第一一八話

獅子舞麻美の骸に宿るその魂の『残滓』が目覚めたのは環が蔦に囚われた所であった。


「……」


 ぼんやりとする思考、重たくて、しかし嫌に軽い身体。視線を下半身に向ければその理由は一目瞭然であった。普通ならば絶対に助かり得ない傷で尚、痛みの一つすら感じない事実に改めて彼女は己が最早生きていないのだと分からされる。思わず浮かぶ冷笑……。


「……ふざけんな」


 呟きは小さく、しかし其処に含まれる思いは何処までも激しかった。己の精神に関する干渉が放棄されているのか、一度思えば次々と溢れ出す憎しみ、怒り、苛立ち、悔しさ、そして……悲しみ。


「……このままで済ますか。済ませるものか……!!」


 奥歯が割れる程に噛み締めて、屈辱に打ち震えて、何よりも復讐心が彼女の道標となってその決断に導いた。そして……這い出した。


 それはゆっくりと、しかし確実に。己の存在を薄めて両の手で身体を引っ張るように、惨めな姿なのも割り切って、向かう先は火鉢だった。あの業火が下人の相手に夢中になっている事、隠行で以て潜んでいた事、それら含めて良い目眩ましとなっていた。


 慎重に、慎重に。丁度、あの下人が投石器で何かを打ち出した。直撃した火鉢が弾ける。砕け散る。灰が舞う。致命傷ではなかった。漏れ出た白灰の内に脈打つそれを見出だす。鬼火のように火炎を纏うそれを認める。


「はっ、好都合……!!」


 口元を吊り上げる。迫る。迫る。這い寄る。そして、手が火傷すら気にせずに燃ゆるその核を躊躇なく掴む。


「あっ……」

「ん?」


 重なる呟き。獅子舞の掴んだ手の甲に被さるかどうかで止まる誰かの手。火傷で痛々しく腫れるその腕に沿って視線を移す。視界に映りこむは此方を見て驚愕するように目を見開くあの御人好しの箱入り娘。


「あ、あの……獅子舞、さん?」

「……いや、警戒くらいしなさいよ。馬鹿」


 困惑仕切った小娘に向けて、取り敢えず獅子舞は苦笑しながら宣った。裏切者相手に、幾ら何でも無防備過ぎるだろうに。この娘の将来が本気で心配になる。


「あ、はい。……えっと、そうじゃなくて、あの……っ!?」


 思わず応じて、そして何か言いたそうにする環は、しかし直後の下人の悲鳴に思わず振り向く。顔を青くする。叫びそうになるのを獅子舞は止める。止めて、その手に持つ短刀を意識を向ける。


「良い物持ってるじゃないの。私の爪より確実ね。……少し、手を貸して貰えるかしら?」


 獅子舞の求めに、眼前の少女が即座に頷いた事実に獅子舞は改めて呆れ果てていた……。






 そうして業火は悲鳴を上げる。絶叫する。獣みたいに喉の奥から叫喚する。その身を滅茶苦茶に荒ぶらせて、崩して、のたうち回る。それは即ち、業火を操る化物の本体の断末魔の叫びであった。


「や、やったの……!?」


 思わず環がすがるようにして呟いた。その直後の事だった。


「っ!?不味いわね。これは……!!」


 空間が震えた。世界が地震のように揺れ動く。生き物のように痙攣する。そして、その景色が、壁が皹割れていく。


「えっ……!?」

『キヒッ!!クヒヒヒヒヒヒッ……!!モウオ終イダッ!!貴様ハモウ何モカモオ終イナノダッ……!!』


 周囲の状況に動揺して怖じける環。其処に息絶え絶えに高笑いするのは『迷い家』の外装。その意志を代弁する業火であった。業火はその身を溶かすように潰えさせながら嘲笑う。そして叫ぶ。宣言する。


『迷い家』はその内を空間と法則を歪めて異界化している。しかしながらそれは多くの霊術妖術同様に世界を偽る行為である。


 霊力や妖力が切れれば、あるいは術師が失われれば、事前に対策しなければ歪曲化され続けていた法則が元に戻ろうとするのは必然であろう。そして、当然ながら『迷い家』が己が死ぬその時に内部に潜り込んだ侵入者を安全安心に出してやる思い遣りなぞある訳がなかった。


『ハハハハッ!!終ワリダッ!!全テガ終ワリナノダッ!!貴様ラハココカラ逃レル事ハ出来ナイ!!永遠ノ虚無ノ中ニ閉ザサレルガイィ……!!』


 ひたすらに罵って、嘲って、呪いながら業火は完全に消えていった。その喧しい叫び声だけは尚も暫し部屋に響き渡る。しかし、最早そんなものを気にする者は皆無だった。


「そんな、折角倒したのに……!?」


 化物の捨て台詞に対して絶望に満ちた表情を浮かべる環。あれだけの苦難を経て掴んだ勝利も、しかし全てが無駄であったと言うのか?


『落ち着け、娘子よ』


 あからさまに動揺する環に向けてそう宣ったのは眼前に着地した蜂鳥だった。皺嗄れた声で、落ち着いた口調で蜂鳥は説明する。


『案ずるな。『迷い家』の特性からして絶対に帰り道を用意していない等という事はない』


 それが『迷い家』という妖の強力な権能の条件であった。「外側からひたすら吹き飛ばし続ける」という対処法が確立される以前に討伐された『迷い家』は、確かにその条件は遵守していた事が記録に残されている。誠実だった訳ではない。ただ、それが彼らにとって本能の領域で守らざるを得ない要素であったのだ。


 ……尤も、だからこそ可能な限りその帰り道を過酷に舗装していたが。


『何にせよ、時間に余裕がある訳でもない。嘆く暇があればさっさと此処を退散するとしようぞ』


 その宣言と共にぬっと環の視界に現れるのは黒焦げとなった下人を背に乗せる鬼熊であった。恐らくは走る事なぞ出来ぬ彼を運んでくれる熊妖怪の行動に環は有り難さを覚えると共に罪悪感と恥を実感した。『迷い家』の言葉に惑わされて恩人の安否が完全に頭から抜けていた。最低な性格だと環は内心で自虐する。


