第16話 不安と希望に約束を。
……
「佐々木いいぞ!残り20m、加速を一気に乗せてみせろ!」
「ハイっ!」
「よし、ラスト1本、身体の連動を限りなくスムーズにいけ!」
「ハイっ!!」
……グラウンドに響き渡る向井先生と冬弥の声。
あれから、あっという間に一週間が過ぎ、大会は三日後にせまっていた。
冬弥の練習メニューも、短距離ダッシュとか、実力を発揮するための調整とかがメインになっている。
1、2本ほど100mを走る姿は、素人の私にも好調に見えた。
目の前の目標に向けて全力で走る冬弥の姿は、とてもカッコよくて…正直、いつまでも見ていられる。
「・・・ホント、どれだけ見てても飽きないなぁ♪」
にやけながらつぶやく。
・・・私のために走ってくれているんだもんね♪
そんな彼は最後のランを疾風のように駆け抜ける。高速で本当にあっという間だ。
…どんな世界が見えてるんだろうね?
「佐々木くん、頑張っているみたいねぇ~?」
「…武田先生っ!」
後ろから声をかけられて振り向くと武田先生がいた。先生はゆったりと私の横に座る。…丁度、初めて私の相談に乗ってくれた時のように。
「今からストレッチか。それにしても佐々木くん、調子よさそうねぇ?」
武田先生が笑顔で聞いてくる。先生もさっきのランの様子をみていたのかな?
「はい!凄いんですよ!!タイムもすごく伸びて、走るとグンって加速するんです!!まるでチーターみたいにっ!!」
思わず興奮気味に答える。少しでも彼のスゴさを伝えたくて!
「…ふふ、すっかり恋する乙女の顔になっちゃったわねぇ?この間までモヤモヤして『好き』が言えなかった人とは思えないわ♪」
「・・・へへ、認めちゃいましたから」
武田先生の言葉に力強くうなずく。
「ふふ・・・その作りかけのミサンガも、彼に渡すのかしら?」
武田先生はいつも通りの穏やかな表情を浮かべると、私の手元にある編みかけのミサンガを指差して聞いてきた。
「へへ・・はい♪」
答えながら、ミサンガにそっと触れる。
これは弥生ちゃんのアイディアだった。彼のために何かしたいって思っていたら、ミサンガなら大会につけてもいいハズだよ、って教えてくれたんだ。
…この一週間、丁寧に糸のひとつひとつに思い込めて編みこんでいくのも楽しかった。
・・・完成はもうすぐ。大会前に渡そうと思ってるんだ。
「ふふ、よかったわね?」
武田先生が目を細めて笑う。
「先生のおかげですよ…自分の気持ちを認められたのは」
・・・本当にそう思う。
「そのための行動を起こしたのは和泉さん自身よ。…なかなかシビれたわよ?給食での絶叫は」
「はは・・・ちょっと張り切っちゃいました」
…思い出して、照れ笑い。
「いいのよ。佐々木君への気持ち、ちゃんと伝わってきたわ♪」
武田先生がそう言って、グラウンドの方を見る。
私も一緒に目を移し、彼を探す。
…冬弥はゆっくりとストレッチをしていた。
この感じだと、もうじき終るハズだ。
「でも、保健室の貸し切りはあれ一度きりだからね?味を占めない様にね?」
武田先生が私の方に視線を戻してニヤッと笑う。
「わ、わかってますって!」
思わず周りを見てから答える。…誰かに聞かれたら流石にヤバいよ!
「・・・さ、そろそろデートの時間かしら?」
先生がグラウンドの様子を見て訪ねてくる。
「・・・へへ、はい♪」
先生の言葉にしっかりと頷く。この間までなら、「そんなんじゃ…!」って言っていたのに、今はもう違う。
・・・別にまだ付き合ってるわけでもないけど・・・それでも、彼と一緒に過ごすこの時間はデートっていってもいいよね?
「ふふ、楽しんできなさいね」
「・・・ハイ!行ってきます♪」
私は先生に頭を下げると、作りかけのミサンガを大切にしまう。それからカバンと彼に渡すドリンクを手に取って図書室を後にした。
――――—―ドリンクを飲みきった彼の笑顔が目に浮かんだ――――
・・・・・・・・
「…あぁ!旨かったサンキュ!!」
ドリンクを飲み終えた彼は予想通りの笑顔を見せてくれた。
「へへ・・・予想通りの答えだね♪いい飲みっぷり、作り甲斐があるよ」
彼から魔法瓶を受け取りながらそう答える。
私たちは今、いつものように運命の木の根元に腰を下ろしていた。
「今日は…ひょっとしてイチゴが入ってた?」
「おっ、正解!たまたま冷蔵庫にあったからさ♪…ビタミンCが疲労回復に効くんだって!」
彼の問いに頷いて答える。
・・・最近、ドリンクに簡単な工夫をしてみてるんだ。ネットや図書室でチマチマ調べてさ?
