富岡八幡宮例大祭

 お盆が来た。といっても衛の両親は大して信心深くはないし、まだまだ達者なので帰省はまた別の機会である。せっかくいつでも行けるのにわざわざ混んでいる時期を選んで行く事もないだろうと衛は考えて居た。


「……で、この割り箸の足をつけて。ひとつは馬、ひとつは牛だそうです」


「はーい」


 そんな本音の衛だから、こうやって盆迎え火の準備をしているのも、瑞葉の情操教育の為に他ならなかった。


「衛、瑞葉。ちょっとおいで」


「どうしました?」


 そんな二人を涼生が呼んだ。確か買い物に行くと言って出かけたはずだった。


「これ、サイズが合うか合わせてみな」


 どさっと涼生が手渡したのは祭り用の白い鯉口シャツに半股引に地下足袋である。


「これ、お祭りですか」


「なんだい、表のポスターも見ていないのかい。今年は富岡八幡の例大祭だよ」


「もしかして、担げとか……」


「子連れだから瑞葉の面倒が最優先だけど、参加はして貰うよ」


「はぁ……」


 こういう地域の催しは苦手なんだよな、と思いつつ、祭り装束のサイズをチェックする。


「ああ、足を入れる方向が逆! タグの付いてる方が前!」


「は、はい……」


「地下足袋は小さかったらすぐいいな。取っ替えて貰うから」


「これ、クッション入りなんですね」


「今時はなんでもしゃれてるよねぇ」


 衛が試着した地下足袋にはかかとにエアクッションが付いていた。まるでスニーカーのような履き心地だ。


「俺は大丈夫です」


「瑞葉も!」


「今週の土曜日は子供神輿が出るからね」


「わぁい」


 二人の衣装チェックは完了し、瑞葉は非日常的なイベントにワクワクしている。はしゃいでいる瑞葉を眺めていると、涼生が衛の肩を引っ張って耳打ちをした。


「祭りの期間は色んな人間が入り込む、衛、注意しておくんだよ」


「は、はい……」


 謎の仙人、東方朔の事が脳裏を過ぎる。衛は涼生の忠告に気持ちをグッと引き締めた。




「ねーねー、似合う?」


「うん、ほら鉢巻きするからじっとして」


 そして祭りの当日が来た。法被を着込んだ瑞葉。子供用のミニサイズの法被はそれだけでかわいい。


「瑞葉、今日だけだからね」


 そんな瑞葉の目尻と小さな唇に涼生が紅を差す。


「んふふ……じゃあ行って来ます!」


「横で僕は見てるからな!」


「うん!」


 そうして瑞葉は小さな祭り神輿の方へ行った。もっと小さい子は山車を引っ張るらしい。


「あ、蓮君」


「瑞葉ちゃんお化粧してるの? かわいいね」


 その一方で、同じ町内の蓮君が小さなジゴロっぷりを発揮していた。こういう率直なところがモテる秘訣なのだろうか。


「それ! わーっしょい!」


 誰かのかけ声で御輿が上がる。一瞬ぐらりとしたものの、大人の手助けで持ち直し子供御輿は出発した。


「わーっしょい、わーっしょい!」


 子供達の愛らしいかけ声に、あたたかい沿道の人々の視線が集まる。くるりと町内を回って子供御輿は終了した。


「あー、面白かったあ! 衛くん、瑞葉おみこししたよ!」


「うんうん、見てたよ」


 衛は顔を上気させて帰って来た瑞葉に冷たい麦茶を飲ませた。


「はい、それじゃあまたお着替えだよ」


「うん、浴衣でしょ!?」


 瑞葉は家まですっとんで行き、涼生に浴衣を着せて貰う。ピンクの地に金魚の模様の浴衣は瑞葉に良く似合っていた。今日は涼生も衛も浴衣である。衛はシンプルな紺を涼生から借りた。涼生は遊びのつもりなのか、男物とは思えない淡い青の花の模様だ。でもそんな浴衣が嘘みたいに似合ってしまうのが嫌みである。


「今日は屋台でなんでも食べていいんだよね」


 そんな瑞葉は期待の目でキラキラしている。


「ああ、さぁどれにしよう」


 腰に手をやって涼生が聞くと瑞葉はぐん、と手をあげた。


「瑞葉はたこやき!」


「僕はやきそば食べよう」


「俺はイカ焼きだな」


 衛と瑞葉は屋台でたこ焼きと焼きそばを買い求めた。衛はカシュっとビールの蓋を開けて瑞葉のラムネと乾杯した。


「あふう!」


 あつあつのタコ焼きに瑞葉が顔をしかめて慌ててラムネを流し込む。衛はチープなソース味の焼きそばをつまみにビールを飲む。涼生ももぐもぐイカ焼きを食べながらチューハイを飲んでいる。


