第六五話

 元来、呪いとは祝詞とその語源を同じくする言葉であるという。現代人からすれば負の印象が強いものの、お呪いという言葉がある通り、それ自体は善悪の区別があるものではない。物にしろ言葉にしろ、全てはそれを使う者次第という事なのだろう。 


 ………尤も、この場合はそんな歴史的・語学的な事実は何らの慰めにもなりそうになかったのだが。


「っ………!!?」


 土蜘蛛が正に自らの死の間際に吐き捨てた言葉に俺は身構えた。目の前の怪物を突き刺した瞬間、その命を奪った瞬間に確かに俺は何かを感じていたのだ。


 それは言語化の出来ぬ妙な感触、感覚、空気………俺は身動き一つもせずに硬直して、警戒する。次の瞬間に何が起きるのかも分からなかった。息を震わせて、額からは冷や汗を流す。奇妙な程に周囲に静寂が満ちていた。


「兄貴………!!」

「伴部!!」


 静寂を破るその声に俺は視線だけを動かす。此方に駆け寄って来る少年と女性の姿が視界に入る。俺は咄嗟に叫ぶ。


「く、来るな……!!呪われたかも知れない!!下手に近付くと何が起きるか分からないぞ!!」


 此方に来ないように俺は警告する。本当ならばこうして話すのも危険があった。何処ぞの呪いのビデオではないが、質の悪い呪いの場合は些細な縁を通じて本人どころかその周囲すら理不尽な災いに巻き込まれるものだ。


「っ……!?一旦止まりなさい!!」 


 俺の言葉に御意見番様が手を上げて白若丸を静止する。彼女はじっくりと俺を観察したまま、ジリジリと近寄る。


「……貴方の身体に異常は?」


 緊張に張りつめた御意見番様の言葉に俺は小さく首を振り否定する。

そうだ、今の所異変はない。何もない。

しかし……、あの蜘蛛が最後の瞬間に無意味な戯言を吐いたとも思えない。


「御意見番様、私が近付きます。お待ち下さい」


 胡蝶の背後から現れた葉山が志願して前に出る。

俺の側に近付いて、あるいは触れる事でその者に害が降りかかる可能性を考慮しての事であった。


「葉山、無理はするな!! 調べるなら地上の連中が来た後の方が専門家もいる筈だ、危険だぞ……!!?」


「駄目です!地上の彼らに今の貴方を委ねる事は出来ません!!お分かりでしょう!?」


 葉山が叫ぶ。彼の言う通りであった。


 土蜘蛛の呪いを受けた筈の俺は第一級の危険物である。何が起きるか分からない以上、即刻殺処分……いや、呪いを受けた本人の死が呪い自体の発動の引き金となる場合もある。四肢切断の上で封印処分かも知れない。


 どの道、碌な事はあるまい。実際ルート次第で主人公様が似たようなバッドエンドを食らっている。


 ………まぁ、散々この場の者達に怪物となった自身の姿を見られているのだからどの道俺に待っているのは実験動物コースの可能性が高かったが。

愉快犯なゴリラ様に白なら兎も角、御意見番様や葉山は俺の身体を蝕む妖母の血を見て見ぬ振りをしなければならない義理はない。庇われるに足る理由がない。

牡丹の蜂鳥についてだってそうだ。松重の式神とまではあの場では分かろう筈もないが尋問されたらバレるのは必須だ。


 御尋ね者と通じていたと知れれば………ははは、状況が状況故に色々と棚上げにしていた問題が一気に来たな。


「早まらないで下さい!!安全かどうか調べますので……!!」


 俺が自虐的に冷笑すると、葉山は焦燥したように叫ぶ。叫びながら更に俺に近付いて来た。ドシドシと大胆に此方へと向かう。俺は慌てて注意の声を上げる。


「おい、馬鹿!!そんな一気に……止めろ、お前まで呪われて……!!」

「失礼……!!」


 俺が制止する前に一気に葉山は俺に迫った。そして非礼を詫びる言葉を口にしてから俺に触れる。俺の腕に、化物の頭を突き刺した短刀に触れる。


 そしてそのまま………力尽くで引き抜いた。  


「うわっ……!?」

「うおっ!?」


 結構深く突き刺さっていて、外殻に引っ掛かっていたのだろう。短刀を引き抜くには力を必要としたようで、引き抜いた勢いでそのまま葉山は後ろに転けた。巻き込まれるように俺も尻餅をつく。俺は口を開こうとして、しかし直ぐに緊張しながら五感を研ぎ澄ます。周囲の、自身への異常がないか必死に警戒する。


 息を飲んだまま、沈黙が周囲を支配した。恐らくは百は数えた頃であろう。何も変化が起きていない事実に漸く俺は小さく息を吐いた。そして葉山に向けて口を開く。


「無茶してくれる!!お前、下手したら死んでいたかも知れないんだぞ!?」

「す、すみません。ですが………」

「ですがじゃないだろう!?馬鹿、他人の事なんかより自分の命を大事にしろ!!」


 鬼月の血を引いているにしては、そしてこの世界の人間としては葉山という人間は善良過ぎた。そしてこの世界において善良というものは美徳とは言えない。


 寧ろ善良であるがために周囲を、そして自身を不幸にするのがこの世界なのだ。多くの人々は無力で、その手が届く範囲は狭い。本当に大切な物以外は切り捨てなければ全てを失う。


 だというのに………その善良さ故にこいつの辿った末路の数々が脳裏に過り、思わず俺は声を荒げる。そして荒げた後に自身が下人でありながら余りに感情を剥き出しにしていた事に気付く。思わず俺は傍らの葉山の顔を見る。


「…………」


 驚いたような表情で目を見開く葉山に、俺は気まずくなって視線を逸らす。唯でさえ立場が不味いのに自分から追い討ちをかけた自らの迂闊さを呪いたくなった。これでは自爆じゃねぇか!!


