第一一九話

「うわあっ!!?うぐっ!!?……う、嘘っ!!?嘘でしょ!!?伴部くん!!?」


 勢い良く『迷い家』の門前から飛び出した環は直後に垂直に落下、尻餅をついて転げる。転げて、しかし……直後には悲鳴に近い叫び声を上げる。それは殆ど錯乱に近かった。


「そんな、そんな……!?こんな事ってないよ!!?」


 こんな事になるなんて信じられなかった。信じたくなかった。こんな、こんな終わりなんてあんまりではないか……!!?


「待って……いやっ!!待ってよ伴部くん!!助けるよ!?僕が今からそっちに……」

「環、其処動くなあぁぁ!!?」

「……っ!!?」


 ゆらゆらと不安定な足取りで『迷い家』の入口に向けて歩み出す環に、怒鳴り声が鳴り響く。びくりと肩を震わせる環は振り返る。振り返ると共に血飛沫が舞い上がった。何かの崩れ落ちる音。そして、人影が彼女を抱き抱える。  


 半妖化した入鹿が、環を抱き抱えてその場から離脱を図った。跳躍を交えて狼女は疾走する。


「ぼさっと突っ立ってるんじゃねぇ!!食い殺されちまうぞ!!?」

「入鹿……?無事だったの?っ!!?駄目、入鹿!行っちゃ駄目だよ!!まだ伴部くんが残っているんだよ!!?助けないと……!!」


 一瞬呆けて、しかし直ぐに必死の形相で環は叫ぶ。しかしながらその様子を一瞥した入鹿の返答は冷たかった。


「駄目だ。それは出来ねぇ!!」 

「何でさ!!?」

「もう時間だよ!!見ろ、屋敷が崩壊してやがる。次入ったら纏めて押し潰されるぞ!!」


 入鹿の発言に『迷い家』の正面入口に視線を向ける。最早屋敷そのものが痙攣して、倒壊して、死に絶えようとしていた。確かに、あの中に戻るのは正気ではない。しかし……。


「けど、けど伴部くんは……!!」

「自分の心配をしろっての!!何があったか知らねぇがあいつは下人だ、自分の尻は自分で拭くだろうさ!襲撃も受けているんだ、早く鈴音の所に行かねぇとならねぇ……!!」

「襲撃!?はっ!さっきの……!!?」

「あぁ。野郎共、何か手品使って見えないようにしてるみたいだな。何処もかしこも大混乱だ。鬼月のバケモン連中は何やってやがる……!!?」


 環の驚愕に、吐き捨てるように叫ぶ入鹿。尤も、彼女も他人の事は言えない事は分かっていた。嗅覚等の五感に優れる自身でも注意しなければ見逃してしまう隠密能力だったのだから。というか実際一撃食らってしまっていた。突進されただけで良かった。辺りにいた連中の中には初撃で頭を齧られた奴もいた。


「そんな……け、けど!!だったら尚更伴部くんだって危ないよ!?脱出出来ても見えない奴に襲われたら……!入鹿、僕はいいから!入鹿だけでも鈴音の所に……!!」

「煩いな、黙ってくれよ!?お前に何かあったらそれこそ鈴音の奴に立つ瀬がねぇんだよ!!?あいつ、不味い事言ったってかなり思い詰めてるんだか、ら……?」


 其処まで言って、入鹿は思わず口ごもる。そして今更に己の過失に気付いた。勢いと怒りに任せて自分が言うべきでない事を口にしてしまった事を理解する。


「えっ……?入鹿、それって……どういう、事なの?」


 腕の内に抱えられる環が入鹿を見つめていた。困惑したような、驚愕したような、混乱したような表情で、目を見開いて、何か恐ろしい真実の予感に打ち震えていた。怯えた眼で入鹿を凝視する。


「入鹿、鈴音は……何を言ったの?」

「そ、れは……」


 己の主人であり親友でもある少女の問いに、しかし入鹿は即答出来ずに黙りこむ。


「入鹿……?」

「……」


 重ねるような呼び掛けに、入鹿は口を閉ざし続けた。何を言うべきか、何を言わぬべきか、入鹿は迷いに迷う。眼前の親友の瞳から光が消えていくのを、見せつけられる。焦燥する。そして、そして……。


「……何だ!?」


 次の瞬間であった。入鹿の鋭敏な聴覚が、崩壊する『迷い家』の門構えより何かが飛び出したのを感知したのは……。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 牙が迫っていた。間断なく呪詛が鳴り響いていた。挙げ句には壁から無数の腕が伸びてきて追い縋る。


 空を切る音と共にそれらの隙間を縫うように影が飛び込む。紙一重の首の皮一枚で急加速に急減速、そして急転換しながら突き進む。ただただひたすらに光が差す方向へ。


『ニ゙ゲル゙ナ゙ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ッ゙!!!!』

「永劫にさようなら」


『迷い家』の、本当の意味での断末魔の叫びに対して彼女は何処までも淡々と、そして冷たく吐き捨てた。そして抜ける。迷宮の出口を。


「……!!?」


 無数の牙と腕を振り切って空を飛び立つように出口を抜ける。それと同時に『上下』と『前後』が入れ替わった。否、正常に戻ったというべきか。


 脱出と同時に急上昇、曇天の空が見えた。肌を冷たい空気が突き刺す。背後を見れば地鳴りとともに枯れるように崩れていく『迷い家』の大御殿が一望出来た。


「派手に崩壊してくれるものだな」


 思わず意趣返しに罵倒の一言でも口にしてやろうかとも思ったがそんな考えは直後に視界に映りこんだ光景の前に霧散する。


 地を見下せば、其処を満たすのは敷き詰められたような濃厚な霧であった。眉間に皺を寄せて凝視すればどうにか見えた。霧の中で討伐隊が何かと相対している光景が。


「牡丹様!!低空に下がって下さい!!襲撃が、それに……こんな所を飛んでいたら丸見えです!!」


 純粋に己の部下や仲間の安否の心配と、どんな手段を使ってか分からぬがこんな遮蔽物のない場所を二人で飛んでいるという事が目撃される恐れから俺はそれを要求する。尤も、直ぐに後者の理由は然程恐れる必要はないと分かったが。