「有り難う、くまさん。そうだ、後は獅子舞さ……わっわっ!!?」


 式に向けて感謝の言葉を伝えて獅子舞の運び出しを御願いしようとした環は、しかし直後に熊に脇に挟まれるようにして抱き抱えられる。慌てる環。


「ち、違うよ!?僕はいいから獅子舞さんを……」

『戯け。娘子よ、主もぼろぼろじゃろうて。その成りでは式に追い付くのは無理じゃ』


 野生の熊の疾走は唯人の足では逃げ切る事は不可能だ。ましてや熊妖怪の本気の全力疾走なぞ……しかも環は片腕を火傷して、もう片方の手も短刀を突き立てられて深手を負っていた。到底走る事は出来まい。式にとっても蜂鳥にとっても環の運搬は既に確定事項であった。


「け、けど……!!獅子舞さんは!?そ、それに牡丹さんも迎えに行かないと!?」

『あやつならば自分で何とかするわい。娘子が心配する事ではないて。……それに、その方も覚悟は決めておるようだぞ?』


 蜂鳥は己の孫娘の安否をさらりと流す。そして視線を倒れる獅子舞に向ける。それに釣られるように環もまた獅子舞を見やれば、床に倒れる彼女は肩を竦める。


「……どうせ、今の私はこの部屋と同じよ。残されている霊力妖力で動いているだけの骸。長くはないわ」

「獅子舞さん……」


 獅子舞の言わんとしている事に唖然として、ただただ譫言のように彼女の名を呟く環。その表情に獅子舞は更に呆れ返る。


「生者が死者より優先されるのは当たり前、そもそも三人もそいつは抱えられないでしょう?……こんな糞っ垂れの場所から解放してくれて有り難う。さっさと行きなさい」

「……僕の方も、助けてくれて有り難う」

『行け、源武。さっさと走れ』


 獅子舞の謝意に対して、今にも泣きそうになりながら環は一層深い思いを込めて感謝の意を伝える。それを一瞥して蜂鳥は急かすように式に命じる。一言唸った熊妖怪は浪費した時間の分を取り返すようにして、全速力でその場を立ち去っていく……。


『……にしても殊勝な事だてな。形見やら遺言くらい言いそうなものと思ったが』


 熊を先行させて、尚その場に留まる蜂鳥が感情の窺えぬ作り物の瞳越しに獅子舞麻美の『骸』に向けて声をかけた。僅かに冷笑を含んだ物言いに獅子舞の方もまた小さく笑った。


「死人が形見や遺言なんて滑稽でしょう?……あいつ、無駄に思い詰める性分なのは少し付き合っていれば分かるわよ」


 故に下手な呪いを掛けるべきではないと獅子舞は判断した。死者に縛られ、引っ張られる者の末路は明るくない。獅子舞は環に対して心から感謝していたからこそそのように決断した。


 無論、本音で言えば幾らでも心残りはあるのだが……自業自得で他人を巻き込むのは筋違いだ。


「アンタもさっさと行ったら?あいつには助言役が必要でしょう?一人だと直ぐに食われちまうわ」

『……儂の都合もある。あの小娘は此処から出られるように最善を尽くそうて』


 獅子舞の強がるような言葉に対して、蜂鳥は僅かの沈黙の後に一礼してそう答える。そして、飛び立つ。立ち去る環達を追うために……。


「それは結構……」


 蜂鳥の返事に、獅子舞は冷笑と感謝の念を込めて独り呟いた。偽りの世界が崩壊していく様を暫しぼんやりと見つめる。瞼を閉じて何かを追憶していく。


 そして、少ししてから彼女はちらりと環達の去った方向を見た。人っ子一人、そこにはもういなかった。その事に安堵すると共に、寂寥感が胸の内を満たした。


「ははは。最期は一人、かぁ……」


 最早誰もいない部屋の中で、崩れて消え行く世界の中で、獅子舞麻美は自虐的に呟くのだった。


 己にはお似合いの最期だと、心から思ったから……。












「……あら?あんたは……お仲間ならあっちに行ったわよ?」


 ……『骸』は、遅れて来た訪問者に向けてそのように方角を指し示した。



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「……てな訳で、どうにかこうにか俺らは脱出出来た訳さ」

「そんな所さぁな。にしてもまさかもう一度戻っちまうのは驚いたが……物好きな人間もいたものだよなぁ?」


『迷い家』を包囲する陣中、その一角に設けられた医療用の天幕にて人夫らは事のあらましを答える。


 答える人夫らが此処には運び込まれたのは凡そ一刻程前の事である。彼ら以外にも十名程が此処に通されて傷の手当てに併せて呪いや洗脳、体内への妖の寄生の有無等について徹底的に調査され、事情聴取された。寧ろそちらに掛けた時間の方が多かったくらいである。


 当然だろう、『迷い家』の権能は脱出は不可能ではないが容易でもない。内部時間の流れが外界に比べて不安定な事もあれば尚更だ。脱出出来た事それ自体が奇跡に等しい。それもこの短期間でこの多人数……様々な疑いを掛けられる事は必然だった。尤も、その嫌疑は最早晴れているようであるが……。


 軟禁に近い保護、其れが迷宮から脱出に成功した者達に待ち受けていた待遇であり、陣中の特に安全な場所に設けられたこの天幕に白が訪れた理由は明瞭であり、生還者を迷宮の奥底から導き再度舞い戻った恩人でもある下人の話を聞くためであった。


 まぁ、怪我の具合や戻った理由を聞こうとしての訪問であった筈なのだが実際に聞かされたのは武勇伝であったが。


「おい、おっさん。勝手に話盛るなよ。あんたはそんなに活躍なんかしてねぇだろうが?腕に矢が刺さってずっと泣いてた癖に」

「誰がおっさんだ糞餓鬼め。俺はぁまだ三十路にもなってねぇわ!!それに泣いてはいねぇ!!」

「泣き言はいってたがな?」


 ジト目で武勇伝に突っ込みを入れるのは下人見習いであり同じく『迷い家』より脱出した十六夜だった。何なら彼の班の者達全員が同じ視線で人夫を射抜く。「ぐぬぬ」と何とも言えぬ表情を浮かべる助丸。


「允職には随分と世話になったぜ。流石名門鬼月家の允職位だ。俺が見る限り主家の姫君の命で戻ったんだろうが……装備も殆どなく、怪我の治療も満足に行わずにとなるとはな……」


 話を繋ぐように答えるのは全身の彼方此方に包帯を巻いた他家の下人だった。確か佐久間の下人であったか?


