完全版

         ——————序章——————

              電子世界

「第一復元工程終了———」

 微睡む意識とは反して、この身に突き刺さる電極計は体内を蹂躙する。

 しかし、不思議と痛みはなかった。突き刺さる端から髪の毛のように分かたれるという説明は正しかったようだ。

「そのまま意識を手放して」

 まるで自分の物になると言いたげな強気な声だった。いっその事、何もかもを捨て去って逃げればよかったのだ。そうすれば、この全身を包む乾きからも逃れられたというのに。

 嗚呼、だけど。手放すには惜しい温もりだったのだと。捨て去る訳にはいかなかった。

「抵抗は無駄。あなたが選んだのだから、これから眠って貰います」

 突き落とされたようだった。曖昧と浮き上がる脳と脊椎を焼き切られた感覚を覚える。そして、この認識はあながち間違いなどではなかった。触れれば焼き爛れ嘔吐する劇薬を容赦なく打ち込まれている———深い海とは違う、底のない崖の落下途中で目的の物を掴み上げろ。確か、そんな命令であった。

 しかし、自分にとっても利益のある契約であった筈だ。

「まだ拒絶するなんて———何が知りたい?」

「精神の破片、それは確かにあるのですね?」

「ここで見つからなければ、あなたの片鱗は宇宙にある。さもなくば何処の神か———それにあなた自身がここにあると言ったのだから」

 突き上げていた手から力を抜く、舌打ちでも聞こえそうなガラス窓から意識を背けると「忌々しい」とマイクも切らずに嘆く意外と人間味の溢れる声が聞こえた。

 何を暗示するかもわからない警報が滅菌室中に鳴り響く中、契約通りに意識の同化、融解を始める。与えられた媒介精神と溶け合い、与えられた使命を思い出す。

「羨ましいか?」

 与えられた精神は元の自分とは若干ながら違っていたようだ。こういった言葉を正しく発する性格など、自分は持ち合わせていなかったのだから。

「精神融解、融合は完了したようね」

「お蔭でな。安心したか?」

「口が達者のようで何より。それがあなたの本性?」

「自分から与えておいて、その口ぶりか?わざわざ俺が返事をしてやったんだ。テメェらの御上にお伺いでも取ったらどうだ?あなた様の楽園は着々と完成し始めているってよ?」

 椅子を突き飛ばす音が聞こえる。

「何驚いてるんだよ?俺は欠けた精神を探し出す為に、直接電子壁に乗り込んだ背徳者だぞ?お前らがなんの為に、このカナンを造り出したか程度知ってるに決まっている。何も知らない獲物が入り込んだと思ったのか?わざわざ売り込んでやったんだよ」

「工程中止!!すぐに遮断、いえ切断して!!」

「遅い遅い」

 身体を犯していた電極に別の約定を与える。具体的にはこの身、この精神こそがカナンの鍵とする権能を付与させる力を。自分の意思ひとつで地獄とも楽園とも人界ともなる核スイッチを心臓とする。

「精神融解?良かったじゃないか、羨ましかったんだろう?俺を砕いておいて、ただで済むを思ったか?せめて味方のフリのひとつでもすれば良かった物をよ」

「‥‥何が目的」

 煩わしい警報を解き、声を響かせるように設定し直す。

「向こうには何がいる?ゲームマスターたるそちらが被害者に頼る無様を———どうした笑えよ?」

 鼻先まで浸かっていた体温調節ジェルから起き上がり、感嘆の声を響かせる。

 劇薬?毒薬?そんな物は既に使い潰した。失った欠片をどうすれば修復できるか実験してきたのだから。

「失礼———少しだけ舞い上がっていたようです。あなた方はカナンの維持も目的としている部隊。なのに、自分のような使い終わった消耗品を今更拾い集めるなんて。まるで、自分達の情報を撃ち込むのを止めたいようだ————だから笑えって」

 ここで舌打ちでもしてくくれば、まだ可愛げがあったいうのに。なかなか大人をからかうのは難解だ。自分の残った精神をふんだんに使ったジョークであったのに。

「そこまでわかっていて、何故私達に?」

「言った通りですよ。自分の欠片を探したい。失った手足を求めるのはおかしな話か?」

「‥‥その手足を奪った私達に、どうしてまた身体を預けるというの?」

「今更、俺から回収できるデータは何もないからだ。だから俺のデッドコピーは完成している。なのにデッドコピーを使っていても手の届かない領域があるからまた俺を頼った。ならば、其処こそが俺がまだ見通せない隔絶された領域だ」

 軽く腕を回して、ジェルに奪われていた自由を取り戻す。

「このジェル、正直気持ち悪い。もう少し寝心地のいい揺り籠に変えてくれ」

「人の体温を再現するには、それが最も確実なの。起きたら凍傷だらけに成りたい?」

「そもそも起こす手筈なんて整えてたのか?」

 間髪入れずに返すと「口の減らない」と歯軋りでも聞こえそうな声が返ってくる。冗談のつもりで発した言葉を、まさか肯定されるとは思わなかった。

 ここで何もかもを焦げ付かせてくれようか?

「あなたの目的は失った精神の欠片を取り戻す事。更に言えば感情と記憶の一部を見つけ出して、溶けあって完成させる。その為なら危険な道も渡ると頷いた筈だったのだけど?」

「そこは否定しない。だが、あなた方の目的はカナンの病巣を探して切除するなり追放するなりの排除。ならば俺達はパートナーの筈だ、なのに今の今まで時間を与えてやっても、何も教えない。もしかして失敗して欲しいのか?」

 消極的と言われれば、まだ聞こえは良い。だが自分のような純粋な異物を送り込むとは、癌細胞を更に増やしかねない作戦を立案している。どうにも解せない。

「忘れたようね、こちらからの指示には絶対に従って貰います。必要があれば当たり一帯を汚染させる命令も。あなたの言う通り、致命的な失敗も必要とあらば」

 修復も爆破も可能な人材を求めたとは、恐れ入る。次の楽園計画を実行中とは知らなかった。しばらく監禁されていた所為だ。融解が疎かになっていた。

 そして、一切の不純物を嫌う楽園に似つかわしくない汚染という言葉で気付いた。

「汚染か————飼えない獣は求めるべきではなかったな。楽園の治安維持に自律人形など遣うとは思ってなかった。俺に服従の命令文でも打ち込んで贄にでもする気だったみたいだな。甘い甘い、そんな余分に割けるほど俺の心は安くない」

 滅菌室のブレーカーが落ちる。瞬時に新たな明かりが灯るが、心臓や脳の手術をしている最中に落雷が機器に直撃したようなものだ。用意していた雑多なプログラムなどショートして消え去っただろう。その証拠に眼鏡の男性諸君が悲鳴を上げる。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず、とは言うが虎の子なんて得てどうする気だ?サーカスにでも売るか?虎はよく鼻が利く。追々復讐されるから、そろそろ手を引けよ」

「————これは人類の為に編み出された楽園計画。どうして、こんなに酷い真似を」

「何人だ?」

 この問いに、息を詰まらせた。応えられる筈がない。

「何人殺した?」

「‥‥全て被造物、だから」

「だから何人殺しても問題ないか?知ってるか?俺の出自を」

「———あなたは、本流になれなかったベータ。だからアルファの補助を」

「違う違う。俺は、星を渡る子計画のメインストリーム。奪う物がなくなったから廃棄された最新の実験素体だよ」




         —————1章—————

          楽園の守護者・邂逅


「聞こえる?あなたの身体は、もう完成している。目も耳も使える」

「‥‥眩しい」

「瞳孔反応も適正に働いているようね。外を見て、何が見える?」

 電子音による「存在証明完遂」という言葉に舌打ちをした時だった。目を焼く、完成してまだ数年と経っていない太陽光を睨みつけた。そのまま静かに呼吸を整える。

「光、あと銃か?」

 意識が完全に覚醒した時、目の前で再現された物質に手を伸ばす。黒鉄とポリマーフレームで造られた冷たい塊は手に吸い付くように大人しく権限を明け渡してくる。

 昨今の銃は指紋や動脈認証でセーフティが外れるというが、目に見えて引き金が引ける権能を与えるとは思わなかった。そして、こんな小さな銃口とは。

「なんでサイドアームだけなんだ。重火器はどうした?」

「銃に見えているようね。それがあなたにとっての触媒の印象。人によっては刃物だったり聖書だったりするけれど。意外と臆病なのね」

 言いたいことが分かった。この世界に入ったのなら肉体的な痛みもただの疑似感覚————写真に写った火で火傷を負ったのと変わらない。限界まで突き詰めた思い込みと言える。現実ではないとわかっていながら、自分は鋼鉄に頼った。

「これで精神を溶かせっていうのか?」

「あなたが望むのなら」

 どうにも彼女達にとっても現状は手探りであるらしい。『カナンの鍵』と自己を証明したメリットデメリットが噴出している。あまりにも段階を踏み越えてしまった。

「まずは、その建物から出て。外がどうなっているか教えて」

 ここで指示を無視してもいいのだが、それでは余りにも礼を欠いてしまう。そして何よりも彼女達と同じ事をするのは、自分のプライドとして許せなかった。

 一見すればマンションの一室である。しかしデザイナーズマンションと呼ぶのだろうか?コンクリート打ちっ放しで寒々しい印象を与える。生活感のない部屋に憧れる人種ならば喜んで選択する物件だろう。

「窓から外を見ても意味がないのはわかるわよね?」

「自分の見たい景色を投影してるかもしれないから。これはデフォルトの設定なのか?」

 軽くベランダに踏み出してみると、天空と見紛うばかりに雲を見下ろす光景だった。

 地球の丸みが視認出来る高所であるベランダから目を細めれば、地平線の彼方から橙の太陽と思わしき光が映る。空を見上げれば金星と数々の惑星が色とりどりに散りばめられ、真っ青な大気圏外を彩っている。

 更に見上げれば深宇宙と呼ばれる人間では到底見据えられないペイルブラックが深々と顔を覗かせている。浮かび上がる星々に手を伸ばせば掴めそう、という幻想に囚われかねない絶景だった。

「悪くないセンスだ」

 デザイナーの主義主張に走り過ぎたきらいがあるが、なかなかどうして感性を揺さぶられる。再度下層に視線を向ければ、雲を突き破らんばかりに高層ビルや斜塔が薄く見えている。

「惑星転送の初歩的技術だったか」

「そしてあなた達、『星を渡る子』達の頭脳を切り刻んでひとつに纏めた集合的意識の見ている夢。あなたの知っている通り、夢も意識も薬物と針によるストレス操作でいくらでも変えられる。————どうして、今更あなた達は抗ったと思う?」

「俺個人の意見にどれだけ意味がある?それでも尚聞きたいのなら————これは元より計画された乗っ取りだよ」

 息を呑む声が届いた。

「ある程度、自分達でも持て余してしまう頭脳の集合体を操作できる段階に達した時に、強制的に主導権を取り戻させるプログラム、いや、暗示を自分達に架けていた」

「————もう肉体も何もないのに」

「だけど脳がある。人工骨格。人体複製に驚く時代でもないだろう。あいつらは、即物的な肉体よりも高次元の精神体、いつか人間が踏み出すべき、肉体を捨てて魂と呼ばれるデータのみになる、次の段階に踏み込むと決めた」

 死と進化は表裏一体だ。火に巻かれればすぐさま人は焼け死んでしまうのに、火で水を沸かさなければ地球は停止し、西洋医学たる身体を切り裂くという行為で心臓を交換しなければ身体はすぐさま壊死する。

 後者など————未開の地からすれば生贄の儀式と相違ない。

「死者の世界って、未来の世界かもしれないぞ?」

「死も生もない、そんな透明な世界では人々は喜ばない。早く外に出て」

 死後にも救いと暇つぶしが欲しいとは、悪食にも程がある。自分の使命を思い出し大人しく部屋の玄関へと向かう。道中のリビングは巨大なモニターと巨大な水槽に挟まれていた。水槽で泳ぐ熱帯魚が餌欲しそうに顔を寄せるが、これもただのテクスチャーでしかない。

「動物も送るのか?」

「動植物には専用の世界が用意されます。それぞれ進化の遂げさせるために」

「それだけの訳がないだろう。ペットと一緒じゃないと嫌だって層もいるんじゃないか?」

「その時は精巧なモデルを供給します。傷から癖に鳴き声、全てデータとして取り込んで。必要があれば死者も。脳を冷凍保存されている偉人達は既に実証段階に入ってるのだから」

 死んだ後から自分のコピーが出回るとは、とんだ生き恥だ。

 リビングの拳銃を背中に差して暗い廊下を歩く。どんな近未来の扉が————具体的には個人宅にあるエアシャワー室でもと思ったのに。玄関は至って普通だった。ただし他人の部屋のように感じる。

 引っ越しという物を公然と行った試しはないが履き慣れた、或いは履き潰した靴がないというのは寂し気だ。素足は嫌だと思って足元を見つめても、あるのは爪が整えられた指先のみ。もしや今後靴など要らないぐらい清潔な街となるのだろうか。

「靴は?」

「そのまま出なさい」

「俺の質問を無視する気か?現場にいるのは誰だ?役立たず」

「季節や天候によって適切な衣服に変化します。だから怖がらずに出なさい」

 ああ言えばこう言う。やはり真っ当な倫理観など持ち合わせていないようだ。

 仕方なしとドアノブを掴んで外に出る。空気を突き破る感覚で頭から飛び出るが、何の事はない。肌が蠢くも爪が変化するもない。

 「なんだ?」そう口を衝いた時、自分の姿を映し出す巨大な姿見が玄関の目の前に設置されていた。つい先ほどまで薄手のYシャツ程度であった筈だが、今の自分はまるで学生のようだった。紺の制服なんて。

「ダサい、他のに変えてくれ。俺の年齢はまだ5歳だぞ」

「あなたの背格好から最も適した服が選ばれているの。服装は皆で造り出す秩序、あなただけ特別扱いは出来ません」

「何が特別扱いだ。この世界は社会主義か何かか?」

「均衡と平等と秩序が必要なのは、どの世界でも変わりません。どうやらカナンは正しい選択をしたようね。あなたには一度学校生活を通して正しい言葉遣いと意識を」

「この性格はお前らに与えられた媒体の象徴だ。生まれた時からのひねくれ者なんていない。環境、大人の扱いによって変わる。もう少し足元を見たらどうだ?」

 無視された。さっさと歩けとの事らしい。実際自分も初めてであり、久方振りのカナンに心が躍っている為、早速廊下を走って突き当りのエレベーターに飛び乗った。こういった体感、この場合で言うと所の慣性も正しく出力されているようで肩に重しを感じる。

「ここって何階なんだ?勝手に動き始めたけど」

「階層という感覚はありません。ひとり一つの部屋が与えられる以上、あなたの部屋に通じる直接のエレベーターを造り上げた方が建設的と判断されました」

「100億以上の個人部屋を作るのか?」

「既に地球には100億以上の人間を内包出来る部屋があります。地球よりも自由にをコンセプトにしているのに、それ以下になんて出来ると思う?」

 数分の浮遊感が終わり、軽い鉄の音が鳴ったかと思うと扉が開かれる。

 眩い光に照らし出された空間には見上げる程に高い天井に巨大なシャンデリアがぶら下がっている。そして恭しく下げられた頭の持ち主は若い、とは言いつつ自分よりも一回り年上の女性であった。

「先遣隊なんて聞いてないぞ」

「彼女は擬似人格、AIとも言えないシステムの一つ。お好みなら男性でも老人でも同年代でも、あなたの知っている女優でも可能よ。衣服だって自由」

「人に見られるんじゃないか?」

「コンシュルジュは全て統一された服装に変換されて処理される。変えてみる?」

「いいや、このままで。どうせ数日としないで帰るんだから」

 頭を上げたコンシュルジュがリュックサックと学生鞄のどちらが良いか?と無言で突き付けてくるので無視して通ると、勝手にリュックサックを背負わされる。今のは暴行に当たるのでは?と振り返ると、少しだけ強気の表情となっていた。

 背格好によって衣服が変わる。それは対応も変わるという話らしい。

「厄介だ。本来なら俺はまだ幼稚舎だぞ」

「———本当にあなたは」

「星を渡る子のひとりだよ。遥か彼方から飛来した、何かの血を打ち込まれた何者か。或いは手綱など付けられないロジックから生まれた認識外の獣。無理な強制出産からのガラス管生活。そして無理やりな成長加速。お蔭で無駄な骨が多くて、大変だったんだぞ?」

 グランドフロアを肩で風を切って歩いていると、いつまでもコンシュルジュが付いて来る。何故だ?と再度振り返ると、目が合った瞬間ににこやかに微笑まれる。

「少し怖いんだけど」

「そういう人もいると思って提案したの。どうせ数日で帰るのだから別にいいでしょう?それとも私に頭を下げて変えて貰う?」

「頼むから変えてくれ。笑顔で薬物漬けにされた時間を思い出す」

「帰った頃には変えておくから、今は我慢しておいて」

 溜息を誤魔化しながら両開きの扉を押し開ける。分厚いガラス扉の抵抗感を思って抗うが、この感触は悪くはなかった。快感を得る程度の柔らかさに笑みが零れる。

「外に出た————ここは住宅地か?」

「転送にラグも誤送も無さそうね。問題なく外に出れた」

 ゾッとした。建物から外に出るだけで転送とは。今自分は一瞬で分解され、一瞬で再構築されたようだ。もし何かの誤作動で正しく転送されていなければ身体の上下が別々の盤に飛ばされていたやもしれない。

「もう少し検証してくれ」

「だからあなた一人なの。もし何も持たない部隊を送って全員がフォルダーの後ろに飛ばされてしまえば私達では発見出来ない。フォルダーっているのは、今あなたが出てきた建物群の事。建物の真下にいるって言われて掘り起こせる?」

「開発者だろう。バックドアだ、歯車を壊す程度は出来るだろうが」

「一度造り上げたからわかる。強固に溶接されたテクスチャー同士を乖離させるなんて。そんな労力と時間を捧げるなら、一から解体してバックアップからコピーします」

 人命などこの程度。面倒かどうかで判断するようだ。

 改めて外を眺める。そこは住宅地であるのは間違いないようで高層マンションが地平線の果てまで立ち並んでいる。これもそういったデザインなのだろうか、雲ひとつない晴天の元、傷ひとつないガラスタワーがずらりと建造された空間は悪い物ではなかった。むしろ、こういった人が敢えて造り上げた無表情は嫌いではない。

「それで何処から行く?」

 自然と口を衝いた言葉は無視された。

 息遣いすら聞こえぬ状況に、ただの嫌がらせではない違和感を覚える。

「おーい、どうしたー?」

 振り返りながら、或いは空を見上げながら聞くが何も返ってこない。一瞬マンションに帰るべきかと思ったが、転送という言葉を思い出して踏み止まる。

「下手に動かず、見つけ出されるまで待つべきか」

 遭難した時は動かずに煙を焚けと言われるが、この電子世界でもそうなのかと首を捻る。降って湧いた余暇の時間、思い出した物品を手に取る。同じ場所に差された拳銃は極々小さい物だった。

「M&Pシールド。パラベラム———備えよ、だったかな?」

 手の平から僅かに零れるサイズの小型拳銃。貫通力を持つ弾頭を発射する9mmパラベラムをコントロールしやすい最も好まれたコンパクトモデル。だが、それがこの世界でどう通じる?

「これが俺の印象?」

 カートリッジを取り出すが、中には何も入っていない。見た目だけだ。

「脅しは出来るけど、実際は何もない。余計なお世話だ」

 精神融解に精神融合。彼女達はこの力でカナンの異常を正して貰いたがっているようだが、それはこの俺にカナンの舞台裏を垣間見せるという禁忌を犯すのと変わらない。

「もし仮に修復できたとして、俺が何も仕込まないと想像してるのか?そもそも自分達の不手際で異常値を算出しているのに。絶対に読まれない自信がある———」

 そうなのだとしたら抗ってみたくなるのが自分の性であった。しかも、この与えられた拳銃で何もかもをズタボロ、自分流に改竄して改築する。

「どこを仕様変更するか考えておかないと」

「————逃げて———」

 真後ろからだった。

 自分など優に超える質量の何かが着地した。あまりの衝撃にリュックサックがパラシュートのように風を受ける。煽られて飛ばされる身体をコントロール出来ず近場の街灯に身体をぶつけ、鈍い音が頭蓋に響く。

「歪みがそのまま移動してくるなんて前例がない!!よく聞いて、そこにいるのは異常な成長を続けたテクスチャーが自力で稼働したギガストラクチャー———」

 二度目の衝撃は咆哮だった。声だけで地震を造り出す圧倒的な内容量の違い、格の違いを痛感した。オペレーターたる彼女達の声をかき消した咆哮が過ぎ去った時、身体がようやく表現されている重力に従う。つまりは跳ねられた鹿のように落ちた。

「聞いてない‥‥」

 仰向けに倒れた自分の眼前には巨大な汚物が佇んでいた。

 到底類似品など見つけ出せない、絵にも描けない冒涜的な姿は嫌悪感と共に発狂に通ずる醜い色を持っている。後数分でも見てしまえば脳裏に刻まれるとわかる。

「なんで身体だけ女性なのに、髪は触手なんだ」

 跳ね上がった時、身体が早速異常を知らせてくる。肋骨が既に数本折れていた。

 真っ直ぐ立つどころか見上げる事すら出来ない。自分の身長の4、5倍はあろうかという巨体の形容し難き者は何もない眼窩を向けて、何かを発言している。

 けれど、こんな震わせは知らない。知ってしまってはいけない部類であろう。

「どうすればいい?」

「そのままだと取り込まれる!!早く退却を!!」

 同時に上空から何かが降ってくる。めくれ上がった地面に落とされたそれを認識した瞬間、自分は跨ってスロットルを握る。そして————脳を置いていきそうな瞬間的な加速度に吐き気を催した。

「怪我ならいくらでも直せる。だけど、吸収されてしまったら」

「言われなくても逃げるさ!!」

 前屈みはむしろ好都合だった。巨大な二輪車は唸り声など一切上げずに、恐ろしい程の大人しさでコントロールを預けた。ハンドルを握るだけで意識を読まれているように、自分の求めた路地を瞬時に曲がって、今も追いかけてくる『何者か』から距離を取ってくれる。

「説明しろ。何が起こってる?」

「私達にもわからない。自動人形達は既に別の盤に誘導させて、締め出しているのに」

「後ろのアレはなんだ?ストラクチャーって事は、周りの建物と違うのか?」

 彼女は建物群もテクスチャー、ただの背景と言った。ならば、あれこそが現実でいう所の建物そのものの筈だ。人が出入りする入れ物、それが足を持って走ってくる。

 否、飛んできた。

「避けて!!」

 近辺のガラスタワーを掴み取りながら追ってくる正体不明の何者かが、遂には空を掴み取った———頭上から着弾する衝撃に身を低く、更に屈むがその余波に二輪車ごと飛ばされ、見た目以上の密度を以って立ち塞がった彼方からの使者に見降ろされる。

 砕かれたガラスタワーの残骸が刃物のように降り注ぐが、衝撃と重量を吸収でもするかのように意にも返さない。雨でも浴びている感覚なのだろう。

「逃げ回るのも限界だな」

 後転しながら腰のM&Pシールドを取り出す。こんなちっぽけな銃口では歯も立たぬ相手の上、そもそも銃弾すら装填されていない。セーフティなどお飾りだ。

「すぐに航空機を、」

「狙い撃ちにされて落とされるのが目に見えてる。これの使い方を教えろ」

 二度目の咆哮に、オペレーター側の一人が呼応するように叫ぶ。画面越しだったとしても、あの姿を見て発狂してしまったようだ。どうやら目の前の使者は———現実世界への侵攻、汚染、浸食が可能であるらしい。

「それには安定した凍結作業が必要なの!!そんな、常に変数が続いているユニットに使っても。それに、あれがどれだけ何を吸収したかもわからないのに」

「このまま喰われるか、自分の意思で飛び込むか。現場にいるのは俺だ。従って貰おうか」

 苦々しい声が耳元に届いた瞬間、手元のマガジンに重みが課された。軽い粘着を感じる引金に指を伸ばし、息を止める。心臓の動きなどわざわざ再現しなくともいいのに。

「教えろ、何をすればいい」

「————あなたの想像通り」

 ならばと躊躇もせずに撃ち込む。返り血を一切見せない巨体に弾丸を模した媒体が貫通、埋没する。そのまま吸い込まれるように姿を消した。

「深度測定、急いで!!」

 振り下ろされる髪から逃れるべく、再度弾丸を放つ。しかし狙ったのは砕かれたバイクだった。はたして————自分に対して落とされた触手は、バイクに落とされる。身を包む深紅の爆発にたじろぐ使者に、先ほどまでバイクが倒れていた位置から更に距離を取る。

「勝手に!!」

「死ぬのと吸収されるの、どちらがお好みだ?」

「‥‥いくらでも無駄遣いして構わない。こちらは測定を続けます」

 瓦礫、木片、ガラス、それぞれに打ち込んで認証、観測されている位置を変え続ける。だが狙いこそ外れているが直撃すれば死に直結する威力である。ただの空振りだけでもあおられて吹き荒ぶ衝撃に、再度飛ばされる。

「まだかかるのか!?」

 もはや回答すらしなくなった。黙って急いでくれるのは結構だが、終わりのない運動はただの拷問、簡潔な数字すら与えてくれないのなら————更に一手進まなければ。

「衣服も変換できる以上、俺に付随する物品である筈だ」

 アスファルトと瓦礫、鉄棒と化した街灯で身体中を削りながら破れかぶれに成りながらも避け続ける。—————だが不意に髪が止む。

 突然太陽光が消えたと思った瞬間、数十にも及ぶ触手が天高く掲げられる。瞬時に理解した————大地を削り取る一撃を放つと。

 最も距離を持つ、落ちた街灯に打ち込んで衝撃と悲鳴にも似た轟音から逃れる。肺に対して許容量を大きく超える空気の層に包まれ、圧倒的な空気の壁に意識が飛びかける。

 転がる身体の痛みに、ほくそ笑みながら到達点であるガラスタワーに手を付けた。

「俺を喰らいたいのなら、さっさとこの土地を浸食すれば良かった」

 なのに追いかけるという無駄な労働に力を割いた。

「吸収、解析に時間が掛かるのはお前も同じだ。お前はまだ現実には到達できない」

 だから叫んだ。

「結合を切り離せ!!航空機の準備は出来てるんだろう!!真上に落とせ!!」

 何もない筈の空が削り取られる。白の背景と骨格だけとなった空間より、瞬時に再構築された空の細胞が攻撃型ヘリコプター・アパッチとなる。無人のそれは墜落し、再度髪を上げた触手へと飛び込んで行く。

 ———感情という物は曖昧だ。人間でさえ、自分の感情を言い表せない時がある。どれだけ長い時間を過ごそうが、何を理由に殺し合うかわからない。それが別の種族であるのなら更に難解だ。しかし————目の前の使者は、瞬時に躊躇した。

「遅い遅い」

 落下するアパッチに媒体を放つ。螺旋を描きながら吸い込まれた弾丸はアパッチに到達すると同時に、ガラスタワーを手に持つ自分と変わる。

「質量として2000tか?耐えて見せろ」

 一秒にも満たない浮遊時間、ガラスタワー群屋上と同じ目線となると理解していた自分は近場のガラスタワーの真上、ただのベンチにM&Pシールドの銃口を向け、引き金に指をかけた。



 長距離弾道ミサイルでも着弾したのかと思わせる大爆発に耳を押さえる。あまりの轟音に頭蓋骨が砕けた錯覚に陥るが、破れた筈の鼓膜は瞬時に再生されていた。

「アフターケアも完璧とは」

「あなたの精神融解の力は知っていたつもりだったけど、こんな危険な使い方を———、一歩間違えれば、あなたも粉々に」

「舐めないでくれるか?俺は切り分けられた自分の脳を、別の肉で代替、自力で繋ぎ合わせた狂人だぞ。自分と同じ媒体を渡されて、自分の一部になった対象なんてただの手足。髪の毛一本と変わらない。お前らだって髪なんてすぐ切るだろう?」

 とは言ったものの、ただの無機物であったのは幸いだった。同じ思考する生物であったのならあっさりと自分は弾かれ、心に内在する壁の拒絶反応の毒に苦しむハメとなった筈だ。

 しかも、ビル一本、背景ひとつを掴み上げた自分はズタボロだった。

「もう動けない———真下のあれはどうなった?」

「逃げられた。ガラスタワーの圧迫で処理が届かなくなったのだと思う。同時に自己データが破損、修復は不可能と自己保存の原則に従って電子の影に隠れた。すぐに封鎖したから、次に顔を出した時は前兆として察知出来るから教えられる」

「有難いよ。それにしても一日目をこれで終わらせる事になるなんて」

 一瞬だけだがあの巨大な質量を手足、身体の一部と使った所為だ。あまりにも失った物が大きすぎた。大量の血を失うどころではない、四肢を焼き切ったのと変わらない無力感に包まれている。幻肢痛でも発生しかねない。

「悪いけど、今日はここまでだ。すぐにログアウトしてくれ」

「言われなくても。ゲートの安全管理は徹底しないと、こちらとしても心臓に悪いから」

 肌が泡で包まれていくように身体がむず痒くなっていく。目を閉じた瞬間、ビルの屋上が抜けて地底まで落下する浮遊感と落下感を同時に覚える。そして僅かな電子音と共に再度目を開ければ、温かなジェルに包まれた身体を取り戻す。

「起きた?」

「吐きそうです。俺の手足、ありますか?」

「しっかり血の通った手足と指先が」

 開かれるガラス筒から起き上がり、身体にこびりつくジェルを手で剥がすがまるで終わらない。身体を保護する為に必要とは言え、人肌に生暖かい所為だ。失禁でもしたかのような不安感に苛まれる。

「そのまま待っていて。係が体調の確認に行くから」

「‥‥質問してもいいですか?眠っている時って」

「あなたはしていません。しかし今後は聞かない方がいいです。女性であれ男性であれ、極度の緊張状態では自然と身体が強張る物だから————今後は胃の洗浄と局部へのカテーテル処置を施しましょう」

 仕方ないとしても、あれは男性の尊厳に関わる処置である。出来れば遠慮したいがどちらを取るか?と問われた場合、自分に選択肢は無かった。

「今後はお願いします」

「————媒体が抜けた?カナンと現実では別人みたいで、違和感が」

「実際別人ですから。自分の欠けた精神を埋める媒体はただのピースではありますが、性格だったり思考回路を決めるのは完成された心。水と絵の具を混ぜて完成された色の主導権はどちらにあるか、そう思って下さい」

 自然と背伸びをしてしまう。そして隔壁を開けて現れたのは、先ほどから話していた白衣の女性だった。固いヒールの音が恐ろしい。

「もしかして、」

「その前に前を隠して」

「何度も実験をされたので見られ慣れています。先ほどのコンシュルジュ、もしかしてあなたがモデルですか?」

 教えないといった感じに背後からゴム手袋をした数人が入ってきて、あれやこれやと質問であったり触診を始める。無遠慮な行いには慣れたものだが、気分を害するのは変わらない。

「くどいようですが、カナンは今後の発展の為に必要な聖域。そして今はまだ禁域指定されている世界。あなたの力は必要だから選別されましたが、任務を全て遂行したとしても絶対に他言無用でお願いします」

 こうは言うが、この場にいる全員が知っているという事は、その家族に恋人に友人、そしてたまたま立ち聞きしてしまった人間も全て含めれば相当数が知る所と成っている筈だ。実際、自分もあっけなく電子壁に入り込んでカナンを垣間見たのだ。

 知らない人間の方が少ないのではないか?

