弁山池の女

天橋文緒

弁山池の女

 弁山池に、見知らぬ女性がいた。


 四月二九日。木曜日。ゴールデンウイークに入り山中小学校は休みになった。

 昼過ぎ、小学六年生の橋本陽太は、釣竿一式を担ぎ、一人で弁山池にやってきた。そこに、見知らぬ女性がいたのだ。

 陽太は、物心つく前から弁山池での釣りが好きだった。

 弁山池は、父親が陽太を初めて釣りに連れていってくれた場所だ。陽太は第一投で、大きなフナを見事に釣り上げた。

 陽太自身は、その時のことをはっきりと覚えていない。だが、酔った父親が何度も話したためか、うっすら記憶があるように感じていた。

 地元の人間でも弁山池を知っている人は数人しかいない。弁山池は陽太の家から歩いて十五分程の距離にある林の中を進んだところにある。林の更に奥を歩いていき、目印となるものが一切ない茂みを突っ切った先にある。

 訪れる人は、陽太と陽太の父、それか陽太の父親の知り合いぐらいだ。

 弁山池は、陽太の父親が若い時に林の中で道に迷った時に見つけた場所だ。その後池を地図で調べたが載っていなかった。そこで、このあたりの名前が弁山であったため池の名前を弁山池だと父親が呼び始めた。

