第8章 駐輪場閉鎖

 煤はほとんど毎日あの喫茶店に来ているが、その際には自転車を使っているらしい。ということで、月夜は彼が自転車を停めている駐輪場まで一緒に行くことにしたが、なぜか駐輪場は閉鎖されていた。いつもは開いているから、時間的な問題ではない。柵状の外壁から中を覗いてみると、ほかにも何台か自転車が停められたままになっていた。どうやら、被害を受けたのは煤だけではないみたいだ。


 自転車で来るくらいの距離だから、歩いて家に帰れないわけではない。少なくとも、電車で学校に通っている月夜よりは、その道中は楽だろう。そういうわけで、煤は歩いて家に帰ることになった。また明日来てみて、それでも閉鎖されたままだったら、駐輪場を管理している企業に連絡を入れるとのことだった。


 その場で煤とは別れて、月夜も帰路についた。喫茶店がある駅前のバスロータリーの辺りまで戻ってきて、駅の向こうに周っていつも通り線路沿いを歩いた。


 フィルはまだ眠っていた。本当に眠っていなかったとしても、目は閉じているから、歩きたくないという意思表示が成されているのは確かだ。眠っている彼はそうでないときよりも重たく感じられたが、平均的に見れば彼は軽い方だった。抱きかかえるというよりも、腕の中に内包するような感じで月夜はフィルを運んでいる。彼の身体は温かくて、触れているだけで安心感があった。


 他者との触れ合いを求めてい自分は、今は身を顰めていると月夜は感じる。おそらく、フィルが傍にいるからだろう。そして、その傍というのは、触れられる距離を意味している。触れるとは、その者の身体に自身の身体を接触させるということだ。人間もやはり動物には違いない。些細でも、スキンシップがあれば、それだけでコミュニケーションは成立する。


 ただ、彼女は、所謂肉体的な接触というものに、あまり興味がなかった。経験したことがないから実のところは分からない、というのが正直なところだが、それでも、経験したいとは思わなかった。自分でもどうしてかは分からない。彼女は、基本的に、経験したことがないことは、なるべく経験しようとする。経験することが判断材料になるからであり、経験したことがないことについては述べられないからだ。でも、これに関しては、そうは感じなかった。どう考えても不合理だが、しかし、やらなくても良い、経験しても仕方がないという気持ちの方が勝ってしまうのだ。


 この点については、彼女は未だに合理的な説明ができていない。それだけなら良いが、合理的な説明をしようとさえ思わなかった。


 なぜだろう?


 なんとなく、答えのようなものはあるように感じる。けれど、それが確固とした答えではないことも分かる。


 かつて、一度だけ、そうした接触を経験しそうになったことはあった。けれど、事の成り行きでそうはならなかった。そのときの自分は、そういう流れになったのだから、経験しても良いと思った。でも、実際にはそうはならなかったから、それ以後、もう経験しなくても良いと感じるようになってしまった。


 自分は、本当は、自分が好きなのかもしれないと、月夜は思う。


 いや、好きというのは違うだろう。でも、ニュアンスとしては同じだ。他者そのものを求めているのではなく、他者に自分を認めてもらうことを求めているのだ。他者を好きになりたいのではなく、自分を好きになってくれる他者が欲しいのだ。


 ……?


 いや……。


 やはり、それも違う。


 誰かを、好きになりたいという気持ちは、本当かもしれない?


 ……。


 どちらが本当で、どちらが嘘なのか?


 分からなかった。


 どちらも本当で、どちらも嘘のような気がする。


 両方が同時に成立する。


 ありえないと分かっていても、自分の場合だけはありえるような気がする。


 それは、自分が特別だと錯覚しているからか?