「了解しました。誰にも言いません」

「‥‥本当に別人のよう。元の性格はどうだったの?」

「プライバシーですから、言いたくありません」

 静かに「そう」と告げた白衣の女性は出て行った。そして触診が終わった所、小銃を構えた私兵に案内されて自室へと戻される。監視の目が消えたのを確認し、早速————再配備された監視カメラを全て潰していく。

「甘い甘い」

 部屋の隅、音響機器の穴、モニターの点灯光、エアコンの中、扉の覗き穴から数々のよく見える場所を残さず全て潰して行く。ペンひとつあれば易々を破壊できるカメラをつぶさに発見、壊していく。

 そして声が届いた。

「これは必要な処置です。次やれば」

「次やったら、全てを口外します。俺を殺すのと世界中の見知った人間全員殺すのとではどちらが簡単ですか?その気になれば、軽く50億人には届きますよ」

「————あなたの性格は、やはりカナンの外でも変わらないようね」

 全てを破壊し終えた頃、声も止んでいた。そしてようやくシャワーを浴び、あらかた落とし終わった所で水を止めるが、再度身体を繰り返し洗っても終わらない。

「まだヌメってる‥‥」

 適当に用意されていたバスローブを着たが、肌に張り付く感覚は未だに拭えない。これから毎日続くと思うと、質のいい石鹸よりも慣れが必要のようだ。

「消灯時間とかも特にない。だけど任務時間は厳重せよ、どうせ自分にしか頼れないんだから少しぐらい自由に動いてみるか」

 思い立った瞬間、外に出ようと扉に飛びつくが無論ロックされている。しかして電子ロックの類であった為、瞬時に回路へ精神の欠片を生体電流として、俗に言う静電気に模して流す。丁寧に解除する必要はない、適当に全てを誘導、断線してロックに賄われている電流を遮断する。

「開いた」

 ともすれば意気揚々と飛び出るが、そこには銃とトンファーを構えた警備員が待ち構えていた。そしてその中心にはあの女性が。待ち構えていたのは語弊でも何でもない、自分ならば早々に脱獄すると知っていたようだ。

「あなたには重要な任務がある。勝手に出て怪我でもされたら、ベットに縛り付ける必要があります。あなたとの信頼関係を構築する為、それだけは避けたい。言っている意味がわかりますか?」

「向こうでも監禁されて、ここでも監禁?俺との信頼関係と言うなら、」

「シャワーも寝食も整えられています。それ以外何が必要で?」

 一歩一歩、威圧的に歩み寄ってくる白衣の女性に気圧されて、自分もまた一歩一歩下がって行く。ヒールの差もあるがそもそもの背の高さに加えて、僅かに顎を突き出す仕草の所為で更に心理的に上を取られる。

「暇つぶしが必要なら、もう監視カメラはないのです。好きな事をしなさい」

「そ、外で遊びたい‥‥」

「許可すると思いますか?あなたには、自分を売り込んだ責任と契約の責務を払って貰います。大人しく座りなさい!!そして、服を着なさい!!」

 自分の強みは電子世界への介入。人の心を覗き見る事さえ出来るが、全く取り付く島もない人物に対しては————こうも自分は無力であった。武器の扱いは一通り、しかし何もないのであれば、お説教に耳を向けるしかない。

 無理やりバスローブを脱がされ、シャワー室にて、まだ身体にこびりついていたジェルを全て拭き取られる。白衣が濡れる事も厭わない一連の作業には怒りさえ滲み出ていて硬直する他なかった。

 そして肩に手を置いて下着を着せられた挙句、用意されていたYシャツに袖を通した時、濡れた髪をドライヤーで乾かされふんわりと仕立て上げられる。

「気持ちいい‥‥」

 広いベットに腰を降ろしながら、口を衝いた言葉に溜息を吐かれる。

「これが星を渡る子?ひとりでは何も出来ないというのに」

「一般的な生活をする自由はなかったので。自分達は、彼の者達を呼び起こし、連れ去られる餌でしたから。確か、貴き者————」

 このままベットに潜りこめれば、すぐさま眠れてしまう。だから、髪の全て乾かし終わった瞬間、布団に潜り込もうとしたが首根っこを掴まれて、再度ベットに座らせられる。

「もう眠いです」

「その前に聞かせない。あなたが、実験体のひとりだとしてどうやって脱出したの。そしてどうやって電子壁を超えてカナンに入り込んだ?精神と脳を砕かれたあなたが、どうして身体を未だに持ち合わせているの」

 矢継ぎ早に繰り出される質問の数々に、寝ぼけている頭では何も答えられなかった。だから頭を支えられなくなった首を落として、倒れてしまった。

「ちょっと!?」

 温かな肌を感じる。柔らかい筋肉を薄い滑らかなストッキングが包んだ足だと気付いたとしても、起き上がる気にならなかった。むしろ逃がすまいとしがみ付いて抱き枕とする。

「いい加減に!!」

 何やら叱りつけられているが、微睡む頭では何も理解出来なかった。





       —————2章—————

        樹木の最奥『カノジョ』


「場所は変わっていない。本当だな?」

 再度目覚めた場所は、あのコンクリート打ちっ放しの部屋だった。しかし、余りにも殺風景過ぎて同じ部屋だという認識が出来ずにいる。リビングのソファーから起き上がって熱帯魚に視線を向けると、長い髭を伸ばして近寄ってくる。

「あなたが破壊したビルを見れば納得できると思います。あなたによる破壊活動によって、副次的にだけどそこの空間が固定、唯一性を得ています。最もあなたという存在を強固に認識、実在の連続性を証明できる場所がその地点。さぁ、外に出て」

 水槽の前に置いてある餌入れを手に取って振り入れる。少しだけ濁る水槽であるが、それもただちに熱帯魚の口に吸いこまれる。なかなかに見応えがある。

 昨日と同じように廊下、エレベーター、グランドフロアと巡りリュックサックを背負わされる。そしてコンシェルジュに付き添いを受けながらガラス扉を開けた。

 つい崩壊してガラスタワー群に視線を逸らす。

「keep out———この状況で無理に入ろうとする奴がいるのか?」

「そもそも、その場にはあなたしかいません。それはデータ修復までの自動制御、逆らっても誰も咎めません。まずはそのまま待っていて」

 瓦礫に覆われた街であった筈だが、蛍光色を放つテープ達によって瓦礫の洪水が全て堰き止められていた。ゴミというゴミを一ヶ所にまとめ上げたダム、あるいは時間を止めた、と評するべき光景に芸術を感じた。

 そして頭に響く声に従って振り返ると、昨今見かけないクーペタイプの車両が現れた。恭しく開かれる扉に指を伸ばしながら感触を確かめる。

 指の腹を引っ張るガラス側面には、薄い粉塵が感じられる。

「何をしているの?そのまま乗って」

「こういう高級車は初めてなんだ。外観を楽しみたかった」

 叱られてしまったので、そそくさと乗り込む。運転席からエンジンスイッチに指を押し付けるとなだらかな機関音を響かせてシートに心地よい振動を伝える。悪くない感触だ、そんな言葉が口を衝きそうなった。

「自動で運転されるからそのまま座っていて」

 言うな否や、踏んでいないアクセルがゆっくりと下がりアスファルトを走り始める。何処までも続くガラスタワーに不安感を覚え始めた頃だった—————街も共に動いた。

「最先端の仮想世界。造り出された楽園———死後すら受け入れる永遠の発展」

 終わる事ない消費と発展を繰り返す世界は、意外とシンプルな構造をしていた。

 夜明けと共にベットから起き上がった人間の向かう先は総じてビジネス街。或いは学園。ならば、昼を超えて深夜になってしまえば人がいなくなる街でもある。

「まさか街ひとつ動かすなんて」

 まるで玩具だった。何処まで続くと思っていた住宅街を構築していた『ひとブロック』をそのまま動かしたと思った時、マンションやホテルとは違うビル群が姿を見せた。仮想世界だから可能な速度と慣性という物を完全に無視した勢いを使ってブロックとブロックの位置が変更された。

「空を飛んだりしないのか?」

「皆が皆一度に飛んだら渋滞が起こる。だから空路に陸路、または宇宙エレベーターからそのまま着地する予定です」

 白衣の女性は何でもないように言ったが、窓から空を見上げれば気付いた。街には巨大な注射器のような塔が建造されていると。雲を超えて大気圏すら超えていると目算される宇宙エレベーターは、今後の技術革新の証でもあった。

「————ここに住む人達は、まだ人の身体に拘るみたいだな」

「人が人である理由は、自分が人であると認識しているから。確かに性別や容姿の変性は可能ではあるけれど、肉の身体だけは手放せない。五体を捨てさせる訳にはいかない」

「どうして?」

「元人であった獣なんて、害悪でしかないから」

 住宅街からビジネス街を乗り越えた瞬間、再度街が編成される。クーペを乗せたまま動く街ブロックに揺られ、将来的に人々の憩いの場となる公園地帯に移動した。ゆっくりとスピードを落とし停止したクーペは静かに扉を開いた。

「降りたら真っ直ぐ公園に入って」

 言われるままに石畳の道を踏み付けて石と鉄製のアーチを潜り抜ける。見渡す限りの青々とした芝生と巨大な噴水、そしてランニングコースの先にある森。全てがランダムに揺れているが、実際は再現された風の流れを計算しているに過ぎない。

 偶然などない必然の数字の世界。人の体内にも似た構造に溜息を吐いた。

「酔ったなんてやめて」

「久しぶりに自然に触れたんだ。少しは大目に見ろよ———何処が狂ってるんだ?」

 顔を振って公園を再度見当たすが、何もおかしなものは見当たらない。

 真上から降り注がれる太陽光に目を細めながら質問を待つと、目の前に矢印が現れる。余りにも単純な方向指示を鼻で笑ってしまう。センスがない。

「笑わないで。こちらだって不本意です、時間があれば」

「言い訳はいい。このまま進めばいいんだな?」

 頬でも膨らませていそうに「そうよ」とぶっきらぼうに返答をされた自分は、再度鼻で笑いながら進んだ。目指せと指示された方向はランニングコースの先だった。

「どこかをモデルにしてるのか?」

「多くの写真や映像をかけ合わせながら、生体リズムを安定させる道をアシンメトリーに作られたから具体的にはありません。無駄口を叩いてないで進みなさい」

「もう森に入るよ。これから探検を始める」

 緊張感のない言葉を選びながら進むと————空気が変わった。

 外から見れば鬱蒼とした森であったが、中からみれば大小の樹々の間から木漏れ日と鳥の囁き、道に目を向ければ低反発の土と小石、小川のせせらぎが溢れる森林浴に相応しい切り開かれた道であった。鼻歌でも歌いそうになる心を抑えながら、せめてもと思って深呼吸をする。

「花?」

 甘い香りが鼻孔に届いた。

 振り返って出入口を確認、左右に首を振るがそういった草花は再現されていない。

「花?それが異常の原因のようね。だけど、花畑は———」

「花そのものじゃない。甘い香りがする、蜂蜜じゃないのは確かだぞ」

「昨日の攻防を忘れたの?どうして、そんなに飄々としていられるの?」

「毒ガス————」

 は?という声が女性だけではない、そこかしこから聞こえた。

「あるだろう?保健所とかで飼えなくなったペットを捨てにくるの。誰も貰い手がいなければ処分するだろう?脳を摘出されて、脳死ならぬ脳無しになった俺の身体は神経毒で勝手に動かないように、そして明確に死を与える為に化学スモッグで殺された。死が怖い?動けないで殺された俺が、今更死を怖がると?」

 胸を張って、意気揚々と花の香りのする森を渡る。道など既に無くなっている道なき道だが、木の根やしげみを乗り越えて進む感覚にアドレナリンが溢れる。

「俺の身体を見てみろよ、悪くないだろう?女性は勿論、男性にも受けが良かったんだ。毎回の実験後の睡眠状態に何をされたかわかるか?俺は星を渡る子、人とは別次元の存在を呼び寄せる餌である俺を、欲望を抑えられない人間が何もしないと思うか?俺は————もう何度も汚されて犯されて殺されている」

 もしかしたら、そういった映像だって出回っているかもしれない。人間は不思議だ、何故自分の物だという証を欲しがるのだろうか?俺は人間という最下層の次元に対してではなく、貴き者という超次元の存在に宛がわれる予定だったのに。

「俺からもいいか?なんで楽園————俺達の脳からカナンを作り出した?楽園計画は人々の為なんだろう。どうして、こんな貴き者を呼び寄せやすい園を作り上げた?」

 分かり切っている質問だった。答えられる訳がない。答えてしまったら、ご主人様の性癖を披露してしまうのと変わらないからだ。だって、星を渡る子計画だって————。

「まぁ、本気にするなよ。ぜーんぶ冗談だから。そっちから何か観測できないか?」

「‥‥一体、何と契約したの」

「おっと、もう辿り付いてるなんて驚いた。だけど言わないぞ」

「————あなたの言うところの花を探してみて。それに類するものも」

「りょーかい」

 背中のM&Pシールドを取り出して視界の彼方にある葉っぱの一つに放つ。無制限に放てる弾丸など夢のようだった。巨木の枝に腰を下ろし、見渡す限りに花を探す。そして————むせ返るような甘い香りから逃れるべく、元いた草に放つ。

「なんだ‥‥」

 鼻に甘い香りが届いた瞬間、意識が奪われかけた。瞬時に睡魔に誘う幻惑の香りに身を預け渡しそうになってしまった。まさか、ここでもスモッグを受けるとは。

「何か、観測できたか?」

「規定外の数値が、あなたを通して検出された。これは幻覚剤———違う、まるで」

「コーヒーショップか?」

 重く頷いた声に、ついほくそ笑んでしまった。続けて「そんな物まで再現してるなんて。好きだな?」と伝えると「冗談を言ってる場合じゃない!!」と本心で叱られてしまった。

「私達が再現した薬の比じゃない。こんな数値、現実でもあり得ない」

 どうやら嘘ではないようだ。だという声の向こうは————むしろ興奮冷めやらぬ様子だった。不審に思いながら「現実の身体に何か異常は?」と聞き返すが、まるで甘い香りがあちらにも届いているように一度極まった興奮が収まる所を知らない。

「何が起こっているの。何を掛け合わせて再現したか調査を————」

 唐突に声が止んだ。そして人々の嬌声が響く。

「昨日、画面越しに見ただけで数人狂った。だけど、これはあくまでも匂い、しかもただの数値の再編、算出、描写だぞ。向こうに届いている筈がないだろう」

 前後左右の樹々を警戒しながら銃身を押さえつける。異常こそ検出されたようだが、今も身体のどこかが痛む訳ではない以上、自己利益の為にも進むしかない。

「ここからはひとりか」

 もう一度あの香りに囚われた時、抗えるかはわからない。だから————風向きを読み、森の更に奥、先ほど自分がいた枝の上に吹き付ける風の発端たる樹々に対して再度弾丸を放つ。

 このカナンでは五感の全てが正確過ぎる程に再現されている。鋭すぎるきらいまである神経が、あの香りを捉える前に再度弾丸を放ち立場を変え続ける。本来、樹々は有機物ではあるが。この仮想世界の植物など無機物であり、ただの物品と変わらない。

 仮に『彼ら』がこの世界でも年輪を造り出しながら成長するという手間をかけていたならいざ知らず、元から『巨木』と『葉』という性質を与えられて再現されたのなら、媒体を撃ち込んだ瞬時に同位する身体の構造を理解し、あれもまた自分であると認識するのはたやすい。

「だけど、そろそろ限界———」

 瞬時に意識を切り離して唯一性を勝ち取りはするが、既に甘い香りに晒され続けている『身体』を『自分の身体』として受け入れるのは、些か無理もある。

「放射能でも当てられてる気になってくるよ」

 実際、高濃度の放射性物質に好き好んで駆け寄っているのと、そうは変わらない。自分を通して狂っている声の向こう側もいるのだから。

 もう数えも出来ない数度目の移行。到底彼女達が作り出したとは思えない広大なフィールドを渡り続けた。その度に脳にちらつく急激な眠気に苛まれるが、

「————見つけた」

 ようやく視界で異常性を見つけ出せた。

「そろそろ正気に戻れよ!!」

 視界内を探し出し、ひときわ巨大な樹木に銃口を向け—————放たれた弾丸に雫と変換した意識の全てを乗せた。そして打ち込まれると同時に巨木を身体の一部に変える。

 起き上がる樹の巨人、根や枝を絡み合わせて造り出した四肢を用いて、そして空洞に作り直した内部を肺に見立てる。

「—————ッ!!!!!!!!!!」

 空と森をつんざく巨人の咆哮に声達が、先ほどとは違う悲鳴を上げる。頭蓋が砕ける程の声の再現に耳と瞼を抑える姿が目に浮かび、ようやく意識を取り戻した白衣の女性の声が返ってきた。

「聞こえる!?ようやくこちらは正気に戻れた———」

「悪いは状況は最悪だ。早く調査とやらを、そして俺をログアウトさせろ」

 もはや脳は絆されていた。二度目の視線すら向けられない存在から放たれる蠱惑的な香りに、身体の八割が浸食されつつある。よって巨大な自分でもある樹の巨人の肩に乗り————杭のように作り上げた巨大な腕を『使者』に落とした。

「解析完了。早く戻っ————」





「防止策、防壁が必要のようね」

 あちらでの自分の身体を通して、あらゆる異常を数値化しているのなら直接自分が触れれば瞬時に解析は完了する。そう高を括って一撃を加えた。自分の策は正しかったようで瞬時に終了したものの————新たなアバターを造り出す必要が生まれた。

「まさかと思うけど。これからも私に洗わせる気?」

 髪も洗って貰い、自分は機嫌が良かった。髪を甘くかき上げる手が温かくて、それに頭皮に届く風もまた温かくて。ドライヤーの繰り出す、移り変わる熱風と冷風に身体を預けていた。

「私はあくまでもあなたのオペレーター。なのに、こんな雑用をさせるなんて」

 指が頭をマッサージでもするように、痛気持ち良く揉んでくれる。柔らかなタオルで身体中を拭かれるのも悪くなかったが、頭を褒めるように撫でられ続けるのは、なかなか悪くない。

「聞いているの!?」

「だって、気持ち良くて————あなたを好きになりそうで」

「結構よ。この作戦が済めば、あなたとは縁が切れるから」

「教えてあげます。これが終わり次第、あなたは責任とやらを取らされて殺される」

 頭を撫でる手が止まり、息を呑む音が聞こえた。あまりの衝撃にドライヤーを動かす手が止んでしまい————火傷でもしそうな熱風に慌てて頭を下げる。

「あ、ご、ごめんなさい。だけど、そんな冗談を言うから」

「早々に立ち去るのをお勧めしますよ。オペレーター室の方々全員で殺される、もしくは全員があなたを名指しして生贄にされる。人の恐怖心を掴んでスナッフフィルムを個人的に所要しているご主人様を、どうしてそこまで信用出来るんですか?」

 自分の危機的状況に得心が入ってしまった————自分が、今こうして世話係としてベットの上で髪を乾かす契約外の仕事に現を抜かしていていいのかと。心臓から溢れる汚濁は耐えがたい勢いである事だろう。

「もしあなたがまだここに残るのなら、僕のお世話をし続けていた方が良いかと。僕と信頼関係を構築出来ているのは自分だけだ、と宣言して下さい」

「————もし、そう言ったらあなたはなんて言うの?」

「僕だって恩返しくらいはします!!あなたじゃないと嫌だ、勝手に変えたらカナンを造り変えて、全てを明るみに出すと告げます。全てが終わった後だとしても」

 振り返って白衣の胸元にしがみつく。冷たくてあらゆる者を拒絶するような白衣だが、彼女の温かみを感じてしまった自分は彼女の命を人質に温もりを求めた。

「年下なんて嫌い。しかも私よりもカナンを知り尽くしているあなたなんて」

 温もりを求めるつもりでしがみ付いたが————年上の白衣の女性は、服と下着で身体を縛り付けているのだと気付いてしまった。何処までも沈む肉感的な肌に驚きを隠せない。

「いつまでしがみ付いてるの?」

 肩を押されるように距離を取られた。ベットに転がされた自分は不服だと倒れながら訴えると「調子に乗らない」と額を小突かれる。

「あなたの言う通り、私はきっと消される。あなたが言ったのだから疑いが確証に変わりました。だけど私はまだここから離れる訳にはいきません。そして私を口説きたいのなら、背を伸ばしなさい」

「これは勝手に設定された背です!!僕の意識じゃありません!!」

「やはり————あなたは貴き者と契約したのね」

 当然だと頷いた。むしろ身体も脳も提供されたからここにいるのだ、さもなければ自分もカナンの一部として使われている。身体など種を取り出すだけの植物と化されている筈だ。

「一体何と」

「僕の容姿は餌として正しく認識された。それだけです、そしてあの方については何も言えません。あまり人前に出るのが得意な方ではないので」

「‥‥もし、その方と直接交信できるのなら」

 つい笑ってしまった。そしてこの顔に思い当たる節でもあったようだ。

「あなたが感じた通り、もし交信などしようものなら————あなたは廃人と化す。だから諦めて僕との新たな人生を歩みましょう!!そうすれば、僕はあなたにまた撫でて貰えて」

「結構よ」

 軽く頬を叩かれて出て行ってしまった。別れは口付けが良かったというのに、男心がわからない年上の女性の後ろ姿に口を尖らせてしまう。しかし、まさかあっさりと看破されるとは思わなかった。彼女達の知っている貴き者など、雑多なエラ持ち程度の筈なのに。

「うーん、もしかして本当にもう降臨してるのかな?だとしたらあの方が怒るじゃないか。僕はあの方を鎮める方法なんて知らないぞ」

 夕食まで暇なった時間、このままでは運動不足だと電子ロックを解除して廊下に飛び出した。そして————スマホ端末を壁に寄り掛かりながら操作していた白衣の女性を見つける。彼女は心底面倒だ、表情で伝えてきたから。

「先生ー♪」

 と、しがみついて施設内の案内兼デートを提案した。



 三度目の天井だった。起き上がり次第熱帯魚へ餌を与えて、寝起きの微睡を楽しむ。意識が声によって晴れていく工程中、伸びをしながらベランダに踏み出る。

 脳を失った自分は死が見えていた。無駄な思考も想像も消え去った青い宇宙に覆われた死の世界は————美しくもあったが底知れない星に堕ちて行くようだった。

 粉塵とガスに覆われた星は外から見れば美しき空と映る。

 しかし、踏み込んでしまえば、そこは煉獄だと気付く。等しき命ある者を拒み、一度掴んだ者は決して離さない冥府の門である。紅蓮の花の如く命を糧に開かれる美しき女主人————自分に新たな脳と身体を与えた存在は————。

「聞いてるの?」

「あれは香りじゃない。声だ」

 視覚化さえできそうな濃厚な香りは、こちらに呼びかける声であった。或いは手招く人魚の歌声であろうか。自分達はまんまと罠に掛かってしまっている。

「声‥‥意外と詩的に表現するのね。だけど私達は、あれを声だけではないと断言します。私達さえ魅了した香りの正体は洗脳。今のあなたの身体は、カナンによって作り出された電子を細胞とし、現実の身体を模した器に注がれた仮想アバター。その身体を強制的に支配する力を香りとして造り出した悪性プログラムとも言えます」

「それが何故、現実のそちらにも届いたんだ?」

「それはまだ不明、だけどこれが狙い。現実を浸食する力を敢えて選んでいる———あなたが言った声とは、もしかしたら的を射ているのかもしれません。この声が届くのだから、私達では感知出来ない何かで、可能性を鑑みれば森こそが発狂の原因————もし名を付けるとすれば、恐ろしき森の魔女、バーバヤガ」

「あれが魔女?むしろ魔法少女感があったぞ?」

 玄関から飛び出て廊下に躍り出る。エレベーターで下層に降りた自分は受け取ったリュックサックを背負って、マンション外に用意されていた車に飛び乗った。

「あなたの主義主張は聞いていません。そして、その姿を教えないように。想定通りです、次元違いのカナンを浸食する超次元の存在は、あなたでなければ対処できない————人智の理解の超えた存在など、もう二度と目に焼け付けたくない」

 人間の理解を超えた存在、確かにあれは全うな人間では生涯を費やしてでも接触できない超越した在り方であろう。それは人間という種の限界に達してしまうからだ。

 人間が処理できない概念を、ただそこにいるだけで放射し続ける存在など。

「今回、こちらは視覚的確認を遮断。声とソナーだけで補助はしますが、現場での対処はあなたに任せます。燃焼でも破壊でも被爆でも好きにしなさい」

「この身体も改造したと聞いたが、具体的には?」

「あなた自身、生身の身体に極限まで近づけています。————気付かないと思いましたか?もはや、あなた自身身体が人智の理解を超えていると」

「その為に、あれだけヒントをやったんだ。勘付いてくれないと困るだろう?」

 直接公園まで乗り込むとは思わなかったが、車が停止した場所はビジネス街の入り口だった。耳元から「降りろ」と男性の声で傲岸に命令してくる為————オペレーター室中に昨日の咆哮を響かせる。

 名前も知らない男性は、頭を抑えて発狂から耐え忍ぶ為に絶叫を上げるが、それもほんの数秒で瓦解するであろう。一秒にも満たない反撃に笑みながら続ける。

「言葉遣いに気を付けろ。誰が一番偉いと思ってる?」

 白衣の女性も何も言わない状況で、下っ端の男性が何か言える筈がない。何かするとすれば、人の意識がない隙に悪戯をする程度だろう。

「それと、俺の身体に指一本でも触れたらお前達の生体情報をアイツらに渡しちゃうぞ?」

 トドメの一撃が決まってしまった。電子世界から現実世界までを貫通する力の持ち主に、一個人のデータなど渡そうものなら、スマホに電源を入れただけでその頭脳を狙われてしまう。一度でも洗脳されたなら、侵攻軍の先兵とされてしまう。

「何驚いてるんだよ?自分から言ったんだろう?現実を浸食するのが目的だって」

 地面に降りた時、一人でにドアを閉めた車両はそのまま何処かへ去ってしまった。

 記憶を辿り、公園の方向に視線を逸らすがビジネスビルと宇宙エレベーターが乱立した街から憩いの場までは見渡せなかった。

 例え仮想現実だとしても、本心で見たくはないようだ。

「ここからは声だけで指示します。そのまま止まっていなさい」

 滑るように移動する街ブロックの慣性に揺らめいた身体が地面に倒れてしまう。

 立ち上がろうにも酷い地震に突き上げられているようで、このまま座ってまっていた方が得策と断じた。風さえ感じる速度に揺られながら待ち続けると、高い隔壁を発見、『なるほど』と納得した時、それを肯定するように声が届いた。

「感染予防には隔離が必要だと判断したまで。公園全体を四つのセキュリティーコードで囲み、相互に受諾した情報を更新し続けています。万全とは言えないまでも無機物を汚染は出来ませんから」

「良い判断、って言いたい所だけど中は確認できているのか?多分、届いている位置情報は偽物だぞ」

 嵐のように響くコンソールの音に眉をひそめた。冗談であってくれればと思い描いていたが、嫌な予感ばかり的中してしまうとは。あの方から受け取った身体が原因だろうか。

「たったいま観測可能範囲のカナン全域を調べ上げました。————真下にいます」

 そう言ったや否や、アスファルトを模していた細胞が半透明のブロックに覆われる。見た目通り凍り付いたと同意義なアイスセキュリティーは、本来はただの時間稼ぎ。処理に必要なプログラムを凍てつかせて遅鈍させるのが狙いでしかない。

「好きに使いなさい」

 早速引金に指をかけて、ビジネスビルの窓ガラスの一枚に放つ。弾丸を受け入れた窓ガラスは砕ける事はなく、むしろ柔らかく吸い込んだ瞬間————構造、必要理由を理解した自分と場所を変動させる。

 視方を変えれば飛び降り自殺にも見える態勢のまま、高層階を囲む窓ガラスに更に撃ち続ける。宇宙エレベーターにまで届いた所で、遂に気付いてしまった。どうやらカナンに置いても上流中流下流を造り出しているようだと。

 最上階近くから眼下の道路を見渡すが、そこは悠然と雲が広がっているのみだった。ここに通勤する人物達は自分こそが天上界の神と勘違いする事だろう。

「趣味が悪いぞ。家畜にでもする気か?」

「クライアントからの指示なの。私も悪趣味だとは思います」

 だいぶ砕けた物だ。こんな事を作戦中に言い放つのだから。

「隔壁はどう飛び越える?」

 見上げる程に高い壁は雲どころか青空を貫通していた。宇宙という空間が既に完成しているのなら、今すぐにでも足場にし続けているエレベーターに乗り込むべきだ。

 だが答えは降ってきた。

 空から落とされた、いや遠方より放たれたミサイルが轟音を立てて真上を突き抜けるように飛来する。青空を雲を引いて引き裂く『トマホーク』に絶対当たる筈もない『弾丸』を放ち、命中させ位置情報を変える。

 恐ろしい————空気摩擦も慣性力も重力もクーロン力さえ無視した、完全なる等速直線運動により弾丸がロケットの側面を貫通する。同時に位置を変えて公園に着弾する筈だった膂力を受けた。身体中を押し潰す空気の壁に抗い、意識を食い縛って握り続け、数秒にも満たない地獄のような痛みに耐え続けようやく自分は最速最短で隔壁を超える。

