穴の空いた思い出
「私はあなたの妹よ」
と、その少女が言った。ヤーコプはなぜか自分の妹のことを思い出せないでいた。不思議そうに首をかしげるヤーコプに妹は笑いかけた。
「私の名前はヴィルよ」
「俺は誰だ? ここはどこだ?」
と、ヤーコプ。
「あなたはヤーコプ。私にお兄さんよ。ここは、七番目のお母さんの家よ」
と、ヴィル。
ヤーコプはその少女が何を言っているのかよくわからなかった。少し戸惑っていると、部屋の扉が勢いよく開いた。
「もう起きたのかい? さっさと働きな」
と、七番目のお母さんが言った。
「まだヤーコプは調子が良くないの」
と、ヴィル。
「関係ないね。さっさと稼いでこい」
「俺は大丈夫だ」
と、ヤーコプ。
「本当に?」
と、ヴィル。ヤーコプは妹の問いかけに力強く頷く。
「じゃあさっさと行きな!」
と、七番目のお母さんが言った。
そして、兄弟は夜の街へと小銭を稼ぎに行った。二人の仕事は物乞いだった。一晩中、道路脇で通行人に小銭を求めた。冬の夜は、容赦なく二人の体を痛めつけた。ガラスのような冷気が不幸な兄弟を抱いて放さない。乾燥した空気が蛇のように兄弟にまとわりつく。言いようのない孤独感が二人をより一層孤立させた。夜の闇中で二人の命はまるで小さなロウソクの火。風前の灯は、微かに揺れて瞬いた。
その時だった。夜の闇の中に悲鳴が亀裂を作った。
ヤーコプはすぐに悲鳴の元へと向かった。ヴィルも彼の後を追う。
路地裏に着くと、そこには強盗に襲われている貴族の女性がいた。ヤーコプは巨体で強盗を威圧した。強盗はすぐに逃げていった。ヤーコプは女性を助け起こした。
「助けてくれてありがとう。あなたのお名前は?」
と、女性が聞いた。
「ヤーコプ」
「ありがとう。ヤーコプさん。これは少ないけどとっておいて」
と、女性はヤーコプに金貨を数枚渡した。
「すごい。これだけあれば、今日はもう休める」
と、ヴィル。
女性を無事に送り届けると、二人は橋の下にきた。
「今日はここで寝よう。家に帰ると七番目のお母さんが怒る」
と、ヴィル。
ヤーコプは黙って頷く。そして、二人は互いに体を寄せ合って夜が過ぎ去るのを待った。
翌朝、二人は家に帰る前に花束を買った。
「お母さん。喜んでくれるかな? 私たちが病気で迷惑かけちゃったし、これくらいはしないとね」
と、ヴィル。
二人が家に着くと、七番目の母親に金貨と花束を渡した。
「まあ、これを私に買ってきてくれたのかい?」
と、七番目の母親は二人に言った。
「ええ。いつも私たちが病気で迷惑をかけちゃったから。そのお礼に」
と、ヴィル。
そして、母親は花束をそのまま屑篭の中に捨てた。
「こんなものを買って来るくらいなら金をよこしな」
と、七番目の母親がそう言った。
「だいたいあんた達はね人より劣っているんだから。それをもうちょっと自覚しな!」
と、七番目の母親が言った。
ヤーコプとヴィルは黙って何も言い返さない。
「いいかい? 病気を持っているということは、その分だけ健康な人間よりも劣っているんだ。普通の人間と同じような暮らしができるわけがないだろ?」
と、七番目の母親が言った。
兄弟はじっとこらえた。
「だいたいあんたは、学校に行ってみたいとか。彼氏を作ってみたいとか。友達が欲しいとか。無理なことをいつも口にして。烏滸がましいよ」
と、七番目の母親が言った。
「でも、母さん。私だって普通の暮らしをしてみたい」
と、ヴィルが言った。
「そんなことできるわけないでしょ? 病気なんだから。それに私はあんたの母親じゃない」
と、七番目の母親が言った。
ヤーコプは怒りに身を震わせている。ヴィルは何も答えない。
「さあ。もう私は疲れたよ。とっとと出て行きな。法的な手続きもとった。あんた達とは縁を切るわ」
と、七番目の母親が言った。
そして、部屋の奥から路地裏で助けた女性が出てきた。
