ジェシカのはなし

不璽王

第1話

    「実を言えば、地上にはこれほどの子供の居場所はなかった。名前はフローリアンと言った。」

      ─『フローリアン』ジョナサン・キャロル



 あるところに女がいた。名をジェシカと云う。

 女は、ヤリマンであった。


 年端もいかぬ頃から、女は己の性欲を持て余していた。その衝動を発散させる方法はすぐに分かった。分かってからは、老若男女を問わず、手当たり次第に股を開き、また開かせた。まだ幼くとも、それが可能なほどの妖艶な美貌の持ち主であった。

 女には節操がなく、誰とでも体を重ねたが、飽きやすかったので同じ相手と五度以上会うことはほとんどなかった。相手にした半分とは、二度以下の回数しかこなさなかった。ゆきずりの交接で足りぬ時には、自分の家族でさえ誘惑した。女には血を分けた相手でさえ抗えぬほどの魅力があった。女は父に抱かれ、母を、そして女よりさらに幼い妹を抱いた。両方を同時にこなすこともあった。有り余る性欲であった。


 当然のように家族は瓦解し、中学生に上がった最初の冬の最中に女は放逐された。妹は泣いて女を引き留めたが、母に頬を張られると、それきり黙ってしまった。女を泊めたがる家には事欠かなかったが、どの家も一週間と持たなかった。住む場所を無くした女を最終的に引き取ったのは、とうに枯れ果てた女の曽祖父であった。女は曽祖父を何度か誘惑したが、曽祖父が往時の瑞々しさをどうやっても取り戻せないと悟ってからは、それをやめた。曽祖父との関係は、女にとって唯一肉体を伴わないものとなった。


 女はヤリマンであったが、曽祖父は狩人だった。アメリカから持ち込んだ猟銃を手に山へ入り、仕留めた獲物を担いで戻ってきた。街へ繰り出し、目についた獲物を誘惑し、ヤッて戻ってくる自分と似ていると、女は思った。曽祖父が女の生活に口を出すことは一切なかった。生命を営んでいる。ただそれだけで良いと思っていたからだ。曽祖父の目に映る女の姿に、自然の理に反する点は一つもなかった。


 そのようにして穏やかに半年ほどが過ぎ、夏になった。女は曽祖父を、自分が出会った中で唯一尊敬に値する人物ではないかと思い始めていた。

 ある猛暑日に、前触れなく曽祖父が倒れた。かかりつけの病院にいた時だった。医師により迅速かつ適切な対処が行われたが、その甲斐なく深夜に心臓は動きを止めた。天寿であった。

 曽祖父が処置を受けているその時、女は複数の男に縛られ、突かれ、喘いでいる最中だった。病院からのスマホへの着信は、男共の手によって勝手にスピーカー通話にされた。曽祖父が危篤との報が耳に届き、女は猿轡越しに呻いた。男共はそれを、性欲に歪んだ耳で喘ぎ声と聞き取った。責めは止まらず、縛めは解かれなかった。声をあげ、必死に背中を退け反らせても、全て快感のためだと解釈された。連絡した看護師は嬌声しか聞こえて来ない電話から耳を離すと、乱れた世を嘆いた。


 翌日の昼近く、男共から解放された女がようやく病院にたどり着くと、すでに曽祖父の遺体は運ばれた後だった。枕を共にしたことがある医師は、満足そうな最期だったと女を慰めたが、その言葉が耳に届くことはなかった。女は毎日のようにベッドの上で鳴き声をあげていたが、悲しみのために泣き声をあげたのは、その日が最初だった。


 女は葬式に出なかった。あんな別れ方をした両親や妹に合わせる顔がなかったし、こんな理由で死に目にあえなかった自分には曽祖父を弔う資格はないと思っていた。代わりに曽祖父の寝室から鍵束を持ち出して、山に走った。目的があったわけではない。ただ、人と肉体的な繋がりを持つことへの忌避感だけが、女の足を動かす原動力になっていた。


 三日三晩、山を彷徨った。曽祖父が猟場にしていた山だった。生前の曽祖父から山小屋があるおおよその場所は聞いていたのに、ようやくそこを見つけたのは四日目の朝が明ける頃だった。ほうほうの体でたどり着いた女は、疲労困憊の状態にも関わらず、ここなら他人と関わらずに済むと心の底から安堵していた。山小屋の床に倒れ込むと、女は眠りについた。性交による絶頂で頭を空にせずに寝付けたのは、実に数年振りのことだった。


