第六四話

幼い少年がぽつんと佇んでいた。雪が降り積もる寒村で孤独に、寂しげに佇んでいた。


 『契約』に従い封印されていた記憶を無遠慮に抉じ開けられた少年は幼い記憶に残る家族の家の前でひたすら佇む。それしか出来ない。最早彼にはこの薄くすぐ外れてしまう引き戸を開ける勇気すらなかった。絶望に歪んだ顔を両手で押さえ付けて、少年は膝をつく。


『本当、可哀想な子』


 そんな少年の耳元にその声は響く。甘美で、優しく、人を安心させる声音であった。人の心を犯すような美し過ぎる、そして甘過ぎる唄のような声………。


『貴方は言いましたね?あの時、私の顔に刃を突き立てた時に貴方は、貴方の記憶を汚すなと。……ですが、貴方の大切にしているその記憶は、果たして本物の記憶なのでしょうか?』


 囁くような声は少年の心に無形の刃となって突き刺さる。襲い来る生理的な吐き気。ふふふ、彼女は小さく笑う。吐き出された温かな空気が少年の耳を擽る。


『本当、可哀想な子。私には分かりますよ?貴方の全てが分かりますよ?なんて虚飾にまみれた、なんて苦しみにまみれた、なんて悲しみにまみれた人生なのか。私には分かりますよ?私は貴方の一部なのですから』


 何処までも同情して、何処までも哀れんで、何処までも心配するように彼女は嘯く。その言葉は明らかに善意だけで出来ていた。一欠片の悪意もなかった。


「俺、は……俺は…………」

『えぇ、分かりますよ?それはとても悲しい事でしょうね?信じていたものに裏切られるのは、大切なものを傷つけるのは、大切なものが失われるのは、だから貴方は去ったのでしょう?分かりますよ、母には分かります』


 家族のために、そのために一番の負債である自身を切り捨てた事、その苦悩を、その嘆きを、その勇気を、彼女は同情する。寄り添って、肯定する。肯定して、背後から抱き締める。抱擁する。それを当然の事とでも言うように。


『安心して下さい。母は何時だって貴方の味方ですよ?何時だって、決して貴方に刃を向ける事なんてありません、ある訳がありません』


 いつしか場所は変わっていた。屋敷の中であった。あの娘からその告白をされたあの部屋だった。少年があの絶望の宣告をされたあの場所であった。


 少年の出で立ちもまた変わる。雑人用の服装は、しかし良く見れば品の良い特注品であった。他の雑人共とは一線を画したそれは、少年の屋敷での立ち位置を現していた。順風満帆に見えた日々、餓える恐怖に怯えずに済んだ日々は、しかしあの日あの少女の身勝手な我が儘で崩れ去った。そして少年はまたもや自身の過ちに気付かされたのだ。


『生きるためにおもねる事は決して賎しい事ではありませんよ?多くの生き物が共生関係を築いているのですから、一つの個体のために多くの個体が奉仕するのですから、貴方の選択肢は決して間違いではありませんでしたよ?母が言うのです。間違いなんてあるものですか』


 そして抱く我が子の頭を撫でる。良心の叱責に苦しむ少年を慈しむ。


『嘆く必要なぞありませんよ?生への欲求は生きとし生けるものでしたら誰にでもあるものです。それは決して恥ずべき物ではありません』


 何時しか景色が変わる。深い森の中であった。少年は成長していた。ボロボロの黒衣に、傷だらけの身体、だがそんな事はどうでも良い。そんな事は問題ですらない。何よりも少年にとって重要だったのは眼前に横たわる死体であったから。


「ひっ……!?」


 何も見たくないと顔を手で覆っていた少年はその手を離す。当然だった。血塗れの掌には、しかし生々しい感触がまだ残っていた。その温もりは人の温もりであった。その触感は人の肌のそれであった。人の……人の首を締め上げた感覚…………。


「い、いや………あ…………」


 少年は声を嗄らす。悲鳴にならない悲鳴を漏らす。そしてそんな彼に彼女は一層慈しみの眼差しを向けて囁くのだ。


『慕っていたのですね?大切に思っていたのですね?分かりますよ?辛いですよね?理不尽ですよね?けれど、弱肉強食は自然の摂理です。弱いものは強いものの糧となる。搾取される。それは仕方のない原則です』


 あの人が死んだのはどうしようもない事だ。殺さねばならなかったのは仕方のない事だ。彼女は宣う。そして愛する我が子を擁護する。


「俺は……俺は………!!」

『大丈夫ですよ、私が赦します。許しましょう。貴方は何も間違っていません。生きるためにはそれ以外の手はなかったのでしょう?』

「そんな事………!!」


 否定しようとして、しかし彼には否定出来なかった。全ては自身の未熟さ故の失敗であった事を彼は理解していた。彼は、何時だって誤ってばかりだった。


『安心して下さい。母は貴方を助けましょう。貴方に力を与えましょう。ほら、先程だって約束した通り私が助けて上げたでしょう?守って上げたでしょう?だからちゃーんと………』


 私を受け入れて下さいね?と諭す。優しく優しく、彼女は諭す。侵食する。浸透する。侵略する。彼の頭を、心を、呑み込んでいく。彼を完全に『我が子』とするために。


「あっ……う………」


 打ちひしがれた彼は何も言えない。何も言えず、その瞳から光が消えていく。背後から抱き締める彼女の影は次第に揺れ動き、鮮やかな翠色の美髪が触手のように伸びて彼を包み込んでいく。彼女は微笑む。何処までも善意に満ち満ちた微笑みで。そして彼はそのまま子守唄を聴いた赤子のように常闇の世界へと沈んでいき………。


「………声がする」


 彼は呟いた。それは遠い遠い場所からの声に聞こえた。しかし、彼には分かっていた。それが幼い子供の声だと。子供が助けを呼ぶ声だと。


「………弟?」


 次の瞬間、ぱっと彼は立ち上がっていた。ブチブチと、まるで当然のように千切れる彼女の髪。それもその筈、この世界は心の世界、心象の世界、彼の精神の世界、であればこの世界において全ての法則が彼に帰すのも、彼に優先されるのもまた道理なのだ。


「今、行く………!!」


 いつの間にかその瞳に光が戻っていた彼は急いで駆け出す。彼女は慌ててそんな彼を止めようと肩に触れて……その手が発火した。


『あら、これは………』


 あっという間に手の先から全身に回る業火に、しかし彼女は驚きはすれども悲鳴を上げる事はなかった。ここは夢の世界、故に痛みもまたただの儚き幻に過ぎないのだ。それよりもこの火は………。


