章末

深く雪に沈む谷間の地。時刻は卯の明六ツの時頃。 霧がかる早朝の村の一角に彼女はいた。


 鬼月谷村が老舗の菓子茶屋『花水木邸』の朝は早い。菓子作りは日が昇るかどうかの頃より始まる故に、店の煙突ではもう一刻前から調理の湯気が漏れていた。


「ふぅ。やっぱりまだ寒いなぁ」


 店の看板娘である椛は水仕事で冷え込んだ掌に白い息を吹き掛けながらぼやく。ぼやきつつもその表情は明るい。


 当然の話だった。一時期は壊滅的とまで思われた店の売れ行きはここ暫くは持ち直しつつあったのだから。やはり流行に乗って舶来の甘味を参考にした新商品を掲げたのが良かったのだろう。


 父や他の職人らは若干不満げであったが……娘が必死に説得すれば最終的には妥協した。父もまた、この事態が続けば店仕舞いせざるを得ない事は理解していたのだ。そうなれば最悪家族がどうなるかも……椛はこのまま花街送りになるのだけは絶対に嫌だった。


 御上、鬼月の屋敷から新商品の注文が来たのは決定打であっただろう。御意見番が初めに。その口利きで宇右衛門夫人や分家の綾華からも注文が来れば完全に認められたようなものだ。噂を聞いて村の者達も馳走になりに来る。客足が、戻って来る。


「あの人のお陰だよねぇ」


 椛の脳裏に過るのはいつぞやの客人の存在だ。何の偶然か、この地方の村にあって食と流行に聡い彼の助言、知見は劇薬だった。良い意味で。道を挟んで直ぐ反対側の新参者共でも思い付かない意見は、まさに天祐と呼ぶに相応しかった。

 

「お陰様でうちのお店も一安心……また来ないかなぁ」


 そう言えば今度来た時には新商品の味見もお願いしていたな、と思い出して椛は呟く。ニコニコと微笑んであの客を待ち望む。


 ……ふと、霧の中から馬の鳴く音が響いた。


「……?」


 こんな時間に誰だ?早馬か?この霧の中である。最悪駆け出した馬に轢き殺されかねない。慌てて道の端に退く椛は、しかし五里霧中の中から姿を現した影の正体に気付くと思わず駆け出していた。


 その特徴的な外套に見覚えがあったから。


「あっ!!お客さん!!お客さん!!お久し振りです!!」

「えっ……!?」


 馬を引いていた客人は、その呼び掛けに一瞬呆けたような反応を示した。しかし直ぐに思い出したように此方を見つめる。


「確か……『花水木邸』の店員さん。でしたか?」

「はい!先日はどうも!!」

「いえいえ。しかし、こんな時間に会えるとは驚きましたよ」


 此方の存在を思い出してくれた事に椛は笑みを浮かべる。そして続ける。


「それは此方の台詞です。こんな朝早く……近くの宿や関所からとしても夜中に出てますね?こんな冬に寒かったでしょう?特に走っていると」

「ははは。えぇ、まあ」


 男の引く大馬を見て尋ねれば苦笑いするような肯定の返事。見る限りそれは己の意思によるものではないように思われた。御上に無理矢理命じられたのかも知れない。いや、そうだろう。縁起の悪い青毛の馬なんて宛てがわれているので尚更そう思える。同情する。


「あ、そうだ!どうせですから休憩も兼ねてうちのお店に来ませんか!?そろそろ朝一番の菓子が出来上がる頃でしょうし!温かいお茶も用意しますよ!」


 満面の笑みに心からの善意、僅かの好意を含んだ誘いをかける。菓子の感想、新しい菓子の情報、そして彼個人について知りたくて。


「……申し訳ありません。急ぎの用ですので。遅れると主に叱られてしまいます」


 尤も、その求めは宜もなく断られてしまった。


「そ、そう……ですか。あはは。それは仕方、ないですね」


 即断の断りに、椛は若干気まずげになる。しかし仕方ない話であった。遊びではないのだ。そして上下関係が厳格なこの世界においてこのような状況で無理強いを求めるのは職を奪う事、最悪命を奪う事に繋がりかねない。椛は引き下がるしかない。


「余裕があればまた此処に来ます。そうだ……」


 客人は思い付いたように懐から取り出した手帳に筆を走らせていく。そして、差し出す。椛はそれを受け取る。紙上の文字を読みこむ。そして改めて客人を見る。


「これって……!?」

「実は噂で聞いてました。以前教えた菓子、中々人気だそうですね?」

「あはは。お耳に挟んでいましたか?」

「鬼月の屋敷にも出入りしてますので。……驚きました。想定以上でしたよ。屋敷夫人方の幾人かがお話しされてました」


 心から驚いたような口調で、客人は続ける。


「次の機会には前回分も含めて御馳走させて貰います。構いませんか?」

「それは……はい!是非とも!!お茶。多めに用意しますね!!」


 客人の申し出に唖然として、しかし直ぐに椛は満面の笑みで応じたのだった。内心で甘過ぎるだろうけど食べきれるのでしょうか?と苦笑しながら。


「ははは。元気な看板娘さんだ。では、失敬を」


 客人もまた椛の返事に愉快げに笑う。そして一礼をして、店先を後にする。椛もまた看板娘らしく深い礼でそれを見送った。彼の姿が消えて見えなくなるまで……。


「本当に良い人だなぁ。ふふふ、楽しみ!!」


 頭を上げた椛は一人そんな事を呟く。そしてふと、あれ?と首を傾げた。


「あれ?そう言えば……またお顔、忘れてしまいましたか?」

 







ーーーーーーーーーーーーー

 刻は昼下がり。場所は大寺や大侍の武家屋敷とも思える荘厳な鬼月の本家邸宅。その門前にポツンと佇むのは小さな人影だった。


 その身にまっさらな稚子装束に鮮やかな白絹を被った、線の細い人影……僅かに布地の陰から覗くのは可憐な少女と見間違う程の美貌の少年である。


 ……否。知る者こそ極々少数に過ぎないが、事実彼は少女であった。少女に『なっていた』。


 年単位の長い苦行。身体を内から変質させる行いは比喩ではなしに血反吐を吐く程の苦難であった。己の根幹を転換させるその施術は古の時代からありつつ幾人もそれを成そうとして、しかし途上で逃げ出した事は広く知られている。


 しかし少年はそれを成して見せた。施術を施した師がそれだけの技巧に秀でたからでもあるが、何よりも称すべきは本人の強い意志であろう。それ無しには到底辿り着く事は出来なかった筈だ。