 ……どうだろう。


 歩道橋に至って、月夜は階段を上る。すぐにその先に進んでも良かったが、なんとなくその上で立ち止まった。眼下には幾数本もの線路が通っている。真っ直ぐ続いているものもあれば、途中で切り替わって、ほかの線路と合流しているものもある。ただ、枕木の間隔は常に一定だった。道を外れても、時間は等しく過ぎるからかもしれない。


 赤い車体の電車は、今は一台も走っていない。踏切も休憩中。でも、所々にランプが光っている箇所がある。何の明かりかは分からない。赤くて、時々消えては、また灯る光だ。


 気持ちが悪くなりそうな気がしたから、彼女は自分をコントロールした。昔はコントロールするのが得意ではなくて、何度も失敗したが、最近になってようやく上手く操れるようになった。


 ほかの人は、どうなのだろう。


 どのようにして、自分をコントロールしているのだろうか。


 線路の上を走る電車のように、上手く操作できるものなのだろうか。


 自分だけ、上手くできていないのではないだろうか。


 歩道橋の階段を下りて、再び歩道の上を歩く。隣にある道路を自動車が通り過ぎていった。一瞬眩しい光に照らされて、月夜は目を細める。こんなふうに、身体の中には勝手に反応する部分もある。もしかすると、自分は何事にも反応しているだけなのではないかと思えることが、月夜にはよくある。自分で考えて、自分の意思で行動しているのではない。ほかの存在から影響を受けて、反応を返しているだけかもしれない。


 でも、それでも構わないと、月夜は思っていた。そもそも、自分に意思があると意識したことなどない。あってもなくても変わらないようにさえ思える。


 自分がほかの存在から影響を受けているということは、自分もほかの存在に影響を与えているということだ。


 やはり、相互的な関係として処理するのが、最も合理的に思える。


 それ以外に方法は見つからない。


 線路沿いをずっと歩き続けて、自分の家の最寄り駅まで到着した。月夜はその場で一度立ち止まり、空を見上げた。


 ずっと続いていた一定のテンポが途絶えたからか、彼女の腕の中にいるフィルが目を覚ました。


「どうした? 家に帰らないのか?」フィルが問いかけてくる。


「ここがどこだか、一瞬で分かるの?」上を向いたまま月夜は質問した。


「それくらいの状況分析力は俺にもある」


 フィルの返事を無視して、月夜は首の角度を維持し続ける。空には星が浮かんでいた。今日は晴れているようだ。天気を意識することはあまりない。積極的に影響を受けるものとして評価されていないからだろう。彼女も同じく天気には影響を与えない。与えようがない。


「何か、気になることでもあるのか?」


 フィルの声が下から聞こえる。


「あるかもしれない」月夜は答えた。


「どんなことだ?」


 無視するのではなく、今度はすぐには答えられなかった。だから、空に浮かぶ星の数を数えて、気分が落ち着くように工夫した。


「自分に関すること」


「自分に関すること?」


「尻上がりのイントネーションにすると、疑問文になるらしい」


 月夜の言葉を聞いて、フィルは笑う。


「まあ、そうだろうな。それで? それが、気になっていたことか?」


「自分と、尻上がりのイントネーションに、どんな関係があるの?」


「月夜なら、それくらい思いつくと思った」


「何も、思いつかない」月夜は答える。「ほかのことで、頭がいっぱいだから」


「そんなにか? 重症だな。どれ、俺が話を聞いてやろう」


「ううん、駄目」


「どうして?」


「誰かに聞いてもらったら、解決しない問題だから」


 月夜の返答を聞いて、フィルは暫くの間黙った。


 月夜は上を向いていた顔を下に戻す。


「どうかした?」


 彼女が尋ねると、フィルは真顔で答えた。


「いや、変わったな、と思って」


「変わった? 何が?」


「お前が」


「私が?」


「そう」


「どこが?」


「色々と」


 フィルの黄色い瞳を見つめて、月夜は言葉の意味を考える。けれど、すぐに具体的な意味はないと気がついた。言葉に意味があるのではない。そうした言葉を口にする行為に意味があるのだ。フィルが意図したのも、そういうことに違いない。