『困るわねぇ、本当に頑固なのですから。そんなに大好きでしたら一緒に我が子になってくれたら良いですのに』


 誰も彼も、彼女の愛情を素直に受け取ってくれないのだから困ったものだ。尤も、彼女は母なればそれに怒りを覚える事はない。母の愛情は見返りを求めないのだ。彼女は、妖母の欠片は森の中を駆ける我が子の背中を見る。愛情を籠めて、見やる。


『仕方ありません。今回も見送りですね。まぁ、良いでしょう。今回はかなり変異が進みましたからね』


 仕上げはまたの機会で良い。時間も機会も幾らでもあり、神という存在は気が長い。特に彼女は辛抱強く、殊更に気が長かった。


 焦る事はない。どうせ、最後は決まっているのだから…………



『では。我が子の活躍、見守らせて頂きますね、◼️◼️?』


 松明のように燃え盛り、焼け爛れながら、地母神の成れの果ては何処までも母性愛に溢れた笑顔で彼を見送ったのだった…………。











 長い悪夢に魘されていたその意識が浮かび上がるように覚醒したのは遠くから響くその声によってであった。


「ひっ!?く、来るな……来るなぁ!!」


 悲鳴だった。泣きそうになりながら叫ぶ子供の悲鳴が聞こえた。そしてそれを切っ掛けのようにして、混濁して不明瞭な意識は少しずつ、しかし確実に明朗となっていく。それはまるで深い森を抜けて視界が開けていくような感覚であった。


「んんっ………うっ…………?」


 汗で衣服を濡らしていたからだろうか?長く不愉快な夢から目覚めたような感覚、冬眠から目覚めたような倦怠感が全身を襲い、俺は表情を歪める。しかし、その不快感が俺の意識を完全に目覚めさせる事になった。


「っ………!?」


 同時に俺は眼前の存在に目を見開いていた。それは蜘蛛であった。黒に白い斑模様の、狼程度の大きさの蜘蛛妖怪の姿。八つの赤い目玉が不気味に光り、顎をカチカチと鳴らして威嚇する人外の化物がそこにいた。


「何がっ………!!?」


 そして俺は気付く。自分が地面に倒れていて、そんな俺を抱き抱えている少年がいる事に。その少年が涙目になりながら必死に扇を振って眼前の化物を追い払おうとしている事を。理解する。この場における、全てを理解する。


『チッチッチッ……!!!』

「ひっ……!?」


 痺れを切らしたように蜘蛛が跳ねながら飛び掛かる。元々戦闘の訓練すらした事のない白若丸はそれに反応出来ない………いや反応したがそれは迎撃ではなく頭を手で覆う事であって何らの意味もなかった。そして蜘蛛の牙が少年に向かって迫り来て……。


「やらせるかよ……!!」

『チッ!?』


 突然顔面に叩き込まれた俺の蹴り、それも草鞋の裏に鉄板を仕込んでの一撃は不意討ちであった事もあって蜘蛛を驚かせて、怯ませた。


「えっ……!?あ、兄貴?」

「糞っ、やっぱり今のじゃ駄目かよ……!!」


 突然起き上がった俺の存在に呆然とする白若丸に、しかし俺はかける言葉はなかった。そんな余裕はなかった。目の前の化物は未だ健在だった。当然だ、霊力で強化もしていないのに顔面を蹴りあげた程度でそうそう妖が死ぬものか!!


『チッチッチッ……!!』

「うおっ!?来るんじゃねぇ!!?」


 牙を剥いて、爪を立てて、迫り来る小蜘蛛を俺は必死に蹴る。蹴る度に唸って爪と牙を振るう蜘蛛妖怪。痛っ!?足が少し斬れたか……!?


「あ、兄貴……!!?」

「ちょっと黙ってろ!!糞、武器……武器はないのか!!?っ………!?」


 何度も蜘蛛の顔面を蹴りつけながら俺は周囲を見渡す。そして、ふと気付いた。自身の直ぐ側、手元の地面にそれが落ちている事に。鞘に桜の柄の刻まれた短刀……!!


「ちぃ………!!?」


 殆ど反射的に俺は鞘からそれを引き抜いていた。抜刀である。横一文字に一閃……!!


『チッチッッ………!!?』


 此方の反撃が想定外だったのだろう。前足二本を切断されて、顔面まで傷ついた蜘蛛は慌てたように仰け反った。そして俺はその隙を突くように一歩踏み込む。全身の軋むような激痛を歯を食い縛って耐えて、蜘蛛の顔面に短刀を突き立てる。突き刺す。


『ヂッ……!?』

「くたばれ……!!」


 顔面に短刀が突き刺さった蜘蛛は暴れようとするが、俺は体重を短刀にかけて、短刀を鍔まで差し込んでいきそれを阻止する。ビクビクと痙攣していた蜘蛛は、しかし直後に糸の切れた人形のようにどさりと倒れ伏す。

 

「やった、か………?」


 突き刺した蜘蛛が確実に絶命したのを確認した俺は短刀を無理矢理に引き抜きながら周囲の状況を確認する。そして舌打ちする。少なくとも楽観出来る状況ではなさそうだ………!!


「牡丹、見ているんだろう?手伝ってくれ……!!」

『叫ばなくても私はここにいますよ』


 何処かに隠れている蜂鳥に向けて叫べば少女の憮然とした声が真上から響く。俺の目の前に着地する蜂鳥は、無遠慮に此方を観察する。


『………どうにかガワは人間のようですね』

「………余り意味を聞きたくない物言いだな。手を借りたい。良いか?」


 蜂鳥の相変わらず淡々とした口調と不穏な内容に顔をしかめて、しかし俺は手助けを求める。蜂鳥はすぅ、と目を細める。此方を見透かすように、観察するように見つめる。そして問う。


『そちらの記憶はどれ程残っているので?』

「曖昧だが……少なくとも化物共をどうにかすれば良いんだろう?」


 此方がどれくらい状況を認識出来ているのかという質問に対して俺は簡便に返す。松重の人間相手には長々と説明するよりも此方の方が効果的だ。それに、時間もなかった。


『……良いでしょう。おおよそ要望は分かりますよ。その少年のお守りでしょう?こんな規格外な才能、放置出来ませんから』

 