「弁護士のキットマンです。本日よりあなた達は、この方との血縁関係を絶縁されます。これ以降は他人となりますので、ここへはもう近寄らないでください」
と、その女性が言った。
「そういうことか! グルだったのか! 全部演技だったのか! 私たちを貶めるためにこんなことをしたのか!」
と、ヴィルが言った。先ほど助けた女性は、七番目の母親の手先だったのだ。
「そうさ。さっさと消えな」
と、七番目の母親が言った。
そして、ヤーコプとヴィルは家を出た。
「また家追い出されちゃったね」
と、ヴィル。
「また?」
と、ヤーコプ。
「ええ。また。いつもいつも嫌がらせをされて、虐げられる。それが私たち兄弟よ」
「なんで俺にはその記憶がない?」
「それはあなたが四半期健忘という病気だからよ。およそ三ヶ月ごとに全ての記憶を失う病気なの。非常に珍しい病気で治療法はもちろんないわ。あってもお金がないから治療なんて受けられないけど」
「ヴィルにも病気があるのか?」
「ええ。私の病気は、一年病。一年間共に過ごした人に深刻な老化をもたらすの。でも安心して、あなただけは効かないから」
と、ヴィル。彼女の顔はどこか寂しげだった。
「三ヶ月しか過ごしていない扱いになるんだな?」
と、ヤーコプ
「ええ。みんな私たちを『不憫だ。不幸だ。気の毒だ』と言ってくる。私たちはそんなことを言って欲しいんじゃない。そんなことを頼んでなんかいない。そんなことを言われてもなんの助けにもならない」
と、ヴィル。
「ヴィル。きっといつか誰かが助けてくれるよ。誰かがいつか僕たちを認めてくれるよ。それまで一緒に頑張ろう」
と、ヤーコプ。彼はこんな時、なんて言ったらいいのかわからなかった。
「ええ。また一緒に一から頑張りましょう。私は信じているわ、いつか誰かが私たちのことを助けてくれるって」
と、ヴィル。
そして、誰も助けてくれないまま七年の時が過ぎた。
ヤーコプは目を覚ました。彼は自分がどこにいるのかまるで見当がつかないでいた。
「どこだここは? 俺は一体誰だ?」
と、ヤーコプ。
「ここは町外れの廃屋よ。あなたはヤーコプで私はヴィルよ」
そう言った。ヴィルの体はひどく傷付いていた。
それからさらに、二ヶ月後と数十日後。
ヤーコプとヴィルは暗い夜道を二人だけで歩いていた。
「また記憶が消えちゃうね?」
とヴィル。
「ああ。いつも迷惑をかけてすまない」
と、ヤーコプ。
「迷惑なんかじゃないよ。それ前も言った。もう言わないって約束したのに」
と、微笑むヴィル。
「そうか。ごめん」
と、ヤーコプ。だけどヤーコプも笑顔だ。
だけどそんな二人の笑顔もまた長くは続かなかった。
夜の中に悲鳴がこだました。どこからか女性の叫び声が聞こえた。
今、この国の情勢は非常に不安定だ。数ヶ月前、この国の時期王女が亡くなったのだ。それにより、王族たちが荒れに荒れている。きっとその影響だろう。
「助けなきゃ!」
と、ヤーコプ。
「だめ! 放っておいて!」
と、ヴィル。
「だめだ! 目の前に困っている人がいるのに、見捨てたりなんかしない。ヴィルも俺を見捨てなかっただろ?」
そういうと、ヤーコプは悲鳴の方に走っていった。
ヴィルもその後を追う。悲鳴のもとにたどり着くと、一人の女性が三人の強盗に襲われていた。あたりには死体が散乱していた。きっとこの女性の付き人なのだろう。
「大丈夫か? 今助ける!」
ヤーコプは三人組を追い払うと、女性を助け起こした。
「どうもありがとうございます。なんてお礼を言ったらいいのかわかりません」
と、女性。女性は高貴な身分なのだろう。貴族は黒い布のようなもので顔を隠していた。
「お礼なんていいよ。無事でよかった」
と、ヤーコプ。
「私は、この国の女王です。国を挙げてお礼をしなければなりません。新しい家と十分な金銭を受け取ってください」