 少年は己の汚れた過去と永遠に決別した。そして待つ。恋する乙女のように恋い焦がれる人を求めて……。


「あにきぃ……まだ、かな?」


 蕩けるような甘い声音で元稚子は待ち焦がれる。師が屋敷の一室で待つのが良いと言っていたのだが……残念ながら元稚子は其処まで我慢は出来なかった。だからこうして、この出で立ちで彼女は待つ。この『身体』で待ち望む。


 白絹の被衣で風貌を隠したのは己の姿を出来るだけ他人に見せたくなかったからだ。彼だけに独占させたかったからだ。無論、元々少女と間違えそうになる程の美貌であったから一目見ただけでは先入観も相まってそれに気付くのは困難だろう。しかし、見る者が見ればその違いに気付く筈で、元稚子の出で立ちはそれを誤魔化す理由もある。幸い、己の出自から歌舞伎の女役染みた女々しい格好でも然程違和感は抱かれなかった。あるいは師の戯れと思われているのかも知れない。


 そして、隠された色香は少年の頃とは比べ物にならなかった。さらさらとした髪は少年の頃よりも伸びていて艶かしい。己の胸元に触れてみる。装束のせいではっきりとは分からぬが胸元も僅かに膨らんでいた。今はまだ年もあって青い蕾。しかしこれからは少しずつ、しかし確実に育っていく筈であると彼女は固く信じている。


 密かにして、何よりも決定的な違いは流す血であった。女子だけが流すそれは愛する欲望を受け止めて子を孕める事の証明……初めてそれを体験した時には目眩と吐き気に倒れそうになった。倒れながら嗤っていた。悦びの余りに仄暗い笑みを漏らしていた。笑いながら泣いていた。啼いていた。


 そんな代償は欠片も後悔に値しない。元稚子にとって酷い月の苦しみすら悦びに過ぎなかった。漸く己は愛する人に尽くすための、その始まりに辿り着けたのだ。それに比べればこんな苦しみ……寧ろ、彼にその血の匂いを感じて欲しいくらいだ。妖獣と化した彼ならば気付くのは容易だろう。気付いた途端に押し倒される光景を、無遠慮に蹂躙される光景を幻視する。それは幸福だった。


「へへへ。あにきぃ。すきぃ、あにきぃ……」


 隠行、そして周囲に漏れる音を遮断して元稚子はそのまま妄想の世界に入り浸り始める。静かに内股を擦る。呼吸が艶かしく荒れる。下着はもう濡れてしまった。はしたないとは思わなかった。これならばいざその時でも彼を待たせずに迎え入れる事が出来るのだから……。


「っ……!?来た?」


 妄想の中にどっぷり浸かりつつも直ぐに白若丸はそれを目視で気付く事が出来た。街道を進む人と車の隊列。その中の一つが彼であると考えると元稚子の胸は激しく高鳴った。恋する乙女よりも乙女らしく頬を染めて。


 思わず待ち切れずに駆け出しそうになって、しかし師から教わった行儀を思い出して断腸の思いで耐える。寝床であれば兎も角、公の場で卑しい女は嫌われる事を元稚子は学んでいた。


 本人にとっては死にそうに思える程の時間を経て、隊列が門を潜った。どうやら先駆の中にはいないらしい。となると車の内か……?


 停車した車からぞろぞろと人が降りていく。荷馬車からは下人や雑人共が。此度の討伐における戦利品を運び出しながら降りていく。出迎えの屋敷の雑用がそれを受け取って帳簿役が内容品を確認しながら倉に送るように命じていく。


 暫しして、そちらに目当ての者がいないと確信した白若丸は完全に関心を失う。そして視線を向けるのは美麗な装飾に彩られた牛車の方である。扉が開く。そして……。


「お退き下さいませ!!……姫様、今着きましたよ!?誰か、薬師を連れて参りなさい!!」

「ゔゔゔぅ゙……ぅ゙ぅ゙ぅ゙………?」


 担架を運ぶ下僕共。叫ぶ側仕えの侍女。運ばれるのは呻き続ける姫君。何か髪の毛は爆発してた。手元には白目を剥いた蛇刀が昇天している。


「…………」


 流石の白若丸も情報過多で一瞬思考停止した。因みに真相はと言えば不可視の妖共を相手していた所に刀を避雷針として龍の雷撃が直撃したせいであった。流石赤穂家の者というべきか、命に別状はなく後遺症も無かろうが全治半月近い大怪我であった。


「困ったものですね。その内良くなると言いましたのに周囲のあの騒々しさ。流石に過保護に過ぎますわ」

「っ……!?」


 暫し紫一行の姿に注意が向いていた白若丸は、その異様な存在感を湛える声音に振り向いた。そして眼前に見つける。紫色の夫人の姿を。


「あっ……」

「家人の白若丸さん、ですね?お出迎えお疲れ様ですわ。誰か待ち人が?」


 唖然としたのは突然の呼び掛けそれ自体に対してであった。隠行していたのにもかかわらずまるで効果がないようであった。それどころか、此方は声を聞くまで全く気配を感じ取れなかったのに……?


「えっと……それは……」

「それでは、此方は御先に失礼しますわね?色々と、忙しくなりそうですし」

「……?」


 何か必死に言おうとする前に一方的に菫は会話を始め、打ち切った。あっさりとその場を立ち去る姿に白若丸は困惑する。その最後の言葉に対する疑念を抱く前に、元稚子の意識は牛車から降りる後続組に向かった。


「出迎え、御苦労様です」

「いえ、お疲れ様です」


 擦れ違い様に交えた下人衆助職との会話は何処までも義務的だった。互いに互いへの関心なく、社交辞令の領域を出る事はなかった。強いて言えば……隠しきれぬ不機嫌な感情を白若丸は感じ取る。


「……環さん。御苦労様です」

「え?あ、うん……白若丸君、だったかな?ありがとう」


 心ここにあらずといったように降り立った蛍夜環に向けて白若丸は先手を打って挨拶すれば、それで漸く此方の存在を認識したらしい環は必死に笑顔を取り繕って応じた。その背後には何処かぎこちない彼女の侍女と下僕の姿。


(……気に入らないな)


 白若丸の内心の侮蔑はその笑顔そのものというよりも蛍夜環とその取り巻きの存在そのものに向けてのように思われた。ぽっと出の女共が、しかし彼女達に対して自分の想い人が何かと心配りしている事実そのものが気に入らなかった。一人に至っては同棲すらも!!それに師だって環に向けてのあの妙な視線は……。


 それは嫉妬であった。己の立場を熟知していたから想い人にも師にも尋ねる事はないし、出来る限り無害を装うが内心での環達への好感度はかなり低かった。何処かで死んでくれないかな?そんな事すら思う。彼が傷心しても良かった。其処は自分が慰めれば良いのだから。