「お、射的があるぞ」


 簡素な夕食を終えて、衛達は射的の屋台を見つけた。


「俺は先帰るぞ」


 涼生は射的には興味がないらしい。しかたなしに衛と瑞葉が二人で挑戦することになった。


「頑張れ! 頑張れ!」


「あたんない~」


 衛も瑞葉も惜しいところまで行ったのだが結局取れなかった。


「取れなかった~」


 瑞葉は悔しくて涙目だ。すると店のおじさんがキャラメルをおまけでくれた。


「はい、お嬢ちゃん。また来てね」


「いいの?」


「ああ」


 簡単に機嫌を直した瑞葉を連れて屋台の間をそぞろ歩く。


「衛くん、アレ」


「ああ、あんず飴か。食べるか?」


「うん!」


 衛は瑞葉に二百円を渡した。どうもルーレットを回してあたりが出たら二本以上貰えるらしい。瑞葉は慎重にボタンを押した。


「あっ、衛くん! 当たった二本!」


「良かったなー」


「一個あげるね」


「ああ、ありがとう」


 瑞葉はミカンの入ったソーダ味の飴を、衛はスモモと水飴の飴を選んだ。


「けっこう固いから気を付けろよ」


 衛がそう言うのが早いかの時に瑞葉がピクリと身を震わせた。


「どうした瑞葉」


「衛くん~。歯がとれひゃった~」


 どうやら水飴にひっついて乳歯が取れたらしい。


「わぁ~」


「あー、よしよし。歯が取れるのは初めてじゃないだろう?」


 衛はビックリしたのだろう、泣き止まない瑞葉をだっこして家に帰った。


「どうして瑞葉は泣きべそなんだい」


 家に帰ると涼生が驚いて駆け寄って来る。


「ははは、乳歯がとれちゃったみたいで……」


「そうかい。瑞葉、歯を持ってこっちおいで」


 涼生は瑞葉を連れて店の外に出ると、屋根に向かって歯を放り投げた。


「良い歯が生えてきますように!」


「はえてきますようにっ!」


 瑞葉は涙目を拭いながらその放物線を眺めていた。




 次の日、衛は七時頃に起きて朝食を作りはじめた。すでに外はがやがやと騒がしく、笛の音が聞こえる。


「まったく、若い衆は五時に担ぎに行ってるのに情けないねぇ……」


「涼生さん、俺もうそんなに若くないですよ」


「ハッ倒すぞ」


 トーストを焼きながら、衛は澄まして答えて涼生に頭をはたかれた。朝食を食べて少し食休みをしたら瑞葉を連れて御神輿の行列には加わるつもりだ。


「別名、水かけ祭り……って面白い名前ですよね」


「元々、お清めの水をかけたのがはじまりなんだよ。今は派手にかけるからね、覚悟しておいでよ」


 涼生はにやにや笑いながら、衛にそう言った。それから起きてきた瑞葉と朝食を取り、祭り装束に着替える。


「鉢巻きって気合いが入りますね」


「だったら普段からしてたらどうだい」


 きゅっと縛った鉢巻きが頭を締め付けて、ちょっと心地良い。これをしていないと目に水が入るのでちゃんとしておけと涼生が締めてくれた。


「あれ、あれれ」


「なんだい、地下足袋も履けないのかい」


 衛は地下足袋の小鉤の止め方が分からず、混乱した。涼生は呆れたような顔をしてこれも止めてくれた。


「……すいません」


 なんとか格好をつけると、藍と翡翠が現れて法被姿を褒めてくれた。


「あら、決まってるじゃないですか」


「下町の人っぽいですよ」


「衛くん、瑞葉とおそろいだね」


 瑞葉も祭り装束に着替えて、衛の横に並んだ。


「それじゃあ、行ってきます」


「はいよ、後から俺も行くからね」


「留守番は任せてください」


 それぞれの送り出しの声を受けて、衛と瑞葉は家を出た。プラプラと永代通りをさかのぼって行く。


「うちの町内はたしか十二番目だよな……」


 この渡御(とぎょ)は五十三基の御輿が練り歩く事になっている。衛と瑞葉は永代橋の人混みを抜けて、通りを見渡した。


「まだ、四番目か、しばらくこないな」


 祭り囃子とわっしょい、わっしょいと威勢の良いかけ声が響く。


「わぁ、衛くんあれ見て」


 瑞葉が指さしたのは手古舞の一団だ。御輿の先導として錫杖を引き摺っている。揃いの桃色の法被を着た、十代前半くらいの女の子達だ。シャリリリ……シャン、と涼しげな錫杖の音が鳴り響く。