…それで、ドリンクに何が入っているかを冬弥が推理するのが最近の私たちのやり取りなんだ♪
「・・・いつもサンキュ。かおりのおかげで走れてるよ」
「・・・冬弥が頑張って走るおかげで、私も前向きに頑張れてます♪」
…二人で顔を見合わせてから笑う。
…相変わらず公園では心地よい風が吹きぬけ、枝葉が優しい音を立てる。出会った時よりも随分と陽が長くなってきた。流石に遊ぶ子どもはいないけれど、散歩をしている人や、学生の姿もちらほらと見える。
・・・思えば、あの時と比べると、本当に仲良くなったなぁ。
そっと、運命の木を見上げる。…そう、ここで彼と出会ったんだよね。
「どうした?」
冬弥の声に、私は笑顔で彼の方に視線を戻す。
「ううん、また冬弥と木登りしたいなぁって♪」
「今からでも、登れるじゃんか♪」
冬弥がにぃ、っと笑って私の方を見てくる。
いつの間にか、この表情…この笑い方は『今からからかうぞ』の合図になってる。
「ふぅ~ん?スカートの私にそういうこと言うんだぁ?」
「落ちないようにちゃんと見張っておくよ♪」
…にぃ、というより、にやにやに近い表情の冬弥と、ジと目の私。
そーゆーからかい方をしてくるなら……
「んじゃ、今の言葉はお父さんに言っておくね♪」
「げ・・!?」
「頼もしいよねぇ?落ちないように見張ってくれるんだから。どんな下心あるのか知らないけどぉ?」
それから私も、にぃ、っと同じ笑顔で返す。
「あ!今度、スカートのポケットにカッターナイフ10本入れておくから、その時ならいいよ?」
「それ、ぜってぇ故意に落とす気だろっ!?ヒドくないか!?」
「故意にスカート覗こうとしている人に言われたくありませ~ん♪」
「・・・ぐぅ・・」
…私の正論に言葉を無くす冬弥。今回は私の勝ち♪
・・・・・・
……それから、私たちは相変わらず他愛のない話に花を咲かせた。クラスのこと、部活のこと…昨日のテレビのことや最近のニュースとか…いろいろ。
笑い合って、心をくすぐり合いながら。
…楽しい時間っていつもアッという間に流れていくよね。
…気づいたら、帰らないといけない時間になってるんだもん。
私たちは名残惜しい中、忘れ物が無いように周囲を見てから立ち上がる。
「かおり、検診は明後日…金曜日だっけ?」
「うん♪学校は休むことになるかな…丁度、冬弥の大会前日だね?」
思い出したように聞く冬弥に私は頷いて答えた。
そう、本当にいいタイミング。冬弥の大会と重ならなくてよかったなぁ・・。
…そう言えば私の心臓の方も、かなり安定してきていて、こちらも順調だった。
この間の時、担当の先生が不思議がりながら『恋でもしているからかね?』なんて聞いてきた程だった。
・・・・全くもってその通りだよね!
「じゃあさ、金曜日…少しでも会えるかな?放課後とか、ここで」
…そんな風に思っていると、冬弥が少し遠慮気味に聞いてきた。
「私は大丈夫だけど…冬弥は?大会前に大丈夫?」
…そう返す。気をつかわなきゃいけないのは私の方だよ。私はただ受診するだけだもん。
私の返事を聞いた冬弥は、少し恥ずかしそうに髪をかき上げる。…これは彼が照れている時の仕草だ。
「大会前だからだよ。・・・その、かおりに会っておいた方がやる気が出そうだから、さ?」
そう、少し赤い顔でいう冬弥。
…もうっ!ドキってすること言ってくれるんだから!
心地の良いリズムを心が刻み、頬から全身に甘いシビレが走る。嬉しくて、ついおどけちゃう。
「・・・へへっ・・仕方ないなぁ♪なら、冬弥が頑張れるように会ってあげよっかな?」
「…サンキュ」
照れながらつぶやく冬弥。彼の表情を見ていると、うきうきが止まらない。
……本当は、私も会いたいって思ってた♪
彼に言われなかったら、きっと自分からお願いしていたと思う。
…また一つ約束ができた。彼とこうやって何かを決めて、未来へ約束をしていくことが嬉しい。
「あ、そうだ!」
高揚するテンション。もう少し、からかってやろうかな?私は口角を、例のからかいの表情になるように、にぃ、っと上げる。
「検診、胸が大きくなってたら教えてあげようか?」
「…なっ!?」
一瞬、固まる冬弥。でも目線が私の胸に言ったのを私は見逃さなかった。
「ほら、見てる~エッチ~♪」
「~~~っ!」
固まる冬弥。今日は私の二連勝かな?
…と、思っていたら…
「…んじゃ、そん時はまたギュってしてくれる?この間の保健室の時みたいに♪」
「……へっ!!?」
冬弥も、あの笑みを浮かべて反撃してきた!
……思わず声が裏返る。
「…味をしめないの!バカ!!…あの時は特別だったんだから!…第一本当に検診で測るわけないでしょ!?」
思わず彼の背中を小突く。
「へへ、冗談♪」
冬弥がいたずらな笑顔を見せてくる。
~~!もぅっ!!
