桜帝の紡ぐ恋のいろは
稲井田そう
第1話
「
私を呼ぶ声に、ふっと意識が覚醒する。近代都市と呼ばれるこの彩都の上空を優雅に飛行する飛行船の中、私は足元に並ぶ摩天楼の群れを見下ろした。
空へ手を伸ばすかのような建物たちからは、眩い光が点在し、煌々と輝いている。その間をかいくぐるかのように天を目指す豪風を受けながら、私は耳につけた通信機の位置を正す。
「お前婚前最後のパーティー当日まで働いて、休みてえとか思わねえの?」
操縦席から軽い口調で声をかけられ、私は首を横に振る。
「仕事なので」
所詮相手は人間だ。異形の化け物ではない。人を殺すことなど容易く、子供でも出来る。にも関わらず、この極彩世界で人間が減らないのは、秩序というものがあるからだそうだ。
衆人環視の元、人の命を断ってしまえばすぐに捕縛される。
たとえ対象が、この国をいずれ転覆させるような反乱分子としてもだ。かといって、反乱分子を野放しにすれば、あっという間に国は転覆するだろう。
正攻法では、この国の安定は願えない。
そう悟ったある組織は、内々に平和を脅かす反乱分子を調べ上げ、始末することにした。他ならぬ――この世界のために。
「? お前見慣れない顔だな。一体――うっ」
飛行船から身を投げ、この極彩国で最も発展した都市──彩都で今一番勢いのある製薬財団のビルの屋上に降り立つ。空の監視を行っていた警備員をなぎ倒しながら、私は駆けた。
人をたちまち溶かしてしまう、薬。その開発を行っているこの場所は、六十二階建てと彩都でもかなりの高さを誇っている。全面に張り巡らされた硝子は、銃も化け物の攻撃も防ぐ特殊仕様だ。
当然通路は部外者の侵入も厳重な警備により防いでおり、内部の廊下に至るまで、監視の目が行き届いていないところがない。物音を立てれば、すぐに増援が来て取り押さえられてしまう。
だから、外から硝子を伝い、屋上から侵入することにしたのだ。
地上よりずっと近く感じる空は、夜明けが近いからか不気味な桃色をしている。春風は冷たく、月光は薄れ、滅びに導かれていた。
私がそばにあった配電盤を叩き壊し、建物全体の電力を落とす。予備の電源が入るまで、十五分。
建物の中へ侵入すれば、意図せぬ停電に皆混乱状態で、退避を促す声や研究物を守ろうとする指示、怒声が飛び交っていた。
私はすぐさま研究者に扮し、廊下を歩いていく。しばらくして「きみ! 何かもっとまともな光源になるものを持ってきてくれ」と、蝋燭を持った男が後ろから近づいてきた。私は「はい!」と切迫した様子で廊下を走り抜け――外鍵が何重にもつけられた扉の前に立つ。
手早く道具で解錠して、中に置かれた資料を抜き取って、予め用意されていた爆弾を机の上に置いた。
そのままの動作でこちらの様子を窺う男の首を締め上げる。
部屋を出て、厳重な内鍵を解錠して窓を開けば、まるで春一番を体現するような風が吹いた。見下ろせば、薄明を知らせる光に照らされた建物が、何層にも影を重ねていた。
特に気に留めることもなく、私は飛び降りる。背に爆風を受けながら向かいの建物の屋上へと移ると、先ほど飛行船を操縦していた男──
颪はふらふらと手を振って、「凪、おつかれ〜」とのんびりした声で私の横に立つ。
「研究成果は渡しておくから、さっさと御門の家に行ってきなー?」
そして汎は左に立った。二人と私は同期だ。機械改造と運転を専門にしている颪と、組織の構成員の傍ら、人目に立つ仕事をする目立ちたがりの汎。
複数で仕事をするときは、たいていこの三人が集まることになる。
「それにしても、凪が結婚かぁ! いいなぁ!」
汎は自分の指を顎にあて、物欲しそうな顔で私を見上げる。胸のあたりでざっくりと切られた紺髪の小柄で華奢な彼女は、組織の中でも戦いではなく、諜報活動を主な役割としている。
その髪色をより透明化させた色の瞳は、いつも「新しいもの」「可愛いもの」を追って、周囲を和ませていた。
「本当だよなぁ。驚きだわ」
そして、特に喜怒哀楽も必要ない、さらに言えば愛想も不要そうな運転係と技術開発を担う颪も、汎に負けず劣らず感情の出る人間だった。
彼は肩にかかる髪を黒い紐で後ろに縛りながら、モッズコートをはためかせ歌を口ずさんでいた。二人とも和やかな様子だけれど、腰元には私と同じように武器を下げている。
ただ、颪の二つの銃はわざわざグリップに紐をつけ繋げられていて、「このほうがかっこいい」という奇怪な理由で機能性を殺されていた。
二人は、「せっかくの結婚なのになにその顔」と、声をそろえてくる。
この彩都には、秘密裏に国家反逆を企てる反帝派の始末、それらの情報収集を行う組織がある。孤児として育った私は、その組織に拾われ道具として育った。二人も同じだ。
組織の命令を受けて、言うとおりにする。子供でも出来ることだ。
結婚も、普段の命令となにも変わりがない。
私は空が白んでいくのを横目に、日から背けるようにその場を後にしたのだった。
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