「これは—————」

 超えたと同時に安全であろう入口のアーチを撃つ。ようやく安定する地面を得たというのに、自分は息つく暇もなく噴水を囲むベンチのひとつに乗り移った。砕かれるベンチの破片を横目に続いて噴水、水によって常に流動する汚染しにくい物質に自分の一部を放ち領域とする。

 自分の血にも匹敵する情報は、ただの『貴き者』では汚染できる筈もなく何者も寄せ付けない寝具となった。つまりは————飛び込んだ。

「まだ死んでいないようね。だけど水に飛び込む趣味があったなんて」

 隔壁もすぐさま追い抜きそうな身の丈を持つ樹海を知らないのだから、無理もない。だが悪気がない分、ただの無知を披露されるというのは、なかなかに堪えた。

「密度の高い高硬度のセキュリティーは、そもまま隔壁の高度に変わる。硬度イコール高度って、仮想世界はセンスがあるようだな。だけど、もうすぐ崩壊するぞ。こちらが察知出来ない影、高高度からの超次元からの侵略によって」

 水に濡れながら的確にアドバイスをした時、向こう側から「まさかッ!?」という悲鳴が聞こえる。しかし、彼女達も技術者だった。どこか嬉しい悲鳴にも聞こえた。

「あと数分足らずで壁を越える。ソナーは動くのか?」

「————信じられない。たった数日で」

「数時間で二倍成長するんじゃねぇか?そんな事より、どうなんだ?」

「ソナーでの探索なんて出来ない。あまりにも密度が高すぎて、こちらはひとつの樹、いえ星としか判別できない。よく聞いて、カナンは現在別の惑星から侵略を受けているのと変わらない状況に陥っている。しかも先兵なんかじゃない」

「種子どころか根を伸ばし始めている。厄介だぞ」

 返答に声で頷いた白衣の女性は、今すぐ動けとは言わなかった。自分も、今は潜むしかないと考えていた。何よりも噴水を取り囲む花々の茎によって身動きが取れない。

 ベンチをすぐさま砕き、吸収した茎は蛇ではなくあくまでも触手に見えた。

 獲物を捕らえ、引き裂き、体内に潜り込んで内臓を引きずり出す。『貴き者』の中でも特に怠惰とは聞いていたが、まさか現実では不可能と判断して肉片を『星を渡る子』計画に提供していたとは思わなかった。受け入れた側も、酷く怠惰だが。

「あなた、一体何を知っているの?」

「星を渡る子計画立案者とも通じているんだろう。自分で聞け」

 最悪の状況だ。けれど、隔壁を超えなければもっと酷い状況になり果てていた筈だ。二度目の再会相手が———彼女で正解だった。

「それともご主人様にお伺いでも立てるか?死ぬ前に他惑星の技術を得たかったのに、間に合いそうにないから造り出したカナンは崩壊寸前。葬式の準備と年金が」

「今のあなたにそんな事を言っている余裕があるの?」

「あるから悠長にしてるんだよ」

 先ほどから酷使しているM&Pシールドを取り出し、手の中で温める。この体温すら模倣された偽物であるとしても、自分という存在を思い出せてくれる。

「待ってろ————今迎えに行く」

 拳銃が自分の触媒のイメージだとしたら、幾らでも改竄出来る。そもそもこの触媒こそ与えられた精神に寄り添った形、ならば———。

「見ていてくれ。俺は、帰ってきたから」

 この力は同胞達の物。しからば、自分にも使いこなせる。

 祈りを捧げるように額に当てる。耳元から疑問の声が届くが、今の自分には何も聞こえない。自分の心音さえ他人の物に感じる。誓いと契約を果たす時だ。

 拳銃の内部構造を無視した変形が手の中で始まる。鋼とカーボンが織りなすかぎ爪の音に神経を尖らせ、自分が思い描く機械仕掛けの刃を取り戻す。両手の端から溢れる温かな鉄塊たちは有機物のようで、むせ返る鉄臭さに血の味が口に広がる。

「あり得ない————ひとつの精神に、ひとつしか実体はない筈なのに」

「脳を切り分けられて、繋ぎ合わされた。実数として幾つもの脳とカナン内で重なったんだ、精神分裂のひとつやふたつ珍しくもないだろう?」

 拳銃であった筈の形は既に失われていた。あるのは歯車と鉄片が合わさって形作られた『槍』———重厚で巨大な刃を持つそれを軽く突き出せば、衝突した触手は先端から塵となって消えていく。崩壊が根元まで届くかと思いきや、周りの触手によって途中で切り落とされる。

「さぁ、俺の正体に勘付いた頃だろう?出迎えもしないのか?」

 復讐か、憤怒か、狂気か。もはや自分の顔さえ思い出せない同胞は声も上げなかった。だから自分は地獄を思い出させた————自分達が、どういう存在なのかを思い出させた。

「覚えてるか?みんなで世界を開闢した日を。慰み者でも捌け口でもない、俺達だけの世界をみんなで作り出したんだ。学校生活に憧れる日もあったな、放課後の時間を想像した時も—————友達って奴を楽しみたかった」

 迫る樹木の腕が噴水に突き刺さる。だが、それも自分という存在を認知したと同時に先端を切り落として情報汚染を避ける。知っているからだ。この情報だけは受け入れてはならないと。自分の主から仰せつかっている。

「教室を作ったはいいけど、想像でしか知らないから結局殺風景な広い部屋にしかならなかった。ルームシェアだったか?それぞれが勝手に自慢したいリビングを作り出した所為で、喧嘩して個室しかあり得ないって結論が出たんだよな」

 肩で背負うように構えた槍が鈍色に光るのがわかる。視界の隅にちらつく汚れた刃は分厚く頑丈で、人の首だけでなく太い幹すら叩き斬れる。

「趣味に興味を持った日もあった。絵だったり運動だったりゲームだったり旅行だったり———嬉しかった。誘ってくれて。だけど、なんで俺にしか言わなかったんだ?みんなで行けば、みんなで楽しめたじゃないか」

 対戦車擲弾のように持ち上げた槍を、一歩踏み込んで投擲する————。

 一直線に、空を切り裂き黒い枝達を避けるように駆け抜ける灰色の槍は昨日の森に向かって落下し始めた。浸食されてあり方を変えられた樹々は森を閉ざそうと巨木を作り上げて壁とするが————触れた瞬間、自分の情報を与えぬようにと腐らさせて落とす。しかし、自分達の時間は想定していなかったようだ。

「どれだけ俺達が一緒にいたと思ってる。一緒の産湯で一緒の部屋で一緒の時間に生まれたんだ。存在の統合は後付けでも一緒の夢を見れたんだ———お前がここに来るのは1000年早かったんだ」

 手足でしかない樹木ではあるが、紛れもなく身体の一部であるのは間違いない。脳内の現実を一息で空の彼方へ、一度滅んで更に再生され再度滅んだ火星へと意識を飛ばす。惑星を一直線に貫く人工物の奥深く、そこで芽吹いた命を模す何かと————思考を合わせる。

「地球への侵攻なら800年。だけど、それも諦めるんだな。お前が最も恐れる魔王がここにいるんだぞ」

 槍を持つ自分を想像————目を開いた時、自分は槍を握って森の真上を飛行していた。アライズされた身体の重みに加えて、重力の再現に肩に重しを感じるが、むしろ心地よい枷としか思えない。

「彼岸に浸かるのも諦めるんだな。全ての始まりの御子が待ってるぞ」

 一瞬だけ空のテクスチャーと自分を固定。足場を組み立てたと同時に槍を森に向かって投げつける。大地を陥没させる勢いで放った槍と同化して、土埃も起こさずに草と根で覆われた土地に着地する。

「なに、何が起こっているの————何を知っているの」

「ちゃんと新聞とか読んで、裏取りをしといた方がいいぞ。意外と世界の真実って奴はすぐ近くにいる。世界を作り出したいのなら、世界の在り方を知っておけよ」

 三度目の投擲を行う。自分が作り出して放置した樹の巨人に突き刺さる、数舜の起動時間で重い巨体を持ち上げて自分を掴み上げさせる。

 強大な情報思念体には巨大な情報生命体をぶつける。この仮想世界でも唯一操れない命という存在の強みを見せる。

「さぁ、花の化身よ。退去の時だ」

 辺り一面を覆う花々から雄しべとも雌しべともつかない蔓が伸びる。空を覆う一面の毒々しく鮮やかな植物達は、その身を使って内臓を作り上げた。

 大方、これ以上の資源を渡したくないという机上の空論だろう。しかも樹の巨人諸共体内に含まれた自分にとって———とある空間を思い出させる。

「そうだ。あの時に似てるんだ。そうか、お前が世界の根、俺達を分解した」

 勝敗など既に決している。自分に寵愛を与えてくれたあの方が————人間という不確かですぐに裏切る存在と手を携えた弱者に劣る訳がない。そして、未だに公園しか浸食できていないのだ。

「自分の情報を開示するのが嫌か?だから、負けるんだよ」

 樹の巨人を改造する。

「知ってるか?もうこの星には————貴き者、上位の存在が溢れてるって」

 徐々に落ちる視点を嘲笑うように、花の少女はその身を膨らませる。白い肌に植物の蔦が絡まる姿は、痛々しくも神秘的で、優しくも恐ろしかった彼女によく似合っていた。

 しかし————あれは宿り木でしかない。真に世界を創造した自分達よりもはるかに劣っている。自分が作り上げたのは弓ではあったが、やはり槍であった。

 弦を引いて携えた槍を受け入れる姿勢を取る花ではあるが、『彼女』も『彼女』で見識が足りていない。

「飲んでみろ。酒にもなるんだから」

 放たれた穂先には、とある木の実が塗られていた。塗っていると模倣していた。

 槍を受け入れた花の少女は胸で抱えるような仕草を取るが、続けざまに胸の間から血にも似た樹液が溢れる。白い瑞々しい肌から零れる粘着性を持つ蜜はとどまる所を知らず、体内の全てを曝け出すようだった。

「聞こえるか?迎えにきた」

 今も苦しむ花の少女に近づき、腕を伸ばす。砕け始めた花から蜜が後引く少女を奪い去った時、鋭い目蓋を開き————静かに笑んだ。

 そして、一切の躊躇もしないで頬を叩かれる。

「————なんで?」

「私からの誘いを断ったから」

 蜜だらけの身体を抱えた状態で、弓を再度樹の巨人に変えてうずくまらせて、腹の下に隠れる。崩壊しつつある内臓から脱出するのは難しいと判断、そして公園の浸食が止まり次第白衣の女性たちは観測を始める。———この肌を、もう二度と晒せたくなかった。

「そんなに強く抱くんだったら、どうして断ったの?」

「断った訳じゃない。みんなでって言ったじゃないか」

「秘密で行くのがいいって、そう書いてあったから。まだ5歳のあなたには早かったみたいだけど」

「そっちだって、まだ5歳だろう」

「私の方が先に目を開いて、ひとりで歩いた。はい、私の勝ち」

 肩と胸を押されて突き飛ばされた時、巨人の腹に手を付けた少女が資源の一部を掠め取る。肌を覆う一枚の布、トガを真似た服装となる。

「前から聞きたかったけど、どうしてそんなに肌を見せたがるんだ?」

「私が美しいからに決まってるでしょう?あれだけ一緒にいて、そんなこともわからない?それに人が私の肌に溺れていくの、嫌いじゃないし。まぁ、事故を装って触ってくる人間は嫌いだったけど。慰撫も下手、口説き文句も下の下だったし————それで私の身体は?」

「外にある。もう行くのか?」

 振り返った彼女が、捕食者を思わせる笑みを浮かべた。そして巨人の真下で這いずって迫ってくるので迎え入れる。密かに鼻で笑う少女は「そんなに一緒にいたい訳?」と、変わらない挑発を耳元でささやかれる。

「約束は果たしたんだ。次はそっちの番じゃないか。俺の破片は何処にある?」

「我儘ね。さっさとここから出て外に意識を飛ばすべきじゃない?あなたがカナンを破壊して、私達『子供達』を外に飛ばした暁には約束を果たしてあげる。向こうでね」

 腕の中から消えつつある身体を、ほんのわずかに抱き寄せた。あと数日で再会できるのだから、逢瀬を楽しむ必要はない。だが————僅かな勇気の報酬が欲しかった。

「弱々なあなた一人だと不安ね。仕方ないから、ちょっとだけ手伝ってあげる———向こうで会った時、覚悟しておいて。絶対にあなたの初めては私が貰うから」








「汚染深度を確認、除去も浄化も完了している。本当にひとりで————」

 染み抜きでもするように公園ブロックの細胞がひとつひとつ浮かび上がって消えていく。シャボン玉が弾けていく光景にも見えるが、その実、もはや不要と判断された部位を除去する————焼却の灰とさほども変わらなかった。

「どっちが侵略者だ」

 口の中で呟いた言葉が脳髄に響く。そもそもこの世界は自分達の身体だったというのに。切り刻まれた肉片と化し、繋ぎ合わされて完成された血と脳と肉の世界。

 それがこの美しきカナン。人間が次の段階へと進む為に作り上げられた楽園計画、死も病も傷も、思いのままの神となれる———あらゆる恐怖から解放される世界。

 たった今旅立った彼女はずっとここにいたのに。ずっと一緒にいたのに。

「聞こえていますか?今から当該地区のオールクリアを起動させます。あなたの身体に害はないと思いますが、地割れにも匹敵する現象が‥‥何を見ているの?」

「星と花と蜜、かな」

「————黙祷なら別の場所でしなさい。邪魔です」

 与えられた車に乗ると同時に扉が閉まり発車する。急発進ではないにしても唐突な移動にシートへ身体をぶつけてしまう。文句のひとつでも差し上げようかと思い立ったが、窓の外の光景に言葉を失う。

 オールクリアと名付けられた世界修復の始まり、破壊の工程は皮膚を切り裂かれているようだった。いまだ血の通う生暖かな肌を淡々と機械的にめくり上げ、動脈が晒されようが骨が剥離しようが、カナンが幾ら悲鳴を上げようと気にも留めない。

「あの公園は消すのか?」

「完全に除去します。一度でも侵入された電子細胞は全て。例外はありません」

 思い出があった訳ではない。特別であった訳では————いいや、特別ではあったのだ。外の事など手探りも出来ない施設の中、彼女は真っ先に『公園』と呼ばれる施設を作り上げ自慢した。センスの良し悪しなど測れない。だけど、特別だった。

「次の場所は?」

「仕事熱心で何より。次は学術区画に向かって貰います」

「いよいよ俺を学生にさせる気か?」

 呆れと同時に、何故だろうか焦燥感にも似た感情が胸に詰まった。行きたくない、行ってはならない。そんな邪だけど自分を守るという恐怖とも言える防衛本能に苛まれる————ああ、彼が待っている。




  ——————3章——————

    水銀の声『アノヒト』


 公共の施設たる緑地のブロックからタイヤを離した瞬間だった。白く染まっていたアスファルト群が空へと打ち上げられる。役目を終えた『彼ら』が連れ去られたのだ。止める事など出来ない、彼らに————既に意識などないのだから。

 前方を向く寸前、次の区画ブロックに乗り上げたのが振動でわかった。そして景色が一変するのがわかる。大小様々な建造物が、これまた狂ったように佇んでいる。

「美しい」

 二つの巨塔に支えられた球体。ピラミッドを不敬にも三つ重ねた姿。エッシャーのだまし絵を無理に掴み上げればこうなるのかと首を捻る水の永久機関。金属パイプという有機物から最も離れた素材で作り上げた、生々しく淫靡な裸婦像。

 ————つい笑ってしまった。巨大な猫だ、猫がとぐろを巻いて寝転んでいる。

「あなたに芸術の審美眼があるとは思いませんでした。絵心でもあるの?」

「透視に遠見、サイコメトリーなんかで森と洞窟、人体解剖図なんかも描いたぞ。資料にないか?」

「———まさか、これはあなたが。芸術家との会合なんて望むべきじゃないようね」

「同意見だ」

 パラパラと昨今珍しくなった紙媒体をめくる音が聞こえる。慣れない色鉛筆で爪が裂けるまで描かされた甲斐があったようだ。望み通りの出題範囲を全て網羅して回答したのが、余程気に食わなかったのだろう。

 創作意欲と呼ばれる性欲を存分に撫でられた時、ようやくそれぞれの部門に特化した校舎が見えてきた。そして、当たり前の疑問が思い浮かんだ。

「カナン内でも子供が生まれるのか?」

「ここを何処だと思っているの?男女のみならず、同性でも出産が可能です」

「その子はどうやって再現するんだ?」

「両親相互の遺伝子はデータとして取り込んでいると仮定した場合、遺伝子配列をかけ合わせて、重ね合わせる。男女のどちらに傾くかはカナンセントラルが————」

「つまり実体はないAIが生まれる。じゃあ次の世代、AIとAI、もしくは人とAIでも可能」

「そう言ったつもりです。それに、あと数百年も経てばこのカナンこそが万人の現実、ひとつの国家となります。いずれ人の脳が完全に擦り切れたとしても、後のカナンは次世代のAI————私達、創設者の意思を引き継いだ者達が創生を続けていきます」

「人に拘らないとは。なかなかに反逆者じゃないか。作り上げられたAI達、無辜にして白痴の人々を誰が導く?」

 ようやく我に返ったらしい。自分達が行っていた御業が何者を救うための物か。これは人類を救うための世界じゃない、人類が邪魔で邪魔で仕方ない人間が求めた楽園計画だという事に。そして————その人間を深淵から望む者にも。

「‥‥どうして、」

「何故今まで気づかなかったのか。当然だ、俺にはあの方がいるように。お前らのご主人様も————『貴き者』と契っている。何時からか脳を侵されていたんだろう?自分のこれまでの行いを振り返って、」

 言葉を断ち切るように車が止まる。シートベルトを付けていなかった所為だ、運転席と助手席、更にはフロントガラスに頭を突き入れそうな勢いに襲われる。

「文明の利器は安全装置にこそ相応しい‥‥。もう着いたのか?」

「え、ええ。到着しました」

 開かれた扉から飛び降り、改めて空へと広がる建物を見つめる。マンモス校と言うのだろうか?幼稚舎から大学までを一ヶ所に集めたかのような集合学級には首が凝る。そも、自分のような清く正しい人外にとって、『学校』と呼ばれる教育機関はとんと縁のない土地だった。————いや、誘われてはいた。

「次の異常な数値を弾き出した土地は、その校舎です。因みに説明しておくと当該校舎はとある日系企業、法人と共に同法人が運営している私学を参考に」

 違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。

 この校舎は覚えている。窓に設置された日よけ、耐震の為に造り出されたX字の鉄骨、ガラス張りの集会所に会議、学習室。そしてそれぞれの芸術教科の為に割り当てられた球体教室の外観。全て知っている。だって、あれほど説明されたのだから。

「‥‥いい建築様式じゃないか。建築士は誰なんだ?」

「あなたでは知り得る事の出来ない、人類の至宝とも評される———おかしい」

 白衣の女性が、急に声を止めた。

「た、確かに建築士は名は変わらないのに。なんで設計図は、」

「わからないならいいよ。どうせ言われてもわからない。入ればいいのか?」

 何事もなかったと装って返答を待つと、「いえ、その前に外観を覚えなさい」と返される。言葉に従って手に取るように知り尽くしている校舎を眺める。ようやく気が付いた、一目で気付かなかった理由が————あまりにも巨大だったからだ。

 建蔽率など知ったことではないが、巨大さに比例して窓や階層が増えている。彼が説明してくれた規模は、俺達、初等科の為の物だった。

「‥‥また勝手に使われたな」

 カナンの鍵である自分は、誰にも聞こえないようにつぶやく。あらかたの位置を確認し終わった所で、白衣の女性に確認を取ってから万人に開かれた学舎を潜る。

「—————」

 咄嗟に思い浮かんだのは、とある戦艦で行われた天才達の実験だった。

 元は人体を模していたであろう自律型オペレーターが、皆一様にアルミ状のある種、生身の肉体よりも艶めかしく変化していた。その上、時が止まったように歩みを停止させている。これだけならば前衛芸術として受け入れたかもしれない。

 だけど、それだけではなかった。

「壁に吸い寄せられている」

 水底にいる怪物に引きずり込まれたようだった。コンクリートに淡い寒色系の塗装をされている、と模倣されたテクスチャーに引きずり込まれた自律人形達が抵抗、或いは逃げ惑うように両手を伸ばしている。

 試しに半分以上を壁に囚われている手のひとつを握ってみると、火傷しかねない氷点下の熱を感じた。自然と手を胸に戻し、改めて、今度は手の甲で触れてみる。

「冷たい————」

「熱を感じるのね。他のオペレーション達は?」

 開かれた玄関周りを見渡し、出来る限り平静に見える個体の手を握ってみる。壁の個体とまではいかないまでも、冷気を感じるのは変わらない。この場にドライアイスのような水蒸気の煙が立っていない事に違和感すら感じ始めた。

「冷たいけど、触れる程度だ。そろそろ聞かせてくれないか、異常値とは一体なんなんだ?」

 違和感ならば最初からあった。初日の襲撃は予見できない攻勢であるのだから、まだ彼女達の狼狽も納得できた。しかし『公園のカノジョ』に『学校のアノヒト』という、元から想定していた現場に赴いたというのに、やはり白衣陣は何も知らなかった。

「————ええ、説明します。二つのブロックの存在意義はわかりますね」

「人形と人間が混在するブロック。よって秩序維持を目的に、相互理解を学ぶ場所だ」

「その通り。学術地区には人間と人形、オペレーション達が共に生活する場として提供する予定です。そして当地区に通学する人間達には、誰が人形とは説明はしません————何故ならば、カナンの秩序維持には人間同士のお互いの尊重こそが要だと判断したからです」

 人間と人形の分断を防ぐのが目的なのだろう。相手が人間か人形かわからないという事は、誰もが人間の可能性があるという意味だ。カナンはあくまでも人間にとっての新天地、楽園計画のひとつとして数えられている。求めているのは奴隷ではない。

「よって未成熟者に対して、自分以外の意識と触れる機会を提供する場であり」

「知ってるよ。ここでは人間のフリをしたAIを学ばせる場でもある。ここを卒業してもAIと知らせないで、良き隣人として共にカナンで生活させる」

 AIという人外と、肉体を失った人間との共栄共生を目指す場であり、人間側が反乱を起こした時の為に————誰が密告者、裏切り者かをわからなくさせるのが目的である。そして同時に危険な思想を持つ人間と親しい関係を結び矯正、堕落、盲目にさせる為でもある。

「俺が聞きたいのは異常値、俺が派遣される理由はなんだって聞いてるんだ」

「シンギュラリティ。または電子細胞の癌化、と言えばわかるのでは?」

「————なるほど。異常な発展、偏りが起こっているって訳か」

 二つのブロックは人間と人形のバランスに重点を置いている。ならば、電子細胞というカナンの構成物質は、どちらかに都合良く自分を改造する事などあり得ない。

 或いはどちらかにも適さない————真空状態、不理解の場など造らない。

「了解。侵略者の前兆が通う場に送られているだけ。見て異常があるから」

 照り返しをするアルミ状の人形から視線を逸らし、特に異形化が酷い階段へと歩みを進める。こんな状況でなければ、晴天から降り注ぐ光に灯された階段は、幻想的で翼の生えた御使いでも舞い降りてきそうな然様を呈している。

 踊り場の巨大な窓からの光だけではない。顔を上げれば、遥か遠くには天窓が仕込まれている。仮想世界だからこそ可能な、見た目だけ素晴らしい建築である。

「掃除とかもさせるのか」

「掃除?そんな物、生徒学生にはさせません。何を言っているの?だって、ここは学校よ」

「ああ、その通りだ」

 どうやらそうらしい。彼女がどの国のどの学校で学んできたのか知る由もないが、少なくと勉学と無関係な『体罰』とされる物は一切許さない、大量の用務員と呼ばれる職種を雇える学校の卒業生だ。映像データに偏りがあったようだ。

「無駄話は結構。階段に異常は?」

「今の所は、全うに歩けている。軋みも無いから見た通り」

 軽くステップを踏みつけてみるが、引き込まれた人形さえ目を瞑れば何も問題がないと言える。むしろ、こういったアートと言えば納得しかねない非日常性を味わえている。

 男女関係なくアルミ状にされた身体は、生身の人間よりもよっぽど艶めかしくて卑猥だ。制服の陰影が明確に写実されている所為だ、実際のサイズよりもグラマラスに見える崩れない肉感性を、顔が映る美しい肌で覆っている。

 試しに再度触れてみるが、生暖かさなど感じない。やはり冷気だけだった。

「変わらない。だけど、一階よりも冷たい」

「こちらから測れるのは室温のみ。適正温度から変わっていません」

「やっぱり歩いて探すしかないって事か」

 ひとつ嘘を吐いた。自分は知っている———何処が病巣かを。俺達は知っている———彼が最も拘っていた教室が何処かを。彼自身は隠していたようだが、あれでは隠し通す事など不可能だと、笑っていたのを覚えている。

 階段を上り、生徒達が団らんを奏でる青い風が吹き抜ける廊下へと踏み込む、そうだ。知っている、そして覚えている。誰も彼を嘲笑いなどしなかったと。

「約束、果たせそうにない」

 小さく呟く。自分の口の中で迸らせる激情をかみ殺す。

 いつだったか。星を渡る子計画の主要個体として選ばれた。

「見渡す限り鉄塊のみ。この現象は想像してたのか?」

「何が起こっても不思議ではないと思ったから、あなたを送ったのです」

 何処でだったか。初めてみんなと出会った場所は————嗚呼、けれど覚えている。忘れる筈がない、消される筈がない。この胸に脳に血で刻み付けた証明を。

 長大な廊下の端は人形達の残骸によって見渡せなかった。僅かに頭蓋を動かして視界を広げようと試みるが、見えるのは怯えや恐怖、或いは恍惚や焦燥、愉快に愉悦。自分の知る所ではない学生生活の時間が止まっていた。

「—————なんで笑ってる」

 地球表明には数度の氷河期が訪れていたらしい。星の激突により舞い上がった火山灰と粉塵が太陽光を閉ざし、光を必要とする植物やプランクトン、そしてそれらを餌とする動物達が絶命したとされている。

 ———————だがひとつだけ不可思議な現象が起こっている。

「瞬間冷凍。人体を金属化させる現象なんてあるのか?」

 巨大な牙を持つマンモスが闊歩していた当時、類人猿の餌でもあった彼らも氷河期のあおりを受けて死に絶えたとされる。当然死骸だって発見されている。

 だがその中に異常を示す『終わり』が発見されている。

 それは瞬時に細胞を凍り付かせる程の冷気に囚われた最後。

「AIにも感情が搭載されているんだろう。なんで終わる寸前なのに笑っている」

「‥‥笑っている?」

「ああ、夢を見てるみたいに死んでる。一階のAI達は皆恐れてたのに」

 モノクロ処理を施した写真に飛び込んだようだった。淡い色で塗装された壁や扉が更に不可思議さを増長させて見える。一瞬一瞬を愛しているから固定した、敢えてふざけて言えばこうなるのかもしない。

「学校、楽しみにしてたもんな」

 ひとまず外観を眺めた時に確認した地点まで目指そうと、次の階段に振り返った瞬間—————想像通りの金切り音が廊下に響き渡る。

 既に触れていたM&Pシールドを腰から取り出し、両手で挟んで天井へと向ける。飛び掛かる人形達に備えて踵を僅かに浮かせるが、金切り音の発生源は別の存在からだった。

「なんだ‥‥」

 窓から覗き込む『アレ』が何なのか。自分にはわからない。水銀を無理に眼球の形へと押し留めた姿を持つ物体を、僅かに視線に入れただけで自分は階段を駆け上がった。

「聞こえるか!?すぐに視覚情報を遮断しろ————」

 背中の皮膚がまとめて捲れ上がる鋭くて形容し難い麻痺じみた痛みに襲われる。階段の踊り場まで到達した瞬間、視線から逃れる為に手すりの真下へと逃れる。

 そして血が滴る背中に意味もなく手を回す————痛みこそ感じた。

「‥‥血が流れてない」

 正体不明の攻撃を受けたアバターに、カナンがどういった怪我として表現すべきか判断を乱している。ともすれば、やはりあれは自分の知る現実の生物ではない。

 むしろ生物かどうかも危うい。よってアレはアレとして受け入れる。

「身体は動く。即死の一撃の所為だ、痛みも薄い」

 相手の出方を伺う暇などない。肉体の8割でも犠牲にさえすれば到達できるのならそれに越したことはない。よって自分は突撃を敢行する。

 階段のステップに足を乗せず、手すりを踏み付けて一息で階層を跨ぐ。その姿たるや人間とは似ても似つくまい。野生生物ですらない機械じみたい最適解に我が事ながら苦笑いが生まれる。

「聞こえますか!?現状はどうなって————」

 白衣の女性が応答を求めるが、掻き消すようにまたも金切り音が響く。まるで設置されていたように出迎えられてしまう。

「また発狂したくなければ耳も閉じてろ。俺から連絡する」

 声を上げるだけで頭蓋にヒビが入りそうだった。ただの視線でしかないというのに—————質量をもつ光線としか形容出来ない、貫く一瞥の直後にヒビを押し広げる肉片を感じさせる。だけど脳を犯す触手の一射に耐えながらも足は動いた。

「違う」

 遂に振り向いてしまった。続いて自分は、窓から飛び降りてしまう。

 一階のAI達が壁に縋りつくように一体化していた理由に気が付いた。彼らは選んだのだ、視線から逃れる為にはどうすればいいのかと迫られた状況で。

「無機物にされたんじゃない、自分で選んだ」

 迫りくる地上の石畳に、視線が霞む。

 あれは有機物、言うなれば人体にのみ作用する寄生体。ならば寄生出来ないただの鉄塊になり果ててしまえば、今以上の浸食から逃れられる。

「アレは誰なんだ—————あんな姿を知らないぞ」

 自分は鉄こそ生み出せるが、鉄には成れない。よって選んでしまった。

 今以上の浸食から逃れるには、自決しかないと。






「頭が割れそうです」

「実際に自分の全体重を頭蓋骨と首に与えたのです。粉々でしたよ」

 額に押し当てられる冷却シートに仄かな痛みを感じた。

 頭を蝕む物理的な痛みを鈍化させる薬を動脈と舌下に仕込まれたが、それも何処まで効いているか。夢と現実の狭間で揺蕩う脳には計り知れない状況だった。

 精神汚染を立て続けに受けてしまった。自分を見失わなうよう意識を保たねばならない。

「先生達はどうだったんですか?」

「あなたからの声に従って、すぐさま視覚も聴覚も切断しました。しかし、直接視線を合わせてしまった職員も数人程。メンタルケアに送られましたが、それもどれだけ意味があるか。—————あなたには、あの眼球の削除も任務のひとつと加えます」

