良兼と萩女

小次郎将門とその一族との争いは、家長・平良将の急死の後、長兄・国香と次兄・良兼が鎌輪の館へ出入りするようになったことに発端があった。館に残された家族は、妻の萩女と十一歳の三郎をはじめとする五人の男の子たちで、長男は既に亡く、次男の小次郎は滝口の衛士として都にあった。萩女は相馬郡の有力者・犬養氏の娘で、気丈な性格の現れた凛とした目の、三十を少し出た年齢であった。

国香と良兼が下総・鎌輪の館へ乗り込んで来た時、二人の立場はかなり違ったものであった。国香は元、上総を地盤としていたが、その後常陸大掾を経験して、既に真壁郡石田に荘園を持って定着していた。一方の良兼は上総の横芝が地盤であり荘園もそこにあったが、新しい国司(上総介)の着任によって、その支配地が圧迫され始めていた。そこで彼は妻の父・源護の勢力を利用して、何とか常陸かあるいは下総にでも根拠を持ちたいと願っていたのである。

その時良兼は、先年に妻を亡くした四十半ばのやもめだったが、館には三人の側室を置く男盛りであった。

寡婦となった弟の妻とその子供たちを庇護することで、下総に己の安定した場所が確保できるではないか。彼は弟の訃報に接した時からそう考えていた。そしてその計画を兄・国香に打ち明けて、何とか同意を得た。分け前を忘れるなよ、と兄は念を押すのを忘れなかったが。

「そなたもまだ若いに心細かろうが、己が悪いようにはしない。どうだ、己と一緒になって、子供らが大きくなるまで面倒を見てやろうではないか」

 ある夜良兼はこう言って口説きにかかったが、萩女は義兄に対する礼儀を保ちながらも、何か信念を持つ人のような毅然とした表情を崩さなかった。

「有り難きお言葉恐れ入ります。なれど妾は亡き良将に生涯を捧げております。これからは都におります小次郎を呼び戻し、この家を継がせる所存で御座ります」

「おうおう、そうだ小次郎は確か十七になったか?忠平公に仕えておるそうじゃが、都におれば出世の道も開けように、こんな田舎へ帰ったところで末はたかが知れておろう」

 良兼はたとえ小次郎が後継したとしても、後ろ盾でも何でも良いから、この地に繋がりを持つことが肝心であると考えていた。それには弟の妻が自分の物になれば都合が良かった。

「いずれは小次郎が継ぐだろうが、急がねばならぬということもあるまい。都で思う存分な働きをさせてやるほうが良くは無いか?それまでは己が後見役として面倒を見ようというのだ」

 萩女には良兼の言うことを聞く気はまったくなかったが、喧嘩腰に拒絶することもはばかられた。元服したとはいえ世慣れぬ小次郎とまだ幼い子供たちとでこの家を守っていかねばならない以上、義兄たちを敵に回すのは得策ではなかったからである。

「妾は妙見さまに帰依し、亡き夫の菩提を弔うてこの先を暮らすつもりでございます。それに義兄上さまは上総の家を守らねばならぬお体では?」

「なに上総には公雅がおるでな、あれでも一応役には立つ。まあ良いわ、よく考えてみることじゃ」

 その夜はそれで終わったが、萩女の中には重い気分が残った。このままでは済むまいという思いがしていたのである。

しばらくしてそれが現実となった。その晩の食事時から酒を飲み始めた良兼が、深夜酔いの勢いを借りて萩女の寝所へ侵入してきたのである。

この時代、男女の交わりはかなり自由なもので、肉体関係があったからといって、必ずしもそれがお互いの立場を拘束しはしなかったが、かといって貞淑さが尊ばれなかったわけでもない。もっとも萩女の場合、そもそも良兼を好きでなかったのだが、亡夫への操立てを心に決めてもいたのである。

彼女は人の気配を感じ、半身を起すと抱いて寝ていた懐剣を抜いた。

「誰か?」

 枕辺に仄かに灯った明かりに刀身が白く光った。やっと燃えているような火で、五、六尺も離れるとまるで物の見分けがつかない。

「わしじゃ、良兼じゃよ」

 浮いた気分で夜這いに来たつもりの良兼は、いっぺんに酔いが醒めた。

「いったい何事でござります?まだ喪の明けぬ妾に忍んで来られるとは、恥ずかしいとは思われませぬのか」

 良兼の姿は半分闇に溶けていたが、萩女は横からの光にぼうと照らされ、彫像の如く浮き上がっていた。そして抱かれた懐剣は身を守るというよりは、彼女自身の首に向けられているように見えた。

「己はお前たちの力になりたいのじゃ。一族として弟の苦境を兄の己が助けるのは当然のことではないか、そうは思わぬのかそなたは」

 良兼はもはや萩女を口説き落とすのは無理であろうと思った。しかし彼女と情を通じることが出来なくても、何とかここに留まってさえいれば、そのうちに根を下ろすきっかけが掴めないとも限らない。だが萩女は小さいが良く透る声で、良兼のその思わくを打ち砕いてしまった。

「それ以上寄られるなら喉を突きますぞ。もしも妾がみまかれば、義兄上方が我らが領地を狙ってしたこと、と世間には広まりましょう。それに我が兄も黙っては居らぬはず」

 萩女はとっさに思いつきを言ったのだが、事実世間はそういう風に取りざたするのかもしれないという気もした。とにかく二人の義兄たちには、この館から引き揚げてもらわねばならなかった。

良兼もそこまで言われては面白くない。

「たとえ犬養殿の後ろ盾があろうと、幼い子供らとそなたではこれからどんな面倒が起こるか、それを切り抜けていくことが出来るかどうか。まさか兄上や己と敵対する心算ではあるまい」

「義兄上方と争うなど滅相もありませぬ。ただ我が家は小次郎が立派にやって参ります故、どうぞご心配なくお帰りくだされ、と申し上げたいのです」

「まだ若い小次郎が、この乱れた坂東で一家を守っていけると、そなたは本当にそう思って居るのか?」

 実際坂東一帯は盗賊の跋扈、俘囚の反乱、豪族・豪農の武装化による力の行使などにより、治安は危機的状況にあって、良兼の言うことは正鵠を射ていた。しかし萩女にはなぜか一抹の不安の表情も現れていなかった。

「その渾沌たる坂東に覇を唱えるのは、我が子小次郎将門を措いてありませぬ。妾は妙見菩薩様からはっきりと御託宣を頂いているのです」

 萩女は、良兼とこれ以上曖昧な議論を続けても埒が明かないことを察した。もはやはっきりした意志を示すしかないだろう。

良兼は闇の中で声を立てずに笑ったようであった。

「ほう、あの小次郎が坂東の覇者になると言うのか?いくさも知らぬ小僧っ子が、果たして群雄に伍して生き延びていけるものか、己は怪しいものだと思うがのう」

 萩女は仄かな明かりの中で、かすかだが確かに微笑んだ。

「生きた人間では将門を殺すことは出来ぬ。妙見様はそう仰って下さりました。ですから妾はいささかも心配してはいないのです。そういうわけですから、どうぞ義兄上様方もお引取りを」

「あい分かった。もはや我らの助けなど要らぬということじゃな?この先何が起ころうと泣きついて来ることはならんぞ、忘れるなよ」

 翌日、良兼と国香は相次いで館を去った。辺りは急に静かになって、主を失った寂しさが戻ってきたが、母子は水入らずの暮らしを喜んだのである。

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