常陸国府の戦い


 十一月の下旬、辺りが霜枯れる中を小次郎将門の下総軍が石井を発った。騎兵歩兵合わせて総勢一千余人。指揮は三郎、四郎、多治、文屋に坂上の五名がとり、小次郎には多兵衛ら警護の三十名が付き、戦闘には出ないというのが申し合わせであった。

二日目の夕刻、全軍が土浦へ到着した。町は西からの寒風に晒されながらも、海産物、農産物が豊富で人影が濃く活気がある。だが千を越す兵の出現には、民衆は皆浮き足立って不安な顔を隠せなかった。

小次郎は玄明を呼んで、貞盛との交換について再確認した。常陸介とのその交渉が決裂するのを見越して、それをきっかけに攻撃に掛かろうというのであるが、万一相手方が交換を受け入れた場合のことも考慮しておかねばならない。それに対して、

「伯父玄茂の手前もあり、まず滅多なことは出来ぬと存ずるが、いざとなれば覚悟は出来ておりますゆえ、心配御無用でござる」と玄明は案外平気そうに答えた。

翌早朝、坂上遂高の指揮する先発隊が土浦を発ち、三里近く進んで国府の町を川越しに眺められる地点に至った。

常陸国府は筑波山の南東に広がる西浦(霞ヶ浦)に流れ込む恋瀬川の河口に位置し(現石岡市)、松林に囲まれた町の奥まったところには国分寺、国分尼寺が置かれていた。

丘の上からは、風で白く波立った浦の上の赤松林の中に、黄色い幟が林立して風にはためき、その間から人家の密集しているのが覗かれた。兵の数も相当らしく、蟻のように土手の上をうごめいているのが眺められた。

坂上はかねて用意の書状を、白旗を掲げた三名の歩兵に持たせてやった。その返事は聞かなくても分かっていたが、帰った兵は、

『馬鹿を言うな、玄明は大罪人だぞ、貞盛殿と交換などとは気違い沙汰じゃ。謀反人はそのような不埒を言わず、玄明を置いてさっさと猿島へ帰れ、とそう言え』と口頭でそのように言われたと報告した。

 その日の午後には、小次郎以下全軍が国府を望む対岸の丘上に陣取った。風が当たり前のように西から吹いて、攻め込むには悪くない形勢である。

先陣は坂上が百名を従えて、町の上流十三町(約1.4キロ)ほどの浅瀬を渡って行くことになった。潮が満ちると浦の水がその辺りまでくることがあるが、その時は折り良く干潮であった。草が枯れて、どこからも見晴らしの良い河原だったが、常陸軍は敵の近づくのを待っているらしく、町を守る構えを崩さなかった。もっともこの時戦えば、坂上隊には西風が有利に働いただろう。

十騎ほどの騎兵を先頭に坂上隊が対岸に着くと、第二陣の三郎隊がそれに続くべく河原へ降りていった。その時川の向こうで、わあっという声が上がった。渡河地点に流れ込む小川の丘上に、常陸軍が待ち伏せしていたのである。半数ほどが渡り終えた坂上隊に、頭上から敵の矢が降り注ぎ、馬をやられて落ちる者、矢に斃れる歩兵が続出した。

「よしっ、もっと上から渡るぞ、ついて来い」

 そう言うと三郎は、一気に馬を川の中へ乗り入れた。すぐに騎兵と歩兵が後を追い、途中でうろたえていた坂上隊の歩兵もそれに続いた。見ていた小次郎が声を上げた。

「文屋、三郎に続け。多治と四郎は牽制しているうちに渡って坂上に合流せい、急げ」

常陸軍の潜むのはなだらかな丘上で、その松林の中に陣を張っていた。三郎は風上へ回り込んだが、十七、八尺の標高差が敵に有利な展開を許し、なかなか攻め上がることが出来なかった。それでも矢は風に乗って敵の上まで届いていると思われた。

坂上隊は二十名ほどの犠牲者を出したが、歩兵が小川の岸に取り付き、何とか敵の陣まで登っていこうとしていた。丘上の常陸軍はまだ負傷者もほとんど出していなかったが、後方からの攻撃を受けて浮き足立ってきた。風上から三郎と文屋の兵が放つ矢が効果的で、常陸軍の攻撃が弱まったのを見ると、四郎と多治の兵たちは素早く渡河してしまった。

土手に上がると四郎は上兵に命令し、東側から歩兵を丘へ突撃させた。同時に西からは三郎隊が登って来たので、常陸軍の兵たちは必死に丘から逃げ降りようと、殆んど何の抵抗もせずに消えてしまい、丘は簡単に占領された。

短い冬の日が傾いて夕暮れが迫ってきたが、風は依然として治まる気配がなかった。下総軍と町を守る常陸軍との距離は十三町ほどで、途中に浅い谷があるものの、あとは柳と赤松の生えた平坦な地形である。それに林の下草は枯れ切って進軍は容易と思われた。

