第6章 図書室静寂

 夜になって、月夜は図書室に向かった。


 今日はフィルも一緒だった。とはいっても、彼は夜になるとかなりの確率で学校に来るから、今日はと断る意味はあまりないかもしれない。


 普通なら、図書室は施錠されている。退勤する前に、司書が鍵をかけることになっているからだ。けれど、どういうわけか、夜になっても開いていることがあった。司書が鍵をかけ忘れたのではない。おそらくだが、裏門が開いているのと同じ理由だろう。


 夜の図書室というのは、夜の学校というよりも幾分パワーワード度合いが大きいように思える。図書室も学校も閉鎖された空間には違いないが、前者の方がその体感がより一層強まる。本棚によって空間が切り取られ、全体を見渡すことが難しいからだ、と理由づけすることもできなくはないが、あまり意味はない。どこかに怪物が潜んでいても気がつかないかもしれないが、そもそも自分が怪物かもしれないという冗談を思いついて、月夜は一人で笑いを零した。


 そして、その様子を、フィルに見られた。


「どうしたんだ?」


 図書室の扉に手をかけていた月夜に、フィルが尋ねてきた。


「ううん」月夜は首を振る。


 彼女は、少しだけ口を開けて、息を零すように笑っていた。目も少し細くなっている。ドアの把手に触れていない方の手を上げて、口もとを僅かに押さえている。肩が震えていた。それに合わせるように、垂れた繊細な髪が空気を撹拌する。


「大丈夫か?」


 フィルに再度問われて、月夜は頷く。


「うん……」


「何か、いいことでもあったのか?」


「いや、ないけど」いつもより大きな声で、月夜は話す。「面白かったから」


「何が?」


「自分が」


「自分?」


「そう」


 ドアの把手を握ったまま、月夜は振り返ってフィルを見る。


「なんか、くだらなくて」彼女は言った。「私、どうしてこんなことしているのかな?」


 フィルの黄色い瞳が彼女を捉えている。見つめられても、月夜はまったく動じなかった。それは、彼女の方から彼を見つめているからだ。


「月夜、落ち着くんだ」フィルが低い声で言った。


「落ち着くって?」


「息を整えて、静かにするんだ」


「なんで?」


「いいから」


「どうでもいいよ、そんなこと」月夜は饒舌に話す。「楽しいし、可笑しい」


「月夜」


「何?」


「落ち着け」


 フィルに言われ、月夜は動きを止める。


 暫くの間月夜はフィルを見つめていたが、目を閉じると、片方の手を胸の辺りに持っていって、何度か息を吸い込んだ。


 再び、目を開け、月夜はフィルを見る。


 もう、彼女は笑っていなかった。


「落ち着いたか?」


 問われて、月夜は頷く。


「うん……」その場にしゃがみ込み、彼女はフィルを抱きかかえた。「迷惑かけて、ごめんね」


 上履きからスリッパに履き替えて、月夜は図書室に入る。左手にカウンターがあったが、当然誰もいなかった。本の返却ボックスが置かれているが、中に本は入っていない。右手には、図書委員のお勧めの本がスタンドに立てられて掲示されている。それらには手を触れずに、月夜は部屋を奥へと進んだ。


 俯瞰的に見れば、図書室は至ってシンプルな構造をしている。中央に読書や勉強をするためのスペースがあり、入り口を除いた三面に配置された本棚に囲まれている。月夜がよく使うブースは、中央のスペースの内の右手にある。彼女は左に進んで、図鑑の類がある書架の前までやって来た。


 特に目的としている本はなかったが、とりあえず昆虫図鑑を手に取って開いた。当然、中には昆虫の写真と、それに伴う説明が掲載されている。ただ、蜘蛛や百足など、昆虫ではない虫もいくつか載っていた。何を分類するにしても例外というものはあるようだ。印象の世界では同一のグループに属するのに、論理的な思考で再度分類し直そうとするのは、エネルギー効率的にはどうなのだろうか。


