蛙の子
――さて、この下町深川にも本格的な夏がやってきた。今日は夏日で朝食を作るだけでしたたるほど汗をかくほどである。玄関でスニーカーを履きかけた瑞葉に涼生が声をかける。
「ほら、水着の袋忘れてるぞ」
「あー、いけない」
瑞葉の小学校は今日はプール授業である。ばたばたと瑞葉はプールの仕度をして学校へ向かった。
「まったく……前の日に用意しとけって言ってるのに」
涼生はそう愚痴っているが、涼生も小学校の頃はそう母親に言われていたので……所詮、蛙の子は蛙なのである。
「それじゃあ……もう一汗かくか」
大学は夏期休暇中の衛は『たつ屋』の厨房に立つと、朝からからクッキーを焼きはじめた。
「さーって、開店……と。藍ーっ、ごめんちょっと店見てて」
「はい、分かりました」
衛は藍に店番を任せると、シャワーを浴びた。
「くーっ」
冷たい冷水を浴びていると、熱でゆだった頭が冴えてくる。風呂場から揚がると、藍と翡翠が店先でおしゃべりをしていた。。
「人間は大変ですねー」
「僕はひやっとしているよ、ほら姉様」
「ふふふ」
付喪神達は呑気にそんな事を言っている。その店先で涼生は絽の着流しで水を撒いていた。ここ数日、雨の振っていないアスファルトの地面は水をすぐに吸い込む。絵のようなその姿に衛はつい見惚れてしまった。
「ああ、打ち水ですか」
「そうだよ。昔の知恵だね」
店先に吊した風鈴が風でチリンとなる。夏まっさかりだ、と衛はうんと体を伸ばした。
「ねぇ、衛くん大変!」
白玉とともにそう言いながら店頭に転がり込んで来たのは学校から帰宅した瑞葉だ。
「こら、ただいまは?」
「ただいま! ねぇ、大変なんだってば」
「なんなんだ、一体」
衛がようやく瑞葉の話に耳を傾けると、瑞葉はこそこそと衛に耳打ちをする。
「あのね、河童が出たんだって」
「……は?」
「信じてないんだ、衛くん」
いや、いくらなんでもこの都会の真ん中で河童はないだろうと衛は思った。
「座敷童や猫又もいるんだよ、河童だって居るに決まってんじゃん」
「それで、見たのか河童」
「ううん。でもね、蓮君が池で足を引っ張られたんだって」
蓮君とは今の所瑞葉が結婚したい男子ナンバーワンの男の子である。
「池ってどこの」
「ほら、翡翠くんが埋まってた地面のそばにあったでしょ」
瑞葉にそう言われて思い返すと、確かにそんなものがあった気がする。緑に囲まれて鬱蒼とした池であった。
「お前達、あんなところで遊んじゃだめだろ」
「うっ、とにかくね。その河童を退治しないと」
「退治って……。そんな所に近づかなければいいだろ。河童には河童の都合があるんだろうし」
「でも……瑞葉が退治するって言っちゃったんだもん」
瑞葉はそう言って親指を噛んだ。蓮君の前でつい気が大きくなってしまったのだろう。
「衛の言う事はもっともだけど、様子を見に行った方がいいかもしれないね」
「涼生さん」
「河童がいつもと違う事をするってのは何か訳があるのかもしれない」
涼生はそう言って、いつかの龍神のお守りを衛と瑞葉に手渡した。
「何も無いならそれでいいからさ」
こうして瑞葉と衛は八幡様の裏手の池――通称弁天池に向かった。
「あっ、蓮君。待った?」
「ううん」
そこには河童に足を引っ張られたという、蓮が待っていた。きりっとした眉毛の元気そうな男の子である。
「これ、衛くん。うちに今一緒に住んでるの」
「これとはなんだ、これとは」
「こんにちは、皆本蓮といいます!」
蓮は気持ちの良い挨拶をした。いい子だ。衛は少々複雑な気持ちでどうも、と返した。
「それで? 河童が出たっていうのはどの辺かい」
「このあたりです」
蓮は弁天池にかかる小さな橋を指さした。
「かくれんぼでこの辺に居たらぐっと足を掴まれて……」
「そうか、じゃあ見てみよう」
衛は蓮の指し示したあたりを身を乗り出して水面を見た。濁った水面は僅かに鯉の魚影を見せるだけである。衛は持って来た龍神のお守りをそっと水面につけた。
「うわっ」
衛はその水面を見た瞬間、尻餅をついた。
「……蓮君、確かにいるぞ」
「本当ですか?」
厳かな声を出す衛に釣られて蓮は池に駆け寄ろうとした。
「ああ、近づくな。あとな、危ないからもう家に帰りなさい」
「えっ」
衛は唐突に蓮にそう言った。
「これから退治するけど、こっから先は企業秘密だから。な、瑞葉」
「えっ」
「本当? 水元さん」
「えーと、えーと、うん……」
いきなり話を振られた瑞葉がとりあえず頷く。
「と、いう訳だ」
「分かりました。あとでどうなったか教えて水元さん」
「うん」
蓮は素直に衛の言う事を聞いて、家に帰って行った。
「……衛くん、本当に河童いたの?」
「……いいや。なんで分かった」
「演技がへたすぎるんだもん」
衛は瑞葉のじとーっとした視線を受けて、ポリポリと頬を掻いた。
「さ、さて! ちゃんと河童を探そう!」
「ホントに~?」
気まずくなった衛はことさら声を張り上げて、水面を覗いた。
「ほ、ほら……もしも蓮君になんかあったら瑞葉も困るだろ。涼生さんがな、河童の居る所にこのお守りを投げ込めばびっくりして出てくるっていうんだよ」
衛は早口になりながら紐を付けた守り札を池に放りこんだ。まるで釣りである。
「……出て来ないね」
池はシーンと静まり返り、瑞葉の落胆した声だけが響いた。
「釣りってのは、こうゆったりと構えてなくちゃ駄目なんだよ」
「衛くんは河童を釣るつもりなの?」
