知将・秀郷と戦う
貞盛と藤原為憲は常陸国府のいくさから遁走し、北浦を経て那珂郡、久慈郡の各地を転々としていたが、一月になって密かに下野へ入った。もちろん秀郷を頼りにしてのことで、「不次の賞」が設けられ、将門がはっきり謀反人となったからには、秀郷が同盟を拒む理由はなかったのである。
秀郷は三十代半ばの延喜十六年、国司と争って流罪を宣告されたが、実際は数ヶ月間蟄居しただけであった。それは彼が地元の意を汲んでお上に抗したというので、とても量刑どおりの刑を執行できる雰囲気ではなかったからだ。その後延長七年、五十歳の頃にも擾乱に関係した記録がある。
秀郷とはこういう男だったから、心中は将門に同情的であったが、行きがかり上貞盛との約束もあり、人生最後の大仕事として戦うには最高の相手に違いなかった。だから貞盛と再会した時には、
「いよいよ時節到来じゃな。我らにとって名を上げる好機となるか、それとも滅びさる運命に落ちるか、此度は己も腹を括ってござるぞ、貞盛殿」とまずそう言ったのである。
すると貞盛は、
「かたじけない。じゃがこの貞盛は勝つことだけしか考えぬ性分でござる。小次郎めを討つまでは、決して死ぬわけに参らぬと思うておりまする」と落ち着いている。
それを聞くと、秀郷は少々むっとした顔で言った。
「神出鬼没も宜しいが、常陸の時のようなことはきっと御免蒙りますぞ」
これには傍で聞いていた為憲が急いで口を開いた。
「あの時はやむなく、あのような仕儀に。今度ばかりは秀郷殿と一蓮托生、どこまでも御一緒いたす覚悟でござる」
貞盛はどこ吹く風にこれを聞き流し、肝心なのは将門の動静だというように、自分の掴んだ情報と秀郷のそれとを突き合わせようと言った。
その結果、将門が常陸北部から戻る際、兵の殆どをその出身地へ帰したので、多く見積もっても現兵力が二千を上回ることはないだろう、という結論に達した。また将門の弟たちが本拠の石井を離れているらしい、という情報も伝えられていたから、攻めるにはまたとない好機であった。
秀郷はすぐに徴兵に掛かり、伴類へは勿論、意を通じた豪族へも援軍を要請した。貞盛も各地を奔走して、将門討伐の意義を説いて回った。十日ほどで四千を超える兵力が確保されたが、そうした動きは隠そうとしても出来るものではない。石井の館では、秀郷挙兵はすでに既成事実であった。
旧暦の二月初め、ちょうど啓蟄の頃で、蕗のとうが頭を出し、柳の芽が脹らんできていたが、坂東の空っ風はまだ十分に冷たかった。秀郷の動きを知ると、間もなく将門は下野を目指して石井を発った。多治経明、藤原玄茂、玄明と坂上遂高が同行し、総勢は千二百ほどであった。兵力は明らかに劣っていたが、誰もそれを気にする様子はなかった。秀郷は老齢であったし、貞盛と為憲は常陸国府のいくさから逃亡した腰抜けである、どうして歴戦の我らが後れを取ろうか、というのが彼ら新皇側の認識だったのである。
秀郷の本拠田沼は、利根川の支流・渡良瀬川のそのまた支流の、秋山川と旗川という小河川に挟まれた山間にあった。だから秀郷軍が石井を攻めようとすれば、まず川に沿って南下して東山道へ出、そこから下野国府方面へ東進し、渡良瀬川下流域の広大な沼地を迂回して下総へ入る、というのが一番自然な経路と考えられた。
将門は藤原玄明とともに兵六百を従えて先発し、素早く東山道を西進すると、田沼へ入る谷口へ到達した。将門はそこで藤原玄茂率いる後続部隊と合流し、一気に秀郷の本拠に攻め込むつもりであったが、先発隊の進行があまりに早かったせいか、後続部隊は影も形も見えなかった。
その頃後続の玄茂や多治経明、坂上遂高らは、先発隊に遅れること二里ほどの東山道にあった。道は足尾山地の裾の、石灰岩層が浸食されて出来た、起伏に富む地形の中を続いている。右手は標高一千二百尺(三百六十米)前後の長い丘のような峰が続き、左手は概ね平野だが、所々にまるで芋でも転がしたような奇妙な小山が見える。それは下総などの平野部では見ることの出来ない景観で、玄茂や多治など先頭を行く武将らは、いくさを忘れたかのように、遊山気分で馬上からその景色を楽しみ、それは最後尾の兵の歩みにまで伝播していった。
右手の山裾は多くの浅い谷を持ち、コナラ、クヌギ、鬼グルミなどの落葉性の樹木に、椎などの常緑性のものも混じっている。下生えは枯れ草とシダで、斜面の上の方は赤松が目立ち、その急勾配な山肌の白い土が露出しているのが、辺りの樹木に美しく映えていた。
すでに新芽を脹らませ始めたクヌギやコナラなどを透かして、早春の陽が下生えを明るく照らし、この季節としては珍しく風の弱い穏やかな日であった。
