おいてけぼり

 さて、そんな事もあった週末。衛と瑞葉は映画を観に錦糸町まで来ていた。瑞葉の見たい映画の吹き替え版がこちらでしかやっていなかったのだ。


「あー、面白かった」


 瑞葉は映画のグッズのメモ帳も買ってもらいご機嫌である。子供向けの映画だったが衛もなかなか楽しめた。


「さて、帰るか」


 衛と瑞葉がバス停に向かおうとしていると、そこにびゅうと強い風が吹いた。二人は思わず立ち上がった埃に目をつむる。


『おいてけぇ……おいてけぇ……』


「ん、なんだ?」


 衛が気のせいかと思って瑞葉の手を引いて先に進もうとすると、また声がした。


『おいてけ……』


「何をだよ!」


 また妙なあやかしが出たものだ、と衛はその声のする方に向かって叫んだ。


『……その娘』


「は?」


『……その娘をおいてけ』


 衛は耳を疑った。瑞葉をぎゅっと抱いたまま、声と風のする方にじっと目をこらすと若い男が立っているのが見えた。細身でつり目が印象的だ。


「置いて行く訳ないだろう!」


「ですよねー」


 衛が噛みつくようにその男を怒鳴りつけると、若い男は急に態度を崩してへらへらと笑った。


「知ってます? 本所七不思議の置いてけ堀」


「知らん!」


「この近くにあった池に魚がいっぱいいたんですけど、釣って帰ろうとすると『おいてけー』ってお化けが出るんですよ」


「それがどうしたんだ」


 衛はこの場からどうやって逃れようかと考えた。瑞葉も怯えたように衛にしがみついている。


「すまないが、世間話している時間はないので失礼」


 そう言い残して衛は近くを通ったタクシーを捕まえた。とっととこの気味の悪い男から離れてしまいたい。


「それでは、ここらでさよならですかね。私の名前は『神室』、覚えておいて下さい」


 タクシーのドアがしまりがてら、男はそう名乗った。


「なんだったんだ、一体……」


 衛と瑞葉は家に帰るとさっそく涼生に先程の事を相談した。


「神室、と名乗ったんだね」


「はい」


 涼生は難しい顔をして、顎に手を当てたまま考えこんだ。


「そいつは『人魚』だ」


「人魚? ちゃんと足がありましたよ」


「人魚ってお姫様の?」


「正確には人魚の肉を食べた人間さ。不老不死とも言われている」


「なんでそんなのが俺達の前に現れるんです?」


 あれは明かに敵意だった。よろず屋に用があって来たようには思えない。


「あれはかつて俺が退治した人魚さ」


「退治? 人魚って悪い事でもするんですか」


「あいつは人の生き血を抜いてすすっていたのさ」


「ひえっ」


 衛も瑞葉もそれを聞いて震え上がった。さっきまで息がかかるくらいの距離にいたのがそんな人物だったなんて。


「でもなんでそんな事を……」


「さあ、なんでも自分の体中の血をそっくり入れ替えれば人間に戻れるとか言い張ってたね……だから俺は返り討ちであいつの生き血を全部抜いて木乃伊にしてやったんだ」


「ひえええ、涼生さん怖い」


 恐ろしい人魚の実態、そしてもっと恐ろしい涼生の返り討ち。瑞葉は悲鳴を上げた。


「本所の寺に預けといたんだけど、そこから逃げ出して来たのかね」


「涼生さんがそんな事するから、仕返しにきたんじゃないんですか!?」


「そうかねー」


「そうですよ、瑞葉を狙って来たんですよ!?」


 涼生は仕方ない、と言いながら立ち上がり戸棚を漁った。


「これを身につけておきな」


