第24話 電車でサヨナラ

「さて、ようやく来た土曜日……」


 このところ平日も走り回っていたため、汚れ物が山のように積み上がっている。見ているだけで憂鬱になってくるが、今日こそはこの悪循環を断って片付けてしまうぞ、と灯は袖をまくった。


 ──しかし、灯は忘れていた。神様仏様というのは、人間が油断した時を見計らって爆弾を投げてくるということを。


 突然、玄関の扉が叩かれる。その打ち方には、奇妙なリズムがあった。


「常暁さん」

「よく分かったな」


 腕を曲げて、叩く体勢に入っていた常暁が目を丸くする。灯は冷たく言った。


「そりゃ、前とリズムが一緒ですから。木魚のノリでたたいてるでしょ」

「……そうか」


 気付いていなかったらしい。目が泳いでいる。


「……本題に入ろう。楡木が死体で見つかった」

「え!」


 また、捕まえる前に容疑者が死んだ。灯の掌に、嫌な汗がわいてくる。


「死因は轢死」

「歴史?」

「何かに轢かれて死んだということだ。今回は電車。三代川が飛んで行ったが、かなりひどいらしい。……今までの比ではないくらいな」

「うえっ」


 灯はしゃがみこむ。ひどい気分だ。単語から腐った死体を連想してしまい、さっき食べた朝餉を戻しそうになった。


 すると、常暁がさっと手を灯の頭上にかざして呪言を唱える。吐き気が瞬時になくなったので、灯は驚いた。


「どうだ」

「すっきりしました」


 引きつっていた顔が元に戻った。灯が立ち上がって礼を言うと、常暁は手を懐に収める。


「それは良かった。これから本部に行くのに、そんな死にそうな顔では困る」


 治らない方がましだったかも。そう思ったが、遅かった。


 階下から、遠慮がちなクラクションが鳴る。常暁が、面倒くさそうにそちらを見た。


「支度をしたら降りてこい。黒江が待ってる」


 灯は力なくうなずいた。





 古い欧風映画に出てくるような、おしゃれな黒いクラシックカー。丸みを帯びた車のラインとは正反対に、フロントグリルは直線で縦に長い。その対比がユーモラスで、品がある。


 中の座席のレザーもしっとりとして肌触りがよく、灯は何度もそれを撫でた。極端に広いというわけでもないのに、何故か落ち着く。灯はパンツが汚れていないか気になって、手で何度もぬぐった。


「……素敵な車ですね」

「いいでしょう? ベントレーのS2サルーンはやはり、素晴らしい」


 珍しく車体中央に備え付けられたハンドルを操りながら、黒江が言った。聞けばイギリスではロールスロイスと並び称されるメーカーで、王室の公用車としても採用されているという。いかにも黒江らしい愛車とそつのない運転に、灯の気分は少し良くなった。