・・・恥ずかしくて、思わず顔を背けようとした、次の瞬間だった。
「・・・あ・・・」
…手に、暖かく包まれる感触が走り、…思わずフリーズする。
「・・・このくらいなら、いいんじゃないか?」
優しく、真剣で、でも照れたような表情でそう言う冬弥。
…何が起こったのかと言うと…
冬弥が、私の手を繋いでくれていた。そっと優しく、包みこむように。
「…こ、これならまだ…健全だろ?」
冬弥がわざと明るく言う。…意識が手に集中する。今までも何度か手を繋ぐことって、あったけど…
冬弥を好きって、意識してからは初めてかも。
「……ま、まぁ…悪くはない、かな?」
うつむき気味に答える。…そうしないと盛大にニヤけてしまいそうだったから。
・・・好きな人に手を繋がれるって、こんなに嬉しいんだね。
「よかった…。実は結構勇気が必要だった。」
そういう冬弥は赤い顔で口元を少しだけ緩ませていた。…彼もにやけるの、我慢してる。
…今回は…引き分け、かな?…なんて、そう思う。お互いに、にやけそうになってるもん。
「…いこうぜ?」
「…うん」
私は小さく頷いた。
・・・・・・・
そのまま手を繋いでゆっくり歩いていく。
不思議な感じ。なんって言うか…。手が温かくて少しジンジンする。…繋がっている手を中心にバリアが私たちを包んでくれている感じ。
公園の出口付近では、ピンクと白の色鮮やかな花が咲き誇っている。アザレアの花だ。
…アザレアの花言葉は『恋の喜び』
…まるで今の私みたいだね?
静かになる公園を出て、私の家まで一緒に歩いていく。相変わらず道路沿いのお店の照明が辺りを照らしている。
公園の外に出ると、改めて『…好きな人と手を繋いで歩いている』…って実感してドキドキする。
クラスの人に会ったら、確実に噂されちゃうだろうな・・・
……それは、それでいいかも、なんて思う。
…幸せな時間。二人で作り上げたバリアの中、言葉は少なくても心は通じ合っていている。
なんかもう、わざと遠回りしてみたくなってしまう。
何時までも手を繋いでいたいんだもん。
繋いだ手に少し力をこめると、冬弥もキュって、握り返してくれた。
「…へへ♪」
それが嬉しくて、冬弥の方を見る。気づいた彼が笑ってこちらを見てくれた。
「どうかした?」
「誰かに見られたら、噂されちゃうね?」
からかうでも、なく素直に。予想される事実として言葉を紡ぐ。
「させとけばいいさ」
「…へへ、そうだね♪」
答える冬弥に、笑う私。お互いに顔を見合わせて頷く。
…冬弥の大会まであと三日。彼の走る姿を見るのが楽しみだ。
……その後の、約束のことも、ね?
…他愛のない会話の中、道を走る車の音が聞こえてくる。すれ違う人も景色も、どこかこの繭のバリアの外から見ている。
…今なら、このバリアの中なら…何をしても平気かな?…なんて、そう思った。
「ねぇ、冬弥?」
ゆっくりと足と止める私。
「ん?どうかし……!」
私は、彼が足を止めてこちらを見ようとしたタイミングで、私は彼の頬にキスをした。…唇から彼のぬくもりと、柔らかさが伝わってくる
「・・・かおり…!?」
…驚く冬弥の顔が面白い。目をシパシパさせている。
「…へへ、明日も頑張ってね!」
自分でやっておきながら、少し恥ずかしい。
…でも、してみたかったんだもん!
「……ったく!」
彼は照れて髪をかき上げる。それからもう一度私の方を見る。
「……任せとけって」
そう言うと、今度は冬弥の方からキスをしてくれた。
温かくて柔らかくて、少しくすぐったい感触が頬に伝わってくる。
・・・・・・・・
「へへ…いこっか?」
「…ああ!」
お互いに少し恥ずかしくて、そっと目を合わせてから私たちは再び歩き出す。
……家までの距離が伸びたらいいのにな。
…そんな風に思いながら―――—―—。
………—―—―—―
・・・・・・・・・
「へへ…」
夜、ベッドの上に寝転がりながら、スマホを触る。今は寝る前。彼とのLINEのやり取りを終えたところ。
お互いに勉強はしなきゃいけないし、冬弥に至っては大会前の調整もあるから少しだけだけど。
彼はついに、大会という舞台にまで戻ってくることができた。
…本当にスゴいって思う。
冬弥は言ってくれた。『私のために走る』って。
……そんな彼の頑張る姿に、私はいつも勇気をもらっている。
「……私の方は…」
・・・自分の胸に手を当てて呟く。金曜日は検診、か。
私も早く自分と闘うための舞台に立ちたいな…なんて一生懸命に走る彼を見ていると思う。
・・・焦っちゃダメだね?
