下野国境の戦い

承平六年(九三六)の六月下旬、良兼らの軍勢が常陸国真壁郡から下野国境へ向かっている、と忍びの者から知らせがあった。小次郎は早速三郎と四郎を呼び、自らが手勢を連れて先行すること、伴類には兵を下野国境へ進めるよう伝令を出すこと、鎌輪の守りは下の弟らに任すことなどを決めた。

「兄者、攻めるのは我らの到着を待ってからですぞ。この三郎にも活躍の場を与えてくだされよ」

 三郎は三十歳になっていたがまだまだ血気盛んで、小次郎に似て直情径行な性格であった。そういう二人の兄を反面教師に、四郎はいつか冷静な思慮深い青年に育っていた。

「今度のいくさでは、我らも国法を犯すことになるやもしれませぬ。ならばいざという時に申し開き出来るよう、伴類共々非道の振る舞いを起こさぬよう、兄者たちに率先していただかねば」

 四郎がそう釘を刺すと、

「分かっておるわ。だがな四郎、いくさはまず勝たねばならぬ。勝っておけば後は何とでもなろう」小次郎は自信に満ちた表情で、年の離れた弟にそう言って微笑した。


 二日後の昼過ぎ、小次郎は三百の兵とともに、結城の北方二里ほどの鬼怒川右岸にいた。叢林の中に潜んで、良兼軍が川を渡るのを見ていたのである。夏の盛りで日陰にいても草いきれがひどかった。

敵兵はそこから三町(約三百三十メートル)ほど上流の川原の広くなったところを、騎馬武者と歩兵が入り混じって続々と渡っている。その数は千を優に超えているようだ。小次郎のところからは、その紺色がかった全体に黄色や赤の鎧の彩色が添えられ、陽炎の中をはなだ色の幟を揺らめかせている様子は、まるで夢の中を進んで行くように眺められた。

小次郎は手綱を握りながら考えていた。三郎らの後発軍が追いつくのは、この日の夕刻か夜になる、と昼前に伝令が来ていた。

良兼軍は、今夜は下野国府近くに野営し、それから下流へ向かって、小次郎の本拠・豊田郡へ攻め入る積りと思われた。おそらくまだ敵の兵士たちには、いくさへの心積もりはなく、攻撃するなら今が好機に違いなかった。それに少数で大軍を相手にする場合、線状に伸びた最後尾を狙うのが常道である。三郎らは待てと言ったが、それではみすみす機会を逃すことになる、と小次郎は思った。

「良いか、最後の兵が渡り終ったら攻め込むぞ、各小頭に備えをするよう伝えよ」

 小次郎は多兵衛を呼んでそう命令した。彼は身分こそ低いが馬を与えられ、小次郎の親衛隊のように常にそばに仕え、時には身の回りの面倒まで見ることさえある。彼が小次郎の信頼を得ているのは、その馬鹿正直ともいえる性格のためであった。

小次郎は敵がもし陣形を整えて反撃してきた場合は、速やかに後退する積りであった。劣勢で意地を張るのは良くない。先陣が負けると全体の士気にも響くからである。しかし今は攻めの好機であり、試してみる価値はあった。

一刻ほどして小次郎は攻撃に出た。まず騎馬武者が二十騎、それに百名の歩兵が続いて駆け出す。一町進んだあたりで良兼軍が気づき、わあっという声が上がった。敵の騎馬武者が手綱を引いて向きを変え、歩兵がその周りに集まるのが見える。幟が激しく揺れ、槍の穂先が林のように立ち上がったが、乱れているのは動揺しているからだろう。

小次郎の軍は騎兵の数が極端に多く、およそ三分の一にも上っている。それは彼の領地が良い牧場に恵まれて、父の代からの良馬の一大産地であることによる。この時代、馬は戦闘において機動力を発揮する上で、不可欠な存在であった。小次郎軍の強さの秘密もそこにあった。

小次郎は左手に弓を握り、騎兵の先頭を駆けている。敵は身構えたまま動かず、両軍の距離はどんどん小さくなる。それが一町を切った頃、小次郎が走りながら矢を放ったのを機に、両軍の間に矢が飛びかい始めた。風はなく、矢は放物線を描いて鋭い音を立てながら双方へ降りかかる。

上級武士である騎馬武者の大鎧はほとんど全身を覆っているのだが、歩兵は兜も大袖も無く、胴丸に肩板を垂らしただけなので、動き易いけれども矢には弱かった。だから双方の歩兵を中心に負傷者が出たが、弓の数に勝る小次郎軍が損害は少なかった。

半町ほどに近づいたところで、小次郎は騎兵を停止させ、代わって歩兵を前に出す。歩兵同士の激突である。槍と槍のぶつかる音、撲る音、突き刺す音、怒鳴る声、叫び声、それらが混じり合って真夏の野にこだまする。

