第8話

まずはお友達から、みたいなノリで、片ノ瀬の車からサングラスを拝借する。黒みががったブラウンの、ボストン型のサングラスはなかなかに洒落ていて悪くない。


「じゃあ、これからヨロシク頼むわ。色々と。」


別にオトモダチになるつもりは毛ほどもなかったが、片ノ瀬は存外律儀で真面目らしい。小洒落たサングラスにご満悦になっているその横で、未だにウラの語った全てに頭を抱えている様子だ。挨拶は聞こえているのか否か、うーん、うーん、と、さっきから唸ってばかりいて煩いったらなかった。


「ほれ、さっきの買いもんの金。これで足りるか?」


靴まで買ってきてもらったのだ、財布から諭吉を五枚程出して差し出すと、片ノ瀬は要らないとばかり手のひらで押し返してきた。


「んだよ、いらねえの。この靴、安モンじゃねえだろ?」


この公園の周辺で、一式揃えようと思ったら思い当たる店舗はひとつだけだった。この辺りは都内ではそこそこの地価だから、周辺で買い物をすれば諭吉が何人か財布から消えて無くなることは誰でも知っている事だ。

生意気にも大衆向けの衣類チェーン店の袋に変えてあったが、分からないとでも思ったのか。衣類のタグを見ればすぐにわかる事だった。詰めが甘い。


「いや、いいんです。高いものしか買って来れなかったのは俺なんで、そのまま受け取ってください。」

「そ?なら遠慮なく。悪いね、こんなお世話してもらっちゃって。」

「いえ、いいんです。俺に手伝えることなら何でもしますから。」

「領収書切ったら出ねえの。」

「出ませんね。」


刑事というのもなかなか厳しい。

唸るのはやっと終わったようだが、片ノ瀬の眉間には深い皺が入っている。


「あ、髪染めるんですよね?ドラッグストア行きましょう、俺も用事があるので。」


どうぞ、と助手席を勧められる。遠慮なく座らせて貰って気付いたが、その車はどうも刑事課のものではなさそうだ。片ノ瀬の車なのだろう。革のシートは座り心地がよくて、嫌味さのない内装は好印象だ。今日は非番だったのか、それともわざわざ切り上げて来たのかはわからないが、なかなかいい車だった。


「そーか、じゃあ頼む。」


暫くの沈黙。片ノ瀬と饒舌に会話こそしているが、本来ウラは一人でいることを好む性分だ。サスペンションがしっかりしていて丁度いい具合の揺れを感じるこの車で、ただ揺られているのは心地良かった。

ーーーオモテ。オモテ、寝てるのか。

呼びかけても相変わらず返事はない。瞼を閉じても姿は見えず、ただちいさな存在感、ちいさな息遣いのような、魂動のようなものだけが頭のどこかにひっそりとある。

片ノ瀬を使ってどうにかオモテを目覚めさせる。このか弱い生き物のために、自分の全てをかけてやる。


「あの。…薪浦さん?」


決意新たに前を見たら、不意に横から控えめな声が聞こえた。


「ん?」

「薪浦さんは、叶さんじゃないわけですけど、俺はなんて呼んだらいいんだろう、と思いまして。薪浦さんでいいのかな。」

「ウラ。」

「え?」

「ウラ、でいい。それはオモテの名前だ。俺の名前じゃない。」

「でも、じゃあ…ウラ、さんの、名前は。あるんでしょう。」

「ウラでいいって言ってんだろ。しつけえよ。」


苛立ちを覚えた。そんなことはどうでもいいだろうと。俺はウラだ。それ以上でもそれ以下でもない。

本当は、自分にも名前はあったのだ。ずうっと前のことだけれど。オモテが産まれるずっと前、ウラには確かに名前があった。その事をオモテは知らないし、言うつもりもない。勿論、片ノ瀬にも言うつもりはない。

名前とは不思議なもので、魂を縛るのだ。

オモテがウラと呼んでから、ウラはウラになった。それでいい。

釈然としない顔でこちらを見る片ノ瀬の姿が視界の端に見えた。早く動けばいいのに。赤信号が、やけに長く感じた。


「前見て運転しろ。」

「…わかりましたよ。」


信号が青に変わる。

ウラは静かに目を閉じた。




つづく。

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