…ベットに寝転がり、天井を見上げてからもう一度スマホをつける。ギャラリー画面を展開して、一枚の写真を選ぶ。
…私と冬弥。それに芍薬の花が写し出される。
…ゴールデンウィークに一緒に撮った写真だ。
二人っきりの写真。何回見てもニヤニヤしてしまう。
……本当にいい顔している。
画面を拡大して、彼の顔を大きくする。
「・・・・・・」
・・我慢出来なくて、ディスプレイにそっと口づけをした。
…数秒後、自分のしたことが段々恥ずかしくなって、スマホをoffにする。
それから思わず枕に顔をうずめた。
今の、冬弥には・・・言えないな・・。
・・・しばらくジタバタしてから、私は眠りについた―――――。
・・・・・・・・・・・・・
――――—―そして、大会前日…金曜日——―
「よーし、今日はここまでだ。明日に向けてゆっくりと身体を休めろよ!」
『ハイっ!!』
向井先生の声がグラウンドに響き、俺たち部員は全員で声を張り上げる。
「よし、解散!!」
…先生の声と共に、周囲は一気に賑やかしくなる。…今日は軽めの調整で終わるのも早かった。周囲は片付けをするモノから、最終調整をするモノまで様々だった。
大会はいよいよ明日。心が静かに燃え上がっているのを感じる。
俺の方と言えば、調子もよくて身体は軽かった。最後の調整で走った1本も、足・腰・身体・腕がすべて一つになって加速してくれた。
…この調子でいけば、明日は期待できる。
かつての自分が見ていた景色、タイムを追い越せるような…そんな気がしていた。
「よ、冬弥!」
声を掛けられて振り向く。中里と島村だ。
「中里、島村…!」
「…全く、よくぞここまでもってくることができたな?冬弥」
「佐々木くん、いよいよ明日だね?復帰戦、応援してるよ♪」
「おかげ様で。ここまで戻ってくるのに、二人にも随分と助けてもらったよな…サンキュ」
…俺は二人に礼を言う。
ゴールデンウィークの最終日に声をかけてくれた中里。それから、復帰以前と変らずサポートをしてくれた島村。
二人の支えが無くては多分、ここまではこれなかった。
「オイオイ、まだ礼を言うのは早えぇ、っつーの」
「そうだよ、明日、金ぴかのメダルを手にしてからにしてよね♪」
「・・・はは、そうだよな」
思わず笑みがこぼれる。そうだよな。油断しているつもりはないが、明日こそが本番なんだから。
「そうよ~和泉さんも応援にくるんでしょ?張り切らなきゃね?」
島村がフフ、っと笑った。
・・・あれから、俺の心配をよそに島村は随分といい顔をしていた。かおりともいがみ合うこともなくて、それどころか結構仲良く話をするところを見ることが増えた気がする。
「全く、この間の一件で、告白しちまえばいいものを、まだしてねぇってんだからなぁ~?」
…そう言うのは中里。察しの良いコイツは、俺とかおりの関係のことなんてすっかりお見通しのようだ。
「…大会でかおりのタメに走るって決めたからな」
・・・そこまで区切って、気合いをひとつ。
「・・・カッコいいところ見せてから告白したら最高だろ?出来ればメダルと自己新を添えてよ」
やる気だって出るってもんだ。
「ひゅぅ♪そこまで狙っちまうか!」
「でも、佐々木くんならできそうな気がするね。そのくらい、今調子いいでしょ?」
「まぁ、な。過去の自分と勝負を出来るぐらいには、な?」
正直に答える。自分でも目が少し獰猛になっている気がする。
…楽しみなんだ。もう一度、あの舞台で。…自分自身と戦えることが。
「ったく、羨ましいぜ。エンジン全開じゃねぇか」
そう言ってかぶりをふる中里。それを見た島村が肘で小突く。
「晃弘、アンタも頑張んなさいよ?・・・私、見てるわよ?」
中里は歯を見せてへへ、っと笑う。
「・・・おうよ、俺だって負ける訳にはいかねぇからな。いろいろとよ」
「・・・よし、それでいいわ」
二人が顔を見合わせて笑う。…なんともお互いを刺激し合うように。
「・・・ってか、最近二人、えらく仲がいいよな・・?」
そんな二人を見て、俺は思わず聞いた。
そう、そうなのだ。前から、この二人のやり取りは時に飄々と、時にスパイシーだったのだが、最近それに輪がかかったように感じる。
三人でいても、二人のこんな感じのやり取りがいつもより多くて、明らかに距離が近い気がする。
………何より名前で呼びあってるし。
……丁度、給食のあの事件の後あたりからかな?
…最も、『付き合ってる』とまでは言えなさそうな雰囲気もある。
…それに、自分と島村のことを考えると、その辺りのことは中々聞けそうにはなかった。
「そうか?冬弥と和泉ほどじゃあねぇよ♪」
「そうそう、どーせこの後、会いに行くんでしょ?」
俺の問いに、二人が波長よく合わせて言ってくる。やっぱり仲がいい。
「・・・ま、まぁな。一応会う約束はしてる」
本当のことだ。今更隠す気もない。
「全く、一応大会前日だからな程ほどにしておけよ?」
「そうそう。遅くまで、ちちくりあって影響のないようにねぇ?」
二人そろって、にやにやと俺の方を見てくる!…コイツら!
「ち、ちちくりあってなんかいねーよ!!」
「慌ててあやしーんだ!今度、こっそり尾行してみようか、晃弘?」
「そりゃいいな!証拠写真つきでよ♪」
「あ、あのなぁ~!」
二人の勢いは止まらない。
…ったく!こいつらが手を組むとこんなにタチが悪いなんて!
手に負えない、なんて思っていると中里がからかうのを止めて、俺の肩にポンっと手を置いた。
「冗談だよ♪はよ行って、明日のエネルギーを溜めてこい!」
「ホント、ほんと!これ以上引き留めてたら私たちが和泉さんに叱られちゃうからね♪」
…島村もそれに乗っかるように微笑んだ。
……なんだかんだいって、応援してくれるんだよな。
「サンキュ…中里、島村」
思いを、言葉にする。
「応、明日やりきろうぜ、お互いによ!」
「佐々木くん、また明日ね!」
二人が笑顔で送り出してくれる。…なんだ、この二人やっぱりお似合いなんじゃないかな?
…なんて、口には出せないけどそう思った。
「ああ!二人とも明日な!」
俺も笑顔で二人に手を振って応えた。
さぁ、いくか!
