第五章 章末・後
「げほっ……けほっ、けほ………!?」
薄暗い書庫の一角、燭台で照らされた机の上で牡丹は激しく咳込む。苦し気に、踞る。
『グルルルル………!!?』
熊妖怪が慌てたように側に寄る。水を張った洗面台を持って近付く。
「うえっ……げっ………!!?」
牡丹は直ぐ様その洗面台の上に嘔吐した。血を過分に混ぜた吐瀉物を吐き出す。どれだけ経っただろうか?漸く吐き出せるだけ吐ききった少女はぜいぜいと息をしながら椅子にもたれ掛かる。その額には冷や汗が流れ、顔色は青白い。
「………もう良いですよ。それは下げなさい」
口元を手で隠し、不愉快そうに牡丹が命じればよそよそしく鬼熊は洗面台を持って下がる。
そして鬼熊が完全にいなくなったのを確認してから、牡丹は机の引き出しからそれを取り出した。硝子瓶の中に半分程残っているのは痛み止めであり、同時に虫殺し薬であった。彼女のためだけに作られた特別薬………。
『三尸』、という伝承がある。人の体内には産まれながらにして三匹の虫がいて、それらは人の身体より抜け出して自由を得んとして宿主の身体に害をもたらすのだとか。無論、それは空想な伝承であり実際に人の体内にそのような虫が宿っている訳はないのだが………。
『だから、試しに作ってみたんだよ。君にはその被験体になって欲しくてね。この薬は手向けさ、大切に使うといい』
「………!!」
牡丹は幼く、愚かで、無用心であった頃のその記憶を思い出すと衝動的に硝子瓶を叩き捨てようとして………しかし激しい怒りの感情を抑えるとその中身を一粒取り出して口にする。
「ゔっ゙………!?」
舌が痺れる程の苦味が口内に広がる。最早嫌がらせなのではと思えるような最悪の味に悶え、耐えながら牡丹はそれを噛み潰していく。余りにもおぞましい味に涙が出てくる。この薬は水で飲むと効果が薄れ、しかも消化も悪いので辛くてもこのように摂取するしかなかった。何度も何度も我慢してきたがそれでも慣れる事はない。いや、こんな味に慣れたらある意味終わりだろう。
「忌々しい………」
「おや、何がだい?」
独り言に対して求めてもいないあっけらかんとした返事がくれば、牡丹は潤んだ瞳でジト目を浮かべて振り向いた。当然のように積み上げられた書籍の山に寄り掛かっている碧鬼を見て彼女は心底疲れた溜め息を吐いた。
「………我が物顔で化物が自分の家に居候していれば腹も立ちますよ」
心底不快そうに、そして心底蔑むように睨み付けてくる松重の孫娘に対して、しかし鬼は寧ろ楽しげに嗤った。少なくともあからさまに友好を演じてきたり媚びて来たりしてくるよりは遥かに碧鬼にとっては好ましい反応であった。積み上げられた書籍の一つ……舶来の人皮で作られた魔導書……を手にした鬼はそれを一瞥して、次いでそれをヒラヒラと揺らして弁明を口にする。
「かっかっかっ、そう疎む事ないだろうに。確かに居候の身の上だがな?ちゃーんと家賃分の仕事はしているだろう?俺がこれまで何本危険な禁書を処理してやったと思ってるんだ?」
「認可した覚えはありませんし、寧ろ困っているのですが?」
けらけらと笑って嘯く鬼に牡丹は淡々と言い返した。どこまでも冷たい口調だった。
松重の孫娘と祖父が住まうこの古書店は無数の禁書で溢れている。その何割かは呪い等が掛けられた所謂妖魔本や魔導書の類いであり、適切に扱わなければ……いや、適切に扱っても危険なものも少なくない。
尤も、それは松重の二人も承知の話である。寧ろその呪いすらも研究の対象であったりもするのだ。それを………この鬼が恩の押し付けとばかりにそれらの本の呪いをぶち壊し、何なら本自体を破壊してしまい、それを誇る姿に牡丹は相手が鬼でなければ源武に殴り殺すように命令していただろう。
「それはそうと……貴女は何を考えているので?」
「何をって?」
「惚けないで下さい。先日まで洞窟にいたのでしょう?」
「おや、バレた?」
牡丹の指摘に頬を掻く碧鬼。尤も、その態度には動揺もなければ悪気もなさそうだった。ふてぶてしさすら感じられた。腹が立つ。
「何時も騒がしい貴女ですよ。この広い書庫でも数日姿を眩ませば直ぐに分かります」
そうでなくても、あの牡丹の式神は戦闘力は殆どなくても索敵能力は低くないのだ。蜂鳥の式神は空気中に漂う碧鬼の妖気の残滓を回収していた。
「一体何を企んでいたので?」
「そんなの、答えはもう出ているだろう?」
「どういう……そういう事ですか」
不敵な笑みを浮かべる碧鬼の返答に怪訝な表情を浮かべていた牡丹は、しかし直ぐにその答えを導き出すとともに戦慄した。
此度の騒動の結果………それ自体が碧鬼の目的、つまりはあの代替わりした白蜘蛛こそが狙いだったのだ。
「けけけ、俺としてもあの気狂い地母神の邪魔してやりたいからな。あいつも良く良く期待に応えてくれてるからここは俺も一肌脱いでやらんとな。まぁ、ちょっとしたご褒美って奴さ」
「成る程………」
短くそう答えるが、内心で牡丹の受けた衝撃は大きかった。ここまでの状況、全てこの碧鬼の想定内であったのだから。
(いえ、ある意味当然ですか)
鬼という種族は妖共の中でも特に上位に位置する存在であり、同時に最優先の討伐対象でもあった。長年の活動の結果、名のある鬼の大半は討ち取られて社にその生首を晒している。腕力だけでなく、悪知恵もなければ今日まで生きてはいまい。そして伝わる伝承でも、都を食い荒らしたこの碧鬼は卑怯にして卑劣極まりなかった。
「いやはや、本当にあいつは俺の期待に応えてくれるものさな。あれだけ変異してもちゃーんと元に戻ってくれるんだからよ。ぐへへ、興奮してしまいそうだぜ」
下品な笑みを浮かべる鬼からじわり、と酒臭い匂いが染み出すように漂ってきた。牡丹は衣服の袖で鼻を押さえる。こんな匂い嗅ぎつづけていたら今の彼女ではまた嘔吐してしまいそうだ。
「お前さんも感謝してくれて良いんだぜ?そっちからすれば土蜘蛛の奴も抹殺対象だろう?」
「貴女とあの下人も纏めて死滅してくれたら最上でしたね」
ドヤ顔を浮かべる鬼に向けて牡丹は淡々と吐き捨てる。心からの本音だった。厄介な連中が纏めて死んでくれたらどれだけ楽であったか。
(それに、確かに土蜘蛛を無力化出来たのは幸いですが……謝意なぞ伝えたら殺されそうですね)
真にこの鬼の性格と価値観は面倒この上ない。正直一言一句を口にするのにも神経を使う。かといって無視したらしたで恐らく癇癪を起こすだろうからうんざりだ。良くもまぁ、あの下人もこれまでこんなものに絡まれて生きていられるものである。
(それはそうと………いえ、どうせこれといった情報なぞ残している訳ないでしょうが)
そして蜘蛛と鬼と、今一体あの場にいた、そしてこの一件の騒動を引き起こしたであろうあの百貌の怪物の事を思い浮かべ、牡丹は静かに怒りを迸らせる。そして自身の胸元に手をやる。
「あの化物とも顔合わせしたので?」
「ん?あぁ、全く困ったものだぜ?折角俺のような美女が訪問してやったのに嫌そうな顔をしてくれやがって。失礼だよなぁ?………あぁ、そう言えば?」
「?」
牡丹の質問に今更のように思い出したような表情を浮かべる碧鬼。その態度は文字通り先程まで本当に忘れていたようだった。
………そして、碧鬼は意地の悪そうに口を開く。
「『久し振りだね。その様子だとまだ薬は残っているのかな?また会えて本当に嬉しいよ』だってよ。本当、あいつマジで性格悪いよな?」
「っ………!!?」