 蜂鳥はこれまた無遠慮な視線で背後の白若丸を見やる。白若丸は自身が話題になった事にびくりと身体を震わせる。怯えたように、震わせる。俺はそんな小僧を一瞥すると、蜂鳥を再度見る。


「それもある。その序でにちょっと小細工もして欲しい」

『小細工、ですか?』

「物事は何時も最悪を想定すべし、って話だよ」


 怪訝そうに反芻する式神に対して端的に俺は小細工の説明をする。そして、立ち上がる。ゴリラ様と蜘蛛の攻防が明らかに放置出来ぬ状況に陥りつつあったからだ。


「さてさて、ではそろそろ幕引きと行きたいものだが……行けるかね?」


 散々戦闘の連続だったのだ。そろそろマンネリであろう。ここで終わらせたいものであった。俺はそう願いながら短刀を構えると、筋肉痛に耐えながらゴリラ様に食らいつこうとした土蜘蛛に背後から迫る。そして…………。






ーーーーーーーーーーーーーー

「この脳天への一撃で終わってくれれば嬉しかったんだけどなぁ」


 短刀の刃が半分余り突き刺さった土蜘蛛の頭を見つめて、俺は苦笑する。それは困り果ててどうしようもない時の笑みであった。当然であろう。短刀は土蜘蛛の強固な外殻を貫いた。貫いた上でその内部の筋繊維に絡め取られていた。土蜘蛛の脳にまで、刃は届いていなかった。


「………やべ、失敗した」

『当たり前だ、無礼者がぁ!!!!』

「ちぃっ!!」


 頭上に乗る無礼者を振り払おうとする土蜘蛛、俺は慌てて土蜘蛛の頭にしがみつくと短刀を思いっきり引き抜く。緑色の体液が噴き出すとともに咆哮を上げる土蜘蛛。結構痛がりなのか一層激しく暴れる。


「うおっ……!?ぐっ゙!!」


 不用意に振り払われれば頭から地面に叩きつけられて頭蓋骨が砕けるだろう、そうでなくても吹き飛ぶ方向を考えなければ次の瞬間には蜘蛛に踏み殺される。故に俺は必死に蜘蛛の外殻にしがみつく。


「!?これは………」


 そして、ふとそれに気付いた。土蜘蛛の頭蓋に当たるその一角にそれはあった。それは亀裂だった。古い、古い亀裂、傷痕?俺は思わずそこに触れる。


『っ!!?猪口才な……!!』

「あ、これは不味い」


 その亀裂をなぞるようにして触れていると、土蜘蛛が叫んだ。そして吸血中の蚊を叩き潰そうとするかのように自身の足を持ち上げると、それを自らの頭へと振り下ろす。


「うおっ……!?危ねぇ!!」


 紙一重の所で俺は土蜘蛛の頭から手を離す。同時に敢えて振り払われる事で蜘蛛脚に叩き潰される事を回避する。地面に向けて吹き飛んで、そのまま回転しながら受け身をする事で俺は衝撃を分散する。そして、そのまま俺は蜘蛛糸に捕らわれたゴリラ様の側にまで辿り着く。


「あらあら、あれだけ大言壮語吐いて逃げ出すなんて情けないわね?」

「そりゃあどうも……!!その拘束解いた方が良いですかね!?」

「貴方に束縛趣味がないのならそうした方が良いでしょうね」

「ではそうしましょうか……!!」


 俺は悠然と倒れるゴリラ様の手足を捕らえる蜘蛛糸を一刀の下に切り捨てる。


『逃がすと思うかぁ!!』

「お黙りなさい……!!」


 自身の頭を全力で殴った事もあってか、俺が何処にいったのか一瞬不覚になっていた土蜘蛛は俺がゴリラ様を蜘蛛糸から解放した直後に気付いて襲いかかる。そこに叩き込まれるのは投石であった。丁度拳大程の石ころを拾ったゴリラ様はプロ野球選手どころかバッティングマシーンでも不可能だろう豪速球を土蜘蛛に叩きつける。それも目玉に向けて。


『グアァ!!?』


 外殻は頑強でも眼球はそうはいかないのは当然の事で、格上を相手にするのならば一周回って常道である。周囲の肉ごと眼球の一つを吹き飛ばされた土蜘蛛が再度のたうち回る。のたうち回りながら蜘蛛脚を振るう。それは空を切り裂き、風圧が刃となって周囲を襲う。


 何なら葉山達と戦う己の眷属の所にまでそれは無差別に襲いかかる。慌てて葉山と胡蝶が物陰に伏せるが眷属共は風の刃に気付いてそちらを振り向いた時には塵と化していた。当然ながら直ぐ側にいる俺達はもっと危険だ。


「ちぃ、見境なしかよ………!?」


 大暴れする土蜘蛛の近く、これまでの戦いで生じた抉られ、陥没した地面に潜って俺はそう吐き捨てる。糞、葉山達は大丈夫か?こんな流れ弾で死んだら死んでも死にきれねぇぞ………?


「あらあら、困ったわね。これだけ暴れられたら避難しようもないわ。どうするつもりなのかしら、伴部?」


 焦燥する俺とは対照的に少し間延びした気楽げな声で狐は、ゴリラ様の憑依した白狐は嘯く。嘯いて試すように俺を見やる。不敵な笑みを浮かべる。


「………そちらの霊力も厳しいので?」


 俺の言葉に対してゴリラ様は無言の笑みで返す。是という訳か………。


 俺がそう推測した理由は単純だ。普段のゴリラ様があの蜘蛛糸程度で捕らえられる訳がない。幾ら憑依している立場とは言え、あのような屈辱に甘んじる性格ではない。先程の投石だって態態手で、しかも一度きりなんてゴリラ様らしくなかった。何時もならば尻尾を使わなくても蹴りで地面の岩盤を抉って叩き込むだろう。というかこんな場所に隠れていない筈だ。


(俺のせいだな………)


 ちらり、と白狐の透き通るような腕に出来た薄い傷を一瞥して俺は苦虫を噛む。俺もうろ覚えで掠れているが、自分が何になって、何をしたのか、あやふやであるが記憶はしていた。当然ゴリラ様との熾烈な戦いも……あれがなければもう少し状況はマシであっただろうか?いや、そうでなくてもゴリラ様の憑依する身体は………。