良兼軍は目の前の小高い丘を越えて、その先頭は既に一里近くも彼方にあると思われた。そこへ最後尾で戦闘が起こったので、情報が将棋倒しのように伝わって行ったが、すぐに陣形を整えるには無理があった。周辺は丘と水田と湿地の繰り返しのような地形で、大軍を効率よく働かせるのは難しかったのである。

小次郎軍の騎兵は、戦闘への加勢に戻ろうとする丘の上の良兼軍に向かって盛んに矢を放つ。そのうち小次郎軍の歩兵が敵の騎馬武者一人を取り囲み、落馬させて討ち取ると、良兼軍は丘の方へと後退し始めた。そこへ矢の雨を降らせるに及んで、敵の歩兵はもはや戦闘への気力を失ったように、背中を見せて走り出した。騎馬武者がそれを止めようと、馬上から盛んに怒鳴るのだが効果はなかった。

小次郎軍は逃げる良兼軍に容赦しなかった。夏草の上には突き殺された歩兵の屍体が散乱し、何人かの鎧武者が三尺ほどに伸びた稲の中に頭を埋め、瀕死の馬が悶えるのを踏み越えて、なおも敵兵を討ち取ろうと追って行った。

その時良兼は連合軍の先頭にいて、弟の良正と甥の貞盛も近くに駒を進めていた。だから最後尾の兵にとっては、指揮官たる良兼らを欠いて士気も上がらず、想定外の戦闘でもあったから、一旦敗走が始まるともう止めることは出来なかった。 

戦闘が起こったのは下野と下総の国境付近で、そこから下野の国府まで二里あまりの距離だったから、先頭を行く良兼らには戦場よりも国府の方が近かった。そこへ次々と情報が届くのだが、それは新しいものほど悲観的であって、全軍を浮き足立たせた。

「どうする兄者、此処は自重した方が良いと思うが」

良正は貞盛とともに良兼の馬に寄ってそう訊いた。彼は既に小次郎の強さを知っている。貞盛は初めての大いくさであり、良正から小次郎の手ごわさを聞いていたから、良正と同じ考えしか出てこない。良兼は苦りきった顔をしていたが、

「ひとまず国府の中へ全軍を入れるぞ。小次郎とて無闇に国庁までは攻められまい。そこで陣を立て直すのが良かろう」と怒鳴るようにそう言った。

 良兼ら連合軍は国府目指して足を速めた。丘を越え、水田や湿地では水しぶきを上げながら、真夏の午後の陽光の下をつんのめるようにして進んで行った。土地の百姓たちは青々と伸びた稲の向こうから、養蚕小屋の裏から、牧の厩の影から、驚きの目を持ってそれを見ていた。

一刻もすると先頭は国府のある丘の下に達した。陽は傾きかけていたがまだ熱を失っておらず、思川に合流する姿川の瀬を眩しく光らせている。国庁はその二つの川に挟まれたような丘の奥にあった。騎馬も歩兵も先を争うように浅瀬を渡って、続々と丘を登っていった。

小次郎軍は敗走する敵を追いながら、恐ろしい大声で怒鳴っていた。それは、

「我らには天神さまが味方ぞ、皆殺しにしてしまえ」というものだ。

 連合軍は既に全く戦闘意欲を失っていた。そして小次郎軍も、怒鳴りながら追いかけるだけで攻撃は止めていた。

申の刻(午後四時頃)近く、小次郎軍は合流点に達し、敵を国府の丘へと追い詰めたが、それ以上は追撃をしなかった。もしそのまま国庁へ攻めこんで行けば、それは謀反ということにならざるを得ない。この際、そうした無法な振る舞いをすべき場合でないのは明白であった。

この時下野守・大中臣定行は、二里ほど西方の足尾山地の裾に館を構えていて、騒ぎの間は役所に一歩も近づかなかった。したがって良兼軍が域内に逃げ込んできても、警備の少数の兵は黙ってそれを受け入れるしかなかった。もっとも良兼は、既に下野守へ今回の趣旨を知らせてあったのかもしれない。彼は前下総守であり、同じ国司として気持ちが通じていたとも考えられる。

酉の刻(午後六時頃)になって、後発の三郎や四郎、多治経明、その他の伴類の兵たちが続々到着した。それでも合わせて二千に足らず、三千を超えている連合軍とは数の上では大差だが、小次郎軍にはそれを感じさせぬ勢いがあった。