 山小屋には曽祖父が備蓄していた干し肉があった。近くには川も流れていた。目を覚ました女は渇きと飢えを癒すと、改めて山小屋を見渡した。朽ちかけているのに、整っていた。曽祖父に似ている、と女は思った。厳重に鍵の掛かったロッカーがあり、持ち出した鍵を使って開けると中に猟銃と大量の弾薬が入っていた。女は弾を込めて、映画の真似をして一発試し撃ちをした。散弾銃ではなく、ライフルのようだった。アーミーナイフもあったので、それも手に取った。女はナイフと猟銃を抱えると、山のさらに奥深くに分け入って行った。曽祖父と同じように暮らしたかった。性欲に振り回されるのは、もうたくさんだと思っていた。


 獲物は見つからず、見つけても気配を悟られてすぐに逃げられた。運よく逃げる前に撃つことが出来ても弾は外れ、例え命中しても急所を外して逃げられた。五十回目となる獲物との邂逅でようやく仕留めることができたが、今度は解体に手間取った。女の小さな手にはアーミーナイフは馴染まなかったが、握る人間にどのように刃を入れればいいか教えてくれるような、不思議な優しさのあるナイフだった。山に来てからの日々をそのように過ごし、段々と女は山での作法を覚えて行った。曽祖父が溜めていた干し肉が尽きる頃には、女はそれなりの腕になっていた。食うには困らない程度の腕に。


 食料への不安が薄くなると、女は銃の腕を磨く時間を増やしはじめた。曽祖父の残してくれた弾は有限なのだから、この生活を一日でも長く続けるためには無駄な消費を減らさなければならない。喫緊の課題であった。

 山小屋のそばで、弾を込めていない銃を手に持った。直立の姿勢で細く長い深呼吸をすると、片膝をついて銃を構え、川を挟んで向かいにある周囲で一番大きな木を狙った。ゆっくりと気息が満ちるのを待ち、満ちれば引き金を引いた。撃鉄の音がする。想像の中でさえ、外れていた。終わるとまた立ち上がり、深呼吸から再度始めた。日に幾百と繰り返すうち、自然と深呼吸が祈りの時間に変わっていった。獲物への。そして、曽祖父への。


 季節が巡った。


 鹿を撃った。

 猪を撃った。

 蛇を撃った。

 貂を撃った。

 鴨を撃った。

 狸を撃った。

 雉を撃った。

 肉が食えそうなものは大抵撃って、撃ったものは全て食べた。狸は臭かったので、一度食べると二度と撃たなかった。狙える時は心臓を狙い、必要以上に獲物が苦しまないように気を付けた。女にとって、猟場や猟期など関係なかった。しかし、ただ幸運のみを理由として誰かに銃声を聞き咎められることは一度もなく、一人きりの猟師生活を続けることができていた。女が狙いを外す回数は日に日に減り、一度も外さない日が何日も続くようになった。ある日を境にして、女の撃った銃弾が心臓以外を撃ち抜くことはなくなった。


 二度目の秋になり、女はいつものように解体した鹿を担いで山小屋に戻った。扉を開けると、小屋の中に猟銃が見えた。女はそこで初めて、自分が銃を忘れて狩りに出ていたことに気が付いた。では、今担いでいるこの鹿を撃ち、命を奪ったのはなんなのだろう。女は不思議に思ったが、長い間一人であったので「そういうこともあるだろう」と納得した。


 鹿を下ろすと、いつものように銃の練習を始めた。祈り、銃を構え、引き金を引いた。ふと、違和感を覚えた。弾を込めていないのに、狙った大木が揺れた気がしたのだ。思いついて、銃を持たずに同じ動作をした。祈り、空を構え、心の中で引き金を引いた。狙った先の、太い木の幹が、低く、重く震えた。心の中で引き金を引くたびに、木は揺れ、紅葉を落としていた。女は山小屋に戻ると、猟銃をロッカーに仕舞い込んだ。そして元のように鍵を厳重にかけると、以後、二度と手に取ることはなかった。


 女の生活は時を経るごとに純度を増していった。狩り、祈り、眠り。それ以外のものは、全て削ぎ落とされていった。そうして過ごしていく内に、女は認識のありようさえ変化させていった。ものとものとの境界線が、だんだんと曖昧になっていた。やがてあらゆるものが渾然となり、女の見るものは己と、獲物と、獲物ではないものの三つの区別しかなくなっていた。その新しい認識の中では、アーミーナイフも己の一部だった。それ以上の細かい区別は必要なかった。目覚めると出かけ、獲物を撃ち、そして祈り、眠った。


 世間では年末だったが、女には関係なかった。狩りに出かける女は熊の毛皮を纏っていた。初めて熊を仕留めたのがいつか、女自身にも分からなかった。獲物として認識した。だから撃った。熊と、熊以外の獲物の間に区別はなかった。既に女の脳は、形を認識する機能を忘れていた。その日も女はいつものように出かけ、獲物を見つけた。音もなく祈り、空を構え、心の中の引き金を引いた。獲物は静かに崩折れた。その動きを見て、女は違和感を覚えた。近寄って、仕留めた獲物に焦点を合わせる。目が形を認識するのに時間が掛かったが、やっと女の脳が獲物の像を認知した。