「ジロジロと横目に、嫌らしいわね?安心しなさいな。私だってこの身体には多少は配慮はしてやっているつもりよ?筋肉痛はあるでしょうけれど、無茶な動きはさせていないわよ。それとも、この怪我に文句があるのかしら?」


 そういって葵は俺の爪がつけた薄い切り傷を見せつける。


「……いえ、姫様には随分とご迷惑をおかけしたと思いまして。その怪我については自分の責任ですので、お気になさらずご放念ください」


 理性が蒸発していたとはいえ、自分のやった事である。ゴリラ様が俺の動きを封じるのに敢えて攻撃を受けたのは仕方がない事だ。文句なぞ言えない。言える筋合いではない。寧ろ謝意を伝えるべきな程だ。


「ご迷惑をおかけしました、申し訳御座いません。有り難う御座います。大変助かりました」


 俺は手短に謝意を伝える。まぁ、最悪見捨てられていても可笑しくなかったのだ。一応助けようとしてくれた事には感謝するべきであろう。


「…………そう」


 何処か不快そうに視線を逸らしてゴリラ様は言い捨てる。


(照れ隠し……だといいんだけどなぁ。原作では照れ隠しする程可愛げのある奴じゃないからなぁ)

 

 ゴリラ様の反応がどのような意味合いかあるのか分からず、僅かに困惑していた俺は、しかし直ぐ側に風の刃が通り過ぎて地面が抉れた事で直ぐにそんな事をしている場合ではない事を思い出す。そして塹壕戦のように穴の中に身を隠して意見する。


「姫様、支援を御願いしても宜しいでしょうか?」

「あら、勝ち目があるのかしら?残念ながら私の扇子でも砕けてしまったのだけれど、貴方の武器に効果のあるものがあるのかしら?」

「これでしたらどうにか………」


 分かっているだろうに敢えて尋ねるゴリラ様に、その期待に応えて俺は短刀を見せつける。ゴリラ様から頂戴した呪いを幾重にもかけられた桜の紋章の刻まれた短刀である。


「けど、それでも貫き切れなかったのでしょう?もう一回やれば行けるとでも?」

「一度目の攻撃の際に亀裂を見つけました」


 俺の返答に怪訝な表情を浮かべる葵。


「亀裂………?」

「何か強力な呪いを掛けた武器によるものでしょう。小さいですが再生しない類いの傷のようでした」

「そこを狙うと?短刀一つで?それで止めを刺せると?」

「無論、警戒されるでしょう。この短刀も相当に呪いが練られている一級品ですが、流石に二度目となれば警戒される事でしょう。ですので、姫様には今少し御協力を御願い致します」

「……あれを使うつもり?」


 ゴリラ様はちらり、と俺が利用しようと企んでいたそれを察して覗きこむ。俺は小さく頷く。


「俺が隙を作るのでその隙にあれを。あれで止めを刺せれば良いですが駄目ならば短刀で、それが失敗したら………まぁ、その時は終わりですね」


 まぁ、どの道このままでは遅かれ早かれ死ぬ。少なくとも俺は許されまい。例えこの場を切り抜けたとしても、あの蜘蛛は俺をいつか八つ裂きにするだろう。ここまでの経過で俺には恨み骨髄だろうから。残念ながら妖も神も執念深くねちっこい存在なのだ。


 ならばやるしかない。下手すれば俺どころか家族にまで被害が及ぶ。いや、力を取り戻せば絶対に血族単位で奴は俺を呪う筈だ。ならば、その前に仕留めるしかない。今仕留めるしかない。


 まぁ、命を天秤にかけて戦うなんざいつもの事、平常運転だ。勝機があるだけマシだ。素晴らしいね。


「………あらあら、そんなにその短刀を信頼してくれるなんてびっくりだわね?正直驚いたわよ?」

「下人程度には分を越えたものを頂いたとは理解しておりますよ」


 ころころと笑う姫様に向けて俺は淡々と事実を答える。礼を言うのは癪ではあるが良いものを受け取ったのは事実だ。無理難題ばかり気まぐれに押し付けられる手前、色々言いたい事はあるがそれはそれとして恩義には報いねばならないだろう。悲しいかな、身分があるこの世界では見返りがあるだけ有情なのだ。


「気にする事はないわ。その短刀に相応しい、あるいはそれ以上の存在になれば良いだけの事よ。まぁ、前祝いとでも思っておきなさいな」


 さて、と………葵は穴の中から窺う。愉快げに、窺う。


「そろそろあれも頭に昇った血が醒めて来た頃ね。私達を探し始めているわ」


 その言葉と共に俺はそれを感じ取った。幻術であった。それを発動する事自体をも偽装して隠蔽した幻術による隠行………技巧の極致とも言うべきそれを、残り僅かな霊力を使って葵が使用したのだ。土蜘蛛の索敵を逃れるためであろう。


「この身体、やっぱり幻術の類いは得意のようね。思いの外低消費で隠行出来たわ」


 恐らくは都を守護する第一線の退魔士や凶妖ですら一時的に誤魔化し切れるだけの幻術を悠然とやって見せて嘯く葵。いや、その額からは一筋の汗が流れていた。その物言い程に決して気軽に術を発動出来た訳ではないのだろう。


(相変わらず強がりな事で………)


 甦る記憶は彼女に初めて仕えた時の記憶、あの命懸けの任務の記憶………それを思い起こして俺は渋い表情を作る。そして直ぐに眼前の大蜘蛛を見据えた。過去を追憶する余裕はなかった。


「代案も思い至らないし、乗ってあげるわ。流石にあれをこのまま放置は出来ないものねぇ。今は兎も角、力を取り戻して現実改変まで仕出かして来られたら厄介よ。古臭い化石にはここいらでご退場願いしましょう?」


 口元を袖口で隠しながらゴリラ様は宣う。楽しげに、期待するように、値踏みするように此方を覗く。


「………御期待に添えるよう、努力致しましょう」


 そも、そうする以外に俺に選択肢はないのだがね………?


