運命の一歩


旧主藤原忠平に主張を認められ、そのことに感激しつつ、小次郎はお上に代わって坂東を平和な国にするのだ、という思いをいっそう強くした。そしてその覚悟を世に示すかのような建物が、石井館から七町ほど北西へ隔たった場所に姿を現しつつあり、完成の暁にはそこが坂東の権威の中心となるかも知れぬ、と見る者に思わせるのであった。


前年以来平穏な日々が続き、夏の日に照らされ青々と茂った水稲が風に吹かれる六月、前途への夢に血を沸かす小次郎とは対照的に、病の床にあった良兼が力尽きるように世を去った。長兄国香亡き後、桓武平氏の長たらんと執念を燃やし続けた半生だったが、後を継いだ長子・久雅は上総の地を離れることなく、小次郎への敵意を見せることもなかった。


九月、稲の刈り取りが始まり、誰もが忙しい季節を迎えていた石井館に、武蔵権守・興世王の家族と従者の総勢三十名が、前触れもなく姿を見せて一同を驚かせた。

「真にもって面目ない。将門殿、どうか我らをお助けくだされ」

 興世王は情けない声でそう言ったが、血色の良い顔は余りしょげているようには見えなかった。

聞いてみるといかにも彼らしい、思慮分別とは無縁の行動であった。というのも争いの相手方にとって、興世王がいなくなることほど好都合はなかったからだ。

前年の三月に小次郎の調停によって、郡司・武蔵武芝と和解した興世王は、私営田領主らからの賄賂や、浮浪人、逃亡農民などを使役した開墾などによって、一年余りの間に小規模ながら荘園領主となっていた。

ところがこの年の五月、それまで遙任だった武蔵守・百済貞連が突然赴任してきたのである。理由は不明だが、お上が権守を信用せず彼を赴任させたのか、或いは都では貧乏から抜け出せないので、蓄財に励もうと自ら都落ちして来たのか、いずれにしても興世王にとっては頭の痛い事態であった。

だが権守として太守との関係を友好的に保ってさえいれば、お互いが国司としての役得を充分に享受出来るわけである。それに百済貞連の妻と興世王の妻とは実の姉妹であったから、源護の娘をそれぞれ娶った良兼と貞盛のように、二人が妻の一族によって結ばれるのが自然な成り行きだった。

都での二人の付き合いは、姻戚としての形式的であっさりとした情の籠らないものではあったが、といって敵意を含んだものでもなかった。だから興世王はそれを思い起こして、ここでも同じようなことになるだろう、と考えていた。

だが貞連は着任のお祝いを受けたときこそ、

「やっ、あなたもご無事でなにより」と言葉を返していたが、翌日からは顔を見せようともしなくなった。面会を申し込んでも拒絶され、役所の会議にも出席を許されない。なぜか貞連は、興世王をそのような状態に追い込んだのである。

 それに対して興世王は、権守を罷免されたわけではなかったから、事態を柳に風と受け流していたら、それほど悪くない境遇に留まっていられたはずである。しかし彼は上司ではあるが年下の貞連から、無視され馬鹿にされたことが我慢ならなかった。

『今に見ておれよ、きっと一泡吹かせてやろうぞ』と彼は密かに思った。荘園を経営していけば、何とか生きてはいけるだろう。

 興世王は、前年の春、将門と国府の桜の下で酒を酌み交わしたことを思い出した。颯爽として眼光鋭い若者は、彼とは同じ柏原帝(桓武天皇)の裔で血族であった。

『あれは何か大きな事をやりそうな漢じゃ。ここはひとつ将門に賭けてみるか』

 そう思うと俄かに将門に逢いたくなり、大した思案もなくやってきたのであった。

小次郎も頼られて悪い気はしない。それに自ら放り出したとはいえ、武蔵権守だった人物が伴類に加わるのは、将門党の権威を高めることにもなろう。こうして興世王は石井館の住人となったのである。


翌十月の初旬、貞盛の消息が伝えられ、小次郎は百騎ほどを連れて下野境まで出張ったが、又も逃走されて討つことが出来なかった。石井へ帰ってみると、常陸国鹿島郡の豪族と称する藤原玄明なる男が待っていた。

小次郎が留守の間に興世王と意気投合して、玄明はすっかり伴類気取りであった。彼の代わりに興世王が語ったところによると、常陸国に於ける介・藤原惟幾の暴政により、領民ことごとくが重税に苦しんでいる。玄明は正義感から惟幾に反旗を翻したが、武力で領内を抑えている惟幾の子・為憲が官庫の兵器を持ち出し、官兵を使って彼を討とうとしたので逃げてきたのだという。