だが不思議なのは、小次郎軍が渡河を終了させたというのに、町を守る常陸軍の動きには変化が見えないことであった。

「変だな、妙に落ち着いているようじゃが?」と四郎が言った。

「夜戦になれば有利だと思っているのでは?」

 文屋がそういうと、

「そうかもしれんな、暗くなるまであとどの位ある?半時(今の一時間)か?」と三郎が言った。

「いや、まだ一時ちかくはある。先陣は我らが役目、お先に参る」

 坂上遂高がそう言うと、返事も待たずに馬に跨って自分の隊の方へ駆けていった。

「よしっ、己が続くぞ、明るいうちが勝負だ」

 三郎がそう言って自分の馬の方へ急ぐのを見ると、四郎も多治にしても動かないわけにはいかない。ゆっくり考えている余裕などないのは自明の理であった。

下総軍は坂上隊を先頭にして、全軍一千弱の兵で国府の町へ押し寄せた。途中の谷は高低差が三十尺近くあったが、水深が三尺ほどで流れもゆるく、渡るのにさしたる苦労はなかった。土埃と枯れ草が西風に巻き上げられる中を、怒号と足音と馬の蹄の音を轟かせて苦もなく進撃して行ったが、町を背にした常陸軍は敵が三町ほどに近づいても、じっと攻撃の瞬間を待つかのように動かなかった。

坂上隊の騎兵たちは敵から二町ほどに近づくと、次々と馬上で弓に矢を番えはじめた。追い風に乗って矢が届く距離まで来ていたのである。すると敵陣に動きがあった。松林にぎっしり詰めていた兵たちが、構えた槍を担ぎながら素早く退却していく。

「敵は逃げる気だぞ、それっ突っ込め。己に続け」

 先頭を切る騎馬武者の怒鳴り声は高かったが、一同の上げる鬨の声はそれより一段と大きかった。

町は土手上の松林ではじまり、すぐ奥には周囲十六町ほどに環濠を巡らせた一角があり、その中心の二町四方を濠と土塀で囲ったところが国府の庁舎であった。町並みはその外濠から東側へ九町四方に亘って広がっている。

常陸兵はなぜか国庁さえ見捨てて後退して行く。門は閉ざされていたが、外には一人の衛士も見えなかった。

下総軍は環濠の内を、国庁を挟み込むように二手に分かれ、敵を目指して押していった。濠と土塀に囲まれた国庁の内部には、まるで人の気配がなかった。常陸軍は手ごたえなく、どんどん後退して行くばかりである。

「妙だな、敵はなぜ戦わぬのだ?」

 三郎がそう言いながら土塀に沿って進んでいると、前方で『わっ』という声が起こり、いきなり戦いが始まった。庁舎の裏へ出ると、環濠の外から常陸軍が盛んに矢を射てきたが、逆風で勢いがなかった。下総軍の矢は反対に風に乗り、敵陣へ飛んでいって楯に当たると大きな音を立てた。だが濠が常陸軍の守りを助けていた。

すると間もなく下総軍の後尾でも戦闘が起こった。国分寺の西方に位置する神社に潜んでいた常陸軍が、敵が風下になったのを見て攻撃を始めたのである。もちろん挟み撃ちは計画通りであった。

下総軍の後尾は歩兵ばかりで、風を味方につけた常陸軍の矢に倒れるものが続出し、戦意を挫かれたところへ槍の攻撃を受けたから、総崩れの危機に陥ってしまった。

報告を受けた三郎は、騎兵を三十騎後ろへ急派して隊の建て直しを図ったが、歩兵の乱れはなかなか元へは戻らなかった。次第に騎兵にも負傷者が出るとともに、風に押されるように後退が始まった。

四郎は国庁の中へ避難することを思いつき、身の軽いものを使って門を開けさせ、兵たちを逃げ込ませた。案の定、内部には人の影もない。逆風で弓も役立たず、皆そこへ逃げ込むしか仕方がなかった。三郎も文屋も多治も同じであった。負傷者はいうまでもなく死者も多く出た。騎馬武者では和気安則、菅原寛厚ら多数が斃れ、坂上は足を負傷し四郎は腕に矢を受けていた。