「いや、済まない。だが………」

「い、いえ………私も軽率でした。申し訳ありません。ですが、御無事で何よりです」

「…………あぁ、そうだな」


 俺は短く返事をして、視線に気付いてそちらを向く。安全を確認した御意見番と白若丸が傍らにやって来た。そして思い出す。


「………白若丸。お前、確か俺が突き刺す時に叫んでいたな?お前には何か見えたのか?」 


 尋ねる質問は、しかし俺は元より答えを知っていた。白若丸は頷く。そして答える。


「その……黒い影みたいなのが見えたんだよ。その蜘蛛から出てきたこれがお前とこいつを包むように回って………」


 最早動く事のない土蜘蛛の死骸を一瞥して、そして再度俺の方を向く白若丸。その表情は困惑気味だった。


「けどそれが……き、消えたんだ。消えたんだよ………その、お前があの化物を刺した瞬間に、嫌な気配がすぅって…………元から何もなかったみたいにさ」


 俺を観察するように暫し見つめて、少年は再度口を開く。


「やっぱりないよ。さっきまでの………怖い?感覚は消えてる。う、嘘じゃないぞ?」


 一生懸命何か異常がないかを確認してから少年は必死に答える。


「安心しろ、嘘だなんて思ってないさ」


 本音であった。少年の癖に巫女としての才能と適性が有りすぎる白若丸はこの手の呪いについても感覚的に理解出来るキャラであったし、それがルート次第で主人公様の命を救ってもいた。恐らく白若丸の言葉通り、土蜘蛛の呪いは俺個人に対して強力な災いをもたらす類いのものではないのだろう。


 しかし、ならば………。


「………貴方の家族については此方で確認するわ。安心なさい、必要なら呪い返しの儀式の手配をして上げるわ」


 俺が不安そうに視線を向ければ御意見番様が此方の思考を読みとったかのように答えた。遅延式の可能性はあるが、同時に本人ではなくてその家族に害悪をもたらす呪いの可能性に俺は恐怖していた。一応、鬼月家に買われた時点で知恵ある妖や他家の退魔士に脅迫される可能性を減らすために家族との縁切りの呪いを掛けられているが………実際に何処まで効果があるかは分からなかった。


「御意見番様、有り難う御座います………!!」


 俺は痛む身体を動かして殆んど膝までついて謝意を表す。俺自身はどうしようもなかった。せめて家族だけはどうにかしたかった。そうでなければ俺が身売りした意味がない。御意見番の言葉はその意味で天祐以外の何者でもなかった。普通ならばここで家族の安否の確認なぞしてくれる訳がない。そんな優しさはこの世界にはない。 


「そう畏まる必要はないわ。貴方には足の借りがあるもの。それに、私も気になる事があるから………」

「ですが……足?」


 御意見番が此方を立ち上がらせながら、しかし何処か憂いを漂わせながら答えた。何処か奇妙な物言いであった。足とは………確か彼女は捕らえられていた際に足が折られていたか?糞、前後の記憶が混乱してやがる。


 (そう言えば目覚める前にも何か………?)


 とても、とても大事な事を思い出していたような気がするが………どうしてもそれは思い出せない。


 そう、それはまるで固く封じられているかのように、何かあったのは分かるがそれだけで、何があったのかは皆目見当もつかぬ有り様であった。いっそ、自分で自分の記憶を読み取れれば良いのだが………残念ながらそんな事は出来ないし、記憶を見せても良いような信頼出来る人間もいないのでどうしようもないのだが。


「いえ……兎も角も感謝致します、御意見番様。後は思い残す事はありません」

「だからお止めなさい。大袈裟な事を言わないで、まるでこれから死ぬような物言いよ?」

「しかし………はっ!?」


 一番の懸念が解消されて一応の心の平静を取り戻した俺は、そして周囲を見渡す。見渡して彼女の不在に思い至ると顔を険しくしてぱっと立ち上がっていた。最悪の事態を考えて、俺は走り出す。


「お、おい……ッ!?」


 困惑したような、それでいて何処か未練がましくも感じられる白若丸の声が背後から聞こえた気がするが確認する余裕はなかった。それよりも俺は彼女の安否を優先せねばならなかったからだ。俺は翡翠の柱の下にまで辿り着き、地面に倒れたその小さな人影を見つける。


「姫様……!!?」


 地面に倒れた白狐の少女に駆け寄った俺は彼女を抱き起こす。霊力が枯渇したからか元の子供の姿に戻っている彼女の容態を俺は確かめる。息をしているかを確認し、脈を調べる。


 俺が彼女について一番恐れた展開は蜘蛛の呪いが俺との縁を通じて彼女に向けられたか否かであった。より正確に言えばこの身体の持ち主か身体に憑依していたゴリラ様の魂のどちらかに向けられたかであるが………俺が吾妻雲雀に掛けられた呪いが発動していない事から考えて無事であるとは思いたかった。


「息は……ある。脈もある、か?」


 とくんとくん、と手首の脈打つ鼓動を感じた。


 小さな少女の口元からは生暖かい空気が吐き出されていて、その胸元は小さく上下する。身体もまた衰弱しているが温もりがあった。生きていた。間違いなく、この少女は生きていた。それだけで俺は一応安心する。


「姫様?……いや、憑依が解けているから白か?大丈夫か?起きられるか!?」

「うっ……う…………」


 抱き抱えながら俺がその小さな身体を揺すると、それに反応するようにして腕の中の子供はうっすらと目を開いて意識を取り戻す。その瞳は蒼かった。


「白、か………?」


 その時点で俺は目の前の少女がどちらであるのかを確信する。


 憑依やら分け身の術の類いの仕組みは原作では余り詳しく語られなかったし、今生でもたかが農民や下人が知れるような内容ではないのではっきりとは分からんが………恐らくはあの最後の大技で力を使いきって術式が解けたのだろう。


「とも、……べ、さん?良かった………ぶじでしたか………?」

「そんなくたびれた口調で良く言う。先ずは自分の心配をしろ。………あぁ、俺は無事だ。お前さんのお陰でな。身体は大丈夫か?」


 俺の存在に気付いて疲れ果てたように、確かに安堵した表情を浮かべる白に対して俺もまた緊張させていた表情を弛めて安心する。少なくとも命は無事そうだった。


「うっ、ぐっ!?全身が……痛いです………」

「筋肉痛だな。姫様がまた随分と容赦なく酷使してくれたらしいな。他人の身体なんだ、もう少し大切に使って欲しいものだ」


 顔をしかめて身体の痛みを訴える白に俺は苦笑しながら答える。尤も、ゴリラ様が白の身体を酷使したのは俺の責任でもあった。その意味では俺も同罪である。そもそも、身分が違うので屋敷に戻っても何も言えまい。


「それにしてもお前も無茶してくれるな。姫様に身体を貸すなんて………危険だとは思わなかったのか?」

「へへへ………姫様はお優しいですから」


 俺の指摘に対して白は朗らかに笑って答えた。ゴリラ様が優しい?いや、確かに原作よりは甘いかも知れんが………冷酷ではなくても慈愛はないと思うぞ?


