第三〇話

「ギッ、ギギギッ……!!」

「シャアアアァァァァァ!!!」


 迷宮のように広がる地下水道……そこを埋め尽くさんばかりの妖の大群は、相対するのが唯人であれば碌に抵抗も許されずにそのまま食い散らかされていただろう。妖母の統制から外れた人理の外の存在共は迷い込んだ人間……それも霊力が高い女という極上の獲物に殺到する。


 ……その力量差すら理解出来ずに。


「失せなさい、羽虫共」


 その言葉だけで十分だった。次の瞬間には次々とその肉体を引き裂かれ、吹き飛ばされ、肉片に変えられていく化物の群れ。女は無人の荒野を進むかのように妖共を手に持つ扇だけで蹴散らして進んでいく。


 それは最早一方的な虐殺だった。現在進行形で化物を殺戮していく女の表情には何の感情も見出だせない。まだ幼さを残しつつも妖艶な雰囲気も感じ取らせる桃色の少女は、しかし無数の命を奪いながらもその事に殆んど興味も関心もなく、冷たさだけを見る者に与えていた。


 いや、それは違う……女の直ぐ後ろをてくてくと、あるいはそわそわと付いていく狐の半妖は自身の主人の胸の内にあるその激情を困惑しつつも感じ取っていた。


 一人で手鏡を見つめながら何かを楽しんでいた主人……鬼月葵が突然目を見開き、次いで表情を青ざめさせて、最後に愕然とするのとその表情が能面の様になるのとはほぼ同時だった。


 突然立ち上がった彼女はそのまま牛車を降りるとお付きの半妖たる彼女だけを連れて、周囲の制止を無視して、あるいは実力で排除して案内役一人連れずにすたすたとこの地下水道の奥底を突き進んでいった。


 入り組んだ暗い通路を進むその足は淀みがなく、まるで最初からこの地下通路の構造を知っているかのようだった。無論、そんな事はなく実際は数十もの式神による索敵に占術による方角と目標までの距離を把握してのものであったが。


「あ、うぅぅ………」


 白はとてとてと、不安そうな表情で主君の後ろに付き従う。足下には無数に散乱した妖の死骸の山。先程から剣呑な雰囲気の主君もそうであるが、それ以上に彼女は先にこの地下水道に足を踏み入れた彼の身を案ずる。話では大した妖はいないとの事だったが……まさかこれだけの量が潜んでいるにもかかわらず大した事ではないという訳ではないだろう。そうであるとすれば………。


「伴部さん……大丈夫でしょうか?」

「当たり前でしょう?」


 小さく、独り言として呟いたその言葉にドスの利いた、怒りに満ち満ちた女の返答がくるとびくりと白は肩を震わせて、その尻尾と耳が垂れ下がりぷるぷると怯え出す。傍らの主君の殺気すら感じ取れる濃密な霊力の奔流に思わず涙目になってしまう。


 そんな半妖の少女を一瞥した鬼月の次女は顔を一層険しくすると直ぐに前を向き直る。そして呟く。


「そうよ、無事な筈よ。いえ、そうでないといけないの。そうでなければ私が、ええそうよ。十分に可能性はある筈なの。だってそうじゃないの?これだけ雑魚が好き勝手しているのだもの。つまりあの気味の悪い化物が手下共を掌握出来なくなっているって事でしょう?ならきっと彼が、そうよ。それくらい出来なかったら特別じゃないわ。えぇ、その筈なの。絶対に無事よ。あの場にはちゃんと代わりの餌もいたもの。彼は頭は悪くないのだからきっと上手く使った筈よ。そうでなければ彼の今の実力だと……違う、違う違う!そんな事っ!有り得ない!!有り得て良い筈が、ない!!!!」


 ぶつぶつと呪詛のように独り言を呟く葵は、そして最後に吐き出すように怒鳴る、同時に扇を激情に任せて勢い良く一振した。同時に生じるのは嵐だった。無形の刃と化したそれは正面から雪崩れ込んできた糸蚯蚓の濁流を一撃の下に個体一つどころか肉片一つ残さず消し飛ばした。それは莫大な霊力を最高まで効率化した上で放出する事で可能となった大火力による物量の正面からの圧殺である。


「ふふ……ふふふふ……………」


 周辺の脅威を一つ残らず、しかも力尽くで殲滅した葵は不気味に笑った。凄惨で、恐ろしい笑みだった。その激しい情念に彩られた表情は、白からすれは声をかけるどころか直視する事も出来ない程恐ろしかった。しかし………。


