第14話 溶かせなかった想い

 ノニの寝室は両親の寝室と一続きだったが、間には簾を掛けて区切ってあった。そっと上半身を起こして、様子を窺うと、物音はしない。二人とも眠っているようだ。

部屋は完全な暗闇だ。目が慣れていてもほとんど見えない。しかし、ここは何年も暮らした家なのだ。部屋を抜け出すことなど、ノニにとって簡単なことだった。

 そっと布団をはがして、寝台を降りる。床に手をつき這って壁まで進んだ。壁についたら立ち上がってそろそろと入り口まで歩く。

 風をたてないようにしてするりと寝室から出ると、今度はじっと祖母の部屋を窺った。祖母も寝ているはずだ。

 玄関で外灯と厚い毛皮の長靴を履いた。帽子も手袋も襟巻きも忘れない。温もり袋も幾つかポケットに仕込んだ。でもこれだけでは足りない。

 ノニは、玄関のすぐの物入れを開けた。そこには父が外で使う縄や道具が置いてある。

 ノニはそこに積まれている松明を手に取った。ずしりと重たい。これはきっと命の重さだ。ノニの命を守ってくれる。

 他に三本取り出して背嚢に詰めると、それを背負った。依然、父が夜中に出掛けるときそうしていたのを見たことがあったのだ。

 囲炉裏で燃える炎を貰うと、ノニは意を決して家を出た。

 外の雪は止んでいた。おそらく昼間から止んでいたのだろう。ノニが昼間作った路が残っており、進むのは楽だった。

 途中急いでいて体が暑くなったので、口元を覆っていた襟巻きを下げた。火照った体に冷たい空気が気持ち良い。何も話すことなど考えずに出てきてしまったせいで、頭はぐちゃぐちゃだったが、それでも脚が止まることはなかった。

 歩き続けてアウルの家が見えてきた。玄関に立つと少し息を整える。

 簾の下から微かな明かりが見えた。起きているのかもしれない。もう遅い時間だったが、近くに他の家はないのでノニは心置きなく叫んだ。

「アウル! アウル!」

 自分でも意図せずに、今にも泣き出しそうな声が出てしまってひどく驚いた。手袋で顔を擦るが、涙は出ていない。大丈夫だ。これならアウルに会える。

 再び声を掛けようとしたとき、簾が勢い良く持ち上げられた。少しだけ付いていた雪が跳んで、ノニにくっついた。

「何をしている? こんな時間に?」

 そこには困惑したアウルが立っていた。いつもは昼に会うのできっちりと外套を着込んでいたが、今はゆったりとした服装だった。

 普段見えない首もとや体の線が顕になっている。

 彼はノニの腕を掴んで、中に引っ張りこんだ。

 ぶつぶつ文句をいいながらも、毛布を持ってきてくれて、囲炉裏の前に座らせてくれた。

 アウルはいつもそうだ。口ではぼやいていても、態度は優しい。彼の行動を見ていれば分かる。人を気遣い、遺体の扱いも丁寧だ。

 お墓の管理にも手を抜かないし、身元の分からない人でも丁寧に弔う。

 アウルはノニの向かいに座ってお酒を飲んだ。ノニが来る前から飲んでいたらしい。黒い肌が赤みを帯びている。

 アウルを見ていると、緩くうねっているが指通りの良さそうな髪や、はっきりと浮き出た鎖骨にどきりとした。

「こんな時間にどうしたんだ、家出か?」

 アウルから話し始めるのは珍しいことだ。

「ううん。ただこっそり出てきたの」

「こんな時間に来るほど、急ぎだったのか」

「急ぎと言えば急ぎかな。……すぐに、アウルに会いたいなって思ったの」

 アウルは思い切り顔を顰めた。

 今にして思えば、アウルは出会ってからずっと、ノニがそういう態度をとろうとすると、巧妙に避けてきたように思う。いつも子どもに接するようになるのだ。

「お祖母ちゃんに、湖の女性の事を聞いたの。アウルがここにきた理由も」

「そうか」

 アウルはたった一言そう呟いただけだった。

 散々迷ったが、ノニは正直に訊くことにした。

「ねえ……アウルは、今でも死にたいの?」

「……死んだ後も彼女と一緒にいたい。そう願ってはいけないか? そこには永遠があるんだ」

 炎が揺れて、アウルの顔の陰影が変化する。ノニの目にはアウルが泣いているように見えた。

「彼女がいなくなってから、俺にとっては生きることこそが苦痛だ」

 酒を煽って絞り出した声は、この世の絶望を凝縮したようだった。

「で、でも! 生きていればまた別の人と巡り会うかもしれないわ! あの女性だってあなたに死んで欲しいとは――」

「やめろ!」

 アウルの鋭い叫び声が空気を切り裂く。

「死んだ人間の気持ちなんて分からない。生きている人間が死人の口を借りるな。そんなものは生きているやつの妄言だ」

 アウルはノニを見ない。きっとあの女性を見ている。その女性だけを。

「アウル! わ、私は――」

「ノニ」

 出会って三年目にして初めて、名前を呼ばれた。

 ずっと待ち望んでいた嬉しいことのはずなのに。自らの名前を呼ばれて、これほど虚しさと悲しみで、心が凍ることなどあるのだろうか。

 アウルの放った一言は、ただ拒絶だけを含んでいた。今、彼は暗い瞳でノニを見ている。

「何も言うな。俺は彼女を愛している。たとえ彼女が雪に埋もれてしまっても」

 アウルはもうノニを見なかった。

 燃える焚き火が濃い影を作り出す。ノニはその影に飲まれ、ゆっくりとアウルの家から立ち去った。

 帰り道、ノニは何度も立ち止まらなければならなかった。止まらない涙が凍りついて顔を焼きそうになるたびに、温もり袋を引っ張り出して顔にあてた。立ち止まっても 絶対に後ろは振り返らなかった。きっとそこには黒い影があるから。

 あの女性が羨ましかった。死んでもあれほどに想われているから。

 そして同時に、愛しい人が死んでも、あれほど愛し続けられるアウルを美しいと思った。

 生きている彼女を知らないけれど、あの二人はお似合いだと思って、ノニはもうアウルに何も言えなかった。

 こっそりと抜け出してきたことに、家族は誰も気づいていないようだ。家に戻ると、焚き火がやや小さくなっていた。寒さの弱い洞窟の奥で寝るとはいえ、火を全く焚かずに寝るのは危険だ。ノニは薪を足して火が朝まで持つようにしたあと、奥へと向かった。

 冷えきった寝具の中に潜り込み、頭まですっぽりと被った。

 この気持ちは確かに恋だった。幼い少女の淡い憧れではなく。けれど、アウルの心を 溶かすことはできなかったのだ。夜具の中で嗚咽を押さえることが出来ない。

告げられなかったこの感情をどうすればいいのだろう。

 抱え続けることが苦痛で、早く捨て去りたいと同時に、こんなにもアウルを好きだった証を捨てたくないと思った。


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