第5章 大動脈横断
学校から出てバスロータリーまで来たときには、すでに日付が変わっていた。いつものことだから、特に珍しくはない。もちろん、フィルも一緒だった。彼は月夜の前で眠ることがあるが、本当に眠っているのかは分からない。彼女にそういう姿を見せたいだけかもしれないし、あるいは、誰かによって眠るように仕向けられているという可能性も、まったくないとはいえない。
ロータリーの周りを歩いているとき、向こうから少年が一人歩いてくるのが見えた。人通りはまったくないから、彼が歩いている姿は非常に目立った。近づかなくても、月夜にはそれが煤だと分かった。いつも通りの格好で、いつも通り気怠げに歩いていたからだ。
月夜の姿に気がついて、煤が片手を上げて挨拶した。なんとなく月夜もそれに応じた。
「今日も、あそこに行くの?」
月夜が尋ねると、煤は小さく頷いた。
「いや、でも……」彼は少し上を向く。「やっぱり、やめた」
「どうして?」
「今日は、もう、いいかな、と思ったから」
「何について、いいかな、と思ったの?」
「ゲームの練習?」
「どうして、疑問形?」
「今日は、外を歩きたい気分なんだ」月夜の質問を無視して、煤は言った。「君は、どうする?」
どうする、という問いの解釈をするのに一分ほど要したが、月夜は彼についていくことにした。最近ずっと例の喫茶店に通っていたが、たまには違うことをしてみるのも悪くないと思った。
歩きたくないとのことだったから、月夜はフィルを自分の両腕で抱きかかえた。ちなみに、他人の両腕で抱きかかえることはできない。その場合は、抱きかかえさせる、もしくは、抱きかかえてもらう、という。
バスロータリーの前には、この地域一帯を通る大通りがある。煤は大通りを右に曲がったので、月夜も彼の隣に並んで歩いた。
月夜と煤の距離感は、すでに適切なものに調整されていた。何度か会う内に自然とそうなったのだ。意識的に調整しようとしなくてもそうなるから、不思議なものだと月夜は思った。ただ、そういう力はほかにもいくつか存在する。磁力や引力の類が最も典型的な例だろう。
街は静まり返っていた。大通りでも、自動車はほとんど走っていない。ただ、信号機だけは相変わらず自らの使命を全うしていて、無条件にエネルギーを消費している様が、月夜には見ていて気持ちの良いものではなかった。
「煤は、学校には行かないの?」
珍しく、月夜は自分から口を開いた。
「行かないだろうね、当分は」他人事のような口調で煤は答える。「今は、そのポテンシャルが、僕の中にはない」
「ずっと、ゲームの練習?」
「大抵は」
「それは、凄いね」
飾り気のない言葉を受けて、煤は隣を歩く月夜に笑いかける。
「お世辞、ありがとう」
お世辞で言ったつもりはなかったので、月夜は心外だったが、そうも受け取れるかもしれないと、自分の発言を反省した。
「ゲームはいい。現実と違って、規則が簡単だ」顔を上に向けて、煤は話した。「パターンごとに次の可能性を想定できるから、事実として誰でもクリアできる。たぶん、本当は現実でもそうなんだろう。でも、僕には荷が重すぎる。一言で言えば、怠いってことになるかな。先は見えづらいし、そもそも、適用する規則を間違えれば、あとがすべておじゃんになる。ゲームでは、そういうことは起こらない。先も見える。そして、失敗すればすべて自分の責任だ。現実と違って、どのような影響がどのように作用したのか、誰のせいなのかと考える必要もない」
「……他人のせいにするのが、嫌いなの?」
「嫌いとは言っていない。ただ、自分の責任だと明らかな方が、気負わなくて済む。面倒じゃない」
「面倒じゃない」
「君も、楽を求めるだろう?」
煤の言葉の意味を考えて、月夜は頷く。
「そうかも」
歩道橋を渡った。頂上まで来ると、すぐ傍に線路が見える。飛びつけば掴まれそうな距離だった。ただ、そういうふうに自殺を図る人間はいなさそうだ。やはり典型的なやり方が良いのだろう。そうでないと、適切なミーニングとして人々に認識されないからに違いない。
階段を下って、隣にコーヒー屋。
この辺りには、意外と喫茶店が多い。反対方向にも一軒あることを、月夜は知っていた。
「空が綺麗だ」
唐突に発せられた言葉を受けて、月夜は顔を上に向ける。
けれど、雲がかかっているだけで、星は見えなかった。
「煤は、こういう空を、綺麗、と感じるの?」
月夜の質問を耳にして、煤は顔を正面に戻す。数秒の間を開けてから、彼は頷いた。
「たぶん」彼は訊き返す。「君は?」
「分からない」
「そう……。まあ、どう感じるかは、人それぞれだ」
