第五章 章末・前
「おい、障子は……此れくらいで良いのか?」
「あぁ、ジメジメするが……流石に余り開け過ぎると雨が入ってくるからな。まぁ、これはこれで風流って奴だろうさ」
激しい雨が降り注ぐ中、床に横たわる俺は白若丸に半分程障子を開くように指示していた。少年は此方の指示に従って障子を引いていく………。
水無月の三日、時節は春を過ぎて初夏に差し掛かっていた。北土の大地に激しい雨が降り続けていた。雨は湿度を高め、空気は蒸してくる。流石に迷い家と化した鬼月の屋敷と言えど例外ではない。換気のためにも障子を開けておく必要があった。
「ご苦労さん。あぁ、そうだ。これ食うか?さっき孫六が差し入れに持ってきてくれたんだ」
そういって指差すのはかりん糖を入れた木製の菓子入れである。此方の見舞いとおやつを兼ねて孫六達が調理してくれた砂糖が高級なのもあって、代わりに蜂蜜で甘さを補っているが、これはこれで結構イケる味付けだった。
「別に俺は、腹なんて………」
そう呟く白若丸は次の瞬間には小さく腹を鳴らしていた。思わず恥ずかしげに顔を項垂れさせる少年。俺は苦笑して弁護してやる。
「育ち盛りだからな、遠慮するな。食える時に食っとけ」
「………分かった」
暫しの間仏頂面をしていた少年は何処か不機嫌そうに菓子入れに手を伸ばす。
ボリボリ、と小気味良い音が部屋に響いた。その音調からして恐らく味付けについては彼の好みを外れてはいないようだった。まぁ、かりん糖は比較的庶民向けとは言え、甘味自体がこの世界では贅沢品だからな。
暫くの間、雨音に混じり白若丸がかりん糖を齧る音だけが部屋に鳴り響く。何口目であろうか、白若丸は菓子入れに手を伸ばすのをふと止める。
「………何時までここに閉じ込められるんだろうな?」
「さてな。何せこのまま五体満足でいられるかも怪しいものだからな」
外の豪雨を見つめていた白若丸が不機嫌そうな表情を浮かべながら呟くのを、俺は自嘲しながら答える。答えてから更に冷笑する。口にした本人が言うのも何であるが、自分でも驚くような投げ遣りな物言いだったからだ。
若造りババア……鬼月胡蝶の占有する対の一室にて俺は床に臥せっていた。それも俺がこの屋敷に帰りついてから一週間近くの間、ずっとである。
それ自体の理由は分かっていた。監禁である。
ある意味で当然の事であった。土蜘蛛の呪いの効果が分からぬ点、それに俺の中に流れている化物の血が再び暴走しないかの観察、更に言えば松重の式神に勾玉の存在等、俺の隠していた秘密に対しての追及………そのための監禁なのだろう。実際、この部屋は四隅に封札が貼られていて、俺は見えない結界に閉じ込められている。そしてその間幾度か御意見番が訪れて幾つかの質問を受けていた。不可思議な事にその大半は尋問にしては不適切な、無意味なもののようにも思えたが………。
不可思議な点は今一つある。蜘蛛妖怪共の麻痺毒やら妖怪変化した際の負荷による筋肉痛から起き上がる事も精一杯な俺が、自身に宛てがわれた小屋ではなくて御意見番の敷地に建てられた屋敷の一室にて監禁されている事実。実に奇妙な事であったのだ。百歩譲ったとしてもせめて俺の主君たるゴリラ様の敷地であろう。屋敷地下の独房でも良い。寧ろその方が安全に監視出来よう。それが何故………?
「本当に奇妙な話だよな。おまけにお前を世話役に付けると来ているんだから」
「………何だよ、文句でもあるのかよ?」
俺の指摘にむすっと顔をしかめる白若丸。俺は再び苦笑して弁明する。
「いやいや、お前は良くやってくれてるよ。全身筋肉痛で動くのも辛いからな、助かる。寧ろだからこそ不思議でな。何処ぞの御公家様でもあるまいに、お前さんを世話役に宛てがうなんて贅沢だと思ってな」
正確に言えば俺が監禁されているのが御意見番の敷地だから家人候補でもある白若丸が世話役をしている側面もあった。孫六らでは身分や出自から余り敷地に入れないのだ。これが普通の地下牢なら話は別なのだが………。
「煽てても何もねぇぞ?」
「餓鬼煽てて何かタカれるかよ」
「餓鬼って………」
不機嫌そうにする白若丸の頭に手を乗せてガシガシと少し乱暴に撫でる。昔、弟や妹にそうしていたように。この前の洞窟での一件からか、此れくらいなら不機嫌そうにしつつも敵意は向けてこなくなった。単に怖いからではなくて多少は信用されたから……と思いたい。
「餓鬼は餓鬼だろうが。背伸びしなくたって良いんだよ。甘えてごねれるのは今のうちだけだぞ?甘えられるうちに甘えておけ」
これまでの人生が人生なので周囲に敵意を向けるのも神経質なのも仕方無い。何時までもそんな事していては周囲に疎まれるのもまた事実なのだ。無論、碌でもない奴もいるので無警戒は危険だが、周りから助けてもらえるくらいには愛嬌も持って欲しいのが本音だった。
実際、原作のゲームでもこの少年は周囲に食い物にされていたが、その一因はその刺々しい性格から酷い目に遭っても周囲が助けてくれない事だったのだ。それが更にこいつの性格を荒ませるという悪循環だった。バッドエンド回避のためにもその辺りを強かに生きて欲しいものだった。
「別に、俺は………」
「あらあら、二人共随分と仲が良いようね。嫉妬しちゃいそうだわ」
視線を反らして何か言おうとした白若丸。その言葉は高慢で軽やかな声音によって妨げられた。俺は障子の向こう側から現れた姫君を見つける。同時に立ち上がって跪こうとするが彼女が制止した。
「別に頭は下げなくて良いわよ。その身体で跪かれても滑稽な体勢になりそうだし。まぁ、楽な姿勢になさいな」
障子の隙間から現れた鬼月葵は、実に尊大な口調で以て、そう俺に向けて宣った。
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障子の向こう側から現れた鬼月のゴリラ姫は扇子で口元を隠すと、俺を無遠慮に一瞥する。観察する。
「………それにしてもまた随分とやんちゃしてくれるものよね?毎回毎回大怪我をしちゃって。まるで子供じゃないの。保護者の気持ちも考えて欲しいわ」
「それは恐縮の至りです。別に遊びで怪我している訳ではないのですがね」
立ち上がろうとして止められて、結果として布団の上で四つん這いのような姿勢になった俺は目の前に佇むゴリラ様の嫌味に対してジト目で答える。そりゃあ、そちらにとってはお遊びでも、こちとら命懸けなんですがねぇ?