「とにかく玄明殿には、同情いたすべき由ありと麻呂には思われるのじゃが」と興世王は締めくくった。

 玄明は話の終わるのを待っていたように、

「常陸介は将門殿の叔父と聞き及びます。とすれば貞盛殿も同様でござるが、長子・為憲と申すは『虎の威を借る狐』、これが貞盛殿と昵懇の間柄で、必ずや二人は合力し、いくさを挑んで参りましょう」と言った。

 貞盛と小次郎の因縁は、既に興世王から聞かされていたのである。小次郎は聞き終わっても何も言わなかった。こうして玄明も館の住人として黙認されたのである。

九世紀後半から東北人(俘囚)の反乱が出羽、陸奥、坂東でも起こり、地方の自立性が芽生え始めて、律令制による朝廷の統治は全国的にも弱体化しつつあった。中央は地方の実情を把握できず、徴税は班田制によらずに在地の国司に頼るようになった。国司は土豪などに協力を求めて徴税しようとするが、それを拒否するのも在地の有力者であり、そこにしばしば武力衝突が起こったのである。

この天慶二年(九三九年)の常陸介・惟幾と藤原玄明の争いも、徴税をめぐる国司と私営田領主の見解の相違がもたらしたものであった。

大小様々な武装勢力の全国的な勃興は、中央政府の弱体化を良いことに、武力衝突を繰り返しながら、海賊、群盗を各地に出現させた。伊予国司でありながら海賊となった、藤原純友への追捕状が出たのは、この年の十二月のことである。

坂東においては、特に相模、武蔵、上野に群盗の跋扈が甚だしく、国司に取り締まりの命が下された。出羽、陸奥では前年より俘囚の反乱が続いており、平惟扶が鎮撫将軍として赴任して行ったが、小次郎が下野境まで出張ったのは、貞盛が惟扶を頼って陸奥方面へ行こうとしている、と知らせる者がいたからであった。

このように朝廷の勢威が地に落ち、各地に反乱やそれに近い騒動が多発し、飢饉や疫病による厭世的な風潮が支配する中、元々反中央意識の強い坂東においては、この地方全体をまとめる実力者の出現を望む状況にあり、小次郎将門をそれに擬する者が少なくなかった。

藤原玄明が石井館に飛び込んできてから半月後、彼の息の掛かった農民が常陸の情報をもたらした。それによると、平貞盛が国府に入り、常陸介の息・為憲と合流したという。そして目的は不明だが、兵を集めていくさの準備をしているらしいということであった。

小次郎の周辺では、常陸介が逃亡した玄明を引き渡せと下総国府へ要求し、無視されたことから、武力を持って追捕しようとしているらしいという推測もされたが、狙いは案外小次郎将門その人なのではないかと言う者もいた。

早速軍議が開かれ、三郎、四郎ら兄弟、多治経明、坂上遂高、文屋好立の郎党に加え、豊田郡、相馬郡からも幾人かの土豪が駆けつけて来たが、石井のある猿島郡の有力者たちは、まだはっきりした意思を示さず、息を潜めている状態であった。

一同の中で興世王と玄明は新顔であり、好奇の目が集中するのは当然だったが、玄明が硬い表情を崩さなかったのに対して、興世王はいかにも貴人らしいおっとりとした風情でそ知らぬ顔をしていた。

議題はもちろん常陸介・維幾、その子為憲と平貞盛らの行っている、軍備増強への対抗策であった。常陸介が玄明の追捕を名目に進攻してくるとするなら、彼を匿っている小次郎とのいくさは避けられないし、反逆の汚名を着せられる可能性もあった。

一座が私語に満たされる中、最初に発言したのは四郎将平であった。

「申し訳ござらぬが、ここは玄明殿に石井から立ち退いてもらうほかはあるまいと存ずる。幸い武蔵国の秩父郡に私の知己が居ります故、そちらへ移って頂くことが出来申す」

 それを聞くと皆の声が大きくなった。合戦を避けるにはそれが効果的かもしれぬ、という声が上がった。すると、何を言う、いくさが怖くてどうする。そんな奴は仲間とは呼べぬ、と強気な者が反論する。緊張した顔の玄明の方を横目で見ながら、小声で話し合う者もいる。