 首を傾ければ、背後の少女の手首に巻かれている勾玉を目撃する。魑魅魍魎相手ならば兎も角、普通の視覚しか持たぬ人間には俺達の姿は認識出来ない筈だった。それよりも問題は……。


「少し、黙って下さい。これ、意外と集中しないと動かせないんですから……!!」

「は?」


 先程同様に響く鳥の羽ばたくような音と同時に苦々しげに呟く少女。その意味に困惑して、しかし直ぐ様そんな思考も放棄される。


 何せ、直後には姿勢が崩れて俺達は斜め様に急旋回急降下をしていたから。


「うわあああああっ!!?」

『( ´;゚;∀;゚;)ワタシマダシニタクナイッ!!』

「ちぃっ!!?」


 凄まじい勢いで地表が迫る。俺と蜘蛛が叫ぶ。牡丹は舌打ちする。眼前に鬱蒼とした森が迫る。迫る。迫る。


「っ!?こうですか!!?」


 何かに気付いた、あるいはコツを掴んだような牡丹の叫び。同時に激しく空を切る羽ばたき音が何度も鳴り響く。激突直前の急減速、そして姿勢が崩れる。森の中に跳弾するようにして突っ込む。


「くう!!?」


 細かな木々の枝に痛い思いをしながら、それでも大きな幹は避けきって、そして完全に勢いを失うと同時に俺達は纏めて小枝に引っ掛かりそのまま直下に墜落した。尻餅で腰を痛めなかったのは幸いだった。


「はぁ、はぁ、一体何が……」

「下人、失礼しますよ」

「へ?あがっ!!?」

『Σ(; ゚Д゚)ホワッ!?』


 どうにか助かった事に対する安堵の声を漏らす俺に向けて若干早口で言い捨てる牡丹。直後には首筋の下、鎖骨の近辺に突き刺すような鈍い痛みが走った。同時に鼻孔を擽る甘い薫り……。


 松重牡丹が俺に噛み付く。吸血する。血を、吸い立てる。


「ぼ、牡丹、さま……!!?」

「黙って下さい。動かないで下さい。大動脈を傷つけますよ?」


 俺の呼び掛けに対しての返答は凍えるような声音による警告であった。あるいは脅迫か……何にせよ、今の疲弊し切った俺には抵抗の余地はない。煮るのも焼くのもお好きなように、されるがままという訳だ。諦めて、全身の力を抜く。実際、『迷い家』脱出クエスト二連続で俺の体は完全に限界に達していたのだ。搾り出せる体力なんて全く無かった。


「其処まで恐れる必要はありませんよ。ちゃんと加減はします。それに……随分と無茶した貴方にとっても、此は悪い事では無い筈です」

「悪い事では?それは……ぐっ!?」


 牡丹の発言に困惑して、深掘りしようと質問する前に一層容赦なく走る首元の痛みで俺は顔を歪める。


「……!!?っ!?これは……?」


 思わず注射を怖がる子供みたいに、痛みから逃避しようとして俺は咄嗟に意識を逸らす。その結果として俺は今更に傍らに侍る存在に気が付いた。


 黒みの強い烏か、あるいは猛禽類染みた翼が俺を左右からくるみこんでいた。恐らく、先程のジェットコースター染みた飛行の際に響いた羽ばたき音はこれから発されたものであろう。そして俺の思考はその先に向かう。


『迷い家』内部での別れる直前の会話、そして今の状況を勘定に入れる。其処から導き出される可能性、まさかとは思うが……。


「もし、や……よう……」

「これ位で良いでしょう。もう結構です」

「ひぐえっ!!?」


 俺が推測を口にする前に、それを遮るようにして牡丹が言い捨てる。言い捨てると同時に俺も捨てた。文字通りに、後ろから押し倒し地面に打ち捨てる。松重の孫娘は無言の内に一歩退いてくるりと踵を返す。


「流石に、この扱いは……!?」


 どうにかして痛む身体を上半身だけでも起き上がらせる。思わず文句を言うため振り向こうとした所でスパッと黒い何かが頭の直ぐ上を通り過ぎた。


 それと同時に俺の眼前で虚空から血飛沫が舞う。小さく短い悲鳴が上がる。


「あ?」

『(´・ω・`)ヌッ?』


 何かがズルリと崩れて倒れる音がした。真っ赤な液体が地を汚す。悲鳴は上げないがその臭いに思わず吐きたくなった。いや、待て。それよりもこれは……。


「霧の中で騒いでいる連中の正体ですね。……どうやらその勾玉と同じ効果を身に纏っているようです」


 そしてぽいっと俺の直ぐ隣に放り捨てられるのは翠色に鮮やかに輝く小さな勾玉であった。「闇夜目隠之勾玉」、人の盲点に潜る呪具。


「透明化でも擬態でもなく、認識阻害という事か?しかし何故……?」


『遮妖縄』を筆頭に各種の呪具に式神、霊術による結界等々、此度の討伐隊が二流三流の退魔士家が多数参加していたとは言えそれら全てを抜けて陣地を襲撃出来たとは思えない。もしや、あの霧に理由が……?


