第9章 歩道橋往復

 その夜、月夜は一度家に帰った。一度、と断るということは、帰ったのにまた戻ってきたということだ。彼女は家に帰ったのにも関わらず、再び同じ方向に向かって歩き始めた。いつも通り夜まで学校に残って、家に帰り、それからまた出かけたから、日付はとっくに変わっていて、電車も走っていなかった。だから、必然的に歩いて行くしかなかった。


 明らかに合理的な行動ではなかった。もし心理学者がそのときの彼女の状態を分析したら、今まで立ち会ったことのない状況に狼狽し、匙を投げるに違いない。あるいは、特殊な検体として研究所に幽閉しようとするかもしれない。しかしながら、本当の心理学者がそういうものではないことを、月夜はなんとなく知っていた。現実は印象で溢れ返っている。事実に目を向けられる場合の方が稀だ。人間の脳は、論理的な結論よりも、印象的な結論を先に導き出そうとする。


 フィルも彼女についてきた。彼は月夜の行動に何も口出ししなかった。黙って彼女の隣を歩いていただけだ。とはいっても、やはりずっと歩き続けるのは憚れるようで、また月夜が彼を抱きかかえる形になった。彼は基本的に怠け者だ。


 線路沿いの道を真っ直ぐ進む。


 人気はない。


 数時間前に渡った歩道橋を再び通過する。


 まるで、桃源郷への出入り口を行き来しているような気分だった。


 学校の前まで戻ってきて、しかし、月夜はそこを通過して先へと向かった。道の終着点には駅がある。徒歩で帰らないときには決まって利用する、あの駅だ。階段を上って三叉路に出ると、そのまま直進して再度階段を下りる。バスのロータリーに到着し、その周辺を謎るように歩く。目的地は決まっていた。このまま進めば、例の喫茶店に至る。


「彼は、いると思うか?」


 足早に歩く月夜に向かって、フィルが彼女の腕の中から声をかけた。


「たぶん」月夜は答える。


「それが、お前の選んだことなんだな?」


「選ぶ、というほど大層なものではない」彼女は説明する。「ただ、そうした方が合理的だと思っただけ」


「そういうのは、だけ、とは普通言わない」


「そうなの?」


「ああ、そうだ」フィルは小さく頷く。「まあ、いいさ。面白そうだから、俺も見物させてもらうよ」


 看板が下がった一画まで来て、月夜は階段を下りてドアの前に立つ。何の躊躇いもなく把手に手をかけ、それを開いて店内に入った。


 案の定(という言い方はおかしいが)、カウンター席に知った顔があった。もっとも、彼の顔はいつも髪に隠れていてよく見えない。古ぼけたパーカーを身に着けて、垂れ下がった脚をぶらぶらさせている。見た目には似合わない低い声で、月夜に気がついて煤の方から声をかけてきた。


「今日は、もう来ないと思った」


 店内を進んで隣まで来ると、彼を見下ろしながら月夜は告げる。


「話したいことがあって、もう一度来た」


「もう一度? じゃあ、一回家まで帰ったのか?」


 煤を見つめたまま月夜は頷く。


「うん」


「へえ」煤は少し笑った。「それは愉快だな」


「隣に、座ってもいい?」


「どうして僕に訊くの? 椅子の所有権は僕にはないよ」


 煤の隣の席に腰を下ろし、月夜は落ち着く。店主がやって来たので、いつも通りホットコーヒーを注文した。


「話したいことって、何?」


 煤は相変わらずゲームをしている。手もとは動いているが、顔は月夜の方を向いていた。


「話した方が、いいかな、と思ったこと」


「それは、面白いこと?」煤は笑いながら尋ねる。「わざわざここまでやって来て、僕に聞かせるだけの価値があることなの?」


「それは、分からない」


「まあ、聞いてみないと分からないというのは、その通りだ」


「聞いてくれる?」


「もちろん」ようやく手もとに視線を戻して、煤は言った。「ただ、聞くだけなら、耳だけで充分だよね。貸してもよかったのに」


 カウンターの向こうから店主がやって来て、月夜の前にコーヒーの入ったカップを置いた。月夜はそれを一口飲み、喉を潤す。ただ、喉が潤ったという感覚はなかった。いつも通り、喉もとが少し温かくなっただけだ。ナイフを使って大動脈を切断すれば、同様の感覚が味わえるに違いない。