「何をしに来たんだ?」


 月夜の膝の上に載っているフィルが、彼女に質問した。


「特に、目的はない」月夜は静かに答える。


「なるほど。放浪ってやつか」フィルは話した。「でも、そういうのも悪くはないな。どちらかというと、俺の好みに合っている」


「それなら、よかった」


「俺のために、こうしてくれたのか?」


「違うよ」


「うん、だろうな」


「分かっているのに、どうして訊くの?」


「よかったよ。いつも通りの月夜で、安心した」


 昆虫図鑑を戻して、月夜は今度は植物図鑑を取った。同様に、植物図鑑には、植物に関する事柄が掲載されている。木も花も、すべて植物のようだ。タツノオトシゴは植物ではないらしい。


「今日、何かあったんだな」


 フィルの声が聞こえて、月夜は彼を見た。


「何かって、何?」


「学校で、何か起きたんだろう?」


「どうして分かるの?」


「月夜を見ていれば分かる」フィルは悠長な口調で答える。「で、何があったんだ?」


 その質問をされることを想定していなかったから、月夜は話を纏める必要があった。理解されやすいように順序を整理し、確かめる。八十パーセントくらい整理されたと判断してから、彼女は口を開いた。


「割れている皿が、見つかった」


「皿?」


「そう、皿」月夜は説明する。「今日の朝、食堂で見つかったらしい。ステージの上にあるピアノの、鍵盤と蓋の間に挟まれていたみたい。破片が一部なくなっていたから、そこで割られたんじゃない。昨日の放課後に食堂を使っていた部活動の顧問は、そのときにはなかったって言っている。そして、当然施錠もされていた。そういうことが起きて、話題になっていた」


 月夜の顔を下から見上げて、フィルは話した。


「なるほど。大事件ってわけか」


「事件なのかどうかは、分からないけど」


 少なくとも、月夜はそんなふうには捉えていなかった。状況から見て事故とはいえないのは明らかだが、悪戯程度の認識で良いように思える。やった本人にも、大した意味はないに違いない。そこまで計画的なものではなかっただろう。


「割れていた皿は、この学校のもので間違いないのか?」


「間違いない、とはいえないと思う」月夜は話す。「皿の種類が、食堂のものと同じだったから、先生たちは問題だと考えているんだと思うよ。学校のものを、壊したから、器物破損として認識しているんだと思う」


「どうして、皿の破片がなくなっていたんだろうな」フィルは興味深そうに言った。「本当に、そこで割られたわけじゃないのか? どこかに破片が飛んでいるだけとか、そういうことはないのか?」


「私は、見に行っていない」


「まあ、飛んでいく前に蓋は閉まるはずだから、違うんだろうな。……その破片というのは、本当になくなったのか?」


「そういうふうに見えるんだから、そうなんだと思う」月夜は意見を述べる。「なくなった、と認識できるということは、あまりにも小さいわけではない、ということになるのでは?」


「たしかに、そうだな。そうすると、やっぱり誰かが持ち出したってことになるのか」


 植物図鑑に載っている内容は興味深かった。それは、たとえそれが植物に関することでなくても、そう感じることだ。自分の知らないことを知るのは、面白いことだ。図鑑には、自分の知らないものが沢山記されている。


「それで、月夜は、今のところ、どんなふうに推理しているんだ?」


 フィルの問いを受けて、月夜は彼を見下ろした。月夜はしゃがんでいて、フィルは彼女の膝に載っているから、かなりの近距離だった。


「推理?」


「だって、そうだろう? 謎なんだから、解決しようとしなければ、面白くないじゃないか」


「私は、解決しようとしても、面白いとは感じないけど」


「じゃあ、俺からの頼みだ。解決しようとしてくれ」


 顔を近づけて、月夜は自分の頰をフィルの頰に触れさせる。


「どうして?」


「面白いからだ」


「私は、面白くないよ」


「俺が面白いんだよ。だから、俺のためにと言っているじゃないか」


 一度フィルを見つめて、月夜は頷く。


「分かった」


 答えてからも、月夜はずっと植物図鑑を見ていた。昆虫図鑑よりは惹かれるものがあるような気がした。もちろん、フィルの頼みを無視しているわけではない。同じ情報処理でも、頭の使っている部分は異なる。