「それに、伴部さんが心配で………」

「世話をかけたな。済まない」


 本当にそう思う。実年齢は兎も角、精神的にはこの白狐は子供なのだ。そんな子供にこんな無茶をさせてしまうとなると………情けない事この上ない。


「そんなに……思い詰めないで下さい。心配されるのは嬉しいですけれど、それはお互い様ですよ?」


「しかし………あぁ、そうだな。お互い様だな」


 白の苦笑に俺も笑う。俺の気持ちはまた、彼女の気持ちでもあるのだ。互いに謝罪してばかりでは話が進まない。この辺りで切り上げるのが頃合いだろう。


「嫌かも知れないが動けないだろう?抱っこするぞ」


 そういって俺は筋肉痛で動けない白狐を抱き抱える。白の方はそれに対して我が儘も言わずに落ちないように此方の衣服を小さな手でぎゅっと握り締めた。良い子だ。


「さて、じゃあそろそろ合流をっ………!?」


 そのまま白を抱っこしたまま葉山達のもとに戻ろうとした、正にその瞬間の事であった。突如響き渡る地揺れ、地震?あるいは崩落か?突然の異変に、俺は怯える白を抱き締めながら周囲を警戒する。五感を研ぎ澄ます。そして……次の瞬間、俺はこの震動の発生源が何処なのかを感じ取った。………って、これは!?


「おい、マジか!?嘘だろ!!?」


 俺は真上を見上げて叫ぶ。それとほぼ同時の事であった。俺のいた場所の天井の岩盤が崩壊して、無数の岩が降りかかってきたのは…………。






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「伴部!?」


 胡蝶が悲鳴に近い声で叫ぶ。油断していた。怠慢であった。楽観であった。


 全てが終わったと思い、さしもの彼女も緩んでいた。最愛の人の生き写しのような彼があの依代の半妖の下に駆け付けた時、彼女の内心に軽い嫉妬が芽生えていたが、それはそれであの子らしいとも納得している。あの子が半妖に向ける感情が決して色に通じるものでない事もあって、胡蝶はそれを放置していた。


 それが目の前の惨状であった。突然彼のいた直上の岩盤が砕けて崩落する。無数の大きな岩が彼に向けて降り注ぐ。そして胡蝶には、この場にいた誰もがそれに対応する手段を有していなかった。 


「伴部………!!?今助けに………」


 少女を抱いた彼の姿が降り注ぐ岩盤と粉塵によって消え去ろうとした、刹那──。


「御意見番様、お待ち下さい!あれを……!!」

「あれは……!?」


 最愛の人の生き写しである彼の助けに向かおうとする胡蝶は、しかし葉山の言葉に足を止める。足を止めて、思わず口を開けてそれを凝視する。


 それはまさに竜巻であった。


 極小の竜巻が頑健な岩盤を何層も削り取り、貫く。加えて、途上の妖共まで巻き添えにして葬った。打ち砕かれた岩盤は更に竜巻によって粉砕されていき、巻き込まれた妖共もまた荒れ狂う風と、礫によって挽き肉になり、直ぐに塵と化していく。



「これは一体……!?」

「まさか、また化物かよ……!?」


 葉山と白若丸は洞窟内に飛び込んで来た竜巻を見て唖然とする。現れた存在が新手の敵ではないかと警戒した。



「違うわ。これは………!!?」


 真っ先にそれに気付いた胡蝶が驚愕した表情で叫ぶ。一瞬置いて葉山達もその存在に気付いた。竜巻の中心にいるその人影を。


 肥満体の中年男が両手を水平に上げて、足を重ねるようにピンッと伸ばして超高速回転していた。それはまるで巨大な独楽のようであった。贅肉を豪快に揺らして、汗を噴かしながらそれは回転し続ける。回転し続けながら吸い込むように周囲の物体を打ち砕き、粉砕していくその男に三人共見覚えがあった。鬼月家隠行衆頭宇右衛門その人であった。宇右衛門が、贅肉を揺らしながら大回転していた。


「……………」


 三人共言葉もなく宇右衛門が着陸する光景を見ているしかなかった。

 

 汗だくで着陸した宇右衛門はふぅ、と手拭いで汗を拭っていると………胡蝶達と視線が合った。一瞬漂う沈黙………。



「おおっ!!これは御意見番殿、御無事で………」

「宇右衛門!そこをお退きなさい!!」

「ひぎぃ!?」


 情けない豚のような悲鳴。


 実の母の無事に顔を綻ばせた宇右衛門は、次の瞬間に我に返った胡蝶達に押し退けられた。三人は尻餅突いて倒れる肥満男を無視して駆け抜ける。そして落下した岩の隙間に倒れていたその人影に駆け寄った。


「伴部!大丈夫!?」

「……ご、御意見番殿?ぐ、な……なんとか。流石に動けそうにありませんが」


 胡蝶の呼び掛けで事態を把握できず呆然としていた伴部は我に返る。


 先ほどの落石で頭と傍にいる白を庇ったおかげで、体のいたる場所で打撲を受けるものの、意識ははっきりとある。


「……っ!白、大丈夫か!?」

「え?あ、はい!私は平気です!」


 そこで伴部は傍にいた白の安否を確認する。直ぐに返って来た返事に下人は心より安堵する。


 白は砂埃や服は汚れているものの五体満足であった。ただ、あと数刻。目の前にいる隠行衆頭の到着が遅れていたら、互いに危なかったと伴部は漸く悟る。


「……宇右衛門様のおかげで助かりました。ありがとうございます」

「ふん、下人風情が思い上がるな。貴様を助けたつもりなど毛頭ない」


 まるで初めにその存在に気付いたように宇右衛門は冷淡な態度を示すと、ボロボロの下人のことはいなかったかのように、胡蝶へ向き直る。


「母上。崩落の危険もあります。一旦、避難されたほうが宜しいかと」

「そうね。………宇右衛門、後で話があるわ。時間を空けてくれるわね?」

「勿論ですとも。色々と話し合うことが多そうだ」

 

 そう言いながら彼は胡蝶の周りにいる人間を睥睨する。


 さて、後でどう言い包めるかと胡蝶が思案していると、ぞわりと新手の気配を感じた。察するに妖ではなく、霊気。すなわち退魔士である。


「………あらあら、今更に登場かしら?全て終わってから来ても遅いですわよ、宮鷹の翁様?」


 胡蝶は更に思考をフル回転させて、そう嘯いた。

冷笑する。取り繕った。偽った。彼を助けるために、彼の手柄を奪った。


「これはこれは………御意見番殿をお救いせんと参ったのですが余計なお世話でしたかな?」


 宇右衛門が天井にぶち抜いて作り上げた穴からその答えは返ってきた。一拍置いて現れるのは醜悪な泥の怪物であった。


 地下に降りるために変貌したのだろう、笑みを浮かべる老人のような頭をグルグルと回して、百足のように伸びた身体から出鱈目に手足を伸ばして壁を伝い、何なら途中で捕らえたのだろう大蜘蛛や河童を握り潰したまま弄びつつ現れる。