 




ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『何処だ!!何処にいるぅ!!忌々しい鼠共めがぁ!!!!』


 痛みからどうにか立ち直った蜘蛛は叫ぶ。咆哮する。その潰れた目玉から緑色の体液を垂れ流しながら怒り狂う。


 屈辱でしかなかった。たかが人間共に自身が、不完全とは言え神性すら取り戻しつつある自分がこうも翻弄される事が屈辱以外の何物でもなかったのだ。


『何処だ!!出てこい!!出ろぉ!!!!』


 罵倒と共に蜘蛛脚を振るう。地割れのような轟音と共に周囲の岩壁や岩柱を砕き、地面を抉る。嵐であった。土蜘蛛の巻き起こす破壊の嵐。


『はぁ、はぁ、はぁ………ちぃ、何処に隠れたぁ?』


 一頻りに暴れ終えた蜘蛛は周囲を窺う。このまま暴れても小賢しい猿共を炙り出せないと理解したのだろう。そして冷静になれば状況も理解し始める。


(ぐおっ………おのれ、おのれがぁ!!糞、糞糞糞!!奴ら一人残らず……だが時間が、時間がないぃぃ………!!)


 巣穴に張り巡らせた蜘蛛の巣、蜘蛛糸からの震動で土蜘蛛は最早時間がない事に気付いていた。地上の人間共がもう直ぐ近くにまで迫って来ていた。このまま時間を経れば土蜘蛛は逃げる時間すらないだろう。未だ神力は一部しか戻っていない以上、無理は出来なかった。


『ちいぃぃぃぃぃ!!!!是非もないわ!!』


 土蜘蛛は跳ねる。敢えて礫を周囲に撒き散らすように飛び跳ねる。自身の隙を狙って隠れ潜む人間共の動きを封じるためであった。そして、そのまま真っ直ぐそれを目指す。


『こんな所で、こんな所で何も出来ずに死ねるものかっ!!!!』


 そして土蜘蛛は凄まじい速さで地面を蹴りあげて、一瞬にして岩陰に隠れていたその少年に肉薄する。そして捕らえる。その蜘蛛脚で元稚子の少年を捕らえる。


『貴様らの名と顔はしかと覚えた!!怯えながら待っているが良い!!近い内に貴様らを、その一族郎党纏めて皆殺しに、呪い殺してくれるわ………!!』


 おぞましい声音でそう叫びつつ、蜘蛛はその場から立ち去る。逃げ去ろうとする。苦渋の決断であった。元より死は恐れていない。しかし無駄死にはご免であった。鵺がもうこの場にいない以上巣穴ごと人間共を道連れにする事は不可能で、地上の人間共がここまで来るのもまた時間の問題であった。


 このままでは自分は一矢報いる事すら叶わず、数に任せて攻め寄せる人間共になぶり殺される事になるだろう。強大な怪物として討たれるならば兎も角、そんな害虫駆除のように始末されるなぞ土蜘蛛には許せなかった。故に、逃げる。逃走する。恥も外聞もかなぐり捨て、逃げる。これまでそうして来たように。


 幸い、何も戦利品がなかった訳ではない。舞一つで、それも自らに向けられた訳でもないそれで自身の神力をここまで復活させる稚子の少年……それは妖や元神格にとっては喉から手が出る程に欲しい存在であった。逃げ延びて、この少年を利用して嘗ての力を取り戻す。最盛期の力を取り戻す。さすればあのような人間共なぞ………!!


 それは正に戦略的撤退であった。人間共からは嘲笑われるかも知れないが、決して無様ではない………土蜘蛛はそう思ったし、その理論は決して間違ってはいなかった。


『くくく!覚えていろ、矮小な猿共め!!こいつさえこの餓鬼さえ確保していれば私は……私は………!!』


 捕らえた少年を一瞥しながら蜘蛛は笑う。勝ち誇ったかのように笑う。来るべき復讐の時を思って笑う。先ずはあの忌々しい地母神の血が流れるあの男からだ、奴も、その周囲も、家族も纏めて皆殺しにして、食い殺してやる。そして奴自身も……あの気狂いの血が入っているとなると気持ち悪いが、それでも肉質としては素晴らしいだろう。きっと己がより高みに上りつめる上で役立とう………土蜘蛛はほくそ笑んだ。凄惨に、ほくそ笑んだ。


 そして、高笑いしながら蜘蛛はその違和感に気付いた。捕らえた人間を見て、気付いた。はて、人間の餓鬼とはこんなに軽いものであったか?いや、それ以上に……何故こいつは抵抗の一つもせず大人しく捕まっている?


『………?』


 ふと、抱いた疑問に蜘蛛は眼球の幾つかを捕らえた少年に向ける。そして視認した。抱き抱えられるように捕らえられた少年のその口元が歪んだ事を。そして、少年の口から言葉が紡がれる。





「……そうですか。ちゃんと私はあの稚子に見えているのですね?」





『なっ……!?』


 異様な程に良く響いたのは少年ではなくて少女の声であった。同時にポン!という間の抜けた音と共に土蜘蛛の抱えていた少年の姿は白煙の中に消える。そして白煙の中から現れるのは小さな一羽の式神の小鳥であった。蜂鳥の式神……その光景に愕然として驚愕する蜘蛛は、直後に悲鳴を上げる。一つ潰されて、残り七つとなっていた目玉の一つを肉薄してきた蜂鳥の嘴に突かれてしまったからだ。


『ぎゃっ……!?』


 痛みの余りに咄嗟に暴れて、蜂鳥を叩き潰そうとして八本の脚を振るう土蜘蛛。だが小柄で小回りの利く蜂鳥はその振るわれる蜘蛛脚の隙間から悠々と擦り抜けて、退避して見せた。


『お、おのれ………!!?ゔお゙っ゙!?』


 未だに怒りに震えて残る六つの眼球で蜂鳥を睨み付ける土蜘蛛は、身体の向きを変えようとして………横転した。理由は単純である。脚を引っ掛けたのだ。


『なぁっ!?』


 横転して横腹から地面に突っ込んだ土蜘蛛は今更にそれに気付く。丁度土蜘蛛の足下に引っ掛かるように、土蜘蛛の視線からは見えぬ高さで張られていた糸、それは土蜘蛛自身が吐き出した蜘蛛糸であった。硬質性の、下手な刀で切ろうとすれば逆に切断されるような鋭く鋭利な蜘蛛糸、それは土蜘蛛の脚を切り落とす事は叶わなくても、その重量の衝撃に耐えて、その脚を引っ掛け掬うには十分なだけの硬度を備えていたのだ。


