第30話 思わぬ伏兵

 灯は再び、位置取りをする。そして小木との間合いをつめた。小木の方が背が高く、リーチが長い。彼の包丁が、一足先に空を裂いた。


 しかし、小木はまるで灯とは違う方向に庖丁を突き出していた。弁当屋の看板が視界に入り、強い光で視界が不明瞭になったのだろう。それを狙っていた灯は、笑った。


 思い出す。試合の、いや戦いの感覚を。


 目がくらんで、隙が出来た小木の顎に拳をたたきこむ。


 小木がふらつく。呻きが漏れた。だがしぶとくも、なんとか灯を捕らえようと前のめりの姿勢になった。


「はい、予想通り」


 灯にとっては、何度も出くわした場面である。相手の頭が元の位置に戻ったところへ、ハイキックを叩き込んだ。


 小木の目が、ぐるりと反転して真っ白になる。顔から血の気が引いた。側頭部と顎を強打されて、まともに立てる人間はいない。


 わずかな嬉しさとともに灯が息をついたとき、背後から常暁の声がかかった。


「まだだ、逃げるぞ!」


 灯は体を強張らせた。確かに小木が、鼻から血を流しつつ起き上がろうとしている。


「いや、立てるわけが──」

 灯は戸惑う。確実に入ったはずだ。脳天はまだ揺れている。そんな灯の見立てを嘲笑うように、小木が四つ足で這い始めた。灯はそれを見てしまい、己の目を疑う。


「ええっ!?」


 不自然な体勢なのに、異様に速い。体高が低いから、手を伸ばしても捕まらなかった。あっという間に、小木はひとり、前方へ出てしまう。


「嘘だろ!?」


 刑事たちが、とっさに撃てなかったのも無理はない。蜘蛛を思わせる、人間離れした動きだった。全員が一瞬固まる中、常暁が先頭切って走り出す。


「待って、あんた弱いんだから! 自分一人守れないでしょう!」

「おい、援護しろ! 小木を逃がすな!」


 それにつられて、全員が我に返った。一般市民と、あの化け物じみた犯人を接触させるわけにはいかない。


 大丈夫。この道は滅多に人が通らない。今度は調子よく、大学生が来ることもないだろう。灯は自分にそう言い聞かせて、必死に小木の後を追った。


 しかしその思いは、最悪の形で裏切られることになった。


「きゃあああ!」

「お前も呑気に歩き回りやがって! 人の気も知らないで!」


 小木に追いつくより先に、若い女性の悲鳴が聞こえた。灯は不意に足を止める。


「あれ……」


 次々と刑事たちが、灯を追い越していった。灯はその後ろから、徒歩でついていく。


 刑事たちの視線の先には、若い女性の襟首をつかむ小木の姿があった。女性は抵抗する素振りもみせず、ずるずると小木に引きずられている。


「おい、やめろ!」


 刑事たちが叫ぶ。小木はそれを聞いて、さらにいきりたった。灯の位置からも、彼が女性の襟首を握り締めるのが見える。


「その人は関係ないだろう! 包丁を捨てて、こっちに来るんだ!」


 刑事が語りかけたが、小木は応じない。


「関係なくない! この女もうちの弁当を食ってたくせに、俺を馬鹿にしやがった!」


 小木の声が震えている。それは恐怖でなく、怒りによる興奮だった。女性がちらっと、小木を見上げる。


「……ダメだ、もう滅茶苦茶だ」


 灯の横にいる刑事が歯がみした。銃口が、小木の足を狙い始めた。


 場の緊張が高まっていくまさにその瞬間、常暁が振り向いて言った。


「なんでそんなに落ち着いてる?」


 灯はため息をつきながら答えた。


「あれ、うちの姉です」

「なんだと?」

「まあ見ててください。……普通の人間じゃありませんから」


 灯がゆるゆるつぶやくと同時に、銃声が響いた。外れた。小木は動じず、捕らえた女性の背中に包丁を振り下ろす。


「くそっ!」


 間に合わない──と誰もが思っただろう。灯以外は。


「ああ、アレか」


 灯が肩をすくめ、こうこぼすと同時に、女性の体がぐるりと回る。庖丁を、彼女の体が見事にかいくぐった。いや、それだけではない。彼女は右足を上げていた。


「知・る・かッ!!」


 一喝とともに、強烈な蹴りが真下から小木の顔を直撃する。今度こそ彼は、勢いよく後方へ吹っ飛んでいった。その距離、実に数メートル。


 刑事たちは、目の前で起こった立ち回りをただ見つめていた。しかし、小木がはるか後方に倒れた音を聞いて次々に我に返る。


「確保しろッ!」


 刑事たちが疾走した。どっと小木に群がり、ようやく彼に手錠をかける。確保の報告と時間を読み上げる声を、灯はどこか遠いものとして聞いていた。


「はあ……終わった……」


 安堵する灯の肩に、常暁が手を置いてくる。


「よかったですね、あなたは不戦勝ですよ」


 皮肉を言う灯に、常暁は低い声で問うた。


「あの人は何者だ。……お前の姉は、何をやった」


 ひどく驚いたのだろう、眉間に皺が寄っている。灯は常暁を見やった。


「うちは姉弟そろって、キックボクシングやってまして」


 最初は嫌々だった灯だが、二人そろって競い合ううちに、めきめき腕があがっていった。そして全国クラスの大会にも出るようになったのである。


「姉は優勝回数が多くて、その世界じゃ有名人でしたよ。結婚して妊娠したんで、その時からやめてますが。なまじの腕で挑んだら、ぶちのめされるだけです。……今みたいに、必殺技でね」


 時はあいているが、天性の動きは全く衰えていない。引き続き姉と喧嘩するのだけは避けよう、と灯は誓う。


「それにしても、なんで犯人にあっさり胸ぐら摑まれるんですか。その身長は飾りですか」

「うるさい。離れたところから呪えるのに、立ち回りする理由がどこにある」

 考えてみれば、それもそうだ。灯は肩をすくめる。

「じゃ、僕は帰ります。姉に見つかると後々面倒なんで」

「わかった。姉上には俺から礼を言っておく」

「くれぐれも怒らせないでくださいね」


 灯はそう言って踵を返す。遠ざかる灯の耳に、姉の声が聞こえてきた。


「なんで夜中にこんなところに……」

「弟が遊びに来るはずだったんですが、この連続殺人騒ぎで延期になって。娘がむくれて仕方無いので、ケーキでも食べさせたら治るかな、と。ここ、近道なんです」

「いや、そんな危険……いや、危険……かな? この人の場合」


 それでこんなところにいたのか、と灯は納得する。幸い、これで江里に会いに行けそうだ。……姉に詫びる意味もこめて、たっぷりケーキを買おうと灯は決めた。

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