常陸国府炎上


その日、柿岡の藤原玄茂の館では、当主の玄茂と為憲が差し向けた国司軍の武者三名とが、昼前から酒を酌み交わしていた。武者らは『己から目を離さなければ役目は果たせよう』と玄茂に言われ、反論できなかったのだ。普段なら面と向かって口を利くことも恐れ多い、常陸少掾殿の誘いを断ることなど、彼らに出来るわけがなかった。

武者らは五日前から各々一人ずつ従者を連れ、寒風の中、玄茂勢に何か動きがないか目を光らせていたが、それも念のためというので緊迫感がなく、行動は玄茂側に筒抜けだった。そこで館では、寒さに震える武者と従者を酒食で取り込むことが出来たのである。

藤原玄茂の一族は、彼の祖父の代に常陸に赴任し、筑波山の南東・柿岡に定着した国司を元としていた。彼の父も常陸国司を務め、その弟は兄の力で何とか行方郡に役職を得て、ついには郡司にまでなったが、その息の玄明は性格も災いして公的な仕事には縁がなかった。

坂東での一族は玄茂と玄明しかおらず、二人が結束しなければ介・惟幾及びその息・為憲と姻戚をもって結びついた貞盛らの勢力に呑み込まれかねない情勢であった。貞盛と組んだ為憲は、黙っていても柿岡へと触手を伸ばしてくるに違いない、と玄茂は予測していた。それなのに玄明が勝手に国府を相手に喧嘩を始めてしまったのである。

その頃、既に小次郎将門の勇名は玄茂の耳にも届いていたから、玄明が石井の館に匿われていると聞いたときには、なるほど懐の広い人物らしい、武蔵国の紛争を調停しただけのことはあるようだと思った。そしてもし将門が評判どおり、常陸軍を破るほどの実力者であれば、彼に一族の命運を託すこともあり得ようか、と玄茂は考えはじめていた。

常陸軍の編成が始まったとき、玄茂は病を口実に私兵の国軍への合流を拒んだ。敵側に身内の玄明がいるのだから、中立もやむなしと国府側も認めるだろうと考えたからだが、貞盛は惟幾を通じて執拗に合流を迫ってきた。だが玄茂はいくら責められようと、事の成り行きがどうなろうと、じっと柿岡の館に籠っている積りであった。

国府と館の間はおよそ二里で、大人の足なら往復しても一時(二時間)は掛からない距離である。玄茂は下総軍の動静を探るために、十日ほど前から人を出していたが、この日の国府での合戦については、その時報告を受けたばかりだった。

「下総軍は皆国庁内に追い込まれてしまい、常陸軍が門前を固めている模様。おそらく下総軍は夜戦で決着を付けるつもりと思われます」

 玄茂が厠へ行くかのように宴の間から出てくると、従兵の一人が小声でそう告げた。

 物見の言う通りなら、下総軍は圧倒的に不利な情勢である。数でも勝る常陸軍が挟撃作戦を成功させ、完全に包囲しているというのだから、いかに当千と言われる将門の精兵でも、今度ばかりは勝利するのは難しかろう。それにしても勇猛果敢で知られた将門が、このように容易に破れ去ってしまうのか、と彼には意外であった。

玄茂は下総軍側として参戦することも考えていたが、大々的に募兵することが出来ない以上、常傭兵力の三百余りではどれほどの貢献ができるものかと思い止まっていたのだ。それに常陸国府側の勝利に終わるということもあり得るわけで、ここはじっと身を潜めているのが最良の選択かも知れない、とその心中は揺れていたのである。

報告によれば、両軍の死闘の開始までは半時ほどと思われたが、待ち構える敵の前に飛び出さざるを得ない下総軍は圧倒的に不利であった。

『さあどうする。黙って見ているか。それとも常陸軍を撹乱出来れば、白兵戦になって下総軍にも勝ち目があるのか?よしっ、ひとつやってみよう』

 玄茂は酔いを装いながら、常陸軍の背後に回って密かに火を放つよう従兵に命じた。暗くなるまではもう一時もなかった。従兵は農民姿をした若者に指示を与え、国府へと急がせたのである。


小次郎らが町の手前七、八町の所にある小谷に至ったのは、日没まであと四半時ほどで辺りが薄暗くなりかけた頃であった。そこでは谷の水が歩いて渡る兵の腹を冷え冷えと濡らした。

小次郎は腹心・多兵衛に物見を出させ、その報告で動くことにし、一隊を谷中に留めた。物見が戻ったときには、そろそろ足元が見えにくくなっていた。その報告では、味方の兵の姿はどこにもなく、敵が国庁の周りを囲んで篝火を盛んに焚いている。どうも味方は国庁の中に篭城しているらしい、というのであった。