鬼の受け取った言付けに目を見開き立ち上がろうとした牡丹は、しかし直後に身体の苦しみを思い出して椅子に座り込む。そして……怒りを呑み込む。
「………そう、ですか。はぁ………随分とふざけた言付けですね」
怒りに蓋をして、搾り出すようにして牡丹は答えた。そうだ、ここで怒り狂っても何の意味もない。無駄で無意味で無価値な行為だ。感情のままに生きるのは獣の行いだ。今は怒るな。そう、今はまだ…………。
「くくく、今あいつが何処にいるのか知りたいか?」
「人を揺さぶるのは止めて欲しいですね。妖の誘惑に碌なものはありません」
試すように嘯く鬼に向けて牡丹は冷たくあしらった。妖怪共の誘惑に負けた者の末路なぞ幼子でも物語で理解しているものだ。………無論、分かっていても抗えないような質の悪い誘惑も多いが、少なくとも牡丹には自制心があり、鬼もまた本気で誘惑していた訳でもないようだった。
「そうかい。まぁ、気が変わったら教えてくれよ?」
元よりそれを想定していたらしく肩を竦めて鬼は書籍の上に寝っころがって鼾をかき始める………。
「尋ねた瞬間に食い殺されそうですがね………」
気紛れで気分屋の鬼が何を仕出かすか知れたものではない。ましてや鬼は「気が変わったら教えてくれ」とは言ったが此方の求める答えを述べる等とは一言もいっていないのだ。
「本当に、質の悪い………」
「にゃあ?」
「此方の話ですよ」
いつの間にか机の上に登って鳴いた化け猫を、その喉を擦りあやしながら、少女退魔士は呟いた。そして牡丹は思う。自分に残された時間を、そして奴の潜む居所を…………奴への復讐を果たすその時を。
「何処に隠れていようとも、貴方だけは絶対に殺してあげますよ。師匠」
何処までも冷たく、煮えたぎる怒りを込めて、少女は嘗ての退魔の師に向けて禍々しい呪詛を吐き捨てた…………。
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「さて、次の議題は先日の北土での河童問題についてになります」
彼は恭しく、議場の参列者達に向けて宣言した。白鷺を思わせる礼服に冠を被るその初老の男の名は百夜院 継道(ひゃくやいん つぐみち)、扶桑国建国以来の名家たる百夜院家の四七代目の当主にして、正二位、左大臣の顕職の地位にある人物である。白鷺を思わせる礼服に冠を被った、口髭を生やした物腰の柔らかで品の良さそうな男である。
扶桑国朝廷が都の中央に設けられし内裏、更にその大内裏の鎮座する朝堂院大極殿にてその公議が開かれていた。広々とした議場、そこに集う者達はこの左大臣を始め、皆が扶桑国の首脳部というべき面々であった。
朝廷の官制は複雑であり、長い歴史の中で名称の変更に統廃合と新設、職務の変質、そして肥大化を繰り返してきたが、今上帝の御世になって十五年、その間官制はこれといって大きな変更はない。
それは表向きは「偉大なる前帝が整えた官制を変更するのはおそれ多い事である」としているが、その実は単に官制の改革を面倒がり、特に前帝の時代に大きく統合を進めたために多くの公家や官吏がこれ以上自分達の椅子を減らされては堪らぬという保守的かつ独善的な理由からのものであった。
とは言え、それでも前帝の改革以前よりは遥かにマシではある事を左大臣は理解していた。実際、これが前々帝の御世においてならば彼が一瞥せねばならぬ出席者は今の倍はいたであろうから。そして、参列する出席者が多ければその分公議もまた長く非効率なものとなるもので……………。
「…………」
議の進行役たる左大臣は一旦黙りこみ上座を窺う。そこにあるのは巨大な御簾であった。その内に座る小さい影……未だ十四の少年に過ぎぬ御飾りの帝………これまで一度として意見を求められた事のない少年は恐らく今日も詰まらなそうに閣議の時間が終わるのを待っている事であろう。その左に控えるは摂政と太政大臣を兼ねる中年の男だ。従一位、白藤宮 柿武(しろふじのみや かきたけ)である。彼の傍らには議事録を記録する書記が無言で控えている。
一方で御簾の右側にも人が控える。六衛府を率い、実質的な国軍の長でもある鎮守大将軍である。この寡黙な将軍は帝同様に殆ど政務に口出しはしないが、常に剣呑な雰囲気で帝の側に侍る。前帝の頃からその地位にある彼は、万一に少年帝を害そうとする不届き者がいたとしても、その刃が届く前に確実にその者を徒手で無力化して見せる事であろう。
「………先日、漸く北土長官より報告が届いた所となります。河童共が発生した能代邦野本郡及び芦品郡の消毒作業を完了したとの事、但し民草は全て河童と化していたのでこれを処分、現状では復興の見込みはなしとの事です」
北土長官から送られてきた報告書を読みながら左大臣が伝える言葉に出席者達の呻くような声が漏れる。
「全滅とな?一人残らずと?」
「前々帝の御世にて南土にて流行した時もここまで酷くはなかったものだが………」
「誠に妖共とはおぞましきものよ。おお、怖い怖い………」
そのざわめきは左大臣の正面から漏れた。宮内・中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵の八省の大臣達である。彼らは右大臣と共に朝廷の実務を司る者達である。尤も、実態は次官らに仕事を丸投げしているような名目だけの者が大半で、事実口にする言葉は殆ど中身がなく、笏や礼服の袖で顔を隠して怯える者が大半であった。
「して、感染源の特定は如何に?」
それを口にしたのは若い男であった。八省及びその他の庁・寮を統括する上三位右大臣、辰園 堅康(たつその かたやす)である。限り無く不文律的に代々右大臣を世襲する霊園四家の出身であるこの若者はしかし、自身よりも年を重ねている八省の大臣達よりも遥かにこの場において有能であった。
「そちらについては目下調査中となりますな。但し、洞窟の奥に地下水脈があったとの事、何処ぞより流れた河童が辿り着いたのだとしても可笑しくはありませんな」
右大臣の指摘に対して静かな口調で左大臣は答える。
「しかして何処ぞで討伐より漏れた河童が一体二体流れ着いた所でこうも呆気なく郡が二つも失われますでしょうか?」
「右大臣、それは如何なる意味かな?」
「簡単な道理で御座います。現地の郡長も退魔士も、妖の繁殖について常に警戒をしている筈、妖共とて霞を食って生きている訳ではないのです。山の人や獣が消え失せれば地元の者共が直ぐに気付きましょう。そして河童共にそれに配慮出来る知恵なぞありますまい」
右大臣の言に場がざわつく。それに答えるのは左大臣の傍らに控える中納言である。
「此については報告書にも記載されておりまするが凶妖格の蜘蛛妖怪が河童共を率いていた由で御座います。決して現地の怠慢では御座らんのは確認しております。直接私めが死骸を確認致しました」
左大臣を筆頭として三人の大納言と七人の中納言、十人の少納言らは朝廷における地方の有力者や有識者らからなり、元老とも賢人会とも称されており、法や制度の提案と吟味、意見を司る。御意見番とでも言うべきだろうか。尚、此度の公議には内二人の大納言と六人の中納言が参列している。発言した中納言は北土出身の豪族の出であり、安全が確認され次第その目で直接事態を確認していた。
「その言、信じましょう。しかして怠慢ではないというのは些か甘う判断でありませぬか?」
確かに蜘蛛妖怪は比較的悪知恵のあるものが多いのは事実、しかしそれでも水面下で行われていた河童共の繁殖に気付かぬのは怠慢ではないか?
