第2話

鼓膜が振動する感覚があった。喧騒が俺を包んでいた。

雲ひとつ無い青を彩る緑、白、赤、黄色。まるで極彩色にも感じる光が、暖かく俺を包んでいた。

手を動かす。握り締めてみると、そこに感じたことのなかった体温を感じた。

瞬きをすれば、春のそよ風が睫毛を掠めた。


ああ、これが五感。


欲しいとは思っていなかった。興味はあっても、五感を欲したことは無かった。

そんなことより、自分にはもっと大事な役割が、大切な事があったから。


「あ、あー…あいうえ、お。」


声を出してみる。違和感はない。ただ、発声による声帯の振動で、喉にむずむずとした感覚がある。こんなむずむずにあいつは、オモテは耐えていたのか。それとも生まれながらのもので、オモテのやつらはなんとも思わないものなのか。まだまだ分からないことだらけだ。

さて、ここでウラは最初の壁にぶち当たる。

果たしてオモテはどんな声で普段を過ごしていたのか。どんな仕草、どんな癖で、どんな様子でいたのか。

ウラはオモテの心を誰よりも深く理解していたし、オモテが二つの眼球に映した世界をウラはしっかり見ていたし、記憶していた。そして解釈し、理解をしていた。けれどあくまでもそれはオモテの見る世界であって、他者から見たオモテを知っているわけではないのだ。

つまりここでもしオモテを知る人物から接触があると、オモテはその人物の知るオモテではないのだ。オモテは今、ウラの中で眠っているのだから。

暫く考えに耽るべくと、近くのベンチに向かう。

休日だと言うのにここの公園は閑散としたもので、それはひとえにここが先日起きた凄惨な事件現場だからに他ならない。


オモテはこれでも立派に社会人としての責務は全うしていたように思う。オモテは中学生やそこらの餓鬼ではない。助けてなんて言ってはいたが、もう二十を過ぎたひとりの男だ。まあ、立派かどうかは別として。

オモテは頭脳明晰すぎたのだ。昔からそうだった。ウラは知っていた。オモテがウラを認識するずっと前から、ウラはオモテを見ていたから。

自己顕示欲の低い子供だったオモテ。だのにその風貌や聡明さに周りはオモテを持て囃していた。執拗に大人達が構えば構うほど、目立ちたくないはずのオモテは目立ってゆき、そして孤立していった。それをウラはオモテの中でじっと見ていた。

ついさっき、オモテは瞼の中のウラを格好良いと言ったけれど、オモテの中にいるウラの風貌を形成しているのはオモテの意識なのだから、それは現実のオモテの風貌とそう大差ないものだ。つまり何が言いたいかと言えば、オモテが思うほどオモテ自身は萎びた風貌ではなく、寧ろ精悍な部位に入るのだ、ということだ。それをオモテはまるで自覚していないどころか、背中を丸めて小さく小さくなろうとばかりする。

それはウラも知るところだったが、かと言ってウラの性分でそんなこぢんまりとした事は一分だって出来そうもない。

ウラはまさに、オモテのウラだった。性格は真逆。寂しがり屋のオモテとひとりでいたいウラ。気の小さいオモテと豪胆なウラ。こわがりで気の小ささが相俟って人と接することがまったく出来ないオモテの隙間を、ウラはずっと埋めてきた。ウラがオモテになって代わるのは今日が初めての事だったが、ひとりでいたいウラにはけれど社交性があると自己評価している。理由は簡単、ウラがオモテのウラだからだ。

ウラの全てはオモテの為にあるのだ。必要とされなければ、オモテが助けを乞わなければ、ウラはずっとオモテの中でひっそりとオモテを支えるつもりだった。夢の中で、彼の精神世界の中で、そっとオモテを守っていようと。

そして唯一、聡明なところだけは共通していた。ただしオモテはすこし抜けている節があった。それに対してウラはそういった所がなかった。だからこそ、わかっていた。一度ひとたび姿を見せてしまえば、オモテはずっと自分に甘えるだろう、と。

けれどオモテはウラを呼んだ。厳密には、壊れそうだったのだ。誰かに必要とされている事に気付けない孤独が、存在理由なんてものを考え始めてしまったオモテを少しづつ少しづつ蝕んでいたのだ。それを食い止めていたのは紛れもなく、オモテを育ててくれた唯一無二の存在、祖母だった。祖母の名は和代かずよといった。

オモテに母はいない。父も、いない。いたのは祖母ただ一人。和代はオモテを溺愛していたとウラは思う。昔ながらのひとだったから、躾に厳しいところはあったけれど、たくさんのあたたかい愛情をオモテに注いでいるように見えたが、オモテはいつも一歩引いていた。和代がいくら愛情を表現していても、和代以外から与えられた大人達への疑念、疑心がオモテの心を頑なにしていた。そうしてどんどんオモテの心は壊れていった。

『 ぼくが何をしたの、おばあちゃん。どうしてみんな、ぼくに気に入られようとするの。ぼくはすごくない、ぼくは普通なのに、ぼくは、ぼくは…』

期待と羨望と、そういったものは時に重たく子供の心に影を落とすのだとウラは思った。

和代は懸命にそんなやつらのことは相手にしたらいけないと教えたけれど、多勢に無勢というやつだった。

秀才、神童、そう呼ばれたオモテは、ある日願ったのだ。

楽に、なりたい、と。




つづく。

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