 その池で、薄手の白いブラウスを着て、黒いパンツ姿の女性が釣りをしていた。

 茂みを抜けた陽太は、池の対岸に女性がいることに驚いた。

 陽太は、その見慣れぬ女性が誰か知らなかった。だが、父親が偶然見つけたように、他の人が見つけたのだろうとぼんやり考えた。

 陽太は、意気揚々とお気に入りのスポットへと移動した。茂みから左手に進んだところだ。この場所は、岸にしては草が開けている。

 荷物を置き、そのそばで簡易的な椅子も組み立てる。作業の合間に、女性がどんな人なのか気になり、横目で様子を窺った。

 その女性は二十代後半ぐらいの印象だった。ロングヘアーでブラウスの袖から伸びる腕は色が白い。距離があっても分かる程の病的な白さだ。

 陽太は、女性の格好に違和感を覚えた。釣りをするのであれば、汚れの目立たない服が無難じゃないかと陽太は思った。

 持ってきた荷物を広げ、釣り竿を組み立てた。

 釣り糸に生餌を取りつけ竿を構える。岸から池の底に刺さり、斜めに突き出ている細い木に目がけて釣り針を飛ばした。

 釣り糸を垂らして、ゆくりと竿を上げ下げする。

 岸近くの水面には薄く藻が張っている。水面は黒く、太陽の光線をきらきらと反射させる。

 陽太は釣り竿をぎゅっと握り込み、空を仰ぎ見る。雲一つない快晴だ。

 一つ大きな深呼吸をして、陽太は釣り竿の先から垂れる糸を、じっと見つめる。

 時折、女性が陽太を見ているような気がした。

 数時間が経ち、夕陽が傾き始める。夕暮れの空に、ムクドリの群れが飛び回る。

 ビクンと、釣り竿が引く。ムクドリに目を奪われていた陽太は反応が遅れたが、焦らずリールを回す。そのまま回し続け、小ぶりのフナを釣り上げた。

 陽太はきりのいいところで帰ろうと思い、道具の片づけを始めた。

 その時、陽太はふと女性のことを思い出した。来た時にちらっと見てから、一度も女性の方を見ていなかった。

 片付けを終え、女性の方を眺めてみる。女性はまだ釣りを続けていた。

 陽太は挨拶をしないのも変だと思い、女性に向かって歩いていき、声をかけた。

「こんにちは! 釣れましたか?」

 女性は歩いてくる陽太を見ると、リールを回しきり、釣り針を手で掴んだ。女性は陽太の問いかけに能面のような無表情で答えた。

「全然釣れないわ。一日中いたんだけどね。君は釣れたのかな?」

「僕は何匹か釣れました。さっきもフナを釣ったんです。それと、初めましてですよね?  僕は、橋本陽太です。」

 女性は陽太を観察するような目つきで、頭から足の靴先まで見た。それから抑揚のない声で言った。

「そんなに釣れたんだ。凄いね、陽太くん。私は西藤っていいます。今日から釣りを始めたの」

 陽太は自分を見る西藤の目に畏れを覚えた。不自然だったが目をそらした。

 西藤の釣り竿を見ると、釣り針に何もついていなかった。

「西藤さん、釣り針に生餌とかつけないと、魚は釣れないよ? 僕のをあげようか?」

 陽太は親切心で西藤に言った。

「餌ね。餌は水に撒いてあるのよ。釣りって、針に餌をかけるとは知らなかったわ。ありがとう」

 陽太は西藤のうっかりに笑ってしまった。冷たい印象しかなかったためだ。

「もうちょっと早く声をかけたらよかったね」

「陽太君は、魚を釣れたの?」

「結構、釣れたよ。今晩は、さっき釣ったフナを食べようと思うんだ。普通の池なら臭くて食べられないんだけど、ここの池の水は綺麗だから食べるられんだ」

 西藤が少し暗い声で話す。

「その魚、本当に食べるの?」

 続けて、西藤が言う。

「この池にはほかに釣りに来る人とかいるのかな?」

 陽太は西藤の変化に戸惑いながら言う。

「ほとんど来ないよ。そういえば、西藤さんはどうやってこの池を知ったの?」

「随分前に、私の夫が教えてくれたの。来るのは今日が初めてよ」

「一緒に釣りに来なかったの?」

 ふと疑問に思ったことを、陽太が訊ねる。

 西藤はそれを聞くと、口をつぐんだ。しばらくして、陽太に目を合わせないで言った。

「今日は帰るわね。陽太君は明日も来るのかな?」

 陽太は西藤に言い知れない恐怖を感じていた。ゴールデンウイーク中、陽太は弁山池に来るつもりだったが止めた。

「僕はもうしばらく来ないかな」

「そう。私は明日と明後日ぐらいも、一応確認のために来るから、もし気が向いて来たらよろしくね」

 それだけ言い、黙って西藤が釣り竿を片付け始める。

「それじゃあ、さようなら」

 陽太は西藤の様子に違和感を覚えつつ、帰路についた。


 陽太は家に帰ると、台所のシンクに釣った魚を出した。母親にあとを任せ、陽太は釣り具の片づけをして、シャワーに入る。

 陽太はシャワーから出ると、居間のソファに寝転んだ。疲労を感じながら、頭の片隅に池で会った西藤のことがちらついた。西藤の違和感について考えていると、いつの間にか眠ってしまった。

 陽太は、母親に肩を揺すられて目をさます。

 食卓には父親がもう座っていた。陽太が眠っている間に帰ってきていたようだ。陽太は席につくと、池で会った西藤のことを話し始めた。

 父親も西藤と会ったことがないという。父親が知り合いに聞いて見ると言った。

 母親がキッチンからムニエルを載せた皿を食卓テーブルに運ぶ。池で釣った魚を食べる時は大抵ムニエルであった。

 弁山池で釣った魚は、身に臭みがなく美味しいため、家では好評だった。

 陽太は箸でムニエルをほぐして、身を口に運ぶ。噛むと臭みを感じた。泥臭く、何とも言えない腐ったような味がする。

 陽太は父親と母親と顔を見合わせた。全員が味の変化を感じていた。味はまずいが、もったいないということもあり、食べきった。

 その日は、たまたま釣れた魚が悪かったということで結論づけた。

 それから、ゴールデンウイークは、友達の家に遊びに行ったり、自宅でゲームをしたりして過ごした。


 ゴールデンウイークが明け、五月六日。陽太は山中小学校に登校した。ゴールデンウイーク中も、授業を受けている時も弁山池のことが頭にあった。池で会った西藤。ずっと何か違和感があった。

 学校が終わってすぐに、陽太は弁山池へと向かった。林の先から人の声が聞こえる。陽太が茂みを抜けると、十人ほどの警察官がいた。木々の間に黄色いテープで規制線が貼られている。池の岸には青いビニールシートが被っているところがある。

 二十代ぐらいの男の警察官が陽太に気づき、近づいてくる。

「君、ここに入ってきちゃいけないよ」

「何かあったんですか?」

「子供が知ることじゃない。早く帰りなさい」

 警察官は有無を言わさず、陽太を林の外まで連れ出した。林に入る時は気付かなかったが、林の隅にパトカーが何台か停まっている。


 陽太は家に帰った。弁山池で何が起こったのか。西藤が関係しているではないか。陽太は嫌な胸騒ぎがしていた。陽太は自室のベッドでうずくまっていた。

 夜になり、陽太の母親が夕食を作り終え、陽太を呼んだ。

 陽太は食卓テーブルについた。テーブルには料理の盛られた皿や白米を持った茶碗が置かれている。料理をついばみ、白米を食べ始める。

 その時、点けっぱなしだったニュース番組

 で女性キャスターが緊急ニュースを報せた。

 陽太が住む近くの池での事件だ。そして、そのニュースで映しだされた池は、紛れもなく弁山池だった。

「このあたりじゃない。怖いわ」

 陽太の母親が驚いたように言う。

 陽太と父親は食い入るようにテレビを見る。

 テレビ画面は弁山池を映したまま、ニュースキャスターの緊迫した声だけが響く。

「緊急ニュース速報です。住宅街近くの林にある池で、男性の遺体が釣り人に発見されました。遺体は死後一週間ほど経過しており、大型連休に入る数日前に殺害されたもようです。殺害後すぐに池に投げ込まれたことも分かっています。容疑者は男性の妻である西藤由紀――」

「西藤、由紀……」

 陽太が名前を呟く。

 父親が陽太に向けて、呆然と言葉をこぼす。

「今日、俺の知り合いが行くって聞いてたんだが、あいつが見つけたのか?」

 テレビの画面が切り替わり、車に乗り込む西藤の姿が映し出される。陽太が話した人物で間違いない。ニュースキャスターがさらに続ける。

「容疑者の西藤由紀は、警察に『あの男の子とその家族には悪いことした』という言葉を告げたそうです。詳しいことが分かり次第、引き続きお知らせします」

 陽太は西藤と会った時のことを思い出していた。釣り針に何もつけずに釣りをしていた西藤。最初から釣りをするつもりがなかったのではないか、という疑念が陽太の胸に渦巻く。さらに、西藤は何といっていたのかを陽太は細かく思い出していく。

「その魚、本当に食べるの?」

 あれは、一体どういうことだったのか。

 池で発見された西藤の夫。釣りの仕方も分からず一日中いた西藤。じっと観察するような西藤の眼。西藤は言った。餌は水に撒いてあると。そして、泥臭く腐ったような味の釣った魚。

 気づいた陽太は反射的に嘔吐していた。

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 弁山池の女 天橋文緒 @amhshmo1995

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