 泥人形の怪物、偽神、人形神…………無数に伸びる腕の一つ、その掌に乗った状態で洞窟の最奥にまで降り立った宮鷹の老退魔士は周囲の状況を確認すると鷹揚に宣った。


「いやはや、驚きましたな。拐われたと思えばこの始末。もしやこやつらの本拠地に来るために態と囚われたのではありますまいな?」


「さてさて、どうでしょうね?少なくとも、余りに遅いものだから待ちきれずに食い荒らしてしまったのは確かですわよ?」


 洞窟内に散乱する妖共の死骸の山を一瞥して、老退魔士が答えれば胡蝶もまたくすくすと白装束の袖口で口元を隠して嘲笑う。そんな彼女を見ながら、翁は白く伸びた自身の顎髭を摩りながら唸る。


「御意見番様、御無事でしたか!!?」


 翁と同じく、しかし岩壁を跳ねながら降り立つ見慣れた退魔士が胡蝶に向けて叫ぶ。背中に弓を背負い、岩壁を蹴りあげ下るのは鬼月綾香であった。その背後からは綾香を追うようにして今一人、赤毛の男は鬼月刀弥であろう。


「御意見番様、御無事で何よりで御座いますって………葉山!!?」


 胡蝶に一礼してその無事を喜ぶ彼女は、しかしその傍らにいる青年を見ると驚愕した。

鬼月綾香は目を見開き信じられないものを見たように慌てて彼のもとに駆け寄る。


 ………しかし、直後それは宇右衛門の手によって阻止された。


「待てぃ!!触れるでないわ!!」

「きゃっ!?ど、どうしてですか、宇右衛門様!?葉山が………」

「そやつが河童に侵されておらぬとは判断出来ぬ!!」


 袖口を掴まれて葉山のもとに向かうのを止められる綾香は不満を口にするがそれでも宇右衛門は険しい表情を浮かべて静止する。

綾香は苦々しげに、それ以上に悲しそうな眼で葉山を見やる。当の葉山は立ち上がって怪我をした下人の側から離れると困ったように自嘲する。葉山は宇右衛門の言葉に納得しかしていない。


 実際、彼は先程まで確かに河童に感染していて、その身体の半分以上が変異していたのだから。そうでなくても彼が人の皮を被った怪物でないとはこの時点では判断出来まい。


「あら、だったら私達も駄目なのかしら、宇右衛門?」


 そこに横槍を入れるのは胡蝶であった。垂れ下がった目を更に細めて、甘ったるい声で実の息子に向けて冷笑する。宇右衛門は思わず額に汗を流して予備の手拭いで髪の薄い頭から噴き出る汗を拭う。


「い、いえ。別にそういう訳では………」

「調べるなら幾らでも調べなさいな。けれど、調べもせずに処分は許しませんよ?その子は此度の討伐で功大よ。信賞必罰は厳正に行いなさい」

「は、はぁ………」

「それと、詳しい話は後で報告するけれど、そこの下人も此度の討伐に功績があるわ。

綾香、そこにいる侍女は自分で動くのは難しいから手伝いなさい。この子には迷惑をかけたでしょう?自分の尻拭いくらいは自分でしなさいな」

「え?は、はい………!!」


 そして、宇右衛門が狼狽えた隙に胡蝶は一方的に話を進めていく。河童に感染した「疑い」で即刻殺処分されぬように釘を刺して、綾香には白狐の少女を安全に地上に連れていくように命じる。


「………はっ、運が良い奴だな?とっくに化物になるか食われていると思ってたんだがな?」


 綾香が白狐の少女のもとに向かい抱き抱える光景を一瞥して刀弥が下人に寄り添う葉山に嘯く。嘲るような物言いだった。


「はい、とても幸運でした。………本当に、幸運でした」 


 嘲られた葉山は苦笑するように答える。不快感なぞ一切なく、しかし最後は何処か思い詰めるように、呟く。呟きながら傍らで一旦事態が収まりそうだと安堵している下人を心配そうに見つめる。


「………ちっ。他人より自分の心配をしやがれ。餓鬼じゃああるまいに」


 刀弥はそんな葉山の反応に期待外れだとでも言うように舌打ちした。舌打ちして、気まずげに言い捨てる。そんな二人を胡蝶はちらりと見た後、何か言おうとして、しかし思い出したようにそれに声をかける。


「本道式、貴方は私に従いなさい。大体想定は出来るわ。こういう場合は私の指示に従うように命じられている筈、違うかしら?」

『クエェェェ………』


 深い怪我をしつつも漸く起き上がった孫娘の従える本道式に視線を向けて胡蝶は問い掛けた。颯天は小さく呻くと渋々と彼女の下へと馳せ参じる。


「ふふ、素直な子は好きよ?安心なさい、ここでちゃんと命令に従えるなら、此度の失態について、私が口利きしてあげるわ」


 手招きしながらの胡蝶の言葉に颯天は目を細めて不愉快そうにするが結局はそれだけであった。手招きに応じて側に寄る颯天。胡蝶はそんな式の背中に下人と元稚子の少年を括りつけていく。この式神で地上まで一気に運び出す積もりのようであった。


 そうしている内に開かれた通路から続々と地上からの増援が到着する。尤も、苛烈な戦いを予想していた彼ら彼女らの多くは無数の妖の死骸を前に呆気に取られ緊張が途切れてしまっていたが。代わりに彼ら彼女らの目を引くのは洞窟の一角で光輝くそれである。緑色に光り輝く、翡翠の柱………!!


「ふむ、鬼月の御意見番。彼方は………」

「ああ、あれね。安心なさいな。半分は朝廷のものでしょうけど。残り全て我が家のもの、なんて事は言わないわよ。流石に顰蹙を買うのは理解しているわ。残りの半分、でどうかしら?」


 宮鷹の翁の問いかけに胡蝶が答える。それはつまりは朝廷に譲り渡した残りの内の更に半分、つまり全体の四分の一を鬼月家の戦利品とする、という提案であった。


 極めて控えめな要求であると言えた。恐らくは霊脈から放出される霊力を長年に渡り掠め取って精製されたのだろう。


 朝廷がこの手の霊脈の利用を固く禁じているので同じように濃厚な霊力を溜め込んだ鉱物を手にいれようと思えば自然に産出されたものを自前で採掘するか高値で買い取るしかない。その有用性と希少性を思えば独占したいと思っても不思議ではなく、そしてこの状況を見るに鬼月家にはそれを要望する権利がある筈であった。