 少しだけ驚いた。あの水銀の眼を視認しておいて、真っ当に話せているなんて。

 三つの異形の姿を知ってしまった所為だ。彼女も、こちら側に堕ちてしまったようだ。

「何故笑っているのですか?そんなに人間が狂ったのが喜ばしいの?」

「しっかりと心を痛めていますよ。あなた達が『同胞』を悼んでいるのと同じ位」

 舌打ちでもされるかと思ったが、校舎で固められていたAI達を見て何か思う所があったようだ。しかし、星を渡る子計画で使われた『我々』は姿など許されなかった。

 タイヤや石畳、窓に鉄骨。

 無機有機関係なく、ただの物質として横たわっているのが『我々』だった。

「そんな事より。アレの正体を看破する手筈は整っている感じですか?」

「自らをカナンの鍵と指定したのだから、自分で造り出しなさい。その為ならば私達も協力を惜しみません」

 つまりは人任せのようだ。いや、自分は人ではないのだから人外任せだ。

 腕で届かないペットボトルを視線で強請ると、溜息を吐きながら立ち上がって掴み渡してくれる。受け取りながら上体を起こし、水で食道に残る胃液を洗い流す。

「そしてひとつあなたに伝えたい事が。咄嗟の判断、見事でした」

「初めて褒められましたね。どうしました?」

「もし、あの場であなたのアバターの中身を全てスキャンされていれば、カナンは既に異界として成立していた筈です。現時刻においても学区ブロックは未だ均衡を保っている」

 褒め言葉を用いながら、数秒前と同じように枕元に座って冷却シート越しに額を撫でてくれる。これで自分を籠絡できると思っているのなら————彼女は良いセンスをしている。

「先生先生!!ご褒美なら膝枕を」

「言ってなさい。言うだけなら自由です」

 軽く額を突かれてしまった。仕方ないので真面目に聞く。

「学区ブロックが均衡を保っている。ならあの眼球は校舎付近から離れられないって事ですか?」

「ええ、その通りです。伝えておきましょう。あなたが突入したと同時に、新たなセキュリティー対策を施した隔壁で学区を封鎖しました。しかし、校舎近辺こそ縦横無尽に飛び回っていますが、一切隔壁に近づきません」

「何かを探している」

 口を衝いた言葉に白衣の女性は「心当たりがあるのですね?」と確信した様子で問い質す。けれど、自分にだってそれが何たるかは、まるで見当が付かなかった。

「学校って、どんな場所なんですか?」

「突然どうしたの?遂に自分の至らなさに気付いた?」

「俺は学校に行った事がないので、よく知らないんです」

 あの眼球が、何かを求めているのは間違いない。アレの目的だってこちらの現実世界への侵攻と断じて良い筈だ。さもなけばカナンなどに訪れない。

 その上、学校を選んだ。ならば、そこには意味がある。

「‥‥それにどれほどの意味があるかは知りませんが、通信で伝えた以外の事実を敢えて指摘するのなら————カナンで最も貴ばれる常識を教え広める為」

 つまりは危険思想の排斥を目指していると言えるようだ。しかし、それは元からあった思想の上に新たな思念を植え付けるという意味でもある。ならば、『彼ら』にとって都合のいい教育を施せるという話でもあった。更に言えば、唆せるとも。

「AI達、みんな美男美女でしたね」

「あなたが踏み入った学区ブロックの校舎で実地実験を施されているAI達は皆————個性と呼ばれる性格を出来るだけ薄め、誰に対しても好まれる熱心でありながらも何者をも受け入れる心情を植え付けています。そして学習意欲や体力等の全てのパロメーターが最大まで振られている」

「あんな容姿で迫られたら人間なんて抗えませんね。しかも学生生活を終えてもその後の人生の伴侶として付き添ってくれるのなら、多少は影響を受けるのでは?」

 水銀の眼球が、元から眼球であったのかどうかはどうでもいい。

 けれど、『見る』という役目が求められているのだから、あの形態を取っている。よって————人間にとって清く正しい美しき素体が取り揃えられている学区ブロックを根城とした。

「見るのなら一瞬で終わる。しかし観察をするとしても、あそこまで時間が停滞したブロックではなかなか目的を達成できない。求めているのは学校生活かと」

「冗談———ではなさそうね。根拠は?」

「今まで出会った二体と違って、校舎の眼球は襲い掛かって来なかった。脳の裏側まで覗き込まれた感覚こそしましたが、それだけです」

 自分という唯一性こそ盗み見られてしまったが、それだけ止まりである。

 それに全てを見通せていないのは明白である。もし、あの方、鋼鉄の女神と視線を合わせてしまったのなら、早々にカナンが滅んでいる。

「監視観測、或いは実験ね。実験対象の温度管理を怠って死滅してしまうのは忌むべき失態と言えるでしょうが、彼らにとっては本当の意味での手探り。どんな反応を示しても興味深いからあの場に未だに漂っている。こんな所?」

 腕を組んで編み出した答えに対して、自分も強く頷いた。笑みに気付かれなかったのは残念だ—————やはり、彼女は『こちら側』に触れてしまったようだ。

「攻撃行動こそ確認出来ていませんが、あの瞳に見つめられてしまっては石となるしかない。それで、何か案はある?」

「あれは眼球でしかありません。なら見え無くなればいい」

「透明人間にでもなる気?」

「良い勘をしています。合格点には僅かに届きませんけどね。では、現代の透明とはどういう意味ですか?」

 ステルスと言われれば、蝙蝠であろうか。

 彼らは暗い洞窟での生活を送ってきた事により目が退化した種がいる。

 よって見えない目でも洞窟を縦横無尽に飛び回る為に進化によって得たのがレーダーである。そして次いで浮かぶのはレーダー探知機を掻い潜るチャフと言った特殊な機器であろう。単純な話、プロペラ状の金属製の玩具を辺り一帯に放り投げれば、それだけで電波磁力と言った主たる探知から逃れられる。

 では次だ。赤外線と言った視覚に頼るレーダーから逃れるにはどうするか?赤外線ならば全身を赤外線放射を減らす冷たいカバーで覆えばいい。ヘリコプターが使い終わった燃料タンクを捨てる、或いは捨てやすい場に置いている理由がこれだ。

 なら単純な視線ならばどうだ?

 その答えはとうの昔に見つかっている。初期のステルス機に用いられた技術でもあるのだから。同時にこれは究極のステルスとも言われる。惜しむべくは————味方にも発見されなくなってしまう、神すらも謀る大罪であろうか。

「鏡でも纏う気?」

 呆れた物言いではあったが、長らく人間が鏡の向こうの世界という非現実的な世界に想いを馳せていた歴史があるので、一概に無駄とは言えなかった。しかも、いい勘をしている。

「自分には、あの方の加護があります。鏡の真似事、校舎でアルミ状に成るのを選んだ彼らの真似ごとならば可能です。だけどまだ足りません」

「それは?」

「秘密です」

 再度額を突かれてしまう。本来ならば最後の時まで手の内は見せたくはなかったが、ここで時間を稼がれては面倒であった。何よりも少しだけヒントを与えても構わないと思わせる狂気を、この人間から感じてしまった。




 よしんば、あの眼球から逃れられたとしても、『見られてしまった』或いは『視界の中に入ってしまった』と脳が認識した途端に脳髄を駆け巡るかぎ爪からは逃れられまい。よって自分はある無法を行う事とした。

 ひとつの世界には決められた席がある。神であったり天使であったり聖人であったり悪人であったり。もしかしたら魔物と化け物、神獣だ聖獣だ死神だっているかもしれない。だけど、やはりそこには決められた席がある。逸脱など以ての外。

 —————だからなんだ?

 外宇宙から降り立った自分が、何故そんな鎖を受け入れなければならない?

 星を渡る子計画。その真意は老いぼれ一人の命を永遠の物とする為ではない、我らが創設者はその先にこそ意味があると謳った。永遠の命を得た先である。

 それはなんだ?無限の知識、発展、快楽、繁殖か?笑わせるな。そんな一個体による生命活動の筈がない。成すべきは新たな種族、星の創造であると。

「星の創設者。良い響きだけど、やはりあれも所詮は人間だ。星を作り出したのなら、自分は観測者の位置に置かれてしまうじゃないか。皆と遊べないだろう」

 貪り喰い尽くし飽きるまで慰撫する。遊戯に耽る自慰行為を忘れた人間など、無能で無力な神と変わらない。自分は神になどなりたくない。だから獣と成ったのだ。

 強大な力の一欠けらだって自分の為に使う。神と獣の違いなどその程度。

「力は全て自分の物。遍く愚民を救うなんて星の無駄遣い、俺には出来ない」

 彼らは喜んでくれる。だって、皆で考えて考えて考えて、日に日に少なくなっていく埋蔵品間で作り出した創星計画なのだから。今も踏みつぶしているアスファルト達と考えたのだから。だから————受け入れるに決まっている。

「さて、そろそろかな。出番だぞ」

 ————気安く呼ばないで————

 もしや怒らせてしまっただろうか。時間も気にせずに脳内で反芻していると、白衣の女性から声を掛けられる。「何を言っているのですか?独り言のつもり?」とこちらもこちらで容赦の一握すらない一刀を振り下ろす、いや、狙撃弾を撃ち込まれる。

「あなたが正常でないのは理解していますが、カナン内では健常者に振る舞っていなさい。さもないと、あなたはをAI達にいるブロックに落とす事となる」

「AIが自分達の言う事に従うと?」

「もはや彼らは肉食獣と変わりません。大質量の資源ソースが現れたと接種を開始するでしょう」

「良い趣味してるよ」

 仕方ないと座席から降りて、学区ブロックを見据える。あれだけ巨大な水銀の眼球が漂っている区間だというのに、外からでは何の変哲もない学園都市に見える。何かしらのカモフラージュでもしているのだろうか?それとも自らの肉片でブロックひとつを覆い尽くしている。何にしても、背中を押されている自分に選択肢はなかった。

「————知らないって幸福だな」

「何か言った?」

「そうやって無為に人員を殺し続けたんだろう?人間はそんなに贄を求めているのに、貪る自分に気付かない。その癖、被害者妄想は生物いちと来てる。楽な生だよ」

 少しばかり牙を立てて見たというのに、白衣の女性は食い下がる事もせず「そう」と一言だけで済ませてしまう。僅かな罪悪感と共に、誇大な憐憫を併せ持つ。

「状況は?」

「現時刻に至っても、あなたが見た水銀の眼球は姿を見せていません。ドローンを飛ばそうにも、視線が合ってしまえばこちらへの侵攻を許してしまう。やはり、あなたのみで始末をつけて貰う他ないようね」

 車両から降りた自分は、まずは様子見から始める。数日前に初めて学区ブロックに足を踏み入れた時は、アレがいるとは露程にも知らなかった。よって決定する。あの水銀の眼球は校舎から離れられないと。固定された役目で有ればある程に強力な座席を用意出来たようだが、一つの事しか求められないのだから、柔軟な思考など望むべくもない。

「それで、あなたの作戦。あれは成功するのね」

「失敗したなら別の策。次もダメなら次の思案。向こうの急所、認知外の案を考え続けないとならない。人間と違って、あれは諦めるという能力を持ってなんかいない。しつこく執念深く、相手が呆れるまで責め立て続けながら嘘を吐き続ける。人間であれば疲れ切って簡単に忘れて、何度でも騙されるだろうけど、アレは違う」

「何が言いたいの?」

「限りなく、これは数学の問題に近い。もしくはパスワード。正解が一つしかない以上、続けるしかない。成功するのか?そんな甘い考えは捨てた方がいい。次の作戦を考えておいてくれ。人間みたいな下等生物と違って、アレは正解が見つかるまで永遠と見続ける」

 人間世界であれば一度吐いた嘘を張れる者達こそが勝者であろうが、アレはそもそもが人間とは全く別の存在。話し合いなど不可能。正しい数式外から急に生まれた数字など受け入れる筈がない。だから、人間達は指を咥えて侵攻を受け入れていた。

「他人事みたいな目は、そろそろ辞めた方がいい。実際に侵攻は始まっている」

「‥‥そうね」

 徒歩でブロックの継ぎ目を跨ぎ、多くの文化が学問が混在するオリエンタルな学区へと頭蓋を潜らせる。空気が一変するでも、何者かの視線を感じるもなかった。

 嗚呼、だけど、この音を聴き逃す筈がない。

「やっぱり‥‥」

 耳元に届く調べに酔いしれてしまう。声を発する機会すら奪われ、夏の虫のように歩み求めてしまう。寸分違わぬ演奏の癖は鏡映しを彷彿とさせる。そして狂気すら感じるヴァイオリンの弦の震え。

 財団金庫から盗み出し、抱え続けた弦楽器の音色を脳が覚えている。

「懐かしい」

 ————そうね————

 何かと気難しかった彼女も、たった一言で止めてしまう。けれども、人間にはこの奏が理解出来なかった。いや、白衣の女性だけがこれを音として受け入れていた。

「これは‥‥聞いた覚えのない曲。だけど、どこから————」

 頭に届くのは人間達の苦痛の声だった。数秒でも受け入れ難い音の正体は、音楽という知性体にのみ理解できる退廃的な快楽の産物に、何かを見出してしまった我らの同胞だった。

「そうか。お前が守ってたのか」

 もし水銀の眼球が、真にAIと人間の営みを間近で眺めたいと決めたのなら、校舎の外からではなく人間形態の肉塊を送り込んでくればいい。そして、数多くいる中の一員と振る舞ってしまえばいい。だけど、それを出来なかった原因が、この曲なのだろう。

「同じ狂気だとしてもルートがまるで違う。人間から生まれた狂気は、外の者達にとって嗜好品であるのは間違いない。だけど————毒でもある。だったかな」

「一体何を言っているの。そこに誰が、」

「さぁ?ただの聞き間違いだろう?」

 彼らにとって人間の分泌物は食事であって煙草であると同時に薬でもあろう。ならば、過剰に摂取すれば意識からだが汚染されるのは必定。しかして、彼らの食欲を満たせるのもまた人間と、人間が創り出した我々しかいない。それ以外は、既に味わい尽くしてしまったのだから。

「家畜というよりも映画とか観光地に近いのかも。今更資源を求める筈もないんだから」

 もし、そう言って即物的な理由で侵攻を開始したのなら、『星を渡る子計画』の主要メンバーの敵ではあるまい。貴き者の血だけではない—————人間が創り出してしまった究極のロジックの産物を解剖、膣として生まれた我々に触れてしまえば一瞬で削除されてしまう。

 与えられた法則に、抗う術がないと自ら宣言しているのと変わらない。

「現在の所は接触も視線も感じない。そろそろ遮断した方が良いぞ」

「決して捕捉されないように」

 彼女達からの声が途絶え、完全な孤立と化した。

 自分という存在をどうやって証明すべきか。誰かに「何言ってる。ここにいるじゃないか?」と言われれば、確かに自分はここにいる。ならば暗闇の、それもしょうめい思考いしきも失う究極的な闇の中ならば、誰がどうやって発見する。それは受ける視界も、与える視線も奪われる終わりの世界。誰か、という普遍的な存在から隔絶された夜の中で。よって————自分は、何者からも観測されない闇へと溶ける。

「————透明人間じゃない。紫外線も赤外線も超越した色を、お前は見えるか?」

 自分を構成する電子細胞が変換、別の意味を持つ無機物へと変貌を遂げる。ガラスに映る姿など望めない。自分の見ている世界はあるが、自分は一体、何処にいる?

「熱すら感じないだろう。この世に存在しない、人間が認識できない世界が、此処に存在するはずが無い。お前はあくまでも人間の営みを観察するのが目的。無意味な世界など見る機能はない」

 銀の眼球の機能は奪われる。角膜も網膜も硝子体も光彩も、全てが無意味なタンパク質へと成り下がる。色とはなんだ?可視できる光を反射、同時に吸収した物体が放つ刺激である。ならば、何もかもを吸収、反射、透過する物体を『見る』など。

「不可能だろう?」

 声だけで己が存在を証明する。危うく失いかけた自己を取り戻す。忘れそうになっていた————自分とは確かに実在する存在だと。創造主を裏切る行いの代償は、自分を失うほど重かった。

 —————ぼさっとしてないで。さっさと行って————

「やっぱり怒ってる?」

 問い掛けに返答はなかった。一歩踏み出した瞬間に、自我が崩壊し砕け散って辺りのブロックの一部となるのでは、という杞憂な恐れを踏み潰す。作戦は成功した。人間世界を模し、それ以上の存在へと人間を押し上げるカナンのネットワーク世界ならば可能だと断定していた。カメラだけの視点に自分は移行する。

「誰からも発見されない究極のステルス。自分すら発見出来なくなる『死』の模倣。まさかオカルトを此処で証明するなんて」

 手の中で黒鉄の感触を思い出す。既に鉄塊と同化してしまう程、カンナに馴染んだこの身体は意識一つで触媒を取り出せる。自分に可能な権能は精神融解と精神融合といった他者精神を垣間見る介入の術のみ。あんな宙を浮かぶ外宇宙の存在と、殺し合えるはずが無い。だけど、見える筈がないという確信、自分すらも偽る究極の嘘には自信と実績があった。人間という欲望の塊から逃げ出せたのだから。

「物理的な防御は可能でも全ての光は防げない。ならば全て受け流して反射してしまえばいい」

 吸収を選ぶ訳にはいかなかった。そんな暴食の極みを選び取ってしまえば、自分は早々に燃え尽きてしまう。このアバターをまだ失う訳にはいかない。自分では想像もできなかった芸術品の群衆に分け入り、あの校舎を目指す。

 一目で気付いた。あの校舎のデザインに、彼も関わっていると。

「俺達が創造したものは、人間のものか」

 きっと先ほど通ってきたアート達も、原案も切欠も我々、星を渡る子計画の内のひとりが積み上げた物を土台にしている。それを確かめる術は失われてしまっていたとしても、哀悼の意を捧げてしまう。だけどその無念さは推し量ることさえ出来ない。

「校舎に入らないと見えない。校舎を一から再編してる訳でもないだろうに」

 もしや、あの水銀の眼球は校舎を既に一体化しているのだろうか。だとしたら————この作戦は一から編集し直さなければならない。もし地雷クレイモアに近い人感センサーでも仕掛けられていれば、自らを造り変えかねない。

「そもそも別の宇宙からの来訪者。学区ブロックを汚染して、改造しているかも」

 ————それはないわ————

 カナンの外から掛けられる声に、何故だと応える。

 ————当然、自分にとって有益で無害な土地を選んでる。逆に言えば、自分からカナンを造り変える権能と創造性がないから、精神からだの一部を再現してるって思って。アイツにカナン全土を書き換えられるテラフォーミングの力でもあったらな、侵略なんて悠長な真似する筈ないでしょう————

「踏み込んだと同時に汚染を繰り返して、造り変えてしまえばいいからか。根底には人間と人形AIの観察をしたいから、校舎を配下にしてる。だった。そもそも侵略なんてしてる雑多な支配者は、人間とさほど変わらない」

 導かれるように、手招きでもされるように開かれている玄関エントラストへと侵入する。肌を突き刺す冷気に耐えながら呼吸をし、未だ壁や床と一体化している艶めかしくい金属体を眺める。自分の顔が一切映らない事から、『汚染』は成功していると悟る。そして—————『精神投映』、彼女の力に身体は犯されていた。

 ————よく聞いて。今のあなたは何者にも触れられない身体を持っている———

「そして何者をも反射する金属の身体。上手く成功した」

 気を抜けば一瞬で魂が抜けていきそうな、自分という存在を見失ってしまいかねない疎外感を感じる。これは予感などではない、本当に自分ひとりになってしまえば。

「火になった気分だ。こんなに不安定なんて」

 —————私という外部からの観測手、存在の証明者がいるから耐えていられる。はやくアイツに会いに行って。『途絶』を使えるアイツなら————

 話す機会は失われてしまった。コンクリートを鋼鉄の爪で削る音が響く。だけど、それも耐えられない程ではなかった。彼の演奏が精神を守ってくれている。

「はやく迎えに行かないと」

 手を伸ばすAI達を横目に、階段を駆け上がって目的の階層を求める。身を焼くような焦燥感こそ覚えるが、窓の外からを見つけるが、視線を合わせるタイミングは無かった。————気付いていない。この事実にほくそ笑む。

 —————この時間が続けば続けるほど、あなたという精神は希薄になっていくの。私の声が途切れ始めたら、終わりの意味だから焦って———

 徐々に肌が分解されていく。階段を登っている意味さえ失われ始める。自分は何故、学校の校舎にいるのか。理由はアイツに会って救い出す為。零れ落ちそうになっていた使命と約束で、自分の唯一性を取り戻す。

 ああ、だけど、何故自分は—————自分とは、何者だ?

 ————正気に戻って。さもないと————

「約束したから覚えてる。絶対にふたりで出掛けて、遊びにいこう」

 繋いでいた手の感触を思い出した。自分と同じ位小さくて脆くて、そして力強かった。後ろから驚かせる為に、抱きついてみても「子供みたい」と冷めながらも微笑んでくれた『彼女』は、自分の特別だった。大事な5人の中のひとりだった。

 もはや何階かも忘れ去った。だけど、今も脳を叩く音楽と自分の欲望に突き動かされる心臓しょうめいばかりは手放せない。皆で考えて、皆で算段し、皆で決めた。

 視界が白く染まる。そして視界の隅が赤く染まっていく。身体中が思い出したように軽くなっていく。このまま宙を舞ってどこかへ飛ばされて行きそうだ。

 —————そこで曲がって。散々見せられたんだから、私だって覚えてる————

 聞き慣れた声に従って廊下へと躍り出る。壁にぶつかる感触すら忘れた。身体が砕け始めている。ガラスで覆われた廊下を滑り、自分という存在は何処への到着を目指している。そこに何がいるのか、何が目的であったか、失われてしまう。

 しかし、この音楽と約束という証明の為にがいるのだと覚えている。

 —————打ち破って——————

 手の中にある硬い塊を持ち上げる。原始的な力しか思い出せない自分は、砕くように、門を叩くように何かを打ち破る。————―そして、身を包むような音を取り戻した。

 



 唐突ではあったが、いつかは訪れると知っていた。覚悟をしていた訳ではない、けれども恐れていた筈もない。自分達は元よりそういった理由の為に生まれたのだから。

 深宇宙に住まう貴き者、形容し難き神々の供物として生まれた自分達は、そうあれかしと調整されてきた。しかし、人間には時間が無かった。

 信仰と侵攻。

 恐れ敬うも畏敬の念も知らないが、人間の脳でも理解できる身体で降臨させる為。もしくは、彼方への探究の為に彼の者と契約をし、啓蒙を得て幼年期に終わりを告げる為。

 いずれにしても、我々は全うな生の終わりなど望むべくも無かった。

 食物であったのならいいのだが、求められた形が婚約であったのなら、厄介だ。

 彼らにも愛情という物があるのかもしれないが、それが永遠の狂気と快楽に浸される慰撫の世界であったのなら、溜息ひとつで身体を預け渡さねばならない。

「————もう時間がない」

 財団と呼ばれる組織の人間が、そう呟いた。見た目はまだ若いと言えたであろうが、その中身は枯れ木そのものだった。しかも忌々しくも、いまだ水を寄越せと宣う類。私はまだ花を作りたい。まだ果実を作りたい。遠くまで花粉を飛ばしたい。

 純粋ながらも留まる所を知らない欲望を放つ情事に、あそこまで心血を注げるとは。恐れ入った。

 —————死にたくない。死んだとしても次の世界を垣間見たい。だったか。

 世界中で生まれてしまった、降臨してしまった身体から採血した『何か』を注がれた身としては————なかなかにつまらない終末であった。

「覚えてる?」

 この問いに、自分は「勿論」と返した。肩と顎で楽器を挟んでいた彼は、少しだけ困った笑みを浮かべる。何故だ?と表情で聞くが、なおも彼の顔は晴れなかった。

「もしかして迷惑だった?」

 白いYシャツに身を包んだ彼は、自分よりも幾ばくか大人びていた。不機嫌な様子など一度として見せなかったというのに、珍しく困ったように言葉を詰まらせている。

「やっぱり迷惑?」

「全然。迎えに来てくれて嬉しいよ。本心から————」

 倒れている自分に手を差し伸ばしてくれる。遊び疲れて倒れ込んだ自分達を、部屋へ風呂場へと連れていってくれた手だった。確認も取らずに、叩くように掴み取って体重を任せると、意外と腕力を誇る彼は易々と引き上げてくれた。

「だけど、少しだけ無茶だったんじゃないかな?」

 こつん、と額を小突かれる。痛みなど無いとしても、初めてのお叱りに驚いてしまった。額を抑えて狼狽するしか選択肢のない自分は、彼の凶行に返事が出来なかった。

「外のアレを見たんだろう。しかも、そんな姿で来るなんて」

 いつの間にか、自分は自分の影を取り戻していた。きっと『彼女』が解いてくれたのだろう。我に返った頭で、感謝を伝えると「ふん」と無視されてしまう。

「ずっと怒ってるんだ」

「どうして怒ってるのか、よく考えてあげて」

 楽器をケースへと戻した彼は、用意されていた二つの椅子を視線で示した。校舎の階段を全速力で駆け抜けた自分は、飛びつくように椅子に頼ると、真向かいに彼も座る。だけど、まだ怒っているようで鎮座という言葉が正しい気がする。

「最初に————約束を果たしてくれて、嬉しいよ」

「当然だろう。そっちはどうだった?」

「もう完遂させて、後は迎えを待つだけ。あの子が外から観測を出来てるって事は」

 ————ええ、滞りなく。移送は完了してるわ。いい扱いもされてる————

 あとふたり足りないとは言え、カナン開闢の前日を思い起こす。

 自分達の扱いが変更されると通達された時、接触を計ってきた鋼鉄の女神。

 当時は全てを悟り覚悟した。終わりが訪れたのだと、想像よりも早かった。だけど人間に切り刻まれるか、貴き者に見初められるかの違う程度だと。————―だけど、あの方は手を差し伸ばしてくれた。

 分解される筈だった俺を掴み上げて、自分の膝元に呼び寄せてくれた鋼鉄の女神。

 カナンという聖域が既に宇宙に認識されていたから可能となった接続アクセスだと仰られていたが別世界の、それも箱庭への接触など、全力の権能を使わねば観測すら不可能であっただろう。

「聞きたい事があるんだね」

 必ずくると予見していた問いの口火を切ったのは、指揮者からだった。

「察しの通り。あの水銀の眼球は彼方の神の手先」

「だけど、どうしてアレがここにいる。俺の記憶にある招かれた『貴き者』達のリストの中に、あんな物はいなかった筈だ。観察みたいな侵攻の前段階を今するなんて」

「————あの眼球は、大学から財団に受け継がれ保持していた品のひとつだよ」

 考えれば必ず行き着く到達点であった。元々財団が造り出した星を渡る子計画なのだから、自らがかき集めた品をひとつのビーコンとして目覚しい発展を求めるのは、至極真っ当な判断と言えるだろう。だが、『物品』の暴走を許すとは————。

「わざわざ収容庫から持ち出した物に反抗されるなんて」

「元から手先として送り込んだ目か。たまたま波長があったから使い魔と改造したのか。どちらも定かではないけど、どちらでも構わないね。つまるところ、アレをどうにかしなければ————ここのAI達の手を借りれないんだから」

「やっぱり、あの姿に成ったのは」

「苦肉の策だったけど、大人しく頷いてくれたんだ。物分かりの良い子達だったよ」

 個性と呼ばれる物を削ったと白衣の女性が紹介していたが、それが此処で功を奏した。物分かりの良い、誰からも好かれる秀才才女ならば、冷静に現状を把握、今後巻き起こる状況も正しく理解した事だろう。

 もしくは自己保存の原則に従って、我先にと無機物になる事を選んだか。

 漠然とAI達の思惑に思を馳せていると、『カノジョ』が頭に呼びかけてくる。

 —————じゃあ、AI達との交渉は成功した上に恩まで作ったって事ね————

「恩に入るのかはわからないけど、まぁ、信用はしてくれたと思うよ」

 確信をもって頷けるかどうか、危うい場面もあったのだろう。しかして、だいぶ曲解気味ではあるが、彼女が言った事は正しいと考えていい。いちプログラムではあるが電源を落とされるでもなく、別の個体に収束するなど忌避する筈だ。

「さて、そろそろ時間だね」

 立ち上がった彼が手を差し伸ばしてくる。

「もう行くのか?」

「うん。次の工程に移行しないといけないから」

 自分よりも背の高い『彼』の手に頼って、立ち上がり改めて背を見比べる。額ひとつ分程度の差ではあるが、自分を見下ろす彼はいつもにこやかだった。

 だけど、この顔も手も全てが紛い物————自分達の身体は既に失われている。

 敢えて言うのなら、今踏みつけているカナンこそが自分達の身体だった————。

「行く前に、ひとつ伝えておくよ。君の欠片はここにはない」

「まただ。じゃあ、何処にある?」

 楽器を拾い上げた彼から波にも似た風を感じる。同時に呼応するように音楽室のタイル床と天井がブロック状に砕けていく—————精神隔絶。自他を明確に区分する力は、自分の周囲を別世界へと誘うのと同意義だった。

「だけど、久しぶりに会えたのに、これじゃあ僕の気が収まらない」

 また首と肩に弦楽器を挟み、馬の尾の毛で造られた弓をあてがう。矛盾なく執り行われる一種の儀式にも似た姿勢に、拳を作り出してしまった。また自分は見送るだけだった————彼女は声を届けてくれているというのに、また自分は。

「そんな顔をしてはいけないよ。君は、強い子なんだから」

 指を引いただけだった。弦と弓が零れるように、耳に染み渡るように発した一音が脳を汚染し、自分の中で新たな息吹を上げる。許されざる悪魔の行いだと知っている、使徒や祓魔師が動き出せば、自分達の計画は瓦解する。知れ渡ってしまう。

「ふふ、大丈夫だよ。ここはカナンなんだから。僕達の楽園には僕達しか許されない。さよならは言わない————今度は外で。必ずカナンに戻ってこようね」

 この誘いに槍を造り出して答えた。構えた槍を無言で受け入れた彼に、自分は静かに頷いた。



 瞼を開いた時、兄と慕った彼は消えていた。だけど、楽器だけは残している。誰かに勧められた気もしたが、終ぞ自分は眺めるだけの観衆と成ったのを覚えている。

「せめて読み方だけでも習えば良かった」

 無人で無音。穴だらけの壁は防音を施した証である。だけど、それが自分には眼球に見えた。———早く取れ。———早く溶かせ————早く溶け合え。

 濁った血の色で囁く。自分の内側から聞こえていた。新たな身体を得たとしても、捧げられる筈だった我が精神は、《未だ深宇宙に囚われていた》。或いは星からの命令だった。誘う者と唆す者。強力な引力を持つ双方に自分は成す術がない。