俺は気分よく約束の場所…運命の公園に向かうことにした――――――。
・・・・・・・・・・・
——―———―———―・・・・・
「・・・・」
私は何とも不思議な気持ちで、運命の木の上で彼を待っていた。
運命の木は私と違って、相変わらずどっしりと力強く、大地に根を下ろしている。
・・・落ち着かない。
気分はソワソワして、どきどきして…ハラハラして…どこか上の空。
嬉しいのと、待ち遠しいのと……
――――それから…怖さと。
…自分の心臓に手を当てる。
彼のことを思い浮かべると、少しだけ鼓動が速くなった気がした。
公園の端に目をやると、いつもより早い時間だからか、子供たちが元気に走り回っていた。
…今日のこと、話をしたら、冬弥は驚くかな?
…大会前なのに、影響はないだろうか?
ポケットに入れておいたミサンガを触りながらそんなことを考える。
・・・・ぼぅっと、公園の様子を眺める。彼はまだのようだ。さっき、部活が早めに終わったってLINEがきたから、もう少しだとは思う。
・・・彼を待ちながら、今日の病院、そして主治医の先生との会話を思い出す。
――――—―—―
「かなり、調子がいいようだね。これならいけるだろう」
私の状態を見て先生はそう言った。
「状態を見てもなるべく早い方がいい。」
・・・つまり、なんの話かというと・・・
私が待ちわびていた手術の話が…ついに決まったのである。
二日前、ベットで願っていた『戦いの舞台』それがまさか、今日の検診で整うとは思っていもいなかった。
びっくりと喜び。それからはまるでジェットコースターのように。母さんたちと一緒に手術の日程が組み込まれていった。
…思わず、今までの足踏みはなんだったんだろう、と思うほどだ。
今もその急転直下の勢いが残っていて、未だに心がどくんどくんとアイドリングしている。
・・・冬弥に支えられて、私もようやく自分の戦いの舞台に立つことができた。
ついにきた、戦える、さぁやるぞ…
…そんなヤル気満々な気持ちに満ちているのに。
—―—―—なのに…—―—―
なのに、その隙を縫うように、ひょいっと暗い影が姿を現し、私の心をジッと見つめていた。
それは漠然とした怖さとか不安、って言えばいいのかな?
もし手術が失敗して死んでしまったら…なんて恐怖。
麻酔で希望と共に眠りについたら、それが最後だとしたら?
なんて、想像が頭によぎる。
大丈夫、と思って前向きな気持ちで心を満たしても、この怖さの影は必ず心のどこかにいて、消えてくれない。
…心の影は虎視眈々と私を狙っている。私の気持ちが怯んだ一瞬に大きくなって襲い掛かってくる。
今のところは振り払うことができている。
・・・だけど・・・
この心の影は時間が経つほどに大きく、強く、そして狡猾に私の心を侵略しようとしているのを実感していた。・・・それは、今も。
・・・・情けないなぁ・・・
心の隅で黒くて渦のように存在している恐怖。それに怯む自分に対して、そう思う。
…手術、あんなに自分で望んでいたことなのに…
…ゴールデンウィークの前に、同じように手術の話が出た時は、こんな気持ちにはならなかったのに。なんでさ?
………ふと思い浮かぶ、前と今との明確な違い。手術を怖がるその理由。
――――そっか…私…—―—―
……そう思った時、待ち人がやってきて、私に声を掛けてくれた―――――。
――――――—―・・・・・・・
公園についた俺は真っ先に約束の木へと向かう。
流石にいつもよりは人通りのある園内。入口に咲き誇るアザレアの花。池の傍にあるスイレン…。思わず駆け足になる。
・・・かおりに会える。その期待とワクワクは心のリズムになり、駆け足のテンポと連動する。
…心と身体は繋がっているとはよく言ったものだ。
両方とも目的が一致している。かおりを目指しているんだ。
待ち合わせをしている運命の木の元に到着すると、木を見上げて声をかける。彼女はそこだ。
「かおり!おまたせ!」
…彼女の名前を呼ぶ。・・・しばらくしてロングの綺麗な髪をなびかせてかおりがこちらに顔を出した。
「…やっほー」
かおりは返事をするといつものように身軽に木を降りてきた。
同時に、木の葉が揺れた。
「おかえりなさい♪調子はどう?」
「おかげさまで絶好調さ!この感じだと明日は行けそうだよ!」
「そっか♪…楽しみだなぁ!」
かおりの満面の笑顔。何度見ても心が弾む。
そう、ゴールデンウィーク初日。ここで彼女と会ってからずっとトキめいて弾みつ続けてる。
……めっちゃ可愛いよな。
なんて、素直に思う。
「明日、ゴールの近くで応援しなきゃね?そしたら冬弥、私を目指して走れるでしょ?」
かおりがにぃ、っと笑って俺の方を見る。…その瞳に心臓を掴まれた気がした。
「……ああ!誰よりも速くゴールしてやらぁ♪」
俺もまねをしてにぃ、っと笑う。
…そうさ、誰よりも。かつての自分よりも、な。
「ふふ、気合十分だね?」
「ああ!」
二人で木の根元に腰を下ろす。大きく広がった枝葉によって作られた風の通り道。まさしく自然の心地の良い風が俺たちを撫でていった。
……………
……それから、俺たちはいつもの通り、少し他愛のないことを話をした。
今日の学校であったことや、明日の大会のこと、とか。
途中、中里と島村の二人が仲がいい、って話になると、かおりは『あぁ~、やっぱりぃ~?』ってにやにやしていた。彼女も最近の二人の様子の変化には気づいていたみたいだ。
…………
…そんな風に一通り話をした頃、俺は彼女の今日の結果を聞きたくて、一つ間をおいて尋ねた。
「…かおりの方は…その、今日どうだった?」
つまり、病院の結果について、ってことだ。
…いつも聞くときは不安になる。彼女のことを傷つけないだろうか?余計なことではないか?って。
…だから、いつも彼女の雰囲気を見てから言葉を発する。
「…うーん、そうだねぇ…」
そういう彼女はいつも通りにはにかんだけど‥‥
‥‥?