「おい、口を弁えろ佐久間の。此方の白丁はその姫君の僕だぞ?……申し訳ない。允職には世話になったものでして、その分あの命令にはどうしても大なり小なり思う所があるのですよ」


 佐久間の下人を叱責するのは朝熊家に所属していた下人班長であった。傷だらけの身体を無理して代わりに謝罪を口にする。


「そう、ですか……いえ、貴重なお話有り難う御座います」


 白はそんな彼らの話に対してペコリと丁寧に頭を下げた。実際の所、詳しく主人に話を聞いていないしその前に何処かに消えてしまった事もあって確信はないが白は彼が地獄に舞い戻ったのは決して主人の命令ではないと思っていた。決して口にはしないが……。


「また、話が聞きたいなら何時でも来てくれ。しかし……そろそろ定刻か」


 朝熊の下人班長は快く白の謝意を受け入れ、しかし一瞬後に重苦しく呟く。それに釣られるようにして残る生還者達も複雑げな表情を浮かべる。


『迷い家』に囚われた者は一日以内に脱け出さなければ亡き者であると想定する……何時までも生還を期待して待ち続けるような事があっては時間の無駄であり、ましてや此度の討伐隊の目的は調査ではなくて本格的な殲滅であれば、その意味は一層重い。そして、刻限は最早間近であった。


「……すみません。それでは私はそろそろお暇させて頂きます」


 白は呟きに答える事はなく、再度一礼した後に天幕から去り行く。それを咎める者は、何処にもいなかった。


「…………」


 天幕を出た白は暗い表情で俯きながら黙々と陣中を歩き続ける。陣中を彼方此方に行き交う者達はそんな半妖の少女の姿を一瞥した後に己の仕事に戻っていく。最初の頃は半妖である事にぎょっとした態度を取る事も多かった彼らも流石に今はその存在に慣れたようで、寧ろその余りにも落ち込んだ姿に怪訝な反応をする者の方が多かった。


 当の本人はそんな周囲の反応にも関心を持てずにいたが。


「伴部さん……」


 さ迷うようにして彼女が辿り着いたのは件の下人の天幕であった。最後に言葉を交えたのが此処だった。主君から受け取った弁当を一緒に食べた時の事だ。それが最後の食事でもあった。今は何も食べる気になれない……。


 天幕の内に入る。其処にある物は簡素で私物すらも殆どなかったし、数少ない私物にしても遊び心もなかった。本当に生きるために必要な品、それしかなかった。ある意味下人らしい、無機質な空間……。


「寂しい、ですね」


 彼がいないから一層そう思えたのだろう。同じ様相でも彼がいるだけで随分印象は違った筈だ。今は、一目見ただけでは彼の天幕と判断するのも困難だ。


 ……きっと、彼が帰らなかったら全部他の下人達に配給されて再利用する事になるのだろう。


「っ……!!」


 思わず干してあった予備の装束に手を掛けていた。金属糸を含んだ意外と重いそれを気にせずにぎゅっと抱き締める。顔を埋めて肺に一杯、鼻で息を吸いこむ。洗濯した後にも残るあの人の匂いの残滓を感じ取る。


「すぅぅぅ……はぁ」


 そして一度吐き出して、しかしそれで終わりではなく二度三度と繰り返す。クンクンと匂いを嗅ぎながら抱き締め目続ける。


 行動はどちらかと言えば情愛よりも子供染みた理由からだった。元々妖獣の血を引いているために五感、特に嗅覚に優れている白は匂いに敏感だった。其処に彼や主君が不在な事への寂しさが重なっての衝動だった。匂いは、彼女にとって孤独の中で親しい人を近くに感じられる数少ない縁であったから。


 逆に言えば、完全に親愛のみによる行為ではなかったが……。


「……?」


 どれ程そうしていたのだろうか?その場に座り込み、尻尾をくねらせて、内股を擦り合わせて、声を殺し、ひたすら装束に顔を埋めていた少女は、急に頭頂部に生えている狐耳をピクリと震わせた。


 理由を知り得なかった。ただ気配を感じた。不穏な気配を。一瞬判断に迷い、しかし装束を戻すとそっと天幕から外に出た。


「え?これは……」 


 白かった。視界に映る全てが白かった。何が起きているのかも分からずに混乱して、そしてそれが白い霧が這い寄るように陣中に広がっているのだと気付いた時、狐の少女はその意味を理解して思わず息を呑んだ。


 だってそうであろう?まるで自然現象を装うようにして辺り一面を覆い尽くすそれが明確な意志と目的を以て発生しているものだから。だとすればそれが穏やかなものである事なぞ有り得ないではないか。


「え?どうしてそんな事、私は……」


 其処まで思いが巡って、白狐は困惑する。何故そんな事が分かる?何故そんな事を断言出来る?まるで、経験があるかのように……?そんな彼女の思考は、しかし直後に鳴り響いた悲鳴によって中断される。


「ぎゃあああぁぁぁぁぁっ!!?」

「えっ?」


 何かが引き千切れたようなおぞましい物音。絶叫。しかしそれは次の瞬間にはグチャリという響きと共に掻き消える。


「えっ?えっ?」


 それは一度ではなかった。次の瞬間には堰を切ったように次々と同様の叫びが鳴り響き始める。怒声が聞こえる。爆音が、肉を切り裂く音が合唱するように深い霧の中の彼方此方で発生する。何も見えない中での阿鼻叫喚に白は動揺し、怯え切って、打ち震える。何が起きているのか、具体的に分からなくても一つだけは分かった。


 つまり、今自分達は攻撃されていた。


「っ……!!」


 直後に白は最善の判断を取ろうとする。自分が一人何時までもこんな己の姿を晒すだけの野外にいても襲われるだけなのは分かり切っていた。そして襲われたら何も出来ずに死ぬだけだとも。


 先程の天幕に向けて、白は振り向いた。あの人の天幕の中に隠れるために、そして一歩踏み出そうとして……。


『おやおやおや?白綺さん。一体どちらに行かれるので?』

「えっ……?」


 突如響いた何処か呑気でふざけた美声に、白は踏み出した足を止めた。唖然とした。唖然として……ゆっくりと振り返る。そして視界に捉える。いつの間にか背後に立っていたその小柄で細身の人影を。


