第二九話

 化物の顔面に短刀を突き刺したと同時に俺の意識は完全に覚醒した。その妖術に当てられた影響か、それとも記憶が混乱しているせいか、強い眩暈と吐き気を感じつつも正気を取り戻した俺は、そのまま短刀を掴む腕に更なる力を込める。刃を、押し込む……!!


「ちぃぃっ………!!」 


 俺は手の中に抱いていた短刀の柄を強引にひねり、そして乱暴に引き抜いた。その衝撃で血が飛び散って俺の顔面に降りかかる。


(痛っ……糞、今少し目に入ったか……!?)


 俺は目尻に先程迄の精神攻撃とは別の意味で涙を浮かべる。流石に少し乱暴に抜き過ぎたか……。とは言え、後悔はしていない。全て必要な事であったから。


 元より俺の持つ短槍よりも遥かに上質なゴリラ様お手製の短刀でも、しかし到底このバグキャラ染みた化物を殺すには不足するのは明らかだった。故に、俺が可能な限り深手を負うように短刀を突き刺したのも化物を殺すためのものではなく時間稼ぎのためのものだった。そう、逃げるための時間稼ぎ………。


「くっ………!!うっ……ぐっ、早くっ……早く切れろ!!」


 胃の嘔吐きを堪えつつ、俺は自由な右手で身体を拘束する肉塊を切り裂いていく。左手が自由になると近場にあった短槍も使い、無理矢理に拘束を解いていく。


「う……うぅ…目が……坊や?坊や、どうして………?」


 喉元に近い胸を、次いで左の眼球に深く、抉るように短刀を突き刺された事で僅かの時間であれ、目の前の化物は無力化されていた。現在進行形で顔の左側を抑え、仰け反り、呻き声を上げる『妖母』。


 一方で周囲の妖共は皆混乱していた。所詮妖は妖であり、その大半が低級な地下水道に住まう生き物を素材として産み出された小妖……知能は低く、『妖母』の統制と命令がなければ組織的に動く事も出来ぬような存在であった。尤も………。


(どうせあの程度の傷直ぐに復活する……!!その前に少しでも逃げねぇと………!!)


 どうにか肉塊の拘束から抜け出した俺は、そのままよたよたと近付いて来る『妖母』も、混乱して暴れる巣の妖達も無視して駆ける。向かう先はこの当然ながらこの醜悪な大広間の出口……ではなくて同じように拘束されて動けずにいる赤穂紫の下であった。


「紫様!!今その拘束をほどきます、御協力を……!!」


 そう叫んで彼女の利き手を捕らえる肉塊に短刀を突き刺して、切り裂いていく。それは決して善意からではない。この場で最大の戦闘能力を持つ彼女無しにこの場から逃げ切れると思える程俺は楽天的ではないし、そもそもこの地下水道から一人で脱出出来ても後々の面倒を思えば得策ではなかった。こういう時、現場にいた一番立場の弱い者が生け贄の羊にされるのはお約束だ。俺が生き残る上で彼女の生存は必須条件だった。問題があるとすれば……。


「紫様!?何をしているのですか!!?しっかりしてください!!」

「えっ……あっ……?は、はい!?」


 必死に彼女の拘束を解きながら俺は呆然とした少女に怒鳴るように尋ねる。舌打ちしなかっただけ我慢した方だろう。……いや、高々十代前半の小娘相手に辛辣なのは分かっているけれどな?とは言え、此方も命がかかっているので甘い態度は取れない。


 一方で、俺の大声にはっと我に返った紫は慌てて腰にかけた刀を引き抜くと自身を拘束する肉塊に突き刺し、切り裂いていく。一度作業に加わった彼女は手持ちの刀で惚れ惚れとする程鮮やかに、テキパキと自身を捕らえる肉塊を解体していく。これで家族の中で一番剣術の才能ないとか嘘だろ?


「さぁ!行きましょう……!!」

「はいっ……ひっ!?」


 どうにか拘束から脱した紫は、次いで俺の声に従い身を乗り出すように立ち上がり……次の瞬間悲鳴を上げる。同時に俺の肩にかかる感触と圧迫感。


「っ……!?」


 咄嗟に短槍と小刀を構えて振り返るとそこにいたのは赤い血を流した片目を手で抑えて、もう片方の腕で俺の肩を掴む『妖母』の姿があった。その身から滲み出る膨大な妖気に当てられて、今更のように思わず俺は恐怖に息を呑む。いや、これは……寧ろ先程まで妖気を抑えていたのか?