 図書室の窓はいつも締め切られている。だから、今日一日分の空気が今も残り続けていた。辺りは暗いのに、いつもと変わらない空気が漂っているというギャップが、幾分奇妙に感じられる。こんな場所で毎日を過ごしている司書は、最早それをギャップとは感じないだろう。きっと、そういう空間として認識しているに違いない。


「部活動の顧問が、嘘を吐いている」唐突に、月夜は口を開いた。「昨日、最後に食堂を使ったのは、ダンス部だから、その顧問が嘘を吐いている。施錠する前に、食堂の皿を割って、それから、ピアノの鍵盤と蓋の間に挟んだ」


「おいおい、まさか、それを推理だと言うつもりじゃないだろうな?」


 フィルに笑いながら指摘されて、月夜は心外だという顔をした。


「どうして? これじゃ、駄目?」


「駄目だ。なぜなら、まったくもって面白くないからだ」


「でも、論理的」


「エンターテイメントとしては、論理的かどうかなんて、大した問題じゃないんだ」諭すような口調でフィルは説明した。「客が求めているものは何か。結局のところ、面白いかどうかだ。論理的とか、メッセージ性があるとか、そういうのは二の次でいい。辻褄が合わなくても、矛盾していても構わない。最終的な指標は、面白いか否か。ただそれだけなんだよ」


「これは、エンターテイメントなの?」瞬きをして、月夜は尋ねる。


「そうだ」フィルは当たり前だという顔で頷いた。「推理なんだぜ? エンターテイメントに決まっているだろう」


「ごめん。よく、分からない」


「だから、面白くしてくれればいい」


「論理的じゃなくてもいいの?」


「もちろん、できるだけ論理的な方がいいさ」フィルは話す。「でも、面白いかどうかの方が重要だ」


「難しい」


 植物図鑑を仕舞って、月夜は立ち上がる。フィルを両手で抱きかかえたまま移動した。


 先に進んでいくと、今度は人文学系の本が並べられた区画になった。図書室の本は特定の記号によって分類されている。この図書室専用のものではなく、国全体として定められているルールだ。だから、どこの図書館に行っても、この分類さえ知っていれば、自分が求めている本を探すことができる。


 月夜はまたその場にしゃがみ込む。今度は哲学に関する本を手に取った。図鑑ほど分厚くはないが、ハードカバーで、図書室の本に特有な透明のフィルムがかけられている。今はコンピューターで管理されているので、貸し出し用のカードは入っていなかった。


 たぶん、哲学が、最も知識を必要としない学問だ、と月夜は考える。


 もちろん、哲学の分野にも累積された知識は存在する。けれど、それを得ることで学問に対する知見が深まるかというと、そういうわけではない。


 哲学とは、自分の中で、簡単な言葉を使って考えるべきものだ。たとえば、「なぜ生きているのか」という問いには、(あくまで哲学的だというだけで、哲学とは呼べないのではないかという根本的な問題は置いておいて)誰もが考え答えを出すことができる。もちろん、そこに予め用意された答えはない。しかしながら、その一連の過程を経ることで、自己や他者に対する理解を深めることができる。これが学ぶということであり、学問の最も根本的な形だと、少なくとも月夜は考えている。


 知識を自分の内に留めることも大切だが、結局のところ、それはある事象を特定の呼び方で呼んでいる、つまり記号化しているだけであり、何と呼ぼうと言っていることに変わりはない。具体ではなく抽象の方が大事だということだ。抽象的な事柄について考えることは、偉人ではなくてもできる。誰でも参加できるというのが、学問の在り方として相応しい。