「これは?」


 涼生が手渡したのは龍の彫刻を施した木の札だった。


「龍神のお守りだよ。念の為、首から提げておくといい」


「……あ、ありがとうございます」


 衛はお守りを受け取ると、瑞葉にも手渡した。


「あのお兄さん、なんかやな感じだった」


 瑞葉はそうつぶやきながらお守りを首に掛けた。


「とにかく、数日のうちは用心しておきな」


 涼生のその言葉を衛と瑞葉は肝に銘じた。


「それでそんなシケた顔をしているのか」


 死んだ顔で店番をする衛をおちょくっているのは出世稲荷の使い葉月である。


『母様、白玉が浚われたらそんな顔していられる?』


「それもそうだの、いや衛……すまんかった」


「いいんですよ」


 衛はそう答えたが、涼生はふうとため息をついた。


「しかし、瑞葉が学校の間ずっとこれでは困ったもんだ」


「学校まではついていけませんからね……あと、学校は梨花ちゃんっていうあやかしのお友達がついてるから大丈夫だろうと思うんですが……」


 衛はそこまで言うとため息を吐いた。怖いのは学校の行き帰りのちょっとした時間に、あの神室が瑞葉の前に現れる事だ。保護者でもない衛がびったりついているのも目立ちすぎる。


『母様、白玉はお手伝いしようと思います』


「お?」


『瑞葉ちゃんの学校の行き帰りには白玉が付き添いましょう』


 白玉は青い眼をくりくりさせてそう言った。衛はなるほど猫なら小学生と一緒にいても変では無い、と考えた。


「白玉、ありがとう……なにかお礼を、あっ」


 衛は二階に上がると穂乃香のブルーのシュシュを持って来た。


「これ良かったら首輪に、あっあとこの猫クッキーも持って行って」


「まあ、ありがとう」


「白玉のお仕事デビューだの」


 ささやかな謝礼を白玉に持たせて、衛は二人に頭を下げた。穂乃香の失踪に続き、瑞葉まで失っては……。もしもの時の保険はいくらでもかけたいと衛は思った。




 瑞葉が学校の校門がら出ようとする時にパッと白い影が目の前に現れた。


「にゃー」


 声を掛けたのは白玉である。


「あっ、白玉だー。なになに? 行き帰りの護衛?」


『そうです、瑞葉ちゃんのお兄様がたから』


「んー、過保護だなぁ……まぁ仕方ないか」


 白玉と瑞葉は並んで歩きながら帰途につく。瑞葉は道端の石を蹴りながら呟いた。


「お姉ちゃんが居ればなぁ……」


『瑞葉ちゃんのお姉ちゃんはどこか遠くにいるんですか』


「……」


 瑞葉は白玉の問いに、困った顔をして黙るだけだった。白玉はもしかしたら悪い事を聞いてしまったかもしれないと後悔した。白玉は贖罪の意を込めて尻尾を振った。


『瑞葉ちゃん、よかったら尻尾さわってもいいですよ』


「本当? わーい」


「そっ、そっとですよ……!」


 一人と一匹はわいわいとじゃれ合いながら家へと帰った。


「ただいま」


「お、おかえり。白玉もご苦労様」


 瑞葉が自宅に帰ると、衛がほっとした顔で出迎えてくれた。


「明日も頼むな」


『はい』




 こうして行き帰りを白玉に護衛されながら瑞葉は学校に通う事になった。そんな日が一週間も続いた。


「あれからしばらく経つけど、なんもないな……」


 深夜、ふと目覚めた衛は、麦茶を飲みながらお守りの木札を手に一人でぼやいていた。すると、表のシャッターがガタガタと言っている。衛はそっと玄関から外にでると、そこに人影があった。