「………」


 ちらり、と白は震えるような笑みを浮かべる主君を一瞬だけ覗き見て、下を向き直した。別の印象も感じられるのだ。


 そう。白には葵の表情は、まるで道に迷って迷子になった子供が心細さから必死に親を探しているようにも思えて仕方なかったのだ………。






 飢えていた……そう、『それ』は酷く飢えていた。


 温かな微睡みから覚醒し、その意識を明瞭とさせた『それ』がその身を育んだ揺り籠を突き破り『再誕』して、そして最初に自覚した感覚が飢えであった。『それ』は筆舌し難い、そして言い様のない何かに飢えていた。


 そしてぼやけていた視界……所謂肉眼や眼球というよりも視細胞かピット器官というべきものであったが………がその焦点を合わせて周囲の存在、その色彩と形状を明確に認識出来るようになると、『それ』はまずその存在に興味が惹かれた。


 大広間の壁や柱を隙間なく満たす肉塊に拘束されたその存在は実に脆弱なもののように思われた。再誕したばかりで気だるく、鈍い身体で『それ』はその存在の下に駆け寄り、そして目と鼻の先で観察した。


 その存在には硬い毛もなく、厚い脂肪もなく、強靭な筋肉や外骨格すらないようだった。それこそ些細な事で損傷しそうな脆弱な皮膚しか持たぬその存在は、『それ』の本能が明確に自身の……自分達という存在よりも下等な捕食の対象である事を教えてくれた。自身のその長い舌を頬に這わせればその瞳に恐怖の感情が宿るのが分かった。『それ』は妖らしい残虐で残酷な、加虐的な優越感に満たされる。


 しかし同時に……『それ』は苛立ちを感じていた。目の前の自身に恐怖する格下の生物の向けるその感情に、そしてその存在そのものに。その理由が『それ』には分からなかった。だが、その存在を目にするだけで、言い様のない腹だたしさを、苛立ちを、そして強烈な飢えを感じ取っている事だけは分かっていた。まるで、自身の大切な何かが失われたかのように……。


 だからこそ、『それ』はその喪失感を埋めるために目の前の存在に食らいつこうとした。その顎を限界まで開き、その乱雑に生えた牙を以て頭からその柔らかい肉を引き裂き、頭蓋骨を押し潰し、その中身をしゃぶり尽くす……その存在をその身体に収めれば『それ』は自身の心に欠けた何かが満たされるような錯覚に囚われていた。だから『それ』はその存在を捕食しようとして、しかし………。


「あらあら、駄目よ坊や。その子は食べちゃ駄目ですからね?」


 その言葉は『それ』の肉体を魂の根源から縛った。思考を無理矢理塗り潰される感覚、本能が暴力的に、それでいて優しくその言葉に従うように訴える。それは抗いようのない衝動だった。


『それ』は渋々とその言葉に従う。そして『母』の命令に従い『餌場』へと足を運び、山のように積み上げられた『餌』を貪り始める。


 違う………、『それ』は『餌』を貪りながらそれを確信していた。目の前に積み上げられた『餌』は自身の求めるものではない。確かに肉体の飢えは満たされるだろう。だが……目の前の冷たい『餌』は何かが足りなかった。そこには『それ』の魂が求めるものが欠如していた。


 足りぬ足りぬ……何かが足りぬ。この魂が満たされぬ感覚を、この渇望を満たす何かが、この喪失感を満たす何かがこの『餌』では足りぬ。


 だからこそ、それは好機だった。あの脆弱な存在が『母』を短刀で突き刺した時、その魂と肉体を縛り付ける枷が緩んだのを『それ』は感じ取った。脆弱な存在共が大広間から逃げ出し、『母』は衝撃と悲しみから未だに立ち直っておらず、自分達眷族達を捕らえる魂の軛はその力を失っていた。


 そして『それ』は、その千載一遇の機会を逃す程愚かではなかった。そして、その気配を消して脆弱な者共を追跡し、自らよりも愚かな同胞共が奴らを弱らせるのをひたすら本能を抑えて待ち続けた。そして同胞達が纏めて吹き飛ばされる事でその機会が訪れた時、遂に『それ』は………。