「それに間違いはあるまい。良いか敵が気づくまでは暗さを味方に静かに行く。気づかれたときには大声を出して突っ込むぞ。こちらの人数を多く見せよ。風には気を付けよ、風下に立ってはならぬ、分かったか?」

 小次郎はそう言うと先頭に立って谷を出た。引かれた馬がいななきそうに荒い息を立てたので、彼は慌てて鼻に手をやりそれから首筋を撫でた。

町まで一町余りの所で日が暮れた。前方には篝火が燃えていて、国庁の場所は明らかだった。小次郎はそこで騎乗を命じて自ら先頭を進んだが、常陸軍はまだ気づいていなかった。気づいた者があったとしても、まさか敵とは思わなかったであろう。

国庁は一辺が四町の環濠に囲まれ、その外縁には寺社が三つほどあった。常陸軍の兵は国庁の周囲に配置されていたが、環濠の外からそちらを凝視しているらしい兵も多数に上った。それらの兵がいつ小次郎らに気づいてもおかしくない両者の距離であった。

小次郎が突撃命令を発しようとした正にその時、左手の方角から『火事だ』という声が上がった。

それは藤原玄茂配下の者の仕業で、密命を受けると急ぎ柿岡から国府に入り、八幡神社裏の藪に杉の葉を集めて放火したのであった。杉の落葉は焚き付けになるくらい良く燃えるが、そこへ空っ風が吹き込んだから、火は滑るように枯草の上を走ったかと思うと、たちまち薪小屋の藁屋根に燃え移り、それから風に煽られた炎が松の枝を燃やし、バチバチと大きな音を立て始めた。境内にいてその音に気づいた常陸軍兵士の騒ぎ声が、突撃しようとしていた小次郎らに聞こえてきたのであった。

『火を消せ、大事だぞ』という声は多く上がったが、乾き切ったところへの強風で手の付けようはなかった。

火は常陸軍の背後を東へ走り、たちまち密集した町並みへと乗り移って行った。家々は良く乾いた薪のように燃え、風に煽られた火炎は空高く立ち上り、ごうごうとすさまじい音を響き渡らせた。


国庁内から突撃の時を窺っていた下総軍にも、外に異変が起きているのが感じられてきた。それが何かははっきりしなかったが、反撃すべき機会らしいとは、三郎や四郎らにも考えられた。

「なぜ外が騒がしいのか分からぬが、己は今が出て行く好機だと思うがどうだ、四郎?」

「誰か火でも放ったか、兄者が心配して来てくれたのかも知れぬ。とにかくここは一気に出るしかありますまい」

 三郎に四郎も同調し、多治、坂上、文屋らも無言で同意した。

 下総軍が東門から風を背にして突っ込んで行った時、常陸軍は背後の火事に浮き足立って、楯を風に抗して立てているのが精一杯だった。火炎からはまだ一町近く離れていたから、後ろを気にする必要は全くなかったのだが、自分たちの町が燃えながら発する恐ろしい音響に、常陸兵は平静を保っていられなかったのである。

突撃を中止して様子を窺っていた小次郎らは、国庁の外で始まった戦闘を見て一斉に攻撃に移った。小次郎隊は僅か三十の小勢であったが、火事を背負いながら戦っていた常陸勢に大きな混乱を与えた。思いがけない敵の出現に動揺しているところへ、風に乗って飛んでくる矢の脅威にはなす術がなく、防戦に回った常陸兵の中には、まるで手足を動かすことを忘れてしまったかのような者もいて、指揮官の騎馬武者の怒鳴り声ももはや兵たちには届かなかった。

小次郎隊は戦闘中も風を意識することを忘れていなかった。左手奥の八幡神社から常陸兵の押し出してくるのが分かったから、敵に背中を取られぬよう用心する必要があった。三郎らの軍が白兵戦に持ち込んでしまえば、それを横から援護するだけで充分であろう、と小次郎は判断していたのである。

下総軍は門外へ出てしまうと、混乱した敵を弓と槍で容易に押すことができた。背後からは火炎の立てる音が不気味に響き、左手からは援軍らしい一隊の放つ矢のするどく風を切る音が聞こえてくる。中空は赤黒い煙に満ち、この世ならぬ情景を現出していた。