「やあ、やっぱり見つかった」


 細身の体躯の見覚えのあるあの顔。


「……神室?」


「やはりキチンと挨拶をしなければと思いまして」


 『たつ屋』の表からどうどうとやってきたのは『人魚』の男、神室である。しかし、どう考えても人を訪ねる時間では無い。


「しっしっ、うちはあんたに用事はないから帰ってくれ」


「私も……あんたには用事はないな」


 そう言って、神室が突然手を指揮者のように振ると風と共に水のうねりが起こり、衛の身体を目がけて襲いかかる。


「ちょっ……!」


 思わず手で防ごうとした衛の龍の守りから水流が流れ出て刃のような神室の水流をせき止める。その衝撃で衛は身体を地面にたたきつけられた。


「ぐはっ」


「ははは、濡れ鼠だ」


 全身びっしょりと濡れた衛の姿を見て、神室は愉快そうに笑った。


「涼生、居るんだろ!? 無沙汰の挨拶に来たよ!」


 二階に向かって、神室は叫んだ。その声に応じたのか、浴衣の胸元を直しつつ不機嫌そうな涼生が階下に姿を現す。


「このすっとこどっこい。衛に乱暴するんじゃないよ」


「ははは、涼生……大きくなったなぁ……」


「あんたが変わらないだけさ、人の理に逆らって、ね」


「ふん……」


 神室は涼生を前にしても動じる事なく立っている。


「どうしたんだい、あんたは本所の寺で眠ってるはずだろ」


「あの間抜け坊主、俺を虫干ししようとして通り雨にあってやんの。おかげでこの通り、ピンシャンしてるさ……」


 はぁ、と涼生は大きくため息をついた。


「とっとと用向きを言いな。返答次第じゃあんたをまた乾物にしないといけない」


「怖い怖い。いえね、お宅の瑞葉ちゃんをちょっと預からして貰いたくてね。一応保護者には言って置こうかと」


「たわけた事抜かすんじゃねえ。開きにしてやる」


「おお怖い」


 凄んだ涼生を口ぶりとは違ってまったく恐れる様子のない神室。


「こっちへおいで、おーじーさん♪」


「待て!」


 神室は手を叩いて、富岡八幡の方角へ走っていった。


「藍、翡翠! 瑞葉を見ててくれ!」


「はい」


 瑞葉のお守りを付喪神に託して、衛も涼生の後を追いかけた。あやかし退治なら涼生の方が上手だろうが、体力に関しては衛の方が上だ。衛は渾身のスピードで駆けだした。なにを隠そう衛は高校時代は野球部だったのだ。


