ラベル

 忘れようと努力した嫌な思い出が、突然蘇る一瞬がある。匂いか、声か、景色か、感触か、引き金は人それぞれ違うがどれも陰鬱な気分を連れてくるのは間違いないだろう。

 ひぐらしが騒ぐ夏の終わり、私は重たいランドセルを背に歩道を歩いていた。曇天はまさに私の心そのもので、もうすぐ雨が降るのは明らかだった。ふと右手のポリ袋にぎゅうぎゅうに詰め込んだパンの耳を見た。給食で配られたものを譲ってもらったものだ。

「鳥に餌をやるから」

自分でも見苦しい言い訳だと思う。誰も見ていないのを確認し一本取り出す。少し湿った今日の晩御飯を口に放り込みながら、頭に浮かんだ言葉を呟いた。

「どうして私がこんな惨めな思いしなきゃいけないの」

ひぐらしは鳴き続けていた。

 私は中学に上がるまで海沿いの町に住んでいた。坂が多く、畑ばかりが広がっていたのをぼんやりと覚えている。子供の遊び場も限られており町唯一の商店街もシャッターが目立つ、そんな田舎町は缶詰工場で栄えており、例にも漏れず父もそこに勤めていた。何分兄弟が多かったので、私のごはんを下の子に譲るのも珍しくなかった。友達が自慢していたワンピースに比べ私の姉のお古のセーターはちっぽけだったと今でも思う。

 大不漁が続き缶詰工場もいよいよ経営が怪しくなってきた。給食のパンの耳こそ、あの頃の私にはごちそうだった。


 ある日父が同僚の軽トラに乗って帰ってきた。後ろの大層な荷物に弟達は興味津々で、遂に末っ子が被せてあった布を剥いだ。

「え、自転車だ」

「お前の誕生日プレゼントだ」

父は同僚に礼を言い、運転席から降りた。

「嘘、これ私の? 」

「勿論。凄いだろう」

「うん、うん」

私は頬をつねった。まさに青天の霹靂だ。そして父ははにかんだ笑顔を見せた。父からの突然の贈り物に唖然としていた。それからというもの私は有頂天で自転車を磨いていた。新品ではなかったがあの時の私にとっては唯一無二の宝石だったのだ。

 翌日、私は自分の自転車で登校してやろうかと一瞬考えたほど浮かれていた。どこで乗る練習をするのか、どこまで行こうか。足取りにも出るほどだった。だが、学校に着いてやっと私は嫌が応でもにやけた顔を戻さねばならなくなった。純白のワンピースを自慢していた友達が泣きじゃくっていたからだ。多分あの頃一番仲の良かった友達だったと思う。周りにもう何人かが慰めていた。彼女に訳を聞こうにも声が上擦っていて一文字も聞き取れない。何しろ丸一日塞ぎ込んでいたので誰も聞こうとはしない。そのうち誰かが結論付けた。あのワンピースがどうにかされてしまったのだろう。そんな些細な問題であっても、あの年頃では命に別状があるレベルの困難なのだ。数時間すれば、ワンピース事件も看過され始めた。

 家に帰った私は改めて自分の自転車を見直した。少し褪せた水色で丈夫そうなフレーム、何か剥がされた跡が不格好な所を除けば完璧だった。大方どこかに擦ったのだろう。私はその塗装の薄くなった部分に油性ペンで自分の名前を意気揚々と書き込んだ。

 お礼を言うために、ゴミだらけの父の部屋に行くことにした。ビールの空き缶やカップラーメンの容器が散らばった部屋には好んで行きたくなかったが、その時ばかりは直接礼を言いたい、そんな気分だった。軋む扉を開けた途端、異臭がたち込めた。鼻をつまみながら辺りを見回すが父親は見当たらない。奥の布団にもいない。ブラウン管がしきりにスキャンダルを喚いている。部屋を出ることにした私の足は偶然ゴミ箱に当たり、倒れた。チリ紙の山の中に丸められた銀色のラベルがあった。なんとなくそのゴミを開いた。

 中身を確認した刹那、頭の中に稲妻が走る。点が線で繋がった。嫌な予感がし、冷や汗が首筋を伝う。ラベルの正体は名前シールで、ワンピースを自慢していた友達の名前が丁寧に書いてあった。予感は確信に変わる。

 あの自転車は盗品だ。 突如、扉が開く。父だった。反射的にラベルを丸め隠す。

「自転車気に入ったか? 」

喉の奥から酷い言葉が湧き上がってくる。しかし瞬時に飲み込み、反射的に笑顔を作った。

「うん、勿論! 」

きっと人生の中で一番いい笑顔だったと思う。父も笑い返した。作り笑顔が一番鮮やかなのはきっと血のせいだ。嘘を吐く血なのだ。パンの耳も自転車も大差はない。血の繋がった屑だった。

 逃げるように父の部屋を後にした。雑巾を手に取り、盗まれた自転車に自分で書いた名前を擦って消そうとする。薄くなる気配すらない。擦っているうちに指の皮が剥げたことすら気付いていなかった。罪人の焼き印のように、消えない。

 そのうち私に最悪の案が浮かんだ。ある一つの目的のために、自転車を抱え外へ出た。乗れないので押して進むしかない。向かったのは裏山の竹林、その沼。深くて臭いので有名で、地元の子供でさえ滅多に近寄ろうとはしない。長い間見つからないことは請け合いだった。

 竹林の奥の沼に着いた時、もうすっかり日は落ちかけていた。立入禁止のテープを乗り越え、湿った地面を進む。自転車そのものを沼に沈める。盗まれた自転車を思い切り沼へ蹴り飛ばした。タイヤが泥に覆われていく。一刻も早く完全に沈んでほしかった。一部始終を見ていたのは私と蝉だけだった。ひぐらしが、私の悪事を誰かに言いふらさなさいように祈るしかなかった。


 時の流れは凄まじいものだとつくづく実感させられる。私が中学を卒業した年に父は心不全で亡くなり、ワンピースの友は東京へ引っ越した。万が一、父親が無罪だったのなら、真の悪人は私になる。父の優しさを捨て、友人の大事なもの捨てたのだから。たった二十年で、自転車を沈めた竹林も、毎日通った小学校も、廃れた商店街でさえ、新造された住宅街のコンクリの下だ。それでもあれだけは忘れることができていない。磔にされたような気分のまま、私はまた夏を迎える。

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