第102話 一歩一歩、ゆっくりと

「今日はありがとうございました。」


夜も更けて、流石に泊まらせていただくわけにはいかないので俺は一人帰ろうとしたのだが。


起きていたさくやさんが駅まで見送りに来てくれていた。


当然のように起きていたお義母様が送り出してくれたときの意味深な微笑みが、頭に残っている。


「こちらこそ、ありがとうございました。」


「突然来ていただいて本当にすみません」


「いやいや、とても楽しかったです。」


お家を出たのが少し早かったのか、終電が来るまでまだ少し時間があった。


社会人同士で始まった頭下げ合い合戦が簡単に収まることはなく、数度やり取りした上でお互い同時に頭を上げることによって止まった。


冬と春の間の名もなき季節。


まだ冬の残り香を感じるこの夜に、風が吹けばガタガタと音を鳴らす駅舎がその寒さを遮りきれるはずもなく。


さくやさんは口元に手を持っていって、はーっと白い息を吹きかけていた。


「結婚……」


俺がその姿に美しさ以上の計り知れない何かを感じていると、ポツリとそんな言葉が耳に飛び込んできた。


それはこの場に雪があれば吸い込まれて消えてしまうくらいのかすかな囁きで、普段なら逃してしまうだろうが。


やけに感覚の研ぎ澄まされたこの夜に限っては、逃すことなく確かに聞こえていた。


「いつかは、考えないといけないですね。」


俺は音もしない、合っているのかもわからない蛍光板の時計を見上げながら答える。


時計の長針がちょうど真下を回り、そこから上り始めるところだった。


「そ、そうですよね……。」


さくやさんがなんとも言えない声色で、頷いた。


「…………」


「…………」


二人の間に沈黙の時間が流れる。


普段なら気にならないそれも、音すらも眠った田舎の夜では、否が応でも意識してしまう。


「な、何か温かいもの買ってきましょうか?」


「そ、そうですねお願いします。」


俺は逃げるように提案して、その場から立ち去る。


「あっ」


数歩歩き出したところでふと立ち止まって、俺はコンマ数秒考えた後。


「今夜は冷えますね」


そんな照れ隠しの台詞とともに、羽織っていたコートを彼女にかけた。


「誰かと……大切な人と一緒なら、温かいのですね。」


一瞬固まったさくやさんは、まるで絹の衣でも扱うように優しくコートを羽織り直すと、はにかんでそう微笑んだ。


俺はその言葉になにか返すでもなく、ただ小さく微笑んで再び歩き始めた。


一歩一歩、着実に。

ゆっくりと。でも、しっかりと。


今まで歩んできた足跡は消さずに、もう一度踏み直すように二人で踏み出して。


普通ならじれったくて駆け出してしまうそんなことも、彼女とならばできるのだと。


俺はそう思った。

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