 そして………目玉を潰された事で出来た死角からそれは襲いかかる。


『クエェェェ!!!!』


 鉤爪を立てて、神鷹は蜘蛛に飛び掛かった。蜘蛛の外殻の隙間に嘴を突っ込み、その脚の一本を引き千切る。


『グア゙ァ゙ッ!!?こ、このくたばり損ないがっ………!!?』


 その身体構造上、自らの頭上を取られた土蜘蛛は押し潰されるように身を屈める事になる。どうしようもない。蜘蛛脚は兎も角、その顎で毒針や蜘蛛糸を吐こうにも土蜘蛛の首では頭上の颯天にそれを浴びせる事は出来ないのだ。そして念には念を入れるように颯天の爪は土蜘蛛の頭を地面に押し込む。まるで頭を下げるような体勢にさせられて屈辱の余り土蜘蛛は怒り狂う。怒り狂って暴れる。


『クエェェェェェェ!!!!』


 颯天もまたボロボロの身体で怒るように鳴きながら土蜘蛛の頭上から離れようとしない。主人からの命令に今度こそ応えようと意地になって土蜘蛛を取り押さえる。全身の傷口から噴き出す流血を無視して、蜘蛛に引っ掻かれて出来る新たな傷を無視して。


『この、この無礼者があぁぁぁぁ!!!!っ!!?』


 のし掛かる猿に屈服した神鷹を罵倒しながら悶える蜘蛛は次の瞬間、一瞬だけその動きを止める。未だ潰れずに残る目玉が怪しく光りそれを凝視する。俺を凝視する。


「それじゃあ、そろそろ幕引きにしようじゃねえか。俺も、これ以上は超過勤務なんでね………!!」


 そして此処までの状況を隠れながら見ていた俺は、短刀を構えて蜘蛛に肉薄した。そして………次の瞬間の事である。


「へっ……?」


 吹き飛ばされた神鷹が眼前に迫って来ていた………。


 






ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 短刀を構えた黒衣の男………それを視認した時、瞬間的に土蜘蛛に芽生えた感情は激しい憤怒であった。怒りであった。殺意であった。


 嘗て北土にて最有力の力を持つ神柱であった土蜘蛛は、央土より攻め寄せた扶桑国の朝廷にその支配する土地を、霊脈を追われて以来幾度となく朝廷に戦いを仕掛けた。戦いを仕掛け、その度に無様に敗北して逃げ失せた。


 逃げ失せる度に力を失い、その神としての権能を失い、神気を失っていった土蜘蛛であるがしかし、それでも尚人妖大乱が終結した時点でこの神は半ば妖となりつつも確かに神であったのだ。


 従える幾千もの眷属は皆その加護の下にあり、その力は一息で街一つを病で覆い尽くす事が出来、その拠点は神の権能によって異界化していた。土蜘蛛の巣穴においては土蜘蛛の摂理が何よりも優先した。狡猾なる蜘蛛の前に朝廷は多くの軍団を、多くの退魔士を失って来たのは間違いなく事実なのだ。数多いた凶妖共の中で四凶の一角として恐れられたのは伊達ではない。


 寧ろ稚子の舞を受けて神気に目覚めた今ですら、最盛期に比べればその力は一割にも満たない。ましてや、それ以前ともなれば………地上にて多くの退魔士より危険な凶妖として扱われようとも荒ぶる神としては恐れられず、ましてやあの土蜘蛛だと断定されなかったのはそれだけこの神が唯の怪物へと零落していたからに他ならない。


 そして土蜘蛛はその原因を理解している。嫌な程に理解している。半世紀前、神としてはほんのこの前と言える程の過去にそれは起きた。それを引き起こした男に出会した。


 自らの巣穴の場所を探られぬために、そして霊脈の力を掠め取るために、土蜘蛛は眷属共を使って地下を掘り進め、北土各所の霊脈を巡り、時として他の妖や人も食らって来た。そしてある日、かつて北土最高の霊脈の主にして、それを追われた怪物が隠れ住むその霊山に足を踏み入れた。そこは人間共の支配下にない北土の霊脈としては最も良質な地であったのだ。その地の力を摘まみ食いして嘗ての力を多少なりとも回復させようと思っていた………そして土蜘蛛はその力の多くを消耗した。


 狡猾な罠であった。霊山に生け贄の如くさ迷う二人の人間、女の子供とそれに従う黒衣の男……幼い退魔士と下人というよく有る組み合わせ。格好の獲物。同じような者達ならばこれまでも幾度も食い殺して糧としてきた。そして同じように土蜘蛛は彼らを襲い、足を掬われた。


 まるで事前に襲われる事を知っていたかのように用心深く、念入りな準備をしていた男の前に土蜘蛛は雑魚に過ぎない人間の捕食に手間取り、逃がすまいと追う内に霊山を住み処としていた同じ神格を持つ怪物と鉢合わせした。否、鉢合わせさせられたのだと土蜘蛛は確信していた。


 当然のように出会した神格級の怪物二体は相争う事となる。結局引き分けたこの戦いの結果、土蜘蛛はその神力の大半を喪失する事になる。挙げ句、そこにあの男の駄目押しの短刀の一突きである。幸運な事に外殻に止められ中枢神経に届かなかった刃………しかし、あるいはあの一撃は単なる行き掛けの駄賃ではなく本気で土蜘蛛を殺そうとして果たせなかっただけなのではないか………?短刀に宿る強力な呪いのせいか、幾ら脱皮しても残る頭蓋の亀裂。傷跡…………。


 ………逆鱗という単語は元来、龍の身体に生えた逆向きの鱗を指す。伝承によればそれに触れればどんな慈悲深く温厚な龍でも怒り狂いその者を殺すという。同時にその鱗は龍の弱点でもあり、一刺ししただけでその龍は息絶えるのだとか。


 真偽は兎も角、土蜘蛛の頭部にあったその亀裂は、龍にとっての逆鱗と似たようなものであった。その色合いと亀裂の小ささ故に気付くのは困難を伴うが、確かにその傷は土蜘蛛の逆鱗であった。今一度その亀裂を名のある武器で突き刺されれば間違いなく土蜘蛛の脳は破壊されるだろう。


 忌まわしい記憶、屈辱の記憶、無力と考え高を括っていた人間相手に嵌められた汚辱……同じような風貌で、同じような年頃の男に同じように罠に掛けられた土蜘蛛は直後、あの人間と眼前の人間を同一視した。そして………キレた。


『グエッ!?』


 火事場の馬鹿力とでも言おうか。正しく逆鱗に触れたと言おうか。自身でも驚くような力でもって、土蜘蛛は颯天の拘束から脱していた。そしてそのまま愚かしい神鷹を持ち上げて、件の下人目掛けて投げつけていた。


「嘘だろ、おい!?」


 驚愕と共に響く絶叫に蜘蛛は一瞬ほくそ笑む。鳴り響く轟音と共に地面に突っ込んだ神鷹。舞い飛ぶ粉塵。さて、件の人間はどうなった? 沈黙が続く、潰れたか?


