悲しい思い出にひたって何でもよしにしようなんて考えないで下さい!
震えるお師匠さまについて、控え室代わりの小会議室に入った。
「先生……」
大丈夫ですか? と声をかけようとしたけれど、その言葉に被せるように「大丈夫よ」とお師匠さまは返答した。
でも、全然大丈夫そうじゃない。
顔は蒼白、という言葉どおり、血色もなく、今日は少し汗ばむくらいの気温なのに、ガタガタ震えている。
思い詰めたような眼差しは、いつもならまっすぐ私を見てくださるのに、今日は視線が合わない。
「本当にごめんなさい。今日は、失礼させていただくわ」
「お宅までお送りします」
「そんな。だいじょ……」
「大丈夫じゃないです。私を安心させると思って、付き添わせて下さい。私のためにお願いします」
卑怯な言い方かも、と思ったけど、こうでも言わないと絶対お師匠さまは聞いてくれないって思ったから。
そうして会議室に置いてあったお師匠さまの荷物の入った風呂敷包みを抱える。
ガッチリと包みを抱き締めた私を見て、お師匠さまは諦めたようにため息をついた。
「そう言うところは、本当に映子さまそっくりね」
「え?」
映子、はお母さんの名前。
もちろん、お師匠さまと知り合いだけど、今、『映子さま』っておっしゃったよね?
いや、確かにお母さんの方が年上だけど、いつもは『女将さん』とか『中沢さん』とか呼んでいるのに。
「先生……? 母と……?」
どんな関係? って訊きたいけど、うまく言葉にできない。
「あら、つい。……ついてきてくださるんでしょう? 私の家で、話しましょう」
悲しげに、でも決意を込めた目で、今度はしっかり私を見てくれた。
「中沢さん、これ」
小会議室を出ると、高村先輩が私のカバンを持って廊下で待機してくれていた。
「あとはこちらで整えておくので、今日はこのまま」
「はい。ありがとうございます」
「……千野先生は、理事長についていらっしゃるわ」
高村先輩が小さく私に耳打ちした。
けれど、お師匠さまにも聞こえたみたい。
小さくビクッと肩を揺らしたのが分かった。
やっぱり、お師匠さまの異変には理事長が関係あるんだろうか?
千野先生……リクは、関係ないよね?
もやもやした思いが胸に渦巻いたまま、私はお師匠さまを家までお送りした。
うちとは少し方向が違うけど、桜女から徒歩で20分くらい。
わりと近い。
「ありがとう、茶朋さん。どうぞ入って」
勝手知ったる、とは言え、今日に限っては、お師匠さまの家に入るのは緊張した。
お稽古に使う水屋付きの広間と、お師匠さまのプライベートエリアを備えた、小さな二階建ての一軒家。
プライベートエリアには何度かお邪魔したことはある。小さな台所と繋がった、いわゆるダイニングキッチンと、2階は寝室兼用の和室。
もともと2DKの売家だったのをリノベーションしたって聞いている。だから、お稽古用の広間以外は、ごく普通の和洋折衷のお家。
「今、お茶を入れるわ」
「それなら私が……」
「いいえ、ちょっと気持ちを落ち着けたいの」
キッチンでお湯を沸かし、お師匠さまは茶碗と急須を取り出す。
少し待っていると、沸騰を知らせるやかんの笛が鳴る。
沸いたお湯を急須に入れ、今度はそのお湯を茶碗に注ぐ。残ったお湯を捨てて、急須に茶葉を入れると、少し冷ました茶碗のお湯をゆっくり急須に注ぐ。
しばらく蒸らしてから、茶碗にお茶が注がれる。
「おとっときの玉露なの」
淡い黄みがかった緑茶からは胸が透くような幽かな香気が立ち込める。
「いただきます」
ほんのり温かいお茶を口に含む。トロリとした感触のほのかに甘い口当たり。飲み込むと爽やかな香りが柔らかく鼻に抜ける。
最高級茶葉である玉露は、熱湯ではなく50度程度のぬるいお湯でゆっくり蒸らしながら淹れる。
今は電熱の調温ポットもあるから簡単だけど、沸かしたお湯を感覚だけで調温して美味しいお茶を淹れるのは、やっぱり経験が必要なんだろうな。
「こうして、茶朋さんと何度も一緒にお茶を飲んで……もう、何年になるかしら」
「私が小学生になってすぐの頃に初めてこちらに伺ったと思いますので……もう10年くらいでしょうか?」
「そうなのね。あっという間。でも、実は私、茶朋さんのことは産まれたら頃から知っているのよ?」
「そうなんですね」
なかざわのお菓子は、私が産まれるよりずっと前、お師匠さまがこの教室を開かれた頃から使っていただいているのだと伺っている。
たぶん、お姉ちゃんが産まれて、私が産まれる、ちょうど間くらい。
だから、私の記憶がない頃にも、きっとお師匠さまには会っているのかもしれない。
「東京で修行して、そのあと関西の本部に移って、何とか資格を取ってから、お教室を始めようと考えたんだけど。そうは言っても、先立つものもなければ、簡単には生徒さんも集められなくて悩んでいたの。そんな時、たまたまお会いした高校の先輩が、色々相談にのってくださって。本当は故郷に戻るつもりはなかったのだけど、背に腹はかえられなくて、ここで茶道教室を開くことにしたの」
「……故郷に戻るつもりがない……」
「ええ。この地を離れるって決意して、上京したのに。……いえ、本心は、戻りたかったのかもしれないわ。先輩の好意を言い訳にして、仕方がないからって、自分をあざむいて」
「先生は、桜女の卒業生なんですよね」
「ええ。実は、退職された松前先生にも教えていただいていたのよ。だから、桜女には近付かないようにしようと、今まで講師もお断りしていたの」