「煤は、ゲームが楽しい?」


 月夜の言葉を聞いて、煤は声を上げて笑った。


「まさか、それが話したいこと?」


「いや、違う」


「びっくりしたよ。そんなことを言うから」


「そういう話の方がいい?」カップをソーサーに戻して、月夜は尋ねる。


「いや」煤は首を振った。「君がしたい話をしてくれて構わない」


 もう話の内容は纏まっていたが、月夜は再度その展開を確認した。けれど、結局のところ、どこからどう説明しても、相手に伝わる情報に変わりはないと思った。それを聞いた際の印象が変わるだけだ。煤なら、きっとそんなことは問題にしないだろう。そして自分も……。


「今から話すのは、学校で起きた事件のこと」月夜は口を開いた。「本当は、煤に聞いてもらうべきことじゃないけど、今、聞いてもらえるのは、煤しかいないから、君に聞いてもらいたいと思った」


 月夜がそう言うと、煤は一瞬だけ彼女を見た。顔は笑っていて、でも目もとはよく見えなかった。


「君は、あの事件が、なぜ起こったのかを考えるべきだ、と私に指摘した。だから、その点について考えた。そうした方がいいと思ったから。それまでは、ずっと、どうやって起こったのかを考えていたけど、君が言う、なぜ起こったのか、それを起こした人物は、なぜそれをしようと思ったのか、ということについて考える方が、大事だと気がついた」


 フィルは月夜の膝の上で丸まっている。でも、時折耳を動かしているから、たぶん眠っているわけではない。怠け者の睡眠欲も、そこまで強くはないみたいだった。好奇心には勝てないのだろう。


「あの事件が起きたのには、ゼロと一に対する考え方が関わっている」普段は長く話すことがあまりないから、疲れるかもしれないと少し心配になったが、月夜は構わず口を動かした。「君は、この宇宙が始まる前は、ゼロだったのではなく、一だったと考える方がいいと、私に話した。いや、一の方が好きだ、と言ったのかもしれない。詳しくは覚えていないけど、とにかく、君はゼロか一だったら、一をとると説明した。私は、それまで、どちらかというと、ゼロをとる立場だったから、君の話を聞いて少し驚いた。ビッグバンが起こって初めて、宇宙が誕生したと思い込んでいたから、それを打破する君の考え方は、私にとって新鮮だった」


 煤は肩を竦めてみせる。たぶん、そのまま話を続けろという意味だろう。


「学校の食堂で、皿が割られたのには、その考え方が、関わっている」月夜は前提を繰り返す。「一番重視すべきなのは、やっぱり、皿が置かれていた、その状況。つまり、割られた皿が、ピアノの鍵盤と蓋の間に挟まれていた、という事実。これがすべてを物語っている」


 月夜は一度話を中断して、コーヒーを口に含んだ。苦味は感じなかった。ただ、やはり温度の伝達はあった。


「これは、私が知っていることだけど、割られた皿は、ピアノの鍵盤の一番端にあった。左ではなく、右の端。音は、一般的に低い方がスタートとされているから、皿があったのはゴールということになる。ピアノの鍵盤は、全部で八十八本ある。その内訳は、白鍵五十二本と、黒鍵三十六本。では、これがどのように関係してくるのか。それを考えなくてはならない。それを考えることで、この事件を引き起こした人物が、なぜそんなことをしたのか、分かるようになる」


 煤は店主を呼び出して、ミルクティーを新しく注文した。彼は月夜の方を見て、片方の手を上げて不敵に笑う。月夜も小さく頷いてそれに応じた。やがて店主がカップを持って戻ってきて、煤の前にそれを置いた。店主が戻っていってから、月夜は話を再開した。