「こ、こいつは……あの時の………!?」


 目の前に現れた化物を凝視して赤穂紫は顔をひきつらせる。この地下水道に足を踏み入れてからおぞましい化物共は幾体も目撃したが、これはとっておきだった。


 あの肉袋を引き裂いて産まれてきた化物は幾つもの生物を混合して作り出されたのだろう。あらゆる生物の特徴があるようで、それでいてそのどれとも違う異形の存在……人の本能に訴える剥き出しの野生の狂暴性が垣間見えるその出で立ちに、紫は一歩後退り、そしてふらつく足が絡まり思わず床に尻餅をついた。


『グルルルルルル………ククククッ!!』


 首を捻り犬のような唸り声を漏らした後、その唇のない剥き出しの口を揺らして喉を鳴らした。残虐さを感じさせる何処か人間を思わせる仕草に紫は殆んど条件反射的に肩を震わせて、嫌悪感に鳥肌を立たせる。


 そんな目の前の雌を一瞥してから、化物はその関心を壁に叩きつけた存在に移す。闇に紛れて脇腹を鋭い尾で突き刺し、壁に叩きつけてやった人間はげほげほと咳き込み、傷口を押さえつつ荒い息を漏らし踞っていた。傷口からは抑え切れず手の隙間からだらだらと真っ赤な血が溢れ出ていて、既に床を広く染め上げていた。


 スタスタ……一歩、二歩と化物は瀕死の男に歩み寄る。その特徴的な舌でボタボタと涎を垂れ流す口元を拭き取るように一舐めする。そして………次の瞬間には妖は勢い良く振り向いてその舌を伸ばして紫が引き抜いた刀の柄を捕らえていた。


「ひっ……!?」


 太く、長く、黒々として、粘液まみれのグロテスクな舌が妖刀を持つ紫の手に強引に絡み付く。その気持ち悪い感触に思わず紫は刀を握り締める力を緩めてしまい、それを狙ったかのように次の瞬間にはするりと妖は紫の刀を奪い取ってそれを地下水道の通路の奥へと投げ捨てていた。


 化物は確かに本能に忠実な獣であったし理性もなかったが、決して知性がない訳でも、愚かでもなかった。この場において最も危険な脅威が何であるかを良く理解していた。だからこそ他の同胞がこの小柄な雌を消耗させるまで待ち続けたし、今のように演技をして油断させて武器を取り上げた。もしあからさまに飛び掛かっていれば咄嗟に引き抜かれたあの刀で胸を突き刺されて相討ちに持ち込まれていただろう。


 ……そうだ、あの刀が危険だという事を妖は理解していた。断片的に脳漿にこびりつく記憶がずっと警鐘を鳴らしていた。遥か遠き日の誰かの記憶が妖刀が、しかもあの一族の手にするそれがどれだけ危険なものなのかを警告していた。だからこそ、油断させた所であの妖刀を奪い取り、無力化させたのだ。


 演技が上手くいった事に妖は口元を吊り上げて嘲りの笑みを浮かべる。口が裂けそうな程に歪み、だらだらと垂れる粘液が床を汚す。目の前の雌は自身に対抗するための武器がない事に絶望に震えていた。


 愚かなものだと妖は思った。一本は妖刀で今一つもそれなりの業物であったとは言え、たった二本の刀にあのような軽装な出で立ちでこの地下水道に足を踏み入れるとは。相当に油断していたに違いない。自分達ですら持ちうる限りの完全武装でここに足を踏み入れていたというのに。


「………?」


 一瞬、化物は自身の思考に疑念を持つ。自分は何を考えていた?何故生まれたばかりでありながら妖刀が危険な存在なのかを知っている?そもそもこの記憶は誰のものだ?


「グルルルルル………!!」


 僅かな困惑は、しかし一瞬後に怒りと苛立ちと衝動に呑み込まれて形を保つ事は無かった。ただ欲望のままに化物は次の瞬間にその自由自在に動く舌を伸ばして目の前の退魔士の少女の腹を殴る。


「かっ……!?げほっ……!!?」


 万全な状態であればまた別であったかも知れない。しかし霊力の大半を消耗し、ましてや碌に防具も装備していない紫にとってその一撃は十分過ぎた。そのまま後ろ向きに倒れこみげほげほと涙目になりながら咳き込む少女。そして次の瞬間には彼女はその影に気付く。しかし既に遅い。