「……?」


 環達とそれ以上特に話す事なく見送った元稚子はその女の姿を見て思わず首を傾げた。


「白若丸、か。出迎え忝いな。この寒い時期に、辛かっただろう?」


 颯爽として車から降りた鬼月雛から掛けられた言葉は、いっそ薄気味悪かった。いや、言葉自体は彼女の普段から口にするそれと変わりはない。違うのはその雰囲気だった。


 普段の何処か痺れるような剣呑な雰囲気が薄れていた。代わりに彼女が纏うそれは明らかに浮かれていた。喜んでいた。悦んでいた。その癖に外面だけは何時も通りだった。その立場もあって、はっきりに言って不気味だった。


「いえ。この程度……屋敷の内ですから。お気になさらずに」

「そうか。だが無理はするなよ?家人とは言え、まだ子供だ。其処まで周囲に気を使う……」


 白若丸の視線を逸らして下手に出た返答に賑やかに、そして優しさを張り付けた物言いで答えて……その言葉は途中で途切れる。  


「……?」

「牝臭い……?」

「っ!!?」


 姫の纏う空気の変化に、思わず上目遣いでその顔を見ようとする前にその呟きは響いた。白若丸の身体は即座に硬直した。動いたら死ぬ……それを確信した。


「……それでは、私は此にて。当主様に報告せねばならんからな」


 硬直した白若丸を置いていくようにして雛は立ち去る。冷や汗が一筋、額から流れた。結局、白若丸は彼女が完全に屋敷の奥に消えるまで微動だにする事も出来なかった……。


「だから言ったでしょうに。屋敷の中にいなさいって」

「ひゃう!?」


 背後から小さな両の肩を優しく掴まれての指摘。思わず可愛らしい悲鳴をあげる白若丸。思わず振り向く。其処にいたのは垂衣姿で此方を見下ろす師の姿。


 鬼月家御意見番。鬼月胡蝶が不敵な微笑みで此方を見下ろす……。


「困った子ですね?お陰様で雛に怪しまれてしまいました。まだ疑念の範囲とは言え……誤魔化す私の立場も考えなさいな?」

「は、はい。申し訳ありません……」


 驚愕、動揺。しかしそれも師の叱責に押し流されて白若丸はただただ深く謝罪する。その素直な態度に胡蝶は優しく微笑む。


「仕方無いですわね。気持ちは分かりますよ?その姿、彼に披露したいのよね?早く彼を見たいのよね?けど、我慢なさい。我慢は大切よ?」


 身体の変化が性格の変化に結び付いているのだろうか、胡蝶は弟子の自制が若干緩んでいる事に勘づいていた。嫉妬が強くなっている事も……仕方無い子だと思った。後で少しだけ『教育』しなければ。いざという時に彼に粗相があってはいけない。尤も、今はそれよりも……。


「ふふふ。さて。そろそろ彼も出てくるかしらね?一緒にお出迎えしましょうか?」


 胡蝶自身も正直待ち焦がれていた。『迷い家』の内での一件で彼に張り付けていた式神は喪われた。環に張り付けていた式神はいるが、それを彼に回す訳にもいかなかった。新規で張り付けるのは討伐隊の他の面子からの懸念を向けられる危険性から断念した。元から張り付けるのと後から差し向けるのとでは発見される可能性は全く違う。


「それに……葵とは少しお話も必要でしょうしね」


 それは彼を今一度死地に送り込んだ事に関する話だ。結果的に環を救い出す事に繋がったとは言え……彼に期待するのは分かるが見ている側の気持ちも理解して欲しいものだった。


 噂をすれば、胡蝶の呟きに応じたように漸く彼女が姿を現した。傍らに白い狐の娘を侍らせた桜色の姫君……鬼月の二の姫が、牛車から降り立つ。


「葵。達者ね?話は聞きましたよ?向こうでは随分と大変でしたね?」


 胡蝶は堂々と孫娘に向けて宣う。それは寧ろ周囲に見せつけているものでもあった。下手にこそこそと話せば裏の深い繋がりを疑われかねなかった。こうして話していれば御意見番のその広く深い人脈は知れている。怪しまれる事はなかった。


「……」


 一方で白若丸は被衣の隙間から不愉快げに睨み付けたのは白狐に対してであった。環達に向けたのと同じく、嫉妬であった。尤も、ある意味その粘度は一層強かったかも知れないが……。


「……えぇ。お祖母様。出迎え、有り難う御座いますわ」


 やって来た祖母達に向けて葵は謝意を示す。その剣呑な態度で直ぐに胡蝶は、そして弟子も察した。異変を。


「……彼は?」

「早朝には消えていたわ。あの女が言うには先に此方に向かわせたらしいけど……知らないかしら?」


 あの女、それが意味する相手に直ぐに胡蝶は当たりをつける。同時に疑念を抱く。


「菫さんね。……後で尋ねる必要がありそうね。それに、あの子にも」


 胡蝶の呟きは小さく、そして冷たかった。自身に事前に一言もなかった。更に言えば恐らくは周囲にも……あの夫婦二人で某かを決めた?そして彼を一人この屋敷に先行させた?今彼は何処にいる?


「暫くしたら公議が始まるわ。具体的な話はその後に。……白若丸さん、部屋に戻りなさい。貴女の目的は今は果たせそうにないわ」

「白。貴女も私の屋敷に戻りなさい」


 胡蝶が、そして葵が、各々に己の駒に向けて命じる。


「け、けど……」

「はい、姫様。……失礼致します」


 納得し難い元稚子の言葉を遮るように狐の少女は答えた。その声音は力なく、生気なく、冷たさすら感じられた。思わず直ぐ隣にいた白若丸は怪訝な視線を向ける。そしてそれすらも白は無視して、恭しく一礼するとその場から逃げるようにして去り行く……。


「……白若丸さん。気持ちは分かるけど、今は私の命に従って頂戴。ね?」

「……失礼します」


 白狐の後ろ姿を一瞥して、胡蝶は今一度弟子にお願いする。白若丸はそれに渋々と頷いて、師の屋敷の方角に向かった……。


「ねぇ。あの狐の子はどうしたの?」

「少し複雑な事情があるのよ。いえ、それだけならば良かったのだけど……」


 白の雰囲気に何かを感じた祖母の問いに対する孫娘の返答は判然とするものではなかった。それは話したくない、というよりかは事情が込み入っているからのように見受けられた。あるいは、それもまた彼に関わる事か……。


「そう。……取り敢えず行きましょうか?」


 葵の態度に譲歩して、胡蝶は兎も角も公議に向けて葵に移動を促した。葵もまた静かに頷いて続いていく。


 屋敷の奥に向かいつつも、二人はその胸の内には言い様のない不穏な予感を覚えていた……。


 




 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「よくぞ帰った。遠路遙々扶桑の土を穢す妖魔の討伐、御苦労であったな」