「そうなんですか? でも、松前先生はなんとも……」
「在学中と名字も変わっているので、お気づきになられなかったのでしょうね。私も、地元の集まりは避けていたから。先輩の伝手で、なるべく桜女に関係がない方面で生徒さんも集めていたから」
そう言えば、お師匠さまが茶事を開かれる時に借りるお茶室も、ほとんど市外の施設だった。
遠方から講師に来ていただいていた坂川先生とは逆に、お師匠さまは他所へ出向かれることが多いな、とは感じていた。
「では、私の入門を認めていただいたのは、例外に近い扱いだったんですね」
「ええ。それに他でもない、映子さまのお嬢さんが私に師事したいと聞いて、ご恩返ししなくては、と思ってもいたの」
「母とは、桜女で?」
「ええ。2つ上の先輩でした。私が困っているのを知って、色々支援してくださったのよ。この家も、映子さまが探して下さって。お稽古に使うお菓子も、安く融通してくださったり。本当に、高校生の頃と変わらず、りりしくてお優しいお姉さまで」
「そう、だったんですね」
「元気がよすぎて、たまに先生方から叱られていらっしゃったけれど。でも、後輩が困っていると、同年生や先生方にも後先考えず堂々と立ち向かっていかれるような、勇ましいお姉さまで、とても慕われていらしたのよ」
元気よすぎて……後先考えないとか、私、お母さんに似ているのかも。
「……映子さまが、先輩が私のために骨を折ってくださるのが申し訳なくて、一度はお断りしたの。そうしたら『このまま何もしなくて、もしあなたがもっと困ったことになったら、私は一生苦しむと思うのよ。だから、私のために、私を助けると思って、おせっかいを受けてちょうだい』とおっしゃって。先ほどの茶朋さんの言い方が、まるでそっくりで。やっぱり親子なのね」
嬉しそうにお師匠さまに微笑まれ。私はなんだかこそばゆい気持ちになった。
けれど。
ここまで聞かせていただいたからには、やっぱりさっきの件も、確認したい。
理事長と、何があったのか。
『故郷に戻るつもりはなかった』っていうことに、関係しているのかな?
「……さっきのこと、やっぱり、知りたいのね?」
顔に出ていたらしく、お師匠さま、困ったように苦笑する。
「はい。理事長とお知り合いなんですよね?」
お師匠さまの名前を呼んでいたし。
「ええ。もう二度と会うことはないと思っていたのに。いえ、会わないようにしようと、決めていたの。でも、ダメね。故郷に戻ることになった時点で、会う確率は高くなったのに。心のどこかで、もしかしたら、どこかですれ違うだけでも出来るかもしれないと。自分から会いに行く勇気は出ないのに……他の誰かのせいにして、仕方なく、と言い訳して、会えたら、なんて」
「理事長のこと……お好きだったんですか?」
「……ええ。自分から身を引いたつもりだったのに。こんなに未練がましいなんて。もう二度と会わないって、決めたのに。あの子にも」
「あの子?」
子? 子供?
「……茶朋さん、あの子、あの方は、久弥さん……理事長さんの、お身内なのよね?」
「あの方、って……千野先生、ですか?」
「『せんの』……と名乗っているのね。でも、本当は、『ちの』なのよね?」
「……私からは、何とも」
そう答えを濁したけれど。
千野先生の名字が『せんの』ではなくて『ちの』って読むのは、……たぶんそう。
だって、桂山公園でデートした時、確かに『ちの』って言っていた。
あの場では、なんとなく聞きづらくて、そのままにしちゃったけど。
高村先輩が言っていたように、何かの理由であえて違う読みで名乗っているのかもしれないし。
少しずつ、色々なことを教えてくれているから、リクが自分から話してくれるのを待ちたかったし。
だから。
私の口から、あやふやなことは言えない。
でも。
お師匠さまの、言い方。
これって。
リクが、お師匠さまの、子供かもしれないってこと、だよね?
今のお母さんは、本当のお母さんじゃないって言っていた。
リクは、本当は伯父さんの子供なんだって。
和菓子が大好きな、伯父さん。
それって……理事長?
はにかむように笑った顔が、似ているって思った。
そして、その理事長と、報われぬ恋をしていたらしい、お師匠さま。
身を引いたって……我が子を手放して?
でも、顔を見ただけで、気が付いていたよね?
年齢を確認して、がっかりして。
でも、そっくりなお兄さんがいるって嘘を聞いて、すがるような目をして。
本当は、ずっと会いたかったんだよね?
「お願い、教えてほしいの。あの方が、あの子なのだとしても……私は決して名乗るつもりはないの。こんなこと急に聞かされたって、迷惑でしかないでしょうし」
「迷惑、ですか? 名乗るつもりもないのなら、これ以上関わらなければいいのでは?」
「それは……せめて、知りたいの。あの子が、どんな風に成長したのか。それだけ確かめられたら、もう、心残りはないのよ」
心残りって……。
こんなことになって、リクが何にも気付かないわけないのに。
「あの方は、センノ、リクさん、なのよね?」
「これ以上のことは、私からは言えません。なので、本人に話してもらえませんか? もしその通りなのだとしたら、きっと、あの人も、本当のことを知りたいと思います」
とても悲しい悲恋の思い出だけど。
聞いていて、私は腹が立って仕方がなかった。
うなだれるお師匠さまを、私は怒りに満ちた目で見つめた。
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