陰謀

延長八年(九三〇)。国香の長子・貞盛も下級役人として都に滞在していた。良兼は兄の国香と語らい、貞盛に小次郎の消息を探らせ、隙があれば暗殺せよと文を送っていた。

国香は貞盛の嫁に源護の娘を貰い、良兼とは同じ源一族を姻戚とする間柄であったが、弟・良将は犬養春枝の娘を嫁としていたため、兄弟でありながら兄たちとは異なる勢力集団の中に組み込まれることになった。二つの集団の関係は、良将の勢力の強大化に対する源一族の懸念を基調としながらも、表面的には均衡が保たれていたのである。

しかし良将が死んだ以上、その均衡は破れざるを得ない。そしてそれは自分たちの勢力には有利に働くはずだ、と良兼たちには思われた。

良兼は何としても小次郎を亡き者にしなければならないと考えていた。無事に帰郷させるわけにはいかない。小次郎さえいなくなれば、弟の遺領を奪うのも容易になるだろう。それに萩女の言ったことも気になっていた。

もし小次郎が良将の後継として大成するようなことになれば、やがては坂東平氏の統領にならないとも限らない。そんな日は絶対に来ない、とは言い切れないような気がした。萩女のあのように自信に満ちた宣言を思い出すと、彼はそれが不思議であると同時に気味悪くもあったのである。


小次郎が都を後にしたのは、父の訃報に接してから一月後であった。すぐに発ちたかったのだが、身辺整理に日数を費やしてしまったのだ。東山道を下って何事もなく、十二日目に碓氷峠を越えた。一行は主従合わせて六名、若者ばかりであった。上野国群馬郡へ下りたところで、叔父の平良文が出迎えてくれた。小次郎が都を発つ前に、ぜひ逢いたいと文を送っておいたのである。総勢二十名足らずの叔父と甥の一行は、国府の西方染谷川に差し掛かったところで突然の攻撃を受けた。

貞盛の情報を受けて、国香と良兼が小次郎暗殺に雇った一隊が待ち伏せしていたのである。この時代、武装化した土豪・豪族は国司の傭兵にもなれば、中には東山道や東海道で群盗として荒稼ぎする連中もあった。良兼らがそういう者達を使ったのは、無勢の甥を闇討ちにするのに、自分たちが表立つことにはためらいがあったのであろう。

小次郎と良文の一行は、刀は着けていたが鎧も弓もなかった。いくさ支度でないからまともに戦っては勝ち目がない。それに相手は三十名を超えているらしい。それでも必死に白兵戦を続けているうちに、梅雨の曇り空が早くも暮れてきた。

川は幅七十尺ほどで、水深は深いところで五尺、岸近くは滑りやすい砂利が露出していた。小次郎の一行は半数が負傷し、這うようにして河原に出た。川を渡って藪の中に逃げ込めば、少しは時を稼げるかもしれない。良文は援軍を請うて配下を国府に走らせていたので、何とかそれまで持ちこたえたかったのである。

一行は滑って転んで、最後は泳ぐようにして何とか対岸へ渡った。幸い日が暮れて辺りは闇に包まれた。敵兵は河原に殺到すると、対岸へ向かって盲撃ちに弓を射掛けてきた。矢はほとんど当たらなかったが、たとえ命中しても声が出せない。位置が分かるとそこへ集中して射掛けてくるからである。じっと辛抱していると、やがて弓の攻撃は止んだが、今度は川を渡ってくる水音が聞こえてきた。

小次郎を先頭に、一行は残った力を振り絞って、藪の奥へと移動を開始した。背後からは敵兵の水を撥じく音が迫ってくる。

とその時、ごうという大きな音が起こり、その後「わあ」という敵兵の声とともに地響きが伝わってきた。振り返ると、闇の中をとてつもなく巨大なものが、はっきりとは見えないけれど、素早く動いているのが分かった。それはすさまじい土石の奔流であった。地響きは岩が川底を抉る、ごっごっという音とともに足元を震わせ、濁流は斜面を登りかけていたしんがりの腰の辺りまで迫ってきた。だが水の勢いはそこまでで、一行が息を呑んで闇を透かし見ていると、たちまち流れは勢いを失い、岩の転がる音もほとんどしなくなった。

半時もせずに流れは元のせせらぎに戻り、対岸には残された敵兵の気配が感じられたが、その者らはただ声もなく立ち尽くしているようであった。

夜が明けると、土石流の残した岩石や土に汚れた河原が、奔流のすさまじさを示していた。なぜ突然洪水が起こったかといえば、農民が築いた潅がい用の溜池の決壊が原因だったのだが、前日見回った者によれば、これといって崩れそうな様子は見られなかったという。その前三日ほどは雨もなく、土手が柔らかく脆くなっていたとも考えられないということであった。

とまれ命拾いをした小次郎は、叔父・良文の配下に送られて豊田郡鎌輪へ帰った。館に着くと弟らが駆け寄って来て、一昨日の夜母が自害したと言う。それは染谷川で小次郎が暗殺されかけた頃である。彼は不思議な気がしたが、それ以上深く考えることはなかった。この時はまだ、伯父たちが自分を抹殺しようとしている、などと小次郎には思いもつかないことであった。

良兼は闇討ち失敗を知って大いに口惜しがった。まさか弟の良文が小次郎を助けようとは考えていなかった。貞盛の知らせではわずか六名であったから、いくらなんでも討ちもらすことはあるまいと思っていたのだ。

しばらくして奇妙な噂が人々の口に上るようになった。それは小次郎らが洪水によって助かったのは、妙見菩薩の御利益であるというのである。叔父・良文の母が篤い信者で、ちょうど溜池の近くに妙見神社があったのが噂を補強していたらしい。

良兼はそれを聞くと嫌な気がした。そしていつか必ず小次郎を討つ、と益々固く心を決めた。もし萩女の言うとおりになれば、自分らの一族は小次郎に隷属せざるを得ないだろう。柏原帝(桓武天皇)に繋がる我が一族の統領が、小次郎であって良いはずがない。それは絶対に阻止しなければならないことであった。

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