そんな俺の非難の視線をゴリラ様はどこ吹く風とばかりに受け流す。扇子を扇いで愚痴る。
「それにしても困ったものよねぇ。屋敷に戻ったと思えば直ぐ様ここに連れ込まれてしまったのだもの。私も流石にあの年増の敷地に勝手には上がれないわ。こうして顔を見せるのにも結構手間取ったのよ?」
手間を取らせやがって、とでも言うように小馬鹿にした表情を浮かべるゴリラ様である。
「御手数おかけします。………っ、あぁ、済まん。助かる。………して、態態お顔見せして何用でしょうか?まさか私の見舞いに来ただけって事はないでしょう?」
「あらあら、人の好意には素直に喜びなさいな。意地が悪いわね」
筋肉痛のために傍らに寄って来た白若丸に助けられながら、ゆっくりと胡座の姿勢になって謝意を表すが、当然のように此方の本音を見抜かれる。再び呆れるようにして肩を竦めるゴリラ様。いやいや、どちらが意地悪いんですかねぇ?
「安心なさい。監禁生活も後数日って所よ。昨日、お祖母様には私から話をしたわ。私の手元に戻す事を確約して貰ったから人体実験されると思って毎日のように布団の中で怯えなくても良いわよ?」
「………」
胸を張ってゴリラ様は嘯く。恩着せがましく宣う。いや、確かに命拾いするような内容ではあるし礼を言うべきなのだが………こいつが言うと必要以上に傲慢に聞こえるのだから不思議なものである。
………毎日のように黒死病医の服装をした集団に布団から連れ出されまいか不安だったのは事実だがな?
「………それにしても良く話が通りましたね?俺のような爆弾を解放するなんて、一体どんな方法で説得を?」
「秘密、何でもかんでも教えて上げないといけない義理はないわよ?気になるのなら少しは自分で考えなさいな」
傍らの少年の不安げな視線に気付いた俺は少しおどけるように尋ねる。すると袖で口元を隠してくすくすくす、と嘲るような、それでいてやはり意地の悪そうな笑い声を漏らすゴリラ様。………少なくとも愉快な内容ではなさそうだ。
「そうそう、これを貴方に渡さないといけないわね。受け取りなさいな」
そう言って指を鳴らせば、障子をすっと開いて人形の式神が現れる。のっぺらぼうのマネキン人形のような式神は、その手元に籠を抱いていた。それが俺達の眼前に安置される。俺は目を細める。
「これは………」
「昨日、お祖母様から受け取ったわ。貴方の手元にあった方が良いでしょう、という事らしいわ。まぁ、当然ね。私だって自分の命が親しくもなければ信用も出来ない相手に握られているなんて事になれば不愉快だもの」
ゴリラ様もまた、それを見つめる。虫籠を、見つめる。
唯の虫籠ではない。神木を削って組み上げられ、幾重にも呪いが掛けられていた。その上には更に念入りに封符が貼り付けられている。一目だけでも用途が唯の昆虫採集のためのものでない事が分かろうものだ。
「基本、それの中に閉じ込めときなさい。真っ当な退魔士はこの手の曰くありげなものを無断で持って帰ってたり開帳したりなんて自殺行為はしないものよ。それに勝手に逃げられたりしても困るでしょう?」
そのゴリラ様の言葉を聞いた後、俺はその虫籠を凝視する。より正確には虫籠の通気穴を見いる。
………多数の封符が貼り付けられた虫籠の中に鎮座していたのは一匹の蜘蛛であった。全身真っ白の子蜘蛛。虫なんて感情がない癖にこの閉じ込められている子蜘蛛は何処か愛嬌があり、子供っぽく思えた。
かくして、この虫籠に仰々しい程大量の符が貼り付けられている時点で分かるだろうが、こいつは唯の蜘蛛ではない。かといって唯の蜘蛛妖怪なぞでもない。もっと……相当に面倒な存在である。
「生まれたての神格、まさかこんなものまで連れ帰って来るなんて流石に私も驚いたわよ?」
虫籠を一瞥するゴリラ様に釣られて俺も虫籠の中の存在を凝視する。中に鎮座する子蜘蛛はとぼけているかのように口元で前足を咥えて、首を傾げるような仕草を見せていた。その飄々具合に俺は小さく舌打ちする。
「こいつが呪いですか」
「死に瀕した神格が自ら代替わりして生き長らえようとする事例がある事は聞いているわ」
だからこそ、朝廷は神格を封印するか、ぶっ殺す際には代替わり出来ぬように神格を妖にまで貶めるのだ。
「残った神気を総動員したのでしょうね。矮小だけれど随分と純度が高い事。量より質といった所かしら?」
虫籠をコツンと指で叩いてゴリラ様は呆れる。尚、中にいた子蜘蛛は震動に怯えて籠の隅っこに避難した。
頭隠して尻隠さず、とでも言うべきか。籠の隅で頭を足で守り、尻の部分を振りながらプルプルと無様に震えるその様は到底あのおぞましい怪物に見えなければ遥か太古の昔より語り継がれる神格とも思えない。
そう、この神格は余りにも脆弱だった。矮小だった。
だが………今回においてはそれ故により厄介なのである。
「貴方とその子蜘蛛の間に結ばれた悪縁、中々に厄介ね。悪質な上に切っても切っても切りがないわ」
嫌がる子蜘蛛を無理矢理に虫籠から取り出したゴリラ様は手元に捕らえたそれを睨み付ける。びくり!と怯える子蜘蛛。だが、それだけだ。ゴリラ様の力ならこの程度の下等な神格なぞ握り潰してしまえたであろう。それをしないのは素手で蜘蛛を潰すのが気持ち悪いからだけではない。
「そうね、さしずめ『命結骨肉喰之類縁(めいけつこつにくくらいのるいえん)』と言った所かしら?………随分と質の悪い呪縁を結ばせてきたものねぇ」
ゴリラ様の吐き捨てた言葉は、文字通りの意味で嫌悪感しかなかった。彼女の嘯いた言葉に、今回ばかりは俺も全面的に肯定するしかなかった。
『命結骨肉喰之類縁』………命結とは文字通り命を結んでいる事、即ち呪いを通じて二者の命が結び付いている事を指す。骨肉とは家族、血縁の事を意味するがここでは前述の命の結び付いた二者を意味するのだろう。それを食う、そういう類の縁……呪いであるという事だ。