 本のページを捲りながら、月夜は別のことを考える。


 新たな思いつき。


 それをもとに、再び話を構築していく。


「皿は本当は割られていない」本に目を向けたまま、月夜は口を開いた。「以前に割られていた皿が、そこに配置されただけだった」


 フィルは顔を上げて、彼女の話に耳を傾ける。


「破片が揃っていないことは、それで説明がつく。時間が経っていたから、保存状態が悪くて、すべて揃っていなかった。そう……。何者かが何らかの事情で割ってしまって、見つかるのが怖くて隠していた。けれど、やっぱり公にした方がいいと判断して、再び取り出した。でも、全部は揃っていなかった。食堂に持ってきて、どうしようかと迷ったけど、やっぱり怖くなって、どこかにそっと示せないかと考えた結果、ピアノの中に隠した」


「その何者かは、どうやって食堂に入ったんだ?」月夜の説明を聞いて、フィルが質問する。


「食堂には入っていない」月夜は答えた。「いや、入りはしたけど、表向きは、皿を隠そうとしていたわけじゃない。ピアノを運搬する、という目的だった。ピアノの脚にはタイヤが付いているから、運ぶのはそこまで大変ではなかったはず」


「そうすると、やっぱり、物理的に食堂に侵入したということになるな。その場合、割れた皿を食堂に運んだのは、ピアノに近しい人物ということになる。割ったのは、音楽教員か? ピアノを移動する権限がある人物といったら、そのくらいしかいないと思うが」


「うん、じゃあ、そうかも」


「しかしその場合、皿を割ったことを公にするという目的を果たすには、手間がかかりすぎる。なぜ、初めからほかの方法を選ばなかったんだ? ピアノを運ぶというのは、あまりにも大袈裟すぎる。鍵盤と蓋の間に皿を挟んで、その状態で運んだんだろう?」


「うん」


「話が破綻しているな」


 フィルがそう言うと、月夜は正直に応えた。


「ほかには、何も思いつかなかった。面白ければ、いいんだから、これで、いい?」


「うーん……」フィルは声を漏らす。「さっきよりは面白いが、今度は論理性の方が欠けている」


「これを基に、今度はフィルが、何か考えてみたら?」


「ピアノを運搬する、というアイデアを使ってか?」


「そう」


 月夜がそう言うと、フィルは沈黙した。


 月夜が今説明したことは、最早話が破綻しているというレベルではない。そもそも、成り立っていない。それは彼女も自覚していた。論理的な説明ができそうになかったから、思いついた要素をそのまま並べただけだ。


「まあ、俺には無理そうだな」やがてフィルは言った。「面倒そうだし」


「面倒そうなことを、私にやらせたの?」


「そうだ。いけなかったか?」


 月夜は首を振る。


「いけなくはないよ」


「考えてみると、意外と楽しいものだろう?」


「そう?」


「楽しくないか?」


「あまり」月夜は首を振る。「私には、理解できなかった」


 図書室は静かだ。冷徹だといっても良い。二人だけの空間は、普通、二人の周囲にしか存在しないが、今はそれがこの部屋全体に拡大したように思える。


 月夜は立ち上がり、また辺りをぶらぶらと歩き始めた。けれど今度は立ち止まることはせずに、書架の間を行ったり来たりした。「行ったり来たりした」ではなく、「行ったり来たりするだけに留まった」という言い方はどうだろうか。しゃがみ込んで本を読むことが、書架の間を歩くことよりもレベルが上だと、果たして述べることができるだろうか。


「毎日が、新鮮で、面白そうだ」月夜の腕の中でフィルが言った。


「どういう意味?」月夜は尋ねる。


「ここに並ぶ、本たちだよ」フィルは話す。「毎日、色々な人間の手に取られるんだ。きっと、新鮮で楽しいに違いない。知らない人の傍に置いてもらえる。もしかすると、家まで連れていってもらえるかもしれない」