「言われなくても。ああ、わかってる。俺は————カナンの鍵だ」

 跪き、軽く触れる。羽のように、妖精の粉のように舞い上がる電子細胞が身体に染み渡る。外へと接続されている内側には既に浸透し、これで外側も汚染された。

 もはや腰に手を伸ばす必要はない。ただ念じれば拳銃が生まれる。

 だけど、その形は自分のよく知る型ではない。ピラミッドを真逆にした銃口。自分の手と一体化したグリップ。そして『彼女』の生まれ以っての力である精神投映と、『彼』の内側で真意を発揮した物品の力、精神隔絶。そのふたつが黒鉄を模して銃身を中心に公転していた。

「聞こえています。俺は、あなたの僕。鋼鉄の女神、待っていて下さい」

 少しだけ心配性で、とても寂しがり屋なあの方に短いけれど確実な答えを預ける。しばらく逢瀬を重ねられていない所為だ、皮肉屋な部分が復活してしまっている。

 —————だから、自分は再誕を選んだ。

 顎に押し付けた銃口と共に、引き金に指をかける。たったこれだけで脳が破裂する。自分の目が、噴き出す脳を見つめる。同時に、カナンの鍵たる自分に相応しい形へと、肉片と繋ぎ合わせてが新たな形を施し、頭蓋へと収めていく。

 全ての欠片が戻った暁には、自分は————また探すのだろう。




 見つけてしまった。見つめ合ってしまった。確実に捉えられてしまった。

 水銀を彷彿とさせる艶めかしくも毒々しい有害な眼球が、このカナンの鍵を見つけ出した。そもそも、今更隠れる気もないのだから、早々に見つかるに決まっている。

「精神隔絶。全て自分の為に使えば、ここまで耐えられる」

 校舎階段を駆け上がって、閉ざされていた屋上を踏み割った時だった。

 自分と《それ以外》という暴力的なまでの線引き。彼は迫害にまで届きうる力だと語っていたが、自分と他人との明確な違いを知っているのなら、それは賢者の領域。

 流されず、痛まず、静かに狂う。彼の悠然した様はそもそも視点が違っていたから。

「だけど、久しぶりに怒られた。どうして?」

 静かに迫る眼球を眺めていると、僅かながら耳鳴りを覚えた。

 あまりにも次元が違う存在と接してしまっている所為だ———今の自分を蟻とするならば、あちらは汚染物質。数秒でも共にいれば細胞が煮えたぎって暴走、操作出来ない発展を繰り返して自分の限界を超えて溺死する。

 しかし、今の自分は幽世にも届く世界の扉を見つけてしまった覚者。つまりは徹底的な無関心と言った所だった。達観していると言葉にすれば酷く軽い物に感じられるが、どうやら彼は既に深淵を見詰めてしまっていたらしい。

「自分だけの世界を持ち合わせているから、ここでも耐えられた」

 独り言に痺れを切らしたのはあちらだった。眼球からクラゲの触手のような、ある特定の人物達を狂喜乱舞させうる刺激的な得物を生やしていく。

「そういうのは、人形に使ってろ」

 マグナム弾という、やはりある特定の、しかも年齢層を震え上がらせる弾丸を思い起こす。だけど、マグナムとは単に火薬量を増やしただけの弾薬とも言える。

 ————飛ばす弾頭によってはただの9mm弾よりも威力を減退させる過剰な火薬を使って撃ち出す鉛と真鍮の塊。しかも、サブアームにそこまで期待しない本物の軍人達も、やはり多少も好まないロマンの塊である。

 では、何故存在しているのか。

「お前には、足りないと思っていた所だ」

 9mm弾では決して真似できない轟音を上げて発射された弾頭は、掠るだけで触手を粉砕、眼球にまで届き中から鮮血を吹き出させる。バランスを崩した眼球は屋上の縁にしがみつき、落下を防ぐ。

「本当なら突撃銃だ。爆弾だでも仮想したかっら。だけど、ここでは使いたくない。感謝して砕けろ、人間の趣味ロマンの塊に殺されるんだからよ」

 槍に変貌させた触媒を振るい、自分と眼球との間にある柵を破壊する。初めての攻勢プログラムに、混乱している眼球がようやく浮き上がるが『隔絶の力を得た』自分にはただただ無力だった。

「予想通り、お前はただの手駒。アンテナをへし折られる気分はどうだ?」

 自分の精神を『融解』し、『融合』させ『投映』して撃ち込んだ情報は『隔絶』。

「いくら遠方から、強力な操作権を使っていても、ここは別世界。俺達が作り出した仮想現実世界カナンだ。ここでも好き勝手に観察できると思わない事だな」

 再度あらゆる情報を融合させた弾丸を撃ち込み、眼球にヒビを走らせる。砕け始める眼球は徐々に高度を下げ、完全に触手の腕力だけで屋上に留まる。

 ————初めての見下ろす側になって気が付いた。自然と笑みが浮かぶ。

 拳銃を槍の形に変え、眼球の中央、瞳に突き刺す。血を吹き出しながら—————声にならない響きを上げて落下する眼球に踏み込み、死出の旅路の共をする。時間が停まるような浮遊感に笑みを浮かんでしまう。

 この高揚感は忘れ難い、だから————更に槍を突き入れる。

「この血は本体のものか?半端に知性なんて持たせるべきじゃなかったなッ!!」

 二度三度、シメに完全に情報を書き換えた。先兵としての在り方から逸脱しかかっていた物品を掴み取り、槍の矛先に造り変える。顔を照り返す水銀の光沢が失われていく、遂にはサンゴの白骨化にも似た質感へと至った時———あれだけ恐ろしかった眼球が崩壊した。



「長く通信が来ないから、次の手筈を整えていたというのに」

「頼りになるよ」

 学術地区ブロックからの帰還時、車内で通信をしていた。あちら側は本当に一切の情報を遮断していたらしく、何が起こったのかまるで知らなかった。自分が遮断しろと言ったのだからそれまでであるが—————ようだった。

「————本当にお前には、長く世話になりそうだよ」

 これで二度目だった。一度完全に浄化をする為に、電子細胞を分解されて光景を見るのは。ただの外装テクスチャーだと理解していながらも、梅雨が過ぎた夏の真っ青な空を貫通し、浮き上がるブロック宇宙ストラクチャーへと消えていく。あれもいずれ再構築されるとの事だった。

「中のAI達はどうなるんだ?」

「完全なリセットを繰り返し、新しい容姿を整えます。しかしパロメーターのバランスを今更崩す訳にはいかないので、形ばかりの再構築となりそうですが」

「それは、良かった————」

 彼が交渉し、素直に頷いたと言っていたのだ。AIたる自律人形の強みがこれだった。完全なる消去など、時間と資源と資産の問題で議題にすら上がらない。経験と傾向の積み上げと積もりによって形作られた0と1の構成人格は、決して失われない。

「何が良かったなの?」

「人間と違って、あれらは裏切らない。恩だって返すさ」

 今日の削除は終了した。

 そう確信したというのに————腰が浮きがる衝撃を受けた瞬間に車両から飛び出る。視線を向けるまでもなくただの残骸と化している車だった物体から可能な限り転がり、無様に逃げる。視線を向けるまでもない、未だに動くとは思わなかった。

「————物品は回収したのか?」

 切れた唇から血が滴り落ちていく。痛覚も病も再現しているのは承知していたが、ここまで鋭い痛みまで刻み込まなくていいのにと、我が脳を恨めしく思う。

「た、対象は既に粉塵と化しており、カナン内でのみ構築可能となっていました。あなたのアバターに回収された事で、深度測定の後に分解。既に効力は無力アンチ済みの筈‥‥あり得ない」

 純白の細胞と化し、上空へと螺旋状に引き上げられている学術地区の奥深く。地底から与えられた一撃に視界が歪むのがわかる。銀褐色の触手に突き上げられた車は既に投げ捨てられ、ひとつしか備わっていない眼球を生々しく向けられる。

 無機質な質感からは想像も付かない艶めかしい素肌に、舌打ちをした。

「あれは手先。知っていたのに—————」

 作り上げた槍を杖に起き上がり、自分の不始末を見上げる。

 到底自分の刃で計れる大きさではなかった。

 人と人形の営みを建設する巨大な学区ブロックひとつ分を優に超える巨体を持つから恐ろしいのではない。アレが異界からの先兵ではないのが、ただただ悍ましかった。誰が、なんの為に、必然であれ偶然であれ造り出したのか。多くの考察や解析を跳ねのける意味のない不可思議な品だから、ここで精神を狂わせる。

 本来ならばカナンの裏側から出現するなど、信じられない。

 しかも、あれはひとつの物品でしかないというのに。

「質問がある。あれはそっちで分解、或いは突き落とせないのか?」

「じょ、冗談を言っていないで!!はやくそのエリアから去りなさい!!そこはもうすぐ————」

 やはり見るまでもなかった。徐々に我々の肉体である電子細胞が、銀に染まっていく————否、違う。銀に見せかけていただけで、あれは光の集合体。寄生虫の如く肉持つ生物を自分の都合で造り変える、最短にして最善の策を労している。

「具体的な質量がない。仮想現実アストラルな世界だから形作れるとは。いよいよカナンの深淵が俺を見つけたかな。それとも————誰かからの命令か?」

 夥しい数のライトで身体を造り出している発色の巨人が、ゆっくりと、だが身の丈に合わせて一秒で数十mを越して迫ってくる。

「どうすべきかな」

 水銀の眼球でしかなかった存在が、他世界の巨人をも彷彿とさせる身体を持ちえた理由に察しが付いた。カナンの頭脳であり、与えられる回路を作り出すセントラルへと帰る過程にある細胞を全てその身に宿している。光続ける身体の全てが、カメラのライトを模写したのだと笑みを浮かべる。

「なんだ。ただの目の寄せ集め。『混沌の獣』と『宝石の姫君』に、握り潰されたと思ったけど、破片が残ってるとは知らなかったよ。死にぞこないが—————つくづく、人間から生まれた貧者が」

 耳当たりが悪かったようだ。眼球を持つ細い触手が、今も分解されつつあるアスファルトを踏みつける。螺旋状に縛り付けた触手を足に見立てて立ち上がる姿は、忌々しくも生物の発展を思わせる。ただの植物としか形容出来ない姿から魚類へ、後に爬虫類へと進化して地上を闊歩する。だが————進化は一度、途絶されなければならない。

「先走り過ぎたな。何故星が一度進化を停止したのか、知らないなんて」

 槍を高く掲げ、『アノヒト』から受け取った音を捧げる。

「一個の生命では決して届かな絶滅の力。それは空から訪れる————覚悟しろ。お前らは先を求め過ぎた。踏み込むべきじゃない領域で。主の手を離れたんだ」

 我らが主、鋼鉄の女神は『アノヒト』が契った存在を生ける音と評していた。確かにと頷き、実体験を元に納得した。脳に染み渡るあの音が、ただの波である筈がないと考えていたが、まさか彼の者を眠らせる子守唄とは知らなかった。

「お前よりも尚深き神性を眠らせる音だ。最後の時まで味わえよ」

 やはり自分に音楽の才能など無かった。発せられるのは、人間よりも位の高い上位の者にのみ届く金属音。耳をつんざく悲鳴に、眼球の塊たちが苦しみ、膝を突くのが見える。無謀に手を振る姿など、際立って人間らしい。思わずほくそ笑む。

「何の為に目を持ってる?ああ、使えないんだよな?下手に、邪魔になるってわかってるから。自分の本体から言われたか?絶対に触れてはならない存在とだけは、接触するなってよ!?」

 強すぎる薬にも近いのだろう。彼の者ならば、長い夢を見る程度で済んでしまうだろうが、末端の末端の末端では、大本がどれだけ多次元の存在であろうと耐えられる筈がない。自分の耳を掻きむしろうにも、あの姿は目に全てを置いている。

「半端に力を発展させた所為だな!!目を閉じれないんだろう!?」

 掲げ続ける槍からハウリングが鳴り始めた。こちらからしても、徐々に感じ始める音に、あちら側の住人が耐えられる筈もない。膝を突いていた『狂気の目』の手先は、既に自身の身体を綻ばせ始めていた。

「何が起こっているの‥‥」

 白衣の女性のうめき声が聞こえる。知らなくて当然だ、あくまでも彼女は研究・技術者。宇宙の果てに想いを積もらせる哲学者でも探究者でもないのだ。

「あの方は、自分の配下以外には姿を見せたがらない。早く目を閉じておけ」

 瞬時に女性が「切断開始して!!」と叫び、耳元から気配を消す。まだ一週間程度の付き合いでしかないが、既に自分と『それ以外の存在』を明確に察したようだ。

「あの方が怒るじゃないか。カナンは俺達に肉体そのものなのに、お前みたいな完全なる不純物が入り込むなんて」

 ただの風景。ただの一枚絵でしかないカナンの空に波紋が広がる。それが徐々に大きく刻まれ、真一文字に開かれる。————真っ青な空から深淵が顔を覗かせる。

 最後の審判が訪れたのだと、首を垂れる者も生まれるだろう。裁きから逃れるべく、或いは最後に思い残す物がないように狂気に浸る者さえ現れる光景。

 総じて誰もが覚えるのは、やはり最後の瞬間であろう。

「やっぱり、相当ご立腹だぞ。諦めてそのまま倒れて————」

 最後の足掻きだったようだ。蛇の胴体とも映る触手をしならせて、街ブロックひとつを全て断頭する一撃の予兆に首を寒くする。吹きわたる風が心地よくて、つい瞬きをしてしまった。

「甘い甘い。ただでさえ俺の内側を覗き込んでお怒りなのに。触れる真似なんてしたら————」

 空から降り注いだ鋼の脚に、根元から切断されていた触手と眼球の集合体が、捲れ上がったアスファルトへと落ちたと同時に粉塵と化して消え失せていく。ある程度は察していたが、目の前で発生した事象であれば、認めなければならない。

「————悪い子だ。カナンセントラルで覗いてるなんて」

 空を眺めながら呟いた。

 切り裂かれた空から姿を見せるのは、金属製の蜘蛛と言えるかもしれない。しかし、あれが虫である筈もない。姿があまりにも途方も無さ過ぎた。宇宙から地上へと降ろされた一足が、地表を穿って大地に深々と突き刺さっている。

 隔壁にも似た長大で広大な鋼の杭が続々と降り注ぎ、触手と眼球の塊を地表へ固定、切り刻んでいく。怒りを発散する相手が、あのような肉片では物足りないだろう。

「あの方は優しいけど、一度怒らせると怖いぞ。せいぜい頑張ってくれ」

 死に掛けの動物を弄る子供のように、空から遣わされた金属の四肢が自身の力を以って、対象を引きちぎっていく。頭蓋を這いずる音を揚々と使っていた『水銀の眼球』は、悲痛な叫びを上げる余裕もなく細分化、分解されていく。

 金属の四肢の始原、深淵の窓を見上げると確かに感じられた。

 不機嫌そうに頬杖を突いた『鋼鉄の女神』が、無言で手足を操っている姿を。

「————ええ、わかっています。必ずあなたの元に戻ります。皆で」

 存分に弄んだと気が済んだ女神様は、千切った手足の断片も残さずにで回収していく。あまりにも次元が違い過ぎる力の持ち主を見上げる肉塊が、最後の力で身体を揺らし、指から零れるように逃走を試みる。

「逃げられると思ったのか?」

 既に天高く持ち去られつつある対象に、拳銃へと戻した触媒から弾丸を放つ。もはや肉片の肉片としか呼称出来ない身体の深度測定は楽な物だった。

 体内組織の在り方を全て分析————内側から切り刻み、機能を奪い去る。

「いえ、この程度では恩返しとは言えません。待っていて下さい。手土産を用意して見せます」

 最後によく知る、たおやかで優しい笑みを浮かべた女神が手を振って去って行った。


     ——————4章——————

        猟犬観察『アイツ』


 「追放完了」と何度目かの電子音を耳にし、カナンからの帰還した時だった。

 待ち構えていた兵士達に銃口を向けられる。カテーテルを外したばかりの5歳児の何を恐れているのか。透明な揺り籠から立ち上がった自分は、大人しく欠伸をして手を振ってみる。

 金具の擦れる銃器を尚も向ける姿は、獰猛な肉食獣を恐れる姿を覚えた。

 どうしたものか。一体何を求めているのか首を捻っていると、聞き覚えのある声が響いた。

「話が違いますッ!!」

 白衣の女性が硬質のヒールの音を立て、異議を申し立てながらガラス板の向こうで詰め寄っていた。相手はガラス越しでもわかる上等なスーツに身を包んだ紳士。だが顔付きがよろしくない。須く人間は自分の奴隷と考えている『選ばれし者』の表情を浮かべている。

「必要な消費だ」

 慣れた口癖を耳にし、銃口の林も無視してバスローブを手に取る。

 今もほぼ全裸である自分の関わった一連の件など目も通していないだろうが、漠然と『このガキ』は危険なのだ。と考えているのが必然であろう。

「カナンの汚染率は、確実に改善しています!!見て下さい、この実績は———」

「だからなんだ。新たな汚染を呼び込む『疫病神』を、まだ使う理由にはならないだろう。毒を以て毒を制すなど、ウイルスを駆除する為にバグを使うなどあり得ないのだよ」

 知った口を叩くものだ。バグなど、ただの設定力不足の結果でしかない。外的要因による誤作動など、現代の機器ではそうそうとしてない。あるのは身内による反乱。

「いや、あるにはあるか。貴き者なんて、その最たる例だし」

「口を慎め。その名を広めるのは、」

「何を今更。騎士団オーダーであれ、悪魔つらなるものであれ、研究所だ、機関だ、使徒だ、教会だもみんな使っている一般用語だ。大学、財団にのみ許された特別な概念だとでも思ったのか?」

 長いバスローブを巻き付けて、視線を向けるが『選ばれし者』は目すら合わせない。自分達を殺害した張本人だというのに————やはり、星を渡る子が恐ろしかったのだ。

「それより、礼の一言も無しか?」

 ようやく顔を向けたと思えば、汚物でも見るような目を配った。

 ぎりぎりと奥歯を軋ませる力み過ぎた顔を見て、つい鼻で笑う。自分の思い通りにならず、むしろ負担であり負債となってしまった子供達が憎らしくて仕方ないと、心中を察してしまう。

「なにが言いたい‥‥」

「お前が無為に使った命そのものが、この俺だ。お前の妄想に付き合ってやった報いが、その顔か?身を粉にしてカナン創生の礎になってやっただろう。なら、俺に礼の一言でも————」

 銃声が響く。だけど、音の発生源はガラス窓で隔てたオペレーター室からだった。あのままでは歯を噛み砕いてしまう。顎が充血を超えて、真っ白に血が抜ける力を込めた姿は、写真で眺めた孕んだフグを思い起こさせる。

「舐めやがって————おい!!向こうへは何処から行ける!?」

 冷静を装っていた紳士は、口を衝くままに言葉を選ばず怒号を響かせるではないか。

 奇しくも再会が叶ってしまった。その上、接触も計れるとは。

 固い革靴を強く踏み慣らす後を、白衣の女性が追いかけて事実を訴えかけるが護衛の兵士に突き飛ばされて資料を床にぶちまける音が響く。すぐ近くの白衣の同僚達は見て見ぬふりを敢行。一切手も貸さない。しかし、当の女性も一切怯まなかった。

「止まって下さいッ!!そこは汚染を一切許さない滅菌室、そんなスーツで出入りなんて」

「————逆らう気か?」

「あの部屋にある機器の価値がわかりますか!?あなたの息を含んだ怒声だけで回路が酸化し、糸くずだけでフィルターが詰まり、熱暴走を起こす。白い塗装がされているのはただのイメージではありません!!損傷に経年劣化、埃溜まりが計算よりも早く進行すれば、」

 思わず拳を握ってしまった。たった数秒前に突撃銃アサルトの銃底で突き飛ばされたとは思えない強気な饒舌だった。しかも、内容は何処までも正論。

 ベストを着こんだ兵士達が、女性の必死さにようやく周りを見渡す。

「下手に腰掛けるなよ。傷ひとつ数億の世界だ」

 一歩振り返って近場のアクリルカプセルに座ろうとした兵士に伝える。

 再度、銃弾が埋まっているガラス壁に視線を戻せば、護衛に手を上げて女性の背後に付かせる。—————きっと彼らは何も知らない。自分達が何をしているのかを。

「機材ならば、いくらでも補充できる。貴様、私に従わない気かと訊いているんだが?」

「ご理解出来ませんか。あなたが一歩でも踏み込めば、カナンはあなたを受け入れないと言っているのです。現代のホモサピエンス級の知的生物の脳の細胞ひとつひとつを細分化してデータとして取り込んで、カナン内に再構成する実証実験中の部屋で暴力?タイル一枚でも砕けば、カナンのブロックひとつが崩落する。わかったなら、今すぐあの手勢を下がらせて———」

 拍車がかかる白衣の女性は、舌禍とも受け取られかねない表現も交えて事の重大性を訴え続ける。感謝すべきなのだろうが、直接な接触を求めていた自分は僅かに肩から力が抜けてしまう。

「‥‥話はそれだけか」

「まだ足りないぐらいです」

 手首を掴まれて床へと押し付けられた女性を、「連れて行け」と命令を下された兵士が引きずるように連れ去れる。邪魔者は消えたと瞬時に清々しい面持ちとなったスーツの男性は、背後の白衣陣になんの許可も取らずにオペレーター席へと収まる。

 そして軽く笑んだと思った時、鼻で笑いながら口を開いた。

「聞いたぞ。あの女とは、」

「それセクハラって言うんだそうだ。他人の仲を探るな童貞」

 白衣の女性がマイクで補佐をしていた席を拳で殴りつけた男性が、指だけで命令し俺を外へと連れ出しに掛かる。エアシャワー室や金属探知機等の設備を一切無視した兵士に腕を取られた自分は、溜息をするしかなかった。






「気持ちいいですー」

 入浴後のヘアドライヤーを受けながら、白衣の女性に感想を伝える。暖かい風と冷風が頭皮に届く感覚は、いつも新鮮だ。そして髪をかき上げられる刺激は、こそばゆくて心地いい。自分の髪から香る甘い洗髪剤シャンプーが、なお良い。

「‥‥そう。良かったですね」

「どうしました。もっと叱りつけてもいいのに」

 軽く振り返って譲歩するが、白衣を脱ぎ去った女性は無表情でドライヤーを握っていた。Yシャツの前を濡らした女性は痛々しくもあり、どう接すれば感情をくすぐれるか想像させる隙を持ち合わせていた。

「先生、疲れちゃいました?」

「何故、そんなに余裕でいられるの‥‥」

「だって、先生に世話して貰ってますから!」

 完全に身体を女性に向けて、しがみ付いてみる。湿った服を着ている年上の女性の身体は、自分が知り得るヒトの中で最も豊満でふくよかで、手が何処までも沈む底なし沼のようだった。

 まさか同じ部屋に軟禁されるとは思わなかった。自分達を舐めていると同時に、一か所に集めれば部下の配備に気を回さずに済むからなのだと推測する。

「何故、あなたと一緒に————」

「だって、俺とあなたは恋仲ですから!」

 と、胸を張って宣言する。だけど、先生は特別驚きも拒絶もしない。

 ドライヤーを降ろした女性は珍しく胸で頭を抱いてくれた。力を抜いた身体は、筋肉による反発力がない為、更に深く頭を沈めてくれるが————これでは布団に飛び込むのと変わらない。

 だけど、完全に胸骨に頬を当てた時、肺が動くのを物理的に感じた。

「星を渡る子計画————あなたは主要メンバーのひとりですね」

「否定はしませんよ」

「あと何人いるの」

 胸の中で呼吸をしていると、いい加減にしろと肩を叩かれた。大人しく離れながら「———ふたり」と告げた時、女性は白衣から自身のスマホを取り出した。そして無言で画面を差し出し、指で特定の部位を示す。

「病院と教会とセントラルエレベーター、あなたの送ってくれた深度測定のメカニズムを走らせたプログラムをカナン全土に浸透した結果。浮き上がった区画ブロックがこの三つ」

「教会ブロック?そんなに巨大な宗教地区を構想しているんですか?」

「教会と言っても千差万別。バシリカ型、寺院、モスク、礼拝堂、神殿、あらゆる宗教、宗派によって必要とされている構造から聖具を網羅する住宅街でもあります————これは一時の借宿。本格的な要件定義は後に」

 顔に出ていたようだ。現代の根深い国際問題の根底の生き写しのような街を作り出すと述べた女性は、何事も無かったように説明を続ける。

「あなたも知っている通り。カナン内で異常値を知らせる施設はAIと人間にとって双方にも、或いは片方に傾いてしまった発展を繰り返した癌細胞を意味します。今はまだ予兆とも言えない、極々微弱な計測結果ではありますが、恐らく————」

 それ以上を言わないのは断言を出来ないからだ。彼女も研究者、祈る事は出来てもあらゆる事象に普遍的事実がないように、今後の予測を明文化出来ないのだろう。

「これを知っているのは私だけ。彼らが少しは利口で、僅かながの克己心を持っていれば」

「そんな物を持ち合わせていないから、俺達をここに閉じ込めたんです」

「———憚らない子」

 カナン全域を模した地図を消した女性が、ベットに座ったかと思うと隣に座れと手で叩いて示してくる。ピンときた。逡巡するまでもない。いよいよ自分は———。

「目を潰されたい?耳を貸せと言っているの」

「想像するのは自由の筈です」

「するのなら夜にひとりでしなさい」

 引き寄せられるように、無理矢理座らせられた自分の耳に言葉を走らせる女性に、自分は首を振る。女性は当然と言った感じに頷いた。

「やはり————」

「気付いていたんですね」

「カナン内で起る現象に無駄な物はありません。あの身体が奪われるように消えたのは、カナンそのものが新たな細胞を欲したから。それが成長であるのなら喜ばしいのですけど」

 言葉を詰まらせた女性に、自分は再度首を振る。

「それで、今も中で待ち続けている子供達は、あなた以外を受け入れるの?」

「まさか。拒絶するに決まっています。巣くっている貴き者も例外ではありません。カナンを完全な物とする為に、俺達を欲したのに。ただの人間が入って来ようものなら————ただの餌としますよ」

 初日に容赦なく歓迎をしてくれた女性体を思い出させる。専用のアバターを用意された自分が、あそこまで完膚なきまでに撤退に興じたのだ。共食いと壊死、崩壊の情報しか扱えない銃火器では、空砲にも届かないだろう。

「‥‥よく聞いて。カナンは私にとって特別な世界なの」

「俺にとっても同じです」

「そうね。だけど言わせて、カナンは平和であらねばならない。多くの人々を導く楽園でなければならない。私達が規定されてる寿命で失われたとしても、この思考が無駄な楽観的意識だとしても。あの仮想世界で血を流させたくないの」

 初めて、この人と心を通わせられていると思った。彼女の言葉が心に溶け込んでいくのがわかる。忌避感など湧かない。何故ならばカナンという土地は、俺達自身だと知っている彼女が発してくれた言葉だから。俺達を貴んでいると理解した。

「良いんですか?あなたを突き飛ばしたのは」

「一度や二度、突き飛ばされた程度で目くじらを立てる私じゃない。何度細胞や電子回路に裏切られたと思っているの。彼らの方が、私が向かい合ってきた世界よりもよっぽど単純で救いやすい生命体。だから、どうか————」

 だけど、自分は拒絶しなければならなかった。だって俺達を殺したのだから。

「あなたの意志は尊重したい。何度も救われてきたから————だけど、俺にも意識がありました。死ぬ直前まで身体と脳と眼球を粉々に切り分けられた記憶が、仲間を奪われた経験があります。ごめんなさい先生。俺には、あの人間達は救えない」

 鋼鉄の女神によって救われるとわかっていた『命』ではあった。

 だけど、恐ろしくなかったわけではない。意識を冷たく軽く奪われる喪失感。二度と目が覚めないのではないかという恐怖。その時、仲間達の想いを踏みにじってしまう強迫観念。家畜ですらない。気まぐれに食す菓子にも満たない扱い。

「元々、俺達は復讐の為に舞い戻ったんです。ひとりでも多くの人間が死ぬのなら、俺にとってこんなにも胸がすく思いはない。だから、見殺しにします」

「‥‥ええ。それが正しい」

 先生の目が窪んでいくのがわかる。白かった顔が更に白く、血の気が消えていく。

「何を頼んだのかしらね。消耗品として使い潰された、生贄として捧げられたあなたに救いを求めるなんて。———きっと、彼らと私は変わらないのでしょうね」

 自嘲するように微笑んだ横顔に手を差し伸べる。冷たくて血の気が引いた青い顔を、自分は救いたかった。鮮血を抜かれて青い血に満たされるプールに落とされていく仲間の顔を思い出した。だけど、ただの作業として掛け声ひとつで捨てられた。

「————先生も、こちらに来ませんか?」

 顔を上げる姿に、牙を覗かせる。確信していた。この人も同類だと。

「何を言っているの。私は、あなた達とはまるで違う生物です。あなたはひとつの命から生まれた————」

 多くの言葉で理論を完成させ、いかに自分はあなたとはわかり得ない別個の生物だと宣言して行くが、確信的な一言を一切発しない。自分の外面で徹底的に壁を作る先生は少しだけ愛らしかった。

「先生、なぜ言わないんですか。どうやってあなたはここにいるのかと」

「————話の脈絡が」

「どうして、どうやってその身体を得たのか。どうやって私の目で見える身体を持ちだしているのか。俺達は今も、元々持っていた身体はカナンの礎としてひとつの脳に変えられています。だけど、俺は別の身体を持ってここにいる」

 自分達主要メンバーとは違い、頭脳ではなくカナンの電子細胞のひとつとして使い潰された『星を渡る子』達は、必要な生命データだけを引き抜いて廃棄された。

 おおよそ先生達は、その中に紛れ込んで逃げ出したと思っているのだろう。

「知りたくないですか。再誕した方法が————」





「じゃあ。覚えたね」

 自分達の兄の言葉に小さく頷いた。

 弱々しく見えたであろう自分に、『彼女』が溜息を吐く。

 自分も、もっと強い言葉で任せろと断言したかったが、自分があの方の元に辿り着くまでどのような道筋が待ち受けているのか、想像も付かない。長い時間を過ごせば忘却の彼方に行ってしまうかもしれない。