「このとき重要なのは、ここに登場する要素の内、何がゼロで、何が一か、ということ。でも、ここに確固とした理論はない。だから、普通なら納得されないだろうし、理解できないと思う。でも、私には分かったから、それを話す」月夜は話を続ける。「まず、ゼロを表すものは二つある。一つは皿。そしてもう一つは、白鍵。そして、一を表すものはその残り。ピアノのすべての鍵盤と、黒鍵。なぜ、こうなるのか、煤には分かる?」


 月夜が尋ねると、煤は手もとに向けていた顔を月夜に向けて、笑ったまま答えた。


「鏡合わせになっているものは、一だからじゃないかな」


「その通り」月夜は頷いた。「正解」


 煤がミルクティーを飲んだから、月夜もコーヒーを飲んだ。


 そして、また口を開く。話すのは大変だったが、それでも、煤に聞いてもらいたいという気持ちがあったから、それに従った。


「一、つまりあることを認識するには、鏡がなくてはならない」月夜は説明した。「鏡は現実を映すから、鏡に映るものは存在する。反対に、鏡に映らないものは存在しない。つまり、それはゼロということになる。ピアノの鍵盤数は八十八だから、これは鏡合わせになっている。つまり、ピアノという一つの世界は、存在することになる。そして、それは黒鍵も同じ。黒鍵の数は三十六だから、これも鏡合わせになっている。一方で、白鍵の数は五十二だから、これは鏡合わせになっていない。最後に、皿はゼロを具現化したものだから、初めからゼロということになる」


 話している間、月夜はずっと煤を見つめていた。煤は彼女の方を向いていないが、彼女に見られていることは認識していそうだった。


「ピアノという世界は、確かに存在するのに、それを構成する要素には、存在しないものが含まれている。それは、もちろん白鍵のこと。だから、白鍵には消えてもらわなくてはならない。そうしないと、世界の始まりはゼロではなく、一だという考え方を、支持できなくなってしまう。消すにはどうしたらいいのか。最も簡単な方法は、ゼロを使うこと。この世界の理として、ゼロで割ることはできない。だから、ゼロを割るしかない。白鍵は全部で五十二本あるから、左から数えて五十二本目、すなわち、一番右端がその対象になる。だから、皿はピアノの右端で割られた。こうすることで、世界はあるべき姿になった。ゼロを消して、一を得た」


 月夜は告げる。


「これが、事件の真相。それを起こした人物が、なぜそうしたのか、という問いへの答え」


 月夜が説明を終えても、煤は暫くの間何の反応も示さなかった。ずっとゲームをしている。依存症というわけではない。むしろ意思を持ってそうした態度をとっているのだから、見る者によっては余計に嫌気が差すに違いない。


「なるほどね」ようやく顔を月夜に向けて、煤は感想を述べた。「素晴らしい答えだ」


 月夜は再度コーヒーを飲む。それでカップは空になった。一方、煤の方はまだ沢山残っていたが、もう冷め始めているみたいで、温かいものを注文した意味が薄れつつあった。


「君の答えは、本当に素晴らしいと思うよ」そう言うと、煤はゲーム機の電源を切った。椅子を回転させて、完全に月夜の方を向く。目も彼女を見ていた。「ゼロをとる立場ではなく、一をとる立場にするために、そうしなくてはならなかった。それは、一種の表現といえるだろうね。あるいは、通過儀礼ともいえるかな。いずれにせよ、そうした一連の儀式をしなければ、自分の考えを変更することはできなかった。その様を世界に提示し、誰かに見てもらうことで、初めて効力が認められる。たぶん、そう考えたんだろう」


 煤は脚を組む。


「君が今述べたことは、それを起こした人物が、なぜそうしたのかということだ。では、これはおまけのつもりで聞くけど、君は、あの事件は誰が起こしたと考えている?」


 煤の質問を受けても、月夜はすぐには答えなかった。理由はあった。今の説明だけで、そこまで伝わると考えていたからだ。彼にそう尋ねられることは予想外だった。ただ、それは低いレベルでの話であり、より高次のレベルでは、そう尋ねられることも予想していた。だから、答えられないわけではなかった。