常陸軍は国庁を包囲して気勢を上げていたが、攻め入ってくる様子はなかった。四郎は敷地内を調査させたが、倉は全て空っぽで、武器も食料も運び出されていた。

「これで火でも掛けられては万事休すだぞ。こんなところで果てたのでは、兄者に申し訳が立たん。逃げ込んだりせずにいっそ戦った方が良かったのではないか、四郎?」

 三郎は目をぎらつかせて、いかにも口惜しそうな顔をしている。

「まさか国衙を焼くとは思えませぬが、暗くなれば風が止むかも知れませぬ。それにこうなっては、夜の方が却って戦いやすいのではござるまいか?」

 四郎が同意を求めるように、多治や文屋の顔を見ると、

「さよう、暗くなったら一気に押し出して、決戦を挑むしかござるまい」と多治はそう答えた。

 敷地内に逃げ込んだ兵の数は八百ほどに減って、負傷した者も少なくなかった。時折外から飛んでくる矢に当たって悲鳴を上げる者もいた。四郎は井戸の水を汲ませ、各自が携行している糒を摂らせて、兵を落ち着かせることにした。まだ完全に敗北したわけではなかった。ここは皆の戦意をなくさないことが重要ではないか。そう考えたのである。


 常陸軍の貞盛と為憲は、小次郎らが石井を発ったと知らされたときから、戦いが避けられぬと覚悟して、敵をどう迎え撃つのか検討を重ねていた。その結果が渡河する敵への待ち伏せであり、国庁区域での挟撃作戦であった。常陸介・惟幾は、戦は任せたというように、国分寺からさらに奥まった所にある国分尼寺へ、交替使・藤原定遠と共に隠れてしまっていたから、事実上の指揮権は年長の貞盛の手中にあった。

「さすがは貞盛殿、うまく挟み撃ちに出来ましたが、国庁に逃げ込んだ敵をどうするおつもりですかな?時を掛けて兵糧攻めにでも」

 環濠の北にある八幡神社に待機していた兵が、追い風を利用して敵を国庁内へ閉じ込めたことに若い為憲は興奮していた。

貞盛は三年前の戦で伯父たちと下野国府に逃げ込んだ時のことを思い出していた。今はちょうどその時と反対の立場であったが、『己は小次郎のように、情けを掛けたりはせぬ』と彼は思った。

「まだ安心は出来ぬ。小次郎の、将門の首を上げるまでは、決して気を抜かぬことでござる」

 貞盛は国庁内へ追い込んだ敵の中に、小次郎がいたかどうかを探らせたが、はっきりしたことは分からなかった。彼は使者を出して、小次郎と玄明の身柄を引き渡せば、他の者たちは命を保障する、と言ってやったが返事は拒否であった。結果は予想通りだったが、それで戦いの意志がはっきり固まった。

「ところで少掾殿の動きは見ておられような、どうも己には胡散臭くてならぬ」と彼は為憲に訊いた。

 貞盛は常陸介や為憲を通じて、少掾・藤原玄茂を幾度も軍議に参加させようとしたのだが、病を理由にしてついに出てこなかったのである。その抱える兵力は農兵主体の三百余りで、二千以上を召集可能な常陸軍には僅かな数だったが、情勢次第では戦略上の重要な役目を果たす存在になり得るし、何といっても玄茂は敵が匿っている罪人・藤原玄明の伯父に当たる人物なのである。

「柿岡へは三名貼り付けてあるゆえ、動けば知らせが参りましょう。あの田舎者め、じっと嵐の過ぎるのを待っているつもりらしい」

 為憲は玄茂を父親の部下として接し、その役人らしい体制順応的な姿を見ていたから、彼が甥の玄明が追捕されることに異議を差し挟まなかったのも不思議でなかった。代々この地に勢力を張り、国司としての地位も確保している以上、玄茂が敢えて体制に反旗を翻すことなどあろうはずがない、為憲にはそうとしか思われなかったのである。

「そうあって欲しいものだが。さあ為憲どの、敵は日が暮れるのを待っているかも知れぬ、国庁の門前を固めて反撃に備えなければなりませぬぞ」

 時は申の中刻で、空が光をなくすまでにはあと半時ほどあったが、神社の境内は杉の大木に覆われて既に暗かった。『四ヵ所の門前を全て固めよ』と為憲はすぐに指示を与えた。


国府の西方三十町(約3.3キロ)の丘上にいた小次郎らは、固唾を呑みながらじっと戦況を見ていた。渡河で少々梃子摺ったものの、その後は難なく町の中へ進攻して行ったように眺められたのだが、しばらく続いた戦闘が終わると妙に静かになってしまったのであった。味方の大奮闘で簡単に決着がついてしまったらしい、などという楽観論も出たが、それなら伝令が走ってくるはずである。しばらく見ていたが何の動きもなかった。

「何かあったに違いない、よしっ、行くぞ」

 小次郎が丘を降りるのに続いて、多兵衛と玄明、騎兵が三騎、二十五名の歩兵がすぐに後を追った。

 小次郎らが川を渡り終えた時には夕暮れが迫っていたが、まだ人の動きが分かるほどには光があったから、常陸軍の内に気づいたものがあるかもしれなかった。それでも騎兵は馬を降りて僅かな歩兵を先導し、風に鳴る松下の枯れ野を静かに進んでいった。

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