瑞葉が呆れながら水面を覗き混んだ。その途端、水面がごぼりと湧き上がる。
「えっ」
その合間から、無数の小さな手が瑞穂の足を掴む。そして水中へ引きずり込もうと瑞葉をひっぱった。
「衛くん、助けて!」
「瑞葉!」
衛が慌てて瑞葉の手を掴む。渾身の力で衛が瑞葉を引き寄せ、その衝撃で二人は池の畔に倒れ込んだ。
「はぁ、はぁ」
瑞葉の足には赤く小さな手の跡がついていた。
「このいたずら河童、出て来い!」
頭に血が上った衛は池に向かって怒鳴った。すると、再びごぼりと水面が揺れた。
「なんだ、河童……じゃない?」
やがて水面が割れ、現れたのは毛むくじゃらのボロボロの着物の男だった。
『あははははは! こりゃいい! 河童共、龍の血筋の娘を釣るとは!』
それは奇妙に反響した声だった。衛は瑞葉を背中の後ろに隠した。背中の小さな少女はかわいそうに震えている。
『どけ、その娘を寄越せ!』
男の手があり得ない長さで伸び、衛の手を掴む。衛は振り払おうとしたがぴくりとも動かす事が出来なかった。
「汚い手でうちの妹に触るんじゃないよ」
そこに、涼生が現れた。涼生が木札を投げると、衛を掴んでいた男の手は枯れ木のようにボロボロと崩れ落ちた。
「おん、めいぎゃ、しゃにえいそわか」
涼生が龍神真言を唱えると、得体の知れない男は大きく呻きだした。
『その耳障りな経をやめろ! 涼生!』
「……あんたにまた会うとは思わなかったよ、東方入道」
涼生はさらに龍神の加護を込めた数珠を投げこんだ。男はうめき声を発しながら池の底へと姿を消した。
「やっつけた……のか」
「いいや、追い払っただけだよ衛。済まなかったね。あんなのが出てくるなら俺がいるべきだった」
衛は泥だらけになりながらなんとか立ち上がった。
「瑞葉、とりあえずは大丈夫だ。怖いのは涼生さんが追い払ってくれたよ」
「うん、瑞葉平気だよ」
瑞葉は気丈に立ち上がり、涼生の側へと駆け寄った。
「涼生さん、河童さんは?」
「ああ、今事情を聞いてみよう。河童達、出ておいで。きゅうりがあるよ」
涼生が池に向かってそう声を張り上げると、こぽりこぽりと水面が揺れて小型犬くらいの大きさのトカゲと魚を足したような生き物が姿を現した。河童である。
『『たつ屋』のご主人……面目ねぇ……』
一番体の大きな河童が涼生に頭を下げた。
「まったくだ。俺の妹に手を出すなんて」
『あ、あの入道に脅されて仕方なかったんだ。あの入道、見せしめに長老を食っちまって次は子供らだというもんで』
「あいつにはなんて言われたんだい」
『に、人間の子供をさらってこいと』
「そうか……またアイツが来たらこれを使いな」
涼生はそれだけ聞くと、河童にキュウリと龍神の守り札を与えた。
『へ……へえっ』
河童達が池の底に姿を消したのを見届けて、涼生はきびすを返した。
「さ、衛、瑞葉帰るよ」
「待って下さい、俺には何がなんだか……」
「説明は後でするよ、とにかくそのどろんこを落とさないとね」
「はあ……」
三人は『たつ屋』に帰り、衛と瑞葉は風呂に入った。
「さ、じゃああの大男について説明しようじゃないか」
「はい」
居間のテーブルに涼生は向かい合わせに座り、話し始めた。
「あの男は『東方朔』という。分かりやすく言えば仙人かね」
「あれが仙人?」
「まぁね、今じゃ神仏にも疎まれてあんなになっているけどね」
言われてみれば、真言を聞かされて苦しむ仙人とは妙なものである。
「あの男はほら、神室の養父でもあったのさ。人魚の肉をあいつに食わせたのは東方朔だ。今、姿を現したという事は先日、神室が寺から逃げ出したのも関係しているかも知れないね。神室を封印した時に葬ったと思ったんだが」
「じゃあ、河童を使って子供を攫おうとしていたのは?」
「きっと神室の代わりに手足になる人間が欲しかったのさ……一体何を企んでいるのやら……」
涼生はそこまで言うと、さすがに疲れたとぼやいた。衛はその横で、とんでもないものが目を覚ました、と身震いをした。
「ねぇ、衛くん。そのとうほうさんはまた来るの? 瑞葉、嫌だな」
瑞葉はまだ引っ張られた感触が残っているのか、足をさすっている。
「そうだなぁ、あいつは神仏に嫌われているらしいからお不動産と八幡様にお参りに行こう」
衛はなんとか不安だけでも取り除いてやりたくて、瑞葉にそう提案した。
「それはいい考えだね。よくお参りしてありったけのお守りを買っておいで」
「うん、わかった涼生さん」
「あと瑞葉、あのおじさんが嫌いな言葉をあとで教えてあげるから」
衛の言葉だけでは少し不安そうにしていた瑞葉だが、涼生がそう言った事で少し不安が和らいだようだ。
に、してもあの入道をなんとかしない限りまた不穏な日々が続くな、と衛はため息を吐いた。
東方朔の事は心配ではあるものの、自分に出来る事は少ない。衛は歯がゆい気持ちを抱えたまま、今日も喫茶店の店先に立つ。そんな衛を見て、藍が指摘した。
「なんか顔色が冴えませんね」
「付喪神が顔色なんか分かるのか?」
「だんだん分かるようになってきました。特に衛さんは分かりやすいですから」
衛はそんなに分かりやすいかな、と自分の顎を撫でた。
「もし、ここが『たつ屋』でしょうか」
そこにやって来たのは、二人の老人だった。おそらく夫婦である。
「はい、なんにしましょう」
衛はやっと客が来たか、と立ち上がったが、その老夫婦は席を選ぶ様子すら無い。
「あの……?」