「っ!!御託は後で良い!!それよりも……ぐっ!!?」


 一度張り詰めていた緊張の糸が途切れたからだろう。どっと身体に押し寄せる倦怠感に筋肉痛、眠気に重さ。そして恐らく貧血もあった。それらが複合した濁流に意識が飛ぶ事こそ無かったが思わず膝立ちとなる。一気に疾走し跳躍しようとするのを身体が拒絶した。


「相当無茶をしたようですね。幾ら中身が人間を辞めているとは言え、無理はしない方が良いですよ?」

「馬鹿言うなっ!!そんな訳には行かねぇよ……!!」


 無理を承知で、それでも俺は震える足で立ち上がろうとする。ゴリラ様や雛は兎も角、部下の奴らに白、環や入鹿、そして何より雪音があの陣地にはいるのだ。放置出来る訳がなかった。疲れたからと弱音を吐く訳にはいかないのだ……!!


「本当に死にたがりですね。……安心して下さい。貴方が出向かなくてももう事態は解決しそうですよ?」

「何、を……!?」


 牡丹の問い掛けに聞き返した刹那であった。空を切り裂くような轟音が鳴り響いた。雷が辺りを照らし出した。霧を払った。陣中の方角からのものであった。


「雷……『黄曜』か?」

『(/´△`\)ゴロゴロコワイワー』


 即座にその判断に辿り着いたのはエフェクトのお陰だった。最上位の本道式の一つ、金色の龍が放つ複数対象指定の半マップ攻撃。遠方から見る雷撃はまさにゲームにおけるそれと瓜二つであったから。


 それは中ボスすら一撃必殺してくる正確無慈悲な雷の雨嵐……「うきゃああぁぁぁぁっ!!??」……何か落雷と同時に何処ぞの末妹の悲鳴が聞こえた気がするが気にしないでおく。あのネタ染みた悲鳴ならば精々頭がアフロになった位だろう。本当に不味い時の断末魔はエグい。


「この辺り一帯に害意ある気配は感じません。ゆっくりと陣中に戻ったら良いでしょう。……出迎えも来たようですからね」

「出迎え?……いや、お前かよ」

『( ^ω^)マウ?』


 投げやり気味の牡丹の発言に、俺は茂みに視線を向ける。一瞬出迎えの正体を幾人か思い浮かべるが、それらは全て外れであった。何せ、出迎えたのは人ではなくて馬だったから。


 ブルル、と暢気な唸り声を上げて青毛馬が歩み寄って来た。態度が完全に気楽だった。「お、お前久し振り」みたいなノリだった。いや、此方は死にかけてるんですけど?というかその表情、お前直前まで俺の存在忘れてたな?


「はぁ、はぁ……とは言え、足としては丁度良い、か?牡丹様は……」

「それでは私はこの辺りで失敬を」

「えっ……うわっ!?」

『(>ω<。)ブワー?』


 嘆息して、現実を前向きに受け止める。受け止めてから牡丹に向けて振り向きながら呼び掛けようとして……そんな端的な別れの台詞を切り出された。直後に吹いた突風に思わず目元を細める。一瞬見えた彼女の姿は明瞭な輪郭で捉えられなかった。そして風が吹き終えた後、其処には最早誰の姿も無かった。


「…………」


 事態の二転三転に呆気に取られて、俺は暫し無言でその場に座り込む。傍らに控える青毛馬が詰まらなそうに此方の髪の毛にしゃぶりついて来たので鼻っ柱を叩いて止めさせた。そのまま深く嘆息。


「皆の所に、行かないとな……」

『( ^ω^)オウチニカエルマデガエンソクヨ!!』

「誰が遠足じゃ」


 馬鹿蜘蛛の発言に突っ込み、そして傍らに寄る馬の巨躯に倒れこむようにして寄り掛かる。


「……出来るだけ、早く帰らないとな」


 全身を脱力させた俺は自分に言い聞かせるように呟いた。それは既定された道筋であった。どのような運命が待っているとしても、俺には他に帰るべき場所なんて無かったのだから。帰る事の出来る場所なんて無かったのだから。


 少なくとも、今はまだ……それを成す迄は。


「けど、その前に……」


 少しだけ、本当に少しだけ休憩を。周囲の安全を保証する去り際の牡丹の発言もあって、安心仕切っていた俺は押し寄せる疲労にその身を委ね、その場でゆっくりと重い瞼を落としていく。静寂の闇の中に意識を沈めていく……。







「……あら、見つけましたよ。下人衆允職?いいえ、娘達が何よりも愛しく想う殿方?」


 意識が完全に途切れる直前、何処までも甘ったるい女の声音が耳を震わせた気がした……。




ーーーーーーーーーーーーーー

「……この辺りでしょうか?出て来たらどうですか、お爺様?」


 深い森の一角に降り立った松重の退魔士『だった』孫娘は冷たい口調で呼び掛ける。森中に震えるように反響する少女の声音……。


『いやはや、これは驚いたの。儂もどうして手助けしてやろうか途方に暮れていた所でな。お主が彼処で来てくれて助かったわ』

「何を白々しい」


 脱出劇の途中からいつの間にか消えていた蜂鳥の式神が牡丹の肩に着地して宣う。その態度に不快感を覚える牡丹は、しかしこの簡易式を握り潰しても無意味な事を知っているのでそれを実行する事はなかった。


『グールールー』


 刻を同じくして森の中からノシノシとした足取りで現れるのは鬼熊の本道式。脱出劇の最後の最後で、環の手の内にあった封符がいつの間にか消えていた事にはたして当人は気付いているだろうか?