『あははは。お久し振りですねぇ、白綺さん。何時ぶりですかねぇ?何かこの群れで仕込み中でしたか?それならば失敬をば』


 軽い口調で朗らかにそう宣うのは大陸の胡服に似通った衣装を着込む女だ。


 見かけの年齢は恐らく二十歳は超えていないだろう。琥珀色の髪を垂らして、その扁桃状の瞳には碧い光を湛えている。何処か妖しげで、幼げで、しかし蠱惑的で、一目で分かるかなりの美貌だった。


 そう。十人いれば九人まで美女と断言するだろう、まるで男を魅了するためだけに彫られたような整い過ぎた造形……。


「貴女は……」

『それにしても、折角取り繕わずにお話し出来る場をこうして提供しているのですから乗って頂けても良いではありませんか?そんな連れない態度は宜しくないと黒麗の姉様にも御注意されていたでしょうに!!』


 一体誰だ?何者だ?何が目的だ?そんな疑念が脳裏に過る前に間断なく、そして一方的に捲し立てる眼前の存在。その内容をどうにか読み込み、咀嚼していき、そして白は先ずは漸くその事を理解する。


 眼前の存在が己の事を、そして姉のように仕えていた黒狐を知っている事に。いやこの口振りは、もしや自分や姉の知己……?


「…………」

『おや?一体どうなされましたか?そんなに黙りこんでしまって。もしや本気で私の事をお忘れで?』


 何時までも黙りこんで、何だったら混乱している事が表情に出ていたのだろう。此方の態度に首を傾げる女。


「あらあら、図星ですか?それは寂しいですねぇ。以前何度か一緒に遊んだ仲じゃあありませんか!!ほらほら、熱彌での人間遊びは中々白熱した勝負でしたでしょう?驚きましたよ、あれだけやっておいて初めてなんて。凄い大胆でしたよねぇ!皆さんの採点も拮抗しちゃって、最後は姉様に判定して貰いましたでしょう?」


 何の話だ?熱彌?熱彌邦の事か?待て、人間遊び?何だそれは?初めて?採点?判定?待て、それは、聞き覚えがある。見覚えがある。確かそれは……。


「うっ?ゔ、ゔゔゔっ゙!!?」


 脳裏に記憶の欠片が過ぎ去る。同時に襲われるのは激しい嘔吐感。思わず白狐の少女は小さな手で己の口元を押さえる。顔を青ざめさせて、目を見開く。見開いて、震える。泥も気にする事なく地面に膝を突く。気にする暇もなかった。出来る訳がなかった。


 それは頭の奥底の奥底に眠っていた記憶の残骸だ。断片だ。鬼月家の二の姫に侍る白い半妖狐の白丁は、その魂をおぞましい白狐の凶妖の分け身から産み出された。己の人間としての因子、愚かで甘い要素を徹底的に集めて産み落として、そして打ち捨てた出来損ないの落ち零れ……しかしながら、確かにその子供もまた白狐の凶妖の一部である事に間違いはないのだ。


 邪悪な妖狐、狐璃白綺のこれ迄散々にやらかした悪逆無道を知らぬ筈がないのだ。


「あ゙あ゙あ゙、あ゙ぁ゙!?、う、うぅ……!!?」


 あの弁当以来碌に食べてなくて幸いだった。掌に向けて吐き出されるのは胃液だけで済んだから。ひたすらに彼女は噎せこんで、吐き出して、涙を流し続けて俯く。額からは汗が噴き出して、心の臓は激しく高鳴る。


『おや?おやおや?一体どうされましたか急に?お腹でも壊されましたか?やれやれ困りましたねぇ、姉様から行儀だけでなく食い意地も悪い!って注意されていたでしょう、に……?』


 踞る白に心配半分からかい半分で近寄る狐は其処で漸く何かに気付いたように眉間に皺を寄せる。


『んんんん?少し失敬を。いや、しかし。もしやとは思いますが……?』

「ひぐっ……!?」


 首を傾げて、金狐は非礼を詫びるように宣い、そして白の髪を掴み上げて乱暴に面を上げさせた。髪を引っ張られて苦悶に顔を歪める白。そんな彼女の反応を欠片も気にせず、ただ金狐は白狐の瞳を凝視し続ける。


 まるで、魂の奥底まで見透かすように。


『……あー、成る程ぅ。そういう事ですかぁ』


 暫し、白の眼を覗きこみ続けて金狐は漸く白狐の身に起きた事態を理解する。そして心から呆れ果てる。


『いやはや。よもや貴女ともあろう者がそんな間抜けな状況に陥っているとは。黒麗の姉様も泉下で大層お嘆きになられている事でしょうねぇ。折角姉様のお気に入りの妹だったというのに、あー本当に情けない』


 先程までのへり下って馴れ馴れしかった金狐は豹変する。何処までも嘲りを込めて嘯く。其処には明確に侮蔑と嫉妬の念が見てとれた。怨み辛みを吐き出すような物言いであった。


「ぐひっ……!!?」


 引っ張られた髪をそのまま白い狐尾の所まで押し付けられる。髪の長さが足りない故に必然的に白は首を後ろに曲げる。白くか細い喉元を無防備に晒し出す。


『ふふふ。ぺろり、と』

「ひっ!?」


 白が身体を震わせて怯えたのはその喉元に金狐が舌を這わせたからだった。犬歯が薄い柔肌に触れる。肌の下の血管を流れる血が圧迫される感触を白は自覚した。それは正に命を握られている事に他ならなかった。


『ふふふふ。これは意外、白綺さんも子供の頃は可愛く啼くのですねぇ?私とお会いした頃とは大違いじゃあないですか?』


 黒麗の長義姉との付き合いの長い金狐は昔の記憶を掘り起こしながら感慨深そうに囁いた。彼女の姉がふらりと消えてはふらりとお土産を持って戻って来るのはそれこそ大乱以前から良くある事だった。狐璃白綺という半妖出の同胞と出会した経緯も同じだ。違う事と言えばその傑出した才であったろうか?