「見事なお手際、さすがは兄者、と言いたいところですが、我らを待たれるお約束ではありませぬか?」

三郎は四郎と一緒に小次郎のところへやって来るとすぐにそう言った。

「その積りだったのだが、明日では遅いと気が付いたのじゃ。敵がその気になってからでは、戦いにそれだけ余計な力が必要になるではないか。分かったか三郎?」

 三郎は不満気な顔をしていたが、四郎はそれには構わずこう訊いた。

「兄者、全軍の布陣をどのようにするか、お考えをお聞かせくだされ。頭領の方々もすぐに参られますゆえ」

 指揮官たちが揃うと、小次郎はすぐに方針を説明した。国庁のある丘は島のような中州であるから、兵を展開してこれを包囲する。敵がこれを突破するのは容易であるが、今日の戦いで敗走した後で、今はその気力もない筈だ。包囲が終わったら使いを出し、今夜のうちに退却するなら包囲を解いて逃がしてやるが、そうでなければ明朝を期して攻撃し、皆殺しにすると申し渡す、というものであった。

夏のことで、まだ日は西の空に残っていたが、ちょうど暗くなる頃には包囲が完成した。

使いには多兵衛が命じられ、多治経明に書かせた書状を持参した。多兵衛は騎兵だが、着けているのは大鎧ではなく、胴丸に肩垂れと草摺りで、兜は吹き返しの無い丸兜である。彼は勇躍壮途につくという風で、二名の小者を従えて、松明を手に丘を登って行った。

国庁の門は堅く閉じられていて、その外側には入り切れない雑兵たちが群れていたが、皆疲れたようにだらしなく土の上に座り、喋っている者も声は低かった。それでも使者の松明を目にした途端にさっと緊張が走り、がやがやとあちらこちらで声が上がった。

「平将門さまの使いじゃ、道を開けろ」

 多兵衛が大声で怒鳴ると、人垣が崩れてすぐに門まで通路ができ、兵たちの騒がしさは一段と大きくなった。

多兵衛は国庁の警備役人によって、脇入り口から中へ入れられた。用件を伝えると役人は「良兼殿に直接逢わせることは出来ぬゆえ、書状を預かりたい」という。仕方なく多兵衛はそれを承知し、返事を待つことになった。

良兼、良正、貞盛の三名は大鎧に身を包んで、篝火の焚かれた国庁の軒下にいた。緊張した表情に血走った目を炎に煌かせているのは皆同じである。何か喋りたいのだが言葉が出てこないという風で、苛々したようにお互いの顔を見合っているところへ、国庁の役人が書状を持ってきた。

まず良兼がそれを読み、黙って良正に渡した。良正も同じようにして貞盛に渡す。

「小次郎め、たわけたことを。勿論叔父貴たちも逃げはしますまい。今度は我らが目に物を見せてやらねば・・・・」

 貞盛は昼の戦いでもっぱら自分の兵がやられたのに怒っていた。

良兼と良正は無言で貞盛を見たが、その目からは先ほどのぎらついた光が無くなっている。

「なぜ何も申されぬのか、ご返答はいかに?」

 貞盛は書状を握り締めたまま二人に近づいてそう訊いた。

「貞盛、良く今の状況を考えてみよ、闘って勝てると思うか?我が軍は今日の敗走で士気を失っておるが、敵は勢いに乗じて勝った積りで攻めてこよう。ここは一旦退却するのが良策ではないか?己とて腹の中は煮えておる」

 良兼は年上らしく若い貞盛をなだめるように、低い声でそう言ったが声は怒りに震えている。それを補足するかのように良正が付け加えた。

「小次郎が残虐な性質であるのは、源氏の兄弟たちや国香兄者への振る舞いを見れば分かるであろう。お前も野本のいくさの後は知っておるはず。此度は必勝を期して大軍を率いてきたが、小次郎も伴類を増やしているものと見える。此処で我らが戦って負ければ、坂東は小次郎の天下になるかも知れぬ。又の機会はきっと来る、己とて決して忘れはせぬ、なあ貞盛」

 そう言われれば初陣の貞盛には反論することが出来なかった。都にあった折に対面してから何年になるか。その頃のまだ幼さを残した小次郎とはもはや違うのだ、と貞盛は思い知ったのである。

多兵衛の報告を受けて、思川の渡しの包囲が解かれ、良兼らの連合軍はその夜のうちに退却して行った。

三郎は敵が国庁を出た後に追撃すべきだと主張したが、四郎と多治らは「敵といえど伯父と甥なれば、これを滅ぼすのは世のそしりあらん」と異を唱え、小次郎もこれを受け入れた。今度のことで伯父たちも二度と戦いを仕掛けてはくるまい、と彼は思ったのである。

翌朝小次郎たちは国庁に入り、事の顛末を役所の記録に残した。あくまで良兼らがいくさを挑んできたために戦ったのだ、という事実を主張しておいたのである。それは将来朝廷に対して申し開きせねばならぬ場合を考えてのことで、それほど深刻なものではないが、国禁を犯して兵を動かした、という認識が小次郎たちにもあったのである。

それが済むと一同は小次郎を先頭にして、その勢威を誇示するように、堂々と行軍して豊田郡へ帰った。

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