 獲物は、童の形をしていた。


 女は慌てた。こんなにも取り乱すのは、山に来て以来初めてのことであった。童の胸に耳を当てても、心音は聞こえなかった。女は命を奪うばかりだったその腕で、うろ覚えの心臓マッサージを行った。童の口に己の口を重ね、息を吹き込んだ。形のある銃で撃ったわけではなかったから、外傷はなかった。息を吹き返す可能性は大いにあった。女は泣きながら祈り、手と口を動かし続けた。獲物と曽祖父以外のために祈るのは、山に入って初めてのことだった。


 確かに息絶えていた童が、咳をした。その勢いのまま身を起こし、目を見開いてぜいぜいと肺の中の空気を懸命に入れ替えている。女は腰を抜かしてその場にへたり込むと「良かった」と、一言呟いた。童が声のした方を向いた。女と童の視線があった途端、再び童が昏倒した。しかし、今度は息が止まることはなかった。


 童を抱えて山小屋に戻った女は、川で汲んできた水を沸かすと、そのお湯で童の体を拭いた。薄汚れ、やつれてはいたが、女に似て美しい少女であった。曽祖父が死んで以来、他人の裸を見るのは初めてだった。体を全て拭き終わり、童の着ていたTOPVALUの服を再び着せる頃に、童は意識を取り戻した。今度は昏倒しなかった。目を覚ました童と言葉を交わす前にはもう、女には分かっていた。自分が間違えて童を撃ったわけではないことを。


 童は、正真正銘女の獲物であった。


 食欲を満たすためのではなく、性欲を満たすための。


 童の心臓は、見事に撃ち抜かれていた。それは心を射止めることと同義であった。心臓を砕かれた童はただ女に心酔し、その性欲を満たすために己は存在すると思い込むようになっていた。童は女に触れられると幸せそうに笑い、女が構わないと見るも無惨に落ち込んだ。

 童は己がどこから来たのか、なぜここに居るのか、名前も、年齢すらも分からなくなっていた。しかし童は悲しむことはなかった。その感情を失っていた。女に、形のない銃で撃ち抜かれたことで既に仕留められていたからだ。女は、童を獲物と認識してしまったどうしようもない己を許すことができなかった。

 しかし、もう童はここにいた。女と一緒に、山小屋の中に。


 童は四六時中女に付き纏うようになった。口を開けば女を称えた。青い眼が、金色の髪が、体毛が、柔らかな手が、垢じみた肌が綺麗だと。女は童に言われるまで、自分の眼が青いことさえ忘れていた。思い出させてくれた童に感謝したが、褒められたことに対する感謝を重ねれば重ねるほど、それとは裏腹に罪悪感は募るばかりであった。童を街に返さなければならないと考えていたが、その方法が分からなかった。己と、獲物と、獲物でないものと、童のこと。その四つしか認識できない頭では、自分から女の元にいたいと願う童をどうすればいいかなど、分かるはずが無かった。


 女は童を撃ったのち、銃を撃つのをやめていた。形のある銃も、ない銃も。曽祖父から引き継いだものは、今の自分には何一つ扱う資格がないと思っていた。ただ備蓄に回していた肉を食い、童に求められれば肉体を重ねた。情事を重ねる度、女の心は悲鳴をあげていた。体が歓喜に震えるほど、心を貫いた棘は鋭さを増した。今の女にとっては痛みや飢えではなく、童に与えられる快感こそが唯一自身を苛むものであった。


 春が来る前に、備えていた肉が尽きようとしていた。女はもう何も口にする気はなかったが、童にもそうさせるのは酷だと思った。アーミーナイフの使い方を教えようとし、銃も見せたが、童はどちらにも興味を示さなかった。それどころか、女が手ずから与えたものでなければ食おうとはしなかった。次第に女は諦め、己が力尽きたらその肉を食うようにと言い含めると、静かに目を閉じた。己の肉が食い尽くされるまでに、誰かがこの小屋を、童を見つけてくれますようにと祈りながら。それが女の最後の祈りだった。童は温もりが無くなるまでその骸に寄り添い、温もりが無くなるとアーミーナイフを手に取った。使い方は知らなかった。ただ、それが女の一部であることは知っていた。


 春になり、山の何もかもが溶け始める季節になった。匿名の通報があり、警察が山小屋に駆けつけた。そこには乾いた死体が二つ、重なるように寄り添っていた。どちらの死体にも、外傷は一つもなかった。死体の傍の床に、ナイフで付けられた傷があった。「おねえちゃん」と読むことが出来た。


 一つだけ、死体を解剖した監察医が首を捻ったことがある。冬の冷気で腐敗の進行は遅れていたはずなのに、童の死体からは心臓が見つからなかったのだ。


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