第59話 この開店直前の社畜にお休みを!
「いよいよですね。」
「やっとですね。」
俺はソワソワしながら隣の神之さんと言葉をかわす。
「そんなにソワソワしないで、リラックスですよ。今日から北原さんがここのマスターなんですから。」
神之さんが笑いながら言う。
『マスター』なんていい響きなんだ。
小学校の頃、ドラマから聞こえてくるそれに心を躍らせ、中学生になれば違う意味で『マスター』と美少女から呼ばれたくなる。
一城の主になった気分というか、マスターと言われるとテンション上がる。
このお店の店長は書類上では神之さんのままだけど。俺はなんとかなんとか免許とか、なんとかなんとか管理者とかそういうの持ってないからね。
後々取ろうと思っております。
一昨日と昨日で機材や取引先とかとの諸々の調整は済ませて、今日はもう店に立つだけなのに、謎に早起きしてしまった。
なんなら、昨日の夜ワクワクして寝れなかった。
何歳だと言われそうだけど、お店を開くというのはそれだけ楽しみであり、不安でもある。
「リラックス、リラーックス」
「はぁ、緊張します。」
俺は下を見てつぶやく。
心臓がバクバク言ってるのが聞こえてくる。
経験者である神之さんが居てくれるのが救いだ。
何かやらかしてもなんとかなるという安心感がある。
多分一人だったら、ビビって吐いてるもん。
俺昔からストレスには強いが、緊張には弱いタイプだから。
「うーん、どうやったら緊張取れますかね。」
神之さんが悩み顔で言う。
考えくれるのは嬉しいけど、それが分かったら苦労しないんすよ。
「あと一時間もない……ヤバババ」
俺はもはやガタガタ震えながらつぶやく。
モーニングも間に合うように八時開店にした。
お客さんが来るか不安だし、来たら来たで接客できるかが不安。
いっそのこと一人も来なければ緊張しないけど、それはそれで悲しくて今後のことが不安になって緊張するし……。
うーん、もうどうしようもねぇな。
俺は自分で自分に諦めをつけて、なんとか落ち着かせようと珈琲を飲む。
うん、程よい温かさで我ながら美味しい。
「うーん、気楽にって言っても、お仕事ですしね……。」
神之さんが腕を組みながら言う。
それは、普通なら受け流せるような言葉だった。
しかし、
「今なんと?」
「え? いや、お仕事だから気楽にってわけにも行かないですよねって。」
神之さんが微笑みながら言う。
それだ……そうか、そうだよな。うん、そうだよ!
どうしたらいいのかなーと神之さんが笑うけど、俺の中の緊張はもう跡形もなく消えていた。
本当に、さっきまで震えてたのが嘘みたいで、今は全くの怖さもなく、不安のふの字もない。
なぜならば、俺の中でこれが『仕事』だと認識できたから。
古来より伝わる、鬼に金棒のことわざになぞらえれば、社畜に仕事。
伊達にブラックな生活を送ってない。
仕事と聞けば、いつになっても体は反応し、即座に仕事モードに切り替わる。
これは俺の社畜生活を通して得た、唯一のメリットと言っていいだろう。
仕事と名のつくものならば、何でも心を無にして向かうことができる。なぜなら仕事だから。ジョブだから。
理由になってないような気もするけど、それは気にしてはいけない。
数年に渡り叩き込まれた
俺なんて、これだけで今まで生きてきたと言っても過言ではない。
「もう大丈夫です。初日、絶対に成功させましょう。」
俺は人が変わったように穏やかな心で、神之さんに声をかける。
「そ、そうですね……。北原さん大丈夫です? 緊張しすぎておかしくなっちゃいました?」
神之さんは頷きながらも、心配そうな顔で俺を見る。
確かに、さっきまでブルブルだったやつがいきなりそんな前向きなこと言いだしたら、不安に思うかもしれない。
けど、俺はもう本気だ。だって、仕事モードに入ったから。
「いや。その逆で、近づくに連れて燃えてきました。頑張りましょう。」
「が、頑張りましょう。」
俺は戸惑う神之さんと、拳を合わせる。
なんというか。普通に社畜云々を抜きにして、俺元々の性格が働かないと落ち着かないタイプなんだよな。
なんだかんだ言って、動いてないと落ち着かないし。
その証拠に。開店の時間が近づくにつれて、また仕事ができるという喜びに近い何かが湧き上がってくるもん。
あんな社畜ワークを年ぶっ通しでやってたら、同僚の佐々木みたいに倒れるだろうから。俺があの環境で生き残れたのは、この性格があったからかもしれない。
だからみなさんも、世間の社畜がみんな俺みたいに働きたい変態だと思わないであげてください。
多分多くの方々は休みたくて休みたくて震えてると思いますので。
俺は心からのお願いを申し上げて、本当に最後の準備に取り掛かり始めた。
もうそろそろで、開店だ。
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