 上座に君臨する当主、鬼月幽牲為時の若干形式的な宣言。それに討伐隊の長たる菫が、続いて姉妹が、家人たる静と環も頭を下げる。うむ、と頷いた当主は彼女らに己の席に戻るように促せば菫は夫の傍らに、残る者達は各々のために空けられていた列の席にへと戻る……。


「さて。此度の討伐については朝廷からも感服状を頂戴しておる。褒賞としての金子もな。『迷い家』の骸から回収した戦利品と併せて、どうかな?今年の上洛に必要な経費は足りるか?」

「詳しい検分が必要でありましょうが……商会の援助も含めればどうにかなりましょうな」


 当主の質問に対して宇右衛門は自信を持って答える。財務担当のその言葉に議場の者達は表情を明るくしていく。他家への援助も含めて、金策が立った事は幸いであった。特に、鬼月雛の派閥にとっては。


「うむ。此度討伐に参加した者達への褒賞も用意するようにな。末端の雑人や下人共にもだ。働きには相応の見返りがあってしかるべきであろう。そう言えば……」


 宇右衛門に注意点を伝えた後、思い出したかのように当主は菫を見やる。そして続ける。


「確か、式で報告は受けているが……新たに我が家で幾人か雇い入れる事になったとか?」

「はい。『迷い家』に漂流していた朝熊の下人を一名。それに雇い入れていた人夫共から二人。それぞれ下人衆と雑用として召し上げる事を考えております」


 夫の質問に妻は応じる。より詳細に経緯を説明するならば前者は最早戻るべき家もなくその練度が高い事から、後者は同業者達が不可視の妖共に襲われて半壊し、しかも『迷い家』の中をさ迷っていた事実が忌み嫌われて帰る場所を失ってしまった事が目をつけた理由であった。


「何せ下人衆は万年人手不足。雑用をする連中も此度の騒動で幾人か齧られてしまいましたもので……宜しいでしょうか?」

「細事については任せる。宇右衛門らと調整すると良い。皆の者らも異論はないな?」


 菫の確認に応じて、幽牲は参列する者達に問い掛ける。返答はない。それは是を意味していた。実際、この程度の事で一々目くじらを立てる者なぞいやしなかった。


「うむ、宜しい。では次の議題……その前に一つ。話さねばならぬ事があるな」


 その言葉に、議場に集まる一人を除く全ての者達が首を捻った。日々の公議の議題は事前にある程度知れ渡っているものだ。それをここに来て突然の横槍、訝しまぬ者なぞいやしない。ある者は困惑し、ある者は動揺し、ある者は身構える。幽牲が何を言わんとしているのかを予想する。


「入られよ」


 そして、幽牲の招きに応じて、議場の襖が開いた。同時に議場にいた者の殆ど全てが驚愕する。招かれた者が予想外の人物であった故に。


 黒装束の、般若面の下人の入室に、驚く。


「伴部くん……?」

「これはまた……」

「……」


 ざわざわと囁き、呟きが議場に溢れる。皆が眼前の男の入室の意図を勘繰る。


「允職!?何を入って来ている!!?ここは貴様が勝手に入って良い所では……!?」


 上司たる宮水静が闖入者に対して怒り狂ったように叫ぶ。しかし直後に彼女を制止するように眼前に手が翳された。下人衆頭鬼月思水の手であった。


「し、思水様……?何を……!?」

「静まりなさい。助職。当主が仰っていただろう?入られよ、と」

「は?しかし……まさかっ!?」


 愕然とする静、それを一切無視して黒装束に般若面を着けた男は入室する。室内の何十人という者達の非好意的な、そして幾人かのそれ以外の感情を乗せた視線を向けられた下人は、しかしそれら全てに対して全く感知していないかのようであった。


 部屋の半ばまで進んだ所で、下人は膝を畳の上に突ける。深々と頭を下げた。それはまるで斬首される罪人が首を差し出す様にも思える……。


「……」


 葵は広げた扇子の隙間から思わず祖母に視線を向ける。訴える。対して祖母もまた困惑仕切っていた。それはこの事態が完全に不意討ちであった事の証明であった。胡蝶の一族内での人脈は幅広い。そんな彼女ですら直前まで気づけなかった。そして周囲の反応を鑑みれば……。


(やはり、独断という事ね)


 帰還の直前からあった予感もあって、逸早く混乱から回復した葵は事態を推察する。そして己の父が何を企んでいるのか、そのために今何をしようとしているのかを聡明な頭脳で全力で予測し始める。どのような理由で彼が追及されようともそれを擁護する台詞を用意していく。


「下人衆允職よ。確認する。貴様は此度の任に際して『迷い家』に囚われた。違いないな?」

「はい。その通りで御座います」


 尋問のような重苦しい空気の中で問われた質問に、下人は端的に答えた。『迷い家』に囚われた……その言葉に何人かの参列者が呻くように吐息を漏らす。その反応は不信感というよりかは純粋に驚きに見えた。この場にいる者達でも大物の『迷い家』から脱出出来ると自信を持って言える者はそう多くはない。下人の分際で良くも生きて帰って来たものだ……そんな態度であった。


「その後、一度脱出した身でありながら周囲の制止を無視して再度侵入した。そうだな?」

「待って下さい!それは……」

「それは私が命令しました」


 当主の掘り下げる質問、それに対して環が弁護しようとしたのを葵は一層響き渡る声音で遮った。そして、続ける。


「内部に残留者がいる事は分かっておりましたので、私が命じた次第です。よもや、郷主の姫君を預かりながら何の努力もせずに見捨てる等というのは鬼月の御家の恥となりましょう。妥当な指示と判断致しました」


 すらすらと唄を詠うように答える葵。彼女は一度として視線を向ける事は無かったがこの時助けられた対象である少女は罪悪感からその顔を青ざめさせていた。


「無謀な判断、とは考えなかったのか?」

「それを負うに相応の役目であると考えましたので。それに……結果的には当初の想定以上の成果を得られましたわ」


 葵はそうして豊かな胸を張って己の成果を誇る。『迷い家』内部からの脱出後、環と下人は共に聴取を受けていた。そして口裏を合わせた上で『迷い家』の討伐に関して環が主、下人がその助として成したものとされたのだった。止めを刺した事は事実である。しかし……そこに至る道程と最期の一件から環はそれを到底誇る事は出来なかったし、寧ろそれを称される事は苦痛ですらあった。無論、葵にとってはそんな事はどうでも良い事だ。


 彼の追及される失態を作らぬ事。そして彼が怪しまれぬように少しずつでも功績を立てて立場を補強する事……究極的に言ってその二つ以外の物事に葵はこの場で一切価値を見出だしていなかった。蛍夜の姫君の精神状態なぞ全く気に留めてはいない。


