第29話 術が効かない
じっくり見れば、ちゃんと顔の下に胴体も足もついている。ただ、上下とも地味なカーキの服のため闇にまぎれて見えにくいだけだ。
「……本当にあれか?」
期待を裏切られた様子で、刑事の一人がつぶやいた。無理もない、と灯は思う。
傍から見てもわかる、骨と皮と言ってもいいくらい痩せた体。だらりと力なく垂れた腕。筋肉がなくなり、がに股になった足。覇気など見られず、弱々しい印象を与える体──これで本当に、元気な女子学生や成人男性を襲うことなどできるのだろうか、と灯は疑問に思った。
「間違いない。怪しまれず塾に入る準備ができ、内部事情や人間関係を熟知している。捜査本部の誰にも注目されず、そして今まで俺たちが公的に接触していない人物……弁当屋の前、店主」
「よく突き止めたな」
「オギという名前なのは分かっていた。それと邪気の流れてくる方角を合わせて考えれば、特定はそう難しくない」
「やれやれ、本当かねえ……」
いぶかる一同とは逆に、尾行されている男はしずしずと進む。そして、駅に向かって歩き始めた。
灯はその風景に見覚えがあった。なんのことはない、紗英の家の近くだ。
男は大通りから少し離れた路地に入る。そして排水溝にしゃがみこみ、なにやらじっとそこを見ている。そしておもむろに、何か光る物をつまみ上げた。
「あれって……」
灯は息をのむ。男が光る物を、月光にかざした。──間違いない、指輪だ。捨てたのか隠したのかはわからないが、ここに指輪を持ち込んだのは彼だった。
「目の前でくるくるくるくる目障りだからあ……約束があるんだって自慢げだからあ……抜き取って捨ててやった。約束、守れない。けけけ」
不敵に男は笑う。その横顔は、なにかに取り憑かれたようだった。
「決まりだな」
常暁がつぶやく。
「ちょっと、そこの人。止まって」
刑事が物陰から出て、男に声をかけた。男は斜めに背中を傾けたまま止まる。
「
刑事が問いかけても、男はわずかに頭を持ち上げ、口を半開きにするばかりだ。白っぽくなった舌が、だらりと垂れた。
「……何考えてるか、読めんな」
「薬でもやってるんじゃないか?」
灯の前にいた刑事がつぶやく。
友好的な対応は望めない。話しかけている刑事たちもただならぬ雰囲気を感じ取り、厳しい顔つきになった。
「お聞きしたいんですが」
刑事が小木との距離をつめる。すると、突然彼が腕を振り上げた。
「危ない!」
弁当屋の光を受けて、男の手元が一瞬輝く。小木は大きな包丁で、刑事の胸元を貫こうとしていた。その動きは、病人とは思えないほど素早い。
「くそっ、自首してくるんじゃなかったのかよ!」
刑事はます、左手を相手の腕に当てて勢いを殺した。
それから手を返し、捕まえにかかる。しかし小木は身をよじり、追撃を逃れた。まだ庖丁を持ったままだ。小木の細い手足が嘘のようにしなり、大股で走る。
「止まれ!」
応援の刑事たちが、隠れ場所から飛び出した。その中に、常暁も混じっている。狭い路地に大きな男たちが立ちふさがれば、空を飛びでもしない限り抜けられない。
「このっ!」
刑事の一人が、警棒を振る。小木は気にすることなくつっこんできた。彼の視線の先には、常暁がいる。
「常暁さん、捕まえて!」
灯は叫んだ。なんといっても厳しい修行を乗り越えた身、暴徒くらいでひるみはしまいと読んだのだ。
その予測は誤りだった。常暁はおざなりに拳を突き出したがすぐにかわされた。仁王立ちのままだから、細身の男に胸ぐらをつかまれ、身動きがとれなくなっている。
「うふふふう」
小木は奇妙な声をあげながら、常暁の体を揺らす。坊主は完全にされるがままだ。木偶の坊、という単語がこれほど相応しい場面も無い。
「何やってんだ、撃てっ」
発砲の許可が出たが、銃を構える刑事は顔をしかめる。
「あんな密着された状態じゃ無理だ! 先にクソ坊主に当たるぞ」
刑事たちの苛立ちとは逆に、小木は実に楽しそうだ。常暁の髪を、包丁を使ってなでる。
「もしかしてあの人、身長が高いだけで実はめちゃくちゃ弱いのか……?」
灯はつぶやく。呪いと腕力は関係がない。彼が実際に喧嘩しているところなど、一度も見たことがなかった。
「坊主のくせに髪が、あるう。俺には、ないなあ」
小木が下卑た笑みを浮かべながら、常暁の頭へ包丁を向ける。灯はそれを見ると同時に、地面を蹴った。文字通り、飛ぶ。
一歩、二歩。それで、小木の間合いに入った。
三歩目で、小木の下半身をとらえる。灯は股関節をしめ、軸足に体重をのせた。そして、左足でローキックを放つ。間合いが短かったが、なんとか命中。横手から攻撃された小木の手元が狂い、包丁が常暁の袈裟を裂いた。
常暁が後方に転ぶ。やっとのことで、小木と常暁を引き離すことができた。
袈裟の糸くずが舞う。小木が怒りの声を上げ、体勢をたて治そうとする。灯はすかさず右足で、小木の膝を狙った。
命中。連続してえぐるような蹴りをあび、小木の体がくの字に折れた。
油断はしない。隙に乗じて、灯は小木の腹に膝蹴りをたたきこんだ。小木は動きを止め、口から胃液を飛ばす。
手応えはある。しっかり相手の急所をとらえたはずだった。しかし、小木は倒れない。瞠目しよろめいたが、足で踏ん張って顔を上げた。
「お前、誰だあああ!!」
「通りすがりの、正義の味方」
すさまじい殺気をあびながらも、灯は軽口をたたいた。──そうでなければ、飲みこまれてしまう。噴き出した凶器にあてられて、戦う意思をなくしてしまう。
月のもたらす、邪悪な作用。それを体現したかのように、小木の白い髪が月光を反射して光る。反対に、顔面は暗く闇に沈み、その中からうつろな瞳がのぞいていた。
「正義……? そんなものが、あるもんかアアアアッ!!」
小木は我を忘れた。天に吠え、涙を流す。人が本当に、なにもかもに絶望したときの声を、灯は初めて聞いた。
小木の顔は、まさに鬼面のようだった。
「俺は何も悪いことなんてしてない。毎日毎日、自分の仕事をしてきた。それを、みんなが望んだからだ!」
灯は少したじろいだ。斟酌しようとしても、小木が何を言いたいのか見当がつかない。
「なのにどうだ。俺が病気になっても、誰も気付かない。覚えてもいない。俺の人生はなんだったんだ?」
それは問いかけだった。しかし、灯はふさわしい答えを持たない。あまりにも深い闇が、そこにある。いい加減な気持ちで、答えてはならない気がした。
今は、彼を止める。それだけでいい。
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