「坊…や……?だ、駄目ですよ………?何処かに行っちゃ……私は貴方を………」


 胸元を突き刺され、顔面を切り裂かれてもなおも慈愛と憐憫を含んだ言葉を紡ごうとする化物。しかし、それは阻止される。それは俺の衣服の隙間から突如現れた式神によってであった。


 小さな鳥を模した式神は刹那、煙と共に実体化する。白鷺を模した優美な式神は威嚇するように鳴き声を上げるとそのまま怒り狂ったかのように『妖母』に突撃した。


「何を……きゃっ!?」


 式神の動きは正確であり、最善だった。奇襲的に肉薄した白鷺は次の瞬間にはその鋭い嘴で『妖母』のもう片方の瞳を啄み、抉り、潰していたのだから。


 幾らそこらの安物の形無しでは碌にその身を傷つける事も敵わぬ化物とは言え、流石に眼球までは鋼鉄のように頑丈には出来ていない。故にその選択は最善だった。一時的であれ、両目の視覚を失った『妖母』から逃げ切る難易度は万全の態勢の時のそれとは違い遥かに容易ではあったのたから。


「あの式神は……!?」

「知りませんよっ!!それより早くっ……!!」


 そうだ、あの式神が何処のどいつに使役されているのかはこの際後回しだ。そんな事はどうでも良い。時間稼ぎしてくれているのなら有り難く利用させて貰うだけの事だ。俺は『妖母』の腕を振り払うとそのまま紫の手首を掴み走り出す。


「お、おい待ってくれ!?頼む……!!俺を置いていかないでくれぇ……!!」


 部屋を出ようとした時背後から悲鳴が上がる。振り返れば身体を拘束されて足だけじたばたさせる案内役の生き残りが此方を見て必死に助けを求めていた。


「時間がありません!!あんなもの捨て置きましょう……!!」


 後ろ髪を引っ張られるように足を止める俺に対して紫が叫ぶ。


 実際問題、状況は一刻の猶予もなかった。巧みに式神は一撃離脱を繰り返す事と、無数の卵を背後に置く事で『妖母』の攻撃を回避していたがもうそう持たないだろう事は明らかだった。高位の霊獣でもないただの紙を触媒にした簡易式では『妖母』への嫌がらせは出来てもそれだけだ。その嘴も、爪も、到底堕ちた神格の命を刈り取るには力不足過ぎた。


 同時に周囲では統制が緩んだ妖共が狂乱状態で無秩序に暴れていて、中には共食いを始めるもの共まで出る始末。そしてその意識がいつ此方に向くかも分からない。


 何よりも妖共の暴走でこの地下水道の大広間がかなり揺れていた。何百年も前に崩壊した西方帝国出身の渡来人技師達が作った年代物であろう地下水道で妖共が暴れまわればどうなるか……正直いつ天井か崩落するのか分からず見るだけでも恐ろしかった。


 ましてや助けを求めるのはたかだか案内役である。公家でなければ退魔士縁の者でも、平民ですらない立場の者である。身分制度が根強いこの世界の常識に照らし合わせれば必死に助けを求める男は所詮は「見殺しにしても構わない存在」である。


 故に赤穂紫からすればあのような下賤な存在、この緊急時において態態自分達の命を危険に晒してまで助ける程の存在ではないのだろう。それ故の捨て置けという発言………。 


「っ……!」


 俺は案内役から目を逸らして立ち去ろうとする。紫の言葉をただひたすら傲慢と保身として片付ける事はできなかった。誰だって自身の命は大切だし、場合によってはそのために他者を犠牲にする行動も仕方のない事だ。特にこんな命が軽過ぎる世界では。


 故に赤穂紫の言葉は否定出来ない。だから俺もまた同様に自らの命を優先してこの場から………。


「……とはいかない、よなぁ」


 俺は溜め息を吐くと、不本意ではあったが再度踵を返して助けを求める案内役の下に駆け出す。


「えっ……!?貴方、何を考えて……!!?」

「道案内役は必要でしょう!!?紫様は先に安全な場所まで退避下さい!!式神を使えば後から合流は出来ます!!」


 後戻りする俺に向けて紫は困惑するが、俺は彼女にこの場から距離を取るように叫んでそのまま天井から煉瓦がちらほら落ち始めている大広間を頭を守りながら突き進んでいた。


 当然ながら紫を助けた時同様、その行為は青臭い正義感や義侠心なぞのためではない。もっと合理的で、独善的な理由によるものだった。何せ……。


(案内役の式神がもういないからな……!!)