環濠の外で馬を連ねて指揮を執っていた貞盛と為憲は、兵を次々前線へと向かわせていたが、下総軍との白兵戦が不利な情勢であることに苛立っていた。

「早く国庁に火を放つべきであった。さすれば小次郎を討ち取れたかも知れぬ」

 貞盛はさすがに取り乱してはいないが、口惜しさは歯噛みするほどであった。

「まさか国衙を焼き払うなど。・・・・これからどうしたらよろしいものでしょう?」

 為憲は急に戦況が怪しくなってきた上に、火災が自分たちの権威も財産も全部焼き尽くしそうな勢いであることに衝撃を受け、もはや冷静な判断力をなくしていた。

「これは少掾・玄茂の裏切りではあるまいな?他に心当たりはござらんか?為憲殿」

 貞盛は大声でそう訊いたが、頭ではほかの事を考えていた。

「まさかそのような。じゃが他にはなにも・・・・」と為憲は漸くそう答えた。

その時一本の矢が風に乗って飛んでくると、為憲の鎧の錣(しころ)に当たって落ちた。彼は刀を抜くと風上を振り返って見た。下総軍が次第に迫って来るらしく、押された常陸兵が戻されつつあった。そして、

『我は小次郎将門である、貞盛出て来て勝負せよ』という声を風が運んできた。

 それを聞くと貞盛は馬を八幡神社の方へ向け、為憲に続くように手招きした。神社は風上のため火炎からは免れ、暗い境内からは杉の木立の上に赤っぽい空が覗かれた。そこにはまだ予備の兵が二百ほどいて、硬い表情で国庁の方を凝視していた。

「この戦、もはや我らに勝ち目はない。いさぎよく退却して又の機会を待とう、為憲殿」

 貞盛がそう言うと、為憲は予期せぬ提案に瞬間言葉を失ったが、やっとこう言った。

「もう諦めるのでござるか?数でも我らが優っておる、盛り返すことも出来ましょう」

「おことは将門の恐ろしさを知らぬ。町を焼かれて動揺する兵に、下総軍を破る力は残っておるまい。あ奴には命をずっと狙われてきたが、己は何としてでも生き延びて、決して坂東を奴の物にはさせぬつもりなのだ」

 そう言うと貞盛は国分寺の方角へ馬を向け、為憲は仕方なくその後に続いた。それを見ていた常陸軍の騎馬武者は、一瞬あっけに取られたが、退却の命令と判断して兵に国分寺へ向かうよう指示したのである。

八幡神社から国分寺までは六町ほどで、その塀の外には警備の兵と逃げ出してきた多数の住民たちが、不安げに燃えている町の方を眺めている。

「貞盛殿どこへ行かれるのか?」

 為憲の頭の中には、一旦退却して再度国分寺で陣を立て直す、というのも一策ではないかと思っていたので、貞盛が門前からどんどん東の方へ向かうので慌てたのである。

「西浦へ逃れるのだ、今はそれしかござるまい」

 そう言われても、為憲にはそうあっさりと国府を捨てて逃げる気にはなれない。常陸介の息として、ここは自分たちの都だと思っていたからである。

「我らに国府を見捨てよというのでござるか?常陸介を、父上を置き去りにして・・・・」

「為憲殿、ここに残って戦うのも立派なことじゃが、おことや己が死ねば、誰が将門や玄明を討ってくれるというのか。たとえ戦に負けても、将さえ生き延びれば必ず挽回する機会は来るもの。兵の代わりなどいくらもあるでな。常陸介殿にはここを見捨てることは出来まいが、将門は惟幾殿が抵抗せぬ限り命を奪うことはあるまい。あ奴はそういう男じゃ。さあ急ごう」

 言い終わると貞盛は、国分寺の森の東に広がる田圃の方へ馬首を向けた。為憲は色々な想いが頭の中にあり、決断の付かぬまま貞盛の後を追っていた。

乾いてひび割れた棚田を八、九段下りると川に出た。そこは町と西浦を結ぶ水路の上流で、岸には舟が二艘もやってあった。そばに男が三人、まるで物のようにうずくまっていた。貞盛の配下であった。

「ひとまず那珂か久慈辺りへ行こう、己の知己が多いから何とかなる」

 貞盛にそう言われるまま、為憲は無言で舟に乗った。もはや従うほかはあるまい、と彼は漸く覚悟を決めたのである。

舟が町に近づくに従って、赤黒い煙が闇に浮かび、火炎によって強められた風にそれが煽られ、物の燃えているらしいバチバチいう音が聞こえてきた。空中には何か黒い小さな物が多量に舞い、焦げた臭いが鼻を突いた。