「瑞葉もあれやりたい」


「そうか、もうちょっと大きくなったらな」


 祭りの熱狂に響くのは、かけ声だけではない。別の町御輿では木遣りを歌っていたし、様々だ。


 通りはカメラや携帯を構えた見物客がごった返している。衛と瑞葉はしばらくそれを眺めていた。


「衛、まだこんな所にいたのかい」


「ああ、涼生さん。つい見とれちゃって」


 振り返ると、法被姿の涼生が立っていた。


「ほらほら、うちの町内が見えてきたよ」


「あ、本当だ。瑞葉、行くぞ」


「はーい」


 衛は町内御輿の最後尾に並んで、瑞葉を肩車する。


「どうだ、見えるか」


「わぁ高いー。うん、御神輿見えるよ! おっきいね」


 日の光を浴びてキラキラと輝く御輿は水滴をまき散らしている。


「立派なもんだ……」


 衛が感嘆の声をもらしかけたその時、突然大量の水が二人を襲った。


「うばぁああああ!」


「つめたーい!」


 すると通りで青いゴミバケツに水を貯めて洗面器で担ぎ手に水をかけている人がいる。


「わーっしょい!」


 満面の笑顔をみると悪気は無いみたいだ。


「瑞葉、降りようか」


「うん」


 衛は瑞葉を肩から降ろして、歩きはじめた。濡れた法被が肌に張り付く。


「濡れちゃったなぁ」


「でもこういうお祭りなんだよ?」


「ああ、そうみたいだな」


 衛はそう答えた瞬間、ザアッっと細かい水滴が振ってくる。


「お、雨?」


 そんな訳はない。天気は青天、衛と瑞葉の上にはその直後、大量の水が降り注いだ。


「あばっ、あばばばば……」


 法被などと言わず、下着までぐっしょりと濡れた。振り返るとそこには放水車が止まっていた。


「嘘だろう!?」


 ここまでやるのか、と衛と瑞葉が呆然としていると、町内のおばさんが声をかけて来た。


「『たつ屋』のバイトさん、声でてないよ! ほら、わっしょい!」


「わ、わっしょい!」


「ほりゃさー」


「ほりゃさー」


「えいさー」


「えいさー」


 衛がおばさんの言う通り復唱するとおばさんはニッコリと微笑んで、衛の背を押した。


「瑞葉ちゃんは見てるから、ほら担いでおいで!」


「ええええええ!!」


 衛はおばさんに押されて御輿の後ろにとりついた。


「わっしょい! わっしょい!」


 かけ声に合わせて御輿を担ぐ、つま先がガンガン踏まれて痛い。これは大変だ、と衛が必死になってついていっていると。やがて御輿が静止した。


「それ、もーめ! もーめ!」


「揉め?」


 衛が頭に疑問符を浮かべていると、御輿の本体が大きく揺れ出した。


「おおおお!?」


 翻弄されている間に再び御輿は静止する。


「さーせ! さーせ!」


 今度はそのかけ声に合わせて、御輿が高く差し上げられた。衛の上腕二頭筋が悲鳴を上げる。高く上げた御輿に向かって、リズミカルに水が放水された。


「わっしょい! わっしょい!」


 そして再び御輿は前へと進む。衛はそろそろ抜けようと思ったがすぐに押し込められてしまった。そのまま永代橋へと突入する。


「うわわわわ……揺れてる!?」


 それは衛の気のせいではなかった。人々の熱狂的な勢いによって、金属とコンクリートの橋がドンドンと揺れているのだ。


「こんな、すごい祭りだって聞いて無いよ!」


