第3話 仮面の男

 眠気と戦いながら、世界史の問題集を解いていた。先ほど淹れたコーヒーは冷たくなっている。今夜は冷え込みが厳しい。

 僕はふと部屋の隅にある物置スペースに目を遣った。白い不気味な仮面が一番上に置いてあった。

 冷めたコーヒーを飲みながら、その仮面を手に取った。僕にはその仮面が泣いているように見えた。

 高校二年生の春、彼は突然、登校拒否をするようになった。僕は特別親しい間柄ではなかったので、原因は分からない。それでも、陰湿なイジメが校内で起こっていたとは考え難かった。彼は確かに大人しく控えめな性格だったが、彼の友人らの話でも、そういった事実は浮かび上がらなかった。

 彼の登校拒否は二ヶ月続いた。そして、彼は仮面を付けて登校した。その時、校内が異様な空気に包まれたのを今でも僕は覚えている。もちろん、後から聞いて補足された事と当時の記憶が混じり合ってはいるけれど。

 教師たちの制止を振り払い、彼は廊下を突き進み、僕が授業を受けている教室に入って来た。ちょうど、若い爽やかな印象の数学教師が授業をしているところだった。仮面の彼は数学教師に近づき、何かを囁いた。

 僕の席までその声は届かなかった。次の瞬間、その数学教師は顔を歪め、後ずさる。仮面の彼の表情はもちろん分からない。彼はポケットからナイフを取り出した。

 生徒たちの悲鳴が上がるが、誰も動くことができない。僕はただ目の前の出来事をスローモーションで見ているような錯覚に陥る。

 ナイフが数学教師の腹部に突き刺さる。数学教師は倒れ込み、それと同時に駆け付けた体育教師たちが仮面の彼を取り押さえた。

 僕は首を横に振った。想い出したくない出来事だ。人は狂気という仮面を被ることができる。否、彼がただ狂気に走り、ナイフで刺したわけではないと、それだけは断言できる。そこには明確な動機があった。だが、それでも、それが全ての人に理解されるかどうかは僕には分からない。

 コーヒーマグを机に置いて、仮面を顔に付けてみた。昔、この仮面を付けて演劇に出演したことがあった。「オペラ座の怪人」のオマージュのような作品だった。仮面を付けた怪人。でも、僕は堂々と仮面を付けている怪人にはある種の尊厳を感じる。見えない仮面を被っている大人たちに比べれば。

 僕は仮面をそっと元に戻した。もう少しだけ勉強しないとまずいなと思いながら、机に向かった。

 情況次第で、僕も仮面の男になりえるのだろうか。ふと気配を感じて振り返ると、仮面の顔が視界に入った。仮面がまるで笑っているかのように見えた。

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