 ズタボロになりつつも『妖母』相手に小競り合いを続ける、誰が使役しているかも分からぬ白鷺型のそれを除いて、恐らくは今俺の周囲に潜む式神は一体もいないであろう。少なくとも翁の式神がいれば今頃俺の耳元で助言を口にしている筈だ。即ち、最早俺は翁のナビゲーションを期待出来ない訳である。


「となると、代わりの道案内が不可欠だからな……!!」


 俺は案内役の目の前に来ると短刀を引き抜く。


「ああ!!助けてくれるのですかい!?恩に着る!本当に恩に……って、ひぃぃ!?」


 必死に媚を売るように謝意を口にする案内役の腹の辺り、その身体を拘束する肉塊に俺は全力で短刀を突き立てる。呪いをたっぷり重ねがけされているためか柄まで突き刺さる短刀。その突き刺す勢いに案内役は思わず悲鳴を上げたらしい。


「旦那!流石にそんな豪快に突き刺されたら怖過ぎますぜ!?も、もっと優しく慎重に………」

「そんな時間ない!!ちゃんと注意するが少しくらい傷が付くのは諦めろ!餓鬼じゃあるまいし……!!」 


 そう叫んだ俺は豚の丸焼きか、鮪の解体をするような気分で短刀で男を拘束する肉塊を豪快に解体していく。死なれたら困るので注意はしているが、流石に少し刃先が当たるようで俺が突き刺したり、切り取ったりする度に小さな悲鳴を上げる案内役。


「硬いなっ!!なら、これでどうだっ!!?」


 流石に肉塊を切り続けていると脂と粘液で刃が斬れにくくなる。仕方なく最後は案内役の首根っこを掴んで無理矢理に引きずり出した。


「はぁ……はぁ……はぁ助かった!済まねぇ!マジで恩に着る!!有り難う……有り難う……!!」

「感謝はいい!!さっさと逃げるぞ!!くっ!!?」


 いきなり横合いから飛びかかってきた化け鼠の頭を短槍の横刃を振るい下ろしてその頭蓋骨を叩き潰す。しかしそれは前座に過ぎず、次の瞬間には目の前に数体の妖が現れて襲いかかろうとしてきた。慌てて身構える俺。だが、俺の姿勢が整う前に妖共は飛び掛かってきて………。


「失せなさい!雑魚が!!」


 その言葉と共に俺達の横を突風のように過ぎ去る人影。そして横一文字に振るわれた斬撃が化物共を切り裂いて即死させた。赤穂紫は眼前の脅威を排除した後、気の強そうな目付きで俺達の方を振り向く。その荒々しい霊力に俺は思わず瞠目する。


「………な、何をぼさっとしているのですか!?早く逃げますよ……!!」

「えっ?あ……り、了解です!」


 一瞬の沈黙の後、何処かばつの悪そうな表情の紫によって紡がれたその言葉に俺達は慌てて我に返り、跳び跳ねるように駆け出していた。


「案内役!何処でもいい!この近くで地上に繋がる出口はあるか!?」

「へ、へい!一番近い出口ならあの通路から繋がってます……!!」


 案内役の先導に従い俺達は妖共の共食いの合間を抜けて駆け抜ける。案内役、そして紫が大広間の一角にある小さな細道に飛び込むように駆け込む。その後ろを俺が続く。


「こいつで打ち止めか……仕方無いっ!」


 最後に通路を潜る俺は懐に隠していた最後のダイナマイトモドキに微量の霊力を注いでから通路の入口に置き土産の如く捨て去った。残る一つであったが、出し惜しみ出来るような余裕もない。使える時に使ってしまうべきだろう。