アインシュタインの相対性理論、という言葉を月夜は唐突に思いついた。直前まで物理の勉強をしていたわけではない。何の前触れもなく、唐突にある単語が頭の中に浮かぶことが、彼女の場合よくある。ほかの人がどうかは分からない。
「煤は、数学は、できる?」
タイミング良く自動車が二人の傍を通過して、声が掻き消されてしまいそうだったが、月夜の質問は煤の耳まで届いたみたいだった。
「数学はできない」煤は答える。「君は?」
問われて、数学ができるとは、どういう意味だろうか、と月夜は自分で考えた。自分がした質問なのに、どのような回答が適切なのか考えていなかったのだ。
できる、の基準を設けていないことが難点だった。でも、それは主観的に決めれば良いことだ。それでも月夜が答えられないのは、彼女の主観的な視点のレベルが低いからだった。
「できる、かもしれない」
月夜の返答を聞いて、煤は笑う。
「それは、そうだろうな」彼は言った。「それなら、僕だってそうだ」
「ゲームをするには、数学の技術は必要?」
「必要ない。先が読めるのも、技術ではなく、経験に起因する」
「経験するには、時間がかかる」
「そういうこと」煤は頷いた。「結局のところ、何でもそうだろう。要するに、天才だって努力をしているってことだ。時間を超越した存在は、この世界には存在しない。それは許されない。何をするにしても時間という資源が必要なんだ。それがなくては何もできない。ローマは一日にしてならず。まさに言い得て妙だ。今日いきなりできるようになるなんてことは、絶対にない」
「煤は、努力した?」
「した」
「どのくらい?」
「数千時間かな」
「それは、長い、と感じる?」
「長いとは感じない」煤はポケットに入れていた手を出して、自分の首に触れた。「あとから振り返ると、数千時間という形で可視化されるだけだ。時間の中にいる間に、それを意識することはない。人生って、そういうものだろう?」
「人生を、語れるの?」
月夜は問う。横目で彼女を見て、煤は小さく首を捻る。
「たしかに、そうだな。まだ語れないかもしれない」
「まだ?」
「いや、ずっとか。死んだところで、ようやく完結するんだからな」
途中で大通りを横断した。反対側の歩道を歩く。そちらは繁華街のような雰囲気で、ラーメン屋や薬局など、多種多様な店が軒を連ねていた。ただ、今はどれも閉まっている。生塵に埋もれたリンゴの芯のような寂しさが漂っていた。
「ゼロと、一だ」
唐突に、煤が言った。
「ゼロと、一?」月夜は訊き返す。
「ゼロから始まったのか、一から始まったのか」煤は説明した。「この宇宙が誕生する前は、何もなかったと言われている。けれど、本当にそうなのかな。もしそうだとしたら、それはどういう状態だったんだろう。だって、そこには何もないんだ。しかし、何もないという状態を、僕たちは想像することができない。僕たちの周囲には、常に何かがあるからだ。今だって君がいる。君が僕の傍からいなくなっても、それは僕との距離が離れただけで、君は間違いなくどこかに存在する。それなのに、宇宙が誕生する前には何もなかったと言われる。それはどういうことだと思う?」
段々と煤との会話のテンポが掴めなくなってきたから、月夜はモードを切り替えることにした。
「想像できないように、プログラムされている」
「それが、君の考え?」
「うん」
「つまり、宇宙が誕生する前には何もなかったという、考え方自体は合っているということ?」
煤の言葉の意味を考えて、月夜は頷いた。
「そう」
「僕は違うと思う」煤は意見を述べる。「たぶん、考え方そのものが違うんだ。何かを証明するときに、前提が間違えていれば、その後のすべてを間違えることになる。そうすると、論理的に考えているはずなのに、答えが出ないという窮地に追い込まれる。今の話もそうだ。つまり、前提が間違えている。宇宙が誕生する前はゼロだったんじゃない」
「一だったと、考えるの?」
前を向いたまま、煤は頷いた。
「そうだ」
机の上に林檎が一つある絵を描くことはできる。それは、そこに林檎があるからだ。同様に、机の上にバナナが一つある絵を描くこともできる。同様に、それも、そこにバナナがあるからだ。
しかしながら、机の上に林檎がない絵を描くことはできない。それはバナナの場合も同様だ。もし机の上に何もない絵を描いたとしても、それは机の上に林檎がない絵、または机の上にバナナがない絵にはならない。何もないが故に、ないのが林檎なのかバナナなのか判断できず、実質的に同じ絵になってしまうからだ。
この論は、ないというのが、ゼロだという解釈に基づいて述べられている。
だから窮地に追い込まれる。
では、ゼロだという解釈をやめて、一だという解釈にシフトした場合、どうなるだろう?