「ちょっと待てー!」


「えっ、ちょっ……」


 衛は火事場の馬鹿力で神室にタックルを決めた。ふいを付かれた神室がよろめいて倒れた。


「ふう……ふう……」


「この馬鹿ゴリラ! どけよっ」


「どくもんか、どっこに人さらいを許すやつがいる!?」


 喚きながら神室がもがく、だが衛が全体重をかけてそれを押さえ込んだ。


「どうやら、長生きなだけで普通の人間みたいだな」


「お手柄だ、衛。こいつは干物にしてうちに吊しておこう」


 涼生が満面の笑みで近づいてくるのを、神室は目をむいて焦りながら見つめた。


「安心しな、ちゃんと人間として成仏する方法は探してやるから」


「くっ、私は弱ったらしい人間なんかもうやめるんだっ」


 振りあげた神室の手から水流が起こり、衛の頬をかすめた。すっぱりと切れた傷口からぼたぼたと血が流れる。


「痛っ……」


 衛の力が緩んだのを幸いと神室は衛の腕が逃げ出す。そして手に落ちた衛の血をすすった。


「ふふ、これが愛し子の伴侶の味……悪くない」


 そうつぶやいた瞬間に涼生の数珠が神室めがけて飛んできたが、すんでのところでそれを躱す。


「とっととお縄になりな!」


「そうは行かない。私も龍神の愛し子を得て神の一柱になるんだ……」


「……あんた、それが目的かい」


 涼生の目が大きく見開かれた。神室はまたへらへらとよく表情の読めない笑みを浮かべている。


「……龍神の愛し子……? ってなんだ?」


 そう呟いたのは頬を血で染めた衛である。全身からぽたぽたと水をたらしながら衛は立ち上がった。


「あの子は穂乃香の妹だ! 変な呼び方するんじゃねぇ!」


 衛は龍神のお守りを神室に向かって投げつけた。縄のように水流が広がり、神室を締め上げる。


「はは、何も知らないんだな……」


「黙れ!」


 勢いを増した水流が神室を押しつぶさんと膨れたところで神室の姿はふっ、と消えた。


「消えた……」


 そのお姉ちゃん、深夜の境内は静けさを取り戻した。


「龍神の愛し子?」


 衛の小さな呟きだけが、そこに響いていた。




「痛たたた……」


 涼生が吹きかけた消毒液の刺激に衛は悲鳴をあげた。


「しっ、瑞葉が起きちまうだろ」


「はい……」


 衛の怪我は水で濡れていた為に血が沢山流れているように見えたものの、実際はさほど深くは無かった。


「朝になったら病院行くんだね」


「はい」


 衛は痛む頬を抑えながら、朝まで横になる事にした。


「龍の愛し子……ってなんだ」


 神室はまたやって来るだろうか。その時は絶対に捕まえなくては。こんな小さい子をさらおうとするなんてまともな神経じゃない。


 衛が張り詰めていた息を吐いて横になると、すぐに睡魔が訪れた。


「衛さん……衛さん……」


「穂乃香?」


 衛が振り返ると、そこには穂乃香がいた。衛は思わず、彼女を抱きしめる。本物だ。体温も匂いも穂乃香そのものだ。


「衛さん、瑞葉の事守ってやって」


「ああ、もちろんだ。それよりどこに行っていたんだ?」


「……ごめんなさい、衛さん」


 穂乃香の両目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。しかし、何度問い詰めても穂乃香は黙って首を振るばかりだった。