「つまり、この子蜘蛛は貴方と命の縁で結び付いている訳、一心同体、一蓮托生……いえ、より酷いわね。そいつが死んだら貴方も死ぬのに、貴方が死んでもそいつは死なないんだからね。後に出てきた骨肉という言葉からして貴方はこいつと一つの血縁として見なされているのね。そして………」
『キッ……!?』
ゴリラ様が子蜘蛛を手放す。ぺしっ、と頭から畳の上に叩き付けられた子蜘蛛は自身の頭部を撫で回して、次いで自身が自由になったのに気付くと急いで此方に向かってくる。蝿捕蜘蛛のように必死に跳び跳ねながら、蜘蛛は俺の膝から登り出す。首元に達するとジーッと俺の肌を見つめ………。
「あっ!?」
白若丸の驚いた声と同時に子蜘蛛が首筋に牙を突き刺した。カプリ、っと噛みついた。痛みは殆どない。慌てて少年が蜘蛛を捕らえようとするのを俺は手で制する。ゴリラ様を見て呟く。
「………これが『喰』、ですか」
蜘蛛という生物の中には自らの産んだ子供に親が食われる種類のものが存在するという。この蜘蛛もまたそれと同じであった。命を結んだ、というよりか寄生した子蜘蛛は親役たる俺の血肉を糧に成長する。今は子蜘蛛なれど、成長していけば必要とする血肉は増量していく訳で………。
「かといって餌も遣らずに飼い殺すとなれば餓死するわよ。それも一蓮托生となっている貴方諸ともね」
「糞みたいな呪いだな………」
本当に悪質な呪いである。自らの命を犠牲にしてでも掛けた呪いに相応しい。この子蜘蛛を養っても死に、養わなくても死ぬ訳なのだから。
『キッ……?キキッ!!』
俺のぼやきに反応したかのように吸血行為を止めて再度首を傾げる子蜘蛛。俺はそんな子蜘蛛を尻を掴んで持ち上げる。ぶらんぶらんと尻を突き出すような体勢で宙に揺れる子蜘蛛は俺の顔を見ると幼子がはしゃぐように脚を伸ばす。その姿は父親に一見するとじゃれつこうとしているようにも見えた。いや、お前さっきまで俺に食いついてたよな?
「邪気のない目で見てくれやがる。こいつ、前の記憶はあるんですかね?」
「古い資料を読み漁った限り、代替わりした神格は断片的には前任の記憶を継承しているようだけど、基本的にはほぼ別人格と見た方が良いみたいよ。まぁ、だからといって油断は出来ないけど」
どの道、最後は貪られるのだからさもありなんである。じゃれつこうとしているのもある種の本能でしかあるまい。蜘蛛は蟲の中では親子の情愛が深く、多くの蟲が卵を産んだらそれきりなのに比べて子育てを行う。あるいはその習性含めてのこの呪いであるのかも知れない。何にせよ、本当に質が悪い。
「救いがあるとすれば、そいつが丸薬の代わりになる事くらいね」
「俺は絶品の餌ですからね」
俺の血の中には忌々しい妖母の因子が流れている。妖母は化物であると共に神格でもある。この子蜘蛛にとって妖母の因子は成長する上で最も最適な食糧なのだ。質は兎も角、神気を含まれている血肉なんてそうそう手に入らない。
「貴方の血肉を喰らうという事はあの化物の因子を喰らうのと同意よ。丸薬は因子を抑えつけるだけだけど、そいつは因子を食べて減らしてくれるわ。その意味ではある意味丸薬よりも効果的ね」
「代わりにこいつの成長も促進されますがね」
そう考えれば寧ろ厄介な問題が増えただけなのだが………何処かゴリラ様の機嫌が良さそうなのは丸薬の費用をケチれるからかね?
「何にせよ、取り敢えず預かってはおきますよ。流石にこれを誰かに預ける訳にはいきませんしね」
子蜘蛛を籠の中に放り込んで再び閉じ込める。閉じ込めた上で近場の棚の中に入れるように白若丸に命じる。それとほぼ同時に障子の隙間から一枚の式神が飛び込んでくる。人形の形に切り取った式符が風に揺られるようにして流されて、だがゴリラ様の耳元に来ると急に硬直したように背を伸ばしてその場で滞空する。どうやら伝言を伝えているようであった。
「………そう、分かったわ」
何処か面倒臭そうに溜め息を吐き、俺を見やるゴリラ様。
「道草ばかりしていないで早く来なさいって言われたわ」
「道草って………いや、そういう事ですか」
成る程、態態俺の見舞いのためだけで彼女が足を運ぶ訳がない。寧ろ本命は御意見番との面会で、ここに来たのはその序で、あの虫籠を渡すためか。にしては俺で遊ぶためか長居をしていたようだ。
「じゃあ、精々養生なさい。ゆっくり休めるのは今のうちだけなのだから」
それは養生終わった後はこき使ってやるという意味かな?いやまぁ、俺だって何時までもただ飯食う積もりはないけどさぁ………あぁ、そう言えばあれを言い忘れていたな。
「姫様、お待ち下さいませ」
くるりと、踵を返してその場を去ろうとするゴリラ様に向けて俺は呼び止める。呼び止めて、今更ながらに俺は伝える。
「洞窟での助力、大変感謝致します。遅くなりましたがあの時の支援、非常に助かりました」
俺は痛む身体を無理矢理動かして姿勢を正し、頭を下げる。深く、頭を下げる。
「……あら、しおらしい事ね。別に気にしなくて良いわよ。感謝される程の手間を掛けた訳でもないもの」
ちらり、と僅かに此方を振り向いた鬼月葵。その口元には不敵な笑みを浮かべていた。
「然れど、私にとっては本当に助けになりました。重ねて、感謝申し上げます」
こればかりは本音であった。彼女にとっては本当に遊戯に過ぎないのかも知れない。あの白に憑依しての戦いは制約もあるのだろう。彼女の全力を思えば決して本気の戦いではなかった筈だ。そも、憑依である以上彼女自身に危険はほぼほぼ届かぬ訳で、正に絶対的な安全圏にて無人機を操縦するパイロットの気分で戦っていた事であろう。
それでも、俺は謝意を伝える。例え形式的であっても、誠意は、意思は言葉にしなければ伝わらない。恩には報いるべきだ。
確かに人使いが荒い碌でもない主人ではあるが、下人が死んでも気にも留められないようなこの世界において、彼女が俺を助ける義務も義理もないのだから………。
「………ふふ、良いわよ。私は寛大だから、その世辞受け取って上げるわよ」
ゴリラ様は俺の謝意を受け入れる。鷹揚に、尊大に、高慢に受け入れる。
「まぁ、今後とも精進なさいな。早く、私が面倒を見なくても良いように努力なさい。それが一番の返礼よ」