と、女王。
「女王様? 確か娘さんを亡くされたとか?」
と、ヤーコプ。
「ええ。でもいいんです。落ち込んでいたら、娘に顔向けできないわ。さあ私を救った英雄の顔をもっとよく見せて」
そういうと、女王は顔を覆っていた黒い布をゆっくりと外した。
そこにヴィルが追いついた。
向かい合うヤーコプと女王の姿を見たヴィルは叫んだ。
「だめっ! ヤーコプ! その人はっ!」
と、ヴィル。
次の瞬間、又しても不幸が兄弟を襲った。人は、一度どん底にまで落ちればそこから上がるだけだという。どいつもこいつも無責任になんとかなるさと励まそうとする。だけど、そんなセリフはどん底なんて知らない幸せ者のセリフだ。どん底なんてないんだ。あるのは一度落ちたら這い出ることのできない黒い大きな穴。ポッカリと口を開いて獲物を待ち構えている。
落ちた獲物は二度と這い出ることはできない。
女王は懐から鋭利な刃物を取り出すと、ヤーコプの腹部を狙って悪意を解き放った。
その時、ヴィルは女王と兄の間に体を滑り込ませた。ヤーコプを庇ったのだ。
そして、ヤーコプを庇ったヴィルは血液を流しながら倒れた。
「おい! しっかりしろ! ヴィル!」
ヤーコプがヴィルを抱きかかえながら言った。
「あなたが悪いのよ!」
と、女王。
「なぜ殺した? なんでお前たちは俺たちを貶める? 俺たちが何をした? ただ二人で生きたいだけなのに!」
と、ヤーコプ。
「忘れたなんて言わせないわ! ちょうど三ヶ月前に、あなたが私の娘を殺したのよ!」
と、女王。
「何を言っている? 俺が時期王女を殺した?」
と、ヤーコプ。
「あなたは悪くないわ。たまたま健忘の瞬間だったのよ。あなたは健忘が始まると、怖くなって暴れてしまうの」
と、息も絶え絶えヴィルが言った。
「そんな、じゃあ俺が目を覚ました時ヴィルが傷ついていたのも俺のせいなのか?」
と、ヤーコプ。
「あなたは何も悪くないわ」
と、ヴィル。彼女は弱っている。虫の息だ。
「いいえ! 何もかもあなたのせいよ! そこにあなたの大切な人が倒れているのも、この国がめちゃくちゃになったのも全部あなたがいけないのよ!」
ヤーコプは何も答えない。
「あなたのような病気持ちがいるだけで迷惑なのよ! 存在自体が邪魔なのよ!」
ヤーコプはヴィルを床に寝かせるとゆっくりと立ち上がった。
「あなたたちは幸せになることなんてできない。病気なのよ。生まれた時から死ぬ瞬間まで不幸なままなのよ!」
ヤーコプは、女王の元に歩いていくと、そばにあった棒切れを拾い上げた。
「ヤーコプ。やめて」
ヴィルは必死で兄を止めようとした。
「あなたたちは不幸になるために生まれてきたのよ!」
「もういいや。もうどうでもいい。どうせ忘れる」
と、ヤーコプが呟いた。右手を大きく空に掲げた。そして、ありったけの恨みを込めて狂気を振り下ろした。
その瞬間、ヴィルの意識はなくなった。不幸のどん底からそのもっとどん底。これ以下はもうないくらい暗い暗い穴に落ちていった。人生の最も不幸な瞬間、不幸の絶頂のその瞬間に、ヴィルは死んだのだ。
ヤーコプは、人を助けようとしただけなのに。私は、ただ普通に生きていたかっただけなのに。神様はそれすら許してくれなかった。
そして、その後、私たちは死後の世界に行き着いた。そこでも病気は消えなかったが、私たちはそんなことどうでもよかった。一人でも多くの人を不幸の穴に放り込めれば良かった。たくさんたくさん人を殺した。六十七人も殺して、次は敵対するグループを完全に潰すために作戦を立てた。リミットは三ヶ月。その間にヴィルが敵グループに潜入してリーダーもろとも騙して、皆殺しにする。その予定だった。
[死後の世界 ユウ視点]
【痛みの代償(ノーペイン)】を解除すると俺は二人の縄を解いた。
「ちょっと、ユウ?」
と、ホームレス。