「じゃあ、それを、煤に聞きたい」月夜は言った。「煤は、誰だと思う?」


 月夜の返答を受けて、煤は短く笑いを零す。前髪の隙間から覗く目も、今は笑っていた。


「僕は、君だと思うよ」煤は答えた。「だって、そうとしか考えられないだろう?」


「なぜ、そう思うの?」


「論理的に説明するなら、状況からそうとしか考えられないからだ」煤は話した。「今の君の説明には、僕に開示されていない情報が含まれていた。それは、皿が配置されていた位置に関すること。僕は、皿が鍵盤の右端に置かれていたことなんて知らない。君はなぜそれを知っているんだ? 事件が起きたことを知ったあとで、現場の様子を見に行ったから? そんなはずはないよね。だって、教師が生徒に事件が起きたことを伝える頃には、割れた皿はとっくに片づけられているはずだから。……君は、わざとその情報を今の説明の中に含んだ。それが僕へのメッセージのつもりだったからじゃないかな?」


 月夜は何も答えない。黙って煤の顔を見つめている。


「……今のは、論理的に考えたら、という話だけど、そうじゃない根拠もあるよ」少しだけ笑顔を消して、煤は言った。「それは、僕が煤だからだ」


 月夜は煤を見つめ続ける。


 彼も、それに合わせて、ずっと月夜の目を見つめていた。


「僕も、鏡合わせなんだ」煤は言った。「僕が煤であることは、君しか知らない。君にとって僕が特別な存在だとすれば、説明はつく」


「どう解釈するかは、君に任せる」月夜は言った。「……ただ、君には、感謝しておこうと思う。私の話を聞いてくれて、ありがとう」


 そう言って、月夜は煤に笑いかけた。


 首を少し傾げて、穏やかに。


 彼女の表情を見て、煤も笑った。


 いや、彼は、いつも笑っていた。


 お腹が空いたと言って、煤は食べ物を注文した。ハンバーグ定食、オムライスと続いて、今日はカレーライスだった。あまりにも定番のメニューだから、今まで注文したことがなかったと彼は言ったが、出てきた料理は簡素ながらも味わい深かったようで、大層満足した様子だった。


 彼が食事をしている様子を眺めながら、月夜は考え事をしていた。


 物事には、記述される側面と、記述されない側面がある。現実は一つしかないが、記述されると複数に分化する。その際に、情報のいくつかが欠落することがある。それが記述されない側面だ。


 一般的に、人間には記述されない側面を認識することはできない。けれど、記述される側面だけがすべてではないという前提のもとに行動することは可能だ。常に念頭に置いておくのは難しいが、怪しいと思った瞬間にそれを思い出すことくらいはできる。