「どうしたんだ穂乃香……穂乃……」


 誠が目を開けるとそれは見慣れた寝室だった。夢か、と衛にどっと疲労感が襲ってきた。


「衛、朝食できたよ」


 そこに涼生が衛を起こしに来た。もうそんな時間か。と、衛は起き上がった。


「ああ、涼生さんすいません朝食の仕度やって貰っちゃって」


「怪我人が何言ってんだい」


「衛くん、怪我してる!? 大丈夫?」


 昨日の一件を知らない瑞葉が驚いた声を出した。衛はたどたどしく転んで怪我をしたのだと瑞葉に言い訳をした。


『瑞葉ちゃーん、学校に行きますよ』


「あっ、白玉だ! それじゃ衛くん、お兄ちゃんいってきまーす!」


 瑞葉が学校に行ってしまうと、衛は涼生の前に立ちはだかった。


「説明して貰えますよね、『龍神の愛し子』の事」


「しかたねぇな……」


 涼生は少々バツの悪い顔をして、衛と向き合った。


「俺の部屋においで」


 涼生の部屋に行くと、彼女は壁際の引き戸を引いた。そこには大きな水晶を真ん中に祀った社があった。


「『龍神の愛し子』、それは俺のような『見る力』を持つ者の血筋を言う。いいや、違うね私も穂乃香も瑞葉も龍神の力で『強く見る』事ができるのさ」


「それって……」


「龍神の使いとなって加護を受ければ、より強い力を持つようになる」


 涼生はそこまで言うと、観念したかのように目をつむり衛に頭を下げた。


「衛さん、穂乃香はきっと今、龍神の使いをしているんだと思う」


「涼生さん、涼生さんでも連れて帰れないんですか」


 涼生は衛の問いかけに黙って頷いた。


「どこにいるか、なにをしているか、俺には分からん。一つだけ確かなのは……いずれ戻って来るという事だ」


「そうですか……」


 衛は肩を落とした。しかし、死んだ訳でも衛が嫌になって出て行った訳でもないと知って、衛の心に光明が点った。


「分かりました。その日まで、俺待ちます」


 きっぱりと衛は言い切った。


「すまねぇな。衛」


「いいえ、それより瑞葉の事です。神室は瑞葉をさらってどうするつもりなんです」


「おそらく、龍の血筋を従えて、自分も水神の一柱になるつもりなんだろう……『見る』ものはあやかしに魅入られやすい。特に小さな子供ならなおさらだ」


「そんな事……」


 させるものか、と衛は拳を握りしめた。


「さ、神室がいつ来てもいいように準備するから、衛は病院に行っておいで」


「でも……」


「穂乃香が帰ってきた時、跡でも残っていたらきっと悲しむから」


 涼生が珍しく優しく微笑えんで、衛を病院に行かせた。




『学校っておもしろいですねー』


「子供がいっぱいいるんでしょ」


『いっぱいなんてもんじゃないです、こうわらわら来るものだから白玉は食われるかと思いました』


 衛が病院から帰ってくると、『たつ屋』の店先で藍と翡翠が白玉を囲んでいた。


「あ、お帰りなさい衛さん」


「店番ありがとう。瑞葉はどうだった」


『元気に学校に行きました』


 そう、と衛は言って白玉にご褒美の煮干しを与えた。


「なにか変わった事は?」


 そう藍に聞くと、藍はちょっと困った顔をして上を見上げた。


「涼生さんが二階でなんだかドタバタしてます」


「ふうん……ちょっとまだ店見ててくれ」


 衛は二階に上がると、涼生の部屋のドアをノックした。これまた不機嫌そうな涼生が顔を出した。


「涼生さん、大丈夫ですか?」


「なんだい衛。怪我はどうだった?」


「全治一ヶ月だそうです……うわっ」


 衛が涼生の部屋を覗いて絶句した。その部屋には大量の縄が散乱している。


「ふっふっふ、今度来たらただじゃ置かないからね」


「涼生さん、これでふん縛ろうっていうんですか?」


「その通り! ……なんだい衛、何か不満かい?」


「いえ……」


 衛は涼生の事だからなにか護符でも用意しているのかと思ったのだが、まさかの物理攻撃とは……とちょっとがっかりした。


「ん? でも、不意打ちのタックルは効いたよな」


 衛はふと思い直す。あの時の感触は人間のそれと特に変わりは無かった。奴はあの手から出る水流が厄介なだけだ。


「よーし、じゃあ俺も」


 衛は部屋の段ボールをごそごそとあさり、バットを取りだした。


「今度来たら俺はホームラン王になる」


 そう言って衛は高校時代の青春を共にした愛刀を構えた。


「あらあら……」


 そんな衛の姿を見て、藍と翡翠は顔を見合わせた。




 それから、瑞葉は藍と一緒に寝て貰って、衛は一階の店先で夜を明かす事にした。


 神室のターゲットとなった瑞葉は相変わらず白玉と登校している。一緒に登校する同級の小学生達はかわいい白猫と登校するのを単純に楽しみにしている。


  ――一見いつも通り、だが警戒の日々は続いていた。


「衛くん、そろそろお夕飯の時間」


「お、そうだな」


 衛は店を閉めようとシャッターを降ろした。夕食のカレーを作り、食卓で振る舞うと自分は一階で仮眠を取るために下に降りた。すると階下に降りた衛を待っていたのは神室だった。