なんだろう、かおりが少し困ったような表情をしているように感じた。
…少し緊張しながら、彼女の言葉を待つ。
…何かあったのか…?
「…実は、さ?」
「………」
かおりがゆっくりと口を開く。…緊張が走る。
「フフ……」
「……へ?」
俺が心配をしていると、彼女は笑った。…例のからかう笑顔で。
「…大きさ、変わらなかったんだよねぇ~」
「・・・・ハ?」
かおりの言葉に、思わずポカンとする。…大きさ??
彼女は俺の様子を見てさらに笑う。
「胸のサイズ、残念ながら」
そう言って肩をすくめる彼女。…思わずズッコケそうになる。
…なんの話だよ!
「あ、あのなぁ・・・!」
「だってぇ~、この間、冬弥『大きくなってたらギュってしてほしい』って言ってたし?がっかりさせちゃったかな~って♪」
おちゃらけてニィっと笑う彼女。
真剣に心配して損した!
…最も、それはそれで可愛いのと、彼女の胸のことで頬が緩みそうになるけど。
「…ったく!!人が…」
そんな邪念を誤魔化すためと、自分の心配が杞憂だったことの安堵感で思わず悪態をつく。
「…心配した?」
…かおりがへへ、っと笑う。そりゃあそうだろ!あんな表情をされたら!
「そりゃあ…」
…そうだろ、っと言おうとすると…彼女は真剣な顔で俺の方を見てきた。
…思わず、言葉が止まる。
「・・・手術、受けられそうみたいなんだ」
「……へ…?」
かおりは少し落ち着いたような、どこか振り絞るように呟いた。
俺はその意味をゆっくりと理解する。
……それは、その意味は‥‥…
かおりが望んでいた『戦いの舞台』が整ったってことだ。
「…マジ!…!いつ頃!?」
思わず、声が大きくなる。彼女が待ちに待った機会がやっと訪れたんだ!
「……いろいろ検査とか準備をして…十日後、かな……」
「…そっか!」
彼女の言葉に自分のことのように嬉しくなる。本当にもうすぐなんだな!
「…………うん………」
「かおり?」
かおりは笑みを浮かべているけれど…眉は少し下がっていて、どこか困ったような…戸惑ったような表情をしていた。…いつもの俺を吸い込む瞳が少し暗くなっている。…どうしたんだろう?
「……冬弥…」
かおりは俺の名前を呼ぶと、先ほどと同じように、いや…それよりもさらにハッキリと…戸惑いの色を濃くして、その可愛い顔を歪ませた。
……それは、俺が初めて見る顔だった。だけど、その表情の意味はなんとなく理解ができた。…そこから伝わってくるのは…
――そこまできて、俺は…ハッとする。
「……私……怖い」
……彼女はそう、振り絞るように呟いた。
「……情けないよね?冬弥はこんなに頑張っていて、その姿をずっと見てきたのに…」
一瞬の間。彼女の声は震えていた。
「……かおり―――……」
俺が彼女の名前を呼ぶと、かおりはすぐに表情を切り替えた。
「ハハ、情けなっ!自分であれだけ望んだことなのにね?」
かおりは早口で笑った。……強がるように。自分自身ををあざ笑うかのように。
…でも、それが心から笑っているんじゃないってことはすぐに分かった。
—―—―俺は、とんでもない勘違いをしていたんだ。
……『手術が受けられる』その事実だけに舞い上がって、今の彼女の心情を理解していなかったんだ。
彼女の瞳から…涙が、零れ落ちた。…俺の心をいつも吸い込み続けた瞳から。
「……かおり…」
自分が心底惚れた子が、目の前で泣いている。その光景に、自分がなんて鈍くてアホなんだろう、ってそう思った。
「……へへ、私、バカみたいだよね…?」
かおりはポロポロと涙を流しながら、くしゃっとした笑顔を強引に作って俺の方を見た。
・・・彼女は、必死に闘っているんだ。…恐怖と。
きっと、心の隅から虎視眈々と狙ってくる言葉にできない怖さと―――…
・・・・かおり・・・
・・・気づいた時には身体が勝手に動いていた。
「・・・・あ・・・」
次の瞬間、彼女から脱力した声が漏れる。
…シャンプーのいい香りが鼻腔をくすぐり、彼女のぬくもりと、柔らかさが身体中から伝わる―――—―。
・・・・・俺は、彼女のことを、抱きしめていた――――。
少しだけ、無言の間が流れる。遠くから自動車の音が聞こえ、風に乗って花たちの香りがやってくる。
そして、お互いの息遣いと体温とリズムが一体となっていく感覚。
・・・・暖かいバリアが、俺たちを包み込んでいった。
「……怖いのは…あたり前だよ」
俺はそっと彼女に声を掛ける。
…そう、怖いのは当たりなんだ。
自分との闘いと言っても、俺とかおりじゃあ全く違う。
俺は、自分の過去の記録を追いかけるだけ。
…それに比べて――――
…かおりは命がかかっているんだから…。
…怖くないわけ、ない。
「怖がっても、泣いてもいいんだ‥情けなくなんか、ないよ」
回した腕に、少しだけ力を入れる。
それが・・・彼女の心の留め金を外す。
「・・・冬弥ぁっ・・・!」
・・・かおりは、そのまま泣いた。大きな声で。
…それは、お茶目で、明るくて…どんな時でも爛漫と咲き誇る花のような彼女が見せた…初めての涙だった。
「…私!……私ッ!!」
肩を震わせ、呼吸を浅くしながら、かおりは言葉を紡ぐ。
「冬弥とズッと、一緒にいたい!!」
彼女の言葉が俺の鼓膜を振動させる。
「…そのタメには闘わなくちゃいけなくて!わかってるけど!!