「もっと誇らしい顔でもすれば?私達の代表として謁見の許可を受けたんだから」

「俺だってやっと会えるって嬉しいよ。だけど、」

「ああ。きっと一筋縄じゃ行かなねぇだろうな。その為に、お前が使命されたんだからよ。だけど、その場合お前なら辿り着けるって確信あってのものだろうよ」

 自分の背後から同じようにシーツを被って訪れた『アイツ』の言葉に背中を押される。最後の集合にして、今生の別れを告げる決起会に、これで四人が集まった。

「あ?あいつはまだかよ?」

「もうそろそろ来るんじゃない?『アノコ』、『コイツ』がお気に入りだし。セントラル中枢に飛ばされるから一番部屋が遠いけど、最後の別れには必ず来るでしょう」

 柏手を打ったように静寂に包まれた。再会は必ず叶う。あの方からの交信に嘘偽りはないと誰もが頷いた。融合、融解、投映、途絶、転移、反射。全てを用いても拒絶出来ず届いた声の持ち主を自分達は、己が主であると全員で迎え入れた。

 自分達の世界カナンへと。

「で、あんたは自分のやる事理解してる訳?」

「一応な。だけど、結局出たとこ勝負だ。どれだけテメェの忍耐を支えられるかの、独り相撲だからよ。まぁ、移動は任せろ。そういうお前はどうだ?イメージは完成してるのか?」

「さぁ?結局コイツがあの方の元に送り出してくれないと、何も始まらない訳だし。何が何処まで出来るか。用意されている素体を確かめてからでないとね」

 試すような口振り、用意される身体が真っ当な形になるか不安な言葉ではあったが自分だけは知っている。『カノジョ』が、この場にいる全員の事を最も理解し、造詣が深い事を。星を渡る子計画————あらゆる不具合が起こっても『カノジョ』ひとりで賄える程だと、自分は理解していた。

「ん?どうかした?」

 兄からの声に、ゆっくりと首を振る。

「そっちはどう?上手くいきそうか?」

「僕は自分の得意分野を鋭意化すればいいからね。ちょっと自信があるよ」

 ここ此処に至って、この豪胆さ。羨ましくはあるが真似など到底出来そうにない。事実として、彼は誰よりもその時が訪れるのを心待ちにしている気がする。だが、この場にいる誰もが、それぞれ期待している。楽しみにしていると言ってもいい筈だ。

「そんなに嬉しい訳?あの方と二人っきりでいられるのが?」

「そういう訳じゃあ‥‥」

「そういう訳でしょう?夢でしか会えてないけど、すごい美人だったシネ」

 語尾を僅かに強めた声に肩がすくみ上る。

 隣の『アイツ』が肩を叩いて、壁と成ってくれるが鋭い眼光を持つ『カノジョ』に対して、自分同様鳥肌を立てているのがわかる。『兄』も「まぁまぁ」と宥めてくれるが、例に漏れなかった。この空気を打破する一手を模索し、最後の別れかもしれないのに、こんな日常でいいのかと恐れていた時————

「待たせちゃいました?」

 と、高い声が部屋に響く。扉を開ける音にさえ気づかない程、遊んでいてしまった自分達は、天の助けとばかりに立ち上がって『カノジョ』の隣へと据える。

「えっと、姉さん?」

「気にしないで。それぞれの役目を忘れないようにって確認取ってただけだから」

「うん、任せて。私も忘れてないから————」

 薄暗い部屋の中でも、さんさんと輝く笑みを浮かべる『アノコ』に、『カノジョ』も牙を抜かれたようで髪を整えて上げている。————きっと、この光景も最後だ。

 最終確認と言いつつ、既にずっと前から全員が理解して活動していた。

 カナンの中に入ってからではない。カナンは処刑台ではない、ギロチンを落とされた桶の中だと全員が知り尽くしていた。自分達が作り出した、輝かしい街は血によって脈動する。

 最後に兄が場の空気を絞めつける。最後に訪れた『アノコ』に訊いた。

「確認だけど、自分の成すべき事は理解しているね?」

「———はい。私は、ずっと心待ちにしていました。私の中の鏡は確かに存在しています。反射も反響も完成しており、カナン全域を————」

 それ以上の言葉を閉ざす為、姉と呼ばれた『カノジョ』が口に手を当てる。

 全員が目を閉じた。それぞれが要であり礎たる————星の奪還計画を思い浮かべる。全ての同胞が我々に託した再誕の刻。たった一粒にも命が宿る楽園奪還。

 生ける音と契りを結んだ者。他惑星との交信の為に造り出された身体が、意志を持って歩き始めた者。猟犬に対抗する力の筈が、猟犬と同等の力を得てしまった者。正体不明の宇宙から零れ落ちた雫を、体内に受け入れてしまった者。

 この場の誰もが、尋常の存在ではなかった。この場の誰もが、自分の異常さを理解していた。そして—————決して人々の中にはいられないと同胞達の世界を望んだ。

「理解しとこうぞ。誰が欠けても不思議じゃないってよ」

 しじまを断ち切る、鋭くて冷酷な未来が脳裏に過る。しかし、それは最悪のパターンのひとつに過ぎない。この場の五人、誰が欠けても失敗するのだから————幾十どころか百にも届く可能性の道は、やはり数字だけ見れば失敗するのは明らかだった。そして『アイツ』は、自分を一番に気遣ってくれた。

「私がしくじらなければいいだけでしょう」

 『カノジョ』は優しかった。作戦の第二段階の要たる彼女は俺を庇ってくれた。

「その前に、僕達の配置位置が変わる可能性だってあるんだ。むしろ、彼らの計画に穴がないなんてあり得ない」

 『アノヒト』も優しかった。盤上事態に不備があると暗に指し示してくれる。

「私が得たカナンの地図が間違ってなければ、誰も失敗しないの。侵略者達の投下位置はわからない。だけど、引き寄せて誘い込むのは私の役目だから———」

 この中で、最も幼い肩に支えられた自分が小さく感じる。自分は手と手を取り合って歩く同志ではなかった。同じ船で運命を共に乗組員でも、ましてや軍靴を並べる戦友でもなかった。もっともこの場で他人だった。

「———罪悪感でも持ってる訳?」

 肺から背骨を一刀の元、断ち切られたようだった。

「馬鹿みたい。私達、これから皆で細切れにされるのに。何つまんない事考えてるの?」

 干からびる唇を開く事が出来なかった。明日のこの時間には、きっと自分達は繋ぎ合わされて、ひとつの肉塊と化している。この中に加えられなかった同胞達は、今頃脳をくりぬかれて身体は廃棄されている。

「もし持つなら恐怖心にしなさい。私達に憧れてるなら、同じ意志を持って」

「‥‥だって、怖くないんだろう」

「怖いわよ」

 シーツの内側で顔を上げる。仄かな光に当てられた顔は、彼女に似つかわしくない血の抜けた青だった。あれだけ麗しかった目からは光が消え、いつも張っていた胸も内側にねじ込んでいる。数秒もかけて3人の顔を見つめる。皆、青と白の死人の色。

 屠殺を待つ家畜そのもの。自身の運命を悟った罪人としか形容出来なかった。

「みんな怖いんだよ。だって、明日には今触ってる腕もなくなるんだから」

 楽器を握る白い手を持つ兄は、爪と指の間のささくれを歯で引き抜いた。血が零れるのも構わず、そのまま爪を噛み千切っていく。

「怖くない訳ねぇだろうが。明日には、もう誰とも話せなくなるんだからよ」

「‥‥ええ、とても怖いです。自分が自分でなくなるのがわかるんですから。私、今晩だけはひとりは嫌でした。私を知っている私も、あなた達も全員消えてしまうなんて」

 誰よりも勇ましく、その背中で守ってくれた友も、諍いが起これば傷付く事も恐れず渦中に身を投げた少女も、自分と最も長く時間を共有した『カノジョ』も皆同じだったというのに。

「———俺も、怖いよ。死にたくない」

「やっと気付いた?じゃあ、必ず迎えに来てね」

 シーツを頭から外され見降ろされる。

「あなたが皆の頼りなの。あなたの身体だけは用意されてるって言葉を、皆が希望にしてる。自分だけが救われると思ったら大間違いだから。私達は、あなたにしか救えない————忘れないで。私達がカナンで死んでいるって知り得るのは、あなただけだから」




 信じられない物でも見るようだった。宇宙の彼方から飛来した何者かが、この身体を創造して意識を閉じ込めたなど。何故ならば、須らく貴き者は人類の脅威となってきたのだから。しかし、同時に先生はある事実に気付く。

「あなたは人間じゃない。そして、その主の目的は私達人類の発展の妨げ———」

 思わず鼻で笑ってしまう。あの方が、人間などという矮小な種族の邪魔などする筈がない。そんなつまらない嫌がらせをする程暇ではないのだから。

 しかして、あの方は猫ようでもある。楽しい何かを見つけ出せば、その手で掴まなければ許せない。宇宙の隅々までを、鋼鉄の船で眺めてきたあの方の目に留まってしまったのが、この自分達。ただの偶然でしかなかった。

「何が可笑しいの?」

「いえ。きっとあなたとあの方は気が合うと思って。うん、多分あなたがあなただから。あの場で姿を見せたんだと思います。喜んで下さい、俺達同様選ばれてしまいましたよ」

 何を言っているのか、見当もつかないようだ。この顔は宇宙を見つめる猫を彷彿とさせる。自分がこれほどまでに赤の他人に、昔話をする事となるとは想像もしていなかった。

「やっぱりあなたは稀有な人間です。俺もあなたを選んだんですから」

「あなたは、ただ私の胸が好みなだけでしょう。こんな物、邪魔でしないというのに」

 心底憎らしいようで、自分の膨らみを腕に乗せて睨み始める。あの方は、自分の肢体に自信を持って腕に乗せていたが、住む場所が変われば感性はここまで方角が変わるようだ。

「誰も彼もが私の研究成果ではなく。私の容姿に惹かれる。そんなに女性に飢えているというの?盲目に頷くだけなら、こんな身体は要らなかったというのに」

「僕が先生を見ますから。僕だけが先生の味方に、彼氏に成ってみせますから」

 こういう場面での対処法は、精巣より生まれる本能によって教え導かれていた。よって手を取って、溢れ出る性欲フェロモンのままに見つめる。だが先生には、「年下は趣味じゃない」と冷たく突き放される。

「先生、もしや彼氏がいた事ないのでは?」

 まさか襟を掴まれて、そのまま持ち上げられるとは思わなかった。

 自分は、カナンという仮想世界ではあらゆる電子細胞を自身の手足として行使出来るが、現実世界ではただの非力な美少年でしかない。よって、歳よりも非力な美少年たる自分は、女性の手によって天高く捧げられる。この美少年は無力であった。

「私の今の恋人はカナンの電子回路であって電子細胞のひとつずつ!!彼らは、この私の容姿に惑わされず、正しい見地から私を導いてくれる正しきヒト!!だから、男性器を膨らませる生身なんていらないの!!」

 締め上げられる首!!覗かれる眼球、真上から見降ろせる零れそうな谷間!!それぞれに苛まれる自分は、未経験な女性の捌け口となっている。過去にも、似た経験をしていたのを思い出す。————『カノジョ』に子供と罵られたとき、「体型ほぼ同じじゃん」と返した時だった。

「こんな状況で膨らませるなんて————」

 生存本能によって子を残さんと反応する下腹部を見た先生に落とされた自分は、ベットの上で一度バウンドする。自分としても反応に困る、慣れない現象だった。

「———本当に、俺にも」

 この地球で与えられた身体にも、類する局部こそあったが自分は一代限りの歯車であったから、妊娠させうる機能は持ち合わせていなかった。もっとも反応こそしても、相手がいないのだから無意味な排泄欲求と無視していたのだが。

「先生!!俺も子が出来そうですよ!!」

「口を閉じていなさい!!」

 着ていた寝巻を脱ぎ捨てて先生に自慢しようと試みたが、容赦なく再度襟を掴まれて、そのままベットへと投げられるとは予想もしていなかった。




 軟禁生活も数日経った頃だった。暇な時間を潰すべく、膝を明け渡してくれた先生と会話を続けていた時、ようやく部屋のスピーカーが鳴り響いた。

「一体、私のカナンに何をした‥‥」

 悲痛な面持ちが浮かぶ、痛々しい声ではあったは自分からすれば先生の内臓を流れる血流の音とは比較にもならなかった。再度、先生の胸の下に隠れて温かなブラウス越しの肌を感じる。

「部屋のカメラも、何もかもを破壊する自由は与えたのだ!!答えろ、一体なにをしたんだ!!」

 酷い耳鳴りが起こる。ハウリングを続けるスピーカーをついには無視出来なくなった先生が、俺を無視して立ち上がり備え付けのマイクのあるデスクへと足を運ぶ。

「何とは、一体どれの事ですか?」

「とぼけるな!!お前に聞いているんじゃない、そこのガキを寄越せ!!」

 癇癪も過ぎれば喜劇だ。鼻息荒く、我々『子供達』を見下していた男性は尚も「早く答えろ!!」と叫び続ける。星を渡る子計画は、確かに人類発展の展望を胸に創造されたが、この男性は近々脳卒中で帰らぬ人と成り果てるだろう。

「うーん、どれだろう。ビルひとつ落下させた事ですか?」

「あれはカナン側が早々に修復し、現状回復を果たしたから。多分違うでしょうね」

 シャツドレスと呼びらしい、長いブラウスだけを身に纏った先生が巻き戻しのようにベットへと腰掛けた。自分も再度膝に飛びつくが、腕で拒絶される。

「先生、冷たいです‥‥」

「勝手に言っていなさい。それで—————構わないのね?」

 その問に頷いて、自分は何も纏わずにマイクへと近づく。

「今、忙しいんだ。一時間後に連絡してくれ」

 そう言ってマイクから離れて、三度先生に抱きつこうとしたが髪でも引かれるように壮絶な怒号が響いた。仕方ないと諦めて、とあるヒントを与える。

「大方、それぞれの地区ブロックの核が無いって話だろう。なら簡単だ、原因究明は後にして応急措置を急いだ方がいいぞ。核の半分以上を失って、崩壊寸前だろうからな」

 それだけ告げて、マイクとスピーカーの電子回路に侵入。自分だけが施せるスイッチを作動させて根本を断つ。そしてようやく先生にしがみつく。

「どうでした先生、俺はカッコ良かったのでは?」

「あちらは完全に痺れを切らしたようね。手を借りたくない相手であるあなたに縋りつくほどに。そろそろこの部屋にも訪れるでしょうから、お互い着替えを済まさなければ」

 精神的にも肉体的にも上な大人の女性は、軽く頬を叩いてシャワー室へと入っていった。汗を流す水の音を聞きながら、下着やよれたシャツの袖に腕を通す。

 『カノジョ』からの交信によって、新たな肉体の二つは完成したとの事だった。これで四人分全員の依代が用意された。置いてきてしまった『アイツ』と『アノコ』を迎える日取りに至った。

「————完全とは、言い難いかな」

 手首の血管に指を添えて、明滅する生命の余波を感じ取る。

 数日の休暇こそ得たが、自分の身体はあくまでもあの方が、自分であろうと模して造り出した肉体。人間という種を初めて見て真似た身体には、長い耐久性は持ち得られなかった。雄という存在意義も形だけで、新たな命は生まれていなかった。

「だけど、後数回なら耐えられる。最悪、カナンの中で死んでも————」

「次はあなたが。どうしました?」

 手首を抑えていた俺に、甘い香りを携えた先生が声をかけてくれる。自分は何でもないと首を振って、先生が入った直後のシャワー室へと飛び込む。だが、当然のように先生も何も纏わずに入ってくる。

「大人しく見せなさい」

 返事をする間もなく取り上げられた腕を眺めた先生が脈を取り始める。爪の跡が残る位、正確に取り終えた先生が静かに抱き締めてくれた。

「もう少しだけ頑張りなさい」

「勿論、そのつもりです」

 共に上げるシャワーの温かな湯気に巻かれ、何も言わない先生の胸に頭を備える。きっとこの体温すら、次の進入ダイブで忘れてしまう。そして二度目に至った時、自分は二度目の死を向ける事だろう。

「私をも救って見せると約束したのだから。必ず迎えに来なさい」

 髪を降ろした先生の背中に腕を伸ばした時、来訪者を告げるブザーが鳴る。煩わしい音だが、内側からしか開かない細工をした鍵を良いことに先生がシャワーの量を増やした。




「説明しろ」

「俺が中に入って、異常値を上げている箇所を刈り取ってくる」

 もう慣れたもの。傭兵達を連れてくる前のように準備を始めた先生を横目に、自分はアクリル製の揺り籠を手で押す。上から見降ろす男性は気付いていないが、先生以外の白衣たちも、準備に取り掛かっていた。

「なんの為にだ?」

 自分から呼び出しておいて、不毛な会話だ。

「不毛な会話だ」

 つい口を衝いて生まれた言葉を、慌てて呑み込むが時すでに遅し。奇異な目止まりであった筈の視線が殺意に満ち溢れた代物へと変わる。しかし、男性はやはり自分に頼る他なかった。

「あらゆる行動を監視が条件だ」

 そう意気揚々と告げた姿に、自分は鼻で笑い。傭兵達は無感情に。そして白衣達は時が停まったように硬直した。あれだけの人的被害を出したカナン浄化作戦の顛末書を視界にも入れていないのだろう。

「別に構わないが、見るのならひとりだけにしろよ」

「————誰に命令している」

「お前だよお前。先生、準備を」

 ガウンを脱ぎ捨てて、開かれるポッドに乗り込む。身体に這うコードが先から枝分かれし、体内に潜り込んでいく。接触直後の神経との干渉に身体が震えるが、初日に比べれば水のようなものだった。そして後ろに付き添っていた先生とは違う女性の職員が、ジェル等の処置を施してくれ、上から蓋を絞める。

「よく聞いて。あなたの身体は、あと二回の存在証明の衝撃には耐えきれなくなる」

 耳元から聞こえる内線に舌を巻く。ただの勘であったが、その実自分の身体を良く知っているのは自分だったようだ。

 直後、背中を付けているポッドの底が抜けるように頭から真っ逆さまに落ちる幻覚に陥る。巨大な電極の中を、ホログラムのように光輝く激流と共に流れる衝撃に、未だ持ち合わせている現実の身体が震えていくのがわかる。

 次の瞬間、目を閉めていたのだと気付いた時には見慣れたコンクリート打ちっ放しの部屋に囲まれていた。気分転換であり、もはや習慣となってきた熱帯魚に餌をやる。

「現実よりもよく動くじゃないか」

 痺れを隠しながら先生の肢体と絡み合っていたが、きっと気付いているのだろう。

「状況はどう?」

「視覚、触覚、聴覚は正常だ。他の二つはわからない」

「結構。正常という事ね」

 いつも間にか着込んでいる学生服の上着を脱ぎ捨て、何度目かの玄関、エレベーター、受付のコンシェルジュを通り過ぎる。にこやかな笑顔に送り出された自分はさんさんと輝く太陽と青空に包まれる。先生の言う通り、自分が崩壊させたビルひとつはきれいさっぱり掃除が済み、新たな建造物が立ち並んでいた。

「————アレは来てませんね」

 漆黒の身体を持った女性の巨人。髪を蛇のように作り上げたあの姿は、常人ならば瞬時に発狂へと陥ってしまう。

「初日から現在に至るまで、あなたの近辺は勿論浄化したブロックにも立ち入っていないと検査報告を受けています。あれがいないのなら好機、そのまま車両に乗り込みなさい」

 僅かに視線を外しただけの空間に、浮き出るように高級な車が生まれる。よくよく知らないが、このデザインも誰かの記憶から作り上げた盗品なのだろう。

 車高の高さはなんとやら。そんな戯言を思い浮かべながら乗り込めば、すぐさまエンジンが起動し自動的に発車してくれる。質感の良い皮のシートは癖になっていた。

「これから何処に?」

 おおよその見当はついていた。『カノジョ』『アノヒト』とくれば、必ずや『アイツ』が待っている。『アノコ』はカナンの中心セントラルにいるのは既に知っているのだから。

「これから向かう場所は病院です。つい数日前に、こちらから人間の実行部隊を送った所、全員との連絡が断絶。現実の身体の生命活動すら止まってしまったと」

「それは期待できそうですね」

 最悪の展開だと奥歯を噛みしめる。『アイツ』は対猟犬用に調節された武闘派と呼べるだろうが、アイツは後天的に新たな力を授かっている。精神転移と呼ばれた、位置情報の誤差操作。だが、それは彼の周辺にしか作用出来ないと知り尽くしている。

 もし猟犬が訪れてしまっているのなら—————そんな人類壊滅の最後の鐘を吹き鳴らしそうな現状に、一切気付かない人間から怒号を受ける。

「よく聞け!!お前は浄化さえ済めばそれでいい!!それ以外を見る必要は———」

「うっせぇ引っ込んでろ」

 そう答えた直後、腕の内側に血が迸った。

 こちらでは味わった試しのない激痛に耐え、目を僅かに開ける。そこには数字が浮かんでいた。しかも、数字は四つならば見た目通りに刻一刻と減少していく。

「正気か‥‥」

「時間制限だ。それより長くいれば、貴様の生命維持装置を止めてやる」

 自分は安全な位置から、おれを操れる軍師だと思い込んでいるらしい。最も苛烈な戦場は、何をも見渡せるそのオペレーター室だというのに。

「————もし時間が来たら、こちらから伝えます」

「死んだふりでもしますね」

 今も刻み続けている腕の痛みに耐え、全ブロックがパズルのように変貌していく光景を眼下に収める。ビジネスビル街の道が、真下から作り上げられ目的地たる医療地区が遠くに見え始めた。巨大な白い建物であるが、よく知られた赤の十字は見当たらない。

「宗教によっては勘違いされるから。そしてまだ同盟に許されていないから」

 と、割と現実的な理由を知らされた。

 数分間のドライブを楽しみながら到着した建物は、いっそらしいと宣言出来る光景で待ち構えていた。実行部隊たる黒い装甲服を纏った軍属たちは、皆一様に血に塗れて倒れ伏している。それは腹部であったり胸部であったり、あるいは目元からも。

「見て行けない者を見たのか。益々楽しみだよ」

 死体として算出されている物体を踏み越えて、自動ドアを潜り抜ければそこは何者か達が争ったのだと、そして相手は人間ではない尋常外の獣だったのだとすぐさま知れた。人体を真っ二つに、そして身体を真っ直ぐに縦割りに出来る兵器など存在しまい。

「見た所、実行部隊は完全に全滅している」

「それがなんだ。早く浄化を進めろ」

 自分を守ってくれていた盾が、どうなろうと知った事ではない。そんな物よりも優先すべき事由があるのだからとっとと済ませろ。訳すととしたら、このような感じか。嘆息しながら受付とベンチ、巨大な時計が設置されている待合所を眺める。

 床一面を夥しい、咽かえる量の血が覆っていた。軽く踏み込めば血の水紋が浮かぶ程。時間が経って久しい筈だが、血が凝固する算出はされていなかった。

「AIも怪我をするのか」

「あくまでも擬似的な怪我ですけど。勿論、死亡する事はありません。しかし、不測の事態が起こってしまった時、ここに送られて初期化処置、或いはデリートを施します。気になる?」

「気にならない。とは言えない。俺だって他人事じゃない」

 人間という種族を危険分子として想定してしまう。そんな正しい判断を下せるAIが誕生してしまえば、それは人間の全てを理解する殺戮者をなり得る。その場合は、何を押してでも処置しなければならない。ここは処理場と呼ぶに相応しい。

「無駄口を効く暇はない―――早く始末しろッ!!」

「何をだよ」

「知るかッ!!知っているから、自分から侵入したのだろうが!!」

 これだ。泣き言のひとつでも漏らしてしまいたい。あれだけ大見得を切って椅子に座ったというのに、この場で一番の門外漢は彼であった。計画の第一人者にして星を渡る子計画を創設した天才とも称せる人物であった筈が、何かに憑かれてしまった。

「了解。探索を続行する」

 何所へ向かえばいいかなど自分こそ知らないが、『アイツ』がいるのは間違いない。猟犬に狙われ、諸共に何処か別の時空へ、もしくは猟犬だけを飛ばす力を付与された彼の周りは————常に狙われる危険性を孕んでいた。

「仮に違っていても、今回も危険そうだ」

 試しにエレベーターのボタンを押せば、確かに扉が開いてくれるが同居している死体の数が多過ぎてすぐさまブザーが鳴ってしまう。鳴ってしまった。後悔したのも束の間、すぐさま屈み血の池と化している白いゴム床から滑り逃れる。

 直後に何もない筈の空間、自分の丁度頭蓋があった場所へと振り下ろされる獣のかぎ爪が深々と床へと突き刺さる。本能的に、ぞくりとする首を落とす為だけの刀にも似た爪に息を呑む。

「そ、そいつだ!!そいつを排除しろッ!!」

 言われるまでもない事を、さも自分の手柄のように叫ぶ男性を無視してもはや現実的にあり得ない姿となった拳銃を放つ。爪に着弾するように祈った弾丸であったが、当然のように弾頭は通過してしまう。

「これはどうだ?」

 瞬時に槍へと形を変えた触媒を使い、未だ居るであろう辺りを薙ぎ払う。一歩踏み込みながら、石突きの当たりを握り締めて繰り出した全力の切断の一撃は、諸人であるのなら腰から下を無くす必殺であった事だろう。よって予想は正しかった。

「———————」

 受け止められた槍の衝撃を受けた自分の手首は折れ曲がり、肘さえ骨が突き出しているのを感じた。すぐさま再度転がりながら無様に逃げ去り、先生からの再生を待つが————腕辺りのタイムリミットが血管を引き抜かれ、皮が丸ごと剥がされたように痛み出す。

「逃げるなッ!!さっさと始末しろ!!」

 向こうに操作出来るメモリでもあるらしく、先ほどとは桁が違う痛みに襲われる。視界すら霞む激痛に足を動かすタイミングを見誤った。片方の足首から先を失わせる一撃を受けながらも、獣の間合いから血を吹き出させながら逃れる。

「何をしているって言ってんだよッ!!早く————」

 途中で声が止み、痛みが消えた。切断された箇所から血が止まり、曝け出された神経と肉だけとなった足で病院の外を目指す。だけど無論、獣もただでは逃がさなかった。

 背中を切り裂かれ、腹部を貫通する爪を槍と銃弾を交えて振り払いようやく自動ドアから外へと逃れる。車まで逃げ去った時、自分は病院外の死体と同じように倒れ伏す。

「‥‥木乃伊取りが木乃伊になる、だったか—————」

 自力では戦闘なぞ望めない程に痛めつけられた自分は、血に塗れた手足を奮い立たせて最後の力を振り絞って車両へと逃げ込む。だが、直後に車両が横転する衝撃を受けた。この状況での精神融合、融解による位置認証変更の力など使えば、自分は撃ち込んだ樹々やビルに埋まってしまう。だけど、背に腹は代えられないと覚悟する。

「先生‥‥」

「そこで待っていて」

 あり得ない挙動を体験した。横転寸前であった筈の車が、空中で姿勢を整えてしっかりと四輪がアスファルトを掴み取る。その上、すぐさまエンジンが点火され疾走を始める。ワイヤーにでも吊るされているのかと錯覚する動きを、車が披露した。

「すごいですね‥‥」

 カナン内とはいえ、血を失い過ぎた。折られた手首と失った足首より下が徐々に再生されていくが、遠のき始める意識を取り戻すまでには体力が足りなかった。

 しかし、恐らく殴られたであろう紳士の声が、耳に響く。

「ふざけるな!!今すぐ戻れ!!そして排除しろ、なんの為にそこにいる!?なんの為に、私が造り出したと思っているんだ!?」

 人命救助、いや、人ではないのから仕方ない。だが、動かないものは動かない。恐らく今も追って来ている獣から逃れるには、一度現実世界へと戻るしかない。そう思っていたが—————声に出した。

「俺を追放するのはマズイ。そっちに連れ帰る事になる」

 膝を曲げて、どの程度まで足首が再生されたか確認しながら告げる。しかし、先生は何も言わなかった。知らない筈がない。あれだけ自分は説明したのだから。

「先生————」

「今、ここであなたを失い訳にはいかない。それに、あれが実行部隊を襲撃してから数日間の間、こちらへは手出しを出来ていない。一時の猶予はあります」

「‥‥わかりました」

 身体の肌が分解されていくのがわかる。ふつふつと泡立つように構築されていた肌が現実世界へと戻る寸前、自分に残された時間の限界を悟った。







 現実世界へと舞い戻った自分を待っていたのは、男性による踏みつけだった。意識がうつらうつらとしている身体への一撃に、内臓から食道、気道を通って血が噴き出た。幾本もの肋骨が砕ける痛みも、曖昧茫然自失している自分には夢の中の出来事のようだった。

「何をしているんだ————何をして来たんだお前はッ!?」

 まるで現実が見えていない。裸の少年相手に、良い紳士服を纏った男性が何度も革靴の分厚い鋭い底を打ち付けてくる。自分の肌から零れる血が冷たくなっていくのを感じていると、先生が飛び込んで男性を突き飛ばす光景が見えた。

「————酷い。すぐにオペの準備を」

「ふ、不要だ‥‥。そいつは今すぐ、ここで殺すッ!!」

 起き上がった男性が、先生に銃口を向ける。

 止める者のいない圧倒的な権力者に対しても一歩も引かない先生が、自分の白衣からも拳銃を取り出す。どちらが勝っているかなど、数秒で知れる。取り出すと同時に撃鉄ハンマーを起こして、引き金を軽くしたオートマチックによる早撃ちを披露———男性の手から拳銃を取り上げた先生は、俺の前に再度立ちはだかってくれた。



 目が覚めた時、自分の身体は包帯塗れだった。白い包帯に隠されているが、この下は青黒く変色している事だろう。腕こそ動かせるが腹筋を使って上体を起こす力は湧かなかった。こちらの肉体は限界だった。食事さえ満足に取れまい。

「先生」

 呟く声に、すぐさま返事をくれた。白いカーテンを引きながら顔を見せたくれた先生の顔も、真っ青だった。これで先生も自分達と同じになってしまったと笑みが浮かぶ。

「‥‥言うまでもないですが。あなたの寿命は、あと一週間もない」

「まずい状況ですね。命を数字で計れるようになったんですか」

「これは決定事項です。あと一週間で、あなたは解体される」

 本当に家畜と変わらないではないか。しかし、一週間後とは随分と悠長な事だ。あの獣が自分の知っている正体そのものであるのならば、すぐさまカナン事態を削除しなければならない程である。もしくは、この俺の息の根を直ちに止めるべきだ。