「さて、お姫様はお休みかな」


 衛は警戒心をあらわにしてバットを握った。


「ちったぁ学習しろ。このロリコン野郎」


「ふん、化け物がやってくるのは夜と決まっているだろ?」


 衛は二階に上がる階段の前に陣取り、バットを前に構えた。


「はは、また怪我したいの?」


「うるせぇ、ぶっ殺す!」


「それは大歓迎だなぁ」


 衛は黙ってバットを神室めがけてスイングした。


「あっと、危ない」


「避けんなよ。死なないんだろ?」


 神室はすんでの所でバットを躱す。


「やっぱ邪魔だからあんたは切り刻んじゃおう」


 神室は衛から距離を取ろうと店の外に出た。そして衛を水流で斬り殺そうと手を振り上げる。その時、頭上から涼やかな声がした。


「そうはいかないねぇ」


 声の主は涼生だ。涼生は二階の窓からひょっこりと顔を突き出して神室を見つめていた。そして二階から何かを投げ落とした。


「うわっ」


 それは大量のロープだった。


「なんだよこれ!」


 神室は風と水流を起こしてロープを切ろうとした。ところが、不思議な事に暴れれば暴れるほど縄が身体に巻き付いてくる。


「南麽三曼多(ナウマクサンマンダ)勃駄喃謎伽設濘曳莎訶(ボダナンメイギャシャニエイソワカ)」


 涼生は一心不乱に何かを唱えている。衛は縄でぐるぐる巻きになった神室の頭にバットを突きつけて言った。


「なぁ、それがただの縄の訳ないだろ? 涼生さんが今唱えているのは龍神の真言だそうだ」


 その龍神の真言に呼応するかのように、縄は神室の肉体を締め上げる。


「ぐっ、わかった……龍神の愛し子は諦めるからこれを離してくれ」


「やーだね。お前は信用ならん」


 衛は神室の懇願を無視すると、縄の端と端をとにかく結びまくってさらに持っていた龍神のお守りを結び目に差し込んだ。


「衛、守備はどうだい」


「ああ、もう動けないと思います」


 神室が動かないのを見て、涼生が下に降りてきた。


「ご近所さんの目があるからとりあえず中に入れよう」


 衛と涼生は神室の体を引き摺って、『たつ屋』のショーケースの裏側まで運んだ。されるがままの神室だったが、そこまで来ると突然笑い出した。


「ご苦労だね。で、どうするつもり? 私は不老不死なんだが」


「それだよな、困った事だ」


 涼生が神室の顔を覗き混んでそう言った。


「どうしたらお前を死なす事が出来るんだろう」


「ふん、それが分かっていればこんなに苦しまないさ」


「……そうか、やはり苦しいのだね。神室」


 涼生はまるで赤子に語りかけるかのように、優しくゆっくりと神室に声をかけた。


「……ああ……苦しいさ……お前には分かるまい」


「どうかな。俺は多少歳をとって少しはあんたの気持ちが分かるような気がしてるよ」


「適当な事を」


「穂乃香は家を出たし、赤ん坊だった瑞葉はもう小学生だ。俺はこのまま年取って死ぬんだろうけど、あんたはその流れからずっとおいてけぼりなんだもんな」


 涼生の言葉に神室の目が大きく見開かれる。そして、一筋の涙が、神室の頬を伝った。


「分かった気でいるといい。この苦しみは私にしか分からないから」


「そうだろうね。でも、その苦しみと悲しみから、俺はあんたを解き放ってやりたいと思っている」


「……馬鹿な事を」


「馬鹿はあんただよ。龍神の愛し子をさらってどうするんだ。そんな事してもあんたは神にはなれない」


 そう涼生に言われた神室は、ついと目を逸らした。


「ねぇ、神室。この事は俺に任してはくれないかね」


「何のことだ」


「あんたの寿命の事さ。俺の生きてる間に、きっとあんたが人間みたいに死ねる方法を探しておくから」


「ふん、そんなの……無理さ……」


「俺が無理でも俺の子が、孫がきっと方法を探すよ。だから待っておいて欲しい」


 それを聞いた神室は唇を噛んで黙って聞いていた。


「もう待つのは嫌だ。おいてけぼりは嫌なんだよ……」


「うん、だから眠っておいで。そのうちに迎えに行くから」


 涼生はそう言って再び龍神の真言を唱えた。するとみるみる縄が萎んでいき、そこに残されたのはしわしわの大きなトカゲの木乃伊のようなものだった。


「さて……今度こそ、本所の寺にあんたをしっかり預けないとね」


 涼生は赤子を抱くかのように神室の木乃伊を抱きしめると、二階へと昇っていった。


「衛、後片付け頼む」


 残された衛は、大量の縄を片付けながら神室の悲しい運命を思っていた。




 神室の襲撃から一週間が経った。だが、白玉と瑞葉の登校はまだ続いている。


「白玉、もう心配ないんだから付き添いはいいんだよ」


『いやあ、なんか瑞葉ちゃんのお友達にも懐かれちゃいまして』


 学校に瑞葉を送り届けると、白玉は必ず衛の所に寄って報告をしてくれる。


『そうだ、とうとう母様の手伝い無しに変化出来るようになりました』


「へえ!」


『見ててくださいね……』


 白玉が宙返りをすると、いつか見た白い着物の女の子がそこに現れた。


「あ、髪が黒い」


「はい、母様と一緒にしました。これなら街中を歩けますか?」


「うーん、その服だと目立つかな」


「そうですか? 母様はお着物なのに」


「うーんとちょっと待って……これこれ、こんな感じの服を白玉くらいの歳の子は着てるんだよ」


 衛は携帯でジュニアモデルの写真を検索して白玉に見せた。鍋島が雑誌を丸写しにして変化したと言っていたのを思い出したのだ。


「わー、フリフリでかわいい」


「ところで、なんで街中をそんなに歩きたいんだい」


 衛がそう言うと、白玉は頬を染めて答えた。


「その……鍋島さんに会いに行きたくって……」


「鍋島さんの家はここから遠いよ、白玉が仮に人間だとしてもその歳だと難しいよ」


「そうですか……」


 白玉は分かりやすくしょぼくれた。いつの間にか耳と尻尾が出ている。これじゃ葉月は遠出は許さないだろうな、と思いながら日頃瑞葉がお世話になっているお礼をしようと衛は考えた。