「ごほん……これは失敬。報告の続きについて伝えておりませなんだな。妖共の巣くっていた洞窟の掃討に際して、現地の者共が興味深い物品を回収しているようです」
「興味深い物品?」
「霊気の結晶化した翡翠柱です。それも相当の大物の」
「………!!!!」
咳払いの後に左大臣が発した言葉に動揺が走る。参列する大臣と納言らは互いに顔を見合わせる。所謂宝石や貴金属の類いはその希少性と共に大地と霊脈からの恩恵の賜物であり霊気を留め置き易く、それ故に呪具、殊に護身具の材料としての価値が高い。巨大な翡翠柱なぞ使おうと思えば街一つを半永続的に覆う巨大な結界の要に使えよう。人妖大乱の首謀者たる空亡は封印の際に百年物の翡翠柱を六本もその身体に突き刺されている。その価値は計り知れない。
同時に、此度のような状況にて翡翠柱の活用法として考えられるものは………。
「馬鹿な。あの禁術を妖ごときが使えるものか。話によれば相当に複雑な術式だそうではないか………?」
霊脈を自爆させる禁術、その形成に関わった式部省の大臣は驚愕と困惑と共に意見した。術式の開発自体は遥か昔、彼自身詳しい内容も知らぬし、その知識にも乏しいが『霊欠起爆』という第一級の禁術がそんな手軽に行えるものではない事は重々承知していた。
「妖共の見よう見真似ではないか?」
「しかし、そんなもので翡翠柱なぞ作れるものだろうか………?」
「であるならば一体何処から術式の手法が漏れた?」
「尚、現地の理究衆によれば幾体か不可解な妖の死骸を回収したとの事です。検分の結果、改造妖ではないかと」
互いに意見し合う大臣らに向けて、左大臣が更に追加で爆弾発言をすれば出席者らは目を見開いく。
「では、この一件。人為的なものであると………?」
「しかも退魔の心得のある者が関わっている事になりますな」
「禁術指定を受けた知にも通じている退魔の関係者ですか。少なくとも有象無象のモグリ共ではありますまい。陰陽寮、ないし図書寮に保管された禁書について閲覧した経験がある者となります」
「となれば正規の、それも宮仕えの経験のある退魔士共か………」
そこまで相談して、彼らの脳裏に過るのは一つの仮説である。
「おぉ、そう言えば先帝の御世にて陰陽寮にて騒動がありましたな………」
この場にて最年長の大納言が震えた声で囁いた。皆がその発言に注目する。
「確か、無断で禁術の研究をしていた輩共を摘発した件でしたかな?」
「おお。覚えておりますぞ。摘発に際して死者が出て、その責で時の寮頭が辞任したのでしたな」
「確か逃亡して未だに行方知れずの者めらがいた筈」
「もしや、まさか………!!?」
大臣と納言らは顔をしかめる。これだから退魔士共というのは………!!