 もしかすると、煤には、記述されない側面が分かるのかもしれない。


 彼を見ながら、月夜はふとそう思った。


「どうかした?」


 月夜に見られているのに気がついて、煤は彼女の方を振り返る。


「煤は、どうして食事をするの?」


 月夜は今思いついたことをそのまま尋ねた。


「どうしてって、食べないと生きていけないからだろう?」彼は話す。「月夜は、食べなくて大丈夫なのか?」


「ときどき、食べる」


「食べたいと、思わないのか?」


「うん、あまり」


「不思議な身体だ」


「煤は、ゲームをするために食べるの?」


「自分ではそうは思っていないけど、事実としてはそうかもしれない」


「それで、いいの?」


「自分がしたいことをするためだから、いいんだろう」


「外からの評価は重要ではない?」


「重要でなくはないが、気にするようなことではない」


「それは、一般論? それとも煤の意見?」


「一部の人たちの間では一般論。そうでない人たちには、僕の意見として聞こえる。月夜はどう思う?」


「私は、一般論だと思う」


「それなら、仲間だ」


「煤は、括られるのが好き?」


「いや、あまり好きじゃない。できるなら括らないでほしい」


「今、煤の方が括った」


「じゃあ、括るのは好きなのかもしれない」


「能動と受動?」


「そう。月夜は、どちらかというと能動的」


「そう?」


「ああ、そう」


「煤も、能動的だと思うよ」


「でも、僕は、受動的になりたい、と思うことがある」煤はカレーを一口食べる。「でも、なれそうな気配はない。きっと、僕の性に合っていないんだろう」


「合っていないことは、ないと思うよ」


「でも、自分ではそう感じるんだ。月夜は優しいから、そう言ってくれるんだろうな」


「優しい? 優しいと、好きは、どう違うの?」


「相反する概念。真逆だよ」


「なぜ?」


「求めないのと、求めるのとでは、違うだろう?」


「うん、違う」


「そういうこと」


「どういうこと?」


「今説明した通り。これ以上述べることはない」


「述べて、ほしい」


「それは、好きだ」


「述べてもいい、が、優しい?」


「それに近い」


「分かりにくい」


「それでいいんだ。分かりにくい。いい言葉じゃないか」


「言葉は、現実を映し出す?」


「映し出すこともあるし、映し出さないこともある」


「曖昧」


「そう。すべて曖昧。でも、それでいい」


「曖昧のまま、終わってしまってもいいの?」


「何が終わるの?」


「人生、命」


「終わるのさえ曖昧なら、いいんじゃないか」


「終点は確実に存在する」月夜は言った。「だから曖昧には終われない」


「でも、曖昧な終点を想像することはできるだろう?」


「できる」


「なら、それでいいじゃないか。論理的な説明がすべてではない。理論はやがて抽象的になる。その先にあるのは、やはり、曖昧なんだと諦めることだ」


「それが人生?」


「人生に限ったことではないさ。この世界の理のようなもの」


「ゲームの世界も、同じ?」


「ゲームの世界は、もう少し具体的。優しさの形も具体的で、だからそれは、本当は優しさでも何でもない」


「煤は、そういう優しさが、好きではない?」


「好きだけど、いつもはいらない」


「現実の優しさの方が、いい?」


「いいけど、すべてではない」


「優しくしてほしい、と思ったことがある?」


「あまり」


「優しくしたい、と思ったことは?」


「あるね、何度か」


「じゃあ、好きになりたい、と思ったことは?」


「あるよ」


「そういうときは、どうするの?」


「その気持ちが収まるまで、待つね」


「待つ?」月夜は瞬きをする。「自分からは、何もしないの?」


「我慢するんだ。我慢することも、自らはたらきかけることだとは思わないか?」


 月夜は少し沈黙する。


「思う」


「でも、月夜はそうではなかった。君の目的は、もう達成された?」


「途中で、諦めてしまったかもしれない」


「諦めることも、優しさの一つの形だ」


「好きと相対する概念?」


「そう。でも、一方通行じゃない」


「一方通行じゃない?」


「いや、そういう構造をしている、ということかな」


「よく、分からない」


「うん、僕も段々分からなくなってきた」


「でも、カレーは美味しいんでしょう?」


「美味しいよ。月夜も一口食べる?」


「私は、いらない」


「君の存在について、訊いているんじゃないよ」


「私は、食べない」


「そう。それじゃあ、また機会があれば食べるといい」


「うん。機会があったら食べる」


「そのときには、是非とも感想を聞かせてほしいね」


「そのときも、君はここにいる?」


「いるとは限らない。いなかったら、感想を保存しておいてよ」


「難しい」


「気持ちを保つことは、苦手?」


「苦手かもしれない」


「それなら、無理しなくていいよ。無理したって、何もいいことはないから」


「でも、ときには、無理をしなくてはならないことも、あるよね?」


「あるね、ときには」


「とき、とは?」


「過ぎ去って、もう戻ることのないもの」


 喫茶店のドアが開く。以前目にした、制服に身を包んだ男性が、個包装を片手に持って立っていた。また宅配便が届いたようだ。カウンターの奥から店主が現れて、一連の手続きを行って荷物を受け取った。荷物を届けた男性は礼をして、ドアの外に去っていった。