「ひっ………!?」


 前を向いた時にはその怖気が走る化物の顔が至近に鎮座していた。残虐に口元を吊り上げる化物の牙の隙間から滴り落ちる唾液が少女の頬に垂れた。


 粘度が強く、また泡立った独特の臭いを放つ半透明色のそれに自身の白く柔らかい頬を汚された紫は全身に鳥肌が立ち、震え上がる……が、しかし悲鳴を上げる事も出来なかった。今視線を離す事は妖を刺激し、死を招く事を知っていたから。


「あっ……あぁ…………」


 両目に涙を浮かべてふるふると怯える年相応の少女、そこには今日一日で初陣でありながら数百の人外の怪異共を皆殺しにした者の面影は一欠片もなかった。


 化物はその姿に嗜虐的な笑みを浮かべる。そしてその尾で鋭く少女の右腕を突き刺した。


「あっ……あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!?」


 右腕の掌を貫通してその下の床にまで深く突き刺さった尾。少女は生まれて初めて感じる激痛に哀れな程に泣き叫んだ。再度ククククク、と嘲笑うように喉を鳴らす化物。化物は知っていた、この程度の怪我なぞ、退魔士……特にモグリのそれからすれば然程珍しくもない事に、そしてその程度の痛みに悶える者なぞ殆どいない事に。


「ゔ……ぐっ……あっ……いや、な、何を………ひっ!?いや!?」


 化物はその黒々とした鞭のような舌を伸ばす。紫は妖から怪しげな雰囲気を感じ取り、必死にそれを振り払おうとするが、無駄だった。霊力の多くを失った彼女は今やただの一三歳の少女でしかない。


 少女の頬を一撫ですると、そのまま舌はその線が細く、か細い首元に軽く巻き付く。そして、そのその身に纏う衣服の襟元を舌が手のように器用に絡み。掴み取ると………それを一気に引き裂いた。


「ひっ……!?やっ!?やめて!?あ゙あ゙あ゙……!?」


 紫の身に纏う衣服は首元から斜め様に薄い胸元の谷間、臍、左側の脇腹まで一文字に引き千切られていた。白い肌が晒され、その幼い体躯が布地の間から露になる。咄嗟に両手で体を隠そうとして、片手が貫かれているがための激痛に更なる悲鳴を上げる。その泣き叫び様に怪物はカカカ、と更に昆虫のような鳴き声を以て嘲笑する。


「いぎっ、い、いやぁ……やだよぅ……。やめて、おねがい………おねがぃだからぁ………」


 いつの間にか恐怖と絶望と、痛みと羞恥心から泣き腫らして紫は嘆願していた。少女は所詮少女でしかなく、箱入り娘は所詮箱入り娘でしかない。頼れるものもなく、どうしようもなくなった子供からすれば命乞いの言葉を吐くのは余りにも当然の事であったかも知れない。


 ……それがたとえ退魔士からすればみっともない行動であるとしても。


「グルルルルル……!!!」

「ひっ……い…やぁ……やめて…なにをする……ひゃう………っ!?」


 だが、当然ながらそんな命乞いなど妖相手には無駄であった。だらだらと顎から粘液が少女の腹部の滴り落ちる。伸縮自在の舌はするりと少女の下半身に伸びて、その太股をなぞった。得体の知れぬ恐怖と悪寒を感じとる少女。いや、女としての勘が告げていた。目の前の化物が自身をどうしようとしているのかを。


(そうだ、確か、確か御父様は………)


 咄嗟に思い出すのは今よりもずっと小さい頃に聞いた父の言葉である。妖は残虐で、残酷で、暴虐だ。そして身勝手で強欲で貪欲だ。奴らに理性も自制心もない。獣の如くひたすら自らの欲望と感情と本能にのみ忠実なのだ、と。そして多くの妖達にとって何よりも優先すべき欲望は力であり、そのためならば奴らはどんな事でも仕出かして見せる。


 そうだ、特に霊力のある娘なぞ、妖共にとっては最高の存在だ。その肉は唯人のそれよりも遥かに彼らの妖気を増大させ、より高みへと導いてくれるだろう。


 だが、食うのは何時だって出来る。それは最後の最後、使い物にならなくなった時だ。大概の場合それよりも先にその力を定期的に吸い取るために妖達は集団で女に群がっては………!!