「……そうだな。確かにお前の言う通りだ、葵。お前の見立ては正しかった」


 終わり良ければ全て良し、という訳ではないが結果が全てである。葵の判断が正しく鬼月の家に益を齎した以上、仮定を以て責める訳にはいかないし命を受けた道具たる下人もまた罪を言及する理由はない。葵は眼前の男の悪意を退けた事を確信していた。どのように考えてもここから無理な理屈をこねくり回して難癖を付ける事は不可能に思われた。内心で葵は不敵に笑い、父を冷笑する……。


「故に、決を言い渡す。下人衆允職、仮名を伴部よ。お主を今日迄の功績を顧みて今この時より家人扱下人として取り立てる。付せて、本家当主御傍付きとして任じる」


 鬼月幽牲為時の言い述べた抑揚に乏しいが厳かな判決、それに議場の参列者達は一様に頭を下げて聞き入れて……一瞬の沈黙の後に次々にざわめいた。


「は?今一体何と……?」

「まさか、いやそのような……?」

「たかが下人だぞ!?何だこの大それた沙汰は!?」


 口々に飛び交う言葉は当主の決定に対して出席者達の混乱が見て取れた。それは晴天の霹靂であった。


「そんな馬鹿な!!?冗談か!?そのような事が許されると御思いかっ!!?」

「冗談ではないぞ、隠行衆頭殿。記録を見れば良い、前例ならば幾らかはある」


 一際大きい宇右衛門の叫びに対して、淡々として答える幽牲。『家人扱下人』、あるいは『家人仮扱下人』とも称されるそれは確かに前例が数例ある。当初下人として取り扱っていた人物をその霊力を再評価、あるいは功績を評価して家人に近い扱いとする事……事実、鬼月に従う家人の幾らかは先祖がその経緯を辿り仕える事になったものだ。制度として理解は出来る。だが、しかし……。


「有り得ない……」


 殆ど独り言に近い独白で呟いたのは宮水静である。眼前の下人如きが仮にとは言え自分と同格扱い等と言う事実に対して、ただただ否定の言葉しか紡げなかったのだ。ましてや『本家当主傍付き』だと?悪い冗談か?いやそれどころか……彼女の知る過去の忌々しい経緯からすれば完全に理解不能な沙汰であった。


 そして静の反応はまだ可愛いものだった。居並ぶ家人共の中には怒りと恥辱の余り面前と異議を唱え、発狂したように上奏する者達もいた。このような下賤の者が同列等とは耐えられない。どうか考え直しを、と。


 濁流のように溢れるそれらの意見に対して、幽牲のした事はただ一つ。手元の扇子を打ち鳴らす事のみであった。それだけで場の者達は皆黙りこむ。黙らざるを得ない。場を制するそれだけの『何か』を彼は持っているように思われた。


「静まれ。そのような無秩序な態度、無様だぞ」

「し、しかし……恐れながら御当主。このような性急過ぎる判決は余りにも……」


 尚も家人の一人が意見しようとしたが、直ぐに口を閉ざした。正面から叩きつけられる霊気の圧と殺気によるものだった。当主ではない。双方の主はその側に静かに控えていた。


 鬼月家当主を立てるように、貞淑にその傍らに控える夫人は人当たりの良い微笑みを浮かべながらあからさまな脅迫を仕掛ける。それは歴戦の鬼月家の退魔士でも思わず怖じ気づく程のものであった。そしてそれは彼女が他家から嫁いだ身であると思えば暴挙にも等しかった。


「異議を唱える者がいる事は分かっていた。しかしながら私がそう判断した。此度の案件の成果はそれに値するものであるとな。違うか?」


 当主の問いに、反論出来る者はいなかった。『迷い家』からの脱出。それも二度に渡って複数の放浪者を伴ってのもの。しかもその内の一人は自家で召し上げた家人ともなれば……決して過分な評価ではない。精神的な拒絶感を別とすれば。


(だけど……余りにも気味が悪い話ね?)


 鬼月胡蝶は内心で息子の決を訝る。事前に誰にも相談もせずに、根回しもせずの宣言。幾ら当主の座にあるとは言え無謀過ぎる行いであった。しかもその内容が内容だ。周囲の反発と困惑、動揺は尋常ではなかった。何だったら己もその一人だった。


(いえ、それ以上に、これは……)


 そして胡蝶は、いや議場の殆ど全ての者達がその濃厚過ぎる霊気に視線を向ける。座敷の一角に陣取る桃色の姫君に向けて。


「……御当主様、それは余りにも急過ぎるお話ですわね?事前の説明もなく私の下僕を取り上げようだなんて、幾らなんでも御無体でありましょう?」


 鬼月の二の姫は宣う。当主に向けて、父に向けて、異議を叩きつける。


「……当主としての指示が聞けぬと?」

「父としても、ですわね。幾ら立場があろうともそれを盾に無茶を通す等と理不尽は見過ごせませんわ。獣でもございませんでしょうに」


 未だ窶れ気味の幽牲の、その窪んだ眼球が娘を射抜く。娘はそれに対してかなり際どい批判を嘯いた。嘯くだけでなく、霊気をも差し向ける。事態は一触即発だった。


「……」


 孫娘との一瞬の目配せ。合意。そして胡蝶は沈黙を選択した。この場で旗色を鮮明にするのは宜しくないと考えたからだ。事態を呑み込み切れるまで、誰が何を考えているのかを把握する事……祖母と孫娘は互いの役割を瞬時に割り振った。


「葵、当主に向かってその口の利き方はなんだ?余りにも無礼だぞ?」

「そうですよ?実の父に向かってそのような物言いは頂けませんわね?自分の物を取られて不愉快なのは分かりますがもう少し己を抑えなさい。もう子供ではないのですから」


 其処に鬼月雛が、鬼月菫が、母姉が同時に葵を叱責した。公に、しかも菫に至っては子供呼ばわりに。その奇襲攻撃に僅かにざわつく議場、そして一瞬呆けた葵は……即座に明確な殺気を解き放った。


「止さぬか、葵よ!!?ここを何処と心得るか!!?」


 宇右衛門が慌てて場を収めようと叫ぶ。幾人かの一族は当てられた霊気の余波で倒れ伏した。更に数人の一族の者達は急いで徒手格闘での戦闘態勢に移行する。事が起きれば流血沙汰になる前に葵を取り押さえようという判断だった。尤も、意志としては兎も角実際に出来るかと言えば……自信は皆無だったが。


「黙って取り上げといて良くもいけしゃあしゃあと……随分と偉そうな口を利いて下さいます事ね?特に御母様は、そのような母親らしい物言いを為される事が驚きでしたわ……!!」


 立ち上がった葵は一流の退魔士でも酔いそうな程の霊力と殺意を部屋一杯に容赦なくぶちまけながら一歩、また一歩と進む。向かう先に待つのは己が母。そして、その行方を遮らんとする忌々しい異母姉……完全に頭に血が上った葵は思った。殺してやると。死ぬまで延々と殺し続けてやると。そして、扇子を構えて……。