さらりと嘯いて、桜色の姫君は単を縁側に引き摺りながら立ち去っていく。
その音が聞こえなくなるまで、俺はただただ、頭を下げていたのだった…………。
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「お待たせしたわね、お祖母様。年寄りは気が長いものだと思っていたのだけれど、まさか急かされるなんて思いませんでしてよ?」
障子を引いて、鬼月葵は嘯く。その向こう側の部屋にて待ち受けている自らの祖母に向けて、嫌味を込めて嘯く。それは先程の下人に向けて言い放った嫌味に比べて遥かに悪意を込められていた。
「あら、逢瀬の邪魔をしたのをそんなに根に持っているのかしら?そんなに嫉妬深かったら良人となる人も大変でしょうね」
脇息にもたれて片手に煙管を持ち、眠るように目を閉じていた胡蝶は葵の方を見るとそんな風に冷笑する。葵もまたそれに答えるようにして低く笑った。梅雨時であるが故に昼間にありながら薄暗い室内に冷たい笑い声が響き合う。一目見ただけで肩がすくみそうな空気が流れる。尤も、この程度は二人にとってじゃれ合っているに過ぎない。
「それは心外ね。確かに自分が嫉妬深い事は自覚しているけれど、彼の意思を無視して我を押し通す程身勝手じゃないわよ?」
あの女と違って、とまでは葵は言わなかった。そんな事は葵にとっては元より確定済みの常識であったからだ。
「………そう言えば、彼に教えて上げなくて良かったのかしら?あの分霊、恐らく十年は寿命を削ったわね?その事を教えて上げればきっとあの子、貴女に頭が上がらないわよ?」
手前に座るように手招きしつつ胡蝶は話を変える。嘯く。その口調は試しているようにも、誘惑しているようにも思えた。
「………あら、心外ですわね。私だってそんなみっともない性格なんてしていないわ。良人のためにした事に、どうして見返りを求めると?」
にこりと微笑みながら葵は答える。その物言いは心の底からそう思っているように思えた。その上で胡蝶はそんな孫娘の言葉に目を細める。
「………雛の真似事ならお止めなさい。貴女とあの娘は違うのよ?」
擬似的な不老不死故に自らの心の臓を抉り取れる雛は例外中の例外だ。幾ら鬼月の才能の塊であり、退魔の血統の一種の完成形である下の孫娘であろうとも、自らの魂を分けるなんて、ましてやそれを使い捨てるような真似はそう何度も出来る事ではないのだ。
「真似事?止めて頂けないかしら?あの女と私が同じ事をしてるなんて吐き気がするわ」
葵は心から軽蔑を込めて嘯く。だってそうであろう?あの女のやっている事なぞ、何らの代償もないではないか。何も犠牲にしていないではないか。例え、生きたままに心臓を抉り出しているといっても、幾らでも替えが利くというならばそこに重みなぞありやしないではないか。それを自己犠牲と誇るなぞ笑止千万であろう。本当の自己犠牲というものは替えの利かぬものを引き換えにする事なのだ。
そう、あの日の彼のように………。
「まぁ、その意味では正確には私が犠牲になった訳でもないのでしょうけれど」
葵は別に自己犠牲……もしくはそう思い込んでいる行為……に陶酔している訳でもない。犠牲の贄となったのは分霊たるもう一人の自分であって、今この場にいる自分ではない事は重々理解していた。
「分霊の私は良い仕事をしてくれたようね。彼、私とあれを同一視していたわ。詰まらない事で悩んでくれずに助かったわ」
本当にそう思う。彼がこの事を知ったら罪悪感に苛まれるだろうから。分霊はその元になった魂と同一にして異なる存在だ。別けられた分霊にはそれ自体に自我がある。それが消滅したという事はその分霊にとっては死と同然であると言える。それを……白や胡蝶の言から思うにもう一人の自分はそれを恐れる事も、ましてや彼にすがり助けを乞う事もなかったようだ。淡々と、最後の瞬間まで彼女は己の役割を全うした。
「そういうお祖母様こそ、あれだけ大言壮語を吐いておいて随分と無様だったそうじゃないの?」
「その点については言い訳はしないわ。彼に無理を強いたのは事実よ。………私の失敗、嗤うかしら?」
葵の言葉について、胡蝶は言い返そうとは思わなかった。孫娘二人のやり口に呆れ果てて代わりに彼の面倒を見ようと思えばこの様だ。想定外等と言い訳は出来まい。そんな言い訳で済めば後悔なぞ誰もしないのだ。
「彼の事でなければ嗤っていたわね。まぁ、失敗と言えば私も人の事は言えないし、全く得るものがなかった訳でもないようだから。今回は何も言う事はないわ。彼を返して貰えるだけで十分よ」
本音である。葵からすれば再び彼を自分の手元に置けるだけで満足であった。それ以上欲張る必要もない。此度の討伐遠征、想定外はあったが得るものは確かにあったのだ。故に葵は胡蝶を責め立てない。
否、違う。それだけではない。既に葵は察していたのだ。この祖母は、この女は恐らく……………。
「失礼致します」
闇の中から響いたその言葉に、葵と胡蝶は同時に視線を移した。胡蝶の傍らに現れた………正確には二人共その気配が近付いているのは気付いていたが………若い隠行衆の青年。膝を突いて恭しく頭を下げるその人影に胡蝶が口を開く。
「葉山ね。件の調査は終わったのかしら?」
「はい、詳細については此方を」
葉山は頭を下げたまま懷から巻物を差し出す。胡蝶は暫し沈黙した後にそれを受け取る。
「御苦労だったわね。………そうだ、貴方は見舞いに来なくて良いのかしら?彼も喜んでくれると思うのだけれど?」
「いえ、自分には………非礼とは承知していますが、親しくし過ぎてもあの人に迷惑をおかけします。それに、お恥ずかしい話ですが私にはあの人に合わせる顔がありませんので………」
労いの言葉と共に胡蝶が提案すれば、隠行衆の青年は自嘲するようにしてそれを断る。彼の立場を思えばあの一件に深く関わる自身が余り近付いても要らぬ疑念をもたらしかねない。そうでなくても今更彼に近付いて何を言おうと言うのか?何を言えば良いのか?