「そうかもしれない」月夜は頷いた。「私は、変わってしまったのかもしれない」


「変わることは、別に悪いことじゃないさ」フィルは応えた。「ただ、お前の場合、変われない、いや、変わりたくない理由があったんだ」


「そうかもしれない」


「今日は素直だな、月夜」


「いつも、なるべく素直になるようにしているつもりだけど」月夜は応えた。「もし、そうなっていないのなら、ごめんね」


「いや……」フィルは面白そうに笑う。「そうだったな。撤回しよう。そんなことはない。お前はいつも素直だ」


「そういうところは、変わらない方がいい、かな?」


「ああ、たぶん」


「今日は、フィルも、素直な気がする」


「どうだか」彼は首を傾げる。「俺はいつも小賢しいからな。今のだって、お前の気を引くために言った戯れ事かもしれない」


 夜道を歩いて、月夜は自宅へと向かった。街灯のない道を、ゆっくりと前に進む。周囲の家の窓にも明かりは灯っていない。電柱がずっと向こうまで立ち並ぶ様は、巨大な電子機器の内部構造のように見えなくもない。


「今日は、自分で解決するってことで、いいんだな?」


 フィルに問われて、月夜はすぐに頷いた。


「いいよ」


「それは、肯定か? それとも否定か?」


「肯定」


「力強い意思を感じるな」


「意思?」月夜は下を向いて、フィルを見る。「意思、とは?」


「自分の気持ちのことだよ。こうしたい、こうなりたいというのが、やがて意思になる」


「じゃあ、その気持ち自体は、意思じゃないの?」


「いや、それも意思だ」


 月夜は黙って考える。


「構造の問題? 分類の問題?」


「解釈の問題さ」


 自宅に到着し、室内に入る。


 今日は、すぐに風呂に入ることにした。


 いつもはフィルと一緒に入っているが、月夜は一人で入ると彼に言った。その方が考えを纏めやすいと思ったからだ。風呂に入っているときは、閃きが生じやすいらしい。あとは、ベッドに入っているときと、酒を飲んでいるときらしいが、基本的に月夜はベッドに入ればすぐに眠るし、未成年なので酒は飲めない。


 一通り身体を洗い終えてから、浴槽に浸かる。


 なんとなく、息が漏れた。


 生きている証拠が、口から出て天井に上っていく。


 考えなくてはならないことは、二つあった。一つは、煤に指摘されたこと。もう一つは、自分に関すること。これら二つの事柄は、しかし、個別のものではない。直接とは言いがたいが、何らかの繋がりがあるといえる。だから、一方について考えれば、もう一方を考えるためのヒントが得られるかもしれない。


 お湯の中から両手を出して、月夜はそれを見つめる。手を持ち上げたのは自分なのに、それを見ている自分は別人のように感じられる。


 湯気。


 水の音。


 順番通りに、まずは煤に指摘されたことについて、月夜は考えることにした。それは、学校で例の事件が起きたのは、どうしてか、ということだ。もう少し具体的に述べれば、それを起こした人物は、なぜそれをしたのか、ということになる。


 事件の中で最も重要なのは、やはり皿が割られたことだ。それは学校の備品であって、その破壊は器物損壊に当たる。けれど、月夜は、今はそうした視点を一時的に放棄することにした。社会的な規範から外れたことを問題とするのではなく、そうした行為をしようと思った思考そのものを問題として扱うことにしたのだ。俗っぽく言えば、割ったことを責めるのではなく、割ろうと思ったことを責めるという感じだが、もちろん、彼女に責めるつもりなどまったくなかった。


 人がものを破壊するとき、そこには何らかの感情が作用している。それは怒りだったり、悲しみだったり、マイナスの感情であることが多い。プラスの感情の場合もないとはいえないが、今回の状況に照らし合わせると、あまり相応しくないように思える。仮にそうだった場合、割った皿をそのまま放置するようなことはないはずだからだ。


 さて、では、そこに何らかのマイナスの感情が含まれていたとすると、それはどのようにして生じたものなのだろう?


 いや……。


 ……違うかもしれない。


 そこまで考えて、月夜はほかの可能性を検討する気になった。どうしてかは分からないが、その方向ではないように思えた。


 マイナスの感情が含まれていたのではない。


 そこには、感情などなかったとしたら、どうだろう?


 皿を割った人物は、皿を割る行為を、感情の捌け口として使ったのではない。


 論理的に思考した結果、その行為をすることを選んだのだとしたら、どうなるだろう?