「あ、その……私達は涼生さんに用事がありまして……」
「……ああ」
せっかくきた人間までよろず屋の客なのか、と衛はうなだれながら涼生を呼んだ。
「涼生さーん」
「なんだい」
「お客さんです」
涼生が二階から降りてきて、老夫婦の顔を見るなり険しい顔になった。
「なんだい、電話で断ったはずじゃないか、うちはお門違いだって」
「そこをなんとか……話だけでも聞いてください」
「しょうがないね……衛、お茶の用意をしてくれるかい」
涼生は衛にそう頼むと、老夫婦を居間に通した。衛もお茶を出してそこに同席する。
「で、遺産相続だっけ?」
「はい、先日娘が亡くなりまして。その遺言で遺産を養護施設に寄付するとなっていたんです」
「気概のある娘さんだ。結構な事じゃないか」
「ええまぁ……ただ、娘はこう条件を付けたんです。この箱を開けられたら遺産は私達に贈ると」
そう言って妻の方が箱を取りだした。金属製の無骨な古い金庫である。
「そういうのは鍵屋に持って行っておくれよ」
「もちろん持って行きました。でもどうしても開かないんです。そんな時に『たつ屋』さんの噂を聞きまして」
「あやかしの仕業だっていうのかい」
涼生は金庫を手にした。とたんに白い筋が箱から漏れ出して人型にゆらゆら揺れる。
『そうともさ、はこが開かないのはオレのせいだよ』
人型はそう言って笑うように揺れた。
「ふうん、付喪神のなり損ないかね」
「こ、これは、退治出来ますか」
老夫婦の夫が、涼生の言葉に顔を輝かせて聞いた。
「この箱ごとぶっつぶせばいけるさ」
「それは……遺言状で止められてるんです」
夫はがっかりしたように肩を落とした。それをあざ笑うように物の怪が老夫婦には聞こえない声を発する。
『オレの命令を聞けたらあけてやってもいい』
「ふむ、この物の怪の命令を聞けば開けて貰えるってさ」
「本当ですか、是非!」
『町内のゴミ掃除を三日!』
「三日間町内のゴミ掃除をしろってさ」
老夫婦は半信半疑ながら、涼生の言葉を聞くと去っていった。衛は半信半疑で涼生に問いかける。
「あいつ、本当に開ける気なんですかね」
「さあね、俺は通訳するだけさ」
涼生はそうすまして答えた。そして三日後、再び老夫婦がやって来た。夫が食いつくように涼生に聞く。
「掃除して来ました。物の怪はなんていってますか」
『次は老人ホームのボランティア!』
「老人ホームのボランティアだと」
「そうですか……」
再び肩を落として老夫婦は去った。衛はやはり合点がいかない。
「あの物の怪は何をさせたいんだ……?」
「さあね」
涼生はやはり冷たくそう答えるばかりであった。
「老人ホームに行って来ました。今度は、なんて言ってますか」
『チャリティマラソンに参加しろ!』
「……チャリティマラソンに参加しろだそうだよ」
「そんな無茶な! あんた適当な事言ってるんじゃないよな」
マラソンと聞いて、夫は激怒した。まああの腹じゃとても走れそうに無いよな、と衛は勝手に納得した。
『ふん、からかい甲斐のない奴らめ』
物の怪はそう言うと、ぺっと何かを吐き出した。丸薬のようなものが掌に転がっている。涼生がそれを拾って匂いを嗅ぐ。
「これは……反魂香だ」
「反魂香?」
「死者の姿を見ることが出来るお香だよ。どうだい、あんたらここらでひとつ直接娘さんの言う事を聞いてみちゃ」
そう言われて老夫婦は顔を見合わせた。
「……お願いします」
「それじゃ、ちょっと待ってな」
涼生は二階に上がり、香炉に反魂香を焚いて持ってきた。白い煙がすうとたち、みるみる人型をとった。やがて輪郭がはっきりとし、四十路くらいの女性の姿になる。
『お父さん、お母さん』
「ああ……志保子」
老夫婦が感慨深げに声を漏らした。
『この香が焚かれてるって事は箱を開けられなかったんですね』
「志保子、この箱はどうやったら開くんだい」
『簡単よ。十月十日、この日の意味が分かったら開くわ』
「……お前が出て行った日か」
そう夫が呟くと、それまでしおらしかった志保子の口が大きくつり上がってがばっと開いた。
『そうだよ! このごうつくばり夫婦! お前等が殴って金をむしった娘が出てった日だ! 残念だったな』
そう言うと、カタリと音を立てて箱が開き。白いもやはたちどころに消えた。
「なにか入ってるね」
涼生が手をつっこむとそれは封をした紙だった。老夫婦がそれを開く。
「……そんな」
「何が書いてあったんだい」
「すでに全財産を養護施設に寄付したと」
「……そうかい」
老夫婦が一回り小さく見える程にしょげかえってとぼとぼと帰って行った。
「やっぱり遺産を渡すつもりはなかったんですね」
「やっぱりって最初から分かってたのかい、衛」
お代代わりに老夫婦が置いて行った反魂香を手に、涼生が問いかけた。
「いや、あの老夫婦一度も娘が死んで悲しいとか言わないし、そもそも娘の遺産をあてにするなんて……ねぇ」
それを聞いた涼生は薄く笑った。
「頼もしいね。あーそれにしても人間相手は疲れるね。あやかしの方がよっぽど正直だ」
それもそうだ、と衛は涼生の言い分になんだか納得してしまったのである。
「衛さん、私達いつも家事頑張ってますよね」
「え? ああまぁそうだな」
「お皿荒いに洗濯に掃除機かけたり、僕たち頑張ってますよね!?」
「お、おう」
藍と翡翠、付喪神の姉弟が衛に突然そんな事を言ってきたので何事かと衛は身構えた。
「お願いがあります!」
「どうしたんだ?」