いや、正直に言おう。葉山は怖いのだ。彼にいつ敵意を向けられるのか考えるだけで、この上なく恐ろしいのだ。その癖、優しい目で見られる事も、許される事も恐ろしいのだ。お笑い草である。
「………あの子なら例え記憶があったとしても気にもしないでしょうに。貴方も難儀な性格な事ね」
胡蝶は小さく溜め息を吐く。これだから胡蝶もこの少年に敵意を向けられないのだ。不運な偶然とは言えあの子を売ってしまったのは確かに事実だ。されどこうも思い詰められてしまえば流石に憎み切れない。退魔士という人間が全般的に独善的な者が多いのだから尚更そう思う。問題は………。
(孫娘は許さないでしょうね。八つ裂き、ならまだマシかしら?)
上の孫娘はこの青年を心底恨んでいよう。表向きは凛として冷静沈着を装っているがその実は煮え滾った溶岩のようなものだ。きっと今でも彼女は諦めていまい。その機会を待っているだけだ。その時が来れば………鬼月を捨てる際に序でとしてあの一件に関わった者全員を責め抜いて殺すだろう。その中には当然この青年もいる筈………。
「宇右衛門に話は通しました。貴方は今日より私の駒です。同時に貴方は私の庇護下に入る事になります。その意味、分かりますね?」
「はっ。あの一件については決して漏らす事はありませぬ」
胡蝶の言葉の意味を葉山は瞬時に理解する。あの一件……あの下人の身体に起こった秘密について決して他者に口にする事がない事を葉山は誓う。
「宜しい。具体的な時期は決められませんが、貴方には将来的に鬼月の名前を返す事になるでしょう。その事を承知していなさい」
「あら、良いのかしら?その隠行衆、話によれば彼を売ったのでしょう?」
胡蝶の言葉に嘲るように横槍を入れる葵。コロコロとした表情で、その視線は底冷えする程に冷たかった。僅かな、けど確かな殺気………葉山は反論せず、無言でその中傷を受け入れる。
「ふざけるのはお止めなさい。あれは事故よ。それに……何よりも彼が責める事はない筈よ」
胡蝶は葉山を庇うとともに葵を叱責する。やはりこの孫娘は嗜虐的で意地が悪い。
「………冗談よ。私も彼を守るために味方は必要なのは理解しているわ」
葉山の存在は彼を鬼月の一族から守る上で大いに利用出来る。彼の幼馴染みの二人に、此度の討伐の際に鬼月の家に引き取られた蓮華家の妾腹、この隠行衆を慕う者らを此方側に引き込める可能性があるのだ。ここで殺してしまうよりも遥かにその方が利用価値がある。
「それに合格よ。さっきの言葉、素直に受け入れていたみたいだもの。形ばかりの贖罪ではないようね」
先程の言葉は挑発であった。この隠行衆が本当に彼のために動くのか。単に己の復権のために彼と自分達に取り入ろうとしているだけであるのか、それを試すためのものであった。
「良いわよ、信じましょう。彼には一人でも多くの味方が必要だもの。貴方が彼の一助になってくれるなら喜ばしいわ。その時が来れば貴方に相応の立場を保証してあげましょう。………だから裏切ったら駄目よ?」
「っ………!!はっ!」
葵の最後の言葉と共に向けられた殺気に、葉山は思わず気を失いそうになった。莫大な霊力を向けられた圧迫感に意識が遠退くのを必死に繋ぎ止め、葉山は応じる。その額には無数の冷や汗が流れていた。
「………御苦労様。下がって良いわよ」
これ以上ここに置くのは酷だろう、胡蝶はそう思って葉山に退室を命じる。隠行衆の少年はその命令に僅かに安堵するが、直ぐに気を引き締め直し一礼する。闇の中にすっと消えていった………。
「それで?その巻物は何なのかしら?」
隠行衆が完全に退室したのを確認してから、葵は祖母の手元にある巻物を見つめ、問い掛ける。
「えぇ、ちょっと調べ物ね。あの子が心配していたから………」
その言葉に葵は目を細め、僅かに不愉快そうにする。
「あぁ、家族への呪いの影響についてね。………成る程、確かに彼なら心配しそうね」
得心いったように呟く葵であるが、同時に不機嫌な態度は変わらない。彼女にとって家族なんてものは嫌悪の対象でしかない。目の前の祖母に対しても同様だ。この若作りな祖母が自分を見捨てた事を葵は忘れていない。葵がこの祖母と協力出来ているのは単に彼を守るという点で意見が一致しているからに過ぎない。
葵は、彼の家族についても決して好意なぞ持っていなかった。どういう形であれ、彼ら彼女らが最愛の人を人身御供にした事は事実であるのだから。
………それがなければ彼女が彼と巡り合う事がなかった事を理解していても、変わらない。
「………貴女がどう思おうと自由だけど、老婆心で忠告するわ。直接危害を加えたり、彼の前で口にしない方が良いわよ?」
「私だって子供じゃないわ。それくらいの我慢は出来るわよ。彼が望むなら捨て扶持くらいならあげても良いわ。あの女と同じにしないで」
本当に分かっていれば良いのだが………胡蝶はその点に関しては半信半疑であった。葵も、姉の雛も、悪い意味で情愛が深過ぎるのだ。
「それはそうと、どうなの?何かあるのなら彼に伝えた方が良いでしょう?」
「えぇ、そうね。………その点については問題無さそうね。家族に何かあったという様子は無さそうよ。寧ろ、生活は良くなっているようね」
「それはそれは、目出度い事」
皮肉に満ち満ちた言葉を吐き捨てる葵である。そんな孫娘の態度に辟易しつつ、胡蝶は文の続きを読み進める。次の瞬間に胡蝶はその一文に視線向けて………。
「っ………!?」
思わず胡蝶は動揺した。驚愕した。目を見開いて息を呑んだ。その一文を何度も何度も読み返して、それでも事実を信じられずに困惑する。
「………?お祖母様、どうしたのかしら?」
「え、えぇ………いえ、大した事ではないわ。ちょっと目眩がしただけよ。ふふ、私も歳かしらね?」