「待ちなされ。まだ決まった訳ではあるまい。彼らとて同じく朝廷と帝に仕えし臣下、不用意に謗るべきではあるまいよ」
大臣らの懸念と敵意を宥めるように左大臣が語りかける。何処までも落ち着いた、人を安心させるような声音と口調に彼らの動揺は一時的であれ収まる。
「何にせよ、今は調査を続けるべきでしょう。今の段階ではあるまい。それよりも、二郡の今後について考えるべきであろう」
左大臣がそう語り、一度摂政に視線を向ける。そして再び参列者達を一瞥して意見する。
「寧ろ、これは好機というもの。霊脈を放置しては化物共の巣窟になりかねん。能代邦二郡の再建はやらねばなりますまい。代わりの退魔の者共に霊脈の管理をさせると共に人の余剰な村より住民を募るのが宜しいでしょう。寒村の開拓をさせるよりはその方が余程良い」
実際問題、朝廷の行う辺境開拓は一種の棄民政策でもあった。朝廷のもたらした秩序は曲がりなりにも民草の人口を増大させたが、同時に霊脈は限られる。霊脈の恩恵なき土地の開拓は困難を極め、しかし新たな霊脈を得るには其処に巣くう妖共の大規模な討伐を必要とする。かかる予算と損害は馬鹿に出来ない。何度も出来る事ではない。
故に朝廷にとって、辺境村の開拓は成功すれば幸いであり、失敗しても食い扶持を減らせるという程度のものでしかなかった。例え河童共によって前の住民が全滅していたとしても、食いはぐれた多くの民が集まるだろう。運が良ければ豊かな土地で自作農になれるのだから。
「どうせ相続するべき者もおらぬのです。墾田した土地の所有権を認めてやれば宜しいでしょう。私としては民草を過酷な寒村に向かわせるのは心苦しい」
「流石左大臣ですかな。相変わらず慈愛に満ちた御意見ですな」
「民草のための施政という訳ですか。まぁ、寒村を拓くよりもそちらの方が税も取れましょうな」
左大臣の意見に納言、大臣問わず賛同する。仁大臣とも称される程、左大臣に任じられる者は徳の高く仁愛に強き者が多いが今代の大臣もまたその例に漏れぬように皆は思った。これが凡俗な公家であればあれこれも理由をつけて自らの荘園にしかねないものである。
「うむ。左大臣の言、真に機知に富むものであると言える。右大臣はどうか?」
摂政兼太政大臣、白藤宮が右大臣に向けて問う。議論の途上から無言となっていた若い公家の男は白藤宮を一瞥すると一瞬無言となり、しかし直ぐに頭を下げる。
「………真、その通りかと」
そして、「然れど」………と右大臣は続ける。
「今少し、現地の調査を求めまする。陰陽寮にも協力を必要としましょう。そちらの裁可を御求めしたい」
鋭い目付きで右大臣は要請する。常に誰に対しても警戒し、信用せぬ態度は代々の右大臣が謀大臣と称される所以であり、その点ではこの若い公家もまた右大臣らしい右大臣であった。
「無論ですとも。右大臣の懸念は尤も、直ちに関係部署に調査を命じさせましょう」
爽やかに、にこやかに左大臣は応じた。その態度は右大臣に対する不快感は一欠片もなさそうに思えた。常に寛大であり、慈悲深く、人徳に優れた左大臣に相応しい態度であった。
「………。では次の議案に移りたい。良いかな、皆の衆?」
場の空気を読みながら摂政は次の議案に移る事を申し出る。被害こそ小さくないが既に北土における河童の問題は一応解決したものであり、摂政らにとっては正直な所優先順位は決して高くはなかった。この一件に陰陽寮から逃亡した退魔士の関わりが懸念されたからといって何になるというのか。たかが二郡が滅びた所で、扶桑国の国土と臣民の一割処か一分にも満たぬ。朝廷はその程度では揺らぎもしないのだ。
「承知致しました。右大臣、どうですかな?」
「………承知致しました」
大臣と納言らが頷く中、左大臣が摂政の言葉に応じて右大臣に問う。右大臣は一瞬考えるように無言で俯き、しかし直ぐに同じように応じた。その返答に優しげに左大臣は頷き、言葉を続ける。
「次いで、南土三邦における嵐と水害の被害についてですが…………」
そして黙々と公議は続いていく。扶桑国の各所で生じる問題とそれについての解決策を論じる公議が続く。
そしてそんな公議を、御簾の内に座する幼い少年は心底詰まらなそうに見つめていた事に、しかし気付く者は決して多くはなかった………。
一刻程続いた公議が終わり、大臣と納言らが次々と議場を後にする。その内幾人かは自身の書記や付人を連れて内裏の駐車場にて自身の牛車に乗り込み自宅へと帰宅していく。護衛の兵や雑人、退魔士らがそれを囲み、続く。そんな者達の中に左大臣の姿もあった。
「御帰宅でしょうか?」
「うむ、そろそろ私も歳だな。公議に参列するだけで随分と疲れた」
唐様式の棟の牛車に乗り込む前に、左大臣は行者に向けてそう嘯いて朗らかに微笑む。そんな事を言っても行者も、周囲の者達もこの左大臣が何処までも仕事熱心なのを知っていた。
その出仕はどの殿上人よりも早く、帰宅後も自室にて残務に夜を明かす姿は家中の者は誰でも知っている。多くの財貨を民草への施しに寄付し、神仏への信仰篤く、名門中の名門の生まれながら使用人や小作人に対してすら慈愛に満ちている。彼の荘園の小作料は他のそれに比べて格段に廉く、仕える雑人らの待遇も寛大だ。その徳はこの都の、この国の民草の誰もが知っている。そもそも左大臣の役職自体高い人徳がなければ任じられぬ不文律があり、前帝が三顧の礼でもってその地位に迎えたのは有名な話だ。
「それでは屋敷まで頼む」
御者にそう伝えて牛車に乗りこむ左大臣。簾が下がり、牛車かゆっくりと動き出す。ふと、物見窓が開きっぱなしなのに気付いてちらりと視線を向けた。
………直後、左大臣は同じように帰宅する八省の大臣らを見送り、声をかける右大臣と目があった。
「…………」
一瞬生じた沈黙、しかし直ぐにぺこり、と頭を下げて見送る右大臣。同時に左大臣もまた鷹揚な微笑みでもって返した。そして、そのまま右大臣の姿が見えなくなってから、左大臣は物見窓を閉める。閉めて、呟いた。
「やれやれ、内裏の中というのに、随分と警戒心が強い事であるな」
立ち去り際に垣間見た右大臣堅康の姿を思い出す左大臣。彼の両側にいたのは一見ただの従者や秘書にしか見えない。しかし見る者が見ればそれが退魔士、それも相当の手練れである事が分かったであろう。一般的にこの扶桑国において安全性だけで見れば一、二を誇る内裏の中であれだけ用心深いとは………尤も、それは右大臣一族の血筋でもあろうが、それだけではあるまい。ここ数年、妖絡みの厄介事が多発しているのだ。
「全く、近頃は騒がしい案件が多い事よ。………して、此度もまた貴方様の企てですかな?憑嗣殿?」
薄暗い牛車の中で左大臣は尋ねた。人外に向けて、尋ねた。術式によって防音を保証された牛車内で左大臣の声が反響する。そして………ある筈のない声が返ってきた。
「………おやおや、驚かそうとして隠れていたのだけれどね。バレてしまったかい?」
牛車の天井から垂れ下がるようにその醜い化物は現れていた。触手がうねる頭部、無数の牙が広がり左大臣の顔のすぐ横を掠める。しかして大臣はそれについて一切の動揺もなかった。この人物が、百貌の怪異が人型以外の依代も平気で使うのは何時もの事であるし、もっとおぞましい依代でもって現れた事だってあるのだ。左大臣はその点において慣れていた。