「俺の病気は、先天性無痛無汗症。俺は痛みを感じない。そしてその痛みには苦痛や恐怖も含まれている」
と、俺が言った。
「なんで縄を解いたの? 解いたなら今からあなたたちをみんな殺すわ」
と、ヴィル。
「そんなことはもうしなくていい。俺の【痛みの代償(ノーペイン)】の効果は、相手の苦痛を奪い取る。わかるか? 俺がお前たちの苦痛を肩代わりしてやるってことだ。今まで辛かったな」
と、俺が言った。
「そんなことをしたら、あなたの体がもたない!」
と、ヴィル。
「いや、俺は苦痛を感じない。お前たちの負の感情を全て奪い取っても俺にダメージはないんだよ。そして、苦痛から解放されたお前たちは、俺の仲間になって共にこの世界から脱出するんだよ」
と、俺が言った。
「ダメよ。私もヤーコプもたくさん人を殺した」
「ああ。この世界に来てからな。現世でのお前の最後の光景はヤーコプが女王を殺そうとしているところだろ? あのあとヤーコプは女王を殺さなかった。記憶を失っても、妹を失っても優しい心だけは失わなかったんだ」
「ヴィル?」
と、ヤーコプ。ヴィルはヤーコプの目を優しく見つめた。
「ヤーコプ兄さん。私たち助かったのよ。ようやくこの苦痛から解放されるの。もう苦しまなくていいの。あなたは人を助けていいのよ! もう煙たがれることはないわ!」
と、ヴィル。だがヤーコプは何も答えない。
「ヤーコプ?」
と、再度ヤーコプの名前を呼ぶヴィル。あたりが不穏な影で曇る。
「兄さん? 大丈夫?」
と、ヴィル。様子が変だ。
「おい! どうした? 具合でも悪いのか?」
と、俺が言った。
「早く逃げて!」
と、ヴィル。真剣な表情を顔に貼り付けている。その真剣さが不穏な影をより一層黒く、濃いものにした。
「まさか!」
と、俺が呟いた。その瞬間、ヤーコプが立ち上がりやたら滅多に暴れまくった。そう、健忘が始まったのだ。
俺も、ホームレスも、ヴィルももう体力なんてない。きっとヤーコプは疲れていることも忘れている。
ヤーコプはそばにあった死体から武器を奪った。行き場のない暴力はのたうち回り、はけ口を見つけた。
そして、俺に向かって武器を振り下ろした。武器は俺を庇ったヴィルの体を引き裂いた。服が避けて、皮膚が破れた。筋繊維が切断されて、中から血が溢れた。真っ赤な血が床を濡らした。
ヤーコプはそれを見ると、叫びながら建物から出て走っていった。ヤーコプが離れていくのと同時にキャンディーが起き上がった。
「そんな! こんなことって」
と、俺が言った。
「ありがとう。助けてくれて」
と、ヴィル。喋るたびに口から血が出てくる。
「ごめん。君たちを助けられなかった」
「いいえ。あんたは私もヤーコプも助けてくれた。私たちは同情されたかったんじゃない。私たちは哀れみの目で見て欲しかったわけじゃない。ただ誰かに必要とされたかった」
「まだ必要だ。俺にはお前たちの力がいる」
「最後にお願いがあるの。ヤーコプを殺してあげて」
と、ヴィル。今にも泣きそうな表情だ。
「どうして?」
と、俺が言った。こっちまで辛くなる。
「もう楽にしてあげて欲しいの。もう十分よ。それにあの子は私以外の人間には懐かないわ。もう人を傷つけて欲しくないのよ」
「わかった」
「え? これって?」
と、ヴィル。目を見開いて空中の何もない空間を見つめている。
「どうした?」
「よかった」
と、ヴィルは意味不明なことを言い残して不幸な人生に二度目の幕を下ろした。
俺は、ヴィルを床に寝かせた。
「ヤーコプを追う。早くしないとまた死人が出る」
「どうやって?」
と、ホームレス。
「私が手伝うです!」
と、先ほど起き上がったキャンディー。
「キャンディー? お前体はもういいのか?」
と、俺が聞いた。
「全然ダメですね。だけどやるしかないです。私の病気を使って!」
と、キャンディー。
