第12話

「おいしかった、ですね。」


体感で小一時間は軽く過ぎていた。携帯のディスプレイを確認する。デジタルの針は二十時を示している。こんな時間になっているとは驚いた。

確かに片ノ瀬の言う通り、どれを食べてもおいしくて、舌鼓を打った。

五感から遮断されて生きてきたウラにとって、味、というのは新しいものだった。尤もオモテ越しの情報として、あくまでも電気信号としての記憶で受け取ってはいた。けれど自らの舌で感じる味、舌触り、温度、どれもこれも全て今までの情報が嘘のように新しかった。そして、素晴らしかった。

産まれたての五感、みたいなものなのだ。外界から受ける全ての刺激が新しい。折角なら全ての情報を享受したいのに、良くも悪くもそれをしばしば忘れてしまうのは片ノ瀬が忙しない心情にさせてくれるからだろう。

目の前で相変わらず少し頬を染めている片ノ瀬は満足げだ。何故食べ終わっても未だ頬が染まっているかって、それは食前酒と称して酒を嗜んでいたからだ。

勿論ウラも舐める程度に頂戴した。二人揃って飲んで大丈夫かと訊けば、代行頼むから大丈夫、ちょっとだけ呑みたい、と言っていたはずだ。

ちょっとだけ、とは。

食事が終わるまで告白の返事は待ってと言ったのは片ノ瀬なのに、忘れてしまったのかと聞きたいくらいのご機嫌っぷりだ。

どうしたものか。とりあえず相槌を打ったが、ちらりと見たら頭がゆらゆら左右に揺れている。それを見た瞬間どっと疲れた気がして肩を落とす。


「おい、酔っ払い。」

「ええー。酔ってませんん。もー、そんな風に見えますかあ?」


典型的なやつだと思った。

最早さっきの返事どころではない。代行に早く来てもらって、とっとと解散したい。


「それ以外の何に見えると思ってる。酔っ払い。帰るぞ。」


すみません、と呼べば、すかさず店員の女が現れる。片ノ瀬はだらしなく両腕を伸ばしてぺたりと突っ伏していて、何やら幸せそうにうわ言を言っている。立派なテーブルと行き届いたサービスを提供してくれたこの店に申し訳なさを覚えて、すみません、と謝り、会計と代行を頼む。すると女は小さく肩を揺らした。


「片ノ瀬さんでもこんな風になるんですね、珍しい。よっぽど楽しかったのかしら。」


耳を疑った。ウラの知っている片ノ瀬はお気楽男だったから、呆れ果てはしたが予想外という程の事でもなかったのに。

女は少々お待ち下さい、と言って消えて行った。


「おい片ノ瀬、どういう事だ。お前、ただのお花畑じゃなかったのか。」


勿論、問い掛けても返事はない。寝ているのではなく、相変わらず突っ伏したまま独り言に励んでいるからだ。

ウラの知っている片ノ瀬はしつこいお花畑で、今日一日でなんと言うか、忠犬のような位置付けになっていた。許せないとは相変わらず思ってはいるが、悪気があったわけではないというのは分かったし、協力を快諾するだけの理解を示してくれているのも嬉しかった。


(そうか、嬉しいのか、俺は。)


すとん、と不意に、まあるいものが落ちて来たような気がした。すっぽりと収まった棘のない感情に、心が律動する。

邪魔だ、許せない、憎い、と、角張った心の持ちようだったけれど、まあるい不意打ちを正面から突っ返すほど子供ではないつもりだ。

物理的には今日一日でかなり振り回したが、心理的に振り回されて不快にならなかったのはそういう事かと腑に落ちる。

失礼します、女の声がした。


「お代はお預かりしておりましたので、代行を呼ばせていただきました。間もなく到着しますので、お外でお待ちください。」


お外で。

最後の最後で本当に物理的に振り回されるってやつか、と、思わず声に出していた。





つづく。


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