「お人が悪い。そんな性格だから寮でも嫌われていたのではないですかな?」
初代陰陽寮頭が裏切り者だと発覚するよりも前、純粋な人であった頃においてですら周囲に嫌われていたのは有名な話だ。当然であろう、弟子や部下を無断で薬や術の実験台にするし、冗談が洒落にならない危険なものばかりであったのだから。
「それは心外だね。これでも『それなりに』安全に気をつけていたつもりなのだけれどね」
困ったように首を捻る怪物。自覚があるのかないのか判断に困る物言いであった。この元陰陽寮頭は純粋な人間であった頃から知的で紳士的であるが、感性がズレていたというが、その伝承も納得である。
「………それはそうと、北土での騒ぎの直ぐ後に接触しに来るとは意外でしたな。北土長官からの報告を読みましたよ。どうやら結果は今一つであったようですな?」
左大臣は問いかける。彼とこの元人間の異形との付き合いは長い。彼の性格とこれまでの経験からすればこれ程早く顔を見せに来るのは驚きであったのだ。
「何事も成功を期待するのは誤りさ。失敗を失敗と認める事も肝心さ。それに、私個人としては収穫がなかった訳でもないさ。興味深い出会いがあったよ」
「ほぅ、貴方様がそこまで関心を持つ者がいるとは………驚きですな」
左大臣は素直に嘆息し、驚嘆した。祟神憑嗣という元人間が個人に対してそこまで注目するなぞ、滅多にある事ではなかった。
「まぁね。素の実力はそうでもないが………いやはや、どうにかしてまた接触出来ないかな?そうだ。先程までの公議、私については何かあったかい?」
それは鵺の存在に対して対策が話されているとすれば今後動きづらくなる事は明白で、故に警戒のための質問であった。しかし………。
「いえ、北土長官からの報告には一切。寧ろ先の騒動で逃亡した陰陽寮の者共の関与を疑っている有り様です」
「……ふむ。まぁ、そんな所だろう。土蜘蛛に私、余りにも話が出来過ぎているからね」
ましてや土蜘蛛は伝承に比べて遥かに弱体化していた。死骸を調査した理究衆すら有象無象の蜘蛛妖怪であろうと結論を出していた程の劣化ぶりである。嘗ての神格が堕ちたものだ。
「おっと、彼女について弁護させて貰うならばちゃんと理由はあるよ?どうやら彼女、最後の最後に己の神気を振り絞って代替わりしたようだからね」
「それはそれは………確かにそれでしたら判断出来ませんな」
神気の欠片すらない化物の死骸である。嘗て恐れられた蝦夷の神であると判断するのはかなり困難だろう。
「となれば、私の存在を把握しているのは鬼月の家くらいだね。賢い判断だよ、下手に騒いでも狼少年扱いされるだろうからね」
「ここ暫くの鬼月の動きは何か関係がありますでしょうか?此方に伝わる報告では随分と活発に動いているようですが」
事実、既に河童の騒動が終結してから、短期間の内に大規模な妖の群れが二つも殲滅されていた。扶桑国が未だに制圧出来ていない、大軍を送るにも不適当な峻険な山岳の霊脈に形成されていた妖の巣穴、霊脈自体が小さく討ち果たす手間が大きければ見返りが小さい故に放置されていたそれが、徹底的に焼き払われた知らせを左大臣も伝え聞いている。
退魔士とて霞を食べている訳でなければ命が惜しくない訳でもない。朝廷からの見返りを期待出来ず、ましてや自分達の家の利益にも還元しにくいそんな場所を誰が征討しようか?それを、鬼月家の次期当主候補の片割れが、それもたった一人で成し遂げた。何の必然性もなく、何の前触れもなく、事後報告で、成し遂げた。
「………いや、多分それは別件だろうね。私が関わったのはもう片方の当主候補とその関係者だ。どちらかと言えば内部での後継争いとの関わりだろうね」
「では………」
「適当に恩賞でも渡して上げると良い。彼らが身内での争いを優先してくれるならその方が好都合だよ。所詮、討たれたのは関わりもない連中だ」
何なら朝廷の方で大々的に宣言して、他の家にも推奨しても良かろう。退魔士共に我々への注意を逸らさせる事が出来るし、何ならどさくさに紛れて幾人か罠に嵌めて殺しても驚かれまい。彼らを消耗させるのに都合が良い。
「成る程、承知致しました。そのように次の公議にて提案しましょう。………して、企ての程は?何か変更の程はありましょうか?」
一礼してから、左大臣は落ち着いた口調で、しかし何処か待ち焦がれているように問うた。
「………いや、全ては頭目殿の想定内だよ。地母神殿も、土蜘蛛殿も、あれは元より其ほど期待してなかったからね」
淡々と、それでいて悠然と百貌の元人間は答えた。確かにここ数年、彼らの頭目の仕掛けた仕掛けの幾つかは無為と消えた。しかし、所詮は期待の低かったものばかりだ。あの思慮深い大妖怪は二重三重に備えを重ねていた。計画の本筋に対して、一切の心配はなかった。
「それは結構な事です。もしこのまま企てが水泡に帰すとなれば長年の私の苦労も無駄となる所でしたから」
同志であり、師でもある元退魔士の言葉に左大臣は安心したように溜め息を吐いた。そうだ、もしこれで計画が失敗ともなれば五百年も待った意味がない。
「君も一途な事だね。彼女のためにここまでするのだからね」
扶桑国の名門中の名門に生まれた彼の事を憑嗣は良く知っていた。思慮深く、才能と美貌、血統と財産、あらゆるものに恵まれて、望めばおおよそ全ての事が得られる立場でありながら、この青年の運命はたった一人の少女によって狂った。百の凶妖を従える大妖怪を封じるための贄とされた巫女を取り戻すために、この青年は国を裏切り、人間を裏切り、一族を裏切った。憑嗣に教えを乞い、輪廻を誤魔化す禁術を学んだ。以来五百年、一族に転生を続けてこの国の中枢に忍び込み、救妖衆に裏で協力をし続けた。
「その節については感謝しております。あの時に私の望みに応えて頂けたお陰で今がある」
「いやいや、君の家の始祖には義理があったからね。それに私としても君に正体を見破られた時は御仕舞いと思ったものだよ。それがこのように色々と便宜を図って貰えているのだからね。輪廻を誤魔化す術を教えるくらい訳ないさ」
そもそも輪廻を誤魔化す禁術は、そんな簡単に身に付けられるものではなく、出来たとしてもその代償は大きい。憑嗣からすれば修行の途中で死ぬか、あるいは幾度目かの転生で発狂でもするかと思っていたのだが………正直彼もまた驚いていた。その意味では鵺はあの下人同様にこの男もまた興味と関心の対象であった。
「当然です。彼女のためならば、そのためならば、私は全てを捨て去れる。彼女のためならば………」
そして目を閉じて左大臣は譫言のように呟く。遥かな昔、記憶の奥底にあるその人の記憶を思い出す。聖女とは、聖者とはあのような人の事を言うのだろう。何処までも慈悲深く、何処までも慈愛に溢れ、何処までもその心は清らかであった。この理不尽で醜くて、残酷な世界において、彼女だけが輝いて見えた。彼は彼女を崇拝していた。敬愛していた。そして何よりも………。
「故に許せませぬ。この国が彼女に強いた仕打ちを。あのような、あのような仕打ちをあのお方に強いるなぞ、強い続けるなぞ許せる訳がない」
吐き出すように左大臣は告白する。絞り出すように、独白する。そして再び正面の怪物を見つめる。