「っ……!?」


 そして大広間を立ち去る刹那、俺はその視線を感じて振り向いた。その先にいたのはあの忌々しい化物だった。足下にはズタボロに切り裂かれて実体化が解けつつある式神が倒れ伏す。俺の突き刺した左目はもうほぼ完全に再生しているようで、血の混ざった瞳が此方を見つめていた。


 怒りも憎悪もなく、ただただ愛情と哀れみと悲しみが含まれた情念の視線………、と相手もまた此方の視線に気付いたようで優しく……そう、ひたすらに優しそうに、そして寂しそうな微笑みを浮かべた。そしてその口を動かして何かを口にする。


「ふふふ、残念ですがここまでのようですね。名残惜しいですが今回は諦めましょう。しかし、最後は…………」


 咄嗟の読唇術ではそれ以上の言葉は読み取れなかった。次の瞬間にはダイナマイトモドキの爆発と、混乱して暴れる大柄の妖達によって大広間の天井が崩落したからだった。


「くっ………!?糞ったれがっ!!」


 俺は前を振り向いて、抗いがたい誘惑を振り切り、苛立ちを押し殺し、多くの疑念を無視して、先行する紫達の後に続いて必死に走る。逃亡以外のために思考を削く余裕なんて一寸もなかったから。目先の危険を切り抜けるためだけで精一杯だったから。


 そう、その胸の内、言い様のない罪悪感と後悔と不安を感じつつも………。






「ひぃ……!?ま、前からも来ました!?」

「足を止めないで下さい!!道は開きますから進んで!!」


 出口へ向かう地下水道の通路は地獄だった。『妖母』の統制から外れた妖共が彼方此方で好き勝手に暴れ回り、その密度の高さから共食いをして、俺達人間を見つけ次第ご馳走とばかりに飛び掛かる。


 俺と紫は案内役を護衛しつつひたすら暗い通路を駆け抜ける。横合いから飛び出す化物を俺が刺し殺し、目の前に現れる群れを紫が瞬時に肉塊に変える。


 既にどれだけ走ったのだろうか?凄まじく長く走った気もするし、まだ半刻も経っていないようにも思えた。そしてその間ひたすらに障害となる化物の群れを殺戮し続ける。


「終わりが見えないなっ………!?」


 それは殆ど無間地獄だった。何十、いや何百体であろうか?殆どは元になった素材が素材故に取るに足らない雑魚であるし、濁流と言える程ふざけた数ではない。それでも数体から十数体単位の化物が波状的に襲い掛かって来る状況が長時間に渡って続くとなれば紫は兎も角、俺の体力と霊力は持たなかった。


「埒が明きませんね、ならばっ………!!」


 七連撃の斬撃の衝撃波で付近の妖共を一蹴すると、紫は足を止めて、一度刀を鞘に納める。


「紫様っ!?」

「二十数える間だけで構いません。暫くその場で私を守りなさい」


 俺の言葉に対して、しかし紫はバッサリとそう切り捨てる。そして目を閉じると深く、深く、深呼吸をする。それは文字通りの自然体であり、先程までピリピリと荒ぶっていた彼女の霊力は波が引くように収束し、その気配は若干薄くなる。


「旦那!?お嬢さんは何を……!?何故足を止めるんだ!?」

「お前は後方を警戒していろ!正面の輩は俺が足止めする……!!」


 早く逃げたがる案内役にそう冷たく命じて、俺は前に出る。暗闇の中で素早く接近してきた猫と狼の小妖を短槍で擦れ違い様にその首の動脈を切り捨てて絶命させ、次いで正面から弾丸のような速度で飛び込んできた大型犬並みのサイズの蚤を顔面から短槍で貫く。この野郎、吸血する気だったな……!?


「上からっ……て、げぇ!?」


 直後天井方向からの気配に上を向けば舞い降りて来るのは人間を抱き締められそうな蜚蠊ゴキブリであった。因みに多分元の素材はクロゴキブリである。天使のように羽を羽ばたかせて。何を考えているかも分からぬ無機質な赤く光る瞳で此方を見つめ、顎を上下左右に大きく開く。


「キモいんだよっ………!!!」


 思わず霊力を後先考えず使って脚部強化して、横合いから蹴りあげたが後悔はしていない。短槍を使って飛び散る体液を浴びたくなかった。地下水道の壁に顔面から叩きつけられて頭部が半壊した蜚蠊に、無慈悲にも他の妖共が群がって食らいつく。