「人気のない本は、そうでもないよ」


 月夜の言葉を受けて、フィルは薄く笑った。


「そうかもな。それなら、唯一選んでくれたその人が、運命の人ということになる」


「何の話をしているの?」


「自分の話」


「自分の?」


「なんとなく、俺に似ていると思わないか?」


 月夜は書架に並ぶ本に目を向ける。


「似ている、とは思わないけど」


 フィルが言っているのは、おそらく自分の生い立ちに関してだろう。けれども、月夜にはそれが似ているとは思えなかった。外見的な特徴なら似ているかもしれない。本はどれも保存状態が良いが、中身は古臭い。フィルにも同様のものを感じる。


 図書室を出て校舎を歩き回った。


 普通なら監視カメラに捕捉されるはずだが、今のところ誰にも注意されたことはなかった。監視カメラは職員玄関の傍に設置されている。そして、職員玄関から続く廊下を数十メートル進んだ先に図書室への入り口があるから、月夜がそこを出入りすれば、捕捉される可能性は高い。でも、今までにそういうことをしても、教師から指摘を受けたことはなかった。


 何か、自分に特殊なバリアが張られているのかもしれない、と月夜は考える。


 廊下を歩いていると、向こうの方から何かが転がる音が聞こえてきた。


 月夜は立ち止まる。


「何の音だ?」


 フィルに問われ、月夜は正面を向いたまま首を振る。


 廊下の先は闇に包まれている。確認するなら足を前へと進めるしかない。


 リノリウムの床はつるつるしていて、ゴム製の上履きで歩くと妙な感触がした。小学生の頃からずっと傍にあった感覚だが、月夜は未だに慣れていなかった。というよりも、彼女は歩くという行為にすら慣れていない。どのくらいのテンポで、どのくらいの距離で足を前に出したら良いのか、いまいち分からない。