 衛がようやく御輿から離れられたのは永代橋を越えたあたりだった。ふらふらになりながら瑞葉の元に戻ると、そこには涼生も合流していた。


「衛くん! かっこ良かったよ」


「やるじゃないか、衛。ハナ棒担ぐなんてさ」


「はな……?」


「一番先頭のことだよ。奪い合いだったろ」


 ニコニコと笑顔で涼生は衛に言った。衛はそうだったっけ、と首を傾げながらどうも自分の株が上がったようなので良しとしようと考えた。


 その時である。


『見つけたぁ……』


 衛達の耳に聞いた事のある声が聞こえた。忘れる事はない、ざらざらと耳障りな声。


「……東方朔……?」


 衛はすぐにあたりを見渡したが、そこにはただ人混みがあるだけであった。




「涼生さん、さっきの涼生さんも聞こえましたよね」


「ああ、もちろんさ」


 衛は、不気味な雰囲気にぞくりと肩をすくませた。


「この人混みじゃ余計な被害が出る。いったんここから離れよう」


 衛達はそう示し会わせると、祭りの行列から離脱した。


「八幡様の神域まで急ごう」


 そう涼生が言うので、一行は富岡八幡に向かって駆け出した。ところが祭り本番の人混みである。そうそう思い通りには動かない。


「遠回りするか」


「そうするしか無さそうだね」


 衛達は裏道を通って八幡様の境内を目指す。すると、あと少しと言ったところで目の前のアスファルトがじんわりと濡れて地に響くような声が聞こえた。


『そうはさせるか……』


 そこにはボロボロの衣をまとった東方朔の姿があった。


『ははは! そこをどけ、私は龍神の愛し子に用がある』


「はいそうですか……なんて言う訳がないだろう!」


 衛は瑞葉の前に盾となって立った。そんな衛に向かって、東方朔はひからびた手を伸ばした。すると東方入道の手は大きく広がり、衛を一掴みに握りしめた。


「ううっ」


「衛くん!」


 とても老人の力とは思えない圧迫感に、思わず衛はうめき声をあげる。


「おん、めいぎゃ、しゃにえい、そわか」


 そこに聞こえて来たのは、涼生の真言である。以前現れた時はこの音に苦しんでいた東方朔であったが、今日は様子が違った。


『うははは、効かぬぞ。涼生。なぜ今日という日を選んだか考えて見ろ。これだけ人が集まれば、聖も邪も同じだけ集まってくる』


「小賢しいね、東方朔」


 涼生は吐き捨てるように言うと、東方朔に向かって木札を何枚か投げつけた。


『効かぬといったろう』


 東方朔はその木札をバラバラとはじき飛ばした。


『人々の邪気というのは良い物だな』


 そう行って東方朔は高笑いをした。そんな東方朔を涼生は笑い飛ばした。


「馬鹿だね、それだけ負の力があるって事は聖の力も高まっているってことだろ?」


 涼生は透明な水晶の数珠を取り出すと、衛を掴んでいる手首に巻き付けた。


「ましてや今日は三年に一度の大祭の日だよ! 瑞葉!」


「はい! お兄ちゃん」


「ちゃんと覚えてるな、こいつが嫌いなおまじない」


「うん!」


 涼生と瑞葉は手を合わせると、一斉に目を閉じた。


高天原に坐し坐してたかあまはらにましまして天と地に御働きをみはたらき現し給う龍王は大宇宙根元の御祖の御使いにしてみおやのみつかいにして一切を産み一切を育て萬物よろずのものを御支配あらせ給う」