 妖狐の格は尾の数で決まる。そして一本の尾を増やすのに掛かる刻は長大だ。百年で一つ増えるならば占めたもの。千年もの刻を必要とする者もいる。そしてその恩恵もまた絶大で、一本増えるごとにその霊格は倍どころか指数関数的に強大なものとなる。


『初めて会った時は三尾でしたか?驚きましたよ。拾ってたったの四半世紀余りでしょう?冗談かと思いましたよ』


 耳元で金狐は甘い声音で囁く。しかし白はその言葉の裏に含まれる怨念に思わずぞわりと鳥肌を立たせた。


『それであっと言う間に七尾に八尾。姉様にも善く善く可愛がられていて羨ましい限りでしたよ。新参者の分際ででかい顔して下さいましやがって……!!』

「な、何を……!?」


 髪を引っ張る力が増した事、突き刺すような剣呑な眼差しに白は打ち震える。向けられた言葉、向けられる感情を少女は全く理解出来なかった。何時しか、金狐の背後には尻尾があった。八つの見事な金毛の狐尾。


『側にいながら姉様が死んでしまわれたのはまぁ、良いでしょう。そういう事もありますよ。……クンクン、ですがねぇ?これはないでしょう?』


 白の胸元、脇、首元、首筋、顔と嗅いでいって金狐は何処までも蔑みに満ちた表情を白に向ける。


『猿共のくっさい匂いで盛沢山。しかも何ですか、この牡猿の濃い臭いは?こんなに濃厚にこびりつくのは下拵えでも駄目でしょうが?』


 そも、魂と妖力を削られ尽くされるのは仕方ない。長生きすれば失敗くらいはあるものだ。だがこの染み付いた臭いを嗅げば直ぐに分かる。こいつは、失った力を取り戻す努力なんて碌にしちゃあいない。寧ろ、猿共相手に随分と懇ろにしているようだった。


『また随分と面の皮が厚い事をしているものですねぇ?あれだけ殺りたい放題にはしゃぎながら今は無害な愛玩動物ですかぁ?それとも……』


 詰るような問い掛けは、ふと何かに思い至ったのように一旦切られる。そして、白狐を見下す金狐は眼前で一際底意地の悪い笑みを浮かべると吊り上げた口元を開いた。


『もしやぁ?今は無垢な子供なのでもう御祓は終えたとでも思ってますか?そんな訳ないでしょうにねぇ?』


 何をしようと、何れだけ経ても、過去の罪は消えないのに。己の所業は永遠に背負い続けるものなのだから……。


「あっ……」


 黒い狐の記憶と重なった金狐の指摘に、白は目を見開いて愕然とした。己の、向き合っている振りをして結局誤魔化していた罪を突きつけられる。呼吸すら忘れて、白狐は絶望する。抵抗せんとしていた身体からも力が抜ける。脱力する。弛緩する……。


『ふふふ。漸く現実を直視しましたか?まぁ、良いでしょう。素直に自分の過ちを認められるのは美徳というものですからねぇ。世話が焼けますがここは私が直々に再教育を施してあげましょう!!じっくりと、ゆっくりと、ねっとりと……ぬ?残念無念。かなり厄介な奴が来てますね?』


 瞳術と言霊術を以ての幻術を行使していた金狐は、その気配に気付くとあっけらかんとした口調で以て白を押し付けるように投げ捨てる。


 一瞬後、影が迫った。桃色の長髪が凪がれる。投げ捨てられた白狐を掴み、そして……扇の一迅が振るわれた。


『お前ら、盾になれ』 


 狐の言と共に前に躍り出た見えない『何か』は即座に抉られた地面の巻き添えとなる形で肉片と化した。赤い血肉の破片が辺り一面に豪快に飛び散る。しかし、それは金狐が逃亡するのに必要な十分な時間を与えた。


『それでは、失敬を。またお会いしましょうか白綺さん?』

「逃がすと思って……っ!!?」


 捨て台詞を吐く狐に対して追撃に出ようとした鬼月の姫君は、背後の気配に気付くと振り返り様に虚空に向けて扇子を振るった。何もない筈の空間から肉が引き裂かれ、骨が引き千切れるおぞましい音が響き渡る。大地が赤黒く染め上げられる。鉄と硫黄混じりの生臭い臭いが充満する。


 それらを無視して正面を向き直った鬼月葵は改めて金狐を探すが……流石は幻惑に長けた種族というべきか。霧の内に消えいった狐は最早、その気配すら感じ取る事は出来なかった。ふん、と鼻を鳴らす鬼月の姫君。


「……」


 そして、葵は無言の内に視線を落とす。見定めるように剣呑に目元を細めて。


「黄華、姉さん……」

 

 己が手に掴む白丁の少女は、そんな葵の視線に気付く事はなく、ただただ血の気が引いた悲惨な表情で打ちひしがれていた……。






ーーーーーーーーーーーーーーーー

 地母神とは見方によれば即ち生命を司る神である。豊穣と命と繁栄の象徴である。


 故にその因子は己の役目を果たす。死にかけている肉体を少しずつ、確かに癒し、再生し、生誕させていく。己の色に染め上げるようにして、侵蝕しながら……。


「あ……?」


 俺が目覚めたのはその揺れを感じ取ったからだ。より正確に言えば炭化していた神経細胞が再生したからであろう。それは同時に痛覚の復活を意味していて、故に次の瞬間には混濁していた俺の意識は痛みによって一気に鮮明なものとなった。


 つまり、俺は思わず悲鳴をあげていた。


「あ゙あ゙あ゙あ゙っ゙!!?痛でぇ゙!?い、一体何がぁ!!?」


 アトラクションマシーンにでも乗っているかのように襲いかかる激しい身体への衝撃。震動。痛みや寝起きの気だるさと合わさって、それらに対する疑念と怒りが湧き起こる。湧き起こり、思わず俺は怒り心頭になって眼前の光景に意識を向けた。


 崩れる街中を背景に、黒服日除け眼鏡ののっぺら坊達が全力疾走で追い掛けて来ていた。


「…………」

『むっ。これは凄い。あれだけの重体だったのにもう意識が戻るとは。是非とも経過観察のための標本が欲しいの。後程採血させて貰うぞ?』


 其処に何事もないかのように頭の上に着地した蜂鳥が宣う。


「あー、すみませんがこの状況はどういう事かお聞きしても?」

「え、えっと……逃走中?」


 俺の問い掛けに困惑気味に答えたのは環であった。同時に俺は彼女共々熊妖怪に脇に抱えられている事を自覚する。……うん、姫様。多分その説明間違ってないけど結構ギリギリだと思うよ?