「では此方は三割といった所でしょうな。………残りは他家に、具体的な比率については後程話を詰めても宜しいかね?」

「………宇右衛門」

「ぶひっ!?な、何でしょうかな?」


 翁の言葉に、胡蝶は宇右衛門に声をかける。先程のやり取りもあって萎縮した宇右衛門が緊張気味に答える。


 彼は母親の無事を喜ぶ程度には母親思いな孝行者であると同時に、この実母を畏れてもいた。子供の頃から威圧されると、普段見せる尊大な態度は打って変わって、絞められる直前の子豚のように情けない醜態を見せてしまうのだ。結局、親子というものは何時まで経っても親子なのかもしれない。


「そんなに緊張しなくて良いわ。宮鷹らの交渉、貴方がおやりなさい。こういう話は貴方の得意分野でしょう?」

「ぶ、ぶひぃ………!!」


 宇右衛門への命令に、本人は豚の鳴き声のような返事をした。承諾であった。 


「………私も歳ね。そろそろ地上で休ませてもらうわ。じゃあ、残務は宜しく」


 そう宣って胡蝶らは颯天や他の式神に乗って一気に地上へと向かう。その姿を宮鷹の翁は訝しげな表情で見つめていた。


『ア゙……ア゙ァ゙…………』

「どうした、人形?」


 ふと、自身を運ぶ人形神が何かが気になったように首を捻って唸る。それは唸りながらその視線は地上を見つめていた。討伐隊と逆走して地上へと向かう鬼月の黒蝶婦の一行を、見つめていた。


「…………」


 宮鷹の老退魔士は自身の僕の反応にすうっと目を細める。


 歴戦の老退魔士は改めて地下の空間を見渡した。彼方此方で焼け焦げ炭化した河童と蜘蛛の怪物、頭部を砕かれた土竜の大妖にその頭から伸びた芋虫のような妖は身体をひねり千切られている。件の蜘蛛妖怪は全身が焼け爛れていて、最早神力はその残滓すらも感じ取れない。


 それに………最早激しい戦闘で地面の染みになってしまった謎の人形の妖…………。


「不可思議な事だな。あの女にしては随分と控えめな取り分な事だ。それに、この河童共どうやって焼き殺したのやら」


 火遁の霊術では奴らを焼き殺す事は出来ない筈、ましてやあの黒蝶婦は簡易式の達人である。一体どのような手段で始末したのか。他にも幾つか気になる事は多い。


 無論、退魔士の名門ともなれば他家に秘密にしている隠し玉の一つや二つあっても可笑しくはないが………。


「………やはり引っ掛かるな」


 よもやあの物言いである。妖と中身が入れ替わっている等という事は無かろうが………宮鷹の翁はどうにも後ろ髪を引かれるような感覚がしてならなかったのだった。


 ………地上に運ばれていくボロボロの下人、その首筋に張り付いた小さな白い子蜘蛛の存在に、そしてそれが僅かな神気を帯びている事実に気付く者は残念ながらいなかった。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 討伐より時は暫し過ぎる。地下に降りた討伐隊が粗方潜む妖共を掃討し終え、更に負傷者や一部の退魔士家は撤収を開始していた。


 入れ違いに入ってくるのは朝廷の軍団と武士団であり、彼らは残置する理究衆らと共に特に地上にて退魔士達が食い残した妖共の殲滅と滅菌を続ける。


 地下でもまた、未だ戦いは完全には終わってはいない。


『キキッ………』


 威嚇する蜘蛛妖怪は槍の一撃の下に滅される。水遁と火遁を併用して編み出された冷気を纏う槍の前に蜘蛛妖怪は瞬時にして凍結し、次いで襲い来る振動波に罅割れて、最後には硝子片のように打ち砕かれる。そしてそれを為した羽倉家出身の中年の退魔士は槍を仕舞うと溜め息を吐く。


「全く、やっと帰れると思えば残置組かよ。やってられねぇな?」


 土蜘蛛の作り上げた巨大な巣穴、その最奥地に残された退魔士の男は心底うんざりしていた。


 土蜘蛛は無論、千年土竜の死骸、何よりも巨大にして土蜘蛛を仕留めるために莫大な霊力を解放した後でありながら未だに濃厚な霊気を溜め込んだ翡翠の柱、それらを放置するなぞ退魔士達にも朝廷にも到底不可能な事であった。


 とは言え、地上での一連の戦いで討伐隊が相当疲弊したのもまた事実であり、未だ巣穴や地上には河童や蜘蛛妖怪の残党が僅かながらにしろ潜む以上、これらの回収を今すぐにと言うのも困難であった。朝廷からすれば特に河童共の完全掃討と滅菌が最重要課題なのだ。


 結果として、討伐隊の主力が撤収を始める中で、比較的後方にて消耗の低かった幾つかの退魔士家の退魔士や下人衆、隠行衆らが朝廷から派遣された軍団と武士団の支援、特に地下の警備として留め置かれていた。尤も、主力を失い、指揮系統も喪失した有象無象の雑魚共である。下人衆と隠行衆は兎も角、主力たる退魔士達にとっては緊張感もない、雑務以外の何物でもなかった。はっきり言って退屈以外の何物でもなかったのだ。


 故に、地下最下層に残された退魔士四人は配下の下人らが巡回する中で手持ちの水筒を飲み、菓子を立ち食いしながら詰まらなそうに駄弁る。時間潰しであった。


 尤も、それを油断とは言えないだろう。


 彼らはだらけてはいるが既に同胞の死骸や翡翠の柱の霊力目当てにやって来た河童や蜘蛛妖怪の残党を十数体処理していた。全てが秒殺である。


 想定される敗残兵を想定すれば残置された人員は十分どころか過剰ですらあった。特に羽倉家から派遣された男は冷気使いであり尚且つ槍の名手であった。彼が本気を出せばこの広間を物の数秒で凍結させて、限定的に時間すら停滞させられた。その槍捌きは河童の十や二十を纏めて殺戮出来る。彼以外の居残り組も皆各々に秀でた技能持ちである。備えは万全だった。


「糞、結局一番美味しい所は鬼月と宮鷹のものだろう?これじゃあタダ働きだぜ、えぇ?」 


 千年土竜の死骸に座り込みながらそんな居残り組の一人、日暮家の家人である若い退魔士が宣う。従軍した家は数有れど、既に討伐隊の間ではその話は広がっていた。


 呪具の材料や研究標本としての特殊な妖の死骸や翡翠、その中で朝廷の取り分を残した大半が北土の名家二家のものとなる事が半ば確定していた。残る家々には精々二家の食い残しに幾等かの金銭や官位の授与があるのみである。愚痴も言いたくもなろう。 