「いや……いやいやいやぁ!?たすけてっ!!いや、やめてっ!いやあぁぁぁぁぁ!!?」


 自身に振り掛けるだろう最悪の未来を想像し、必死の形相で紫は来る筈もない助けを呼ぶ。大泣きしながら絶望に打ちひしがれつつ誰に向けてかも分からずにひたすら叫ぶ。叫び続けた。それしか出来なかった。


 妖はそんな惨めな女の姿に優越感を覚えつつ、遂に彼女を征服し、屈服させ、欲望の捌け口とする準備を始めた。太い舌が少女の衣服の隙間に入り込む。そしてその白く柔らかな肌にざらざらとした舌を這わせつつ細い腰を撫で回す。そこから更に小振りな臀部から鼠径部に向けて、遂にはその先端を伸ばして………紫は自身が取り戻し様がない程に汚される姿を幻視して、覚悟して、恐怖に目を強く瞑る。そして……。


「流石にそれ以上はアウトだろうよ………!?」

「えっ………?」


 次の瞬間、紫はその声に目を見開いた。同時に鳴り響くのは化物の悲鳴。そして紫は涙にぼやける視界で、しかしはっきりと見たのだ。妖のその背後から心臓に向けて短刀を突き刺すズタボロの下人の姿を………。





 

 横腹を貫かれた時点で、俺はこの生まれたての糞餓鬼な妖がずっと俺達の隙を狙っていたのだろう事を察していた。故に、俺もまた同じように妖の隙を窺っていたのは当然と言えば当然の事であった。


 化物にとってこの場で最も危険な存在が誰かという事くらい俺でも分かるし、同時に最も妖を惹き付けるのが誰なのかもまた明白だった。


 だからこそ、俺はずっと機会を待っていた。赤穂紫という『餌』を以て、確実に生まれたての化物の赤子を始末するために。幸い、彼女は女であるが故に直ぐに殺される心配がない事は分かっていた。そして、幾等か知恵が回るようだが所詮化物は化物で、その振る舞いからして狡猾であるが同時に尊大な自身が足下を掬われるような事を想像もしていない輩である事を俺は見抜いていた。


 とは言え………!!


「浅いか……っ!?」


 腹の出血の痛みを麻薬入りの丸薬で誤魔化した俺の短刀の一刺しは、しかし俺自身の体力が落ちていたがために完全に化物の心臓を刺し貫く事が出来ていなかった。


 刹那、妖はその尻尾を鞭のように振るった。俺は寸前にその軌道を読み、首を傾ける。首の左側が切り裂かれて赤い血が噴き出した。くっ……こちとら既に貧血寸前だってのによ……!!


「こなくそが……って、ぐおぉっ!?」


 もう一刺ししようと短刀を引き抜いたと同時に俺は焼けるような激痛に叫んだ。短刀を引き抜くと同時に飛び散った妖の黄緑色の体液が俺の右腕を焼いたからだ。どうやらこいつの血液……強酸性らしい。


「グオォォォォォッ!!」


 妖は俺を振り向き様に殴り付けた。同時に俺の短刀を狙ったように叩き投げる。地下水道の奥に転がるゴリラ様謹製の短刀。そしてそのまま俺の首を掴み上げて壁にめり込ませるかのように押し付ける。


「がっ、あぐっ………!?」


 ミシミシと首を締め付けられる俺に向けてその気持ち悪い独特な風貌を近付ける化物。先程迄紫の身体を弄んでいた長い舌が今度は俺の顔面へと迫る。


 そのビジュアルからしてあからさまにエロゲー向けな舌であるが、その実下手すれば人間の頭を貫通しかねない程の発射速度と硬度を兼ね備えた笑えない武器であった。そして妖は先程迄紫で遊んでいるのとは違い、その舌を今度は明確な凶器として活用しようとしていた。


「や、止めなさい化物……!止め……きゃっ!?」


 正しく殺されそうな俺を助けようと、立ち上がろうとした紫はしかし再度その尻尾で叩かれて倒れこむ。グオゥ、と鼻を鳴らしながら妖は紫を一瞥するとそのまま憎悪に満ちた風貌で俺を睨み付ける。首を締める力が強くなった。今にも窒息しそうだった。


「ぐっ……だ、駄目……そんな……逃げて…はぁ、お願い………おねがぃ………」


 衣服を切り裂かれて、傷つけられて、半裸に近い出で立ちで床に崩れ伏す紫は絶望に顔を青ざめさせながら譫言のように呟き続ける。その姿に冷たい視線を向けた後、化物は待ち兼ねたかのようにその口を大きく開いて、俺の頭を丸齧りにしようとする。だが、な……!!