その時ずっと鳴いていた小鳥の声を破るように、林の中からキジバトらしき山鳥の飛び立つ音が、一同の方へ向かってかなり大きく聞こえてきた。すると隊の真ん中辺りから頓狂な声が上がり、そこからどよめきが周辺へと広がっていった。坂上遂高が傍にいた兵に何事か見に行かせたところ、二、三の人影が谷間に動いたという。坂上は玄茂にそれを伝え、すぐに三名の兵をその谷へと向かわせた。
それまでは隊伍を組みながらも、長閑に歩を運んでいた全体に緊張感が生まれ、私語する声が大きくなった。
間もなく兵の一人が報告に戻ってきた。それによると、三町ほどの距離にある谷の奥に、黄の幟を立てた一隊が潜んでいるという。場所から見て、秀郷の軍勢に間違いない。
「それで兵の数はどのくらいであった?」と坂上が訊いた。
「我らの半分ほどでしょうか」
「敵の動きはどうじゃ、すぐにも攻めてきそうな様子だったか?」
「いえ、それがまことに静かなもので、多くは草の中にうずくまっておるようで」
『我らに気づいているはずだが、なぜ攻めてこぬ?』と坂上は独り言を言った。
「谷の様子はどうじゃ、馬は使えそうか?」と今度は玄茂が質問した。
「入ることは出来ますが、谷の奥は急でとても馬では登れんでしょう。敵も馬は連れていないようです」
「そうか、では敵を谷の奥へ追い詰めれば、その急坂が退路を絶ってくれるというわけじゃな?」と玄茂はにやりとし、傍らの多治経明に言った。
「お聞きの通り、一戦交える好機ですぞ。ここは多治どのに先陣をお任せする。すぐに陣形を整えて攻め込みましょう」
将門が新皇となって以来、藤原玄茂はすっかりその補佐役を自任して、多治や坂上らの主だった郎党に対しても優越的態度を示すようになったのだが、将門がそれに異を挟まなかったので、やがてそれは当然のことと周囲から受け止められるようになっていたのである。だがこの時、多治はそのような玄茂に反発していた訳ではなかったが、
「しかし玄茂殿、ここはまずお館様にお知らせするのが先でござろう。今頃は田沼への谷口で我らに合流するため、お待ちになっておられましょう」と答えた。年長者らしい真っ当な意見であった。しかし玄茂はそれには取り合わず、軽く頭を振りながら、
「この好機にむざむざと敵を見逃しては、お上もお喜びになるまい。それにここで手ひどく叩いておけば、やつばらの我らに歯向かう気が失せるやも知れぬ。そうは思われぬか、多治殿」と反論した。
言われてみれば、多治にも合点の行くところはあった。いくさで緒戦が大事というのは常識である。幸い無勢な秀郷軍を痛めつけることが出来れば、これからの戦いを有利に進められるのは間違いないところだ。
「分かり申した。なるべく早く攻撃に掛かりましょう」
多治は部下の武将を呼び、急ぎ攻撃の陣形を取るよう命じた。同様に玄茂と坂上らも腹心に攻撃の準備を指示した。
間もなく多治隊が騎兵を先頭に谷へ向かった。谷の入り口付近はなだらかで、胡桃などの落葉性の樹木とシダ類が多く、馬も何とか入って行けたが、予想通り次第に傾斜が急になり、下馬せざるを得なかった。
敵はなぜか攻撃するでもなく、谷の中心を上方へ後退していくばかりである。多治隊は槍の歩兵を三列縦隊にし、その中に抜刀した武者を混ぜて、敵を谷の奥へと追い詰めていった。
藤原秀郷は将門軍が下総の猿島郡石井を発ったのを知り、その素早い動きに驚かされた。田沼では集められた兵力の概要が判明しただけで、どのような陣形でいくさに臨むかは決められていなかった。将門の確保する兵力が小さいのを見て挙兵した秀郷らこそ、より迅速に動く必要があったのである。
そこで秀郷は、将門軍の動きを利用して危機感をあおり、同盟軍の指揮権を握った。もっとも彼の他に適任者は見出されなかった。前常陸介の息・為憲は経験に乏しく、貞盛は自分の命だけが大事という男であるから、とても大軍の指揮など任せられるわけがなかった。
秀郷は兵力を指揮官ごとに組織化し、田沼の東方に連なる低い山並みに潜ませて、東山道を進んで来る将門軍を見張らせた。そして戦いを山地で展開することを狙っていた。なぜなら将門軍は平野での戦いには慣れていたが、山地では自分たちの方が有利だという自信があったからだ。
谷の奥はすり鉢の縁のように急になり、落葉樹の中に樫や椎といった常緑樹が混じっている。多治隊が追っていくと、秀郷軍は下生えの中を木に手を掛けながら、意外に身軽に斜面を登って行くのである。
多治隊に続いて坂上隊、玄茂隊も谷間に殺到してきた。新皇軍の歩兵は斜面を上るのに槍を持て余し始め、それでも必死に敵に迫ろうとしていたその時、思いがけず殆ど真上の空から矢が雨の如く降ってきたのである。