「わかった。それしかなさそうだな」
キャンディーは笑顔で頷くと上着を脱いで上半身だけ下着姿になった。
ホームレスは戸惑っている。当たり前だ。女性が急に下着姿になったら動揺する。俺も同様に彼女の意図が汲み取れないでいた。だが、今までの少ないヒントを手繰り寄せれば答えに辿り着けるはずだ。俺ならできる。
ヴィルとヤーコプの特殊能力は相手の病気を悪化させる能力。リードたちは持病が悪化して次々と死んだのだろう。この特殊能力により、キャンディーの病気は悪化した。それが原因で倒れたに違いない。そして、その病気のトリガーは携帯電話を誰かが使うこと。
そして、今ヴィルとヤーコプの能力は解除された。キャンディーが起き上がったのはヤーコプが部屋から出たタイミングだ。
そして、彼女の部屋も重要なヒントの一つだ。彼女の部屋は俺たちの組織の隠れ家の一番上の広い部屋。最初俺はキャンディーが幹部の地位についているからあの部屋を使っているものとばかり思っていた。だが、リーダーである俺の部屋は、粗末な狭い部屋。キャンディーの部屋は病気の症状のためみんなと離れたところにあったのだ。部屋にはテレビもラジオもなかった。そして、キャンディーは会議が始まるときに携帯電話の電源を切るように部下に言った。あれは、会議中に電話がかかってくることを迷惑に思ったからじゃないんだ。
俺はこの世界に来た時、携帯電話を持っていなかった。死後の世界だから携帯電話なんて無いのかと思った。だけど、その後使っている人間をちらほら見かけた。俺は携帯電話を持っていなかったんじゃない。捨てていたんだ、彼女のために。
これらのヒントから導き出される結論は一つだ。彼女の病気はワイファイアレルギーだ。非常に稀な病気だ。体がワイファイなどの電波に作用してアレルギー反応が起きる。もちろん外出もままならない。普通の人間が送ることができる日常生活なんて送れない。だけど、彼女はそんなことに絶望しなかった。彼女は病気を自分の武器に変えた。人の役に立とうとしているんだ。
「キャンディー? 本当にいいんだな? 【痛みの代償(ノーペイン)】と使えば苦痛だけは取り除くことができる」
と、俺が言った。
「時間がないです! それに私は大丈夫です。全身を襲う苦痛なんかに挫けたりしない!」
と、キャンディー。
「わかった」
俺は、ヴィルの体から携帯電話を取り出した。倒れた拍子に電源が切れている。もう一度電源を入れ直すと携帯電話は起動した。俺は、電話の履歴の一番新しいものに電話をかけた。おそらくこれがヤーコプの番号だ。
その瞬間、キャンディーはうめき声をあげた。キャンディーの体には左肩の部分から左の胸の部分にかけて赤い斑点が浮き出てきている。きっとその方向にヤーコプがいる。右肩にも大きな斑点ができているがそれは俺が今使っている携帯電話の電波の影響だろう。
「よし。いこう」
と、俺が言って建物を後にした。
[建物の外 ヤーコプ視点]
ここはどこだ? 俺は一体誰だ? 俺は一体何をしているんだ?
俺は、建物から飛び出すと無我夢中で走った。そこから抜け出したかった。なんでかはわからなかった。でもそんなことどうでもよかった。
昔を思い出しても何も頭に浮かんでこない。一体なんでだ?
まるで、黒い世界が俺を鎖で縛り付けているみたいだ。俺はその呪縛から逃れることができない。生まれた時から胸にある鎖が俺をその場に縛り付ける。重くて黒くて頑丈な鎖。俺を離せ! 俺はどこかに行かないといけないんだ! 俺のことを待ってくれている人がいる気がするんだ!
そして、俺の目の前に見たこともない青年が飛び出てきた。何かを叫んでいる。だが俺には、それが何なのかわからない。俺はその青年を攻撃することにした。右手に持っていた棒切れを青年に叩きつける。おかしい。青年は身じろぎしない。痛くないのか?