 考えてみれば、マイナスの感情がはたらいた結果、皿を割ったと考えるのは、間違えているように思える。その場合、割った皿をピアノの間に挟むようなことはしないからだ。


 そうしたことをするということは、そうしたかった、いや、そうすべきだったからではないだろうか。すなわち、ピアノの間に挟むことに、意味があったのだ。それがすべてで、そこに何らかのメッセージがある。いや、メッセージというのは言いすぎかもしれないが、とにかく、その人物は、その形さえ残っていれば、それで良かったのだ。


「なるほど」


 自然と口から零れた言葉が、浴室の壁に反射して木霊した。


 出したままだった手を再び湯の中に沈めて、月夜は溜め息を吐く。


 自分の身体を触った。


 首もとを。


 そして、腹部から脚にかけて。


 自分は、確かにここにいる、と感じる。


 先ほどまで、欠如していた感覚だった。


 それが、今はある。


 これが、感覚?


 これが、意思?


 閃いたことを確認するのに、一分もかからなかった。論理的な思考には時間がかかるのに、閃きは一瞬で得られるから厄介だ。そして、大抵の場合、後者は前者よりも魅力的だ。


 考えるべきことの一つはこれで完了したと判断して、月夜は次の議題へと移った。


 もう一つ考えなくてはならないのは、自分に関することだった。自分に関することというと、範囲は広い。ただ、どこまで考えなくてはならないのか、ある程度把握できている感覚はあった。だから、そのぼんやりとした目的地に向かって、彼女は進んでいくことにした。


 まず、自分は変わったということを、認識しなくてはならないと、月夜は考えた。先ほどフィルにも指摘されたことだが、それは事実として受け入れなくてはならない。


 自分が変わったということから、目を背けようとしていたことを、月夜はなんとなく分かっていた。でも、それは本当になんとなくだ。なんとなく分かっていたことを、なんとなく分かっていた。今のところ、その認識自体を改める必要はない。ただし、そういう事実があるということを、自分の内側に定着させておかなくてはならない。


 自分が変わったことを認識したくなかったのには、理由がある。端的に述べれば、ある特定の人物に再会した際に、自分を受け入れてもらえるか不安だったからだ。


 ただ、現在の状況を考えると、もう、可能性を想定してカバーするよりも、自分が変化していく速度の方が上回ってしまっている。だから、未来への対処よりも、現在の対処の方を優先せざるをえない。自分が変わったことを認めなくてはならない。これからは、必然的にそういう方向にシフトしていかなくてはならないのだ。


 これまでの間に、彼女は複数の人々と出会ってきた。そして、彼らから何らかの影響を受けた。それが彼女を変えた要因であることは疑いようがない。ただし、その変化は成長と呼べるものではなかった。文字通り、それは単なる変化でしかない。最初からレベルの概念がないのだ。上下方向の軸の上ではなく、左右方向の軸の上を移動している。そして、その移動は今後も見込まれる。これから先出会う人々の影響を受けて自分が変わっていくであろうことは、容易に想像できる。


 無理に変わろうという気はなかった。ただ、変わっていくところは、変わっていって良いのだと、自分で自分を認める必要があった。不安を完全に払拭することはできない。ただ、不安を抑圧するために、変化をも抑圧する必要はない。そんなことをすれば、想定外の方向に転ぶことになることもありえる。その方が危険だろう。


 自分は、他者の存在を求めているのか?


 それは未だに分からなかった。


 求めているような気もするし、求めていないような気もする。ただ、今自分の傍にはフィルがいて、自分は彼の存在を認めている。


 自分はそれで安定している、と月夜は思う。


 ……。


 いや、どうだろう。


 それは、今そう思っただけで、後々変わるかもしれない。いや、たぶん変わる可能性が高い。それなら、変わるだろうということを念頭に置いて、生きていけば良い。


 濡れた髪を、自分で撫でる。


 それだけでも、多少なりとも落ち着く。


 昔の自分は、それだけで良かった。


 ただ、ほかの人に撫でられたい、とも思わないわけではない。


 フィルに、傍にいて、一緒に眠ってほしい、と思う。


 ただ、ダイレクトにそれを求めているのではない。


 完全に積極的ではないだけだ。


 それなら、それで良い。


 それは、素直になるということか?