机の上に林檎がある絵を描くことができるのなら、そのある方の絵を基準にない絵を描けば良い。
机の上にある林檎の上に、バツ印を被せてしまえば良いのだ。
これで、机の上に林檎がない絵が完成する。
この場合、机の上にバナナがない絵を描くこともできる。そして、机の上に林檎がない絵と、机の上にバナナがない絵の判別をすることも可能になる。どちらとも、ある、つまり一を基準にして描かれているからだ。
小さな橋に到着した。煤はその場で立ち止まり、欄干に肘を載せて下を覗き始めた。
川が見える。
その行く先を見ると、海があるのが分かった。
「君は、受験をするんだろう?」煤が言った。「こんな所にいて、いいのか?」
「一緒に行こうって、言わなかったっけ?」
「言っていない」
「そっか」
「いや……」途端に声を小さくして、煤は話す。「言ったかな」
「何か、悩み事があるの?」
「悩み事?」髪に隠れた目を細めて、煤は月夜を見る。「なぜ?」
「なんとなく」
「それは、君の方じゃないのか?」
「私?」
「そう」
「どうして?」
「なんとなく」
沈黙。
「……どうして、僕を好きになりたいと思ったんだ?」
風が吹いてきた。遠くの方に光る何かが見える。海のさらに先。それは背が高く、存在感を放っている。
「自分でも、分からない」
「本当は、自分を好きになりたかったんじゃないのか?」
「自分を、好きに?」
「誰かを好きになれば、その人にも自分を好きになってもらえる。そうすれば、自分の価値を認められる。そうやって、自分のことを好きになりたかった。違うか?」
「自分を好きになって、どうするの?」
「どうもしない。ただ、それでなんとなく落ち着くだけだ」
「煤は、自分のことが好き?」
「好きでも嫌いでもない」煤は話す。「一応、グループ分けをしている」
「グループ分け?」
「色々な自分に分けっているってこと」
月夜の腕の中にいたフィルが、地面に飛び降りた。それから柵を器用によじ上って、欄干の上に大人しく座った。
「ゲームが上手い自分は、それなりに好きだ」煤は話を続けた。「でも、ほかの自分はあまり好きじゃない」
「何人もいるの?」
月夜が尋ねると、煤は声を出して笑った。
「物理的にってことじゃないよね?」
「うん」月夜は頷く。
「いる」
「何人くらい?」
「さあ……。十人か、あるいはもっとか……」
「十人で、足りる?」
「今のところは。君は?」
「私は、今のところ、一人しかいない」
「……本当に?」煤は横目で月夜を見る。
「本当に」
橋の左右に道が続いている。そして、橋の下には川が流れているから、線が十字に交差しているようにも見える。右には商店街が、左には病院があった。病院の窓には所々明かりが灯っている。今も働いている人がいるのかもしれない。
「一人で寂しくはない?」
煤に問われ、月夜は応える。
「寂しい、とは?」
「分からなければ、いいよ」
「煤は、誰かに似ている」
月夜の言葉を聞いて、彼は振り向いた。
「誰?」
「分からない。でも、誰か」
「その誰かが、好きだったのか?」
「分からない。でも、確か」
「確か?」
「ごめんなさい」
「どうして、謝るんだ?」
「謝りたくなったから」
「素直だな」
「そう言われることは、あまりない」
「そこの、彼には?」
そう言って、煤はフィルを指差す。
月夜は煤を見つめる。
「ごめん、冗談さ」彼は笑った。「許してよ」
それ以上先へと進むことはしなかった。駅から大分離れてしまうからだ。とはいっても、たぶんもう電車は走っていないから、月夜はまた歩いて帰宅することになる。煤も、今日は帰るみたいだった。明日またあの喫茶店に顔を出すらしい。
煤と別れて、駅まで戻ってきて、階段を下りて、月夜は帰路についた。
「変わり者だったな」月夜の隣を歩きながら、フィルが言った。
「煤が?」月夜は尋ねる。
「いや、お前が」
「私?」
「あいつと話しているときのお前が、変わり者だったんだ」
「どう、変わっていたの?」
「噓吐きだった」
「嘘吐き?」
「自分でも気がつかなかったはずだ。構造的に、気がつくはずがない」
フィルにそう言われて、月夜は気がついた。
「そうかもしれない」
「でも、あいつは悪いやつじゃなさそうだな」フィルは言った。「お前の周りにいるやつは、大抵悪いやつじゃない。きっと、運がいいんだろう」
「うん」
「それは冗談か?」
「そう」
また、歩道橋を渡る。今度は、線路よりもこちらの方が高い。
「あいつとの関係は、どうするつもりだ?」フィルが唐突に訊いてきた。
「今まで通りで、いいと思う」