『そんな訳ないよなぁ………!!』


 直後、土蜘蛛は振り向いた。殆んど反射的に振り向いていた。気配を感じた訳でもない。理由があった訳でもない。考えれば分かる事だ。非力なあの人間が正面から来ない、ならば来るのは死角からのみなのだから!!


「ちぃ……!!?」


 土蜘蛛の吐き出した蜘蛛糸を身を捻るようにして回避した下人は、体勢を崩しつつも尚も肉薄する。短刀を手にして肉薄する。その狙いが何か、言うまでもない。


『そう何度も同じ手が通用するか……!!』


 地面スレスレを払うようにして振るわれた蜘蛛脚。人間はそれを跳躍して避ける。跳躍する以外に避けようもないのだから。そしてそれこそが蜘蛛の狙いである。宙に飛んでしまえば次の回避は出来ない。少なくともこの人間には空気を蹴りあげるような所業なぞ出来ない。


『はは、死ね!!』


 上方から振るわれる蜘蛛脚、しかしそれを許さぬ者もいる。


「伴部!!」

「伴部さん!!」


 同じように身を隠していた胡蝶と葉山が救援として飛び出す。しかしそれも土蜘蛛は首を向けて蜘蛛糸を吐き出して阻止する。膜のように薄く広く、しかして粘着性の糸は、相手を拘束するためというよりも僅かな時間を稼ぐためであった。兎も角も蜘蛛はあの人間だけは殺さずにはいられなかった。


『世話が焼けますね……!!』


 下人を守るようにして飛び出すのは蜂鳥の式神であった。所詮は簡易式、鎧袖一触の内に蜂鳥は振るわれる蜘蛛脚で消し炭となる。しかしそれで良い。


 小さな火玉と爆発音が生じた。松重牡丹が自身の式神に装備していた自爆能力である。圧縮した爆薬を術式で引火、更にその威力を増幅させたそれは元来は監視相手を必要に応じて殺害、または自殺の要求を幇助するためのものであったのだが、この場においては寧ろ監視相手の命を救った。


 爆発は振るい落とされる蜘蛛脚の速度を殺し、その軌道を僅かに変えた。吹き飛ばされる下人は、しかし片腕の骨が砕けたものの致命傷を免れる。無論、それだけの事であったが。跳ねながら吹き飛ばされた俺の元に土蜘蛛はある種妄執的に迫る。


『鬼ごっこは終わりだぞ、猿めが』


 勝ち誇ったようにあの忌まわしい男の面影のある下人を見下ろす土蜘蛛。感情の起伏の分からぬ筈の無機質な蜘蛛の面は、しかしある種嫌な程に分かりやすくニヤけていた。


『全く手間取らせよってからに。貴様、只で死ねると思うなよ? 他に隠れている輩共への見せしめに苦しめて殺してやるわ!!』


 そう吐き捨てる嗜虐的で、残酷な蜘蛛の笑み………。正に絶体絶命と言えよう。………この場面だけを見ればであったが。


『………?』


 痛みに顔を歪ませた下人が、しかし確かにほくそ笑んだ事に土蜘蛛は怪訝な表情を浮かべる。第六感とも言うべき感覚で不穏な気配を感じたのかも知れない。しかし、全てが遅い。


「あぁ。鬼ごっこは終わりさ。だから次は………そうだな、火遊びとでも言おうかな?」

『っ!?この気配は………!?』


 幻術と、件の下人への怒りから気付けなかったのだろう。漸く土蜘蛛はそれに気付く。そこを振り向く。自身が長い時間をかけて霊脈の力を溜め込んで作り上げたその濃厚な霊力を放つ翡翠の柱に。その傍らに人影が一つ………。


「あら、見つかっちゃったわね」


 冷笑する白狐、そして次の瞬間幻術を解除する。そして晒け出されるのは宙に浮かび上がる複雑怪奇な術式であった。溜め込まれた霊力それ自体を利用した大規模術式。本来ならば数十人の術者を必要としたそれを、自らの才能と溜め込まれた霊気を利用して編み出した。それもこの短時間に。その目標は、言うまでもない。


『まさか………!?』

「焼け死ね、化物……!!」


 驚愕する蜘蛛に俺は吐き捨てる。その一瞬後の事であった。洞窟全体を包み込むような巨大な光が、一人と一体を呑み込んだ………。






ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 霊脈、土地の力、大地の力そのものを燃料とした破壊の濁流は土蜘蛛を呑み込み、その背後の空間まで文字通り消滅させた。大質量の岩盤を蒸発させて、一部は硝子化すらしていた。


 幸運というべきか、葵はその技巧を駆使したお陰で力の奔流を綿密に、緻密に、そして精密に計算して制御していた。そうでなければ無遠慮に吐き出された霊力の濁流はこの地下空間を崩壊させていたし、そうでなくても発生した熱量が空間内の酸素を燃焼させてその場にいた人間を酸欠にさせたか、あるいはその肺を焼いていただろう。


「追加で言えば、俺の場合は盾があったからな」


 地面に倒れこんだ俺は眼前の存在を見ながら宣う。避ける暇もなく光線を受けたそれ自体が、俺にとっては何よりも信頼出来る盾となった。耐えられなければ俺も死ぬがそれより先に奴が死ぬ。そして、あの光を防ぐ間俺にあれこれする余裕なぞ到底奴にはなかったのだ。


『がっ!?ぎっ………!!?』


 そしてその件の盾、光に直撃され呑み込まれた土蜘蛛はしかし……俺の眼前で尚も生きていた。


 恐るべき生命力と言えた。決して多くはない神気を放出して作り上げたある種の防壁、その権能によって土蜘蛛は生き残った。その外殻は相当焼けていたが、尚もその下の肉は無事であった。無事であったが………それだけの事であった。折角回復した神力は限りなく払底してしまった。