 二人が唱えたのは龍神祝詞である。穢れを払い、願いを叶えるという言葉の力に呼応するように涼生の数珠が光りはじめた。


『ぐ……う……』


 東方朔は苦しそうに呻き、衛を掴んでいた手がパラパラと枯れ木のように崩れて行く。


「この化け物め!」


 最後は衛が自分自身の力で東方朔の手を振り払った。その反動で衛は盛大に尻餅をつく。


「さぁ、うちのかわいい妹に二度も手を出そうとしたんだ。もう二度と現れないようにバラバラにしてやろうかね」


 涼生が怒りに満ちた視線で東方朔を見た。すると東方朔は突然こんな事を言い出した。


『……のう、お前達は騙されとるぞ』


「なんの話だ」


「衛、あやかしに気軽に話をあわせるんじゃないよ」


『なに、お前等が大事に拝んでいる龍神が愛し子に何をしたのか、知りたくはないかとな』


 その言葉に一番反応したのは瑞葉であった。


「それってお姉ちゃんの事!?」


『そうさ、お前の……』


 東方朔はそこまで言うと、アスファルトにズブズブと沈んでいった。


「ちょっとまて、穂乃香がなんだって?」


「衛!!」


 半分消えかけている東方朔にくってかかろうとしている衛を、涼生が止める。


『お前等の大事な愛し子は今、地獄におるぞ。へっへっへ』


 そんな衛をあざ笑うかの様に東方朔は笑った。


『それではまた会おう……。大きな厄災がまもなく……やってくる……その時に……』


 そう言って東方朔の姿は完全に消えた。後に残された衛に混乱を植え付けて。


「穂乃香が……地獄にいる……?」


「衛くん……」


 動揺を隠せない衛と瑞葉をいさめたのは涼生だった。


「衛、あんたしっかりしな。化け物の戯れ言を真剣に受け取るんじゃ無い」


「涼生さん……そうか、そうですよね」


 衛は大きく深呼吸をした。やっと少し落ち着きが戻って来た。


「それにしても……厄災とか言っていましたが、なんなんでしょう」


「俺もそれは気になった。なんとか調べてみるよ。だからしゃんとおし」


「はい、もう大丈夫です」


 涼生の励ましに衛は顔を上げた。しんと静まり返ったようだった裏路地だったが、今は祭り囃子とわっしょいのかけ声が響いていた。


「……とりあえず、祭りに戻りましょうか」


「ああ」


 衛達は、富岡八幡宮の前で最高潮の盛り上がりを見せる御輿渡御の列に向かって歩き始めた。




「あいたたた……」


 衛は全身を襲う筋肉痛に苦悶の声を上げていた。筋肉痛だけではない。御輿を担いでいた肩が赤黒く腫れ上がっていた。


「涼生さん……これ人面瘡じゃないですよね」


「ただの打撲だよ! あんた担ぐのが下手くそなんだよ」


 そう涼生は衛に冷たく言い放った。衛は無言で湿布をはりつけた。


「衛くん、あのね」


「なんだ湿布臭いか?」


「うん、それもあるんだけど……」


 満身創痍の衛に、瑞葉が妙にもじもじしながら近づいてきた。


「あのね……自由研究が出来てないの……」


「えっ、自由研究?」


 衛は思わず座っていた椅子からずり落ちそうになった。


「おいおい……お盆も過ぎたしあと二週間しかないぞ……」


「ごめんなさい……」


 こうなったら何かの観察系は駄目だ。何か調べ物か……。


「分かった、僕と図書館に行こう」


「うん、ありがとう衛くん」


 衛はいつものように付喪神達に店を任せると、瑞葉を連れて自転車で図書館へと向かった。深川図書館は創立百年を超える厳かな建物である。緑の中に白く輝く図書館の中に入るとうだるような暑さから二人は解放された。