「もう少しです。もう少しで私の悲願は達成される………そのためならば罪を重ねましょう。地獄にも堕ちましょう。罪への罰は後から受けましょう。ですので……ですので、どうかその時まではどうぞお力添えを」
恭しく頭を下げて同志であり、師でもある怪物に向けて嘆願する左大臣。完全に礼節を弁えて、穏やかな口調………しかし、その瞳の奥底には形容のし難い程に粘ついた激情に濁りきっていた事を、憑嗣は指摘する事はなかった………。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼女は手を伸ばす。泣きながら必死に手を伸ばす。求める。呼び止める。それしか彼女にとっては出来なかったから。
そして本来ならばそれで十分な筈だったのだ。その人は何時だって彼女が泣き叫べば来てくれた。何時だって側にいてくれた。抱き締めて、慰めてくれた。だから今回だって彼女は泣いた。泣きじゃくった。泣いて、泣いて、泣き叫んで求めた。
けれども、それは甘えだった。連れられていくその人は彼女の声に振り返る。その顔はもう朧気で、掠れていて、はっきりと分からない。涙のせいで、潤んで見えない。ただ困り顔をしていたのだとは分かった。いつも彼女が助けを求めた時に見せるような仕方なさそうな困り顔………違うのは、今回は駆け寄って来てくれない事で、慰めてくれない事だ。
傍らの大人に何かを語りかけられるその人は二、三頷いてそのまま立ち去っていく。手の届かない所まで行ってしまう。彼女はその事に衝撃を受けて、驚愕して、恐怖する。
「おいていかないで!!」
振り絞るように、獣が叫ぶような懇願の声は、届かない。彼女の手は届かない。永遠に、届かない。行ってしまう。彼女が辿り着けないような遠くに、行ってしまう。そして、そして……………。
「………嫌な夢」
思い出したくもない悪夢から目覚めた彼女の第一声がそれであった。溜め息を吐いて、彼女は息を整える。寝間着は汗でぐっしょりと濡れていた。その不快感が彼女の意識をゆっくりと過去から現実へと引き戻す。現実を、突きつける。
「………起きないと」
過去への後悔を振り払うように、未だに睡魔の残る重たい頭を動かして少女は起き上がる。今日は非番で、多少の寝坊くらいならこの屋敷の主人一家は快く許してくれるであろうが、それに甘える程に彼女は怠惰ではなかった。
前日に水瓶に貯めていた冷たい水を坏に注いで顔を洗う。うがいをして、歯の手入れをした後に、前年の誕生日の際に屋敷の奥方から拝領した手鏡で確認しながら櫛で髪を整える。最後に衣類を整える。寝間着を脱いで、女中用の簡素で壁に垂れ下げていた実用的な着物を着込む。皺が出来ていないか確認する。問題はない。
「お早う御座います」
「あら、鈴音。お早う」
障子を引いて屋敷の簀子に出ると、同じように身支度を終えた先達の女中と鉢合わせした。頭を下げて御辞儀をすれば彼方も挨拶をする。挨拶は大事だ、特に彼女のような身分の低い奉公人にとっては先に頭を下げなければならない。非礼を働けば主人の家族処か同僚にも陰口が叩かれて悪い噂をされかねない。
………屋敷で与えられたその名で呼ばれるのは余り好きではなかったが。
「もうすぐ朝餉の用意が出来るから、戻ってくるようにって旦那様からのお達しなの。今日非番でしょうけれど忙しくて……悪いけど環様を呼んで来てくれないかしら?」
申し訳なさそうに伝えられる依頼に、しかし彼女はそれを断る道理はない。寧ろ断るなぞ論外だと彼女は理解していた。たかが呼び出し程度で先輩や同僚の不興を買う必要はない。礼儀正しく彼女は承諾する。
「しかし、環様は何処に?」
「それなら下男が聞いているわ。西側の新田に向かったそうよ?」
「………まさかと思いますけど『あいつ』と一緒でした?」
「えぇ。旦那様が流石に一人は無用心だって仰ったから、付き添いに連れていかれたわ」
「そうですか………」
そちらの方が無用心じゃないの?という内心の疑念を堪えて、彼女は一礼して立ち去る。向かう先は彼女の世話するべき主人の下であった………。
屋敷を出て、彼女は郷に広がる田園の景色を見ながら郷道を進む。土手の先には夏の日差しを浴びて青々しく天に伸びる稲穂が一面に見る事が出来た。この時期にこれだけ成長していれば、何もなければ今年の秋は大豊作であろう。そして、恐らくそれはこの土地にとって、半ば確約された運命であった。
この土地は本当に豊かだと少女は思った。半日で歩いて横断出来そうな程に狭い山間部の領地であるが、それを含めても本当に豊かな土地だと確信出来る。
それは規模こそ小さいながらも北土でも一、二を争う程に上質な霊脈のお陰であった。凍てつく北土の大地においては霊脈の恩恵のない土地に住むなぞ自殺行為に他ならないが、この土地はその中でも格別だ。狭い範囲ではあるが……いや、寧ろだからこそ霊脈の恩恵が濃縮されているのであろうか?
何にせよ、この郷が開墾されて以来優に千年余り、その間寒さに弱い稲を栽培し続けて一度も凶作に見舞われた事なく、それどころか他所の里では豊作と呼ぶべき実りが育まれているのは驚嘆するべきなのだろう。地形のお陰で山賊が侵入しにくく、名のある退魔士が大昔に結んだ結界は今も強力な魔除けとして機能している。代々の庄屋の主人も努力家で、土地の恵まれた環境に驕る事なく様々な作物も育て、井戸や水車等を建てて、小規模とは言え産業が多角化している事もあり、本当にこの郷は平和で豊かだ。……余りにも平和過ぎて彼女には逆に不安になってしまうが。
「平和呆けってものなのかしらね」
五年前にこの郷の庄屋に奉公に訪れてから、彼女は自身の常識とこの郷の常識が余りにも隔絶し過ぎていて、困惑と驚愕の連続であった。自分のような貧農出身の女中に一日三食、それも一汁一菜に白米の飯が出るのが先ず驚きだった。言葉遣いの指導は無論、文字と算術を習えるのもそうだし、何より少額とは言え給金が出るのが嬉しい。
彼女の生まれた村では違った。雑穀を水と山菜で嵩ましした薄い粥を日に二食、麻の服はお世辞にも綺麗だったとはいえない。幼い自分は賦役や畑仕事こそしなかったが家族は毎日割に合わない仕事を強いられていたのは覚えている。
何よりも妖の存在は村にとって脅威そのものであった。幼妖程度ならば週に一度は見つかり村人総出で探しだしては殺した。月に一度は小妖が近隣に出没して、半年に一度は妖に手足を食われたり、最悪は死人だって出た。いや、食い殺される方がマシかも知れない。下手に生きていたらその家にとって寧ろ重しだ。そのまま死ぬまで放置された者だっている。
彼女の家族の場合もそうであった。大黒柱の父が足を失い、唯でさえ苦しい家計は………その頃の生活は文字通りのドン底であった。そしてそれが好転し始めたのは………。
「分かってはいるのよ………」
分かってはいる。仕方なかった。両親のあの選択が今の自分の、自分達の生活に繋がっているのだ。得られた金子で得られた猫の額程の土地は、それでも小作代を取られぬだけ遥かに救いだった。二番目の兄が土地を継いで、三番目の兄と自分は外の地に職を貰った。その仕送りで家族は食べていけている。分かっている。分かっているのだ。だけど、それでも、だけれども………!!