「お止め下さいませ、姫様」

「……っ!!?」


 議場の中央でずっと膝を突けて頭を下げ続けていた下人の呟きに、葵は硬直した。そして視線を向ける。この世で唯一、そして一番愛しいその人に向けて。


「お怒りは理解致しますが、どうかお止し下さいませ。鬼月の姫君がこの場にてそのような無体を晒すのは御自身のためにはなりませぬ」


 諫言は微動だにせずに放たれた。此方を向く事もなく、声音には一切の震えもなく、淡々として述べられた。その事実にギリギリで理性を取り戻していた葵の感情の均衡は再び揺れ動く。


「随分とっ、上から宣ってくれるものね……!!?私を誰と心得ていて!?貴方の主人としてしてあげた恩義に対して恥知らずな言い様ね!!?私に恥辱を忍べと言うのかしらっ!!?」

「多大な恩義を感じればこそ、こうして諫言させて頂いているのです」


 震える声音、多くの者が怒りに震えていると判断した葵の発言に相変わらず下人は静寂に満ちた口調で答える。多くの者達が事態の剣呑過ぎる空気に怖じ気づく中で、一部の者達は、いっそその胆力に感銘すら受けていた程であった。同時に思う。次の瞬間にはこの下人は殺されていても可笑しくないと。


 尤も、下人を評価した者達も流石に気付けなかっただろう。既に葵の内心の感情はぐちゃぐちゃぐちゃになっていた事に。


「どうして……?」


 それは余りにも小さな呟きだった。そして今の葵の感情を最も端的に表していた。彼女には分からなかったのだ。今の状況を認めるような彼の発言が。その無感動で冷たい声音の意味が。そんな目で己を見つめられる事それ自体が。


 このままでは彼は身一つで何時殺されるかも分からぬ地獄に向かう事になるのに。彼の安全を担保出来るのは己だけなのに。自分の手元から離れるなんて、それどころかあの男の傍に置かれるなんて自殺でしかないというのに。いや、それどころか……最悪の最悪はそれ以上だった。葵は知っていた。父の、あの男の持つ異能がどれだけ悪辣で最低なのかを。彼自身、それに苦しめられている筈だというのに……っ!?


「まさか……?」


 ぎろり、と葵は上座に視線を向ける。其処に鎮座する男を見据える。殆ど衝動的に葵は駆け出していた。遠慮なしに足音を鳴らして突き進む。咄嗟の行動、慌てて道を遮ろうとする一族衆の幾人かを腕の一薙ぎで吹き飛ばす。壁に叩きつける。騒々しくなる議場。胡蝶が何かを叫ぶが葵の精神は最早そんな物は聞こえていなかった。


「許さない……」


 その呟きは本人以外には聞き取れない程小さなもので、しかしながら込められた憎悪は何処までも底知れなかった。


 彼女の頭を支配する思考はただ一つ。彼を操る元凶を一瞬でも早く、迅速に取り除く。彼を救う。それだけの事で、ズタズタと畳を踏みつけながら扇子を構え、そしてその首を刎ねんとして……。


「姫様、お止め下さいませ」

「っ!!?」


 眼前に立ち塞がった彼の姿に葵は本能の領域でたじろいだ。顔を歪める。振るわんとしていた扇子が宙で静止する。それは余りにも致命的な隙であった。


「頭を冷やしなさい、葵」

「なっ!!?」


 背後の気配。甘ったるい声音。即座に前回の経験から首筋を守りながら音速の回し蹴りを仕掛けた葵。だがするりと可憐にそれをすり抜けて、紫紺の髪を揺らした菫は娘の懐にあっさりと入り込む。そしてその腹部に向けて……容赦なく一撃を叩き込んだのだ。


 肘鉄による、重い一撃を。


「がっ!!?ぐっ……!!?」


 悲鳴、呻き声、しかし葵も無能からは程遠い。天才ですらあった。前回の反省を活かして直撃を受ける直前に瞬間的に身体を霊力で強化した葵は、菫の一撃を耐えきる。揺れる意識の中で、憎しみを込めた眼差しで葵は扇子を振るう。母親に向けて、容赦の欠片もない一撃を……。


「これ以上のオイタは見過ごせないわね?少し頭を冷やしなさい」


 直後、視界に羽ばたいた黒蝶の姿に漸く波が引いたように理性を取り戻した少女。直後に押し寄せるのは猛烈な睡魔。散布された睡眠薬による強制的な昏睡の誘い……!!


「くっ……!?ふざけっ、るな!!」


 膝が折れる。倒れそうになる。それらを無理矢理に圧し殺して葵は立ち上がろうとする。こんな所で倒れる訳には行かなかったし、何よりも倒れたくなかった。


「それは、嫌よ……!!」


 怒りに屈辱、そして何よりも恐怖。薬で自由を失う恐怖を葵は誰よりも良く知っていたのだから。無防備である事の恐ろしさを身に染みて知っていた。だからこそ、葵は眠気を圧し殺して、歯を食い縛る。纏まらぬ思考を無理矢理に纏めこんで踵を返し、あの男の元に向かわんとして一歩前に出ようとして……足を滑らせてその場に崩れた。前屈みに、倒れこむ。


「ぐぅっ!!?えっ……?」


 そして葵は前から抱擁するようにして優しく抱き支えられた。黒装束の、人影に。


「とも、べ……?」

「姫様、御安心下さいませ。何も恐れる必要はありません。私がおります。ですから……どうぞ今はお眠り下さいませ」


 暴力的なまでの睡眠欲求にその思考を低下させていた葵は、ただ己を支えた愛する者の名を小さく呟いた。そして、それに答えるようにして彼は呟いてくれた。葵の耳元で、先程とは打って変わって彼女を安心させる声音で言葉を囁いた。それは何の保証もなく、理由も述べない、空虚な虚飾すらない端的な言葉の羅列。それでも彼女には十分過ぎた。


 ……彼女は知っていたのだから。どんな根拠よりも彼が口にしたというだけで、葵にとっては何よりも信じられる言葉である事を。


「えぇ、……わかったわ。じゃあ、そう、しま……しょ、う………」


 途切れ途切れの応答。そして身体の力を抜き切った葵は呆気ない程簡単にその身体の全てを彼に委ねていた。そして奏でる。深い、静かな、安眠の吐息を……。


 彼女は知っていた。彼の腕の内は何よりも安心出来る場所であるのだから……。


「……」

「良く止めてくれました、下人。重いでしょう?娘は預りますわ」


 賑やかに微笑む菫に向けて、下人は無言で応えた。慎重に、壊れ物を扱うように気絶した姫君を預ける。


 静寂が、議場を支配する。


「……諸君、騒がせたな。至らぬ娘が世話をかけた。許せ」


 何れだけの時間が経過したのか、恐らくはそれほど長くではなかっただろう。当主が議場の者達全てに向けて謝意を口にする。それを聞いた者達は極一部を除いて一様に困惑するしかなかった。