「どうだい、鍋島さんをうちに呼ぼうか」


「えっ、本当ですか」


「うん。食事会でもどうだろう」


 衛がそう言うと、白玉は尻尾をぶんぶんと振って頷いた。


「おっ、お願いします!」


「任せてといで」


 そうして、鍋島をこっちに呼ぶことになった。衛はパーティメニューは何にしようかと考えながら飛び跳ねる白玉を眺めていた。


「まったくよけいな事を」


 白玉の保護者、出世稲荷の葉月は少々ご機嫌斜めである。


「うまいものを食わせなければ食ってしまうぞ、人間め」


「葉月さんも来るんですか?」


「当然だ。見張りがいなくてどうする」


「はは……」


 衛は葉月の過保護っぷりに呆れながら、当日の献立を考え直していた。六人ともなると作る方も大変だ。


「鉄板ものでもしますかね。お好み焼きとか」


「ほうほう、ではもんじゃはそばもんじゃにしてくれ」


「……へ?」


 衛の呆けた返事に葉月は吐き捨てるように言った。


「まさか、もんじゃを知らないとか言うんじゃないだろうな」


「いや知ってますよ! ……食べた事はないですけど」


「なんと! この深川に住みながら、おぬし……」


「ほら、金もないしそんなに外食しないっていうか……」


 恐ろしい剣幕の葉月に、衛はしどろもどろで弁解をした。


「ふむ、それじゃあ食べに行こう」


「は? 今からですか?」


「もちろんだ。安心せい、奢ってやる。出世稲荷の使いの奢りだぞ」


「いや、店が……」


 ぐいぐい腕を引っ張る葉月をなんとか押しとどめる衛。それを見ていた藍が助け船を出した。葉月に。


「私が店番してますから、いってらっしゃい」


「藍、どっちの味方なんだ」


「うふふふふ」


 衛はニコニコしている藍を見て、諦めて葉月に引きずられて行った。


「ほれ、PASMOは持ったか?」


「え、電車に乗るんですか」


「ああ、月島まで行くからな。歩いてもいいが時間が惜しい」


 衛と葉月は地下鉄都営大江戸線に乗り、月島まで移動した。


「さあ、ここだ」


 つれてこられたのは葉月がお気に入りだという『ひろ』というもんじゃ屋だった。


「それじゃ、明太もちチーズもんじゃと生ふたつ」


「葉月さん、昼間っから」


「いいではないか」


 たしなめる衛を無視して葉月はビールを頼んだ。程なくして、きめ細かな泡の立つビールが運ばれる。


「それでは乾杯」


「……乾杯」


 衛と葉月はカチンとジョッキをかち合わせた。爽やかな苦みと炭酸が口内に広がる。


「ぷはー」


「うーん、うまい」


 夏の日のキンキンに冷えたビールは美味かった。


「お、もんじゃが来たぞ」


「おお……」


 衛と葉月の元に、キャベツとモチと明太子が山盛りになったものが運ばれてきた。


「それでは私が焼いてやろう」


 葉月は明太子とモチとチーズを皿にどかし、器用にキャベツだけを鉄板に取り出すと円形に土手を作る。その中心にボウルの底にあった汁を流し込んだ。


「さて、これでしばらく待て」


「なんていうか地味な絵面ですね」