はぁ、と眉間に手をやって深呼吸する胡蝶。暫しして精神を落ち着かせた御意見番は葵を見る。孫娘の方はどうやら此方の異変には気が付いていないようだった。そこはやはり年の功というべきか、胡蝶は実に自然に動揺を誤魔化していた。
「さて、ここからが本題よ。逢瀬を邪魔してまで貴女をここに呼んだ理由ね。知りたくはないかしら?」
ピクリ、と孫娘が反応した。そうであろう、この孫娘にとって彼についての事は何よりも優先せねばならぬ事なのだ。祖母が彼に目をかけている理由を彼女が気にしていない筈はない。いつ彼を守る梯子の一つが外されるのか、それが気にならない訳がない。故に、葵は反応する。反応せざるを得ない。
「此度の案件で、いえ、それ以前からもそうね。貴女が私に疑念を持っている事は知っているわ。私があの子に目をかけている理由、知りたいのでしょう?」
「えぇ、そうね。ずっと不思議に思っていたのよ。お祖母様が彼の面倒を見ている理由をね」
「あの子がこの屋敷に来た時に世話して以来、ずっと子や孫のように思っていたから……と言ったら信じるかしら?」
その言葉を聞いた葵は顔をしかめる。あからさまなまでに歪める。
「冗談は止めてくれるかしら?実の子や孫娘すら切り捨てる黒蝶婦がそんな事言っても誰が信用するというのかしら?」
「ふふふ、それもそうね………」
孫娘の反応に苦笑する胡蝶。別に好きでそうして来た訳でもないのだが……しかしながらそう言われてしまえば反論出来ぬのが辛い所であった。胡蝶の手は決して綺麗ではない。実際、彼女が彼に目をかけるのは単に子や孫と同一視しているからだけではないのだ。
「………良いわ。雛に言うよりはまだ話が分かるでしょうからね。けど、良いの?もし私の話を聞いてしまったら、もう私とは手を組めないかも知れないわよ?」
「あら、それは楽しみね。一体どんな秘密があるのか、わくわくしてしまうわ」
胡蝶の警告に対して悠然と葵は答えた。傲慢に、恐れもせずに宣う孫娘の姿に僅かに苦笑する祖母。
そも、話を切り出して来たのは胡蝶なのだ。その本人が警告するのもある意味馬鹿馬鹿しい。勿体ぶってるように見られていても不思議ではない。
「えぇ、なら聞いて貰おうかしらね。年寄りの古臭い感傷と後悔を、ね?」
胡蝶は答える。彼女があの下人を目にかける理由を。彼女の恥じるべき過去を、未練がましい思いを………。
「………不愉快ね」
一頻り説明仕切った胡蝶に対して、沈黙して聞き入っていた葵が最初に答えた言葉がそれであった。
「あらあら、折角祖母が答えて上げたのにいきなりそんな物言いなんて。冷たいわね?」
「お祖母様の気持ちなんて聞いていないわ。私は率直な気持ちを答えただけよ」
淡々と、嫌悪感と不快感を交えた口調で葵ははっきりと言い切る。
それでいて、その矛先は祖母に対してのものではなかった。いや、確かにそれもあったがそれ以上に葵が嫌悪したのは自分自身を含めた鬼月の家そのものだった。
「………お祖母様は私が同じ過ちを犯すとお思いで?」
「そうならないで欲しいものだわ。貴女達は兎も角、彼は一人ではどうにも出来ないもの」
胡蝶は本当にそう思った。葵も雛も、今では一人でも大抵の事はどうにでもなる。けれども彼は違うのだ。彼は常に死と隣り合わせの綱渡りを続けているのだ。ましてや、既に神柱に二重に呪われている。
「それは皮肉かしら?」
「事実を言ったまでの事よ。それとも、貴女は一度も誤らずに彼を守って来られたとでも?」
「痛い所を突かれたわね………」
胡蝶の切り返しに葵は顔をしかめる。反論は出来ない。祖母の言葉は事実なのだから。幾ら必要な事であったとは言え、幾ら想定外であったとは言え、彼がこれまで受けた傷は、彼が呪われた事実は、変わらないのだ。
「雛のような絵空事が困難なのは承知しているわ。けれど、貴女も気を付けなさい。彼に過剰な期待をするのは酷というものよ」
「………私は貴女達とは違うわ」
吐き捨てるようにそう呟いて、葵はすっと立ち上がる。
「心には留めて置くわ。けれど、彼は貴女の思い出の男とは違うの。私は彼を信じているわ」
思いの人を信じきれずに、その人を追い詰める言葉を吐いた胡蝶に向けての痛烈な皮肉であった。
「お話はこれで宜しくて?」
「えぇ、年寄りの長話に付き合わせて悪かったわね。これで貴女の疑念は晴れたでしょう?」
灰皿にこんこん、と煙管に溜まった煙草の灰を打ち捨てながら胡蝶は尋ねる。
「………安心なさい。あの子の事はこれからも便宜を図って上げるから。決して切り捨てて、見捨てるような事はしないわ」
「そう願いたいわね。………いざという時は私も手段を選んでいられないもの」
葵の言葉は真に迫っていた。実際、彼女は必要があれば文字通り何でもするだろう。それがどれ程残虐で、どれ程非道な行為であろうとも。
「失礼するわね。彼の保護、感謝致しますわ」
不愉快過ぎてこの場から一秒でも早く立ち去りたいとばかりに葵は踵を返すと一度も振り向く事もせずにその場を立ち去っていった。あるいは同族嫌悪であったのかも知れない。葵は確かに祖母に自らの未来を見ていた。有り得うる自らの末路………。
「………いいえ、そんな事許さないわ」
屋敷の縁側を歩きながら葵は呟く。凍えるような冷たく、それでいて煮え滾る激情を滲ませて誓う。
「いいわ、やって見せるわ。私は、彼と、やって見せるわ」
鬼月の血の因果も、因習も、因縁も、何もかも、捩じ伏せてやる。屈服させてやる。そんなものに彼と自分の未来を奪われてたまるものか。奪わせてたまるものか。
「そうよ、何も変わらないわ。変わらないじゃないの。馬鹿らしい」
そうだ、あのような話が何だというのだ?全ては年寄りの感傷であり、過去に過ぎない。そんなものに囚われてなるものか。彼を囚わせてなるものか。何も変わらない。葵の目標は何も変わる事はない……!!