「仕方ないでしょう?大物は大体あの二家が始末しちゃったんだから。おこぼれがあるだけマシよ」


 一人が愚痴った所でそれに加わるように発言する女性の退魔士。彼女は家人ではないが退魔士家としては小身の家の出である。


「はっ!まぁ、俺らみたいな弱小じゃあな……出費分の補填があるだけマシってか?」 


 最初に愚痴を言った日暮家の家人は乾物を噛み締めながら深く息を吐く。


 退魔士家とてピンキリだ。鬼月や宮鷹のように大地主であり、事業も興して資産と人を多く抱えている家。しかし、末席ともなれば唯の庶民共に比べれば遥かに収入が多く裕福なれど、同時に出費もまた嵩んでいる家も少なくない。


 朝廷と人間の力が増すに従って退魔の仕事の実入りが少なくなるのはある種の皮肉であった。朝廷も敢えて潜在的な反乱分子である彼ら退魔士家を婉曲的に締め上げている節がある。小身の家にとっては朝廷への奉仕の一つである上洛は痛い出費だ。


「だからこそ、宮鷹の翁はあいつらを捨て駒にしたんだろう?随分とまぁ、悪賢い手を使ったものだね」


 残る一人の退魔士がそれを指摘した。同時にその明け透けな物言いに残る三人は若干顔を歪める。それが、河童共に地上の野営地を襲撃された際にモグリの者らを捨て駒の餌にした事を示していたのは明白だった。


「そうは言うがな………」

「はっ、所詮は盗賊に毛の生えたような破落戸共でしょう?あんな奴らが死のうが知った事ではないわよ」

「然りだな。そも、奴らの存在そのものが帝と朝廷の意に反しているのだからな」


 羽倉の中年退魔士が気難しそうに苦虫を噛むが残る若い二人は強く反発する。そして多くの退魔士家において、後者の意見が多数派を占めていた。


 モグリの退魔士や呪具士、呪い屋の類いを、朝廷はその存在そのものを禁じていた。領内で勝手して、素行が悪い犯罪者予備軍……というよりも半ば犯罪者である彼らの所業は退魔士という存在そのものの印象を悪くさせる存在だ。それ故に宮鷹の翁が捨て駒として利用した事について反発する退魔士は殆どおらず、それどころか広言こそしないが寧ろ称賛すらしていたのが実情であった。………少なくとも彼らがモグリ共を蔑み宮鷹の行いに賛同する表向きの理由はそれである。


「朝廷ねぇ。こんな場所でまで綺麗事は止めようぜ?それは建前だろう?」


 最初に指摘した彼の明け透けな言葉に残る三人は皆視線を逸らす。そうだ、朝廷のため、帝のため、全く零でこそ無かろうが彼ら彼女らにとってはモグリに対する強い敵意はより俗的であり、それ故に切実であった。 


 朝廷の認可も得ず、陰陽寮の許可も得ず、非合法に活動するモグリ達は確かに素行が悪く、犯罪に手を染めている者も多いが、同時に朝廷や正規の退魔士では目の届かない辺境での妖怪退治や供給不足の御守り等の生産に関わっていたのもまた事実ではあったのだ。需要がなければ供給はなく、害悪しかない存在が社会で大手を振って存在するのは困難だ。民草の少なくない数が彼らを利用しており、それ故にその存在を通報されずにいる側面が確かにあった。


 だからこそ正規の退魔士らにとってはモグリある意味妖以上に忌み嫌う存在なのだ。多くの退魔士達にとって、彼ら非合法の同業者は自分達の仕事を奪い、権益を掠め取る鼠の如き存在なのである。特に零細な家や家人の立場にある退魔士にとっては正に憎悪の対象であった。


「ふふっ、………まぁ、そんなのは今更の話ではあるのだけどね?」


 自身で指摘した内容を自身で冷笑する男。退魔士という存在が決して護民のための存在ではない事を彼は知っていた。退魔士という人間は基本皆強欲で傲慢で冷酷なのだ。唯人よりも個で強大な力を持てば誰だってそうもなろう。


 先程から口には出せぬような事実を突きつける仲間に対して残る三人は不快げな表情を浮かべる。特に若い二人はあからさまに顔をしかめていた。それに気付いて、この場における最年長者である羽倉家の退魔士は場の空気を緩めようと口を開こうとして……その異変に気付いて表情を硬くする。


「………っ!?待て、静かに」

「?何が……これはっ……!?」


 羽倉家の退魔士が突如として警戒して武器である槍を構えた事に、しかめ面を浮かべていた青年退魔士が怪訝な表情を浮かべるが、直ぐに彼もまた異常に気付いた。続くように今一人、若い少女の退魔士も同様だ。


 先程まで周囲を警備していた下人衆と隠行衆の気配が消えていた。それも一つ残らずに。悲鳴の一つすら聞こえなかった。


「異変を伝える暇もなかったって言うのか?来た……!!?」


 篝火程度しかなく、決して明るくない洞窟の闇……その奥から何かの影が近付いて来るのを羽倉の退魔士は目撃した。それは篝火に照らされてその姿をはっきりと映し出す。緑色の身体、黄色く光る大きな眼光……!!


「……っ!?河童か!まだこんな……おい、何している!?早く武器を構えろ!!あれが見えないのか!?」


 軽く十を越える河童共を確認して、急いで武器を構えて迎撃しようとしていた羽倉の退魔士は武器を構えぬ処か警戒すらしている様子のない仲間に向けて叫ぶ。先程明け透けな発言ばかり吐いて周囲を不快にさせていた青年だった。余り良い印象はないが貴重な戦力であるし、見殺しにする訳にも行かなかった。


 対して、その件の青年は声に答えるように羽倉の退魔士を一瞥すると、冷笑した。苦笑した。嘲笑した。そして口を開く。今晩の夕食の献立について答えるような軽い物言いで、答える。


「あぁ、御心配には及びませんよ。あれらは俺は襲いませんから。というよりもあいつらは俺が呼び寄せたものでしてね」


「はっ?何を………ぐふっ゙!?」


 何を言っているのか?そう羽倉の退魔士が口を開こうとした刹那、彼は腹部を襲う突然の鈍痛に身体を硬直させる。視線を向ける。腹部から白い何かが突き出していた。背後から自身を貫いて腹から生えるそれに訳が分からずに唖然とした表情を浮かべた彼は、今一つ、何かが腹を貫通するとその痛みに血と泡を噴き出して絶命した。


「何? 一体………」


 味方が奇襲で殺された事に振り向いた今一人の退魔士の言葉は続かなかった。彼の頭は後頭部から半分がざっくりと失われていたからだ。驚愕した表情のままに退魔士は倒れる。恐らく彼は最後の瞬間まで自分の死を理解出来なかっただろう。


 三人目の女退魔士はそれを見ていた。モグリ共を捨て石にした話をしていた四人目の仲間が、仲間だった筈のその青年退魔士が背後からその頭を抉り、地面にぶちまけた光景を目撃していた。混乱しつつも双剣を引き抜いた彼女は……刹那、その両手を喪う。


