第11話 青
「……あ。すみません本音出ました」
「がっ、は……」
扉から身体を半分出したまま、七瀬は呟く。そのナイフのような彼女の言葉が俺の胸に突き刺さる。
ああ、キモいことは俺にだってわかってた。でもな、好きな子の前で情報量過多になると男ってのは大体こうなる。きっとそうだ。そうであって欲しい。
七瀬はいつもの制服姿ではなく、オーバーサイズの黒の薄手のプルオーバーのパーカーをワンピースのように着ていた。裾から白い足が伸びている。
……なんか、下穿いてないように見えるからもうそれ着るのやめてもらえませんか?
「こ、こらハルちゃん! なんてこと言うの! 相馬くんに失礼でしょ!」
「葵ちゃん、この人には近づかない方がいいですよ。おまわりさん、怪しい人はこいつです」
そう言って七瀬は俺を指差す。本当に失礼なやつである。俺は庇ってくれた潮凪さんの言葉でなんとか精神を保ちつつ、言い返す。
「七瀬、お前言わせておけば……。大体昨日の今日でとんでもない噂流しやがって!」
「っ……! な、なんのことですか。わ、私じゃありませんから!」
「お前以外に誰がいるんだよ! 犯人限定されすぎて逆に名探偵も腰抜かすわ!」
「ふ、ふん! 大体、あんなこと言っておいてなにを今更! ……葵ちゃん、この人ね、わ、私のこと、食べてやるって」
「た!? い、言ってねえ! 断じて言ってねえぞ!」
「そ、相馬くん……?」
今まではこちら側に立って庇ってくれていたはずの潮凪さんがすすすっ、と七瀬の側に移動する。俺を見る目にわずかな怯えが混ざっている気がする。これはこれで……じゃなくて。
「潮凪さん、これは違くて! こいつが俺の家に転がり込んで晩ごはんを……」
「あ、葵ちゃんなら分かってくれるよね? この男が無理矢理晩ごはんを私に押し付けて。私、もう入らないって言ってるのに」
「晩ごはん……?」
潮凪さんは理解が追いつかないのか、顎に手を当てて考え込んでいる。
「この……七瀬、いい加減にしろよ」
多少の冗談になら付き合ってやれるが、潮凪さんの前でそれを許すわけにはいかない。俺にだって引けない時はある。
大体晩ごはんを無理矢理押し付けてくるとかどんな状況だよ。田舎のばあちゃんか。
「はっ、せんぱいこそそんな強気でいいんですか? 一度は見逃しましたが、今ここで葵ちゃんに全てを話してもいいんですよ……?」
「くっ……」
七瀬は意味ありげに潮凪さんに視線を送る。昨日は言いませんよとか言っておいてこれだ。だが、俺は七瀬の弱みを握っていないので言い返す言葉がない。とりあえず適当に応戦する。
「に、二度とエビフライ作ってやらねえからな!」
「なっ……ず、ずるいですっ!」
どう考えても対抗出来ている気がしないが、何故か効いた。エビフライつよい。
そこでふと気づく。七瀬のやつ、態度も言葉も生意気なのに目線だけは俺の方ではなくどこか他を向いている。時折ちらちらとこちらを見ては嫌そうな顔をして……そんなに俺の顔が見るに耐えないってのか? 泣くぞ?
そんな俺たちの争いをじっと眺めていた潮凪さんは、俺と七瀬を交互に見た後、納得するように微笑んで両手を胸の前で合わせた。
「なーんだ、二人は知り合いだったんだね! 早く言ってよ、しかもこんなに仲良しで」
「いや、知り合いというか」
「反吐が出ます」
俺たちの返事に潮凪さんは動揺することもなく頷くと。
「うんうん、なるほどね。二人の言い分は分かったから」
がさりと、床に置いてあったスーパーの袋を持ち上げて。
「――仲直りのために、一緒にごはん、食べよっか?」
天使のような微笑み。
そして俺の身体に衝撃が走る。
え? ごはん?
……潮凪、さんの。手作りの?
「……いや、葵ちゃん。それはやめとこ? ねっ? 食材も足りないよきっと」
「大丈夫、たっくさん買ってきたから」
自慢げに袋を掲げる潮凪さんを止める七瀬。なにやら知らないが、表情がやけに必死だ。ふん、俺なんかに潮凪さんごはんを食べさせるわけにはいかないってか?
バカ言え。
こんな人生に一度あるかないかのチャンス。
――逃すわけにはいかない。
「……悪い、七瀬。俺が感情的になっちまったな。この通りだ。お互いこの際水に流そう。噂なんて些細なことさ。ごはん食べて、仲良くしよう」
「誰ですかあなた! さらっと一緒にごはん食べようとしないでください!」
潮凪さんのごはんのためなら、普段は七瀬に絶対に下げたくない頭も余裕で下げられる。これが、大人というものだ。
「ほら、ハルちゃん? 相馬くんも謝ってるし、同じアパートの先輩後輩でしょ? 仲良くしなきゃ」
「せ、せんぱいを私の家に入れたくないんです! ……に、妊娠するかもしれません!」
「するか! どんな能力者だよ俺は!」
どこまで俺を落とせば気が済むんだこいつは……。だが、そういうことなら。
「……じゃあ、俺の家ならいいのか?」
「い、いや。そういう話では……」
「うーん。葵ちゃんが嫌なら、私の家にする? また戻らなくちゃだし、二人がいいなら、だけど」
潮凪さんの、家!?
「そうか……七瀬の家がダメなら仕方な」
「せんぱいの家にしましょう!」
潮凪さんの、家!!
「いや、俺の家散らかってるし」
「そうだよ、急だと相馬くんに悪いし」
「せんぱいの家」
「嫌だって…」
その瞬間。抵抗する俺の制服のネクタイをぐいっと掴むと、七瀬は俺の耳元で囁いた。おそらく潮凪さんには聞こえない程度の声音で。
「――いきなり葵ちゃんの家はせんぱいにはハードル高すぎます。それにほら、好きなひと、家に入れたくないんですか」
わずかに掠れたその言葉よりもなによりも、俺は急にすぐそばに近づけられた七瀬の顔が、唇が気になって仕方がなかった。ふわ、と甘い香りがして思わず顔を逸らす。
俺は潮凪さんの方に向き直り、言う。
「よ、よかったら俺の家で。なにもないですけど」
潮凪さんはきょとんとした顔で俺の方を見ていたかと思うと、まるで小さな子供のように悪戯っぽく笑った。
「それは助かるけど……。顔真っ赤だよ?」
「え?」
俺は思わず腕で口元を隠す。気づかなかった。なんだ? 潮凪さんを家に入れるというトンデモイベントのせいか?
「葵ちゃんがお家に来るからって興奮してるんじゃないですか? せんぱい?」
七瀬がからかうようにつぶやく。
「……ハルちゃんも、耳まで真っ赤」
「……へ?」
ばっ、と両手で自らの頬をおさえる七瀬。
ちらりと見た彼女のその顔には、また俺の知らない表情が浮かんでいた。
「ゆ、夕陽のせいだから」
七瀬は小さくぼやく。
ふと見上げた空は、まだやけに青かった。
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