「実は……来週の日曜日は私達の誕生日なんです」
「ああ、そうなんだ」
衛はなんだそんな事か、と肩の荷を降ろした。そんな衛にずいっと藍は近づいた。
「いいですか、私達が付喪神になってから一周年なんです」
「おー、なるほど」
「それでこの間、私インターネットで調べたんですけど」
「おいおい、いつの間にパソコン使えるようになってるんだ」
付喪神達は衛達と暮らすうちに現代の文明の利器にいつの間にか親しくなっていた。
「一歳の誕生を祝ってやる一升餅っていう行事があるみたいじゃないですか」
藍が思い詰めた表情で切り出した。翡翠が続いて三つ指ついて衛に懇願した。
「衛さん、居候の身で申し訳ありません、一生のお願いです。一升餅をやってくれませんか」
「一生のお願いですって……俺も居候だし、君たちご飯食べないだろ」
「ええ、ですからお餅は載っけるだけで……」
付喪神達の必死のお願いに、衛はいつも世話になっているしこれくらいやってもいいかなと思った。
「いいよ、二人の付喪神になって一周年記念やろう」
「本当ですか!」
「良かったねぇ、姉様」
衛の言葉に藍と翡翠は手を取り合って喜んだ。衛はその場で伊勢屋に餅の注文をしに行き、その後でスーパーに寄った。
「どうせだから豪勢にいこう。二人……びっくりするかな」
そして日曜の当日がやって来た。誕生日会の準備をするからと衛は早々に藍と翡翠を家から追い出して準備に取りかかった。
「瑞葉、お手伝いしてくれるか」
「うん、ご馳走作るんだね」
「まあ材料費は大した事ないけどね」
衛は人参とタマネギを細かくみじん切りにする。それをビニール手袋をはめた瑞葉が鶏のお腹に詰めていく。作ろうとしているのは丸鶏のローストチキンだ。実は毎年クリスマスのローストチキンは衛のお手製なのだ。
「瑞葉、上手に入れられた?」
「うん!」
衛はその間に作っておいたハーブにんにくバターを鶏の表面全体に塗っていく。さらに塩胡椒をして付け合わせの野菜とローズマリーを散らしてアルミホイルをかけてオーブンでじっくり三〇分焼く。全体に火がとおったら、今度はアルミを外して皮がぱりっとするまでオーブンで再度焼いた。
「熱いから、気をつけろよ」
「うーん、いい匂い」
焼きたてのローストチキンから溢れた肉汁で、ソースも作る。肉汁に白ワインと蜂蜜を入れコンソメを入れて煮立たせる。
「さて、もう一丁」
衛は台所を一旦片付けると、今度は小麦粉を計る。ボールに卵とグラニュー糖を入れてハンドミキサーで泡立てる。衛は今度はケーキを作ろうとしていた。粉をふるい入れ、スポンジを焼く。
「ほら、お手伝いのお駄賃」
「わーい」
焼きたてスポンジのはじっこを貰った瑞葉は歓声を上げた。生クリームを塗って、瑞葉と一緒にイチゴやメロンのフルーツを盛り付けた。
「さ、もういいよ。瑞葉、藍と翡翠を呼んで来てくれ」
「はーい」
瑞葉が二人を呼びに行く。瑞葉に手を引かれた藍と翡翠が目をつむりながら現れた。
「藍ちゃん、翡翠くんもういいよ」
二人が目を開けるとそこにはローストチキンと手作りケーキが並んでいた。
「すごい……これ作ったんですか?」
「もしかしてこれ僕達に載っけて貰えるの!?」
「ああそうだよ」
衛がそう答えると、二人は手を取り合って喜んだ。
「嘘、夢みたい」
藍が思わず涙ぐむ。
「おいおい泣いてちゃ、ケーキが盛れないよ。さ、お皿になってくれ」
「は、はい……」
二人はさっと皿の姿に戻った。藍の上にはケーキを、翡翠の上にはローストチキンを盛った。
「瑞葉、涼生さんを呼んでおいで」
「はーい」
さて、涼生を加えて家族で付喪神を囲う。
「はっぴバースデーあーいちゃーん、はっぴバースデーひすーいくん」
瑞葉が誕生日の歌を歌う。
『本当にありがとうございます』
「うん、二人にはお世話になってるから」
こうして付喪神はご馳走を盛ってもらって感激し、人間達はご馳走に舌鼓を打った。
「衛、これはワインに合うね」
あやかしに誕生日なんて、と愚痴っていた涼生もローストチキンを食べた途端に笑顔になった。
「さ、次は一升餅でーす」
上に載っていた食べ物を別の皿に移し、洗った後に衛は用意していた餅を二人に載っけた。
「本当は一生ごはんに困らないようにって意味らしいんだけど」
『末永くごはんを盛って貰えますように……ですかね』
コロコロと藍の笑い声が響いた。
『僕達は幸せな付喪神だね、姉様』
翡翠は感慨深げにそう言うと、人間の姿に戻った。
『今日はありがとうございます』
藍も人の姿になって人間達にお礼を述べた。
『私たち、これからも家事や育児をがんばります……!』
藍のその宣言を聞いて、衛はこんなにあやかしをこきつかっていいんだろうかと少々考えてしまったが、二人が嬉しそうなのでまあいいかと思い直した。
こうして奇妙な付喪神の誕生日会は幕を閉じたのである。
七月も終盤になり、瑞葉の学校も夏休みに入った。瑞葉は数日はただ家族と一緒に過ごす事に満足していた様子だったが、次第にヒマを持てあますようになったようだ。
「こら瑞葉ー? 絵日記帳は書いたか?」
「んー、だって書く事ないんだもん」
流生が瑞葉にそう注意する度に瑞葉がそう言い返すと、衛はドキッとして図書館に連れていったり、公園に連れて行ったりしていたのだがだんだんそれもネタ切れになって来た。
「涼生さん、ちょっとは瑞葉の面倒みてくださいよ」
「んー? 勝手に遊ぶだろう」
「いやいや……」