「あ゙あ゙っ゙………!?」


 両手の断面から血を噴き出しながら悲鳴を上げる女退魔士。青年退魔士の「皮」を被っている者が彼女の斬撃よりも先に振るった爪はまるで名刀のように綺麗に彼女の腕を切断したのだ。


「いやあ、あ゙ぁ゙……腕が……私の゙腕がっ゙……!!?」


 余りの痛みに叫喚して膝をつく女性退魔士。泣き叫ぶ彼女は、背後からの奇声に気付く。


「か、河童……!?ひっ゙、い゙や……やめ゙ろ……やめて!!来るなっ!!い゙、い゙や゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙…………」


 次の瞬間、彼女は闇の中に潜むその怪物共に引きずり込まれた。泣き叫び必死に抵抗しようとする彼女を組み敷いて何十という緑色の怪物共が覆い被さる。何時しか悲鳴もくぐもって何を言っているのかも分からなくなった。


 かような悍ましい光景をこの場に残った唯一の青年は淡々と観賞していた。実に詰まらなそうで、退屈そうである。


『やぁ、御迎えかい?手間をかけて済まないね』


 その声に青年退魔士は振り向く。あの場で最も手練れであった羽倉の退魔士を奇襲で殺害したそれを見る。


 千年土竜の死骸に埋め込まれていたそれは遅延式の依代であった。卵の状態で土竜の腸に仕込んでいたそれは黒い異形の腹を貫き、抉ったのと同じく寄生虫の妖。しかして土竜の中に仕込んだその目的は罠としてではなく創造者の安全確保のためのものである。


「これはこれは、また酷い依代な事ですねぇ。そんな気持ち悪い身体になって、良くもまぁ発狂しないものですよ」


 鵺が自身の遺伝子を組み込んで予備の依代として用意していたその妖の外観は醜いの一言である。八目鰻のような顎のない口に出鱈目に牙が生えていて、その周囲から海星のような五本の触手を生やす。全身を包む無味無臭の粘液は己に振るわれる刀剣類の刃を滑らせる事が出来る他に摩擦を軽減する目的もあって、その図体に対して物音どころか振動すら起こさずに疾走する事が出来た。


 何よりもその生存性を担保しているのは全身に彫られた刻印による限定的な認識阻害能であろう。朝廷の暗部が運用する「闇夜目隠之勾玉」同様の理論で人間の「盲点」に入りこむそれは粘液の効果と複合して人々の五感を完全に欺瞞する。相応に手練れであった筈の槍使いの退魔士を気取られずに仕止められた一因だ。明らかに人間とは違う声帯でありながら人語を話せるのもまた創造者の改良の賜物で、その道の研究者が見れば相当高度な技術で製造された改造妖である事が分かるだろう。


 ………尤も、その性能は兎も角外観のおぞましさからして彼、神威にとっては死ぬ代わりだとしてもその身体に乗り移るのは願い下げであったが。自身の身体も随分と人間から逸脱しているとは自覚しているが流石にあれはない。はっきり言って気持ち悪過ぎる。



『やれやれ、君も随分と改造されているというのに………寧ろ中身で言えばこの身体よりも実は君の方がずっと人から逸脱しているんだよ? 外観が多少悪いといって食わず嫌いは良くないね』

「故郷でも食わず嫌いで良く躾られたものですよ」


 それでも滑子は嫌いでしたがね、と神威は嘯く。嘯きながら頭に被っていた人皮を破り捨てて放り捨てる。放り捨てた顔面の皮に数体の河童が飛びかかって貪っていた。まるで餌に群がる鳩のようだと彼は思った。


 鵺……人であった時の名前は祟神憑嗣……今の主人の命に従って神威は討伐隊の一員に紛れ込んだ。より正確に言えば蜘蛛妖怪と河童の軍勢が討伐隊の野営陣地を襲撃した際、その乱戦の隙を突いて殺害した退魔士の「皮」を拝借して彼は紛れ込んだ。それは指示された幾つかの目的のための潜入であり、それを終えて神威は今まさに主人である怪物の下に合流した。………温存していた貴重な戦力の回収も兼ねて。


『キキキッ!!』

『キキキキ………』


 何時しか地下の空間に無数の緑色の怪物共が集まっていた。神威と鵺の呼び出しに応じて集う河童の総数は凡そ一千と言った所か。霊力が効かぬという河童の特性を考えれば相当な戦力ではあるが………残念ながら神威からしてみれば期待外れであった。


「討伐隊の攻撃計画から逆算して可能な限りこいつらを隠したんですがね。予想以上に削られましたねぇ」


 神威は他人事のようにぼやく。討伐隊を少々甘く見ていた。初手から毒瓦斯で、しかも野営の襲撃時には捨て駒で此方の戦力を釣り上げて焼き払って来ると来ていた。容赦のない事だ。 


『だから言ったじゃないか。彼らを甘く見るなとね。卑怯卑劣な戦法を仕掛けて来るだろう事は事前に警告した筈だよ?』


「けど全部が全部俺の責任じゃあないでしょう?約束ではその蜘蛛の自殺を手伝う代わりに造った河童共を貰い受ける手筈だったじゃないですか?困るんですよねぇ、計画変更なんかされたら」 


 河童共の大流行自体は退魔士共を呼び寄せる餌に過ぎない。蜘蛛に幾分かは兵隊としてやる積もりであったが鵺達にとっては改造して自分達の命令に従うようにした河童共を回収したら後は霊欠起爆で蜘蛛も退魔士共も証拠諸とも全て纏めて消し飛んで貰い、そのままトンズラする予定であった筈なのだ。それがこんな長居をする事になり挙げ句にはこの様である。


 それは非常に困った話であった。来るべき「その時」に備えて戦力の拡充は必須なれど、河童共を増やすのは容易ではない。彼の地母神の眷属と違って河童の材料となるのは人間である。人間という生き物は育てるのには意外と金と時間を必要とするものなのだ。人の寄り付かぬ辺境の山奥にて鵺が幾つか設けている『牧場』では河童共の大規模な生産は非常に難しい。


 故に時たま今回のように局所的な「感染爆発」を演出して見せ、その一部を将来の戦力として回収している訳なのだが………目的であった河童共の回収も期待した半分どころか四分の一も出来ぬ有り様で、止めは証拠隠滅も兼ねた霊脈の起爆を阻止されてしまった事である。計画は大失敗といって良い。神威からしてみればとっととトンズラの指示を出さなかった鵺に愚痴を言いたくもなる。