俺は、今度は渾身の力を込めてその青年に武器を叩きつけた。すると、武器が耐えられなくなり壊れてしまった。青年が何かを言っている。何かを俺に伝えようとしている。だが何をしたい? 俺にはわからない。お前は一体誰だ?
その時青年の口から飛び出た一つの単度が俺の脳内に響いた。俺はその単語を口にした。
「ヴィル」
懐かしい響きだ。一体誰なんだろう? 俺はこの人を知っている気がする。
青年はなぜか少し嬉しそうな表情になった。俺を殺すのか? だけどそれでもいい気がする。剣は俺の胸を傷つけた。だけど、なんの痛みも感じない。苦痛もない。そして、胸から伸びていた鎖が剣とともに引き抜かれた。
俺は地面に沈み込み空を見上げた。そこには、意味不明な言葉が浮かんでいた。なんだこれ? 俺はそれに向かって手を伸ばした。そして俺は、ゆっくりを目を閉じた。
[ユウ視点]
俺は剣をヤーコプの胸から一気に引き抜いた。あたりに赤い血が流れ出る。吹き出た体液は床を赤く彩った。今のヤーコプは俺の能力で苦痛を感じていないはず。安らかに眠ってくれ。もう苦しまなくていいんだ。
最後にヤーコプは、空に向かって手を伸ばした。一体何をしているのだろうか。
そして、彼も妹と同じように二度目の人生に幕を下ろした。
だが、ヤーコプの死を悼んでいる暇は与えられなかった。
「ユウ! キャンディーが息をしていない!」
と、ホームレス。
俺はキャンディーのところに行くと人工呼吸をした。
早急な措置が幸いしてキャンディーはすぐにむせ返した。
「キャンディー? しっかりしろ! 大丈夫か?」
と、俺が言った。
「大丈夫か? 大丈夫なわけないです。これから死ぬです」
と、キャンディー。
「そんなことない。大丈夫だ。俺が今苦痛を吸い取ってやる。【痛みの代償(ノーペイン)】発動」
俺は、キャンディーの額に手を当てて彼女の痛みを吸い取った。彼女の感覚が流れ込んでくる。悲しみは青色。苦しみは緑色。怒りは赤色。絶望は橙色。負の七色の虹は、俺の心に流れ込んできた。痛みを感じない心を痛めつけた。それと同時に彼女の淡い記憶も俺の中に、溢れてきた。
「ホームレス? 二人にしてくれないか?」
「ええ」
そういうと、ホームレスは俺たちから距離を置いた。
二人きりになると、俺はキャンディーに語りかけた。
「お前、俺が記憶を失っていることに気づいていたのか?」
「いつもと挙動が全然違っていたもの」
「戦いが終わってから付き合う約束をしたって言ったな? あれ嘘だったのか?」
俺は、キャンディーの頭に手を当てる。
「うん。記憶を失っていないふりばかりするから意地悪しちゃったのです」
キャンディーの目からだんだんと光が消えてくる。
「ごめん。俺は、君が誰かもわからないんだ」
俺は言っていて、情けなくなった。
「いいのよ。あなたは、私を強くて優しいと言ってくれた。あれは、本当ですよ。すごく嬉しかったです」
キャンディーの目はだんだんと瞳孔が開いてきている。死神が彼女の魂を拐おうとしている。
「助けられなくて、ごめん」
俺が謝ると、キャンディーは突然意味不明なことを言い出した。
「これは一体なに?」
キャンディーは俺ではなく、目の前の何かを見ようとしている。
「どうした?」
「ユウ、助けてくれてありがとう」
そう言って彼女の目からは完全に光が消えた。光の映らない瞳は、まるで星を取り除いた夜空のようだった。
「どうしてみんな、死の間際に空を見上げるんだ?」
俺は、キャンディーの死体の前で一人で呟いた、彼女を守れなかった自分の弱さを見ないようにするために。
組織の基地に帰ると、みんなが待っていた。俺たちは作戦は成功したが、キャンディーたちを失ったことを告げた。
「リーダー? お話があります」
と、見たこともない青年に声をかけられた。
「ああ。お前か。どうした?」
と、俺が言った。この青年が誰だか知らない。だけど、そんなことを口には出せない。
「はいこれ。リーダーの携帯電話です」
と、一台の携帯電話を手渡された。
「どうしてこれを俺に?」
と、俺が尋ねた。
「はい? 俺にだってわかりませんよ。あなたが俺に頼んだんでしょ? 作戦が終わったらこれを俺に渡してくれって!」
と、青年。
「ああ。そうだったな! すっかり忘れていた!」
と、俺が言った。俺が俺に渡すように頼んでいたのか!