『( ^ω^)ショウキンハイクラカシラ?』

「知るかボケ。取り敢えず……これ、使っても?」


 ギリギリをアウトにしかねない馬鹿蜘蛛の台詞を聞かなかった事にして、俺は封符を手にして翁に向けて問い掛ける。


『むむむ。しかし……仕方あるまいか』

「恩に着ますよ……!!」


 一瞬の葛藤、そして渋々とそれを認める蜂鳥に謝意を向けて、俺は封符の封印を解いた。


『ケテリイィィィィィィッ!!?』


 冬眠から目覚めたコズミック染みた蛸擬き(標本予定)がローリングしながら追跡してくる黒服のっぺら坊共に向けて突っ込んだ。寝惚けで何が何やら分かっていない蛸擬きはそのまま正面衝突した追跡者共相手に謎光線を放ちながら恐慌状態に陥る。予備として確保していた奴だったが……よし、これで時間稼ぎ出来る!!


『源武、左じゃ!!』

『グルルルルルルルルッ!!』


 蜂鳥の命に従って全力疾走からの遠心力で一気に十字路を左に曲がる鬼熊。その先にあった屋敷の戸口を角で以て打ち倒す。


 瞬時に世界が移り変わった。その先に広がるのは森であった。曇天の空、薄暗く陰気臭い森の中。その中を熊はひたすらに突っ走る。


(洋風ホラーテイスト……!!なら、来るか!!?)


 俺の予感は直後に現実のものとなる。


『ヴオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!』

 

 咆哮しながら森中を掻き分けて現れるのはいつぞや出会った白面を被った大男。手にするのは唸り声に似た機械音も鳴らす鎖鋸。世界観を壊している等という突っ込みは無しである。


「ひぃっ!?な、何あれ……!!?」

「ストーカーですよ!!」


 十三日に目覚めそうな不死身の男を見て悲鳴を上げる環に対して俺は極めて簡潔に答える。確かに初見の少女からすれば凄まじい外見である事に間違いなかった。


 尤も、その手の化物がワンサカいるこの世界においてはオリジナルなら兎も角パロディ染みたパチモンは今一つパンチが足りない訳で……。


『グッルル!!』

『ヴオ゙オ゙ッ゙!!?』

『(;^o^)チョウ!エキサイティング!!』


 直後に腹の脂肪をたぷんたぷんと揺らしながら突撃する鬼熊によって大男は盛大に吹っ飛んだ。何だったら近場の池に頭から叩き込まれる。


『ア゙ア゙ア゙ア゙ッ゙!!!!』

「上かぁ!?」


 同時に樹木の上から短剣片手に飛び込んで来た死神面には抱き抱えられたままの俺が対応する。突き出して来た腕を掴みそのまま地面に向けて投げつける。勢いのままに地面に転がっていく死神面。怒り心頭といった叫び声を上げて此方を追いかけるが、残念ながら熊の全速力に勝てる筈もなかった。ドンドン距離は遠退いていく。


「熊!!あの門だ!!早くしろ!!」

『(≧∇≦)ゴールテープハスグソコヨ!!』

『グルル!!』


 森を無理矢理突き進んでそれは見えて来た。森を囲む鉄柵、其処に設けられた門。傍らには時間を測るかのように砂時計があった。俺が指し示すまでもなく、熊妖怪はこの部屋の出口であると理解してそちらに向かう。


『ぐへへ!!また会ったな忌々しい下人め!!もう逃がさ……ぐへぇっ!!?』


 門を遮るように現れた人形をサッカーボール染みて蹴り飛ばして排除する熊。そのまま門に備え付けられた金梃に肘を勢い良く振り下ろす。歯車仕掛けの門が開く。頭から突貫する。周囲の景色が変わる。その先に和風様式の廊下が現れた。それは最初に俺が迷いこんだ長い廊下だった。


「っ!!?走れ!早くしろ!!」


 一瞬の困惑は、しかし直ぐに焦りに変わる。背後を見れば廊下が崩れ始めていたからだ。


 壁が、天井が、床が、襖が、雪崩のように崩れ去り、崩落して、何もない闇の中に消えていく。熊もそれを理解して慌ててマラソンを再開した。


「崩れる速度は其処まで速くないか!?」


 人間の足ならばギリギリであっただろうが、熊妖怪ならば話は違う。廊下の崩落するペースよりも本道式の足はずっと速かった。俺は僅かに安堵する。それは油断だった。


『ニガサン!!』


 何処からか反響する憎悪に満ちた叫び。次の瞬間、長い長い廊下はその様式そのままに煙突へと変貌した。『上下』と『前後』がグルリと回転したように入れ替わった。


「はっ?」


 一瞬の混乱。そして事態は急速に暗転する。前方が直上に、後方が底抜けの闇へと差し替えられる。鬼熊は床から、否、壁から足を踏み外した。そして、己の質量で以て落下を始めた。


 遥か下の、崩れていく闇に向けて急降下する。


「うおおおおおぉぉぉぉぉっ!!!?」

「きゃあぁぁぁ!!?落ちるるるるるるっ!!?」

『(*゚∀゚)バンバンジージャーンプ!!』


 落下しながらの三者三様?の悲鳴を上げる。この糞蜘蛛、何でお前何時も絶望的状況で呑気なの!?


『落ち着け、小僧共め。こんな事態なぞ予想済みじゃて。やれ、源武よ』

『グルルルルルルー』


 唯一人冷静に宣うのは蜂鳥。そしてその指示に従うように唸る俺達の抱き着く熊妖怪は……直後に、ロケットとなった。


「はいいっ!!?」

『( =^ω^)チキュウハアオカッタ!!』


 何処からとは言わぬが噴出される轟音と爆炎と共に熊は真っ直ぐに打ち上げられる。いや待って!何それ!?お前そんな機能あるの!?いや、俺と目があった瞬間に恥ずかしがるな!!