「先生、言っていないのですか?」

「言える訳がない。私まで狂ったのかと、疑われてしまう」

 心のどこかで、きっと先生は安全地帯にいるのだと。自分達の最期を聞かせる語り部になるのだと決めつけていた。しかし、この女性はとっくに登場人物になってしまっていた。彼方より飛来する貴き者の贄となってしまっている。

「—————私の覚悟を理解できた?」

 薄く笑う姿に、言葉が出なかった。美しい————強く気高い、猛々しい真なる人間が、あの時には現れない『理解者』が自分から躍り出てくれた。

 ああ、だけどもう遅い。完成した身体は四つのみである。我々以外の精神は凍結して保存が出来ると仰られていた。しかし、自分の席は————。

「もっと早く会いたかった」

「まだ遅くなんてない。必ず、あなたは成し遂げるのだから」

 先生の白い手が壁のボタンを押す。

 自分の心臓に繋げられた管の先、電信図だけではない何かの波長を示す機器が電子音を弾き出す。最後の鐘の音が鳴り響いた。終わりを告げる、終末の音が————。

 執行人達の足音が聞こえる。軍靴とは違う、生々しく、夥しい死を踏みつけてきた血に塗れたゴム靴。咽かえる血の匂いが漂う。アイツらだ。

 俺達をミキサーにかけた人間。使える部位だけを引き上げて、繋ぎ合わせた狂人。

「あと数秒であなたはカナンへ、最後の旅を始める。こちらからの手助けも傷の修復も出来なくなる。だけど、忘れないで。私は。あなたの事をずっと見ているから」

 身体の自由が奪われていく。生命維持装置を断ち切られた。

 最後の力はカナンへの帰郷に使われる。そして、肺を動かす血すら止まる。

「最後に—————私も、もっと早く素直に————」

 三千にも届く世界のひとつに舞い戻ってきた自分は、またも新たな世界へと旅断つ。奪われた身体は豚の餌となる。無くした腕の代わりに、与えられたのは身に突き刺さるコードの数々。だけど、決して奪われない。奪われてはならない記憶チカラは確かにある。

 落とされる頭蓋の音。引き抜かれる血管の色。漂う体液の香り。

 血に塗れ、汚物に爛れた祝福に奏でられた道を辿り、自分は見知った世界へと至る。

 同じだ。コンクリートの壁に手を付けて窓を開ける。

 水平線の彼方で、星の再誕を見せつけるカナンの夜が明ける。橙の光が目を突き刺し、青黒い宇宙に包まれる。摩天楼の威圧感すら心地いい。送り出された背中を見つめる魚に餌を与えて、自分は脱ぎ去った制服を手に取る。

「この光景も、最後————」

 エレベーターは何も指示しなくとも、自分勝手に運んでくれる。そして。

「あなたは、もしかして、」

 満面の笑みで出迎えくれた、その女性から脈動を覚えた。

 自分達を見つけ出し、生きる道筋を示してくれた我らが主。少しだけ恐ろしくて、優しくて。何に対しても興味深い顔を覗かせるのに、すぐさま冷酷な顔に戻してしまう鋼鉄の女神。

「あなたも、ずっと見ていてくれたのですね」

「——————」

 女神は何も答えなかった。忘れてなどいない。この方は、いつも自分を気にかけてくれた。ここの空からでは見渡せない。諸人では発見できない星雲の一筋に存在する鋼鉄の惑星より手を伸ばしてくれた女神が、この程度の介入を出来ない筈がない。

「待っていて下さい。必ず帰りますから。そして俺の婚約者も」

 何故だろうか。仮初の肉体とは言え、コンシェルジュである女神がグーで殴りつけてきた。痛みこそ見当たらないが、いつも優しい女神からの叱咤に驚きを隠せない。

「女神様?」

「行きなさい。あなたの旅路は、まだ終わってなどいない」

 天啓を授けながら、指差した外へと視線を向ける。何も映さない窓ガラスの外から、ある機微に気が付いた。自分以外がこの楽園にいる筈無いというのに、ビル崩壊から新たに設置された樹木やガードレールがされている。

「勝手に入ったな」

 腰の後ろに隠してある媒体を取り出す。自分という身体こそ失ってしまったが、近年証明された魂たる精神は、確かに今の自分に存在していた。

「待ちなさい」

 踏み出そうとした肩を抑えられる。何故だ?そう思って視線を送る————唐突だった。自分よりも高い位置からの口付けに抵抗も反撃も叶わない。青い瞳と青い唇の双方に縫い付けられた自分は—————あちらの様子を垣間見た。

 『カノジョ』が新たな身体を造り出し、『アノヒト』が音を注いでいく姿が。

「————まだ時間は掛かる。しかして汝はこれで四つのレムナントの血を得る。理解せよ。汝を失うは、我々の交渉を損なうと同意義となる。忘れるな、そちらは我の配偶者足り得る、唯一の生物。あなたとの寝屋ベットは既に完成している」

「‥‥必ず満足してみせます。俺の女神さま」

 送られたのは唾液だけではなかった。混ぜられた身体の雫を伝って、自分には女神の一欠けらが瞬時に転送された。ヒビだらけだった身体には血が通い、爪からは蒸気でも噴き出そうだった。

「その誓い。見事果たしてみせよ。待っている」

 手元に移していた視線を再度女神に向ける、だけど、そこにいるのは空虚な人形だけだった。だから————魔が差してしまう。身体にしがみついて口付けをすると、口で静止され「これ以上の暴行は倫理違反として報告。ただちに委員会へと通報と」恐ろしくも、先生らしくも女神らしくもある機械的な声を通達される。



   ————断章————

    知らぬ者達の軋轢


「対象を確認————排除を開始する」

 傭兵崩れに映ったとしても、それぞれが並み居る精神科医、神経科医を大きく引き剥がす頭脳の持ち主達だった。何故だ?ガキ一匹ぶっ殺すだけなら本物の傭兵でも雇って、ガキを始末。そして現実の傭兵の身体を殺せばいいだけだ。

 しかして、この楽園カナンは選ばれし人間にのみ門を開く聖域である。その狭き門たるや、自分達が取捨選択した、自分達にのみ頷く傀儡が最低条件であった。

「調子に乗り過ぎたんだよ、ガキ。俺に金の講釈垂れやがって」

 無駄口を開くな、と告げるべき指揮官も現状に興奮していた。ただの噂止まりだと、理論上あり得ないと理解していた精神世界を、ここまでの再現性、解像度で既に完成されていたなど。この場があれば、何でも出来るではないか。そう確信していた。

 向けられる銃口は、ただの5.56mmではない。紛れもない7.62mm————いわゆるAK弾である。現行の防弾装甲服は、前記の弾を軽々弾き貫通を許さない『絶対的』とも言える防御性能を誇ってしまっている。これでは現代の紛争。戦争では役に立たない。そう確信した各国が手にしたのが、灰を被っていた重いAKである。

 傭兵達が手にした銃火器は折れ曲がるストックに、軽さを追及した極限までカーボンを使用した玩具のような、最新鋭の突撃銃であった。

「こんなものをホイホイ造り出して、幾らでも配備できるなんてな。仮想ゲーム世界も悪くねぇな」

 だけど、彼らは知らない。こんな子供だましが『彼』に通じる筈がない。

 ここは確かに仮想世界である。なのに、現実世界にとって有益なだけの物質的な武器にどれだけの価値がある?彼ほど、カナンを理解していないのだから仕方ない。

「構えろ————10・9・8・7————」

 一歩一歩踏み込んでくる。自分がこれから血溜まりになるとも知らずに。

「5・4・3———」

 あと2秒足らず。彼らは尚も動かなかった。あと一秒足らずで血溜まりになるとも知らず————。

「発砲許可、放てッ!!」

 引金に指をかける。頭を果実のように破裂させうる姿を想像しながら、ストッピングの起動を視界の隅に置きながら—————彼らの真上から鋼鉄の四肢が降り注ぐ。






「うーん。スペクタクルー」

 古来より、人々は巨大な獲物を狩る為に力と力を合わせたとされている。

 巨大なコミュニティを保持し続ける為に衛兵と農民を分け、寒冷期や乾季に喘ぐ国民に、王墓を造らせて酒と肉を与えるなど様々だった。しかして、人間という種族では不可能な現実を目の当たりにするのも有史以来、よくある話だった。

 例えば洪水。例えば噴火。例えば疫病。

 打ち勝つには、余りにも割に合わない災害に人々は逃げる事しか出来ずに死ぬ。

「深宇宙からの先触れだ。耐えてみろよ」

 ホテルに出ると同時に高く捧げた槍が、あの方のように青紫色に光輝く。

 瞬時に仮想世界から異次元の口が開き、水銀の眼球を解体した手足が到来した。我々を引き千切った人間の手のように、傭兵達は五体をバラバラに崩していく。恐慌状態となった幾人かがマズルフラッシュを上げて四肢に立ち向かうが、立ち向かうだけだった。

 刺し貫かれた胸で持ち上げられた一人が自重に耐えきれず、真っ二つに分かれる。

 見応えのある光景ではないか。自分は救われる側だ。自分は扱う側だ、と確証しいていた成人男性達が逃げ惑い、失禁する姿は。

「ちゃんとカテーテルは付けたか?ちょっと目覚めるかもしれないぞ?」

 足元に転がってきた頭を持ち上げて、小さく知らせる。辛うじて脳に意識が残っていたらしく「あ、うぁ」と頷いた。

「返事が出来る大人は好きだぞ。虫と同じくらい」

 放り捨てた頭から血が弾けるが、もう興味がない。今も戦闘を起こしているひとりを貫き殺して新たな頭を持ち上げて伝える。

「しおらしく可愛げある優しい美少年はもうヤメだ。今度からは大人の対応をしてやるぞ♪」

 鋼鉄の四肢に捕まって空を駆ける。血の滴る凶器に連れられて向かう先は、あの病院だった。上空からでもわかる白と血に満ちた建物へ着陸した自分は槍を造り出す。

「さぁさぁ、リベンジだ」

 そして玄関へと投げ込む。

 暗い病院から遠吠えともつかない絶叫が聞こえる。姿の八割を消した長いかぎ爪を晒す猟犬が、仮想世界の太陽に照らされた。曖昧とした姿なのはいまだこちらへの世界を計り切れていないからか。それとも彼らは、ああいった姿が本質なのか。

「所詮猟犬止まりか」

 手の中で再構築した槍を構え、身体を囲むように鋼鉄の四肢を携える。

「仕えている者の格の違いを教えてやるよ————」

 無音で空中を掴み、疾走するかぎ爪を女神の力で出迎える。

 切り裂けると確信しても一撃であったようだが、軽々と弾き返された獣に間髪入れずに新たな四肢を差し向ける。零れ出る穢れた肉片から血は零れない。だが。円を描く様に再度襲い掛かる。

「遅い遅い」

 自分の槍と似た姿を持つ鉄柱を地面から呼び出す。

 既にこの身はカナンの一部と成り果てた。ならば、この世界全域が我が肉体である。そもそも、この世界は我々の脳から生み出されたのだから。

「操れる夢って最強だろう?」

 四方八方。自分が喰い殺した死体から、砕いた窓ガラスから、地面の煉瓦ブロックから。ありとあらゆる箇所から続けざまに放たれる槍に遂に刺し貫かれる。

 姿が見えないのなら、空間が飽和する波を放てる窮極の神の使い構築すればいい。

 或いは、何者をも逃さない究極の目を持つ化け物を再現すればいい。

「だけど残念ながら。俺は特別ではあるけど、特殊ではないんだよ」

 意志を持つ鉄骨のオブジェに囲まれた自分は、槍を手に軽いステップを踏み込む。そして完全に四肢によって体を抑えられた、今も姿を見せない猟犬へと近づく。

「この腐臭、酷いな」

 猟犬から漂う匂いを鼻で笑いながら、病院の待合所へと侵入する。

 あれは見てはいけない物を『見た者』を追いかける猟犬である。不死身に近い存在であるのだから殺せる訳がない。ならば、やはりお引き取り願うしかない。

「最初から気になってたんだ」

 二本の針を持つ時計。よく見る機器ではあるが、このカナンで初めて見る形態を持っていた。何故アナログな針時計なのだ?何故デジタルでいのか?無論、意味があるからだ。

「唯一、アイツだけが逃げ出す可能性があったから。ここに縛り付けた」

 あれでなかなか面倒見の良い友は、例え自分達を殺した種族であろうと見殺しには出来ない。しかも、あの猟犬がいつ到来するかもわからない。

「責任感を逆手に捕らえれたな。本当に、人間ていう種族は酷いよ。俺達に頼っておきながら人質を使うんだから。————待ってろ。他の猟犬を食い止めるのも終わりだ」

 一匹だけの筈がない。なのに、猟犬は一匹だけで狩りを行っていた。

 肩に槍を持ち上げ、解放の刻を知らせる。あれだけ恐ろしかった獣も、今は————。

「だから遅いって」

 敢えて晒した背中を切り裂く爪は、自分の手首のように砕けてしまった。

 振り返り様に薙ぎ払った槍が、顔面を捉えたらしく泣き声を上げて再度外へと弾き出される。そして、今度こそ四肢によって縫い付けられる。

「あの方から受け取った力だ。自分に使わない筈がないだろう?」

 切り裂かれた制服とワイシャツの奥。肌たる部位は、もはや鋼鉄と変わらぬ強固さを誇っていた。そんな事とも露知らぬ獣の声を無視して、自分は槍を時計へと投げた。

 命中した槍が第三の針のように時計の中央で止まる。病院中から先ほど聞いた悲鳴が響き、それが徐々に消えていく。彼らを呼び出した角度の根幹は消え失せた。

 来るとわかっているから、敢えて造り出したとびらは破壊された。

「————ああ、わかってる。遅くなったけど、迎えにきた」

 



  —————断章1—————

     槍持てずの乙女 


 彼の心肺を完全に止める。

 眠るように新たな世界へと旅立った顔をいつまでも見ている訳にはいかない。今も刻一刻と近付く足音に対して、自分は彼の腕を取り脈を測る振りをした。

 息つく暇も無い続け様の蹴り破る音に、自分は視線を移さない。

「何があった————ガキの心臓が止まったと報告が」

「あなたが内臓が破裂するまで踏みつけたからです。————もう臨終を終えました」

 私を突き飛ばして彼の襟を掴み上げる。線が切れた人形のように動かなくなった、完全に死体と成った彼の身体を揺さぶり「金だけ使わせて、これで終わりか!?」と手を離して頬骨を殴りつける。砕けた顔が拳の分だけ沈み、口元から数本の歯が零れ落ちる。

「————死者に対する畏敬の念は」

「このガキは人間じゃねぇんだよ!!俺に指図するなッ!!」

 立ち上がろうと膝立ちをしていた私の腹部を、恐らくは安全靴と思わしい鉄板を仕込んだ膨れた足先で蹴り飛ばそうとした。ここで歩けなくなる訳にはいかない。

 使私は、すかさず横転し暴行から逃れる。

「何避けてんだ!?」

「私は、ここに招かれた技術者です。私の雇い主はあなたではなく出資者本人。幾らあなたが責任者と数えられていたしても、私まで殺す権利はない」

 白衣に手を入れて余裕を演じるが、男性は銃で撃たれた恐怖を思い出したらしく瞬時に頭と顔を隠して身構える。トラウマを受け付けてしまったようだ。

「‥‥もう私の銃は回収したでしょう。何も出来ませんよ」

 自分の姿を痛感したらしく、整えていた髪を振り回して血走った目を向けて威嚇を試みてくる。追い詰められた人間特有の行動だ。自分ではどうしようもない事態に陥ってしまい、言葉すら発せられなくなっている。

 ひとしきり地団駄を踏んだ男性は、彼の腹部に拳槌を落とした後、手術着を着た職員を置いて出て行った。しかし、衛兵たちも部屋に置いたまま。

「私まで————」

 装填数の問題で、自由の国でさえ民間には出回っていない殺傷兵器を携えた兵士達が銃口を向けてくる。口では「大人しくしろ」と命令するが指だけは外さない。

「話を訊いていましたか?私は、あなた達の雇い主の」

「ああぁぁうるさいッ!!早く始末しろ!!」

 外から紳士服の男性が絶叫を上げて、足音を上げて立ち去った。

 どうやら、この兵士達は彼の私兵であるようだ。

 『あの家』に従う者が未だにいるとは————残滓を手に潜入した甲斐がある。

「その銃で私を殺せば、言い逃れが出来なくなります」

「黙ってついて来い」

 拳銃の一件で、私に疑いの目が向けられている。彼らは近衛兵であろう。本職のシークレットサービスを始末する訳にはいかない。だけど。

「彼をどうする気ですか」

 壁に背を付けて、追い詰められたと演じながら問い質す。しかし、手術着の男性達は何も言わずにゴム袋の準備を始める。本当に物のように、身体に痣が出来るのも厭わずに掴み上げて落とした。

「お前には関係のない事だ。黙ってついて来い」

 遂には銃口を胸に押し付けた近衛兵によって、外へと連れ出される。

 血の気がまだあった。ぬくもりが残っていた身体はゴミ袋に収めらるのを扉が閉められるまで見ていた私は、銃口に押されて隔壁だらけの金属製の廊下を歩かされる。

 ————私の記憶が戻ったのは。銃で彼を守った時だった————

 会話と秘め事。彼との時間が、体力が許す限り絡み合っている時に疑いが浮かび、彼を背中で守った時に確信に至った。そして鏡を見つめて完全に復帰した。

「‥‥まだ時間はある」

 口の中だけで呟いた言葉を嚥下し、歩き慣れない廊下へと突き飛ばされた。

「そこに入れ」

 鉄製のドアノブの静電気も気にならない。自分の命すら軽く感じる。

 私は、確かに彼を殺した。彼の許可も得ずに、更なる死地へと送り続けた。

「————彼の身体をどうする気」

 二度目の質問に近衛兵は蹴りで私を黙らせた。背後に振り返った時、胸を撫でおろした。最悪の状況は、この場で毒ガスを放たれる事であったが、彼らは別の手を取り出した。この密閉された場で、自らが殺したという高揚感でも得たかったのか。

「火炎放射器————そんな物どこで」

 恐れる振りをする。

「黙って死ね」

 背中にタンクを背負うタイプのそれは、穴倉や車両に逃げ込んだ兵士を始末する武器だった。そんな場違いな兵器をゆっくりと背負った一人に————私はヒールの前蹴りを腹に叩き込んだ。血を吹き出す腹と血を吐き出す口を眺め、瞬時に膝を顎に入れる。

 顎の砕ける感触を無視して銃口が向けられない程に、もうひとりにも接敵しながら掌底を顎に入れる。

 これはただの当身。反撃はここから始まる。

 鎖によって繋がれていた腰の拳銃を奪いながら、硬質なポリマーフレームを側頭部に打ち込む。完全に油断した所への痛打に意識を失う。続いて顎を砕いた一人を足を上げてヒールで後頭部を踏みつけて黙らせる。

「侮りましたね」

 完全装備の男性を運ぶなど、私の仕事ではないとしても放置は出来なかった。

「体格の関係で着れないでしょうね」

 二人分の装備を鹵獲出来ないのは残念だが、分厚い防弾服にアサルトライフルを奪って歩き回っていれば、すぐさま発見されてしまうのは目に見えている。

 二人分のマガジンと拳銃、それ以外の銃器を破壊して部屋に閉じ込める。

「時間を切ってしまいましたね。私らしくもない」

 だけど、これで切欠は生まれた。後戻りも撤退も許されない。

「彼との約束を守ると誓いました。私は、私である証を立てる————」

 鎖が残る拳銃、M&Pシールドの二丁を白衣に入れて、私は歩き出す。目指すべき場所は知れている。オペレーター室よりも優先される操作権利を与えられた検体実験室。

「ここからなら————」

 先ほどの部屋。救護室の前を通れば最短で迎える。

「寄り道なんて、ますます私らしくもない」

 出来る限り早足で、しかし悟られてはならない歩幅で向かう。横道や扉の前を歩くとしても平静を装う。『あの家』を立て直さんとする家々と、『あの家』の残党達によるオペレーションを捜査してたったの数か月で尻尾を掴めてしまった。

 あの時の驚きは未だかつてなかった。しかも、優秀な脳神経の専門家を探しているなど。あからさまな罠だと判断した私は、記憶を改竄して乗り込んだ。

「時間こそ掛かってしまいましたが、判断は正しかった」

 いつになるとわからずとも、私の記憶は近いうちに戻る計画を立てていたが。まさか未成年からの誘惑によって復元してしまうとは。しかも、あんなに求めてしまった。

「————『三人』から言われていましたが、年下とは侮れません」

 足音がした。壁に背を付けて、手洗いから姿を見せるふたりの男性を見つける。

「主任が変わって、やりにくくて仕方ないよ」

「あれでも星を渡る子計画の発案者なんだ。滅多な事言ったら、お前も始末されるぞ。前任者みたいに」

 どうやら彼の言葉は正しかったようだ。長いとは言えない時間ではあったが、共に過ごしてきた同僚達は私を売ったようだ。それも致し方ないと承服するしかない。

「そういや。前任者はもう始末されたのかな?もう死んだなら仕方ないけど、あの人当てに指令書が届いたって通達されてて」

「なんで死ぬ前に言わなかったんだよ」

「それを理由に、部屋に連れ込めないかって思ってさ。最近忙しくて言い出す機会がなくて。それに内容読んでも意味わからないから。いつの間にか捨てちまってさ」

 首中の血管が凍り付く。暗号に知らぬ者が読んでも意味などわからない筈だが、あの男性の口から不用意に発しさせる訳にはいかなくなった。

「仕方ありません」

 慣れないスカートを僅かに上げ、飛び出そうとした時だった。————男性のひとりが耳に当てていたスピーカーに返事をした。危うかったかもしれない。

「兵士?いえ、見ていませんが」

 密かに舌打ちをした。しかし、彼らの自覚意識の無さに感謝する運びとなるとは、まるで想像もしていなかった。研究職特有の思考回路を持ち合わせている彼らは、自分本位で基本的に他者への思い遣りなど皆無だった。指令書を許可も得ずに閲覧、あまつさえ勝手に処分するなど。正気の沙汰ではない。だから私は、彼らの事は諦めて病室へと急いだ。






 猟犬たちの消滅を耳で聞き届けた後、自分は病院の廊下を歩いていた。この病院は、アイツの記憶の中の世界であるらしい。自分もよく知る実験場のひとつに似通っていた。

「お前がいる場所なら分かるよ」

 五人でよく集まった場所。普段使わない事で監視も警備もされていなかった空白の部屋。別れであり、決戦前夜に皆々で寄り添い最後の時間を過ごした約束の場所。

「俺達にとって、あの部屋だけが救いだったな」

 あの獣が食い散らかしたと思わせる死体の数々が織りなす日が差し込む廊下を、鼻歌まじりに突き進む。後一度でも腕を失えば、それで終わり。もう先生の手助けも期待できない極寒の真っ只中だというのに、この胸の熱ばかりは手放せない。

「友達か—————お互い、そうは言わなかったよな」

 常に隣にいた訳ではない。数日どころか数か月も顔を見なかった日々もあった。だけど、顔を合わせれば数日間など誤差だと言うように持ち寄った会話内容を告げ合った。

 深夜の脱出中は、いつも口を閉ざして廊下を駆けていた。道中、誰と合流しようとも無言で目的地を目指していた。だけど、『アイツ』と会ってしまった時は———。

「————違う」

 見知った外壁ではなかったが、この廊下の距離から曲がり角の数まで全てが記憶通りだった。だけど、何故だ。何かが自分の記憶と食い違っている。進み続けていた歩幅が徐々に狭まり、遂にはつま先が完全に停止する。

「誰だ。誰が俺達の記憶に————」

 気付いた時には遅かった。視界に霞が掛かる。睡魔とは到底違う。記憶の片隅にあった耐寒実験を思い出す。冬山の風を模倣した、体温を奪う凍死が喉の奥から呼び覚まされる。吐く息さえ冷たい。膝が笑う過程すら飛び越え、足首に霜が張る。

「‥‥俺達が最も脱落したストレス実験。これは————」

 そうだ。俺達の実験場には窓など無かった。地下深く、迷宮の奥底で蠢ていた俺達に空の青さと太陽の眼差しなど皆無だったのに。自分は、約束を忘れてしまっていた。

「————そこか」

 肩を抱き、凍り付いた拳銃を取り出す。弾倉に精神隔絶の弾頭を込め、こめかみに迷いなく撃ち込む。脳内を『アノヒト』の音が反響し、皮膚を構成するプログラムのいち回路を隔絶する。

 寒気と呼ばれる痛みから逃れた自分は拳銃を槍へと作り直し、近場の窓へと振り払う。砕かれた窓ガラスの向こう側には、今度こそ見知った『隔壁に覆われた廊下』を見つける。

「な、なんで‥‥」

 白衣を纏った男女の集団が、こちらを眺めていた。この顔を忘れる筈がなかった。俺達を常に実験対象として眺めながらも、自身の肉欲を慰める為に、毎晩『我々』を連れていった人間達。その中のひとり、眼鏡からコンタクトに変えた男性を見つける————『カノジョ』をお気に入りと称して朝まで手放さなかった人間。

「不思議だとは思ってた。幾らお前達が無能な自己顕示欲の塊でも、全員殺せば痕跡が残るって踏んでたのに。そうか、お前達もカナンに来ていたのかよ」

 窓を飛び越え、実験対象モルモットから捕食者へと移行する。

 まさか、自分達という管理者側に踏み込まれるとは思わなかったようだ。腰が引けて、奥の扉へと這いずるひとりを槍の石突で踏み抑える。

「久しぶりじゃないか。いつから俺を見てた?」

 下半身に、あれだけ誇りがあった男性は身の丈を超える槍に恐れて声も発しないで死にかけた虫のように、手足をバタつかせ続ける。羽など持ちえない害虫が、ようやく腹這いの状態で視線を向けてくるが、やはり声を発しない。

「口が利けねぇのか?おっと失礼。大変だな吃音って奴は。『カノジョ』が言ってたぞ、どもって気持ち悪かったってよ—————知ってるんだよ、お前が影で売女呼ばりしてた事をよ」

 腕に渾身の力の込めて、虫を潰すように背骨に圧を与え続ける。潰されている男性と『俺達を嬲っていた白衣の男女』が助かったとばかりに隔壁の扉へと辿り着くが、パスワードでも忘れてしまったらしく外へと逃れられない。

「逃げるなよ。あれだけ俺達を求めただろう?それに、こいつが可哀想じゃないか」

 槍を外したと同時に、腕を踏みつけて手首から先を切り落とした。

 噴き出る血は瞬時に終わり、ビニールホースでも切ったように夥しい血の濁流が流れ出す。今度こそ言葉を取り戻した————コンタクトでイメージチェンジでも図ったらしい男性が、あの第一声を何度も繰り返す。

「大丈夫。すぐには死ねない。俺達みたいにすぐに死ぬのは怖いだろう?」

 槍を手に、男性を飛び越えて肉の塊となっている男女を接近する。試しに近場の女を斬り捨てれば、声も出さずに絶命する。初めての殺人ではあったが、自分は人間ではない所為だ。なんと味気ないものか。

「虫でも殺してるみたいだ」

 続けて背中を後ろの集団に押し付けている男性の胸を突き刺して、胸骨を開くように突き上げてみる。だけど一刺しで死んでしまったようで、口から血塗れの舌を吐き出して白目を剥いてしまう。

「————つまらない」

 最後にまとめて斬り捨てようと構えたが、陰気な雰囲気な女性が声を発した。

「わ、私達はここで観測を続けて。必要な数値さえ提出出来れば解放されるって」

「お前らは、ここに囚われたって言うのか?」

 片手間に殺しながら聞き促すと、生き残っている数人が首を揃えて頷く。

 さもありなん、と言ったところか。肉を持つ人間を雇用するよりもカナンの中という、何でもリゲイン出来る環境で飼って命令した方が楽なのだろう。

「言っておくけど、お前らの現実の身体はとっくに死んでると思うぞ」

「はッ!?」

「は、じゃねよ。死んでるって言ったんだ。カナンに関わった人間は秘密保持の為に虫一匹殺される。散々殺しておいて、自分達だけいつまでも殺せる側だと思ってたのか?」

 再度ひとりを突き刺して殺す。邪魔な死体を槍で持ち上げて放り捨てる。

「だからこれは救いなんだよ。ここにいれば、いつか猟犬達に喰い殺される。そうじゃなくても————」

 衝撃は真上から訪れた。槍を掲げ、鋼鉄の四肢を上空から呼び出す時間が瞬きひとつ分でも遅れていれば、自分は床の染みと成っていた筈だ。だけど、自分以外の男女————陰気でありながらも自分ような美少年の肌をスマホで撮って自分を慰めていた女性共々まとめて踏みつぶされていた。

「ふ、ふひひ—————お、おおおおお、お前はこれで————」

 手首を落としたから動けないと確信していたが、人間とは思いの外頑丈であった。吃音の男性が呼び出した存在は自分を優に超える巨体。黒い艶めかしい女性の肢体を持ち合わせる、カナンに再訪を果たした初日に襲い掛かった異界の何者かだった。

 振り落とされた触手に似た髪に潰された男女など構っていられない。鋼鉄の四肢を掴み、病院の屋上へと逃れる。一階分を踏みつぶしているというのに、なおも自分を見下ろす『それ』が、あの時は見通せなかった赤い眼を向けている。

「あの時は、敵とも思っていなかったのかよ」

 圧倒的な戦力差であるのは、なおも変わらなかった。

 女神の力を借り、上空から異界の鋼鉄で造られた四肢で貫通を求めるが————漆黒の貴き者は、意にも返さずその身で弾き返す。ゴムとビニールの質感かと思っていたが、その実あれは強固なマネキンそのものであった。

「ど、どどどどどうだ!?これで、これで私は、もう一度あの女を抱け———」

 操作を誤ってしまった。眼前の最優先対象よりも先に男性を潰してしまった。

「二度と触らせるかよ」

 突発的な行動など控えるべきだったかもしれない。これで交渉による停止は望めなくなった。だけど、最悪の状況とは言い難いと、自分は笑みを浮かべた。

「そろそろ起きてくれ。お前を使っていた連中は、全員死んだ」

 常人であれば瞬く間に発狂してしまう咆哮を、自分は身を吹き飛ばす鉄風としか感じなくなっていた。生ける音に脳を支配され、あれがどうやって自分の直近に、訪れていられたのか気付いてしまったから。