「理不尽じゃないの………!!」
静かな呪詛は社会の仕組みについてだった。境遇についてだった。自分達が苦しい思いをして、多くを犠牲にして今を生きているというのに、その一方でこの郷は………生まれた場所が違うだけでどうしてこんなに境遇が違うのか?どうしてこの郷はこんなに恵まれているのか?
それが無意味な問い掛けだと分かっていても、少女はその疑問を拭いきれない。そしてだからこそ、少女はある意味で子供であった。大人になるという事はある種理不尽を認め、諦念する事であるのだ。
そんな葛藤と共に少女は目的地へと向かう。そして暫く歩き続けると、漸く村の外れの新田に少女は辿り着いた。真新しい水田に同じく真新しい小屋が疎らに立つ。
周囲の貧しい村より年貢の取り立てに堪り兼ねて逃亡してきた百姓らを、この郷の長は哀れんで、引き取ってこの辺りの土地を開拓地として貸し与えた。着のみ着のままの飢えた農民に農具を貸して、食を与えて、最初の二年間の小作料の取り立てを免除したのは異例の厚遇である。そして三年目たる今年はこの新田において初めての小作料を納められる年であったのだが………。
「環様、どうして鎌を持っているのです?」
水田の中に裸足で足を突っ込んで、鎌で雑草を毟り取り、何なら水草の除去や害虫の駆除をしているその人影を見て、呆れ果てた表情を浮かべて少女は問い掛けた。否、問い質した。………尤も、当の彼女の主人と言えば、自分に仕える女中の姿を認めると屈託のない笑みを浮かべて手を振って来たが。いや、違う。求めている反応はそうじゃない………少女は内心で突っ込んだ。
「どうしてって、雑草が生えていたら稲の育ちが悪くなるじゃないか?ここは今年初めての収穫なんだ、不作になったら冬の分の食糧がなくなっちゃうでしょ?」
当然のようにそう答える主人に対して、少女は顔をしかめる。当然であろう、何もかもが可笑しい。可笑し過ぎる。
「あー………」
主人の焦点が微妙にズレた返答に、少女は呆れ果てたように呻き声を吐き出して、次いで感情を整理するようにはぁ、と深々と嘆息した。そして少女は決断する。ここはその外向きの顔を脱ぎ捨てねばなるまい。そして………。
「庄屋の子が小作人や奴婢に交ざって土弄りなんてするものじゃないわよ!!全く、立場ってものを考えなさいよ!!」
気の強そうな口調で少女は叫ぶようにして指摘した。
そしてその内容は儀礼がない事を除けば何処までも常識的であった。何せ、この主人の家はこの郷の長なのだ。庄屋なのだ。父親は低位ではあるものの朝廷から官位も頂戴している。それが有象無象の小作人らに交ざって畑仕事なぞ………!!
「それに!!」
くるり、と踵を返した少女は土手から離れた木陰で鼾を掻いているそいつに向けてガツガツと迫る。そして………その尻を思いっきり蹴飛ばした。
「うおっ!?痛ってぇ……!!?」
甲高い声が響いた。身動きしやすい麻の服を着込んでいた件の人物は突然の痛みに『狼耳と狼尾を逆立てて』反射的に立ち上がる。立ち上がってそのまま尻を擦りながら少女を睨み付ける。涙目で、睨み付ける。
「おいっ……!!?てめぇ!?鈴音!?何しやがるんだよ!!?」
「それは此方の台詞よ!!あんたねぇ、主人が畑仕事しようとしてるのよ!?代わりに自分がやるって志願しなさいよ!!何のために同行してんのよ!!?」
同行人に向けて少女は責め立てる。心底腹を立てて、詰る。因みにその怒りの極極一部は自身の名前に対してのものであり、理不尽な八つ当たりなのだが………まぁ、どの道結果は変わらないであろう。
「何って、護衛だろう!?そんなの畑仕事まで俺の仕事じゃねーぜ!!?そいつが好きでやっている事だろうが!?」
「奴婢の分際で文句言うな!!」
「きゃうん!?」
包帯で覆った片手で腰に差した刀を見せて言い訳するのを、追い討ちをかけるように膝で再度尻を蹴りあげる少女。切ない仔犬のような悲鳴が上がる。半妖は兎飛びでもするかのように何度も跳び跳ねる。しかし後悔はしていない。寧ろ相手の立場を思えばこの程度で済むのは相当慈悲深くすら彼女は思っていた。
頭に狼の耳を生やして、尻に狼尾、包帯でグルグル巻きにしてしまって見えないが、その片腕は黒い毛が生えて鋭い爪が伸びている。半妖………恐らくは狼系の半妖の奴婢、それが主人の同行者の正体であり、今少女が何度も尻を蹴りあげている人物の正体であった。
一年余り前に郷の外れの山小屋に忍び込んで、そのまま放置されていた食糧(黴が生えていた)で腹を痛めて悶絶していた所を捕らえられたこの半妖は、当初その哀れでみすぼらしい身なりからしてお尋ね者か流民の類いと思われた。
勝手に郷に侵入して小屋の食糧を貪っていたこの半妖を少女は全く信用していなかったが、庄屋の主人らは別の感想を抱いたらしい。元より半妖は虐げられる立場、ましてやその哀れな身なりに相当に飢えている様子から見て勝手に色々と憶測して哀れんで、屋敷で奴婢として雇い入れてしまった。相当な御人好しである。犯罪者だったらどうするのか?挙げ句に武器の心得があるからと用心棒らのように武器まで貸し与えて………そんな少女の感想を他所に郷の者らは無警戒でこいつを受け入れているのだから本当に呆れるばかりだ。
ましてやそんな庄屋の所有物である半妖が呑気に木陰で鼾をかいてる傍らで、主家の者が畑仕事で汗水垂らしているとは、どう考えても可笑しい。お前、何のために同行している?