『がっ……ががっ!? 馬鹿、な。そんな、こんな馬鹿な事、が………!!?』


 殆んど丸焼きになった蜘蛛は譫言のように呟く。全身から肉の焼ける臭いを放ち、蒸気を放ちながら呟く。それは未だに自身の状況を認められないと言わんばかりであった。


「はは、良い様だな………」


 骨の砕けた腕を押さえながら俺は呟く。すると、ギロリと潰れたり焼け爛れたりして半分にまで数を減らした目玉が一斉に俺を睨み付けた。


『貴様、何故………!? いや、おのれぇ………そういう事かぁ………!!』


 一瞬の驚愕と疑念は、直ぐに怨念に変わる。自身を盾にされたのが相当屈辱であったらしい。しかしそれだけだ。表面が炭化したせいか、まともに動く事すら出来ぬ蜘蛛はただただ恨み節を吐き出すのみであった。それ以外何も出来なかった。そして全身の激痛に苦悶する。


『おのれ……おのれぇ!! ぐぐぐ……!!』


 炭化した外殻のせいで身体を丸める事すら出来ぬ土蜘蛛は痛みに耐える事しか出来ない。いや、耐える事すら許されない。怪物のような、それでいて何処か少女のような声音で暫し苦しむ蜘蛛は、そして俺を見つめて心底不本意そうに命じる。


『うぐっ……!! ぐっ、もう良い、殺すが良い……殺せ、殺してくれ………殺せぇ……!!』


 半分程泣き崩れるように死を要望する。介錯を要求する。蜘蛛の要求は続く。


『こんな所で……!! だが、このまま駆除されるのはもっと御免だ。奴ら、あの地上の奴らに塵虫の如く殺されるなぞそんな事………死ぬだけなら兎も角、そんな屈辱なぞ認められんわ………!!』


 目を見開くように飛び出させて、震える声で、そして嫌悪感と怒りを剥き出しにして蜘蛛は宣う。宣って、そして再び俺を凝視する。


『貴様がごとき惰弱な猿に殺されるなぞ不本意の極みだが………それでも奴らに殺されるよりは幾分マシだ。だからな? 頼む、殺せ。殺してくれぇ………!!』


 蜘蛛の言葉は途中から哀願になっていた。蜘蛛の知る限りの言葉で俺に最後の止めを刺すように頼み込む。


「…………」


 余りの浅ましく、惨めな懇願に俺はこれ以上見ていられなかった。不快感すら覗かせて、俺は短刀を取る。そして反撃を警戒しつつも蜘蛛に近付く。


『………そうだ。その短刀で突き刺すが良い、人間。今時神殺しなぞそうそう体験出来るものではないぞ? 子々孫々まで誇れる偉業だぞ?』

「そうだな、子々孫々まで呪われそうだな。そんな危険を犯すとでも?」


 それこそこの世界には実際に神殺しした結果子々孫々まで呪われている一族が幾つもあるのが現実だ。


 神というものは不遜で身勝手で執念深い。禍神の類いが掛けて来る呪いなんて特に粘着質な癖に動機が不純だったり理不尽だ。まぁ、前世における古代神話のそれ同様、神々の多くが元は災害や疫病の擬人化なのだから当然と言えば当然なのだが……前世の作り物なら兎も角、この世界の神族は本当に人格があるので手に負えない。そりゃあ朝廷も土地神を封印して豊作のための永久機関として強制的に搾るわな。生け贄や供物捧げても見返りくれるかは相手の気分次第だ。そうでなくても何処ぞの妖母様のような理解不能なイカれた思考回路をしている連中だっている。


 俺の不安に対して土蜘蛛は不快感を示すように低く唸る。そして答える。


『はっ、そんな有象無象の神共と同じにしてくれるな。唯人の分際で我を此処まで追い込んで見せたのだ、賛辞こそすれ恨みはしまい。我とてそこまで狭量ではないわ………!!』


 俺を招き寄せて、自嘲するように蜘蛛は宣う。そして自らを葬る事の名誉を誇る。そして痛みに苦しむように身体を震わせた。ひび割れた外殻から体液が染み出していた。人間で言えば全身丸焼きで爛れた状態なのだろう。蜘蛛が無言の内に、再度懇願するように此方を見つめる。その視線に舌打ちすると、俺は更に蜘蛛に接近する。


『頼む……一撃で楽にしてくれ。もう疲れた』

「知るか。さっさと死ね」


 そして、淡々と俺は義務的に短刀を振り上げる。


 ………何はともあれ、こんな厄介な怪物が罷り間違って生き残ってしまったら目も当てられない。そして朝廷や討伐隊に動員されている幾つかの家の中にはこのままこの化物を殺さずに貴重な実験体として生け捕りにしかねない。こんな世界である。妙な実験していたら復活なり強化なりされて手に終えなくなるなんて事になりかねない。ならば俺が確実に仕留めた方が良いだろう。


(化物が死ぬのは構わないが……不必要に苦しめる必要もねぇ、か)


 例え悪行を重ね、災厄を振り撒いて来たような害虫だろうが、命を弄ばれる必要までは、ない筈だ。少なくとも俺はそう思った。だから……そのまま俺は短刀を振り下ろした。そして短刀の刃先が蜘蛛の焼け爛れた頭にある亀裂に吸い込まれていく。その刹那、その悲鳴を俺は聴いた。

 

「おいっ、止めろ!! それは罠だっ!!」


 その悲鳴に近い声に俺は思わず視線を動かして、それを見つけた。驚愕して此方に駆け出すその幼い少年を見た。恐怖と絶望に震えるその顔を見た。まるで恐ろしい何かを見ているような表情………!!


「っ!?」


 そして俺もまた次の瞬間、正気に戻っていた。同時に今更のように己の行動に驚愕する。驚愕しながら視線を戻す。 


 蜘蛛は笑っていた。焼け爛れた顔で嗤っていた。嗤って、宣言した。

 

『くくくく、呪わんだと? 何故人外の言葉なぞを信用した?猿め』


 蜘蛛は心底愉快げに嘲った。勝ち誇った。そして確信した。自身がいつの間にか言霊術の術中に嵌まっていた事に。それは恐らくは残る自身の内の神力を動員して紡いだ言の葉の呪い、思考の誘導……!!


「不味っ……!!?」


 気付いた時には全てが遅かった。全ては間に合わない。俺が腕を止めるその前に短刀の切っ先は蜘蛛の頭蓋の亀裂に向けて突き刺さっていた。そして…………。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る