「この家の全ては私の物に、そして私は………貴方、もう少し待っていて頂戴ね?」
葵は人気のない縁側で、呟いた。囁くように、祈るように、何処までも深い情愛を吐き出すように、呟いた。
その小さな声は激しい梅雨の雨音の中に、直ぐに消えてしまっていた…………。
「………はぁ、やっぱり頑固な子ね。やっぱり血は争えないという事かしらね」
孫娘が消え去り、静かに寂しくなった部屋の中で胡蝶は嘆息する。
悪い意味で、あの孫娘は両親に似過ぎていた。愛憎が深過ぎる。理想が高過ぎるのだ。
大切な人を傷付ける事に、果たしてあの孫娘は気付けるのか。認められるのであろうか………。
「尤も、それについては私も人の事は言えないわね…………」
そこまで呟いて胡蝶は巻物を広げて葉山からの報告に再び目をやった。嘆息する。その事実を認めて、心の内の衝動を落ち着かせる。孫娘達のように激情に身を任せずに済んだのは果たして年の功のお陰であろうか?
「そう。彼が、ね…………」
天を仰いで胡蝶は呟く。この事実を知ってしまった以上、胡蝶もまた後戻りは出来ない。
偶然にしては出来すぎている話であるが、だからこそ納得も行くし得心も行く。あの人は確かにその辺りについては手が早い人であったし、そうでなければ彼処まであの子にあの人の面影を重ねまい。
胡蝶の命に従い葉山が調べたのは戸籍であった。家系図であった。寺社に保管されていた戸籍から書き写し、整理した彼の血族の系譜……ある一角にそれはあった。母方の曾祖父に当たるそこの空白は、あの子の祖母が手々親であった事を意味している。曾祖母の名前は………胡蝶はその名前に見覚えがあった。それを彼女の実家に奉公していた女中と同じ名で、幼き頃彼女は式神で尾行していた時に目撃していたのだ。あの人がその女中に言い寄り口説き落としていたその光景を。
「確か、あの後暇を貰っていたのかしらね………?」
くしゃり、と気付けば巻物を握りしめていた。そうだ、彼を永遠に失った後、あの女は青褪めた表情でそそくさに屋敷勤めを辞めたのだ。当時の胡蝶は悲しみと喪失感からその事に気にかける余裕もなく、その後はただただ我が身可愛さに彼を見捨てて逃げたあの女に対して僅かな嫌悪感のみを胸の内に秘めていた。それが、これでは………!!
「ふふふ……道化は私、という事なのかしらね。傑作だわ」
くつくつくつ、と胡蝶は笑う。嗤う。その瞳には既に光は見られない。だというのに、その口元は限界まで釣り上がっていた。愉悦に歪んでいた。見る者に言い知れない不安と共に情欲を掻き立てさせる妖艷な笑み………。
「構わないわ。道化で結構。寧ろ好都合よ」
あぁ、余りに運命的ではないか。宿命的ではないか。年甲斐もなく燃え上がってしまいそうだ。煮え滾ってしまいそうだ。あの忌々しい蜘蛛の事もあって尚更そう思う。
「……何時までそこにいるのかしら?ひそひそと覗いていないで此方にいらっしゃいな」
「えっ……うわっ!?」
くいっ、と胡蝶が手持ちの煙管でもって手招きすると同時に障子が勢い良く開き、そこにいた水干服の少年は見えない手で首元を掴まれ引き摺られたかのように胡蝶の部屋に押し込まれた。そのまま顔面から座布団に突っ込む白若丸。
葵が下人の療養する部屋から退室した後、密かに式神で一人呼び寄せられた白若丸は丁度葵が立ち去った後に胡蝶の部屋の前に来ていた。部屋に入る機会も掴めずに、そのまま先程までこの御意見番の独り言に聞き耳を立てる形で障子の向こう側に佇んでいたのだ。
……て今や、彼は胡蝶によって無理矢理に部屋へと招かれていた。
「ううっ………ひっ!?」
「ふふふ、呼び出したのは此方なのだから遠慮しなくて良いのよ?お茶は如何?御茶請けの菓子もありますよ?」
部屋の主人を見上げ、その尋常ならざる雰囲気に怯える白若丸に対して、何処までも外面のみを整えた微笑みで胡蝶は囁く。ゆらりゆらりと何処からともなく煎茶の注がれた湯呑みに急須、最中や和三盆、金平糖に栗饅頭を容れた漆塗りの菓子入れが飛んでくる。
実の所、それらは胡蝶自身が独自に編み出した技術によって容器自体に刻印を刻んで作り上げた一種の式神であり、簡易的かつ人工的な憑喪神でもあるのだが………そんな事は白若丸にはどうでも良かったであろう。彼の心中に渦巻くのはただただ不安と恐怖のみだ。
「ふふ、そんなに怖がらなくて良いのに。別に捕って食いはしないわよ?」
そういいつつ、少年の側に寄る胡蝶。白い手を艶かしく伸ばして、そのまま白若丸の顎を下から持ち上げる。黄金色の瞳が暗い部屋の中で怪しく輝く。正しく値踏みしている目付きであった。少年は値踏みされていた。
「あ、う…………」
「綺麗な顔付きね。肌も白い。腕も……何て華奢なのかしら?まるで女の子みたい」
いつの間にかもう一方の手で少年の手首を掴み持ち上げる胡蝶。水干の袖が垂れて露になる少年の腕を鑑賞して評する。
「な、何を………」
「貴方、嫉妬しているのよね?」
「えっ………?」
胡蝶の言葉に白若丸は一瞬訳が分からずに呆気に取られたが、直ぐに動揺に変わっていた。
「ふふふ、人に言われて漸く自覚したのね?先日の一件、貴方についても観察をさせて貰っていたわ。随分と彼の事を見ていたわよね?」
「なっ……!!別に……!!?」
「別に?」
「…………」
反論しようとした少年は胡蝶の眼差しを見ると黙りこむ。自覚させられる。
彼が、少年の保護者が隠行衆の少年や半妖の少女に向けていた視線や表情に不愉快な感情を抱いていた事。彼に笑顔を向けられて頭を撫でられた時に自分がどれだけ悦んでいたのかを。何なら目の前の女に対してだって嫉妬していて………。
「っ………!!?」
自身が何時しかその内に穢らわしい感情を彼に向けていた事実に、白若丸は自己嫌悪に襲われる。
「お、俺は………!!?」
「そこまで怯えなくて良いわよ?仕方無いわ。人は自分を誤魔化せないもの」
少年を抱き寄せて、胡蝶はその耳元で囁く。宥めるように、呟く。
「けど、俺は……こんな、気持ち悪い事………!!」
身体を震わせて白若丸は怯える。少年は想像する。自分の内なる思いを彼に知られた時の事を。自分を子供のように、弟のように笑みを浮かべていたあの人が、此方を汚いものを見るような視線を向ける事。それを思うだけで少年は発狂しそうだった。
「い、いやだ!!そんなの……!!?いや、いやだ!いやだ、よぅ…………」
唯でさえ少年はこれまで欲望にまみれた穢らわしい視線か、あるいは好奇や蔑みの視線ばかりを向けられてきたのだ。そんな中で少年にとって彼の存在は自分を守ってくれる唯一の存在で、そんな彼に見捨てられるなんて想像したら………!!!