「……吹き飛ばされた方々にお怪我は?打ち所が悪いのでしたら手当てに向かうのが宜しいですわ。皆様方、御手伝い御願い致しますね?」


 すかさず口を開いたのは御意見番で、場の主導権を奪わんとして発言する。それに応じて、葵によって吹き飛ばされた数人を周囲の者達が運び出す……。


「御当主も、そのような決定でしたら事前にお話下さっても宜しいでしょうに。お陰様でこのような要らぬ騒動を引き起こす事になったではありませんか?」


 釘を刺すように、警告するような口調で胡蝶は当主に、息子に向けて指摘した。探りを入れる目的もあったかも知れない。


「済まぬとは考えている。以後、注意しよう。しかしながら決定は変えぬ事は理解して頂きたいな、御意見番殿?」

「それはまぁ、強情な事。……貴方は昔から変わりませんね?」

「母上は私が寝ている間に随分と変わりましたな。葵と随分と良くして頂いている様子。とても喜ばしい限りですな」

「……愛しい孫娘ですから」


 息子の言葉をそのまま受け取る程母親は単純ではなかった。息子が意識を失い寝たきりとなる以前、書面も口約束でもなく、しかし確かに暗黙の了解で胡蝶は孫娘を見捨てる事を了承していたのだから。黒蝶婦からすれば幽牲の言葉はどう足掻いても嫌味か皮肉の類にしか聞こえなかった。


 そして何よりも、公に葵との深い繋がりを晒された事に内心で舌打ちする。これで中立ぶって事態に介入する事が難しくなった。事実、今一人の孫娘の方向から静かに、密かに、しかし確かに不穏な気配を感じ取る。……これ迄は幼少期の誼から中立を装って交渉も出来ていたのだが、今後は難しくなりそうだ。内心で息子を罵倒する。


「……ではその愛しい孫娘のために寝床の用意をしてやって下され。何時までも母の腕の中で眠らせる訳にもいくまい?」


 胡蝶の内心を何処まで読んでいるのか、幽牲は宣う。そしてその言葉に応じるように菫が優し気な微笑みと共に意識のない娘を義母に差し出した。最早胡蝶の立場でそれに応えぬ訳には行かなかった。


「……」


 胡蝶は無言の内に手にした煙管を一振りした。同時に何処からか現れたのは人形の簡易式が二つ。顔のない影達は菫から姫君を譲り受けると丁重にその身を部屋から運び出していく……。


「……公議の続きをと言いたい所ではあるが、この有り様では難しいな。残念ながら今日はこれで御開きとしようかな?どう思う、下人衆頭?」

「……皆様方、非常に混乱しております。それが宜しいかと」


 議場の嵐が去った後のような空気を一瞥して当主が提案すれば、提案を振られた下人衆頭は少なくとも表面上は一切の動揺も見せずに平坦な返事で以て応じる。うむ、と幽牲は頷く。


「他の者達もどうかな?」


 幽牲はそういって他の者達にも確認を取る。そして、今更その提案を袖に出来るような空気ではなかった。口々に、しかし消極的に応じていく参列者達。


「……致し方、ありませんわね」


 胡蝶もまたその例外ではなかった。渋々と周囲に流されるように頷く。ここで下手に浮く訳にはいかなかった。今は取り敢えず、事態を収拾しなければならなかった。激情に狂う孫娘を抑えて、一族の有力者達と接触して纏め上げなければならなかった。此処での継戦は無意味だった。


「……これにて御終い、ですね。では私は一足先に失礼をば。傍仕えに案内もしなければなりませんので」


 重苦しい空気の中でそんな物気にもしていないとばかりのいけしゃあしゃあとした態度で菫は宣った。下人の傍に来て二、三言口を開く。そして先導するように退席していく。好奇と不信と敵意の視線を一身に浴びながら件の下人は一礼と共にそれに続く。環や雛、一部の者達は別の意味合いの視線を向けるがこの場では何の意味もなかった。


「っ……!」


 口にせず、表情にも出さずに、しかし確かにその光景に胡蝶は焦燥する。悪い意味で彼は目立ち過ぎた。このままではそう遠くない未来に彼が殺されると思ったのだ。あるいは、息子の狙いは其処なのだろうか……?


「允職……」

「御意見番様、失礼を」


 退室際の擦れ違い様、胡蝶が呼び掛けようとするのに重ねて彼は呟いた。呟きながらさっさとその場を通り過ぎていく。胡蝶は何も言わなかった。何も言えなかった。ただ、愕然として、唖然とした。


「嘘でしょ……?」


 何故なら、彼の纏う空気は余りにも似ていたから。初恋のあの人のそれに。あの人の纏う雰囲気に。


 誰かのために一命を賭して成す覚悟を決めた、あの人の最期の姿に……。







 



ーーーーーーーーーーーーーーー

「先程はご免なさいね?あの子ったら随分と貴方に御執心なのね?ふふふ、気紛れ気味で飽きっぽいあの子が本当に珍しいこと」

「……姫様には、本当に長年良くして頂いておりました」


 議場から退室した俺を先導して廊下を進む女……鬼月家当主夫人は新しい「帰る家」に案内しながらそんな事を嘯いた。その口調は半分程は適当な話題として口にしているだけのように思えたので俺もまた義務的に淡々と返答する。  


「そう、長年?具体的には何れ程前からの事かしら?」

「……六、七年程前の事かと」

「へぇ、そんな昔から……」


 嘘を言っても仕方なかった。寧ろ余計な疑念を抱かせるだけの事である。俺は淡々と事実を口にする。


「許して下さいな。あの人もその頃から寝込んでしまっていましてね?貴方とあの子の繋がりに対して其処まで深くは分からないの。それに……私も丁度御屋敷を離れていましてね?」


 そして足を止めて鬼月当主夫人は此方をチラリと振り返る。そして微笑んだ。


「本当に恥ずかしいお話ですわ。親の分際で、あの子の事を何も知らないのですからね」

「そのような事は……」

「御世辞は要りませんよ。事実は事実。貴方の立場ではそのように言うしかないのは分かっております。ですが欺くのもまた不誠実。……ふふふ。そうですね、もし嘘を言わざるを得ない時には是非とも沈黙で以て返して下さいな?」