「はは、悪いが……弱肉強食は世の常、だぜ?」


 俺を食い殺そうとした妖は、追い詰められている筈の俺が不敵な笑みを見せた事に疑念を浮かべたように首を捻った。だが、もう遅い……!!


 そして次の瞬間、その殺気に気付いた妖は慌てたように首を向けると共に、横合いから現れた銀色がかった大蛇によってその下半身を丸呑みするかのように噛みつかれる。


 ……いや、違う。それは大蛇ではない。それは無数の小さな刃が合わさり、重なりあって構成された自立した刀であったのだから。


「グオォォォォォッ!!!??」


 妖は刀に噛みつかれ、身体に巻き付かれ、締め付けられると共に全身を切り裂かれて、黄緑色の血液を撒き散らした。


 赤穂家に伝わる妖刀が一口ひとふり、『根切り首削ぎ丸』は一族に伝わる妖刀の中では最も大人しく扱いやすい個体であり、そして……使用者の練度に左右されない異能がその特徴であった。それが正に目の前で妖相手に暴れるその光景、『根切り首削ぎ丸』の「捕食形態」である。


 ………設定によればこの妖刀は元々は唯の刀であったのだと伝わっている。そして性格破綻していた赤穂家初代当主が幾多もの妖共を残虐な迄に執拗に切り続けた結果、この刀は数多の血と憎悪を浴び、無数の呪いを直接的に受け継ぎ、一種の九十九神へと変質したという。いや、この場合はどちらかと言えば妖化だろうか……?


 どちらにしろ、本来ならば長い月日をかけて変質する筈の九十九神化を一代でして見せたのだ。それだけの怨念が篭っていたのは間違いなく、ある日遂に妖刀としての自我に目覚め、主人に対して無数の刃で構成された化物として襲いかかった『根切り首削ぎ丸』は……速攻で主人によって敵意をへし折られて分からせられた。


 その後も幾度となく、時には代替わりの際にいきなり主人に対して反旗を翻した妖刀であるが、その度に人外染みた赤穂家の持ち主によって強制的に分からせられ、最終的には諦めモードになって大人しくなったという。おう、情けねぇな。


 ……とは言え、当の妖刀は一見情けなく思えてもその実、そこらの剣豪や退魔士では到底御せない程の力が間違いなくあった。話だけ聞くと情けなくても、実際その刀としての品質は赤穂家の者達が手荒に扱っても問題ないものであるし、使い手次第では平均的な凶妖であれば斬るのに不足しないだけの切れ味がある。今まさに妖と激突する「捕食形態」にしても、その無数の刃で構成された鱗は不用意に触れれば普通に無数の切り傷が刻まれるし、その身体は強酸性の体液すら意に介さないようであった。恐らく相性にもよるが大妖程度であれば持ち主無しでも勝てるだろう。そう思わせる戦いぶりだった。


「こ、これは………」


 紫は唖然として目の前の光景を見やる。『根切り首削ぎ丸』はその妖気を抑えつけ、御する役割を持つ主人の手元を離れ、尚且つ妖の血を浴びた状況が揃う事でその妖としての意識を目覚めさせる。いつか憎らしい赤穂家一族に報復するために他の妖共を食い殺し、その力を取り込もうする「捕食形態」を、しかし紫は持ち主であるにもかかわらず初めて目にするようだった。


 いや、まぁようは半人前扱いの紫でも抑えつけられる程度の妖刀って事なんだけどね?(一般的な退魔士で抑えられるとは言っていない)


(上手くいったな………)


 涙目になってげほげほと咳き込み、首に出来た締め付け痕に触れながら俺は安堵する。全ては計算通りだった。


 俺も自惚れてはいない。俺の実力程度では準備無しでは小妖数体、最大限の準備をして罠と奇襲で中妖を単独で仕止めるのが限界だ。蛤なり、狐なりを相手にした時だって本当の意味で俺一人だったら呆気なく死んでいた。俺の実力はその程度でしかない。


 そんな俺が霊力の大半を失い、誰の支援もなく、何なら横腹に穴の空いた状態で頭の回る無傷の中妖を仕止める?無理だな。確実に失敗する。試してみる必要もない、結果は明白だ。