…かおりの決意の言葉…。俺は静かに受け止める。
「もしも・・・負けてしまって・・・死んでしまって・・・!」
「冬弥と…もう会えなくなっちゃうのは・・イヤだッ!!」
「…そう考えたら…すごく不安で……怖いっ!!」
想いを吐き出して、小さく震えるかおり。
「…かおり…」
「………」
…俺は少し、抱きしめている腕に力を入れる。
…かおり、こんなにも華奢だったんだ・・・・・
・・・この小さい身体で必死に闘おうとしているんだ。
「………」
……知っている。…自分自身との闘いは、他の誰かが直接助けてあげることはできない。
……勇気って人から与えられるモノじゃなくて、自分の中から振り絞るものだから。
……でも、だとしても。
彼女が、かおりが何が何でも生き抜いてやるっていう強い意志を持つための…
そのきっかけぐらいは作れるんじゃないか?
・・・俺にできること、俺がやれることと言えば―――――。
・・・冷静に思考を巡らせる。
「・・・かおり、聞いてくれ」
「・・・」
かおりの大きな瞳が、俺を見つめてきた。・・・
「俺、約束したじゃん?大会が終わったら聞いてほしいことがあるって」
「・・・うん」
・・・彼女を見つめる。少し赤くなって、でも相変わらず大きくて、綺麗な吸い込まれそうな瞳。
「……約束を追加するよ」
「追加…?」
俺はゆっくりと頷く。
「俺にはかおりのタメに走ることしかできない。勇気は自分でしか出せないから。・・・なら、俺は俺のできることを全力でやる!」
…ただの希望「やってみれたいいな」ぐらいだった思いを『約束』と『決意』へと変える。・・・閃いたそれが、本当に正解かはわからないけど。
「明日…ただ走るだけじゃあない。自分と勝負するよ。…自己ベスト更新して、優勝してみせる…!」
力一杯に言葉にする。
「それで・・・その戦いに勝った勝利のメダルを…かおりが勇気の出せるお守りとして渡すよ」
「冬弥・・・」
「んで、それと一緒にかおりが『病気に勝つんだ!』って思える言葉を言うからさ!」
・・・高慢かもしれない。俺の言葉とメダルが、彼女の気持ちをどれだけ動かせるのかなんてわからない。こんなものにどれだけの効果があるのか。
・・・それでも自分が彼女のためにできることは全てしたかったし、自分も少しでも恐怖のプレッシャーの中で闘いたかった。
「……へへ…」
かおりは俺の真剣な顔をしばらく見て、それから少しだけ柔和な表情を見せた。
彼女はまだ俺の腕の中だ。お互いに近い距離で見つめ合う。
「…まったく、そんなに気負って大丈夫?こけたりしない?」
かおりが照れ隠しをするように聞いてくる。…少しいつもの笑顔が戻ってきていた。…俺も笑って答える。
「そん時は盛大にこけて、かおりの分も負けてくるから大丈夫さ♪」
「…ふふ、バカだなぁ・・・」
「バカでもいいよ。かおりが少しでも勇気が出せるなら…なんだってするよ」
「……ありがとう…冬弥のこと、信じるよ」
「ああ!」
もう一度、二人で笑いあう。
「・・・うん、そう…だよね?・・・私、まだファーストキス、してないから…死ぬわけにゃ・・・いかないもんね?」
彼女はそう言って、赤い目のままクスっと笑った。
「・・・ああ、そうだったな?」
『死ぬ前にキスぐらいはしておきたいよね』
・・・それは、ゴールデンウィークに、俺と彼女が交わした会話だった。
「・・・明日、応援してるからね?」
背中に回された腕にきゅっと力が込められた。彼女が抱きしめ返してくれたんだ。
密着する身体と、体温。いい匂いと伝わり合う鼓動。
「ああ!絶対勝つよ!!」
もう一度、約束を口にする。力強く。
「うん!」
・・・頷く彼女は、いつも通りの笑顔が戻ってきていた。
「あ、そうだ・・・!」
かおりはそう言ってポケットの中に手を入れる。
「…お守りで思い出した。…私もね、冬弥に渡したいモノがあるんだ」
・・・そう言って、かおりのポケットから小さな紙袋が取り出される。
・・・なんだろう?…渡したいモノ?