「良く生きてましたね?正直使い潰されるものと思ってましたが……それは?」


 貸し出した時点で相当手負いだった式である。その先の道の険しさから半ば捨て駒のつもりで渡していた。その生存と帰還に素直に驚いた牡丹は、直後に熊妖怪が風呂敷にくるんで背負う『何か』に訝る。


「それは……」

『殲滅されるのは目に見えていたからの。その前に一体確保しておいたのよ。おい』

『グルルル』


 そして命を受けて熊が背負っていた『何か』を地面にぽいっと落とす。半殺しにされた何かが小さな呻き声を上げる。


『どうじゃ?今のお主ならば儂よりも遥かに良く見えようて?』


 蜂鳥の、祖父の不躾な物言いに牡丹は思わず眉間に皺を寄せる。そうなったのは誰のせいだと思っているのか……そう吐き捨てた所で祖父は少しも気に病む事はあるまい。いけしゃあしゃあと「自分はまだマシな選択肢を用意しただけ。選択したのは己ではないか」、そんな具合の台詞でも嘯く事だろう。そして、牡丹はその論理に反論のしようもなかったのだ。


「……」


 気を取り直して牡丹は傍らのそれに意識を向ける。腹立たしさを紛らわす目的もあった。しかし、それ以上にこいつは……。


『どうじゃて?』

「……昔、見た覚えがありますね」


 盲点に巣くうその怪物を一瞥して、牡丹は呟く。


 それはまだ彼女が世間知らずの愚かな小娘だった頃の記憶。師として仰いでいた男の元で見た実験の産物だった。


「べとべとさん、我ながら随分とふざけた名前を付けたものですが……」


『べとべとさん』、『爬戸蜚屠蚕』。即ちは戸口に爬っては蜚共を喰い漁っていた蚕共という意味だ。見ての通りの当て字だ。最後の文字に至っては素体が蚕だったために身体が白かった、それだけが理由でこの文字を加えた程だ。完全に悪ふざけだった。


「尤も、あの頃とは似ても似つかない有り様のようですがね」


 眼前で捕らえられたそれは最早己の知っている『べとべとさん』ではなかった。


 蚕を素体にしたとは思えぬ寸胴体は変わらない。しかしながらその大きさは全く違った。掌に収まる筈の躯は、しかし明らかに大物の猪をも越えている。虫程度しか喰えぬ筈の牙は獰猛な肉食獣のようにギラギラと並び立っていた。素体から受け継いだ人懐っこい性質はこの唸り声からして期待出来まい。


「随分と無理をさせていますね。これ程の品種改良なんて無茶苦茶です」


 身体構造の問題から原種からかけ離れればかけ離れる程にその種の受ける負担は過大だ。幾ら世代交代が早くて改良しやすい蟲を基にしたとしてもここまで変質させているとなると……其処に牡丹は合理性に隠された悪意を感じざるを得なかった。


「……あるいは当て付けですか?」


 この妖の製作者の意地の悪い思惑、暗示に対して舌打ちする牡丹。考え過ぎ?そう思う事が出来れば何れだけ幸運な事か!!


「っ……!!それで?お祖父様は何がお望みで?ただ見せて感想を述べさせる事が目的ではないでしょう?」

『ふむ。そうじゃな。一つにはこやつらの製造法についてな。後程その話は聞くとしようかの?』


 蜂鳥は悠々と宣うと嘴に咥えた符に不可視の改造妖を再度閉じ込める。そして、会話を続ける。


『さて、と。……その姿、どうやら決断をした様子だな?』

「背に腹はかえられないものですから」

『ふん。あの男のような事を言いよってからに』

「はぁ?」


 牡丹の身体を無遠慮に観察した後、蜂鳥はそのように孫娘の言葉を評した。牡丹はその言葉の意味を理解する事が出来ず思わず首を捻る。怪訝な表情を浮かべる。蜂鳥はそんな牡丹に真意を伝えずに更に会話を続けた。


『お主の身体に蔓延っていた蟲共は非常に脆弱な存在じゃった。それこそ外気を浴びれば途端に死に絶え、他者の内に潜り込めば拒絶反応で死滅する程に環境の変化に脆い存在であった』


 それは今更のような説明であった。その癖に繁殖力は異様で、身体の彼方此方に、それこそ筋繊維の隙間に入り込み、内臓に食い込み、脈の内で暴れ回る程に。宿主に何らの恩恵ももたらさず、後先すら考えぬ愚蟲の群。


『それでだ。治験も出来ず、これ迄は神経を鈍らせて痛みを誤魔化す事しか出来ぬ有り様であった訳だが……あの下人の身体の状態から儂は一計を案じた。それが、お主の身体の中身を変えてしまう事じゃ』


 環境の変化に弱いというのならば、身体そのものを変えてしまえば良いという発想だ。無論、敢えて病となって中の蟲を殺す等という手段は以前にも行った。流石にそれくらいの対策はされていたので大して効果はなかった。それどころか牡丹自身の体力の方が持たぬ有り様であった。その程度では意味がなかった。もっと大規模に、根源的に変質させる必要があった。