これではどちらが保護者かわからない。衛はそろそろ海水浴とかBBQとか本格的なレジャーをしないと、と思ったが例の得体の知れない仙人がいつ現れるかと思うとなかなか遠出する決心もつかないのであった。
「お兄ちゃん、水着買って!」
そんなある日の事である。瑞葉が突然そんな事を言い出した。
「水着なら学校のがあるだろう」
「そうじゃないのーっ、カワイイやつ!」
「そんなのどうするんだ」
「あのね、蓮君のお姉ちゃんがプールの無料券があるから一緒にどうかって」
「へぇ、どこなんだ」
都内のプールならちょっと行った気になるし、涼生からもそう離れないでも済む。衛はそう考えて瑞葉に行き先を聞いた。
「ホテルにゅーおーたにだって」
「ニューオータニ!?」
「ね、衛くんお願い。知佳ちゃんに蓮君取られちゃう!」
瑞葉の必死の懇願に、衛は困惑していた。最近の小学生はホテルのプールに行くものなのか?
「おや、ニューオータニのプールかい」
「涼生さん」
「いいんじゃないかい。俺が付きそうよ」
戸惑っている衛を余所に涼生は行く気まんまんになっていた。
「俺もちょっと前にはカクテル片手にプールサイドを闊歩したもんさ」
「涼生さん……」
夏休みにあちこち連れて行けないし、これ以上我慢させるのもかわいそうか、と衛は思い直した。涼生はその横で蓮君のお母さんに電話をかけた。
「ええ、自分と親戚の子で付き添いますんで……」
ホテル……ホテルのプールって自撮りしまくったりする所だろ……大丈夫かな……。衛は今度は自分が不安になった。
「わぁっ」
「こら、静かに」
ホテルニューオータニは千代田区紀尾井町にある老舗ホテルだ。入った途端に歓声を上げた子供たちを思わず衛はたしなめた。その横で涼生は蓮君のお母さんに挨拶している。
「この度はありがとうございます、皆本さん」
「いいえ、旦那の仕事の関係でチケットを貰ったものですから」
蓮君のお母さんはすらっとした美人だ。今日のメンバーは他に同級生の知佳ちゃんとそのご両親である。今日は水着姿にサングラスをかけて長い髪をくるりとまとめた涼生にお母さん達は見とれている。涼生は普段は着物で隠れているが、すらっとしてうっすら腹筋が浮いている均整の取れた体だ。それでも日焼けが嫌なのか水着の上からパーカーを着ている。
「さ、とっとと行くよ」
そんな彼女らを余所に、涼生は子供たちを連れてさっさとプールへと向かっていった。
「すみません、愛想なくて」
「いえ、下町の人はあんなもんでしょう」
蓮君のお母さんはとくに気にした風でもなく、涼生の後へと続いた。
「ほわー、これがホテルのプール……!」
衛は田舎から出た苦学生の為、ホテルに試食目的で行くことはあっても遊びに来たのは初めてだ。ずらっと並んだデッキチェアに衛は圧倒された。
「わーっ、ビーチボールがあるよー」
「知佳ちゃんパース!」
子供たちはそんな事は関係無しにはしゃいでいる。瑞葉はショッピングモールで新しく買ったピンクのフリルの水着を着ている。お友達の知佳ちゃんはタンキニタイプのブルーの水着を着ていたので、新しい水着を買って正解だったみたいだ。ここでスクール水着じゃ不憫である。
「さて、俺はカクテルでも飲むか。なんてったってプールサイドだし」
颯爽と涼生はプールバーへと向かった。
「さぁ、君たちはこっちの浅いプールな」
そんな涼生に変わって衛は子供たちを引率する。子供たちはキチンと足から水に入って、ぱちゃぱちゃと水と戯れている。
「ね、このお兄ちゃん河童を退治したんだよ!」
唐突に蓮君がそんなを言いだした。知佳ちゃんは信じられないと目を見張る。
「嘘だー」
「また蓮はそんな事言って」
「本当だもん!」
知佳ちゃんの両親と、蓮君のお母さんの視線が衛に集まる。衛はこそこそと大人たちに耳打ちをした。
「こ、子供の創造力を奪ってはいけないと思うんです」
「おおなるほど」
なんとか大人を誤魔化して、衛は子供たちに向き直った。
「いいかい、河童は池から手を出して子供を引っ張り込むんだ。池の側にあんまり近寄っちゃいけないよ」
「へぇー」
衛の言葉に子供たちは大きく頷いた。これで不用意な水の事故も防げるだろうと衛が思っていると。
「でもねー弁天池の河童は大丈夫だよ!」
瑞葉の一言がそれを台無しにした。
「弁天様の河童は龍神が守ってるから、いたずらしなくてもいいんだよ」
確かにその通りなのだが……。衛は正直すぎる瑞葉に頭を抱えた。
「ほら、君たち。これを膨らませて来たよ」
「わー知佳ちゃんのお父さんありがとう!」
子供たちは渡されたビーチフロートによじ登って遊びだした。
「氷川くんはいける口ですか?」
「ああ、まぁ」
「子供たちは妻が見てますから、どうです。ビールとか。一杯くらいいいでしょう。家族サービスしてるんだし」
「お、いいですね」
さすがホテルのプールバーなお値段だったが、さんさんと日差しの降り注ぐプールサイドで飲むビールは格別に美味かった。
「はぁ、うまいですねー」
「ええ。あ、あれ瑞穂ちゃんのお兄さんじゃないですか」
そう言われて衛が視線を移すと、涼生がグラマラスな外国人女性と話しこんでいる。
「ふん、俺もまだ捨てたもんじゃないね」
「お兄……涼生さん、なにしてるんですか?」
「ふふふ、内緒だよ」
そう言って涼生はにやっと笑って去って行った。ここで一番アーバンリゾートを漫喫しているのは涼生かもしれない。ああ、ここに穂乃香がいればいいのに!