「ふうーっ、気持ちいい」


「じゃあ瑞葉、子供コーナーからご本を探してきな」


 そう言って衛は二階の図書フロアに向かう。ちょっと前に流行った歴史もの小説の単行本を二冊ほど見繕って下に戻ると、瑞葉がすぐに駆け寄ってきた。


「瑞葉これにする!」


 そう言って差し出してきたのは工作の本だった。


「なるほど、工作なら一週間もあればできるか」


 衛と瑞葉はカウンターで貸し出し手続きを済ませた。


「問題はなにを作るかだな?」


「瑞葉はミカちゃんのお家を作るの」


「そうか、僕も手伝うからな」


「うん」


 図書館の外に出ると一気に暑さと激しいセミの声が襲ってくる。


「瑞葉、この間のカレーパンまた買いに行こうか」


「あ、あのカレーみっちみちのカレーパンだね」


 衛はちょっと遠回りになるが、カトレアに向かった。


「……あれ。道一本間違えたかな」


 ちょっと近道のつもりで自転車を走らせていたのだが、暑さのせいだろうかどうも道を間違えたらしい。


「えーっと、ここどこだ? ちょっとまってな」


 衛は現在地を調べようと、近くにある建物を見渡した。


「深川……江戸資料館」


「なにこれー」


 衛は鞄の中の歴史物の小説の一冊は江戸ものだったな、と思い出した。


「ふんふん、瑞葉。ここは実物大の江戸時代を再現したジオラマがあるらしいぞ」


「ジオラマ?」


「模型の事だよ、ほら瑞葉が作る工作の大きいやつだ」


「へー」


「ちょっと見て行こうか」


 二人は吸い込まれるように館内に入っていった。


「大人四〇〇円、子供五〇円ですね」


「……安っ」


 入館料は衛が思わず突っ込む程に安かった。序盤の説明フロアは瑞葉が退屈そうだったので、とっとと展示エリアに入ると、衛と瑞葉は息を飲んだ。


「これは予想外に立派だな」


「すごいねーっ」


 そこには江戸の街並みが忠実に再現されて、一面に広がっていた。遠く――実際はそう遠くではないのだが――に火の見櫓も見える。


「へえ……これが長屋ってやつかな」


「これがお家なの?」


 四畳半程度の狭いスペースに布団が畳んでおいてある。


「昔の人はシンプルに暮らしていたんだな」


「へーっ」


 その他にも、商店や、今にもおかみさん達がお喋りをしていそうな井戸端などを眺めて歩く。


「あーっ、衛くん。猫ちゃんがいるよ」


「おっ、本当だ」


 瑞葉が屋根を指さすと、「ニャー」と声がした。


「鳴いた! にゃーだって!」


 物珍しさに瑞葉のテンションも上がっている。この夏休み、ろくにお出かけ出来てなかったから丁度よかったな、と衛は思った。


「わー、天ぷら屋の屋台だ」


「ここ、天ぷら屋さん?」


「うん、江戸時代は天ぷらや寿司はファーストフードだったんだよ」


「へー、今はご馳走なのにね」


 瑞葉が不思議そうに首を傾げた。


「あっ、これは何? お船だ」


「……緒牙舟だってさ。これで移動したんだと」


「へー」


 そんな風に館内を回っていると、にわかに天井が暗くなった。


「わぁー、夜だー」


 犬の声までする。どうやら一定時間で照明が朝から夜に切り替わっているらしい。


「凝ってるなぁ」


 値段と資料館の規模がから考えると、なかなか見応えのある展示だった。


「そろそろ行こうか、瑞葉」


「うん、また来たいな」


「そうだね」


 カトレアのパンの焼き上がり時間も迫っていたので二人は外に出た。


「じゃあ、パンを買いにいこうか……って瑞葉!!」


 衛が自転車の鍵を探している間に、瑞葉はじーっと博物館の前に居た籠かきを見ていた。


「これ、なに衛くん」


「うーん、昔のタクシーかな」


「乗りたい!!」


 これも瑞葉の経験か、と衛は籠をお願いした。瑞葉は大はしゃぎで籠に揺られている。


「あー、楽しかった」


「まったく、家に帰ったらちゃんと宿題やるんだぞ」


「はーい」


 そうして無事パンを買って帰宅した二人だったが……。


「瑞葉、本当にこれでいいのか? ミカちゃんの家を作るんじゃなかったのか」


「うん、これミカちゃんの家だよ」


 瑞葉の作ったミカちゃんハウスは江戸下町の長屋風になっていた。


「ちょっと渋すぎないか……?」


 戸惑う衛に涼生は慰めるように声をかけた。


「まぁいいさ、瑞葉は気に入ってるみたいだし」


 そんな訳で瑞葉の夏休みの自由研究は江戸長屋のジオラマとなったのだった。




 瑞葉の小学校の新学期がはじまった。衛の大学の授業もそろそろ始まる。それでも残暑の厳しい日本である。


「はぁ~、地球はどうなっちまったんだ……」


「ぼやきの規模が大きいね」


 衛がでっかいでっかいため息を吐いていると、そこに涼生がやってきた。


「あの東方朔の言う厄災とかいうのを調べてみたけどね、特に詳しい事は分からなかったよ」


「そうですか……」


