってから、傍目から見て随分と心労が溜まっているように思えたからな。……少しでも安らいでくれたのなら良かった」


 竹林を進みながら雛は語る。俺の心配を口にする。慮る。


「……心配をかけさせてしまったようですね?」

「気にする事じゃあないさ。……先程も言っただろう?お前と私の仲だ。お前には何度も迷惑や心配をかけさせて来たからな。今度は私の方を求めてくれれば良い。遠慮なんてしてくれるなよ?」


 そして「寧ろ」、と雛は続ける。


「お前の複雑な立場は分かっている。鬼月の家の厄介事に振り回されている事もな。……それが心労になっているんだろう?心苦しい話だ。私も無関係じゃない。だから……頼ってくれないか?」


 雛の言は、半ば懇願に近かったかも知れない。俺はそんな彼女の姿を暫し面越しに見つめ続ける……。


「……その時には頼りにさせて頂きます」「……そうか。ではその時にな?」


 雛は半ば冗談気味に、しかし何処か残念そうに頷いた。本当は俺が遠慮しているとでも思っているのかも知れない。そんな事気にしなくても良いのに。


(迷惑かけたくないのは本当だがな……)


 鬼月雛という人間には恩義と借りしかなくて、そして同時に俺の目標はそれらに対して仇で返す行いだった。どんな人物だろうとも相手が望んでもいないのにその親を……そう考えればそんな願い自体が白々しいのかも知れなかった。それでも……。


「おい」

「えっ?っ……!!?」


 何時しか一人思考の海に沈みこんでいた俺はふいに掛けられたその言葉に我に返る。同時に眼前に迫っていた黒髪の姫君の上目遣いの美貌に思わず驚いて後退る。


「姫様……!?」

「ふふふ。漸く此方を見てくれたな?」


 俺の驚いた表情に雛は笑う。悪戯っ子のような笑みだった。これ迄も何度も見た事のある元気な笑顔。


「前々から考えておりましたが……余りそういう振舞いは良くないと思いますが」

「お前が私の事を蔑ろにするのだから仕方ないだろう?何だったら同じ事をしても良いんだぞ?」

「流石に遠慮しておきます」

「ははは、それは残念な話だな」


 こほん、と改まるようにして咳き込んで、雛は俺を見据える。そして、俺の掌を掴む。


「姫様、ですからそういう事は……」

「焦るな。……これを」


 雛の指摘に、俺は遅れてその感触に気が付いた。掌を握り締める際に押し付けるように授けられるそれは……。 


「印籠?」

「もう、無いのだろう?受け取ると良い」


 困惑する俺に向けて慈愛の眼差しを向ける雛。その言い様に俺は半信半疑に印籠の中身を確認する。中にあるのは幾つかの赤黒い丸薬……。


「これは……姫様、これが何なのか理解しておいでで?」

「勿論……とは言え偉そうに言え無いな。私は此方の界隈には疎くてな。ただ、お前にとってこれが必要不可欠な薬なのだとは知っているよ」

「それは、しかし何故姫様が……っ!?そういう事ですか」


 何故雛がこれを持っていて、そして俺に与える事が出来るのか困惑するが即座に合点が行く。考えて見ればそれは単純明快な話であったのだ。


 俺が定期的に受け取っていた妖母の因子をも抑え込む一般には流通すらしない特級の霊薬。何時しかゴリラ様から疑問も疑念もなく受け取っていたそれは、しかし原材料からして容易に手に入るものではない事は想像するに易い。


 具体的に何かは分からないが……恐らくは雛はかなり初期から俺の身体の事、薬を必要としている事を知っていた。そしてゴリラ様は雛から一部の原材料の融通を受けていたのだろう。俺と、雛の幼少期の関係を出汁にして。姉妹の性格を思うと、それは半ば脅迫に近かったかも知れない。


「姫様……申し訳御座いません。まさか、このような……」

「それ以上は言うな。お前は自分の身体だけを労れば良いんだ。私は納得しているのだからな」


 俺が謝罪しようとするのを雛が止める。何処までも爽やかな笑顔で俺の身体を慮る。その姿がより一層俺に罪悪感を植え付ける。


「本当に、どう言えば良いのか……あれもこれも、心配りして頂いて本当に恐縮の至りです」

「大袈裟な話だな。しかし、その感謝の言葉自体は嬉しいよ。素直に受け取っておこうかな?」


 快活に笑う雛。まるで太陽のような微笑み。それを前にして俺は思わず釣られて笑っていた。笑いながら、同時に自嘲する。己の内に渦巻く醜い激情を彼女が知った時、一体どうなるのだろうかと。


(殺されても……文句は言えないな)


 実際、滅却されても仕方無いだろう。幸い、彼女の性格を思えば家族や知り合いにまで罪を連座させる事はあるまい。それが救いだった。


「……夜分も遅くなりました。そろそろ御開きにしましょうか?」


 印籠を懐に入れて、俺は提案する。流石にそろそろ帰らないと不味い。孫六達は俺が帰るまで飯を食べないだろう。雛だって、何時までもここに居ては誤魔化し切れまい。


「そうか。……いや、確かにその通りだな。名残惜しいが仕方あるまい。今日は此にて終いだな」


 雛もまた若干名残惜しげに俺の発言に応じた。昔ならば駄々を捏ねたものだが……彼女も大人になったという事なのだろう。今更ながらその成長が嬉しくて、何処か寂しくも思えて来る。


「なぁ?……また、刻があったらこうして会わないか?この時間は愉快だったし、お前も結構楽しんでくれていたと思うんだが……駄目かな?」

「……」


 思わぬ雛の提案に、思わず俺は唖然とした。いや、驚いたのはどちらかというと内容というよりもその態度だった。此方を上目遣いで見つめるその不安げな瞳は、普段見せる凛々しいものでなければ大人びたものでも、慈愛に満ちたものでもない。


 寧ろ、幼い頃に何時も向けられていた甘えるようなそれで……。


「はい。是非とも、御一緒致しましょう」


 俺は、自然と彼女の申し出を快諾するのだった。


 俺もまた、彼女とのこの一時が余りにも惜しかったから……。



「……先に私が行こう。少ししたら帰るといい」


 雛は小さく頷き、そしてさっと踵を返す。俺に配慮して先に自身の殿に帰るつもりらしかった。何処までも俺に配慮してくれる彼女の思い遣りの心が、今の俺には嬉しかった。


「本当、配慮させっぱなしだな。……モブとは言え、男として恥ずかしいこった」

『(-_-)zzz( ゚д゚)ハッ!(*´∀`)ノオッハー!』


 刹那、俺が己の情けなさを自虐していると脳内に直接語りかけて来るような馬鹿っぽい声音が響いた。


「……」

『( -∀・)アサゴハンノジカンヨー♪』


 雰囲気を完全にぶち壊すマイペース過ぎる物言いに、俺はジト目になって胸の内を見る。最早驚きもしない虫籠から脱出しての白蜘蛛の姿。目元を擦ってニコニコ笑う。成る程、ここまでずっと普段の戯れ言がなかったのはそういう事か。……まぁ、あれだな。うん。取り敢えず……。


「もう夜じゃボケナス!!」


 余りにも不健康な生活を送る糞蜘蛛に向けて、主に俺自身の命のためにそんな罵倒の言葉を吐き出したのだった。


 ……都を守護する上洛要員の告知が為されたのは、そんな事のあった翌日の事であった。

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