「俺、ちょっと泳いで来ます!」
「氷川さん!?」
衛はそう言って大人用のプールに飛び込んだ。雑念を取り払うように激しくクロールをしながら、こんな陽気な場所に神仏にすら嫌われたヤツが出てくる訳無いと衛は思った。
暑い日が続いている。特に地面の照り返しの強い店先は結構な熱さで、衛は少しでも涼を取ろうと涼生のマネをして打ち水をしていた。
「あの、もし」
「ひゃっ!?」
そんな衛の背後から気配なく声をかけているものがいた。衛は驚いて、すっとんきょうな声を出してしまった。
「あ、ごめんなさい」
「おや、誰かと思ったら鞠さんじゃないですか」
衛が振り合えると、そこにいたのは深川モダン館の座敷童、鞠であった。この夏日の中、振り袖の着物が悪目立ちしている。
「どうしたんです」
「仕事の依頼です。涼生さんは居ますか」
衛はそれを聞いて心の中でガッツポーズをした。正直この間の大繁盛はいい売り上げになったのだ。
「それじゃあ、中へどうぞ」
衛は愛想良く鞠を居間へと案内した。
「涼生さん、座敷童の鞠さんがおいでですよ」
「おやおや、なんだい仕事かい」
「そうみたいです」
衛は、鞠と涼生に冷たい麦茶を出すとその場にちゃっかり居座った。臨時収入があったらちょっといい扇風機が欲しいななどと考えながら。
「それで、今度はどうしたんだい」
「はい。実は私の依頼じゃないのです。でも涼生さんくらいしか相談出来る相手が居なくて」
「ほう?」
「私の住み着いている深川モダン館のガイドのお爺さんの知人が近頃げっそりと痩せてうわごとを吐くようになったんです」
「そりゃ、ボケか病気じゃないのかね」
相変わらず涼生の舌鋒は鋭い。鞠はくすりと笑うと静かに首を振った。
「それがある日を境に急にだそうです」
「ほう」
「ガイドさん達の噂話でその人が住んでいる所も分かってます。どうか様子だけでも見て貰えませんか。おじいさんたちが心配しててかわいそうなんです」
鞠はそう涼生にお願いをした。
「ふーん、老人ってのは金を貯め込んでるもんだしねぇ……よっしゃ、様子を見てきて貰おう。衛!」
「ふぇっ!?」
「あんた、俺に付いてきな」
涼生は鞠の依頼を受けると返事すると同時に衛に声をかけた。またも衛を引きずり込む気らしい。
「それじゃ、どうなったかあとで知らせるから今日はお帰り」
「はい、よろしくお願いします」
鞠は礼儀正しく何度も頭を下げて去って行った。
「で、なーんでこのクソ暑いのに二人揃ってスーツなんですか」
無理矢理担ぎ出されてぶうたれているのは衛である。大学の入学式以来のスーツに袖を通し、流れる汗をハンカチで拭っている。同じくスーツ姿の涼生だが、不思議なことに汗一つかいていない。衛は本当に同じ人間だろうか、と思った。
「エプロン姿じゃさまになんないだろ。いいかい俺の言った通りにするんだよ」
「ふあい……」
涼生と衛はとある一軒の家の前に来ると、インターホンを鳴らした。しばらくして返答があった。
「はい、森口です」
「あー森口さん、福祉課の方から来ました、井川と申します。地域の見守りの一環でお伺いしました」
「あー、大丈夫です……」
「ちょっとお顔だけでも見せて貰えませんかね」
衛がそういうと、ちょっとの間の後にカチャリと鍵が開いて老人が顔を出した。その顔色は土気色で肩で息をしていた。とても大丈夫そうには見えない。
「ちょっと失礼しますよ」
細く開けたドアを涼生があっという間にこじ開けて中へするりと入った。
「な、なんだ。あんた警察呼ぶぞ!」
「そりゃ結構だけどね。あんたそのままだと死ぬよ」
「な、な、な……」
老人が絶句した途端、けたたましい声が家中に響いた。
『ワンワンワンワン!!』
「ひっ!」
老人は怯えて頭を抱える。衛は声の発生源――老人の背中をじっと見た。
「森口さん、だっけ。あんた背中になに飼ってるんだい」
「こっこれは……」
「いいよ、衛。ひんむいちゃいな」
衛は涼生に言われるがままに老人の着ていたジャージを剥いだ。
「うわっ……これ……出来物?」
窪みのある巨大なできものが背中一面に出来ていた。ごぼりごぼりと黄色がかった膿を吐き出し、赤黒く腫れている。
「こりゃ人面瘡ってやつさ。衛、何か食べ物持ってるかい」
「飴くらいしか……」
「ここの口みたいな所につっこんでごらん」
衛は恐る恐る飴を出来物に近づけると、べろりと舌のようなものが出てきて飴をかっさらっていった。
「うわあ!」
「やっぱりね」
涼生はうずくまる老人の前にしゃがみこんで問いかけた。
「あんた、これを取って欲しいかい?」
「とっ、取れるのか!? 医者に行っても駄目だったんだ」