「その結果がこれ、という訳ですか?」


 祖父の説明を受けて、牡丹は改めて己の姿を確認する。最初に視界に映るのは翼だった。烏か鷹か梟か、兎も角も鳥類に類するだろう漆黒に染め上げられた一対の翼。腰元辺りから突き出たそれに牡丹は懐疑的な視線を向け、そして次に視界に収めるのは尾である。


 此方は何というべきか……鼠?蛇?黒く細長く先端が鏃のように鋭いそれを、新しく出来た神経系を四苦八苦しながら動かしてくねらせるように動かしていく。そのか細さは一見頼りないが実態は其処らの刀剣では太刀打ちも出来ぬ凶器に他ならなかった。実際に試しに下人の頭の上で一振した時にその威力は証明されている。


『それに耳元じゃな。若干の獣妖化の形跡が見てとれる。角、かの?恐らくは視覚以外の感覚器官も以前よりずっと鋭敏となっているじゃろう?』

「……一つ、抜けている説明がありませんか?」

『はて?何の事かな?』

「ぶち殺されたいのか、糞爺が」


 牡丹の指摘に対しての惚けた返答に、牡丹は有らん限りの怒りを込めて罵倒した。普段の冷静沈着な口調が壊れる程だった。この姿を見れば当然であろう。これではまるで……。


『お主に妖の因子を加える上で儂も悩みに悩んだものでな?其処らの雑魚では効果は中途半端になろうて。強力な個体が必要じゃった』


 幾つか候補を絞った。そして選び抜き召喚した一柱から因子を頂戴した。それを核として絶妙な具合に調合したその薬品は、結果として牡丹を理性が残る範囲で最大限に妖化した。そして、その内に犇めく蟲共を見事に死滅させたのである。


「その代償がこの形ですか。悪意しか感じませんね?これは……まるで夢魔じゃないですか?」


 最後は僅かに口にすべきか迷いながら、牡丹はそれの名を口にする。南蛮の地にて伝わる妖魔の一種。色魔、吸精鬼とも呼称されるそれはその現す字の意味の通りに部分的に魔系種、鬼系種と習性が重なる部分がありそれらの近縁、あるいは雑種ではないかと旧西方帝国の著書『魔種系統樹紀』では推測されている。


「幾ら色欲を司る悪魔とは言え、その血だけならばここまではっきりと発現はしません。……入れましたね?あの下人の血を」

『血の方向性を固定する事、そしてお主の持続的な生存のためには不可欠だと思ったからの』


 非難に満ちた牡丹の視線に対して、悠々と蜂鳥は主張する。入手出来た希少な悪魔の血、しかし悪魔は数ある妖の中でも特殊な存在だ。


 多種多様の怪物が無数に折り重なるようにして合成されて誕生するとされる悪魔は、材料となった存在からその特性に傾向こそ存在するも実際に薬の材料とすればどの因子が一番強く作用するのか実際に試してみなければ見当がつかない問題があった。


『あやつの血に潜む妖母の因子を更に希釈して活用した。あくまで悪魔の血から特定の因子だけを刺激し活性化させるためにの。そうせねばお主を殺さねばならなくなる』

「人肉を求めぬように、ですか」


 半妖化と一口で言っても程度や系統がある。あの下人はある意味で例外としても大乱時代に乱造された人工半妖連中なぞは特に戦闘特化型の場合、妖化が進むに連れて理性が崩壊し本物の妖の如く人肉を求めるようになったとされ、多くが消費期限に達し次第味方によって殺処分された。


 逆に大狸の因子を活用した吾妻雲雀の場合は戦闘に積極的に参加する事も無かったために知性と理性を高い水準で維持して存命している事例だろう。白狐の小娘の場合は同じく知性と理性に優れた妖狐の血脈に加えて生まれながらの半妖という極めて安定した体質であったが……少なくとも元となった九狐はそのままほぼ完全な妖に堕ちていたようである。


『あの蝦夷の狼女の場合は無理矢理の施術という事もあったからの。妖化の進行が進むに連れて人間性が蒸発する運命にあった筈じゃ。……尤もあの下人の血を摂取した事による縁がまた違った作用をしているように見受けられるがの』


 そしてあの影に変質した蝦夷の男は……下手すれば一番人間から逸脱している事だろう。それでいてあの理性を維持しているのは改造した者の技術の高さ故か、あるいは本人の素質故か?


『お主の場合は一番最初の事例に近い。残念ながら儂の技術では確実に安定した変異を引き起こすのは至難の業じゃ。じゃから変異先を固定する必要があった。……今のお主の変貌であればいざと言う時に人肉以外で代用が出来ようて。実際、先程もそうしたじゃろう?』

「効率は悪そうですね。流石に量が必要でした」


 変質した先が吸血鬼であれば然程必要ではなかっただろう。あの男の身体はガワこそ人間でも一皮剥けば最早人外の方が遥かに近い。それも地母神の因子を含んだ特上の素材である。流れる血はその道の界隈ならば最上級品として取引される筈だ。


『逆に言えば吸血鬼は血肉以外の吸収効率は宜しくないのでな。除外させて貰った。その身体ならばより広範の種類で飢えを代用出来ようて。南蛮の実験記録によれば涙や血液、唾液に汗。胃酸液、母乳、湯放、それに……』