『ぎゃっ、ぐうっ』
背中や首筋を刺し貫かれた歩兵は、たちまち絶命する者もあれば、痛みに叫ぶ者もいる。敵の姿が見えないので、誰もが浮き足立って右往左往するだけで、もはや上へ進む者はなかった。だが戻ろうとしても仲間が邪魔で、将棋倒しに倒れる者もあり、新皇軍は大混乱に陥った。
もちろん、矢は谷の両側の尾根に潜む秀郷軍が放ったものである。この辺りは北東から南西に向かって伸びた主脈から、多くの小規模な谷が南の東山道方向へ下っていたが、その谷と谷の間のなだらかな尾根は、低いところは落葉樹で主脈に近い上のほうは椎や樫の常緑樹が多かった。秀郷軍の弓組は常緑樹の葉陰に隠れていたので、攻撃を効果的に行うには敵を谷の奥までおびき寄せる必要があったのである。
秀郷はこのいくさに当たって、敵をまず山間地に誘い込もうと考えた。将門軍の強さは、風評とはいえ、自軍の兵たちにも知れ渡っている。だがそれが事実だとしても、そう信じ込んでいては、たとえ互角の力があろうと、最初から負けに行くようなものであろう。ここは地の利を生かして、何とか兵たちに自信を持たせなければならないのである。
秀郷は貞盛らと主脈の上で将門軍を待った。敵の動きは予想を上回る速さで、二日目の昼には東山道に白い幟の動くのが認められた。幟のすぐ後ろは見事な鎧姿の武者で、黒光りした胴に朱色のシコロと袖が美々しく、それが新皇将門だと容易に判断された。
隊の構成は騎兵が二百騎、それに歩兵が続いたが、それも四百ほどで途切れてしまった。しばらくそのまま待ったが、後続する者は見えない。するとこの軍勢の兵力は六百ほどである。
「先頭におるは将門に違いござるまい。この数なら一気に攻め倒せましょう。藤太(秀郷)殿この機会は見逃せませぬぞ」と貞盛は珍しく自分から飛び出して行きそうになっている。
「待たれよ、貞盛殿。報告では敵の兵力はおよそ千二、三百。とすれば敵は陣立てを二つにして居るようじゃが、今攻めて後陣が間に合ったのでは得策でない。ここはしばらく様子を見て、それからでも遅くはない。とにかく緒戦は何としても勝たねばならぬのでな」
老練な秀郷らしい落ち着きである。それに此処は彼の庭のようなもの、貞盛には従うしか仕方がなかった。
秀郷は弓組を三筋の尾根に潜ませ、谷にはおとりの兵を身軽にして配置し、じっと敵の後続を待った。一時(二時間)近く経って、予想通り敵が姿を現したとき、
「藤太殿のお見込みどおり現れましたな」と少々待ちくたびれていた貞盛と為憲は感嘆の声を上げたが、秀郷は軽く頷いただけで近くに控えていた武者に指令を与えた。それはわざと注意を引いて、敵を谷間に引き込めというのであった。
藤原玄茂率いる新皇軍の後続部隊は、谷間から東山道方向へ逃げようと恐慌を来し、秀郷軍は弓に代わって歩兵が逆襲に転じて攻め下って行く。谷下では味方の騎馬に蹴殺される歩兵もあれば、落馬して徒で逃げ出す武者もあった。
玄茂は最後尾にいたので、腹心の武者と歩兵らを集めて西に向かって駆けた。まずは将門に事態を知らせるのが急務であった。
新皇軍の後続部隊は平地へ出るまでに相当数の死者を出し、その中には将門腹心の郎党・多治経明も含まれていた。多治は馬を捨てて谷を攻め上りながら、部下の兵を励ましていたが、兵とともに退却した際に敵兵の槍に倒れたのである。残った者は必死に逃げ惑い、勢いに乗じた秀郷軍の苛烈な攻撃を避けようと、八方に散ってもはや軍としての形を成さぬ有様であった。
坂上遂高は平地に逃げ延びると、散った兵を可能な限り集めさせ、漸く態勢を整えることが出来たが、その数は三百に満たなかった。
夜になって坂上が戦場近くへ戻ってみると、草原に多くの焚火が眺められ、そこには先発の将門隊と合流した玄茂の手勢が集結していた。
将門は玄茂の知らせで急遽引き返してきたのだが、馬の使えない山地での戦いを不利と見て、谷を遡上して攻撃するのを控えていたのである。将門は坂上を見ると、
「おお、そなたは無事であったか。案じておったところじゃ。多治殿はいかがいたした?」と訊いた。目は焚火にぎらりと光ったが、その声は案外落ち着いていた。
「しかととは申せませぬが、討死なされたものと・・・・」
将門はそれを聞くと、
「そうか、それは残念であった。朝になったら遺骸を捜させてくれぬか。見つからぬかも知れぬが・・・」と静かにそう言って後は黙った。
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