「ああ、俺達は拝み屋だからね。こういう化け物退治が専門なんだよ」
「な……なんだって?」
驚く老人を前に涼生は二本指を突きだした。
「成功報酬で二十万。これ以上はびた一文まからないよ。払わなかったらまた出来物をはっ付けてやる」
あまりの展開にパクパクと口を開いたり閉じたりしていた老人だったが、しばらくすると観念したように小さな声で答えた。
「……頼む、このままじゃ俺は死んじまう……」
「よし、決まりだ。衛、漢方屋に行ってこの紙を見せておいで」
「はっはい」
衛は涼生から紙を受け取り、御利益通りの漢方屋に向かった。それを見届けた涼生は立ち上がった。
「さて、この家に酒はあるかい」
「そこに……日本酒と焼酎が……」
「ふん、ちょっと貰うよ」
涼生は台所にあった焼酎を手に老人の所に戻った。
「ふーん、いい焼酎じゃないか。さ、背中出しな」
手にした焼酎を人面瘡に注ぐ涼生。出来物は焼酎をまるで生き物のようにぐびぐびと飲み干した。
『へへへ、こりゃありがたいご馳走だねぇ』
「どうだいいい気分になったかい」
『ああ。もっとおくれ』
「さあどうぞ」
人面瘡は心なしか赤くなって上機嫌になった。涼生は酒瓶を手に人面瘡に語りかける。
「なあ、あんたこんな老人に取憑いてどうするつもりなんだい」
『ははは! そんなの当然こいつを取り殺してやるに決まってるじゃないか』
「そうか。こいつはそんなに嫌なヤツなのかい」
『当然さ、こいつは公園に毒を撒いて犬猫を殺しやがったんだ。何匹もな』
「ふーん」
涼生が目で老人の顔を見ると、老人はぶるっと身震いをした。
「本当なのかい?」
「ああ……動物の声や匂いが嫌いで、公園に……」
『ワンワンワンワン!!』
「ひゃあ! 助けてくれ!」
「あんた、人面瘡は取ってやるけどね、これはあんたを死ぬほど恨んでるやつがいるって事なんだよ。肝に命じなね」
涼生は冷たい声で老人に言い放った。ちょうどそこに衛が買い物を済ませて帰ってきた。
「涼生さん、これです」
「ご苦労様。いいかい爺さん。これは貝母っていって人面瘡が大嫌いなものさ」
そういって涼生は人面瘡の口をこじ開けると粉を放り込んだ。
『ぎいいいやああああ』
断末魔の声を残して、人面瘡は静かになった。
「ほい、二十万」
「本当に消えた……ああ払います、払います」
老人は部屋の奥にとてとてと駆けていき、すぐに二十万を持ってきた。
「さ、次は無いからね。人の恨みを買わないように慎重に暮らすんだね」
「はっ、はい」
へこへこと頭を下げる老人を残して涼生と衛はその場を後にした。
「はー、おっそろしい妖怪でしたね!」
「そうかい、俺ゃやっぱ人間の方がよっぽど恐ろしいと思うけどね」
「? 涼生さん、どうかしました? あ、なんで焼酎持ってるんです?」
「これはチップだってさ」
涼生はチャプンと焼酎の瓶を揺らして先を歩いていった。後にはどうも納得のいってない顔の衛が残された。
翌日、衛は息苦しさで目を覚ました。時計をみればまだ四時である。
「はぁ、またか」
衛は手探りでリモコンを探すとエアコンのスイッチを入れた。涼しい風がすーっと漂ってきたのを感じる。
「なんかだるい……」
そう、これは怪異ではない。ただの夏バテである。そこから寝付けなかった衛は早々に階下に降りて朝食を作り始めた。
「なにバタバタやってんだい」
そこのやってきたのは寝間着の浴衣姿の涼生である。涼生も眠りが浅かったらしい。
「ああ、起こしちゃいましたか。いやー、暑くて寝てられなくて」
「俺もだよ」
二人してため息を吐く。早朝だというのに、生ぬるい風が居間を漂っていた。
「夏バテ防止にはビタミンBだったけな……今日は豚しゃぶサラダにしますかね」
衛は暑くても口にしやすいレシピを挙げた。そんな衛に涼生は不満そうだ。
「そうやって毎日、冷や奴だのそうめんだのじゃないか……ちょっと飽きたよ」
「そうですか……うーん、そしたらウナギでも買ってくるか……」
「それもいいけどねぇ。今日は自炊はいいから、外に食べにいかないかい」
「ああ、いいですね」
「たまには暑気払いと行こう」
涼生も揃っての外食は初めてだ。たまにはそんなのもいいかもしれない。
「で、どこ行きます?」
「俺にまかせておいで」
涼生はトンと胸を叩いた。衛はここは年長者にお任せしよう、と考えた。涼生は地元の人間だし、いい店を知っているに違いない。
「あー、夕飯作らなくていいって思うと楽だー」
暑い中買い物に行かなくてもいいし、調理の最中火に炙られることもない。衛は上機嫌で店番をしていた。
「はい、冷たい緑茶です」
「お、藍。ありがとう……お、うまい」
「本当ですか、『氷だし』っていう方法で淹れて見たんです」