彼女はそっと袋を開け、その渡したいモノを取り出す。
・・・・それは綺麗に編み込まれたミサンガだった。オレンジや赤、それに白色の糸が色鮮やかに混ざり合っている。
「…これ…かおりが?」
「…うん。冬弥が頑張れるようにって…作ってみたの」
そう言うと、彼女は照れくさそうにはにかんだ。目だけじゃなく、頬も赤く染めながら。
…それからかおりはゆっくりと、その綺麗で丁寧に編みこまれたミサンガを俺の手首に付けてくれた。
「…頑張ってね?」
かおりが上目遣いでそっと呟く。
「……冬弥の言葉、折角なら優勝と新記録のおまけつきで聞いてみたいから」
・・・にぃっと笑う彼女。からかおうとしているけど、その表情はとても明るくて、素直に見えた。
……それは最高に可愛い、俺を魅了して、心をくすぐり続けた笑顔。
俺にもう一度走る力を与えてくれた笑顔だった。
「ありがとう、かおり…千人力だ!」
…ミサンガをつけた左手がどこか温かいような気がした。
「明日、ぶっちぎるから、見ててくれよな!」
「…うん!!」
…俺の宣言にかおりが満面の笑顔で頷いた――――――。
・・・・絶対に、勝ってみせる!
俺は、もう一度、彼女の笑顔を見てそう決意した。
―――――――――・・・・・・
・・・そして・・・・
・・・・・・
「さてっと、これ以上は遅くなっちゃいけねぇよな」
頬を緩ませながら家路を急ぐ。
丁度、かおりを家に送り届けてきたところだ。
・・・かおりの家に着いた時、たまたまかおりの親父さんが玄関にいて、好意で身体の最終チェックを受けさせてもらうことになった。
『…ふむ、調子はよさそうだね、何かおかしいところは無いかい?』
かおりの親父さんは俺の腰、そして脚の動作を見ながらそう聞いてきた。
「いえ、全然!おかげさまで明日はやれそうです!」
まったくもってその通り。感謝の念も込めてそう答える。
『そうか…ならよかったよ。』
かおりの親父さんはそう言うと少し安心したような表情を見せた。
「・・・何か、ありますかね?」
少し不安になって聞く。すると、かおりの親父さんは直ぐに俺を安心させるように首を横に振った。
『いやいや、今見たところでは何も問題は無いから安心していいよ』
それから、落ち着いて言葉を続ける。多分、誤解を生まない様に。
『ただ、佐々木くんは、この数か月かなりハードな練習をしてきたからね。いつも慎重に診てきたつもりだが…万が一があったらいけないと思ってな。・・・この分なら大丈夫そうだけど、確実に疲労は抜いておくんだよ』
安心させるように、だけど少し真剣にかおりの親父さんは俺にそう告げた。
「…はい、わかりました!」
『よし、明日頑張ってな。…娘も楽しみにしているようだからね?』
…かおりの親父さんは俺とかおりのことをどこまでわかっているのか、じっと俺を見て笑った。
「・・・はい!頑張ります!」
・・・俺は力強く返事を返した。
・・・・・・・・・
・・・それから、かおりにもう一度明日また、って約束を交わしてから整体院を後にした。
手を振ってくれるかおりに俺も大きく手を振って応えた。
・・・・・・・
「へへ…」
思わず、彼女がくれたミサンガを見る。温かみのある色合い。俺の心を強くしてくれるような、そんな気がした。
・・・家まではもう少し。
今日はストレッチをして、早く休もう。
少し身軽にリズムを取って進む。
「よっと!!」
そのまま身軽に目の前にあった水たまりを飛び越える。身体は軽く羽が生えたみたいだった。
……が……
……違和感を感じたのは着地の瞬間だった。
…ほんの一瞬、わずかに足首に固いようなズッ…という重さ、あるいは「鈍さ」のようなモノが左足に現れた気がした。
・・・・なんだ・・・?
思わず、足首を見る。だけど、この時にはもうさっきの重さは欠片も無かった。
・・・軽くその場で屈伸をして、回してみるけど何の異常もない。軽くステップしたり、歩いてみてもいつも通りだ。
「……気のせい、か?」
一人、つぶやく。ソレは違和感とも言えないようなわずかな揺らぎのようなモノで、今この瞬間には本当に何も感じない。
……あるいは日常でも感じている些細なものを、大会前で慎重さと敏感さが誇張して感じ取ったのかもしれない。
取り合えず、家に着いてからもストレッチをしながら様子を見た。
…やっぱり特におかしなところは無かった。
・・・・・・・
「・・・明日、いよいよだな」
脚のことも特に問題がなくて、俺は少しホッとした気持ちでベットに横になった。それから、かおりから届いたLINEを確認する。
【じゃあオヤスミ!…明日、ファイトだよ♪】
そのLINEに、にやにやしながらスタンプをつけ、俺はスマホのディスプレイを消した。
それから部屋の電気を消して…外を眺める。夜空には夏の大三角が見えた。
・・・・決戦、だな…
瞳を閉じる。高鳴る鼓動を、教えてもらった呼吸法で整えながら、俺はゆっくりと眠りについていった…。
・・・・そして、決戦の明日がやってくるのだった――――――
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