新皇将門、巡幸す
小次郎が興世王や藤原玄茂の『新皇宣言』の演出に乗ったのは、酒宴の気軽さからだったが、坂東の覇者としての力に見合った権威の必要も感じていた。だがそれは国守らを束ね、関八州を統べることが可能であれば十分で、それ以上を望んでいたわけではなかったのである。
間もなくして小次郎は、上野国府から太政大臣藤原忠平に宛て上申書を提出した。その内容は、平良兼や貞盛らとの戦いの経緯、常陸国府攻略などについての弁明、下野及び上野国の征圧などを報告し、お上として自分を坂東の覇者として認めて貰えないだろうか、という虫の良い願いを含んだ、少々支離滅裂なものであった。忠平公がかつての主君であったからか、文面には甘えが感じられるが、自分が新皇を宣言したことなどは一切書いておらず、旧縁に縋って朝廷との間のとりなしを頼んでいるだけであった。
小次郎は国庁での酒宴の席で、我ら兄弟は皇孫であるから、天運あれば帝位につくも不思議でなかろう、と四郎には言ったが、『新皇即位』をそのままに信じていたわけではなかった。しかし正殿での神懸りの儀式を目撃した農兵たちからは、『新皇即位』が事実として理解され、瞬く間に世間に広まっていったのである。
十二月下旬、小次郎は五千の兵を従え、武蔵、相模を次々に巡撫したが、何ら抵抗を受けることなく国印と鍵を入手することが出来た。どこでも民衆は小次郎を一目見ようと集まり、「平新皇万歳」を叫ぶ者が多数に上った。坂東の民衆の中には、小次郎のこの旅を『新天皇の巡幸』と受け取る者が多かったのである。これで上総と安房を除く関六州の覇権を手にして、事実上坂東の支配者となり、もはや正面切って敵対するような勢力は、どこにも見当たらなかった。
小次郎は天慶三年の正月を本拠の猿島郡石井で迎えたが、その頃には周辺の者が「新皇」として彼に接することが普通になっていた。そしてそういうことに慣れてくると、彼自身の中にも次第にその自覚が芽生えてきた。しかし側近や郎党、伴類にさえ、天皇とはどういう存在か、具体的な知識を持つ者などある筈もないから、多分に心情的なものに過ぎなかったが、自分たちの組織に誇りを持つことにはなったのである。
前年秋からの将門党の所業は、都へ逃げ帰った国司らによって既にお上に伝えられていたが、十二月下旬には信濃国府より「将門謀反」が正式に報告された。慌てた朝廷では、大寺社に将門の調伏・呪詛を命じる一方、年明けには東海道、東山道の追捕使を任命、さらに十一日に至って「恩賞付きの将門追討」を呼びかけた。そして十九日には藤原忠文を征夷大将軍とする、追討軍の編成が公表されたのである。
このような都の情勢が伝えられるにつれ、お上との妥協は無理らしい、という気持ちが小次郎の中で大きくなってきた。それなら「新皇」を自ら標榜し、坂東が一丸となって朝廷と戦うための、「旗印」となるべきではないか、と彼は思った。『すでに世間は己を坂東の覇者と認めているはずだ』
小次郎は未踏の上総、安房に対し、国守として任命した興世王と文屋好立を向かわせ、自分は五千の兵とともに、宿敵平貞盛を追って常陸北部へ赴くことにした。もし彼が石井に腰を据えて天下を睥睨していたら、まともに対抗できる者は、この時の坂東には一人もなかったのだが、貞盛を討ち取らないでは完全な制覇とは呼べない、という思いをどうしても消すことができなかったのである。
常陸の那珂郡には貞盛の館があり、隣の久慈郡に亘って伴類も多く、常陸国府の戦いから逃れた後、藤原為憲とともにこの地方に潜んでいるらしい、という情報は高い信憑性を感じさせた。
一月中旬、小次郎は藤原玄茂と玄明、多治経明、坂上遂高らを伴って常陸へ発った。そこでも「新皇」の評判は高く、小次郎の行くところはどこでも民衆が垣を作った。そこには新奇なものへの興味とともに、この世の閉塞感を打ち破ってくれるかもしれない、という人々の彼への期待感があった。