「少なくともあやかしの類いの厄災とは思えない。あと考え得るのは……天災とかかねぇ。それから穂乃香の事だけどね」


「穂乃香は大丈夫なんでしょうか」


「俺も龍神のお使いをして長いけどね、地獄なんて行った事がないよ」


 衛はそれを聞いて改めてほっと胸をなで下ろした。


「くやしいけど、俺達は待っているしかないのかね」


 涼生はそうぽつりと言った。歯がゆいのは衛も同じ気持ちだ。


「本当に……出かけるなら一言言ってくれたっていいのに」


 衛の呟きはまだ夏そのものの空に消えて行った。




「え、褒められた?」


「うん。自由研究、よく調べてあるって先生にほめられちゃった!」


 帰るなり、照れくさそうに瑞葉はそう報告してきた。江戸の長屋のミニチュアという衛からしたら地味極まりないものだったが、先生の心には響いたようだ。


「そっか、良かったな」


「それでね、衛くん。瑞葉とーっても行ってみたいところがあるの!」


 瑞葉がきらきらした目で衛を見た。これはおやつをねだる顔だな、と衛は直感した。


「なんだ、プリンか? それともクッキー?」


「ううんあのね……とーっても美味しいパフェがあるんだって」


「ほう、パフェ?」


「うん、フルーツが山盛り載っていて夢見たいに美味しい……って知佳ちゃんが」


 また知佳ちゃんか。知佳ちゃんに対する瑞葉の対抗心は並々ならぬものがある。


「それってこの近く?」


「うん『フルータス』っていうお店」


「ほう」


 衛は携帯で店の名前を検索した。すると出てくる出てくる、絶賛の評価の嵐。


「なんだ、近くじゃないか……ってウッ!?」


 衛はそのパフェの金額を見て驚いた。なんとパフェで二〇〇〇円近くもしたのだ。


「ははは……瑞葉……」


 衛は引き攣った顔をしたが、瑞葉はきらきらした目で衛を見つめている。金が無いからとご褒美を我慢させるのも男として微妙だと思った。


「そうだなぁ……このパフェを食べるには自由研究だけじゃ足りないかな」


「ええ~っ」


「毎日自分のお茶碗を洗って、テストで三回満点が取れたら連れていってあげる」


「うーっ、衛くんのけち」


 瑞葉は不満そうだが、二〇〇〇円のパフェだ。衛もそうは譲れない。


「ちゃんと出来たら必ず連れて行ってやるから」


「本当だね! 約束だよ!」


 その時は、衛はそんな約束すぐに忘れるだろうと高をくくっていたのだが……瑞葉の食い意地は衛の予想を大きく上回っていた。


「衛くん! これみて!」


 数日後に瑞葉が衛に差し出したのは三枚の花丸がついたテスト用紙だった。


「うお、まじか。瑞葉……よくやったな」


「これで連れて行ってくれるよね」


 そう行って瑞葉はニッコリと笑った。衛は瑞葉が義務を果たした以上は約束を守らなきゃならないと腹をくくった。


「そっか、じゃあ行こう」


「やったーっ!」




 その週の日曜日、衛と瑞葉は開店時間にフルータスへと向かった。


「うわっ、並んでる」


「こんななのになんで今まで気づかなかったんだろうね」


 ぼやいても仕方が無い、五人ほど並んでいるところに衛と瑞葉は連なった。しばらく待ってやっと順番が回ってくる。


「はぁーっ、暑かった」


 店内はこじんまりとしている。席は二席とカウンターだけで当然ながら親子連れの姿は無い。衛と瑞葉は早速メニューを開いた。


「ううーん何にしよう」


「瑞葉、遠慮はいらないぞ」


 衛はどんと胸を叩いた。ちょっとだけ痛かったのも事実だが。


「瑞葉、フルーツパフェ」


「じゃあ僕もフルーツパフェにしよう」


 頼んでしばらく待つと、届いたのは惜しみなくフルーツを盛った宝石のようなパフェだった。


「うわっ、落っことしそうだな。瑞葉気を付けろよ」


「う、うん……」


 したたりそうなくらい果汁を湛えた大きな桃のひときれを瑞葉が口にほおばる。


「んんっ! すごい! 衛くんこれすごいよ!」


「どれどれ……」


 瑞葉に釣られて、衛も自分のフルーツパフェに入っていた桃にかぶりついた。驚くほど濃厚で芳醇な桃の香り、そしてじゅるりとあふれ出る果汁が喉を伝う。


「う、美味い……」


 フルーツとはこんなにも美味しいものだったのかと衛は身を震わせた。そしててっぺんを飾る葡萄を口にする。酸味やえぐみなど一歳感じられない芳しい一粒の葡萄。それを堪能して下のアイスを舌に乗せる。乳の旨味を堪能した後に再び桃に食らいつく、スッと引っ掛かりなく歯を通す柔らかな果肉は衛をうっとりとさせた。


「衛くん……連れてきてくれてありがとう」


「いや、また瑞葉が頑張ったら連れてきてやるからな……!」


 衛はこの味はもう忘れられないだろうと思った。また何か良いことがあったら絶対にこよう。その時は、自分と瑞葉と……そして穂乃香も一緒に。


 衛は桃の最後の一切れを堪能しながら、心にそう誓った。

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