「分かってます。ですからそれ以上は言わなくても良いです」


 孫娘が蜂鳥の説明を遮ったのは既知の内容であるからというよりも別の意味合いがあるように思われた。少なくとも蜂鳥はそのように判断した。幾ら外面では平然とした素振りを装っていてもその僅かな所作の機微で内心何が渦巻いているのか窺い知れた。


 無論、敢えて指摘しようと言う程に意地悪くはないが……。


『効率的である事は否定出来まい?お主も人を喰う程に堕ちたくはあるまいだろう?』

「最悪、俺様が便宜を図ってやっても良いんだけどな?」


 翁の指摘に続くように自然に会話に参加したその酒臭い化物の発言に、翁と牡丹は同時に胡乱げな視線を向ける。


 当然だろう、鬼の発言を鵜呑みにする馬鹿はいない。


「大体予想出来ていましたが……貴女も抜け出せましたか。特等席で随分とお楽しみでしたね?」

「おっ?分かる?」

「吐き気がするくらいに酒臭いですから」


 無論、それは鬼が隠行を解いたから感じ取れたものであったが。恐らく隠れているだろう事は分かっていたが……ここまで濃厚な臭いを誤魔化していたのは少しだけ予想外だった。興奮し過ぎにも程がある。


「ははは。そういうなよって、今日からお仲間だろう?仲良くしようぜ?最後の最後のトリでのあの登場は中々に燃えたぜ?最高の演出だったなぁ!!」

「私は演劇をしていた覚えはないのですが?」


 自分やあの下人の命懸けの選択、覚悟を娯楽扱いして消費される事に牡丹は不快になる。せめてそれを自分の前で言う必要もないだろうに……。


『ウチの孫が人を辞めた事に対して、意外な反応ですな?あの下人への期待と態度を思えば不興を買うかもと考えておりましたが。やはり、脇役への関心は低いという事ですかな?』

「というよりかは脇役だからこそ味が出るってものだぜ。お前さんとの今後の関係はあいつに良い味を出させてくれるのは確実、脇役は脇役でも名脇役って奴さ。寧ろ期待しまくってウキウキよ!!」

「好き勝手言ってくれる……」


 ゲラゲラと心底愉しげに宣言する鬼に対して、牡丹は何も期待はしていなかった。これまでの無理矢理の付き合いでこういう流れは直ぐに想定出来ていたから。


「そう言うなって!……ほれ、お前さんも此方の仲間入りして色々勝手が分からねぇだろ?今度色々と教えてやっても良いんだぜ、同じ鬼として。……手取り足取り、な?」

「止めろ、来るな。しなだれるな」


 妖化しても尚、反応すら出来ぬ速度で肉薄してきた碧鬼が牡丹の正面からふざけるように倒れこんで来る。噎せるような酒精の臭いと薄い己の胸元に感じる感触に牡丹は苛立つ。


「そういうなって。……だってお前さん。あいつの側に迫っていた気配に気付いてなかっただろう?」

「っ……!!?」


 耳元で囁かれた鬼の指摘に、牡丹は思わず目を見開く。鬼の顔を見る。犬歯を見せる、鬼の不敵な笑みを凝視する。


「それは……」

「安心しな。少なくとも今すぐ害するって訳じゃあないのは確かだったからな。その意味じゃあ確かにお前さんが言ったようにあの場に危険な奴はいなかったぜ?」


 追及しようとして手を伸ばす牡丹。しかし鬼はまるですり抜けるかのようにさっとその手を避ける。一歩二歩と後ろ歩きで距離を取る。


「寧ろ……問題はあいつ自身だな」

『下人の事か。妖化についてか?』


 鬼の言及に翁が問い掛ける。しかしながら、その質問に対して鬼はこれ迄とは打って変わって急に複雑そうな表情を浮かべた。


「いんや。ある意味もっと深刻な事さな。……出来れば俺の好みから外れて欲しくはないんだけどなぁ」

「……?」


 鬼のその不可思議な程にしおらしく何処か物悲しげな態度に牡丹は、更に言えば翁も眉を顰める。鬼の見せた反応は彼女達にとって初めてのものであったから。


「……何を言っているのですか?」

「似て欲しくねぇな、って話かな?」

「は?」

「んじゃあ、ここいらでおさらばってな!!」


 牡丹の問い返しに対して、鬼の返答は先程までの態度が嘘のようなあっけらかんとした退出宣言だった。牡丹や翁が何か言う前に鬼の姿はあっさりと消え失せてしまう。それはまるで一迅の風のように。


「っ……!?相変わらず素早い奴!!」


 何時もながら曖昧で抽象的で一方的な物言い。それに舌打ちする牡丹はしかし、直ぐに苛立つ神経を落ち着かせ気を取り直す。


「……源武、取り敢えずお前の怪我から診ましょう。来なさい」

『グルルルル~』


 嘆息しての手招き。それに駆け寄る熊妖怪の機嫌良さげな唸り声に、牡丹は淡々と無視して手当てを施し始める。呪いと共に呪符が舞ってそれらは傷口を塞いでいく。本格的な手当ては流石にここでは無理だった。応急処置である。


「命令です、その捕らえた獲物は貴女が責任を以て運びなさい」

『グルルー』


 牡丹の命令に「人使いが荒いなぁ」とでも言わんかのように鳴き声を上げる熊妖怪。その態度に鼻を鳴らして牡丹は踵を返す。その傍らを歩くのは、まるで初めから其処にいたかのような素振りを見せる二又の猫。