 俺が背後から化物を突き刺した最大の目的は血であった。噴き出した血を浴びた短刀を妖に反撃された際に自然な形で妖刀の放り捨てられた方向に向けて投げつけた。後はお分かりの通り、妖の血を浴びた妖刀は自動で相手を捕食してくれる、という寸法だ。……流石に血が強酸性なのは予想外だったが。糞、右腕が痛え……。


「げ、下人……?貴方、腹の傷は………」

「おい案内役!何処に隠れている!?いるのくらいは分かるぞ!?」


 破けた衣服がズレているのにも気付かずに紫が何かを呟くが、俺の方もそれに答える余裕はなかった。いや、マジで横腹穴空いてるから多少はね?……内臓には傷がなくて薬で痛みを誤魔化しているが血が足りなすぎて気持ち悪くなってきたな………。


「へ、へい。流石旦那です。あの化物相手にあんな……」

「お世辞いう暇あったら止血を手伝え!!くっ……へらへら笑って誤魔化さなくても責めやしねぇよ……!!」


 壁に背を預けて、息も絶え絶えに俺は舌打ちする。戦闘の経験なぞ殆んど無かろう案内役に中妖と正面から戦えという程俺も酷な事は言えない。どうせ勇気を振り絞って戦っても数秒持てば良い方だろう。一人で逃げずに横道の陰に隠れていただけなのはマシな方だ。……それはそれとして手当ての補助くらいはしろって話だが。


「はぁ……はぁ……はぁ………どうにか、終わりそう……か?」


 脇腹を布地で押さえ、止血しながら俺は目の前の戦闘を一瞥する。どうやら終局が近づいているようだった。


 妖は悲鳴に似た咆哮を上げる。その一見機械的でもあり、肉感的でもある身体は相応に強靭である筈であるが、既に全身が切り傷にまみれ、血達磨になっていた。身体の下半分を巻き付かれ、拘束され、ミシミシと金属が軋むような音を奏でながら締め付けられる。大蛇を模した妖刀は鬼火のように赤く光る両眼で必死に逃れようとする妖を見下ろす。そしてガバリ、と丸呑みするようにその口を開く。そして………。


「グオォォォォォ!!?」


 必死に暴れる妖の頭に妖刀は噛みついた。ギシギシとグロテスクな破砕音と共に妖の外骨格に皹が入っていく。自身の運命を悟った妖は鬼気迫る形相で一層激しく暴れるものの、地力が違い過ぎるのか、その抵抗は徒労であった。蛇のように少しずつ追い詰められていく妖刀の前に化物が食い殺されるのは時間の問題かのように思われた。


「こ、これで終わり……ですか………?」


 自身の所有していた妖刀が妖を生きたまま貪り食っていくという、目の前の衝撃的な光景に愕然としつつも、紫はどうにか言葉を紡いだ。それは事実を口にしているというよりかはもう終わって欲しいという願望が見え隠れしているように思えた。だが……。


「いや、まだだな………」


 紫の言葉に、俺は小さく呟いていた。確信があった訳ではない。しかし、俺には目の前の狡猾な妖がこれで終わるとは思えなかったし、この世界がこんな甘くない事も、何よりも赤穂紫という人間の運の悪さと詰めの甘さを理解していた。だから………。


「グボオオォォォォォッ……!!!ボッ!?」

「えっ……!?」


 刹那、妖の口から勢い良く紫に向けて吐き出された影は、しかし彼女の元に辿り着く前に勢い良く投擲された短刀によって突き刺されて無残にも失敗する。影にこびりついた半透明色の唾液だけが飛び散って紫の顔に数滴だけに降りかかり、彼女の思考を数秒程停止させた。そして直ぐに状況を理解すると、顔を青ざめさせてゆっくりと俺の方向を振り向いた。


「……はは、まぁ何事も、かも知れないと想定するのが大事だからな?」


 俺は今の投擲で激痛が走った横腹の穴を強く押さえながら独り言のように不敵にそう嘯いていた。嘘っぱちだった。


 何せ俺は知っていただけだからだ。赤穂紫という少女の死に方の一つに妖の口から吐き出された本体に胸を貫かれて即死するというパターンがあったから……。


(……というか、この地下水道での彼女の死亡シーンだけで十種類も用意しているとかやっぱりこのゲームの製作陣、頭可笑しくね?)


 文字通り虫の息状態の俺は天を仰いで深呼吸しながら、ふとそんな場違いな事を考えたのだった………。

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