「それが、お前が望むことか?」
「うん」
「そうか。それならいいが」
「何か、言いたいことがあるの?」
「いや、何も」フィルは奇妙な笑みを浮かべ、片方の目を細くする。「ただ、俺と遊ぶ時間が減るのは困ると思ってな」
「遊びたいの?」
「ああ、遊びたい」
「猫じゃらし?」
「そんなものは通用しないぜ」
「じゃあ、何がいい?」
「一緒に、遊園地に行こう」
フィルに向けていた顔を月夜は逸らす。
正面を向いて、沈黙する。
「悪い」フィルは謝った。「気を悪くしたみたいだな」
フィルの言葉を聞いて、月夜は首を振った。
「そんなことはないよ」彼女はまたフィルを見た。「それをしたときに、自分がどういう状態になるのか、計算していただけ」
夜はまだ続く。
*
翌日、学校に行くと、ある一つの出来事が起きた。いや、起きていた。
朝のホームルームで、担任が、事件が起きたことを告げた。一階にある食堂の皿が、割られていたとのことだ。割られていたのは平皿で、被害は一枚に留まったが、明らかに人為的なものであり、現在詳細を調査しているとのことだった。
学校という場所では、少なからず事件が起きる。それは学校に限らず、多数の人間で構成されている社会であれば共通していえることだ。大抵の場合、それは意図的なものではない。要するに、事件に見える事故であり、そして、加害者にその自覚がないことが少なくない。
しかしながら、今回は、そうした不特定多数起こる事件とは、少々性質が異なっていた。
まず、皿というものは、教員が部屋に持っていったりしない限り、食堂にしかないものであり、それが割られたとなれば、何らかの事故で割れたのではなく、文字通り何者かによって割られたということになる。
次に、割られた皿を見つけたのは、食堂に務める業務員の一人であり、それが今朝のことだった。食堂が使われるのは生徒が昼食をとる時間帯だが、その後もいくつかの部活動によって使われるため、放課後になっても開いていることが多い。したがって、実際に施錠されるのは部活動の活動時間が終わったあとで、それをするのはその部活動の顧問ということになる。しかしながら、昨日食堂を練習場所として使ていたダンス部の顧問は、割れた皿など見つからなかったと主張している。
そして、最後に、その割れた皿が見つかった場所が問題となっており、それがこの事件の最大の謎として、日常に嫌気が差していた数多くの生徒を引きつける要因となった。
割れた皿は、食堂の中にあるステージ、その上にあるクラシックピアノの鍵盤の上に置かれていた。
普通、ピアノには、鍵盤を保護するための蓋が付いている。皿は鍵盤とその蓋の間に挟まれており、蓋が完全に閉まっておらず、不自然な状態になっていたことから、食堂の業務員の目を引く結果となった。
そして、謎はもう一つあった。
皿の破片は、すべて揃っていなかったのだ。
一見すると、鍵盤とその蓋の間に皿を配置して、勢い良く蓋を閉めることで皿を粉砕したとも考えられるが、実際にはそうではなかった。というのも、仮にそうした場合、細かい破片が鍵盤の隙間に入り込んだり、鍵盤自体に傷がついたりするはずだが、そうした痕跡が見つからなかったのだ。そして、皿の一部が欠けていたというのも、そのようにして割られたのではないことを裏づけている。鍵盤と蓋の間に挟んで割ったのであれば、破片はすべて揃っていなければならない。しかし、実際には、皿はピザのように一部が欠けている状態で発見された。
そんなわけで、朝のホームルームが終わったあと、教室の中はこの話題で持ち切りだった。受験生といえど、勉強に対するモチベーションが謎解きのそれを上回ることはない。インタレスティングという観点からいえば、勉強などその程度のものなのだ。
そんな生徒の様子を、月夜は自分の席から眺めていた。
そして、不思議だな、と思った。
彼女には、どうしても、それが特別面白いことだとは思えなかった。たしかに不可思議なところはあるが、現実として成り立っているということは、本当は謎でも何でもないということだ。
一時間目の授業はこの教室では受けないので、移動する必要があった。
月夜は、立ち上がって、ほかの生徒よりも一足先に教室を出た。
*
昼食をとる時間になって、月夜は中庭に向かった。なんとなく、突発的にそうしようと思ったからだ。それは普段図書室に行くのと同じで動機で、彼女にとっては特別なことではなかった。
中庭にも何人か生徒がいて、食事をしていた。エネルギーを補給しなければ、生き物は皆生きられない。