「後十秒、か?ちぃ……まだ来る!!」


 紫の命じた残り時間を数え、同時に振り向いた俺は短槍を勢い良く投擲する。背後から案内役に襲い掛かって来ようとした化け蝙蝠の顔面に突き刺さり、そのまま下水の中に墜落した。これでもう短槍は使えないな。


 前を向くと共に俺は狡猾にも仲間の死骸と闇に紛れて足に絡み付こうとしていた幼妖の蝮の頭部を短刀で上から突き刺す。そのままグリッとひねって脳を完全に潰した。蛇の生命力は案外高く、妖化していない普通の蝮でも下手すれば首だけで丸一日程度は生存する。素材の性質からして確実に殺害する必要があった。


「後五秒……!っ……!?」


 下水から飛び出して来たのは鉄砲魚だった。鯆程の体躯があろう、鰐淵のような四本足の生えた奇形の鉄砲魚……恐らくはずっと狙いを窺っていたのだろう化物は気味の悪いグロテスクな笑みを浮かべ、待ちかねたように紫に向けて口を開く。これは………!!


「間に合えよっ………!!」


 咄嗟に紫の前に飛び出したのとそれが放たれたのは同時だった。超音速で吐き出された水は恐らく受けた衝撃から見てウォーターカッターのように鋼鉄すら切断出来たと思われた。曲がりなりにも呪術で耐久性が向上している法衣は数秒で無力化された。


 無論、この際はそれで十分だった。法衣が完全に切り裂かれて人体が損傷を受けようかという次の瞬間、俺は短刀を構えて吐き出される水飛沫を飛散させた。短刀に弾かれた水は、しかしそれでも超高速で飛び散って体の表面を薄く切り裂いたが……人体が切断されるよりは百倍マシだろう。


 そして………。


「悪いな、化物共。タイムリミットだ……!!」


 刹那、背後から嵐のような霊力の奔流が渦巻くのを俺は感じ取った。同時に場を支配するのは絶対的な死の感覚である。それに対して先程まで襲い掛かって来ていた妖共は身を強張らせて、少し利口なもの共は慌てて回れ右して逃げ出そうとする。……全て手遅れであったが。


「破魔・剣技一閃……!!」


 その叫びの一瞬後、地下水道は光で満たされた。






 ………それは、限りなく明鏡止水の極地から、次の瞬間刀を突き出して放たれた突きの『衝撃波』であった。信じがたい事に恐らくは地下水道を一瞬満たした光は衝撃波による空気の摩擦熱による瞬間燃焼であったのだろう。


 空気と音の衝撃と共振は眼前の妖共を原型を残さず吹き飛ばした。文字通り血肉は衝撃の前に蒸発するように四散させ、骨は砂のように散華する。何より恐ろしいのは、それが下水の中や横道の陰に逃げこんだものすら逃がさず、しかも標的たる妖以外……地下水道自体には殆ど被害を与えぬままに広範囲に対して為された事だ。


 ……人外が邪悪なもの共を一掃した後、眼前の残る脅威は何処にもなかった。完全な虚無であった。相当遠くの妖まで巻き込んだ半ばマップ攻撃のような突き……そう、刀による突き、それだけで大半の妖はそれで塵と消え、運良く生き残った妖も流石に今の一撃を前には恐れをなしたのか一時後退していくのが遠退く妖気によって俺すらからも感じ取れた。


 俺も案内役も目の前で生じた事象が信じ切れず唖然とする。案内役に至っては余りの威力を前に腰を抜かして尻餅をついていた。


「っ……!?紫様、大丈夫ですか!!?」


 カラン、という音が地下水道に鳴り響いた。音の方向に視線を向ければ紫が刀を床に落として膝をついているのを捉える。俺は駆け寄った。


「っ……!?」


 俺は紫の元に近づくと共に僅かに身を強張らせた。


 彼女の刀は刀身が蒸発していた。柄だけになった刀からは白い煙がたなびき、それを持つ掌は僅かながらも火傷したように赤くなっていた。顔を青くして、息を荒くして、額に汗を噴き出す赤穂紫の顔は相当に疲弊していた。