「あぁ!!もういい!!兎も角もこれで……!!」


 もう色々と突っ込みたかったが状況が状況なので全部脇に押しやる。天を見上げる。天を見上げれば何時しかその奥に小さな光が見え始める。


「あれは……」

「と、伴部君!?出口、出口だよ……!!」


 俺より先に環がそれに気付く。目を細めれば光の中からまるで井戸を覗くように入鹿が此方を見下ろして?いるのが遠目から確認出来た。何か半分くらい唖然としているが理由は分かりきっているので気にしない。


 大事なのはこの先が出口である事、ただその一点にのみ尽きるのだから。


「ゴールテープまで、後五百歩って所か!!?行ける……くっ!!?」


 一度下方を振り向いて、俺は口元を吊り上げる。しかしその安堵は直ぐに裏切られた。直線上の廊下の襖が次々と音を立てて開いていく。其処から吐き出されるのは多種多様雑多な妖共であった。放り捨てられるようにしてそれらは万有引力の法則に従い落下する。


 俺達に向けて、激突するように降下してくる。


『グルルルルルルッ!!』

『頭を伏せよ!!』


 咆哮と共に鬼熊の角がドリルめいて高速回転する。慌てて蜂鳥の警告に従い頭を下げた。その直後にはドリル回転のソニックブームが放たれる。


『ギャッ!?』

『グオオオオッ!!?』


 衝撃波と角の物理的衝突によって接触した端から木っ端微塵になっていく眷属共。「えっ!?何!?そんなのアリなの!!?」みたいな驚愕の表情を浮かべてはミンチになっていく。気持ちは分かるが残念ながらアリらしいぞ。


『キキキッ!!』


 無論、流石に大量の降下妖怪共を全て粉砕出来る訳でもない。幸運にも何体かは身体を損壊させつつも辛うじて熊に取り付く事に成功する。取りついた虫妖怪の一体が身体の後ろ半分を失いながらも体液を撒き散らしながら襲いかかる。環に向けて這い寄って来る。


「うわっ、わっ!!?」

「失せろ雑魚が!!?」


 最早装備も糞もなく怯える事しか出来ぬ環の間に入ってそいつを短刀で切り捨てる。糞、しつこいぞ汚いカルシュファーがっ!!


「だが、しかし……!!」

『もう直ぐ其処じゃ!!』


 妖共の雨をどうにか突き抜けると既に出口まで目と鼻の先だった。歩幅にして残り五十歩程。本当にラストスパートだった。行ける。俺は勝利を確信する。他の者達も同様だろう。これで大団円だ。


 ……多分そんな事を思ってしまったからなのだろう。フラグを前に油断してしまった。


 何事も最後の最後まで上手くいかない己のツキの悪さを忘れていた。


『グオッ!?』


 突如、鬼熊の下半身から鳴り響いていた爆音が止まる。何だったら直上に向けて打ち上げられていた鬼熊の身体が瞬間的にふわりと浮遊する。


『不味い。燃料切れじゃ』

「いや。燃料切れじゃ、じゃねえぇぇぇぇっ!!!?」


 飛翔から墜落に急速に向かう中、蜂鳥の漏らした言葉に俺は殆ど悲鳴に近い声で突っ込んだ。そして、一気に鬼熊の身体は先の見えない廊下の奥底に落下していく。


「ちぃくしょおおおおぉぉぉぉっ!!!!!??」

『ヾ(*´∇`)ノオソラヲトンデイルミタ-イ!』

『落ちてんだよぅっ!!!?』


 咄嗟に俺は廊下の壁に短刀を突き立てる。突き立てると同時にガリガリと壁を切り裂きながら短刀は激しく火花を散らす。火花を散らして、尚も落下は続く。糞、止まらねぇ……!!?


「くぅ!?って待て熊ぁ!!お前早く符に戻れぇ!!!!」

『グルルルルルルッ!!?』


 腕が吹き飛びそうな激しい振動に耐える俺は其処で理由の一因に気付いて叫ぶ。良く考えたらこいつの体重を思えば止まる訳ねぇだろうが!!というか止まっても俺の身体が千切れるわ!!『(゚∀゚;)ワタシハスリム!』煩ぇ馬鹿!!


『こりゃ参った。娘子よ。これを使え』


 蜂鳥は俺の懐から取り出した封符を摘まむと環の元に移る。符を差し出して俺の代わりに封印を命じる。


「ええっ!?えっと……も、戻れくまさん?」

『グールールー……』


 若干著作権に抵触しそうな動作と台詞で環が叫べば吸い込まれるように符に呑み込まれる熊妖怪。同時にかなり軽くなったお陰だろう。漸く壁を切り裂き続けていた短刀が止まる。ガクンと衝撃が身体を襲う。振るい落とされそうになるのをどうにか耐える。


「つ!?環!!大丈夫かっ!?」

「う、ぐっ……大、丈夫じゃ、ないかも……?」


 壁に突き刺さる短刀を片手で掴み、もう一方の腕で環の腕を掴んだ俺が確認するように叫べば返って来るのは心底苦しそうな弱音であった。


 当然だろう。俺だって腕は怪我しているが、環は女子だ。そして片腕は掌を貫かれているし、もう片方に至っては酷い火傷をしていた。俺の腕を掴んでいるのもかなり痛いだろう。下方を見れば顔を歪めて涙目の環と視線が合った。此方を見て、安心させようと無理矢理笑みを浮かべているが……到底強がりとすら言えまい。


(これは……不味いな!!)


 何時までも突き刺さった短刀を支えに吊り下がっているなんて腕力的に不可能で、そもそも迷宮は刻一刻と崩壊を続けていた。天を仰ぐ。出口まで百歩余り、余りにも遠過ぎた。


「今縄を用意する!!それまで堪えろ……!!糞、早くしろよ!!?」

 

 出口に首を突っ込んで吠える入鹿。救助の手筈をしている事を伝えてくる。その声音から緊迫した様子が見て取れた。どうやら当然の話ながらこの状況を想定してなかったようだった。


「こ、この声は……入鹿かい!?」

「あぁ。そうらしい。く、早くしやがれってんだ……!!?」


 環は聞き覚えのある声音に苦悶の表情を僅かに弛める。俺はと言えば其処まで余裕はなかった。環が重い訳ではないが人っ子一人を宙吊りにして支えるのは、しかも今の身体では相当辛かったのだ。


「分かってらぁ!そっちこそ姫様落とすんじゃねぇぞ!!?……ちぃっ。早く寄越せ!!よし、待ってろ!!直ぐに……」


 人夫か下人か、傍に寄って来た人影から縄をふんだくった入鹿。再度此方を覗き見て、縄を下ろす事を伝えて……その直後の事だ。何かの存在を感じ取った入鹿が振り返ると同時に吹き飛ばされたのは。


「がっ……!?」

「入鹿っ!!?入鹿ぁ!!?」


 何かに激突され撥ね飛ばされたように宙を舞う入鹿が出口から見えなくなる。悲鳴を上げる環。一瞬遅れて喧騒が出口の向こう側から鳴り響き始める。こいつは……襲撃かっ!!?