 菫は一方的にそんな要求を突きつけると再び正面を向いて歩みを再開する。俺は暫し沈黙して……そして黙ってそれに付き従った。


 鬼月の屋敷の奥の奥。長年この屋敷に住まい続けて尚も一度として足を踏み入れた事のない先、主殿に付随する庭園に俺は招かれる。白石が敷き詰められた砂利道に来た所で、先導役は指差した。


「彼処に小屋がありますでしょう?貴方の住まいより一頻りの物は全て取り寄せました。不足する物、新しく新調したい物がありましたら遠慮なく言って下さいね?」


 庭先の先、並木が並ぶ敷地に設けられた小屋を見つめながら俺は夫人の言葉を聞き入る。昨日今日で随分と用意が良い事だ。ましてやゴリラ様の敷地から俺の荷物を運び出した等と……さらりとヤバい事をいってくれる。


 あのゴリラ様の反応からすれば、恐らく彼女はその事を知らない筈で、良くもまぁ警備や防備を気取られずに制圧して見せたものである。ぞっとするね。


「……はっ!」


 其処まで考えて、兎も角も俺は一礼をして返事をする。そのまま夫人と別れると砂利道を通って小屋へと向かった。そして近くまで迫って気付いた、これは……。


「煙……?」


 窓から吹き出す薄い白煙。それは竈の煙だった。恐らくは飯を炊いている時の煙である。それはつまりは……あぁ、成る程。一字一句違わずに夫人の言う通りという事だな。


「……失礼するぞ」

「うおっ!!?あ、兄貴ですかい!!?」


 戸口を開くと共に俺は竈の火加減を調整していた孫六の後ろ姿を視界に収めた。孫六はと言えば俺の姿を見て、炊事場にも視線を向けてと若干混乱しているようであった。


「兄貴、ええっと……」

「此方の事は余り気にするな。火を扱う時にはそちらに集中しておけ。新宅がいきなり火事になっちゃあ敵わん」

「へ、へぇ……」


 俺の冗談染みた指示に、孫六は困惑気味に応じた。その態度から、恐らくはこの小屋に連れて来られた事にかなり動揺しているように思われた。文句も何も言わないのは己の立場を理解しているからか……。


「その足音にお声……伴部様、ですか?」


 孫六の心中を考えていると、小屋の奥から聞き馴染みのある少女の鈴を転がすような声音が響いた。孫六と目配せ、頷いて炊事を任せて俺は小屋の奥へと足を踏み入れる。


 以前より一層しっかりとした内装に、不釣り合いに安っぽい家具日用品が飾られた部屋の奥。囲炉裏の傍にちょこんと座り込んでいた人影を俺は見つける。傍に寄ればその人影は輪郭をはっきりとさせて黒髪の盲目の少女の姿を浮かび上がらせる。


 焦点の合わない暗い瞳孔が俺を見上げた。


「あぁ。もしやと思いましたが……やはり伴部様、ですね?」

「……いきなり引っ越しで大変だっただろう?身体は大丈夫か?」


 屋敷に来た頃よりは流石にマシであろうが生来に病弱な娘にはある日突然居所を変えろというのは中々酷な話である。目が見えない事もあって精神的な負担は相当なものだった筈だ。


「いえ。御兄様に手を引いて貰いましたので……内装が変わっているのですね?出来るだけ直ぐに覚え直します」


 目が見えないというのは日常生活で危険を伴う。段差に転げて、囲炉裏や火鉢に気付かず手足を突っ込み、家具をぶつけて壊すのは兎も角、自身まで怪我しかねない。彼女が都から允職用の小屋に、そしてゴリラ様の敷地の小屋に移動した時も大変だった。出来るだけ同じ位置関係で物は置いておいたがいつ怪我するか戦々恐々だった。


(いや、俺の心配なんて大した事じゃないな)


 一番怖くて心配だったのは兄妹らだったろう。その意味では俺の心配は偽善だった。


「……事前に言っておく。もしかしたら次の上洛の時に一緒に連れられるかも知れない。そうなればまた覚え直しになるぞ?」


 予想の前置きを置いたが、実際はほぼ確実だろうが。


 俺には分かっていた。あの男が毬を、孫六を連れて行かない筈がない事を。攻める時には相手の最も脆弱な場所を攻めるもの。葵と我妻に守られている白や胡蝶に守られている白若丸とは違う。環に直接仕えている雪音とも違った。二人には明確な後ろ楯となり得る存在はいないのだ。


(悪辣なものだな。あの時そっくりだ)


 こういうあくどい手段は直ぐに思いつくのだから……出来るだけ早い内に毬達をどうにかしたいが、簡単には行かせてくれまい。人質を素直に解放する馬鹿はいない。


「はい。承知しました。……?」

「……どうした、毬?」


 俺の心中を知らずに、ただ予告に対して頷いた毬は、ふと身を竦めませたように此方を見上げた。その憐れみを誘う姿に思わず声をかける。毬は、迷ったように俯いて、もう一度此方を見上げると小さく呟いた。


「何か……怖い事、するのですか?」

「はい?」


 震えた声音に、俺は首を傾げる。傾げて……一瞬遅れて俺はその意味を解する。視線を険しくする。


「毬?」

「そ、その…伴部様の声が……も、申し訳ありません。こんな失礼な事、けど……!!」

「毬」

「……っ!!?」


 俺の呼び掛けに一度動揺して言葉を走らせて、今一度の圧を加えた呼び掛けに彼女は黙りこむ。緊張したように、怯え切る。


「……安心しろ。お前には関係ない。何も。何一つな。だから気にしなくて良いんだ」


 彼女の両肩に触れた俺は囁くように、出来るだけ安心させるように伝える。少なくとも、俺にとってはそれは事実だった。俺は毬にも孫六にもこの感情をぶつけるつもりはなかった。それを免罪符に巻き込みたくもなかった。


「伴部様……」

「どうにかして、入鹿の奴も此方に呼びたいな。ははは、流石に孫六一人じゃあ手が回らんだろうからなぁ」


 不安げな毬の反応を無視して、俺は嘯く。何としても入鹿は連れ込みたかった。あいつには悪いが毬達を守るにはそれが必要だった。俺では到底手が回らない。いざという時、頭に血が上り過ぎて意識していられるか知れないのだから。


 ……あぁ。本当に良かったと思う。毬が盲目で。俺が面を着けていて。今の俺の風貌は、到底人に見せられるようなものじゃない。


 こんな、憎悪と復讐に染まりきった悪鬼みたいな醜い顔なんて。


(許すものかよ。絶対に、復讐してやるぞ、鬼月幽牲為時……!!!!)


 そして俺は心の内で獣のように吠えるのだった。復讐に燃えるのだった。『迷い家』の内で、覚妖怪によって記憶と共に甦った憎しみに。


 そう。あの人の仇を伐つために。俺に、あの人を殺さざるを得なくさせた事に。




 絶対に、殺してやる……!!!!


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