「はぁ……はぁ……はぁ………ど、どうやら……相当数取り逃がしたようです、ね?ふ……ふふ、流石に父や兄達のようには……行きませんね。本当、情けないものです」


 息も絶え絶えに、自身の技量を嘲るように冷笑する紫。おう、今のが失敗レベルの威力なのかよ。やっぱ退魔士は人間じゃねーな。


 どうやら先程の一撃は赤穂家伝来の閉所ないし市街地での対妖狙い撃ちのマップ攻撃の技だったらしい。当然必要とされる技量も、霊力も馬鹿にはならないようで、今のは父から見れば失敗判定を受けるような出来だったらしい。しかも霊力の半分以上を消費し、刀は蒸発し、全身筋肉痛状態だとか。


「兄達とは違い……一発使っただけでこんな様ですので余り使いたくはありませんでしたが……はぁ……はぁ………仕方ありません。さぁ、早く進みましょう………!!」


 ふらつきながらも立ち上がろうとする赤穂紫。しかしその足は生まれたての子鹿のように震えていて、次の瞬間には姿勢を崩しそうになり………。


「失礼致します、紫様」


 俺は崩れそうになる彼女の側に駆け寄り、両肩を掴んで支えた。同時に謝罪するのは下人風情がここまで密着して両手で彼女に触れたからだ。手を掴んでいて前例があるので怒鳴られる事はなかろうが……念を入れて謝罪はしておくべきだろう。


「いえ、助かります。っ……!?」

「どうか致しましたか?……これは……恐縮です」


 思わず俺は、地の性格が出そうになるのを抑えて、淡々とした態度と無表情を維持して答える。おう、そりゃあ自分の服装を下賤な血で汚されたらなぁ。


 最後の最後で鉄砲魚のゲロ水は流石に少し危なかった。噴射され、直撃した時間は一瞬だったので深い大それた傷ではないが、それでも法衣の一部は引き裂かれ表皮が捲れて血がだらだらと染み出していた。何なら手足や顔にも飛散したゲロ水で切り傷が出来ていてそこからも血が流れていた。


 そしてこの場でも問題はその出血だ。深くないので戦闘には勿論、生命の危険があるようなものではないがそれでも余り見ていられない位には血が流れていたし、そのまま他人の身体を支えればどうなるかといえば……。


(絹布、となれば結構金がかかっている筈だよなぁ?)


 所詮は正装でもない衣装とは言え、名門退魔士一族の末娘のそれである。少なくとも庶民のそれよりも百倍は高価な筈だ。それが賎しい下人の血がべったりとついていたら………割とこの世界の価値観的にはアウトな内容だ。……不味くね?案内役とか終わったって青い顔してるし。


 場を沈黙が支配する。重苦しい空気………それを打ち破ったのはまたしても彼女だった。

 

「………行きましょう。時間がありません」

 

 何もなかったかのように蒸発して納める刃を失った鞘を杖代わりにしながら紫は歩き始める。俺と案内役は予想していたリアクションがない事に目を丸くして黙りこんだ。そんな俺達を一瞥して、紫は不機嫌そうに顔をしかめる。


「何ですか?何か言いたい事でも?」

「い、いえ………」

「……貴方がどう思おうが構いませんが、私も時と場合くらいは理解しています。こんな時に服が汚れた程度で怒り狂うような馬鹿な事はしませんよ」


 何かを思い出したかのように苦い表情を浮かべつつ、しかし直ぐに仏頂面になってそう答える少女。額に汗を垂らしながらも、必死に前に進もうとする。


「…………」

「………だんまりされると此方が困るのですが?」

「いえ、申し訳御座いません。……案内役、先導を」


 何処かバツの悪そうな態度で声を荒げる紫に一礼し、俺は案内役に道案内の再開を要請する。「へ、へいっ!」と跳び跳ねたように立ち上がった案内役はせっせと仄暗い地下水道を進み始め、直ぐに紫を追い抜いた。


(さて、と。となれば………)