『いやぁ、本当に悪いねぇ。だが、どの道あの碧鬼がそんな詰まらない演目を許すとも思えないからねぇ。彼女の期待に添いながら目的を果たそうと思えばこうもなろうさ』


 謝罪するように寄生虫は宣う。赤髪碧童子、彼女の性格はこれ迄の間に幾度も接触の機会もあったので鵺は良く理解していた。霊欠起爆で彼女のお気に入りごと全てを消し飛ばすような詰まらない台本なぞ彼女の性格が許すまい。


 飄々とお気に入りについて手助けしない等と嘯きつつもそれはあくまでも物語の進行についてである。そもそも場面自体が気に入らなければ自分好みの状況に場面を変えてしまうような性格なのがあの鬼だった。きっと起爆しようとした瞬間に風情がないとばかりにこれまでの言葉を平気で撤回して介入して来るだろう。鵺には霊脈を起爆しようとした正に次の瞬間に暴風のようにエントリーしてきた鬼に挽き肉にされる己の姿が容易に想像出来た。


 ………いやまぁ、そもそも鬼との約束程当てにならぬものはないのであるが。


『それに、確かに彼は興味深かったからね。一度ならず二度までも彼は地母神殿の誘惑から戻って来るとはたまげたものだよ。それにあの少年も中々惜しいね。個人的には是非とも確保したいのだけれど………』


 未練がましいその物言いは、実際彼が下人と稚児を取り零したためのものであった。蛛妖怪共から遅れて襲いかかってきた河童の軍勢は急遽鵺が呼び寄せたものである。河童共に念力を通じて白若丸の回収を命じていたのだ。序でに言えば可能であれば彼についても………尤も、その命令は戦力を浪費しただけに過ぎなかったが。


『いやはや、本当に惜しいものだよ。どうにかして手に入らないものかな?』


「別に此方は雇われの身ですからあんたが何を企もうが結構ですけどね。やるなら俺は外して下さいよ?あの下人、側におっかねぇ女がいやがるんですから。流石にもう一度頭蓋を粉砕されるのはご免ですよ」


 都にてあの桃色の化物に其処らの石ころで一度殺された記憶を思い出して神威は顔をしかめる。あれと戦うくらいならば凶妖と戦った方がまだ勝算がありそうだ。故郷では先輩格で戦いの経験も豊富だったあの龍飛が一方的になぶられていた光景は神威からしても衝撃的だった。


『あぁ、彼女かい?確かにアレは優秀な個体だね。大乱の頃の鬼月と言えば精々中堅程度の家と思っていたが………まさかあれ程完成度の高い作品を産み出すとは驚いたよ。いやぁ、時代は変わるものだねぇ』


 鵺の言葉は、しかしその文面程に驚きは無さそうで、寧ろ何処か詰まらなそうであった。言うならば一と二を足せば三になるのは当然であるかのように、分かりきった答えを口にするような退屈さを聞く者に思わせた。


 いや、実際鵺にとっては鬼月葵という存在は詰まらない存在なのだろう。確かに彼女は強力だ。強大だ。天才だ。しかして、鵺にとってはそれだけなのだ。あの桜色の乙女は彼にとって感嘆はすれど驚嘆に値する存在ではなかった。 


「………さて、では俺はこいつらをこれから引率しますが、そっちはどうします?もう少し此処に居座りますかね?」


 このままでは本当にあの桃色の化物の所にいって誘拐してこいとでも言われそうに思えて、神威は話を切り上げるように尋ねた。そうでなくても余りお喋りする時間はあるまい。この最下層にいた者達は退魔士も下人衆も隠行衆も皆騒ぐ暇もなく処理されている。しかしその内交代要員が降りて来るのは明白だった。上の連中が味方の生存を確認する事すらせずに情け容赦なく油を注ぎ込んで焼き殺しにしてくる前に逃げるのが良かろう。


『いや、私も帰ろうか。………あぁ、その前にこれは回収しないとね。折角の貴重な検体だ』


 そう宣って鵺は、醜い寄生虫の依代は足元の死骸………黒い異形に八つ裂きにされた方の寄生虫……をボリボリと貪り始めた。しかして、それは単なる摂食行為ではなかった。それは検査であったのだ。そう、死骸があの黒い異形の腹を貫いた時に体内に確保した「検体」の検査………鵺の今の依代には摂取した存在の血肉を分析し、解析する機能が付与されていた。


「うへぇ、気持ち悪ぃ。……よーし、お前ら行くぞ。ほれ、飯食うのは止めて俺に続け」


 やる気の無さそうに神威は退魔士達を貪っていた河童共に命じる。彼の指示に従って食事中だった何百何千という緑色の異形共は引率されていく。食事に夢中で指示に従わない個体は雑に尻を蹴飛ばして連れていく。


 この蟻の巣のように広い洞窟の一角には地下水脈があり、彼らはそこを通って鵺が拵えた拠点の一つに向かう予定であった。討伐隊と朝廷がその存在を把握していない内に逃げるのが吉であろう。まだ、彼らの存在を見つけられるのは不味い。


『存外、仕事熱心な事だね。感心感心………おや?』


 部下であり弟子である青年の仕事ぶりを観察しながら妖の死骸ごとあの異形の血肉を採取していた鵺はふと沈黙する。彼はその意味を理解して、次の瞬間に愉悦の笑みを浮かべていた。


『ほぅ、これはまた………そうか、因果は廻るという事なのかな?』


 怪物は心底愉快げな口調で呟く。懐かしげに、大人が子供時代に散々遊んでいた玩具を偶然に見つけたように純粋な、しかして聞く者に不安と嫌悪感を感じさせるような意地の悪そうな含み笑い………それが碌でもない事を考えている時の笑みである事を神威はこの数年の付き合いで熟知していた。


『さてさて面白くなって来たものだね。いやはやあの白狐に松重のお嬢さんと言い、世間というものは存外に狭いものだ。こういう偶然が重なると運命というものを信じたくなってしまうね。良い大人の分際で年甲斐もなく浮かれてしまいそうだよ』


 クツクツクツ、と静かに鵺は嗤った。そして宣う。


『予定を変更しようか。神威君、君は先に帰ってゆっくりと休むと良い。私は都に行かないと。………此度の案件の詳細、友人に早めに伝えておいた方が良いだろうからね』


 鵺はそこまで伝えて音もなく地面を這う。這いながら、その醜い怪物はあっという間に洞窟の暗闇に消えていく………。


「………やっぱりあんたの方がずっと人間じゃねぇよ」


 主人であり、師でもある人外と成り果てた退魔士の後ろ姿を一瞥した神威は無意識の内にそう小さく呟く。 


 それから本格的にこの怪物の注目を受ける事になったあの下人を憐れんだ。


 そう遠くない将来、あの怪物に尊厳も何もかもを弄ばれて、玩具にされるであろうあの男の末路を思って………。


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