涙とその味

 私は落胆していた。寝過ごした貴重な休日は戻ってこない。三時までに仕上げておこうと思っていた原稿は真っ白。膝の上で飼い猫が呑気にあくびしている。春の陽気と心地よい体温が睡魔の勢いを一層強くしていたのだ。やられた。締切は近い、まさに断崖絶壁である。

 思いがけずヒットした前作は提出した中で一番適当に仕上げたものだった。3日でこしらえた駄作がいまや映画化である。世間からのプレッシャーが刺さるように痛い。主人公にした人物のモデルが誰か、かつてのクラスメートなら気付くだろう。現実から目をそむけるために三毛猫のわらびを軽く撫でた。間抜けな鳴き声が帰ってくる、5時のチャイムがノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。あの頃の私となんら変わらない、そんな日々を貪っている。おセンチに浸る暇があれば原稿を仕上げねば。携帯の着信音が鳴る前に。


 ――――――――――――――――――――――――


 草むらの影にひっそり生えたつくしのような学生生活を送っていた。灰色よりももっと薄い。何をするわけでもなく、校庭の外に意識を飛ばす。底辺高校と言われるだけあって、教室は荒れていた。ヤンキーは少なく、地味なヲタクが多い。私はどちらにも馴染めず難儀していた。進路はお先真っ暗。頭は悪く顔も中の下。そばかすと糸目がコンプレックス。一方彼女はまさに彼岸花だった。鮮やかで毒があり、儚い。同じ女なのにこうも違うものなのか。輝いていた、という表現は御堂京子には似合わない。焦がしていた、が正解か。

 前々から噂は立っていた。教師に手を出した、やくざの娘、百人切りを達成した、などなど。今思えばどれもぶっ飛んだ内容だが、あの子なら有り得た。素の顔も綺麗だったが、誰よりも綺麗であろうとする姿勢こそが御堂の真の魅力なのだろう。たくさんの男が御堂に近づき、そして無残にも散っていった。話す機会こそなかった私達に転機が訪れたのは高校生活最後の夏、最高気温を更新したあの日だった。

 

 保健室で涼んでいた。扉がピシャリと開く。

「センセ、いる?」

「い、いません…」

上ずった声になってしまった。

「ふーん。」

御堂はそっけない返事とともに棚という棚の扉を開け始めた。

「あれ…? ないじゃん、検査薬。」

思わずたじろいだ。 

「手伝ってよ、探すの。」

「え、あ、えええ?」

「わかんないの?妊娠検査薬。あの体温計みたいなやつ。」

恐る恐る立ち上がり、手前の引き出しを開ける。

「アンタさぁ、穂波だっけ? サボり?」

「アッはい、すいません…」

「なんで謝ってんのよ。ああ、あった。」

キットを手にとった御堂はクスリと笑った。

「じゃね。」

先生に書き置きを残し嵐は去っていった。

 たまに挨拶するくらい。たまに話をするくらい。たまにご飯を食べるくらい。たまに遊びに行くくらい。段々とステップを重ね、距離も近くなってきた。片親らしい。沢山いる兄弟のためにスナックで働いているそう。最近よく吐く。噂ほどめちゃくちゃな人ではない。あなたを誤解していた、と謝ると笑って許してくれた。

 秋風が吹き始めた頃、皆進路を固め始め私は焦りを感じていた。その日のうちに提出するように、と担任はしつこく念を押してきた。教室にはゆっくり斜陽が差し込んでくる。騒がしさが学生生活の醍醐味ではないか。独りでうつむいていた私の頭を軽く叩いたのは御堂だった。

「バイクでどっか行こうか。」

彼女の瞳の奥に、微かな影を見た。差し出された手を、恐る恐る掴んだ。


 少し塗装の剥げたヘルメットを被り、校舎裏のバイクに飛び乗る。彼女の背中に私自身を預けた。最初は何度か通った国道の上だったが、いつの間にか獣道を突き進んでいた。私はただ御堂のお腹を無我夢中でしがみついていた。夕闇が一番美しい時間帯になってきている。普段と違う夜の訪れを抵抗することなく受け入れていた。

 森を抜け、断崖に着いた。こんな場所があったのだ。水平線が見える。赤と青と黒、色で分けるのも無粋なくらいの沢山の色が空が混ざり合っていく。長い沈黙を経て御堂がついに口を開いた。

「今日、付き合ってくれてありがとう。」

「うん。」

「そろそろ終わるね、高校。」

「うん。」

「なんだかあっという間だったね。」

「…うん。」

「子供、産むんだ。」

「……うん。」

「最後、あ、の人振り、向いてくれなかった」

段々と言葉がちぎれてきた。私はどうすればよかったのか、どうするべきだったのか。まるで気持ちを隠すように私に覆いかぶさっている彼女の、さっきまで私が預けていた背中をそっと撫でた。偶然、彼女の涙が私の空いたままの口に垂れた。味は、今も思い出せない。

――――――――――――――――――――――――


 彼女は子を残し息を引き取った。赤ん坊の父親は既婚者で、その事実は隠されたまま子は孤児院に預けられている。今年県内トップの高校を受ける、と院長から聞いた。彼女をモデルにした小説の印税のいくつかを彼女の子のいる孤児院に名を伏せたまま寄付した。面影が見られるその横顔を窓から偶然見つけた時、あの時の涙を思い出せるような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る