「御一同待たれよ。ここで玄明殿をお助けできぬというのでは、我らは世間の笑い者となりますぞ」と声を上げたのは三郎であった。

興世王と並んで上座にいた小次郎は、対面する四郎を睨んで苦々しい顔をしていたが、三郎がそういうのを聞くと、

「己は坂東を住み良い国にしたいと御一同に申し上げたが、それにはこの玄明殿のように、助けを求める者を拒んでいては叶わぬことでござる。常陸介が攻めて来るなら受けて立つまでのこと。そう思うておるがどうかな?」と一同を見回すようにそう言った。

 小次郎の念頭には、先にお上へ送った坂東五ヶ国の解文があり、それは自分がこの地方において、全てが支持ではないにしても、少なくとも実力を認知されている証しだと考えられたから、それが自ずと自信のある態度になって現れていた。よってその言葉には説得力があり、強硬な意見のものもそうでない者も、一様に納得したような表情になったが、その中では一人四郎だけが困った顔であった。

一座が少し落ち着いてきたところで、興世王は隣の小次郎にこう語りかけた。

「こうなれば惟幾殿が攻め込んでくるのは必定、どうかな先にこちらから常陸へ繰り出しては?」

 小次郎は一瞬目を剥いたが、考え込む顔になった。すると興世王が続けた。

「名目は玄明殿と貞盛殿の交換、というのではいかがかな?どうせ交渉は決裂するに決まっておる故、先手を打って攻撃ができるのではありませぬか?」

「確かに貞盛と為憲相手では合戦は避けられまい。だが国府を攻めるというのでは、我らは逆賊となるほかはござらんが・・・・」

「なに、どちらにしても敵は将門殿を謀反人にする積もりじゃろうし、お上にその真偽を見極める力はもはやござらん。坂東をひとつにまとめるため、今や毒を食らう覚悟が必要と麻呂には思われるのですがな」

 興世王は全くいくさというものを知らなかったが、どうせなら遠くで行われる方が嬉しかったのである。

小次郎はそう言われてみると、はっきりとは反論が出来なかった。なぜなら館の北に彼が作りつつある建物は、国府の庁舎の様式を採りながら、規模においてはそれを上回り、さらに兵舎、官舎、厩舎、広大な馬場と練兵場を併設する予定であった。それが坂東の覇権を目指すという意志の表明でなくて何であろう。そしてその夢を実現するためには、いずれ一度は反逆者の名に甘んずる他はないのである。

『そうか、遅かれ早かれどこかで一線を越えねばならぬとは分かっていたが、今がその時かもしれぬ。宿敵貞盛を倒さねば大願成就もあり得ぬのだ』と小次郎は思った。彼は新しい館と関連施設が完成するのを待って、坂東八カ国制覇の声を上げる積りであったが、常陸介とのこの戦いをその烽火にしよう、とこの時決意を固めたのである。

 小次郎は興世王に頷いて見せると、それから一座へ向かって大きな声で語りかけた。

「御一同、良く聞いて貰いたい。己は館の北に今色々な物を作らせておるが、それらは皆どこへ出しても恥ずかしくないものじゃ。この小次郎には大望がござるが、天運有ってもし坂東をひとつにまとめることが出来たなら、その時にはここが我らの国府となるということじゃ。じゃが受身のいくさばかりしていたのでは、何十年掛かっても夢を果すことはできぬであろう。そこで己はたった今、こちらから常陸へ出て行こうと決意した。おそらくは国賊の誹りを免れぬが、それはこの小次郎が引き受けよう。だが南海の海賊・藤原純友などと同じではないぞ。我らには坂東を『まほろば』にするという大義があるのでな。そこでじゃ、己の考えに同意できぬとなれば、それもいたし方ござらんが、明朝までに席を空けて頂きたいと存ずる」

 小次郎が言い終わると、しばらくは口を利く者がなかったが、やがて静まり返っていた一座にも話し声が戻った。そして頷き合いながら笑う姿が見られた。石井の館に移ってからの様子から、誰もが小次郎は何か強い意志を持って先行きを見ているらしい、と感じていたので、いつかはこういう日の来ることを予想する者が少なくなかったのである。

「己はどこまでも将門殿に付いて参ろうと思うており申す」

「無論のことじゃ」

「己もじゃ」

 そういう声を聞きながら、四郎は諦めたのか案外平気な顔をしていた。三郎は多治や文屋といった家人たちと、上気した顔で話し合い、その後ろにいた藤原玄明は相変わらず硬い表情をしていた。興世王は髭を捻りながら微笑し、小次郎は重大な決断をした後の強い目の光を放っていた。

