第86話 波のお悩み〜『  』なのかな〜

「はい、またのご来店お待ちしております。」


そう別れを告げた彼の姿に、若干の名残惜しさを感じながら、それでも前を向いて歩いていく。


彼に会えてよかった。


つくづくそう思う。

振り返ると、色々と恥ずかしいことをしてしまったけど……それを含めても有り余るほどの優しさと勇気をもらえた。


私が言うのもなんだけど、彼は飛び抜けてカッコいいわけでも、何か輝かしいものを持っているわけではない。


普通のどこにでもいる“社畜”というやつだ。


ただ、彼は周りよりも人一倍頑張り屋さんで、そして何よりも。


『なんで?』そう尋ねたくなるほどに、優しい。


天性のものなのか、それとも社畜という過酷な環境にいたからかはわからないけど、とても優しい。


それはきっと、私だけじゃなくて出会ったみんなに対して優しいのだろう。


そんなところが誇らしくて、そして少し悲しくてて、とても……とても…………




「スキ」




彼のことを考えていた私は、無意識に何かをつぶやいていた。


「…………ッ!!!!?」


冷たい風に吹かれて覚醒した脳みそが、自分がつぶやいた言葉を教えてくれる。


「う、うそ……でしょ……」


いや、信じられないわけではない。


確かに恋に落ちるような、『スキ』と思ってしまうようなことはたくさんあった。


けど、まだ数えられるほどしか会ってないし、詳しくは知らないのに……。


それに、私、これ、初めてだから。


生まれてこの方、誰か他人の異性を『スキ』になったことなんてない。


「うぅー……」


自分で考えていて恥ずかしさに悶絶してしまう。


こ、こんなの柄でもないし、そ、それに、彼が何と思っているかなんてわからないし、ね?


けど、私ももう若くない。


高校の同級生からは結婚式の招待状が届き、親からは見合いを勧められるお年頃。


まだかろうじて適正期だけど、30を超えてしまえばハードルはぐんと上がるだろう。


結婚なんて考えてこなかったけど、このまま生涯独り身で暮らすのは、嫌だ。


となると、誰か相手を見つけなければならないわけで……。


「『スキ』……なのかな……?」


もしも、仮に、本当に私が彼のことを『スキ』ならば。そして彼も私を『スキ』ならば、結婚出来るのだろうか……?


…………私は何を考えているんだ


たらればの話なんて意味がないのに。


「とりあえずは目の前の仕事! お仕事頑張ろう!!」


私は放っておくと変なことを考え始める頭を叩いて、顔を上げた。


もうすぐお相手の方のオフィスにつく。


軽く商談を済ませたらまた松山に戻り、色々な書類をまとめて本部に送らなきゃいけない。


やることは沢山ある。


けど、優しさを貰ったから。だから、頑張れるような気がする。


『無理だけはしないでくださいね』


風にのって、そんな優しげな声が聞こえたような気がした。

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