 紫が大人の対応を取れる事に安堵して、ならばこれもいけるだろうかと考えつつ、俺はゆっくりと歩く退魔士の少女の傍らに立つ。


「……何か用でも?」

「重ね重ねの非礼になり恐縮ではありますが、その足では出口まで時間がかかりましょう」

「承知しています。私はまだ貴方達よりも自衛の心得があります。何でしたら先行してくれて構いませんが?」


 売り言葉に買い言葉とばかりに紫は宣う。別にそういう積もりはないのだけれどな……。


「いえ、そうではなく……大変無礼ではありますが、もし宜しければ助力したいと」

「助力?それはどういう………まさかっ!?」


 俺の提案に怪訝な表情を浮かべつつ、しかしそれが何なのかに思い至ると恥辱だろうか?顔を恥ずかしさに赤らめる。まぁ、そりゃあなぁ………。


「……私に赤子か老人のように背負われろと?ましてや私が貴方に?」

「不愉快なのは同意しますが、時間がありません。どうか御一考下さい」


 やはり嫌そうな態度の紫であるが、俺は敢えて今一度進言する。彼女の生存は俺の生存のための必須の条件であるし、そうでなくてもこの世界のこの国で貴重な戦力である彼女がむざむざ食われて、妖共の強化の材料にされるのは損失として痛すぎた。幾ら家族から見て格下でも俺からすれば化物レベルなのだから。


「先程の一撃で相当数は吹き飛んだようですが、まだこの先どうなるのか分かりません。我々全員の安全のためにもどうかここは体力の回復を優先してください。……どうか、御願い致します」


 最後の一言は彼女の性格から逆算した殺し文句だった。劣等感の塊のような彼女の性格を利用するようなものであったが………この際は仕方なかった。


 俺の要望に紫は更に渋い表情を浮かべて、数秒程考え込む。……しかし、彼女は自身の口でそう言ったように、決して愚かでもなければ状況の見えない人間でもなかった。


「……手荒に背負ったら後で仕置きにしますよ?従姉様の下人だとしても関係ありません。それを肝に銘じて下さい」


 不承不承という物言いで、しかし彼女は素直に折れた。彼女は不遜でプライドが高くても、やはり根本的には善人であった。


「有り難う御座います」


 再度の礼、そして俺は口にした通り彼女を背負おうと一歩近寄る。そして………その瞬間に俺は致命的な隙を見せてしまっていた。


「えっ………?」


 その突如背後から感じた突き刺すような衝撃と痛みに俺は悲鳴を上げるよりも先に困惑を感じた。そして、恐る恐ると痛みの発生源に視線を向けた。


 ………俺の法衣の横腹を突き破って血塗れの蛇のような尻尾が生えていた。


「………おいおい、洒落にならねぇな。えぇ?」


 事態を悟った俺は叫ぶ事もなく、ただただ脇腹から突き出た蛇のようにうねる尻尾を一瞥してぼやいた。同時に喉奥から汲み上げて来る嘔吐感に一気に赤い血を吐き出す。口の中を苦い鉄の味が広がる。ははは、これは不味いな。


「ぐっ…がっ!?」


 次の瞬間。ずるり、と一気に尻尾が横腹から引き抜かれた。尻尾の先が返しになっていて、しかも乱雑に引き抜かれたがために傷口から飛び散るように血が噴き出した。そのまま俺は振るわれた尾で壁に叩きつけられる。


「え……?あ……うぁ………?」


 目の前で何が起きたのかも分からず、陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクとさせる赤穂紫。その頬に横腹から噴き出して飛び散った俺の血が降りかかり、滴るように垂れていたが本人はその事に気付いてもいないようだった。やれやれ、やはり経験不足か。そこは今すぐ戦闘態勢を取って欲しいのだけれどなぁ?


「尤も、俺が言えた義理じゃねぇか?」


 額に汗をびっしゃりと垂らして、横腹から溢れ出すように血が流れ出す傷口を押さえつけながら俺は苦笑いして呟いた。呟きながら背後の下手人を一瞥する。


 地下水道の薄暗い闇の中からそれは現れた。いや、より正確には『天井』を這いずりつつか………?


 奴は純粋な腕力のみで壁と天井に張り付いていた。そして血に濡れた尾を揺らして、まるで嘲笑うかのように喉を鳴らしながら猫を、あるいは猿を思わせる動きで四つん這いで床に着地する。


『クククククッ………!!』


 恐らくは『妖母』の最も新しい「家族」である生まれたての化物の赤子は、粘度の強い唾液を垂れ流しながら口元を歪めて、巣から逃げ出した獲物に止めを刺すべく俺達の目の前にその姿を現したのだった………。

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