変化を求めるのはこの地の豪族、私営田領主、豪農などの支配層も同様だったが、「新皇」に乗るのが果たして得策なのか、という点では結論を出すことが出来ないでいた。彼らには失うものが多くあったのだ。
『このところの将門殿の勢威には驚かされるが、今度は新皇を名乗られたそうじゃ』
『これでお上との戦は避けられまい。坂東者としては胸がすくが、果たしてどのような結末になるかのう』
『やすやすと負けはせんじゃろうが、どのようにして折り合いを付けるか、それが難しかろう』
『貞盛殿はどうされるのか、それも気がかりでござる』
こういう話があちらこちらで交わされたが、小次郎一行を迎えると皆大歓迎であった。本心はどうであれ、新皇を名乗るほどの実力者に対して、他にどのような態度があり得ただろうか。歓待して恭順の意を表し、早く引き上げてもらうしかなかっただろう。
小次郎は那珂郡と久慈郡の有力者の館に滞在し、藤原玄茂、多治や坂上らに命じて一帯を探索させた。それは二週間近く続いたが、貞盛と為憲の消息はまったく掴めなかった。僅かに、貞盛の妻と称する女と、同行の源扶ゆかりの女を兵が捕らえただけであった。そして兵たちはいくさの際のように、それらの女たちを陵辱してしまった。小次郎は事後に報告を受けて激怒したが、それはかつて妻・志乃と桔梗、愛児イネを伯父・良兼に殺された過去から、自分は女や子供などの弱者を絶対に虐待しまい、と決意していたからだ。それに新皇たる自分の兵の行為としても我慢のならないものであった。
彼は女たちに丁寧に謝罪し、その居所へと送って行かせた。女たちは去り際、小次郎に面会して礼を述べたが、その挙止は彼の心を慰めた。田舎の女房たちではあるが、都風を見習った優雅な立ち居振る舞いは、家族を失って以来殺風景な身辺に暮らしてきた小次郎には十分に魅惑的であった。
一月も尽きようとする頃、小次郎らは空しく下総の石井へ引き上げた。その途次には兵の多くをその出身地へ帰したので、帰り着いたときには総勢千名を下回るほどになっていた。貞盛討伐を諦めたわけではなかったが、多数の兵を留まらせることは、兵糧の確保だけでも相当な負担であり、明確な作戦計画のないままでは無駄なことであった。今や新皇として自他ともに許す存在となった小次郎に対して、公然と戦いを挑む者など坂東中を見回してもいるとは思われなかった。不思議なことに小次郎には、自分がいくさに負けて命を落とすかもしれない、という気がまるでしなかった。『己は何か特別な運気を背負っているのかも知れぬ』と彼はこの頃考え始めていたのである。
二月に入ると突然に貞盛の消息が伝えられた。下野の藤原秀郷に合流して、不次の賞(将門討伐に対する)が設けられたのを機に、小次郎との決着を付けようとしているらしい。
『秀郷の力を借りて己と戦おうとは、卑怯者の貞盛らしいわ』と小次郎は思った。この時の兵力は、豊田郡鎌輪の守備兵を加えても総勢千二百ほどに過ぎなかった。興世王と文屋好立は上総方面に、三郎将頼は弟将文とともに相模にあった。四郎将平は武蔵国秩父郡の知己の館に逗留していた。
指揮官としては多治経明、藤原玄茂、玄明、坂上遂高らがいたが、これまでの将門党の強さが自信となって、伴類への徴兵要請を不用とする意見が大勢であった。それに貞盛の頼りにしている秀郷はすでに還暦に近い年齢であり、殆ど誰も彼を脅威とはみなさなかったのである。
そうした中で多治経明は、用心として増兵の必要を訴えたが退けられた。多兵衛も不安を感じていたが、新皇となった小次郎には気後れするようになって、
「せめて四郎様にはお知らせした方がよろしいのでは」と漸くそう進言するのが精一杯だった。小次郎は古い側近の顔を優しく眺めたが、
「今は、あやつの顔など見たくはない。辛気臭いだけじゃ」と取り合わなかった。
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