その夜に石井の館を去ったのは、国司や郡司と親交のある土豪など四名ほどで、その者たちにしても心情的には小次郎を敵対視しているわけではなく、なるべく権威に逆らうことは避けたほうが良かろうというのであった。


小次郎は軍議に於いて重大な決意を披瀝したが、それを実現する具体的な計画が頭の中にあったわけではなく、先行きの見通しはぼんやりしたものに過ぎなかった。彼には人を惹きつけ引っ張っていく力は具わっていたが、生来まっすぐな性格で、権謀術数どころか戦略にさえ通じているとは言えない男なのだ。目指すべき目標ははっきりしていたが、そこへ至る道筋や直面する問題とその対処などに思案をめぐらすことなど、元々出来ない相談であった。

だが一歩を踏み出してしまった以上、一族郎党と伴類の命運に責任を負わねばならないのである。軍議の後、終日小次郎は考えこんでいたが、夜になると諦めて三郎と四郎、多治や文屋の家人たち、興世王を召集した。

弟の三郎将頼は単純で小次郎に似ていたが、菅原景行の塾で学んだことのある四郎将平は、大局的で多角的な視点を持ち合わせていた。ただ考えすぎて優柔不断に陥ることがあり、それが小次郎には気に入らないところであった。家人の中では多治経明が年長者らしい慎重な意見を持っていた。さらに興世王の博識と独自な考え方を加えて、将門党がこれからどのようになってゆくのか、その姿を小次郎なりに予想しておきたいと思ったのである。

「己の考えは既に申したとおりじゃが、この先我らはどうすべきか、一同の考えておることを知りたいと思っての。ただし四郎、止めろというのはなしだ、分かったか?」

 小次郎はこう切り出してから、四郎に釘を刺した。

「兄者の決意を伺った上は、いまさら異議など申せませぬ。どのような道が最善か考えるだけでござる」と四郎は落ち着いてそう言った。

「まず常陸を散々に破り、その知らせが届いた頃に下野へ向かえば、都育ちの国司殿はとてもいくさどころではござるまい」

 三郎は血の気の多い赤ら顔を光らせている。

「下野には藤原秀郷殿がおられます。ご年配でもあり、おそらく高みの見物じゃと思われるが、書状を送っておくのがよろしいかと存ずる」と多治経明が三郎を補足した。

「いくさはそれで良いが、後で忠平公に何と申せばよいかのう?」

 小次郎には、いくさに負けるかもしれないなどという考えは最初からなかった。唯一の心配はお上との交渉で、自分の大義をどう理解してもらうか、だけであった。彼の頼りは摂政の忠平が自分を好意的に見てくれることであり、武蔵武芝事件を収めた功績がお上に評価されているらしい、という風聞には大いに勇気付けられていた。

「坂東八カ国がひとつにまとまれば、兄者を太守とするよう朝廷に請願することになるでしょう。この地が平和裡に治まるとなれば、摂政殿にとっても悪いことではないはず」

 四郎はそう言って、同意を求めるように興世王の方を見た。

「さよう、今のお上の力では陸奥や出羽の騒動も手に余る有様、将門殿は功労者となりましょうな」と王は自信たっぷりにそう請合った。

 しかし四郎は、すぐにこう付け加えるのも忘れなかった。

「だがそう行かぬ場合には、討伐軍との永い戦いを覚悟せねばなりませぬ」

 それを聞くと皆が一斉に口を噤んだが、三郎が大きな声でその沈黙を破った。

「なに、碓氷と箱根を固めて、官軍など一兵たりとも坂東に入れはせぬ。そうではござらぬか?」

「三郎の申した通りじゃが、ここで心配してみても始まらぬ。その時はその時で考えることにしようではないか」

 小次郎には次第に自分の夢の進み行く先が、ぼんやりとだが見え始めていた。だが彼は目標さえ掴めていれば、それを心象として思い浮かべたいとは考えなかった。目の前の一歩一歩こそが最高の関心事であり、未来を想像することに価値があるとは、彼には思われなかったのである。

談合の終わりには玄明が呼ばれ、常陸への同行が申し渡されたが、彼は既にそうなることを知っていたのですぐ承諾した。常陸国府には介の部下である小掾・藤原玄茂という玄明の伯父があったが、常陸介との今度の争いには中立の立場を貫いており、館のある柿岡にじっと引っ込んでいるということであった。こうして平小次郎将門にとっては、もはや引き返すことの出来ぬ運命の道に、決定的な一歩が踏み出されたのである。

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