「大丈夫、大丈夫よ。落ち着いて」
暴れる少年をぎゅっと胡蝶は抱き締める。慈愛をもって抱き締める。故に少年の不安と恐怖は消える事はない。だから胡蝶は嘯く。少年の心を攻める。
「安心して。彼は貴方を捨てられないわ」
「どうしてそんな事……!!?」
「今の彼には貴方の力が必要だもの」
その言葉に少年の動きは硬直する。ゆっくりと少年は胡蝶を見上げる。何処かすがるように、見つめる。
鬼月の黒蝶婦は口元を吊り上げた。上手くいった、と嗤った。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「覚えているでしょう?彼のあの変貌を」
「そうよ、彼の身体は蝕まれているの。呪われているのよ」
「そのお陰で彼は苦しんでいるわ。今正にこの瞬間もね」
「ましてや今回の一件であの蜘蛛にまで………えぇ、この事が表沙汰になれば彼は無事では済まないわね。その先にあるのは闇だけよ」
「えぇ、そうよ。貴方には才能があるわ。彼を助けるための力が」
「安心して頂戴。その力がある限り、貴方が彼に捨てられる事はないわ」
「私が貴方に教えて上げる。彼の内に巣くう忌々しい呪いを封じこめ、宥める術をね」
「だけどね?そのためには足りないものがあるのよ」
「貴方は才能で補っているけれど、本来貴方が鎮魂の舞をしても彼を宥めるのは難しかったのよ?」
「当然よね、神は我が儘なものよ。自身に奉仕する者には穢れなき魂を求めるもの」
「………気付いたわね。えぇ、そういう事よ」
「大丈夫、そんなに怯えないで。確かに貴方は寺で色々あったでしょうね。けれど、ある意味で幸運よ?」
「ふふふ、禁薬の中には色々なものがありましてね?その中には人を変質させるものも数多くあるの」
「この薬は貴方も馴染みがあるでしょう?そう、これを飲んだ者はその性が転換していくのよ。まぁ、寺で飲んでいたでしょうものは薬効を薄めたものでしょうけれど。流石に完全に女人にするのは不味いと思ったのでしょうね」
「幾ら禁薬とは言え、安全に変えるには長い時間がかかるわ。何年もかけて、多くの制約や注意もいるでしょうね。痛い思いもするわ」
「けれど、見返りは大きいわよ?貴方が寺に住んでいたのは少年の頃、つまりは乙女としては純潔なのよ?ましてや、稚児よりも巫女の方がこの手の儀式には適性があるわ」
「それに、ふふ………彼の内に巣くうのは地母神の成れの果てよ。つまりは豊穣神でもあるわ。その血を取り入れた彼にとっては………いざという時にその身を張って、その身に受け入れてでも貴方は鎮めなければならないのよ?」
「それに妬んでいるのでしょう?………ふふ、安心しなさい。貴方の顔立ちは良く整っているもの。きっと乙女としても綺麗に違いないわ」
「そうね。少なくとも今のままよりはずっと………保証は出来ないけれど、希望はあるわ。彼も男の子だもの」
「………それじゃあ、尋ねるわね?私の提案、受け入れてくれるかしら?」
煙管からは人の思考を鈍らせて、同時に情欲を刺激する煙が部屋を満たしていた。胡蝶は煙管を灰皿に置くと膝に赤子のように横たわる少年の頭を撫でる。とろん、と眠たげな少年は一瞬胡蝶を見上げるが、直ぐにそのまま自分の世界に閉じ籠る。
「御免なさいね。けれど、貴方は心を直ぐに閉じそうだったから。こうでもしないと本心が引き出せないもの」
胡蝶の策謀は上手くいった。彼に着きっきりで世話をさせる事一週間余り、彼女の見立ては確信に変わり、この席を設けられた。
一人招き寄せて、薬でもって彼に提案を呑ませるのは罠にも思えたが………捨てられた猫のようなこの少年に己の本心を認めさせる必要もあったのだから、仕方無い。思う所はあるだろうが最終的には折り合いをつけてくれるだろう。この少年だって、彼の事は大事であろうから。
そうでなければ幾ら香の効果があろうが胡蝶の提案に彼処まで淫らな喜悦を浮かべやしまい。
「それにしても掘り出し物で助かったわ。あの蜘蛛にも、雛にも出来るだけ頼りたくないものね」
どちらも制御下にあるとは言い難い代物だ。危険は常に分散し、安全策は複数用意するに限る。ましてや、この少年は蜘蛛や孫娘よりも遥かに従順で、遥かに操り易く、必要ならば切り捨てるのも最も易い………。
「ふふふ………安心なさい。ちゃんと約束は守りますよ?その後の結果は貴方の、いえ貴女の頑張り次第です。精々、期待しているわよ………?」
彼のために、と最後に呟いて黒蝶婦は少年を優しく、優しくその頭を愛撫した。
その姿は、正に悪名高い鬼月の陰謀家そのものであった…………。
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