(よりにもよってこのタイミングでか!!何処のどいつが仕掛けてくれやがった!?)


 この最低最悪の瞬間を狙って来た襲撃者に俺は既に憎悪の念すら抱いていた。俺が繋ぐ環はと言えばひたすら吹き飛ばされて視界から消えた入鹿の名前を叫び続ける。


「落ち着いて!!あいつは頑丈です、この程度じゃ死にませんよ!!」

「け、けど……!!?」

「人の事を心配する前に先ずは自分の事です……!!」


 環を宥めて、俺は策を考える。出口付近での喧騒は直ぐに終わるとは思えなかった。その前に『迷い家』が、更に俺の腕が持たない。


「ぐっ、くぅ……!?はぁ、はぁ!!」


 二人分の体重がのし掛かる短刀は軋む音と共に壁から僅かに抜ける。不味い。これは本当に不味い。


(どうする!?どうやって切り抜ける……!?)


 激しく鳴る心臓の鼓動。焦燥感。俺は必死に頭を回転させて手段を考える。そして、それを思い付く。


 残念ながら、それは到底百点満点の手段とは言えなかったが。


「……環様」

「な、何っ……!!?」


 俺の呼び掛けに友人の心配と死への恐怖に竦みこんだ環が震える声で答える。


「この状況を脱する手立てがあります」

「ほ、本当に……!?」

『(* >ω<)ホントウニ!?』

「ですが」


 俺の言葉に光明を見出だしたかのように環が、そして何故か蜘蛛も笑みを浮かべる。しかし、俺は其処で一旦言葉を切った。


「……少し危険な手です。環様の協力が必要です。信じて頂けますか?」


 俺の問い掛けに一瞬だけ驚いたように唖然とした環、しかし直ぐに何処までも素直な表情で以て彼女は頷いた。


「当然だよ。僕は、伴部君を信じるよ!!」


 それは真っ直ぐ過ぎる笑顔だった。


「……では、手の力を緩めて下さい」

「うん!」


 彼女のその態度に俺は胸の痛みを覚えるが、複雑な感情を押し退けて俺は何時も通りの口調で彼女に頼み込む。彼女は欠片の恐れも覚えずにそれに従った。俺が手を離せば奈落の底に落ちるというのに。


『……下人よ』

『(´・ω・`)?』

 

 傍らから発せられようとした蜂鳥の言葉を剣呑な視線で黙らせる。翁は俺の意志を認めたようにそれきり静まり返る。馬鹿蜘蛛は良く分からないようだった。それで良かった。


「……蜂鳥、さん?」

「環様、受け身の姿勢に備えて下さい。腰を痛めますよ?」

「えっ……?」


 環からすれば、それはあっという間の出来事であっただろう。直後には妖化した俺の腕が肥大化する。飛躍的に向上した膂力、それによって俺は……蛍夜環を投擲していた。


「伴べ……」


 信じられないとばかりに驚愕の表情を見せる環の姿はあっという間に見えなくなった。出口に向かって放り投げられていたのだから当然だった。


 部分的にでも妖化出来る制限時間、残り数秒。その全てを使って俺は環を脱出させた。雪音のために、家族のために。そして、俺の取りうる手段は全て消え失せる。


「ぐおっ……!?」


 妖化の解除、身体に襲いかかる倦怠感。そして投擲の衝撃波で短刀が抜けた。短刀片手に俺はそのまま落下する。


「死ぬ、つもりは……ないがっ!!何っ!!?」

『Σ(; ゚Д゚)カッチカチヤデー!!』


 どうにもならないのは分かっていて、それでも足掻けるだけ悪足掻きしようと再び壁に短刀を突き立てる。弾かれる。いつの間にか壁は金属のような甲皮に変質していたのだ。こいつ、まさか……!?


「……っ!!?」


 直後に俺はそれに気付いて思わず息を呑む。


『逃げるなに げるなにげル なにゲルな 逃げるなニゲるナ 逃ゲルナ にげルナ逃ゲる なニゲルナニゲ ルな逃げるなニゲル なニゲ るな逃げるナにゲルナニゲル ナニゲルナニゲルナ逃げるナ ニゲるなニ ゲルナ逃ゲルナにげるなニゲルナにゲ ルなにゲル ナ逃げるなニゲルナニゲるなにげるな逃ゲルナニゲン ナ逃ゲルナニゲるなにげる な逃げるなにゲルナにげるな にげるナニゲルナニげ るなニゲル ナ逃げるなニゲ ルなニゲる なニゲン ナニゲルナにげルナ逃げるな にゲルナニゲンナ ニゲる な逃げるなにげ るなにげる な逃ゲル ナ逃げる ナニゲルナニゲ ルナ逃 げルナにげ るなにげるな逃ゲルナ』


『ニガサンゾ(゜∀。)』


 それは壁一面に浮かび上がる書き殴ったかのような血濡れの呪詛。罵倒。恨み。憎悪。悪意。


「『迷い家』か!!死んでる癖に未練がましいんだよ……!!」

『ヽ(`ω´)ノシツコイオトコハキラワレルノヨ!!?』


 俺と蜘蛛の罵倒に対して、『迷い家』の返答は攻撃だった。呪詛に満ちた周囲の壁から瞼を開いて無数の目玉がぎょろりと見開かれる。此方を凝視する。同じくして突き出るように出てくるのは牙であった。四方八方より生え出すそれらは下層に落ちる程により禍々しくなっていく。


 それはまるで北原に伝わる大暴食虫の口腔を思わせて……。


「糞っ……!!」

『ヽ(;▽;)ノワタシハオイシクナイワッ!!』


 暗く落ちていく視界の中、本当の本当に打つ手を失った俺はただ捨て台詞を吐き出すだけで、そして、そして……。


「……本当に呆れた人ですね。貴方は何れだけ生きるのが下手なのですか?」


 全てが終わったと思った刹那、バサリと翼を広げる音に重ねて、後ろから俺を抱き抱えた彼女は心底嘆息した声で囁いたのだった……。

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