俺は部屋に戻ると携帯電話を開いた。そこには驚愕の事実が書かれていた。
「なんだよこれ」
俺のつぶやきは狭くて暗い部屋を埋め尽くした。俺は言いようのない孤独に抱かれた。
そして俺たちは“黒い箱の作戦”を残ったメンバーに押し付けて、基地を後にした。
「ホームレス? あのさ、前から思っていたんだけどその名前呼びにくいんだけど」
と、俺が言った。
「呼びにくいんだけどって言われても仕方ないでしょう。突然『あなたは今日からホームレスです』って言われたのよ。私だって嫌よ、可愛くないもん」
と、ホームレス。
「なら俺が新しい名前をつけてあげるよ」
「え? 本当?」
「ああ。そうだな。じゃあ今日から君はほむらだ! いい名前だろ?」
と、俺がほむらに言った。
「ほむら! なんかホームレスをもじっただけって感じだけど嬉しいわ!」
と、ほむら。
「なあ、ほむら。お願いがあるんだけど」
「あら? 何?」
「お前の能力は審議会で審査されてから発動できるんだよな? その審議会の議員と連絡を取りたい」
と、俺が言った。
「審議会と連絡を取りたいってどうするのよ?」
と、ほむら。
「もちろん【名無しの代償(ノーネーム)】でそう願うんだ。もし却下されてもリスクも何もないし、“審議会は俺たちに正体を明かすことができない”ということがわかるだろ?」
と、俺が言った。
「そうすれば審議会の正体に関するヒントが得られるかもしれないわね。リスクもないし、審議会がなんなのかわからないけどやってみましょう」
と、ほむら。そして、ほむらは目を閉じて何かに集中し始めた。きっと審議会に願いを訴えているのだろう。
審議会、それはほむらの能力を発動する条件のようなもの。俺は審議会が存在すると確信している。そうでなければこの死後の世界の説明がつかない。この世界で起きていることがなんなのかはまだわからない。だが、明らかに人為的なジャッジが加えられている。
まずは、参加者の厳選。明らかに重い病気の人物ばかりが集められている。機械で選出されているならランダムになるはずだ。この偏りが一つ目の証拠だ。
次に、ほむらの能力。この能力はほむらの考えた願いが審議会によってジャッジされた後に発動できる。これはほむらの能力が強くなりすぎないようにだろう。人を生き返らせたり、人を殺したりすることはできない。それがその証拠だ。この死後の世界での戦いを、簡単に勝たせないためだろう。
そして、“審議会が俺たちのことを助けたがっていること”が最大の証拠だ。審議会の存在を知られたくないのなら、ほむらの能力に審議会という単語を織り交ぜることはない。これは、自分たちの存在を匂わせて、俺たちのことを見守っているというメッセージだ。審議会は今もどこからか俺たちのことを見ているのだろう。そうでなければ、ジャッジなんてできない。俺たちの様子を見て戦況を分析してジャッジしないのであれば、機械かプログラムにでも任せた方が楽だ。こいつらは、俺たちの味方だ。
「ユウ? いいって。今から連絡を取るって言われた」
と、ほむら。
「そうか。なら今から審議会の議員と連絡を取れるんだな!」
と、俺が言った。
俺とほむらは顔を見合わせた。生唾を飲み込んだ。緊迫感が体を包む。火照る心とは裏腹に、体には寒気と悪寒がまとわりつく。心拍数が上がっていく。動悸が激しくなる。ようやく会えるんだ、この世界を運営している人間と!
その時だった。どこか遠くの方から機械の音が聞こえてくる。
「なんだこの音?」
と、俺が言った。
「気を抜かないで! まだ審議会が味方だと決まったわけじゃないわ!」
と、ほむら。
遠くの方から何かが近づいてくる。何だあれは? 砂煙をあげながら速い塊が音を立ててこちらに近寄ってくる。
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