 傍から見れば、そう見えるだろう。


 けれど彼女にとっては違う。


 素直になるのではなく、幅を持たせるのだ。


 素直という一本道ではなく、その道の幅を広げて、その中を左右に揺れながら歩く。


 そう……。


 それで良いではないか。


 風呂から上がって、身体を拭いて月夜は着替えた。バスタオルを首にかけてビングに向かう。明かりが灯っていない部屋の中を進んだ。


 ベランダへと繋がる硝子扉が開いていて、その先にフィルの姿が見えた。正確には、そこはベランダではない。ウッドデッキと言った方が近い。木製の柵の上に載って、フィルはその先に視線を向けていた。


 サンダルを履いて、月夜は彼の傍に向かう。


 彼女が近づくと、フィルは振り向いて少しだけ笑った。


「考えは、纏まったか?」


 フィルに問われ、月夜は頷く。


「うん」


「そうか。手助けができなくて、寂しかったよ」


「いつも、手助けなんてしていた?」


「していただろう?」


「そう? じゃあ、ありがとう」


「じゃあだなんて、失礼なやつだな」


「うん……」月夜は軽くフィルを抱き締める。「ごめんね」


 月夜の自宅の周囲には、比較的自然が多く残っている。辺りは住宅街と呼べるくらいには家が連なっているが、右手には山があって、完全に人工物で埋め尽くされているわけではなかった。


「フィルは、最近山に登った?」後ろから彼の顔を覗き込んで、月夜は尋ねた。「あの、山に」


「いや」フィルは首を振る。「登っていない」


 月夜とフィルは、その山とちょっとした関わりがある。それは二人の出会いにも関係している。ただ、普段はあまり意識していないことだった。


「また、行きたい?」


 月夜の質問を受けて、フィルはもう一度首を振る。


「いいや」


「寂しいの?」


「今は、月夜がいるから寂しくないさ」


「私も」


 フィルは黄色い瞳を後ろに向けて、月夜をじっと見つめる。


「それは、意識して言っているのか?」


 月夜は首を傾げる。


「何が?」


「同意」


「意識してはいるよ」


「気を遣わせて、悪かったな」


「悪くなんかないよ」


「それなら嬉しいが」


 フィルを抱えて、月夜は室内に戻った。彼はもう少しここにいたいと言ったが、月夜の方からお願いして、一緒に戻ってもらった。


 二人でソファに座る。


 正面に、黒い平面。


 何度も目にした光景。


「問題が解決したのなら、煤に教えてやらないとな」暗闇の中でフィルが言った。「連絡先は知っているのか?」


「また、明日も同じ場所で会うから、今はいい」


「会えない可能性もなくはないぞ」


「会えなければ、仕方がない」


 フィルはソファの上から飛び降り、テレビ台の上に載る。そこには時計が置かれていて、この暗闇の中で唯一人工的な音を発していた。


「フィルは、まだ、私の傍にいてくれる?」


「俺がいてやるんじゃない。お前にいてもらうんだ」


「それが、フィルの認識?」


「そうだよ」フィルは頷き、目を細める。「そうでないと、バランスがとれないだろう?」


「むしろ、バランスが悪いのでは?」


「そうか? 俺の方が奉仕してやっているから?」


「奉仕、というのが、どういうことか、いまいち分からない」月夜は話す。「どちらかというと、協力してくれているのは、フィルだという気がする」


「説明するときには、月夜は雄弁になるな」


「それは、誰でもそう」


「違うさ。お前にしか見られない現象だ」


「どういう意味?」


 フィルは答えず、時計の針を眺める。


「バランスは、今のままでいい」彼は言った。「いや、バランスなんて、意識しなくていいんだ」


「それは、意識的か、否かという問いに、繋がってくる?」


「繋がるかもしれないし、繋がらないかもしれない」黄色い瞳を輝かせて、フィルは言った。「人生とは、そういうものだ」

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