「元々は下町のおやつだからな。今じゃこんなに具だくさんだが」


 キャベツの中央のもんじゃがふつふつとした所でどかしていた具を入れ、ヘラで切るようにして混ぜ込んでいく。最終的にはなんだかぐちゃぐちゃした物が出来上がった。


「それでこの小さいヘラで食べるんだ」


 葉月は衛にヘラを握らせた。


「こう、鉄板に焼き付けるようにして……ほい、食べて見ろ」


 衛が怖々と口に運ぶと、ソースとチーズの焦げたチープなおいしさが口の中に広がった。


「これはビールが進みそうだ」


「そうそう、私はこのぱりぱりになった所を……うん美味しい」


 葉月はおせんべいのようになった所をちまちまと剥がして食べている。衛と葉月はビールを飲みながら、もう一個そばもんじゃを注文してあっという間に平らげた。


「子供達が喜びそうですね」


「それならもう一つ、いいのがあるぞ。すいません、あんこ巻きを下さい」


 葉月がそう注文すると、今度は生地とあんこが運ばれてきた。


「そうれ、これをこうして……」


 葉月は生地を楕円形に焼くとそこにあんこを並べてくるくると巻く。ヘラで一口大に切ると衛に勧めた。


「ほれどうぞ」


「そのまんまですね。うん、素朴な味だ。アイスを添えてもいいかな」


「そうだの」


 こうして葉月と衛はほんのりと酔って、お腹をいっぱいにして家へと帰った。




「と、いう訳で今日はお好み焼きの他にもんじゃもありますー」


 パーティ当日、レシピを調べた衛はもんじゃ焼きを用意した。


「おお、なかなかの出来じゃないか」


「おや、おいしいね」


 葉月が一口食べて目を丸くしている。地元民の涼生も頷いている。


「はは、料理が趣味ですから。一度食べたらある程度再現できますよ」


 衛が自慢げな横で、瑞葉はけらけら笑いながら生地をこねくり回している。そして、ゲストの鍋島と白玉は……皿の上に乗せたもんじゃをじっと見つめていた。


「どうしたの? 早く食べなよ」


「あ、あの~」


「それが……我々は猫舌なので……」


 鍋島と白玉はふうふうと精一杯冷ましながら、もんじゃを食べていた。


「あちゃ……手巻き寿司にすればよかったかな」


 今度猫又を食卓に呼ぶ時にはメニューをちゃんと考えようと反省する衛であった。そんなこともありつつ、和やかに食事会は進んでいき、いよいよお開きになろうかという時に白玉が口を開いた。


「それにしてもヒドいです。あれからなんの音沙汰もないので白玉は忘れられたかと思いました」


 ぷうと白玉が頬を膨らませる。鍋島はそんな白玉の機嫌を取るように、脂汗をかきながら弁明する。


「いや、白玉の母様にああ啖呵を切った以上はケジメを付けないといかんと思ってだな」


「別に会っちゃいかんなんぞ一言も言っとらんぞ」


 葉月は鍋島に冷たく言い放った。それを聞いた鍋島は、そんなぁと声を漏らす。


「それじゃあ、これからはバンバン会いに行きますよ!」


 鍋島はへこたれずにそう宣言した。彼は今後も苦労しそうである。


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