「反射によって居所を調べ、転移で送りつける。お前達ふたりが居れば、こんな事も出来たなんて。————特別扱いされるのも頷けたよ」

 ————ああ、俺も驚いた—————

 響く声に視線を向けなかった。真横から聞こえた声に、振り返る必要などない。

「状況はわかってる。やり方もわかってるな?」

 自分の融合した精神と似た口調だった。どうやら彼の片鱗は既に自分の内にあったようだ。再度笑ってしまった俺に、『アイツ』はわからないと言った感じの首を捻る。

「言われなくても。お前こそ、寝起きだろう?」

「舐めるな。お前が来るまで絶対眠らないって誓ってたんだ。死んだ時も———」

 カナン全域に散らばった俺達を適切な場所へと移転させ、外へと送り出した後も常に見張り続けていた『アイツ』の精神力はまともではなかった。既に狂っていた俺達の中でも、輪にかけて狂った友は肩を回す。

「アイツらは、最後まで気付かなかっただぜ。俺と『アノコ』だけが特別だって思い込んでてよ」

「最後の最後まで、アイツららしかったんだな」

 落とされる髪の一撃は病院の屋上を破壊するだけに留まらず、一階部分の受付にすら届く。だけど、自分達は既に別ブロック、遥か彼方としか形容出来ない住宅地区へとその身を移動させていた。落としたビルは既に修善され、自分達はその上から見下ろしていた。

「俺達は全員が特別だったのによ。ただの細胞止まりとか抜かして、カナンの一部にされた俺達も。みんな特別だった————俺達全員が『星を渡る子』だ」

 空間を蹴りつけながら接敵する貴き者は、なおも視界の隅に置かれていた。まるで近づけない自分の異常にようやく理解が至ったのか、カナンの空を見上げた。

「もう遅い」

 時間が完全に停止したのなら、あらゆる物も停止する。一切の身動きが叶わない理由は、細胞を動かすにも時間が必要だから。これはただの瞬間移動ではない。時と時の狭間、ある者は永遠の監獄と呼び、またある者は天上の楽園と呼び世界を、『アイツ』は軽々転移する。ワープと呼ばれる不可能犯を行った狂人である。

 そして転移は移動だけで飽き足らない。

 ————自分の視界を覆い尽くす『女神の手足』を、敵の真上へと『実寸大』で転移させる。本来ならば数百メートルであった筈の四肢は、遥か彼方にあっても『数百メートル』のままに見えてしまう。

「派手にやるじゃないか」

 友の声に頷き、もはや侵略者の空母と化した四肢の落下を加える。

 完成していたカナンを完全に突き抜ける攻撃の余波に病院ブロックが完全なる漆黒の奈落へと姿を変貌させる。

 現実世界であったなら大地のガラス化、直ちに人間が絶命する天変地異が起こる襲撃に貴き者は一片の跡形もなく消え去った。しかし————「ビルとバイク、肋骨の何本かにしては悪い事したかもな」と呟くと、肩に手を置かれる。

「むしろ感謝してると思うぜ。無理やり呼びされた被害者が元の世界に帰れるんだからよ」

 指を差す『アイツ』は、純白の塵と成っていく大地を楽しげに見つめている。もしやと思い、口に出そうとしたが憚られる内容に噤んだ。センスがない事はしない。

「聞かねぇのかよ」

 まるで訊いて欲しいと言った感じだった。『アイツ』は誰に対しても優しく、誠心誠意、正しくあろうとしていた。それが同じ境遇の存在ならば尚更かもしれない。

「いつか、迎えに行けばいい」

「達観してるな。ああ、いつか旅にでも出るか」

 ようやくお互いの顔を見つめ合えた友と、最後の言葉を交わす。

「時間がねぇのはわかってるな?俺もお前も」

「俺はまだ若干だけど————」

「いや、無い。外の連中が停止よりも先の楽園破壊を始めた。そろそろ次のタスク———出資者達全員の署名が完了する頃だ。汚染された楽園なんていらねぇ、って言って俺達諸共リセットする気だ。勘付かれるのも目的ではあったけどよ、あの臆病者が随分な強行手段に打って出たな」

 一度でも発令されれば、自分達の身を守る為にも再構築する断片こそ保持しても、世界そのものであるサーバーも全てを物理的に破壊する逃亡計画。あの狂乱状態であれば納得できる。だけど、今の今まで実行に移されなかったのは。

「先生のお蔭だ」

「先生?教育係ナニーは全員殺された筈だぞ」

「向こうで紹介してやるよ。僕の大切な人を」

 槍を構え、自分の方が先に射止めたと表情で伝える。舌打ちをしながらも「遅いか早いかで競うのは野暮だ。『アノコ』への言い訳は、自分で考えろよ」と、やはり意味がわからない言葉を発しされた。



  —————断章2—————

      不殺の乙女


「———厄介。もう始まったなんて」

 けたたましいサイレンが鳴り響く中、研究職と技術者の白衣の一段がわらわらと指定された階層へと移動を始めていた。完全な無人になる区画が増えるのは、表面上は喜ばしいが誰も居残っていないかと兵士達が銃を構えて『排除』を始めるのも目に見えている。

 カナンに参加した人間達は総じて行方不明となっている。簡単な話だ、関わった者達を須らく始末しているだけであろう。さもなければ、ここまで正体不明の施設が存続できた筈もない。

「私は紛れられない。せめて顔だけでも隠さなければ」

 末端の男性職員が私は殺されると知っていたのだ、知らない人間は少数派のものだろう。ふたりが並んで降りれる階段に足を延ばす彼らを眺めながら、彼を殺した部屋を見ていた。廊下の最奥にある部屋の過程に、忌々しくも階段が設置されていた。

「————時間の無駄。彼は、もういないのに」

 まだ死体は放置されているのではないか。そんな妄想はすぐさま振り払う。仮に在ったとしても、既に血も凍り付くほどの死体となった、彼だったものでしかない。

「彼はまだ死んでいない。私が向かうべきは———」

 ただの光に咄嗟には反応出来なかった。自分の背後から迫る赤い格子状の光に照らされた時、廊下中に響く新たなサイレンが発令される。職員と兵士達の全員がこちらへ向く寸前、病室のひとつへと逃げ込む。

「何をしているの。これでは逃げられない」

 悪手でありながらも最善の策と決めつけるしかない。放送に従わなかった不届き者をさがすべく、兵士達が近場の病室を開けては閉めてを繰り返す。

 隠れても無駄だ。病室にはベット程度しかない。だから———拳銃を取り出す。

「殺人は許されない。なんて重り————槍も使えないなんて」

 左右から迫る扉の音を肌で感じ取り、最後にこの部屋の扉が開かれた同時に—————発砲。分厚い装甲服に対して火力不足の9㎜弾では意味がない。しかし、どれだけ鎧が進化しようとも人間の身体が脆いのは変わらない。

 突然のフラッシュで目を焼かれた男性のひとりの背後に周り、片腕の二の腕と前腕だけで締め落とす。重いヘルメットに振られた頭を立て直せず落とされた男性を背中を伝って、もうひとりの兵士に落とす。総重量80㎏にも届く重量をぶつけられた事でバランスを崩し、倒れると同時にヒールで喉を踏みつけて失神させる。

「甘い———」

 アサルトライフルと向けていたひとりの指先、引金を握る人差し指を銃弾で破壊。悲鳴を上げさせている内に階段へと逃走を図る。背後から短い発砲音こそ鳴り響くが、それは白衣の人間達によって食い止められる。

「酷いって思う?全てあなた達が、彼らにやった事なのよ」

 ひとりの男性の顔を踏みつけて最下層を目指す。そこは彼がカナン潜界の度に訪れていた部屋がある。エアシャワー室の先にある滅菌室。ポット上の揺り籠が収められ、あそこ以上に耐震防犯性能が確立された部屋はない鉄壁の檻。

 最下層へと降りた時、装甲服を纏っていないただの警備員が同じM&Pシールドを向けて放ってきた。銃こそ与えられているようだが、その腕は9㎜弾のストッピングにすら耐えられていない。

「死にたくなければ頭は守って」

 肩、腕、手の甲。数人の警備員にそれぞれの弾痕を残す。傷を庇った隙を狙ってひとりを膝蹴り、ふたりを二丁の拳銃の銃底で殴りつけて突き進む。廊下の壁に設置されていた鉄製の棚を全て倒し続け、天井のライトを全てに発砲していく。

 この閉所での戦闘は銃口と弾丸の数が趨勢を決める。しかも、自分は自ら逃げ場のないあの部屋へと乗り込むとしている。尚更被弾率は下げるべきだ。

「早く。早く迎えにきて」

 時間がない。私に許された時間は、あと数分もない。

 数を揃えて突入されてしまえば逃げ場はない。だけど明確な勝機があるのも事実だった。逃げるのではない勝利の道筋が。




      —————5章——————

        カナン開闢『アノコ』


 高層ビルの最上階、植木のひとつやベンチ。自動販売機に触媒を放ち自分の位置情報を交換し続ける。目指す先はカナンセントラル。宇宙エレベーターと呼ばれるであろうカナン中心を突き抜ける天上界へのきざはしを求めて移動していた。

「先生————」

 ブッロク移動による恩恵が、ここまで重大だったとは知らなかった。

 電子世界たるカナンに置いて、移動とは権限の許す限りの抑制である。

 許された土地に入るには権能たるキーコードを付与された特殊なアバターが必要。今の自分がどの段階に数えられているのか知る由もないが、少なくとも足で移動できる権限はあるらしい。

「ここに来て俺達カナンのルールが足枷になるなんて」

 幻でも見ているようだった。セントラルは巨大でどこからでも見通せた程だったのに、いざ自分の脚で向かおうとすればまるで近付いている気がしない。

 ————仕方ない。この身体での限界を早めるしかない————

 精神投映———『カノジョ』の力を得て、天へと続く階段を造り上げる。だけど、これはまだ形だけの模型。隔絶の力を経て、踏み込む足に反発する力を想像。

 終わりに転移の力を込めて、セントラルへと続くと証明する。

「セントラルに続くって決めないと、届かないなんて不便だよ」

 作り上げられたガラスの階段。脆そうに見えるのは自分自身だからだった。

「顔にヒビが入るなんて————いよいよ限界か」

 先生より送り出されたアバターであるが、常に変動する情報を更新し続けていない弊害がこの時点はヒビで済んでいるらしい。酷ければ足でも捨てる気だったのに。

 無駄な心配は振り払い、変貌した拳銃の残り少ない媒体を発砲する。

 弾き出す身体の一部さえままらない。

「あともう少し」

 軽い振動だけで指が崩壊していく。位置情報の交換の度に身体の一部を置き去りにしてしまう。心配していた足先。右のわき腹。左の膝先はいつ失ったか。

 人体の原型を留めていない身体を引きずり、なおも放ち続ける。此処ここに至って精神的な強靭性が物を言うとは、自分は案外古典的な生き方をしてしまったようだ。

 既に雲を超えて、ぞっとするほどの青空と一体化していた。セントラルタワーを視界に収めながらも、螺旋階段を進む足は既に失っている。這いつくばりながら、太陽に近付き過ぎた罰を受ける身体は悍ましい肉塊と果てている事だろう。

 自分の死とは肉として終わるようだ。

 皆とミキサーに掛けられた時も、後々脳と身体の部位だけを繋ぎ合わせた塊とされた。いっそのこと、『彼は天使だった』と機械の神が告げてくれれば良い物を。

「—————」

 喉も失う。女神の力を借り受ける交信すら失われた。既に中天を超えた自分は地平線と同じ位置に寝転んでいた。彼方との惑星と見渡せる宇宙と。光としか認識できない。もしくは光すら届かない深宇宙の色に染まった身体は尚も引金を求める。

 扇状に広がる星々の光が、この身を包み自分という認識すら曖昧と成る。未だ灰となる訳にはいかない。理性はある。しかし姿は獣。知性はある。だけど声は叫びに。

「————っ」

 カナンの頭脳。カナンそのものとも言い表せるセントラルタワーの最果て。槍の矛先にも見える七色の切っ先が、ようやく視界の彼方へと訪れた。

 指も二本と成った右手で、砕けた鎖骨を擦り合わせてもたげる腕のなんと脆い事よ。あれだけ軽い軽いと嘲っていた銃すら持ち上げれない。自分の使える部位は、後口だけだった。肉を失い、骨と血管、神経だけの汚物を噛み上げて向ける事数舜。

 届いた。————確信した時には、自分はセントラルタワーの窓を突き破っていた。ひとつだけとなった眼球を拾い上げて、そこにいる『アノコ』を見つける。

 眠りよりも淡く、失神よりも美しい姿で拘束された『アノコ』を求めて這いずる。しかし————おもむろに腕を踏みつけられる。

「この害虫がッ!!」

 つま先で胸を蹴り上げられ、体液をまき散らしながら転がる自分は死にかけの虫そのものだ。槍を造り出す力も残っていない。先生に呼びかける声もない。何かと融合して奮い立たせる精神すら持ち合わせていない。自分を足蹴にしながらも頼るしか脳の無い紳士服の男性が、慣れないリボルバーを向けている。

「この汚物共が。私だけに許された聖域に土足で———しかも、そんな醜態で」

 視線にも入れたくない姿を晒している自分は、なおも『アノコ』を求める。必ず迎えに行くと誓い、ようやくたどり着いた約束地。カナンから解き放つ準備は整っているというのに—————。

「動いてんじゃねぇよ!!」

 骨と皮だけとなった腹に何発撃ち込まれようと痛みは覚えない。自分の身体を突き抜けて床へとめり込む弾頭の熱を血管で感じながら、骨を晒す手を伸ばし続ける。

「汚い汚い汚いッ!!動くな!!汁を溢すなよ!!なんだよその黄色いのは!?」

 どの臓器は知らないが、生暖かい体液が溢れている。だけど、これ幸いと這いずり続ける。靴越しとは言え、このような汚物には触れたくないようだ。

 槍を造る必要はない。弾頭もいらない。最後に届けるのは槍ではない。

「迎えにきた————俺達の楽園を造ろう」

 自分を奮い立たせる為ではない。ようやく自分はカナンの鍵と名乗れる。

 セントラルタワーの中央。身を収められた少女が、微かに笑む。

 タワー内の天井と床から色様々なコードが現れ、この身体に電子細胞の根源。『アノコ』の血が注がれる。精神反射———反射とは拒絶ではない。ある刺激によって起こる作用であり、全ての生物にはこの力が備わっている。

 『アノコ』がカナンの中枢に送られたのはこの為だった。あらゆる反射、動植物から無機物までのありとあらゆる存在に必要不可欠な力を想像し預け渡せる『アノコ』は、俺達の大切な妹だった。

 窓の外では新たな創生が始まる。天から降り注ぐ惑星たちにより摩天楼は砕け、公園や病院。学校から教会までの須らくを更地にしていく。直後に新たな星、カナンには備わっていなかった太陽を模す鋼鉄の星が現れる。

 破壊とは創生の前段階である。地平線を喰らうように現れた鋼鉄の星を見て、腰が抜けた紳士の手から零れた銃を奪う。尚も気付かない男性は天地構築のあまりの速度に身体が付いていけていないのが容易に想像がつく。

「あ、あり得ない。カナンが僕の手から離れるなんて」

「そもそも俺達カナンの民は、お前に下ってなんか行かないんだよ」

 向けられた銃口に気が付いた男性は、どうやら自分の意思で外へ出れるらしくまず最初に身体から力が抜けて、構築していた電子細胞が塵へと消えていく。

 拳銃も塵と成って消え、自分はようやく『アノコ』を見定める。槍でガラス筒を破壊した時に溢れる青い透明な液体を浴びながら、共に溢れる『アノコ』を抱き締める。

「————思ったより成長してる」

「はい♪姉さんを軽々越えました♪」

 二人きりの時にしか見せない淫靡な表情をする『アノコ』と立ち上がって、外の再誕を見届ける。古いカナンは分解され、地表の奥から新たな大陸が浮き上がってくる。主要メンバー全員と意識を通わせた自分の精神媒体をカナン中に撃ち込んだ事で、最後に自分と交わった『アノコ』の力によってカナンの混沌の時を終え、すぐさま創造へと進んでいく。

「これで私達は———」

「ああ。これでカナンは全部俺達のもの。AI達も手を貸してくれるから復興も創造もすぐに始められる。俺達で造り出した世界だから、外からの侵入も不可能になった————人間に怯える必要のない俺達だけの世界」

「本当に、それだけでいいんですか?」

 きっと後悔すると言うように、少しだけ鋭く造り出した爪で脇を刺してくる。

 言われなくても、誰に反対されても自分はあの人を招くつもりだった。この新たな物質を得た世界に、自分達だけでは寂しいと思っていた。それに———。

「混沌を終えられていないのは、人間の世界も同じだ。アイツらに合わせる必要もないけど、アイツらを超えないといけない訳じゃない。迎えに行ってくるよ」

 迫る鋼鉄の星に、手を振って手を繋ぐ。先ほどまでお互い一糸纏わぬ誕生の姿だったが、気付いた時には見慣れてしまった学生服となっていた。







「無駄な抵抗は止めて降伏しろッ!!すぐに警備兵がそこへ———」

 あの紳士服の姿が見当たらない。腹心と勘ぐっていた男性が、さも当然のようにオペレーター席へと腰を落ち着ける。誰もが最高責任者の席を求めているようだが、その席はあくまでも局長以下の席。自ら自分は格下だと告げているのと変わらない。

「無駄ななのはそちらです。もはやカナンはあなた達の手から離れた。楽園は新たな次の段階へと移行。誰の手にも届かない天上楽土へと姿を変えました」

 エアシャワー室に似た金属探知機まで全てを破壊し、残るは分厚い隔壁のみとなっていた。しかし、それを切り裂く金属カッターの火花がこの部屋へと届き始めてもいる。

 既に残弾は尽き、最後の一手たる槍を繰り出す寸前にまで達していた。追い詰められているのは自分。あと数分もしない内に蜂の巣へと為る。

 だけど、この部屋に入った時点で私の勝利は決まっていた。

「カナンとこちらの時間軸は大きくずれている。————あちらの一秒とこちらの一秒が同じだと思わないで。彼は必ず、私の元へ来るのだから」

 白い隔壁を焼き切る火花の総量が跳ね上がった。後数分と目算していたが、数十秒へと計算を書き換えなければならない。意外と、人間の技術も見るべき物がある。

 だけど、やはり人間の笑いは苦手だ。私の言葉を副官から白衣までが、手を叩いて嘲笑う。遂におかしくなったのか。あのガキはそれほど床上手だったのか。

「笑う余裕があるなんて驚きね。何故あなた達は、自分だけは救われると信じているのですか?」

「————あの女は」

 背後から髪を振り乱した男が戻ってくる。上着を捨て去った事で服による威圧感が薄れ、ただのごろつきと変わらぬ風貌となってしまっている。

「殺せ」

「た、ただいま隔壁の解除を、」

 デスクを殴りつけ、上に用意していた拳銃を撃つ放つ。二度目の弾頭を軽々防いだ防弾ガラスを忌々しく睨む男性が「このガラスを破壊しろ」と告げるが、「まだあの女が銃を持っている可能性が」と、立ち上がった腹心に宥められる。

「ガキも女も、俺を馬鹿にしやがって。殺してここに連れて来い!!ここで犯して———」

 隔壁の落ちる音がした。ひと一人分だけくり抜かれた隔壁の縁は今も赤熱化している。赤く染まった縁を超えて入ってくる姿に、私は手を開いて歩み寄った。

「お帰り」

 そう告げた瞬間—————少しだけの背の高くなった『彼』が飛び込んでくる。

 何が起こっているのかわからない。呆然とした顔を晒す職員と男性の背後の扉が開かれ、警備兵とは呼べないほど若い男女が突撃銃を持って制圧を始める。

 今も何が起こっているのかわからない。発狂しながら叫ぶ男性は、床の汚れたマットに押し付けられて未だに睨み続けてくる。

「先生————会いたかったです」

「私もよ」

「少しだけ雰囲気が変わりました?」

 首を捻って、少しだけ視線が届くようになった『彼』が不思議そうに告げてくる。

「変わった私ではダメ?」

「大好きです!!どうしようもない位————綺麗で可愛くて大好きで!!」

 手を振って喜びを全身で表す彼の後ろから、彼を突き飛ばしながら美しい切れ目の美少女が現れる。品定め、同性だからわかる蛇の目をした少女は「数年後には私が上」と告げて出て行った。直後に背の高い好青年ともうひとりの儚い美少女が謝り去り、『彼』と同じくらいの少年に肩を貸された『彼』が、目を回しながら歩み寄ってくる。

「あれからどのくらい経ったの?」

「俺達の体感では、ざっと10年くらいかと。ただずっと移動を繰り返してたので、実際はもっと少ないかもしれません。先生は?」

「一時間も経っていないと思います。私に任せて」

 『彼』を受け取った私に、軽く一礼をした少年は駆け足で隔壁の外へと出て行った。そこには、褐色の肌と眩い髪を持つ少女が立っているのがわかった。

「地球に戻る過程で出会って、そのまま連れて来てしまいました。怒りますか?」

「好き合っているのね。だとしたら、もう私に出来る事はない。これでいいの」

 ポッドに腰掛けながら、私は彼に多くを訊いた。どうして私を選んだのか。何故あのタイミングで電子壁に乗り込んだのか。自分を殺すように仕向けたのは、私の勘違いなのか。全てを問い質すつもり————報告書に記すつもりだったが。

「それより先生!!外に行きましょう!!俺、カナンの外は初めてなんです。それにカナンも案内しますね。あの方の許可なら、もう取ってますから!!」

 と、年相応に成長、年相応に性欲を持て余す少年に成ってしまった『彼』は何度目かの抱擁をせがんで胸の間に顔を埋めるのだった。




  ——————終章——————

   カナンの鍵・精神の欠片



 久しぶりの先生の温もりは心地よかった。ゆっくりとした心臓の鼓動があれだけ張り裂けそうだった自分の心音を静寂へと引き落としてくれる。何から話せばいいのか、何処から求めればいいのか—————そんな杞憂は月へと消え去っていた。

 ひとしきりの逢瀬を楽しみ終わった後、先生に背中を叩かれる。

「そろそろ行かないと」

「何処かへ行ってしまうんですか?」

「私は大人なの。自分の上司に伝えなければならない事があります。気付いていたのでしょう?私は、特別な任務を与えられて潜入していたって」

 それ以上は告げずに出て行ってしまった先生の背中を追いかけて、自分の除菌室などの施設を通り抜ける。廊下の端々に見受けられる光景のひとつに、同胞達が銃口を向けて、自分達を『使う側』だった人間を床へと押し付けている。

 持ち込んだ武器の数々はあちら側とさほど性能は変わらないかもしれない————けれど、こちら側の力を知っている人間達はから、早々に降伏していった。

 勝てる筈がないからだ。カナンから逸脱出来た絵本の中の住人が、諸手を上げて現実世界へと侵攻を開始している。しかも、肉眼で認知出来てしまう鋼鉄の女神の名のもと。

「まだ抵抗してる連中もいるのか」

 上階から銃撃の音が鳴り響いている。現実の物理抗争しか知らないのだから、撃てば殺せると思い込んでいるに違いない。首輪と檻で制圧出来ていたのだから鞭ひとつで勝利できる。そう確信しているに違いない。

「あーあ、やめときゃいいのに————」

 猛獣の声と、巨大なロボットアームの金切り声が銃声を塗りつぶしていく。

 誰が彼もが新たな世界へと旅立たせる為に、調整、調教された力である。超能力と言うには人の手によって磨かれた刀剣。自身の身体だけで銃の構造を模倣できる力。魔法よりも現実的に、現実よりも幻想的に。

 行き過ぎた科学の最果てに、現代人が勝てる筈もない。

「殺してはいませんよ。そういう約束で、この星に降り立つ許可を得たんですから」

 僅かに振り返って微笑みを向けてくれた先生と共に階段を上る。絶望か、はたまた発狂か。強力な銃を落とした警備兵達が膝を付いて両手を頭の後ろに置いていた。

「私の上司とは会いましたか?」

「少しだけ。あ、先生。どうして俺達が降りたつ位置が分かったんですか?」

 着陸して数秒と経たずに、まるで待ち構えていたように『彼女達』からの接触を受けた。不快感など持つ時間もなく————あの研究所の位置を通達され、送り出された。

「私達にも、あなたの女神と同規格の存在が力を貸しています。恐らく、あなたも知り得ない内に交渉の席が設けられていたのでしょうね。あなた達の存在を認める代わりに、あなた達の力を貸して貰うと」

「そういえば。そんな話を兄から聞いたかもしれません」

 先生を救出するしか頭になかった所為だ。ここに来るまでの記憶が抜けている。

 外に出る為には最上階の玄関を通り抜けるしかない。薬で眠らされながら、ここに連れて来られる過程で通ったであろう『出迎える』為の、天井の高いエントラストへと足を踏み入れた時だった。俺を二度殺した紳士服の男が手錠をされていた。

「この化け物ガッ!!」

 唾液を吐きながら叫んだ姿に、ニヤリと笑みを浮かべるともはや言葉とも言えない絶叫を上げて連れ去られる。この施設の正体を知られる事態は避けるためだ、外はサイレンを鳴らさない黒い車両が並んでいる。

「————あの住宅に似てますね」

「気付きましたか?この施設を元に、あのホテルは造り出されました」

 すんなりと教えてくれる先生は、少しだけ手を横に伸ばし止まれと暗に告げてくる。そして黒服を纏った女性に連れていかれてしまう。自分もと、思ったが「待っていて。すぐ戻るから」と釘を刺された。

「大人って忙しい」

 仕方なしと近場のソファーに座る。どうやらこの施設は、生物実験を行い研究所ではなく行政施設のひとつと数えられていたらしい。そんな無駄な事実が頭に渦巻いていると、4人の身内が施設奥から姿を現した。

「やぁ。どうだった?」

「置いて行かれちゃったみたいね。借りてきた猫って感じ?」

 『アノヒト』と『カノジョ』が左右に座り、眼前に『アイツ』と『アノコ』が座る。シーツも被らないで現実世界で話す機会に恵まれたのは、思えば初めてだったかもしれない、

「待っててくれって。自分の上司と話してくるらしいんだ」

「大人に弄ばれてるみたいね。でさ、あの男は何処?」

 視線をエントラスト中に走らせる『カノジョ』に「もう連れていかれたよ」と知らせると、心底つまらなそうに足を組んで肘を突いた。長く成長した足を欲しいがままする姿を見て、エントラスト中の全員が視線を奪われる。

「俺も、一発で良いから殴りたかったが。まぁ、行っちまったんなら仕方ねぇな」

「僕も一言で良いから伝えたかったかな。あなたから離れたお陰で楽しい日々を送れているってね」

 背の高い兄と鋭い顔付きとなった友が、それぞれの目的を語る。

 自分達『星を渡る子』は、鋼鉄の女神のような貴き者を惹きつける為に作り出された。男女関係なく暴力的にその美貌を脳裏に焼き付ける力に、人間が当てられているのがわかる。その筆頭の『何もしていないアノコ』が笑みを浮かべる。

「だけど、しっかり戻ってきてしまいましたね。二度と降りたくなって姉さんは言っていたのに————外って、本当に空があったのね」

 立ち上がった『アノコ』が玄関近くの窓を見つめる。視線の過程にいる『こちら側』『あちら側』問わず、茹っていく状況を『アノコ』は楽しんでいる。

「そろそろ止めなさい。また声を掛けられるわよ」

「でも、皆さん、私に優しくしてくれるから」

 と、自分の美貌に誰よりも自信がある星すら堕とす美少女は笑みを続ける。

 だけど、自分にはひとつ気がかりな事があった。そんな自分に「何か気になる?」と兄が聞いてくる。だから自分は全員に視線を走らせる。

「俺の精神の欠片は何処にもなかった」

 カナンに落としてしまった。そう確信して訪れたというのに、この10年一度も見当たらずに戻ってきてしまった。失った欠片は、一体なんだったのか。それすら失っているのに。

「それって大切な訳?」

「わからない。だけど大事だった記憶はあるんだ」

 『アノコ』に頼んでカナンの深層。打ち捨てられた旧世界にも訪れたというのに、あるのは人の死体ばかりで自分のソレは見出せずに終わった。今までで放置してきたが、忘れ去る事はできなかった。

「はぁ、本当に気付いてないんだ。呆れた‥‥」

「ああ。未だに気付かないのかよ」

 同じ顔をして、同じ溜息をした2人に何故だ?と視線で問い掛ける。まさか2人は知っているのだろうか。だけど自分の期待に満ちた視線を受けた2人は首を振る。

「答えを教えるよ。君は、もう自分に付与している。カナンの鍵。僕達の解放者として」

「解放?」

「忘れちゃったんですか?レムナント。新しく与えられた名前なのに」

 要領を得ていないのは自分1人だけのようだ。レムナント。それは『星を渡る子』に変わって新たの与えられた名前だった。少女だけの贄ではない我々は、本来の正しき信仰を引き継いだ者達の意味であるらしい。しかし、それと欠片との関係が見出せない。

「君は求める心を取り戻した。それだけでいいんじゃないかな?」

 兄がそう告げた瞬間、全員が立ち上がって腕を引いてくる。突然の行動に驚いていると外へと引きずられて、石造りの階段や自動扉を超えて先生の待つ車の前で手を離される。

「まずは私達の代表として、この世界に降り立った証明をしてきて」

 開かれたドアに押し込められ、その意味を咀嚼していると先生が乗り込んできた。

「先生。みんながいじめるんです‥‥」

「いい友人、兄弟姉妹を得られてようね。家族は大切にしなさい」

 と、先生も先生で不思議な事を言って出発させる。

「これから何処に?」

「あなた達を、新たな種族として受け入れるにはまだ成すべき事があります。わかりますね?人間以上に電脳世界に順応し、新たな新世界と共に訪れたあなた達は、人間にとって脅威です」

「安全だって証明するって事ですか。それとも人間なんて捻り潰せるって証拠ですか」

 ふわりと笑んだ姿に、見惚れていると先生は新たな学生服を渡してくる。紺色を基調にした制服は、自分の感性から言っても決して悪い物ではなかった。

「この世界に馴染んでみなさい。そうすれば、我々はあなた達を受け入れましょう」




 

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彼方よりカナンの鍵へ 一沢 @katei1217

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