『猫又』、『寝虚魔鉈』。朝廷も運用する、松重の翁が孫娘に付けた緊急時の監視と処刑のための式神。改造妖……。


『ん?まだ連れて行くのかの?それを?』

「まだお祖父様が安心していない事は知っていますので」


 半ば以上妖化している人間を、孫娘だからといって欠片も疑わずに放置する程、己の祖父は甘い人間ではない事を牡丹は知っていた。


「私自身、自分を信用出来ていません。あの下人の例は全く参考になりませんですしね」


 だから牡丹は素直に受け入れる。己の命を刈り取りかねない猫を傍に置く。


『……嫌味かの?恨んでおるか?』


 何を、とは言わなかった。恨むに値する事ならば幾らでもあったから。その蜂鳥の呟きに対して僅かに振り向いた牡丹。蜂鳥に向けて、口を開く。


「当然でしょう?今の状況は私自身の愚かさも理由ですが、欠片も貴方に落ち度が無かった訳でもないのですから」


 牡丹の指摘は何処までも明瞭に悪意と憎しみを祖父に向けて突き立てていた。不機嫌そうな視線を向ける。そして……何処か吹っ切れたように苦笑した。


「世の中、配られた手札で勝負するしかないそうですからね。お終いにならぬだけ良しとしますよ」


 何処ぞの誰かのような言い草で、牡丹は嘯いた。そしてそのまま、颯爽として森の中に消えていく……。


『……知らぬ内に逞しくなったものだな』


 暫し沈黙した蜂鳥は、しかし誰に語る訳でもなく一人呟いた。感慨深けに、呟いた。


『グールールー』

『いや、お前には話しておらんわい』

『グー……』


 そして己の呟きに応じる腕を組んで後方理解者面で頷く熊妖怪に対して、即座に突っ込みを入れた翁であった。その扱いに、熊妖怪は暫ししょんぼりと項垂れていた……。







 

ーーーーーーーーーーーーーー

 深夜、瓦礫の山が其処にあった。否、正確に言えば瓦礫染みた植物の死骸が並々ならぬ存在感を放って其処に鎮座していた。


『迷い家』……御殿の姿を偽る巨大な植物の塊。辺りには死に絶える直前に文字通りに吐き出して、そのまま主を失い死に絶えた眷属共の無数の骸もまた散乱していた。流石に数が数だけにそれらは未だに処理されてはいないらしい。


『迷い家』そのものも、その死した眷属もどちらもある意味では宝の山である。既に討伐隊ではその期待される利益を巡って仕留めた狸の皮算用を始めていた。明日には使える物は回収し切って御殿ごと全て焼き払う手筈となっている。


 山積みの残骸、その一角がふと崩れ出す。そして……月明かりが曇天に覆われた直後、それは姿を現した。


『くっくっくっくっ!!はーはっはっはっ!!!!』


 漆黒の闇夜の中で、それは瓦礫の山を押し退けて躍り出た。蠢いた。悪意に満ちた残虐な笑みを浮かべて、嘲笑う。


『これが久し振りのシャバの空気ってなぁ?へへへへ、実に清々しい気分だぜ!!』


 大柄な童人形がカタカタ身体を鳴らしながら喜びに打ち震える。何十年、あるいは何百年。あの迷宮の中でさ迷い続けるのは退屈の極みだった。


『けっけっけっ。どうして俺が他の連中と違って主人が死んでも生きてるかってぇ!!?簡単な話さぁ!!所詮はあの「身体」は俺様の魂の容れ物に過ぎねぇからさ!!』


 人形は誰も聞く者がいる訳でもないのに自慢気に叫ぶ。己の持つ『異能』の本質を。


 ……とある退魔士家の分家筋に生まれた男はしかし、退魔の才覚は殆ど受け継がず、裕福な地主としての人生を歩む事を定められた。


 そして男は思った、詰まらないと。


 加虐心と悪意の塊であった男は先ず領地の民草を身勝手な願望の犠牲とした。己の力とするために、禁術の生け贄とするために。一族が男の大罪を察して討伐に出向いた時には既に領地の人間は全滅していた。男は逃亡していた。


 流れに流れて、己の欲望を果たすためにモグリの呪術師となった男は朝廷に追い詰められて、足掻きに足掻いた果てにその命を落とし……そして初めて己の隠された異能に気付いた。


『傀儡霊』、男の持つその異能の力は二つ。一つは己の魂を人形の内に留める事。今一つが己の殺した者の身体を乗っ取れる事。そして、それこそが多くの眷属が『迷い家』と運命を共にした中でこの悪霊が生き残った理由だった。つまり……。


『ははっは!!あの糞忌々しい御殿が眷属としていたのは俺が憑依する人形だけだったって訳だな!後は御殿のガラクタの山から……』


 悪人は己の憑いた人形の身体を一瞥する。随分と傷んでいた。片腕は無くて、足も捻れている。尤も、痛覚なんてないので中身の存在からすれば大した問題ではない。所詮は容れ物だ。


『けけけ。まぁ、一夜の宿としてならば十分さな。もう次の容れ物は決めているしなぁ!!』


 かくして、人形は何処までも邪悪な笑みを浮かべる。その手には折れた刀の先端を握り締めていた。そして、歩み始める。その場所に向けて。己の定めた獲物に向けて。


 向かう先は『迷い家』討伐隊の野営地。その内の一つ。鬼月家の天幕。下人衆允職の、天幕。


 男は遭遇してからずっと、彼に狙いを定めていた。それは怨み辛みも理由だが、それ以上に絶好の人物だと感じていたからだ。


 糞餓鬼共との接し方で直ぐに分かった。あの下人がどういう人物なのか。女子供から信頼されて慕われやすい人物だろう事は容易に想像出来たし、事実観察していけばそれは確信へと変わった。それは己が乗っ取るには絶好の身体だった。