 転びそうになるわけではなく、でも慎重に、月夜は歩みを進める。


 廊下の先に、小さな鉛筆キャップが転がっていた。


 その場にしゃがみ込み、月夜はそれを手に取る。透明のもので、どこにも罅は入っていなかった。


 ふと、風を感じて、顔を横に向ける。


 階段の踊り場にある窓が、開いたままになっていた。


 先ほど音がしたのは、ここから入り込んだ風がキャップを動かしたからみたいだ。


「誰かが、閉め忘れたのかもな」フィルが言った。


「誰かって、フィルじゃないの?」


 自分の腕の中にいる彼を見つめ、静かな声で月夜は尋ねる。


 フィルは得意気に奇妙な笑みを浮かべて、首を傾げた。


「さあ、どうだろう」


 鉛筆キャップをブレザーのポケットに仕舞い、月夜は再び歩き始めた。階段を上って上階へ向かう。上った先には音楽室があったが、当然、今は施錠されていて入れなかった。


「月夜は、音楽の授業はとったか?」


「覚えていない」フィルに問われて、月夜は首を傾げる。「とった、かもしれない」


「なんで、忘れているんだ?」


「外的な原因があるのかも」


「頭をぶつけでもしたのか?」


「した」


「いつ?」


「今日の朝、ロッカーで」


「扉を開けっ放しにしていたってことか?」


「そう」


 月夜の話を聞いて、フィルは口を窄めてひゅうと音を出した。


「それは最高だな」


「最高に痛かった」


「月夜の中の最高って、どのくらいなんだ?」


「レベルの、上限」


「上限を百としたら、百なのか?」


「九十九」


「じゃあ、百は何と呼ぶんだ?」


「百はない」


「ない?」一度は尋ねたが、フィルはすぐに納得したみたいだった。「ああ、空白ってことか」


「そう」


「お前らしいな。それで、自分を制御しているわけか」


「おそらく」


「その方法は、俺は試したことがないんだ」フィルは飄々とした口調で話す。「どうだ? 体感としては、制御しやすいか?」


「個人的には」


「俺も、試してみようかな……」


「フィルは、今のままでいいんじゃない?」


「どうして?」


「少なくとも、私は、今のままがいい、と思う」


「それは、そっちの方が好きってことか?」


「うん、好き」


「そう言われると、余計に迷う」


 昇降口で靴を履き替えて、月夜は学校の外に出た。


 裏門から敷地の外に出て、いつも通り線路沿いを歩く。すぐ傍を赤い車体の電車が通り過ぎていった。この時間ならまだ電車は走っている。寄り道をしなければ、日付が変わる前に家に帰れるかもしれない。


「今日も、あの喫茶店に行くのか?」フィルが尋ねてきた。彼は今は月夜の隣を歩いていた。


「まだ、分からない」月夜は答える。「駅に着くまでに考える」


 左手に踏切が出現する。今は音は鳴っていない。バーも上がっている。特別マニアなわけではないが、どちらかというと、月夜は点灯している踏切が好きだ。あの赤色の点滅があってこそ、踏切は踏切たりえると感じる。非常事態のような雰囲気も良い。単調なリズムだが、繰り返される警鐘は心に響くものがある。


 この辺りは昔から変わっていなかった。いや、月夜がこの高校に通い始めたのは二年前だから、そのときからのことしか彼女は知らないが、長年通っている教師の話や、学校で配られたパンフレットによると、そうらしかった。最近になって駅の設備に改築工事が行われ、その一帯は開発されつつあるが、少し離れれば歴史を感じさせる町並みが広がっている。歴史を感じさせるというのは、時代レベルではなく、せいぜい世代レベルの話だ。


 高校の隣には大学がある。敷地は狭い。横は建物に挟まれているので、どちらかというと縦に長い構造だ。キャンパスという感じの形状ではあるが、どこか物足りないような感じがする。言い方は悪いが、なり損ねたというような雰囲気を纏っている。それに反して、月夜が通う高校は、なり損ねてはいないが、なってから堕落した感があった。完成する前に時間が経過したか、完成してから時間が経過したかの違いだろう。


 空は暗い。夜だから当然だ。


 道は狭い。建物と線路に挟まれているのだから当然だ。


 夜は深い。今は太陽が地球の裏にあるのだから当然だ。


 靴の先に石が当たる。計算していたわけではないので偶然だ。


 全然面白くない、と月夜は思う。


 ただ、そう思うこと自体は面白かった。


 大学を通り過ぎた頃、傾斜のある土地が右手に見えてきた。そこにはブルドーザーや小型のクレーンが置きっぱなしになっている。公園を作るために以前から工事が行われている場所だった。今のところ公園らしい面影はないから、本当にそんなものが作られるのかは分からない。ただ、作ると言っているのだから作るのだろう。空間にはいつの間にか意味が与えられ、そして意味はいつの間にか人々の心に馴染む。


「それで、どうするんだ?」


 駅へと続く階段を上る月夜に、フィルが尋ねた。


「まだ、考え中」月夜は端的に答える。


「考え中って言ったって、もう改札はすぐそこだぜ」


「あと、何段くらい?」


「階段を上りきっても、少し歩く必要がある」


「あと、何歩くらい?」


「数えたことがないから、分からないな」


 階段を上りきって駅舎に入る。平坦な道を進み、やがて道は三方に分化する。左に行けばモノレールの乗車口に、右に行けば駅ビルの入り口に、そして、正面に進めばバスのロータリーに繋がっている。


 誰もいない三叉路に、突如として少年が現れた。


 彼は、正面から出現した。


 今日も、パーカーを着て、その両ポケットに手を入れて、俯き気味の姿勢で歩いていた。


「今、決まった」月夜は呟く。


「ああ、そうだな」フィルが応じた。

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