「鈴音、余り虐めないでやってくれないかな?夜の間ずっと寝ずの番をしてくれてたんだよ?眠たくもなるさ」
「其くらい当然です!!」
この半妖が目と耳が良いので獣が郷の畑を食い荒らさないように郷で雇われている用心棒らと共に夜の道を見廻りしていたのは事実であるが、少女にとってはそんな事は言い訳にはならない。というか寝ずの番というが昨日の夜「腹が減っては戦が出来ぬ」等とほざいて屋敷の蔵から夜明かし用の酒と干物等を堂々と持っていった事を少女は知っていた。本当に厚かましい態度である。
「後!話しながら作業再開するの止めて下さい!!そんな仕事ここの小作人共にやらせておけば良いんです!!自分の立場を考えて下さい!!」
「けど今年の収穫からは小作料を納めるんだろう?まだ弱っている人も多いのに………小作料が四割とか可哀想じゃないか?収穫の半分も取られるなんて!」
「寧ろ低いくらいです!!」
主人が小作人達の事を心配して手伝っている理由を口にするが少女は速攻で突っ込んだ。小作料四割なぞ可愛いものである。この郷の年貢は安くて三公七民であるが少女の出身の寒村ではこの比率は真逆だった。平均的な年貢が五公五民、仁愛で名高い左大臣の荘園でも四公六民である。この郷の年貢が低過ぎるだけである。それでも腹が減るのなら最悪団栗でも食べていれば良いのだと少女は思っていた。………少なくとも自分達はそうした。
「くぅ~!?環、こいつ生理なんだよ!そうに違いねぇ!血が足りなくて、身体がダりいんだよ。だからカリカリしてやがんだ……!!」
「お前、ぶち殺すぞ……?」
そんな主人と少女の会話に尻を擦りながら狼の半妖は涙目で言い放つ。自身の態度と発言に全く反省しない奴婢に向けて殺気すら伴った眼光で睨み付ける少女。言うに事欠いてこいつは何て事言ってくれる。取り敢えず、見せしめに思いっきり尻を蹴りつけてやった。「ぎゃいん!?」と間抜けな悲鳴が上がる。
「と・も・か・く!!環様、もう朝餉の準備は出来ております!!そんな土仕事は止めて早くお越し下さいませ!!」
文面は敬意を込めて、しかしその口調は相当乱暴に、怒鳴るような声であった。有無を言わせぬ強い、意志に満ちた口調………。
「分かった!分かったよ………もう、鈴音は頑固だなぁ」
自身のお目付け役の女中の命令にげんなりとした表情を浮かべる主人。当の少女はと言えば泥に汚れた主人の手足を洗わせるために桶に井戸水を注いで持って来るように半妖の奴婢に命じる。
「服もこんな草むらに置いて!!蚤がついたらどうするつもりですか!?あぁ、もう!後で除虫香で燻さないと……!!」
「ほれ、持って来たぞ。これで良いのかよ?」
草むらの上に放置された絹の和装をはたきながら愚痴っていると、すぐ側の井戸から水を汲んで来た半妖が尻を摩りながら戻って来る。流石半妖、この手の力仕事は流石に早い。
「えぇ、結構です。環様!!」
「分かってるよ、怒らないでくれよ!?」
渋々仕事を切り上げて水田から出てきた主人は泥を拭って、手足を桶の水で洗い清める。爪の間に挟まった砂利も流す。冷たい井戸水が夏の暑さに心地好かった。
「………こんなものですね。さぁ、お服を着せますから動かないで下さいね?」
「そんな、赤ん坊でもあるまいし………」
「環様?」
「………お願いします」
凄まじい圧のある声の前に主人は女中の命令を受け入れる。傍らで半妖の奴婢か「おっかねぇ」と呟く。正直この女中の態度も大概主人に対するものとしてはあるまじきもののようにも思えるがそれについて指摘する者はいなかった。
草むらに放置されていた衣服を少女が主人に纏わせる。帯できつく結んで、皺を伸ばして身嗜みを整えさせる。
「ち、ちょっと……きつくないかな?」
「締め付けを強くしないと直ぐに動きにくいって脱いじゃいますから」
無慈悲に少女女中は宣言して主人を締め付ける。全く、立場というものを分かって欲しい。もう会ったばかりの頃のように白い薄着一枚で泥まみれになってはしゃげる立場でもなかろうに。
少女は手慣れた手つきで主人の衣服を着せ直した。しかしながら、きつく締め上げているので正直腰回りか厳しい。主人は腰の辺りを撫でながら憮然とした表情を浮かべる。
「こんなものですね。……後はその髪をどうにかしましょうか?」
「わっ!?」
次の瞬間、少女は留め具で乱暴に纏められていた主人の髪を下ろさせた。さっ、と固められていた髪が広がり、肩にかかるかかからないかまで伸びた黒髪が垂れ下がる。
「いきなり何するのさ!!?」
「そんな風情もない髪型で屋敷に上がれませんよ。髪を下ろす位我慢して下さい。それとも、屋敷で一刻かけて髪の手直しをしてもらいますか?」
少女がそう宣えば流石に反論出来ないらしかった。幾ら寛大な庄屋の主人一家でも目を瞑っていられる事には限度がある。何せ、髪は女の命なのだから。
「だけどさぁ……うっ!?」
何とか言い訳しようとして、しかし次の瞬間鳴り響いた腹の音に主人は腹を撫でて僅かに恥ずかしがる。
「………今日の朝は鮎の焼き物とだし巻き玉子のようですよ?」
「本当かい?」
少女から伝えられた献立に主人は目を輝かせる。特にだし巻き玉子は大好物であった。
「早く戻らないと兄姉様方に横取りされるかも知れませんが」
「えっ!?分かったよ。………鈴音、迎えに来てくれて助かったよ。………入鹿も、付き合ってくれて有り難う」
主人は二人に向けて心から感謝するように答える。庄屋の子が、女中と奴婢に感謝する。それはこの世界においては異例にして異常とも言える態度であり、しかしながらそれはこの郷では、そして『彼女』にとっては余りにも当然の感性であった。
「どういたしまして、で御座います」
「さっさと戻ろうぜ?俺もう腹減っちまったよ」
女中と奴婢はその謝意に対して其々に応じる。序いでに言えば半妖の物言いに女中の少女は横目で睨み付けるがそれは何時もの事だ。『彼女』はそんな二人を見て苦笑する。
………それはほんの小さな釦の掛け違いだった。ある世界線においては残酷で過酷な運命に翻弄される事になる可愛らしく、勇気と優しさに溢れた少年が、代わりに少年味のある可憐な少女として生まれ出たのだとして、一体誰がそれを気にするだろうか?そもそもどうすればその違いに気が付くであろうか?しかし、この世界の運命を知るとある人物にとってはそれは確かに大き過ぎる、そして余りにも恐ろしい差異であった。
………そして、件の人物は未だにその差異に気付いてはいなかった。
「うん。こんなものかな?じゃあ、お腹も減ったし……皆で一緒に家に帰ろっか?」
くるりと舞うように一回転して自身の身嗜みを確認し、庄屋の『娘』は二人の親友に語りかける。屈託も邪気もない純粋な笑顔で、語りかける。まるで優しい世界しか知らぬような笑みで。
それは厳しい自然の北土において、楽園とも称される蛍夜郷を治める庄屋一族蛍夜家の娘「環姫」にとって極々ありふれた、しかし確かに幸せな日常であった。
そして彼女は信じていたのだ。この当たり前の幸せが何時までも続くものなのだと……。
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