『信頼している奴に殺される餓鬼ってのは中々良い顔を見せてくれるもんなぁ?訳の分からないって面してよ、泣いて絶望して呼び掛けて来る光景はもう最高さ!!』


 それは経験者の台詞であった。事実、人形の内の魂は同様の事を、それ以上の事だって何度もしてきたのだ。それは癖になる、止められない甘美にして魅惑の一時であった。


『ほぅ、結界か。だがぁ、詰めが甘いねぇ?』


 陣を守るようにして張り巡らされた縄を一瞥した人形は嘯く。そして呆気ない程にあっさりと縄を抜けた。結界を張る『遮妖縄』を易々と潜る。


 当然だった。この縄は妖を遮るもの。前回まで使っていた人形ならば兎も角、今使う人形は『迷い家』の内に安置されていた置物の一つに過ぎない。ましてや中身の存在は霊気で構成された魂である。結界が発動する訳もない。男の異能は潜入に際して非常に秀でたものであった。


 明日にはこの地を撤収する予定なのだろう、陣内を忙しく行き交う連中から隠れながら少しずつ人形は其処へと忍び寄っていく。そして遠目に見つける。目的の下人の気配が漂う天幕を。


『きひひひひっ!!待ってろよぅ、糞忌々しい兄ちゃんよぅ!!愛しい俺様が今夜這いに行ってやるぜぇ!!』


 ギラギラとした笑みで、刃物を掲げて嘲笑う人形。来るべきその瞬間に初夜を待つ乙女のように胸を高鳴らせて一歩、天幕に向けて進んだ。


 腕を模した、無数のドス黒い闇が人形を絡め捕らえた。


『あ?』


 一体何が起きたのか、困惑した人形。しかし次の瞬間には人形は有無を言わせずに闇によって引き摺り込まれる。近場に停車していた『迷い家』の内に。


『迷い家』の内に仮住まう、邪悪の塊そのものの元に。


『や、止めろぉっ!!?』


 己を捕らえた存在が何れだけおぞましき存在なのか、殆ど本能的に察した人形は必死に暴れ回る。腕を模した無数の闇から逃れんとしてのたうち回る。


 無意味だった。全てが無駄であった。最早全てが手遅れであった。


『ひ、ひぃ!!?に、逃げげゲゲゲッボッ!!!??』


 蜥蜴の尻尾宜しく、緊急避難的に人形の内から離脱しようとする男の魂。しかしその不可視の筈の魂にもまた無数の腕が絡まりついた。


『な、ナニガドウナっテいルるる!!?』


 男の魂は恐慌状態に陥っていた。狂気と、恐怖に呑み込まれていた。目には見えずとも魂は明確に理解していた。己に迫る濃厚な無邪気な邪気の存在を。自身を絡め取る己を遥かに超えるおぞましき『ナニカ』の存在を。


『た、たたタ助ケテクレッ!!?おぃヨセ!!よセょセヨせッ!!?』


 闇が、顎を開いたのを目撃して、男の魂は己が運命を理解した。理解させられた。


『ヤ、やめロ!!?ヤメテクレぇエェェェッ!!?』


 木霊する魂の奥底からの絶叫すら、掻き消すように闇の中に呑み込まれた……。





ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「……?なんだこりゃ?」


 明日明朝の撤収のために作業していた某家の雑人は地面に打ち捨てられていたそれを見て首を傾げた。


 損傷の激しい童女を模した扶桑人形。思わず拾い上げて彼方此方と見定める。そして再度首を傾げる。


 一体これはどういう事か。一体誰の物なのか。周囲を見渡す雑人。そうして真っ先に視線が向かう先は一番傍に停車する鬼月家の牛車である。物見窓が開いた、牛車。


「いや、まさかな」


 雑人は肩を竦めて否定する。鬼月の一族の貴人達ならば先程会議のために天幕に入った姿を見た。どう見ても手元にある幼子用の人形なぞで戯れる年頃とは思えない。あるいは傍に控えていた半妖の白丁の物かとも考えるが……どうにも違う気がする。


「はて、不思議な物だ。一体どういう事か……」


 再度首を捻って人形に視線を注ぐ雑人。そして今更に気付く。人形の表情が崩れたように歪んでいる事実に。まるで無間の地獄に堕ちてもがき苦しんでいるかのような必死な形相。子供向けというにはこれは余りにも……。


「悪趣味な。一体誰の持ち物、か……?」


 思わず零れる罵倒の言葉。直後にぞわりと肩を震わせて、雑人は思わず背後を見やる。視線のようなものを感じたからだ。尤も、何もいない。何も見えない。ただ、牛車が一台停車しているだけだ。


「……何かの呪具か?気味が悪い」


 何処ぞの退魔士家が敢えて安置しているのかも知れない等と思い至り、雑人は人形をその場に戻した。触れぬ神に祟り無し。雑人は胸騒ぎと不安からこれ以上の詮索を止して立ち去る。


 見ざる。言わざる。聞かざる。悪しき物は根底から関わりを忘れ去る事が悪縁を絶ち切る最も簡単な手段であったのだから……。


 そうして、冷たい地面の上に残される傷んだ人形。ただ一つ、ぽつりと残される。残されて、残されて……いつの間にかそれが無くなっていた事すらも、誰も知る由は無かった……。

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