しばらくすると舟は町を抜けて西浦へ出、それから風に波立った水の上を揺れながら闇に消えていった。


八幡神社の境内にいた常陸兵は、貞盛らの動きを知って続々と国分寺へ移動し始め、総崩れになった前線から逃れてそれに加わる者も多かった。

国庁の北側では下総軍が全く優勢になり、敵を求めて土塀沿いに南側へ突進する兵たちには勢いがあった。国庁を包囲していた常陸軍はすでに分断されていたので、南面が持ち場の兵たちはその勢いに押されるように、土手を転がりながら河原へ逃げだす有様であった。

環濠の内は下総軍によって制圧され、辺りはすさまじい火炎と風の立てる音に占領されてしまった。火事は益々広がり、町の九町四方全部を焼き尽くさなければ治まらぬ勢いで、兵たちは言葉もなく立ち尽くし、赤黒い空を見上げるばかりであった。やがて国庁の塀の中からも煙が上がり、そのうちに炎が上がった。火種が風に乗って飛んできたのか、或いは誰かが放火したのかもしれなかった。

国庁が炎上すると、下総軍は煙にせかされるように風上へと向かい、それから自然に八幡神社に集まってきた。三郎と四郎、多治らはそこに小次郎らの一隊を発見し、思わず笑顔で頷きあった。

「やはり兄者であったか、お陰で命拾いしたのう四郎、さあ行こう」

 拝殿の正面に玄明と一緒にいた小次郎は、近づいてくる弟らを闇の中に見ていたが、

「おうっ、二人とも無事であったか。四郎、腕をやられたか、大事無いか?」と声を掛けた。

「和気殿と菅原殿が討ち死にされましたが、後は負傷者が少々。ところでこの火事は兄者がなされたので?」

 四郎は近づくとそう言った。

「そうではない。己にも分からぬ。藤原玄茂殿の指図とすれば合点がいくが、それらしい軍勢はおらぬようじゃ」

「おそらく伯父は監視されていたはずで、兵を動かすのは無理だったでしょう。それでも火を放つくらいは出来たかもしれませぬ」と玄明は言った。

「兄者、此度は敵の策に嵌ってしもうた、面目ない。じゃが貞盛らはどこにおるのか、国衙の方に姿はなかったが、兄者は気が付かれましたか?」

 三郎はそう訊いたが、小次郎にしてもそれが一番気になっていたことである。

「玄明殿の話では、敵は国分寺か国分尼寺辺りに集結しているらしい。今夜のうちに常陸介と貞盛らを抑えておこうと、お前たちの来るのを待っていたのじゃ」

 下総軍は三郎ら騎兵を先頭にして国分寺へ向かったが、途中には人影がなく、何の抵抗も受けずに門前に至った。門は閉じていて、辺りに人の姿はなかった。下総軍の来るのを知って、民衆は郊外へと逃げ去ったらしい。

声を上げると門はすぐ開かれ、境内に蝟集していた兵の中から、兜を脱いだ鎧武者が観念したように現れた。それは常陸軍の上兵で為憲の腹心であった。

武者の語ったところでは、貞盛と為憲は西浦へ舟で逃亡したという。そこにはまだ五百を越える兵がいたが、すでに戦意は捨てていた。指揮官の二人がいなくては、兵たちを戦闘に駆り立てられる筈がなかった。

「全く逃げ足の速い奴らじゃ。だが己は諦めはせぬぞ」と小次郎は口惜しがった。

常陸介は交替使とともに国分尼寺で確保され、兵たちは武装を解除され全員が放免された。

夜が明けても町はまだ燃えていた。藤原玄茂が朝のうちに小次郎を訪ねてきて、放火の顛末を語った。

「あの場合、火を放つしかなかったのでござる。どうかお許しくだされ」と玄茂は言ったが、彼にとって大きな賭けだったことは間違いない。

「いやいや、我が軍が勝てたのは全く玄茂殿のお陰じゃ。それに戦に火事は付き物でござるよ。常陸は豊かな国、復興が容易なのはご存知のことでありましょう」

 小次郎はそう答えたが、確かに火事の規模は想像を超えて大きかった。だが戦の結果は大勝利であり、目標へ向かっての一歩になったのは間違いなかった。

火は昼ごろまで燃え続け、後には焼け焦げた黒い棒杭の林を延々と広げた。戦とはいえ常陸国府と町をこれだけ徹底的に破壊してしまっては、もはや弁明の余地などないことは誰の目にも明らかだった。『いよいよ自分は引き返せない所まで来てしまったな』と小次郎は覚悟せざるを得なかった。

翌日小次郎は常陸国の象徴である印鎰(いんやく=国印と鍵)を手にすると、常陸介・惟幾と交替使の藤原定遠を連行して下総へ帰り、二人を幽閉したのである。

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