「月夜は、もう、僕がいなくても大丈夫そうだ」唐突に煤が言った。


 店の入り口に向けていた視線を戻して、月夜は彼を見る。


「どうして?」


「具体的な理由はないが、僕の体感」


「理由はないが、の、が、は、何を表しているの?」


「前提条件じゃないかな」


「逆説ではない?」


「たぶん」


「君がいなくなっても、私は大丈夫?」


「僕はそう思う。君はどう思う?」


「分からないというのが、正直なところ」


「素直で結構」


「煤は、私がいなくても大丈夫?」


 月夜がそう尋ねると、煤は声を出して笑った。


「僕にはもともと、君なんて必要ない」


「本当に?」


 月夜は煤を見つめる。


 やがて彼は肩を竦めた。


「まあ、そんなことはないかな。少なくとも、君と話をしている時間は楽しかった」


「それなら、よかった」


「なんか、言わされたような気がするけど」


「誰に?」


「君か……、そうでなければ、神様かな」


「神様を信じるの?」


「存在はしないかもしれない。一つの概念としては、あるいは」


「たしかに、それなら、信じてもいいかも」


「そうだよね」煤は頷いた。「結局のところ、形のないものを信じるのは個人の自由だ。証明のしようがないんだから。人間には心があると信じるのも、死んだ者が幽霊になると信じるのも、すべて自由だよ。その人が何を信じていても、他人がそれを評価することはできない。何しろ、もともと論理的な説明なんてないんだから。論理的ではないものを、論理的に評価することはできない。ただ、感覚的に評価することはできる。その人が信じるものを、好きか、嫌いか、述べることはできる」


「私は、煤の考えることは、好きだよ」月夜は言った。「ゼロと、一も」


「君は、一の方にシフトしたんだろう?」


 煤に問われて、月夜は少し黙る。彼の質問に、素直に肯定することはできなかった。


「本当のことを言えば、完全にシフトしたとはいえない。そちらの方に、少し傾いたと言った方が、正確だと思う」


「それでいいんじゃないかな。僕もそんな感じだよ。やっぱり曖昧で、でも、曖昧だからこそ応用が利くと信じている」


「その考えも、好きだよ」


「どうもありがとう」


 煤は椅子から立ち上がり、月夜を見下ろす。


「じゃあ、僕は帰るよ。たぶん、もう君の前に姿を現すことはない」パーカーのポケットに両手を入れて、煤は前屈みになった。「と言いたいところだけど、まだ先のことは分からないから、断言はしないでおこう。君が必要とすれば、また姿を現すかもしれない」


「約束、してくれる?」


「約束はしない。しなければ、守る義務も、破ったときの責任も生じないからね」


「私が望むのは、自由?」


「もちろん。きっと、それが一番の方策だ」


「分かった。さようなら」


「うん、またね」


 会計を済ませて、煤は店を出ていった。


 カラン、という音がして、喫茶店のドアが閉まる。


「よかったのか?」


 いつの間にか月夜の肩に載っていたフィルが、彼女に声をかけた。


「よかったよ」月夜は答える。


「また、会えるといいな」


「何が、いいの?」


 フィルは短く息を漏らす。


「物語として、いいだろうという意味だ」


 三十分くらい経ってから、月夜も喫茶店を出た。カウンターの上に伝票が残っていたから、それを持って会計へと向かったが、先ほど立ち去った少年がすべて支払っていったと、店主が教えてくれた。


 階段を上って地上に出る。


 街は静寂に包まれていた。


 もう少ししたら、日が昇る。


 でも、月夜は月夜だ。


 最近、月を見ていないなと、月夜は思う。


 それから、自分は煤を見たことがあるだろうか、いや、そもそも煤とは何だろうかと、彼女は自分に問いかけた。

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