中庭の中心には、噴水がある。
月夜はその縁に腰をかけて、目を閉じた。
当然ながら、流れる水の音が聞こえた。せせらぎと呼べるかと問われたら少し違う気がするが、でも、聞いているだけで落ち着く音だ。人工的に作られた水の流れだが、だからといって、それが自然に劣るとは感じない。少なくとも、彼女の体感としてはそうだ。水の流れに人工も自然も関係ない。
そっと目を開け、正面を見る。そこには、食堂があった。こちら側は一面が硝子扉になっていて、そこから内と外を行き来することができる。いつも通り食堂は賑わっていて、皆楽しそうに笑っていた。誰かと食事をとるという行為は、楽しいことなのかもしれない。食事を楽しいと感じたことがないから、月夜にはよく分からなかった。ただ、彼女もそこで食事をしたことがあったから、その情景を頭に思い浮かべることはできた。前者は想像で、後者は回想だ。
中庭は、まるで箱庭のように切り取られている。周囲を校舎の高い壁で囲まれ、空もそこだけ際立って見える。校舎は天まで届いているわけではないから、ずっと向こうまで空は広がっている。でも、そこだけ四角く切り取られているように見える。こういうのをフレーム効果と呼ぶのだろうか。
フレーム……。
今の自分の生活は、フレームによって規定されていると、月夜は考える。自分の考えというものが元来主観的なのは当たり前だが、それだけではなく、自分を取り巻く環境そのものが、フレームによって囲われているように思えるのだ。彼女はこの辺り一帯の外に出たことがない。理由はなかった。ただ、出ていくだけの動機を持たないというだけだ。けれど、出ていこうと思えばいつでも出ていけるわけだし、なぜ自分がそうしたことに興味を抱かないのか、彼女はそんな自分が疑問に感じられた。
小規模な衝動なら起こる。今の彼女のように、昼休みになると教室の外に出ていこうとするのもそうだ。教室というフレームから飛び出して、図書室なり中庭なりに行きたくなる。けれどもそれが、自分が住んでいる地域という大きなフレームの外へ出ていく衝動へと、昇華されることはない。彼女の生息範囲はそのフレームによって規定されており、それ以上は区画外として処理される。
いや……。
そこまで考えて、彼女は思い出した。
違う。
それは違う。
自分は、一度、いや……、もしかすると二度?
少数だが、彼女はそのフレームの外に出たことがあった。
数ヶ月前のことだ。
そして、そのときには、彼女のほかにもう一人いた。
そう……。
そのもう一人は、そのフレームの外に出たきり、戻ってきていない。
座ったまま、月夜は自分の足もとをじっと見つめた。ブロック状のアスファルトの隙間から飛び出した雑草が、午後の風を受けて揺れている。音は聞こえないが、運動はしている。それに反して、彼女の状態は真逆。運動しているといえるかは不明だが、心臓が生み出す拍動が、音として自分に認識されていた。
座ったまま、彼女は考える。
自分は、その、もう一人と連絡する手段を、持っている。
それなのに、どうして、今まで連絡しようと思わなかったのだろう?
珍しく、彼女の頭は速く回転していた。いつもはブレーキをかけているのだ。度を超えると、自分で自分を制御できなくなることを知っているからだ。それは他者に迷惑をかけることに繋がる。だから普段は押さえている。けれど今は、その枷が外れ、まだ制御棒が一部刺さったままではあるものの、封印されていた機構がゆっくりと稼働しつつあった。
連絡しなかったのは、なぜか?
なぜ、連絡しなかったのか?
重複。
ならば訂正。
連絡しなかったのは、なぜか?
怖かったから?
それとも、現段階の自分で良いと、満足していたからか?
もう一度、あの頃の自分に戻るのが、嫌だったからか?
寂しくないと、強がっていたからか?
今は、一人ではない。
けれど、いつか必ず一人になる。
そのときまで、とっておこうと思ったからか?
激しい頭痛に襲われて、月夜は両手で額を押さえた。頭蓋骨が砕け、そこから脳漿が染み出してくるように、それは内側から生じる痛みだった。
顔を上げて、周囲を見渡す。
いつの間にか、辺りから人がいなくなっていた。
立ち上がろうと、両脚に力を込める。
その場に崩折れて、沈黙。
それでも立ち上がろうと、地面に手をついたとき、授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
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