「アメリカにいる孫は古くさいと言って、乗ってもくれないんですがねえ。乗れば必ず、この素晴らしさがわかるはずなんですが」

「僕は好きですよ。こういうの」

「ほう、わかりますか」

「デザインがいいですよね。ヨーロッパの町並みも好きで、一回行ってみたいんですが……長い休みがとれなくて」


 灯が言うと、黒江は顔をほころばせた。


「おやおや、ではまたお迎えに伺いましょう。紅茶はお好きですか?」

「たまに飲みますが、そんなには……結構、砂糖が入った甘いのが多いですし。残業の時、夜食代わりにいいんですよね」

「では、今度、茶葉からいれた美味しいのをごちそうしましょう。ハロッズも有名ですが、私はフォートナム&メイソンが好きでね……」


 紅茶談義の横で、常暁はひとり顔をしかめていた。


「君は紅茶なんか飲まないでしょうが、もう少し興味のある顔をしてくださいよ。人付き合いってやつです」

「俺だって紅茶くらい飲んだことがある。そこの鎌上灯が証人だ」

「本当に?」


 問われて、灯はうなずいた。


「ええ。ミルクとレモン、両方入れて飲んでましたけど……」


 その時の黒江の顔は、絵画に残しておきたいほど乱れていた。この人もこんな顔をすることがあるんだなあと、灯は妙に感心してしまう。


「そんなに美味いものではなかったな。店員の話では、人気があるということだったが。下界の流行はよくわからん」

「わからないのはあなたの頭と舌ですよ。……鎌上くん、紅茶は断固として、君とだけ楽しみますからね。スコーンもつけてあげましょう」

「スコーンってあのジャムつけるやつですよね。楽しみです!」


 灯は黒江との会話を、とても楽しんでいた。だが、そんなほのかな喜びは会議が始まるやいなやフッ飛ぶ。


「楡木智則の遺体が発見されたのは、半神線の巌屋駅付近線路。深夜に点検に来た作業員が発見、通報しました」

「目撃者は?」

「いえ。駅から距離はいくらもないのですが、少し奥まっていて」


 今日も三代川が正面に立って話している。凄惨な死体と向き合ったはずだが、彼女の身なりはきちんと整っていた。


「監視をかいくぐられたのが痛かったな……」

「すみません、どうやって抜け出したのかはわからないんです。二つしかない出入り口は。ずっと見張っていたんですが」


 見張りをしていた刑事に対する非難の視線は、耐えがたいほどだ。それにさらされた二人は、色濃い後悔を顔に浮かべて会議室の中央でうなだれる。不毛な空気を断つのは、正則管理官の仕事だった。


「俺にも耳が痛い話だ。警備計画については後で見直すとして、今は楡木のことを考えよう」


 一同はしばし逡巡した末、ため息をつきながらうなずいた。


「彼の家からは一時間弱か。用もなしに出かける場所じゃないな」

「単線で、駅前に大きな施設もありません。呼び出された、または誰かを待っていたという可能性が大きいでしょう」

「実家って線はないか」


 誰かが一石を投じた。


「先週末は医師国家試験でした。楡木も受験していたため、その出来を両親に報告に行ってもおかしくはありません」


 正式な発表は一ヶ月ほど先だが、問題を入手した学習塾はすぐに回答例を配布する。それを見れば、だいたい合否の見当がつく。自己採点をした時の楡木は、どんな顔をしていたのだろうか。


 しかし金崎が、その意見を鼻で笑う。本当に可愛げのない性格だ。


「彼の実家は聖塚だ。路線も方向も全然違う」


 この線はあっという間に消えた。やはり先約があったのだろうと話がまとまる。


「遺体は腹部を左側線路上にのせた状態で発見されました。頭が外側、下肢が内側です」


 ホワイトボードに、気持ちのいいものではない図が描かれた。灯はちらっと見て、斜め上へと目をそむける。


「死因は外因性ショック死。傷の周囲に皮下出血がありましたので、電車に轢かれた時にはまだ存命であったと考えられます」


 障害を受けたときに組織が生存していれば、出血や膨張などの反応が遺体に残る。ミステリー小説では、生活反応と呼ばれるものだ。


「肺直下部から骨盤直上にかけて皮膚挫創あり。腰椎第一~第五、原型をとどめていません。臍部、左側腹部に解放性皮膚障害あり」


 とても難しい言い方をしているが、要は体の左側を電車が横切ったのでそこが裂けているよ、ついでに内臓も漏れているよ、ということだ……と常暁がぶっきらぼうに言う。理解したくなかった。


「検死で分かったことは以上です」


 話を聞き終えた正則が低く唸った。


「自殺か、他殺かが問題だな。意見を聞きたい」


 管理官が促すと、次々と手があがる。


「通常、鉄道を利用した他殺はあまりありません。素直に自殺でいいのでは?」


 列車に轢かせるためには、被害者を線路まで連れてきて、線路に寝かせる必要がある。人に見られるリスクを負ってそんなことをしなくても、他に殺す手段はいくらでもある。他殺が少ないのは、そういう理由らしい。


「でも、自殺の理由がありませんよ。任意同行すらしてないのに」

「国試」


 常暁が低い声でつぶやいた。不思議とその声は、部屋全体にしみわたる。


「自己採点の結果、国試に落ちていたらどうでしょう? 惨めな気分になったのでは?」


 うまい具合に黒江がその後を継いだ。灯の頭の中を、今まで得た情報が駆け巡った。


 何故か上がっていく成績。楡木は自分が合格すると、確信していただろう。そんな状態でもし落ちたら。彼は耐えられただろうか?


 他の面々も同じように考えたらしく、視線が黒江に集まる。


「確かに、実家が医院だからな。相当プレッシャーがかかっていたみたいだ」

「死んでお詫びします、ってか?」

「それじゃ、本件とは無関係かもな」

「待って下さい」


 周囲が自殺説に納得し始める中、猛然と金崎が反対の声をあげた。


「またお前か」


 常暁がからかうが、金崎は無視した。


「見せしめによる殺害、というのはどうでしょう。それなら多少苦労してでも、派手な殺し方を選ぶはずです」

「ほう。続けてくれたまえ」


 正則が興味を示すと、金崎は子供のように顔をほころばせた。自分より上の者には従順な様子に、常暁が舌を出す。



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