「まーたインターネットか」
「うふふ、便利な世の中ですね」
藍の淹れてくれたお茶はほのかに甘く、旨味の強いものだった。
「味が分からないのが残念です」
藍は最近、お茶を淹れる事に嵌まったらしくてよくパソコンにかじり付いてメモを取っている。お茶の味というより、手順が色々あるのが楽しいらしい。なので衛は藍の為に店のキッチンに色んな種類のお茶を揃えていた。
「おやおや、衛どの。いいものを飲んでおるな」
「ああ葉月さん」
衛が冷たいお茶を楽しんでいると、出世稲荷の使いの葉月がやってきた。今日は夏らしく紺の絽の着物に身を包んでいた。
「今日は呼んでくれてありがとうな」
「えっ」
「なんだ聞いとらんのか。涼生のやつめ」
葉月はむくれると、衛の飲みかけのお茶をぐっと飲み干した。
「ほーっ、うまい。ああしまった。これからビールを飲むというのに」
「相変わらず意地汚いね、葉月」
「おう、そちらこそ愛想のないこと」
そこに涼生と瑞葉が降りてくる。葉月をみつけると嫌みで出迎えた。
「そちらが四人以上でないと予約出来ないから私がきたんじゃないか」
「えっと……予約……?」
衛にとっては何がなんだか分からない会話が続き、首を傾げてしまう。
「衛、今から森下の『みのや』に行くからね」
「みのや?」
「桜なべって分かるか、衛どの。馬肉のすき焼きだよ」
「瑞葉、お馬さん食べるの!」
「この夏真っ盛りに鍋ですか!」
衛は驚いてそう口にしたが、葉月と涼生はぶんぶんと首を振った。
「暑い時こそ鍋! 馬肉で精をつけて冷たいビールをきゅーっとやるのよ!」
葉月は身振り手振りを添えて衛に力説した。ビールが好きな衛は、思わずゴクリと喉を鳴らした。
「じゃあ行くよ」
涼生の先導で一行は森下へと向かった。たどり着いたのは以前行ったカレーパンの店カトレアのほど近く。木造に銅板の古い建物だった。
「どうだい、風情があるだろう。中に入ったら下足番に靴を預けるんだよ」
下足番……そんなものが未だにいるのか。衛はみのやの建物を見上げた。
「ほら、置いて行くよ!」
「あっ、まってください」
靴を脱いで下足札を受け取ると、四人は細長い座席に通された。
「桜なべを四人前、それからご飯と卵焼き」
席に着くと、涼生がすらすらと注文する。
「ああ、それとビールを瓶二本。あーっと、つまみにべったらもくれ」
「俺は冷酒を」
そしてきっかり酒を頼むのを忘れない葉月と涼生である。
「……べったら?」
「麹でつけた甘い大根の漬け物だよ。私はこれが好きでねぇ」
二人の勢いにちょっと気圧されてしまった衛だったが、お品書きを見ると馬刺しもあるようだ。
「すみません……肉刺しも下さい。それとサイダー」
これなら瑞葉も最悪桜なべが口に合わなくても大丈夫だろう。程なくして馬刺しとべったらと飲み物が運ばれて来た。
「それでは、乾杯」
「かんぱーい」
それぞれのグラスがカチンと音を立てる。
「くーっ、美味しい」
冷たいビールが喉を刺激する。衛はべったら漬けを一枚頂いた。甘い。まるで砂糖漬けのように甘い。そしてしゃくしゃくとした食感が心地良い。
そして続いて卵焼きと浅い銅鍋に入った割り下と鍋の具が運ばれて来た。
「こちらのお肉に付いている味噌を溶かして、色が変わったらお召し上がりください」
店員さんの薦めのままに、衛は肉を鍋に並べる。濃い色の味噌を割り下に溶かして赤身の肉をその中でちりちりと煮る。
「そろそろいいかな」
衛は色の変わった位で肉を引き上げ、溶き卵につけて口に放り込む。
「ほふ、甘辛い。うん肉も軟らかいな」
少し血の気の多い肉は味噌の香りで臭みもない。衛は甘辛い味噌味をビールの爽快さで洗い流した。
「おいしいね、衛くん」
瑞葉も抵抗なく食べられたようだ。続いて、卵焼き。出汁たっぷり、濃いめの味付けでこれも酒に合う。
「どれも味濃いめですね」
「ふむ。木場の職人が通った店だからな、ほら職人は汗をかくし酒も飲むし」
衛が感想を述べると、葉月はそんな風に補足した。
「これで精がつくねぇ」
「ところで馬肉が精が付くってどっから来てるんですかね」
衛がふとそう漏らすと、涼生と葉月はピタリと動きを止めた。
「子供の前でなんて事いうんだい」
涼生が咳き込みながら言った事で衛は察した。
「ねーねー、絵日記におうまさん食べてせいをつけましたってかくねー」
「あー、うん。元気になりましたとかにしておこうか……」
慌てて衛は瑞葉に念を押して、また一口桜なべを口にした。それはともかく暑い中つつく鍋もこれはこれで美味いのであった。
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